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[ アンマン
和田 幹男



 現在のヨルダン王国の首都アンマンは、その中心が幾つもの丘に囲まれたくぼみのようなところにあって、これには少々驚いた。 その中心は文字どおりダウン・タウンで、周りの丘に住む人々が集まってきて、スークがあり、アラブ諸国独特の賑わいがある。 またそこにギリシア、ローマ時代のこの町の中心があった。 遺跡としては、当時の半円形劇場(写真上)が顕著なものとして残っているが、その手前にほぼ正方形のフォルム(広場)があった。 その列柱が半円形劇場の前に8本残っている。そのフォルムの北側には主要道路のデクマヌスが東西に走っていた。 フォルムの東側に直径38mの小さいオデオン(音楽堂)があった。 1972年にはそこで魔除けの絵が刻まれた石を発見した(写真下)。 そこには2匹の蛇と2匹のさそりの攻撃を受ける悪い目と、剣と矢とともに弓が描かれている。 当時このような魔除けがあったことがわかっているが、この石は建物の柱の上に置かれていたらしい。 この魔除けの石は現在、半円形劇場内の舞台のあったところに置かれている。

 古代の遺跡としてニュンフェウムが残っている。それはフォルムから西に少し離れたところにある。 ここに水の集結所があったわけだが、昔からこの付近には泉があって、水には恵まれていたらしい。 かつてこの町はラバト・アンモンと呼ばれ、これは「水の町」(2サム12:27)とも言われているが、 それはこのあたりにあった町を指していると思われる。そのニュンフェウム(写真下左)のあったところから、 水の妖精ニュンフ像の頭部もみつかった(写真下右)。これはヨルダン考古学博物館にある。

 このダウン・タウンのほかに、古代遺跡としては北側の丘の上にあるアクロポリスしか見るべきものはない (写真下左は半円形劇場から見たアクロポリス、右は7千人収容できる劇場の観客席)。
 ダウン・タウンのまわりには、標高およそ800mの丘が幾つもあって、 その上には夏でも朝と夕には涼しい風が吹き、良いホテルもあって、厳しい砂漠の旅の疲れを癒すためには、最適である。

 この町の位置は、涸れ谷ワディ・ザルカ(聖書のヤボク川)の上流にあたる。 この涸れ谷は大きく迂回してヨルダン川に流れ込むが、この涸れ谷の下流あたりには新石器時代から人が住んでいて、 その遺骨も見つかっている。現在のアンマンにも青銅器時代早期に人が住んでいたことがわかっている。

 古代のアンモン人
 聖書に出るアンモン人は、紀元前12世紀にこの地に住むようになり、 この町をラバト・アンモンと呼んで都とし、王国を形成していた。 ワディ・ザルカ(聖書のヤボク川)が自然の国境となり、その南がアンモン人の領土であった。 その北がギレアドで、アンモン人とギレアドの住民は仲が悪かった。 アンモン王国は地下に堅い岩盤があって、そこに水が貯えられており、その水が湧き出る泉があって、 農業が盛んに行われていた。
 古代イスラエルの民は、ヨルダン川を挟んでその東部にいたこのアンモン人とも関わりがあった。 イスラエル人は、アンモン人をモアブ人と同様に祖先アブラハムの甥ロトがもう一人の娘に産ませたアンモンの子孫ということで (創世記19:30−38)、この民族との関係を考えていた。
 イスラエルとギレアドの住民は仲がよく、深い関係があったが、アンモン人との関係は悪かった。 争いの歴史は古く士師時代に遡る。その中で士師エフタの悲しい物語がある(士師10:6−18;11:1−40参照)。 イスラエルの最初の王サウルは、ワディ・ザルカの北にあるギレアドのヤベシュをめぐってアンモン人と戦い、打ち破っている (サムエル上11:1−11)。 
 ダビデ王の時代になると、アンモン人との関係はいっそう悪化した。アンモンのハヌン王は、父ナハシュ王の死にあたり、 ダビデ王が弔問のため送ってきた使節を辱めて殺したので、両国は戦争になった。 このときアラム(シリア)をはじめアンモンの支援にまわった諸国は敗走し、 アンモン兵は町に引き上げた(サムエル下10:1−19)。 こうしてダビデ王の勢いはますます増大することとなった。 ダビデ王はなお軍隊を送ってアンモンの都ラバ、つまりラバト・アンモンを攻撃したが、 そのときエルサレムに残っていたダビデ王は、出陣中のヘト人ウリヤの妻バト・シェバと不倫の罪を犯し、 またウリヤを戦いの最前線に送らせて死なせ、殺人の罪を犯した(サムエル下11:1−26)。 預言者ナタンがこの思い上がったダビデ王の前に現れ、巧みにたとえ話を用いてダビデ王の罪を責めた。 ダビデ王は自分の非を認めたが、バト・シェバが産んだ子は死んだ(同12:1−23)。 そのあと、このバト・シェバはソロモンを産むことになる(同12:24−25)。 ダビデ王は結局ラバト・アンモンを陥れた(同12:26−31)。 現在のアンマンのアクロポリスの北東部にイスラエル王政時代の城壁の一部が確認されているが、 現在見えるのはトルコ時代のものである(写真)。 このあたりに来ると、最愛の妻を王に奪われ、自分は死んでいかなければならなかったウリアの無念さが偲ばれる。
 イスラエルとアンモン両民族の対立関係はその後も続いた。紀元前8世紀後半以降、 両民族はアッシリアの圧迫のもとに従属国となった。その時代の石像がアクロポリスの北部で見つかっている(写真)。 そこには碑文も短く刻まれていて、「シャニブの子、[ザ]キルの子イェラアザルの[像]」と読める。 冠はないが、左手に蓮の花をもっていて、王者であることが示されている。 その祖父にあたるシャニブの名は、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世の年代記にも出る。 またこれに類似した石像がキルベト・エル・ハジャルからも出土している。これは前7世紀のものである。 このようにアンモンの王国は引き続き比較的安定して存続していたことがわかっている。 前605年以降バビロニアの従属国となったが、 このときバビロニアの味方になってエルサレムの王ヨヤキム(治世前609−598年)を攻めている(列王記下24:2)。 また前587/6年にエルサレムが陥落したあと、 アンモンの王はエルサレムの住民の再編成の中核となったゲダルヤを暗殺した(エレミヤ40:7−16;41:1−15)。
 エルサレムの住民がバビロンに捕囚として連れて行かれている間、アンモン人はトランス・ヨルダンの地方で勢力を伸ばした。 バビロンから帰還した捕囚民の多くは、このアンモン人と結婚したが、 エズラはこの異民族との結婚には厳しい態度を取った(エズラ9−10)。 イスラエルの預言者たちはアンモンに対して厳しい預言を残している (アモス1:13−15;エレミヤ9:25;49:1−6;ゼファニヤ2:8−11;エゼキエル21:33−37;25:1−7)。

 紀元前3世紀にはアンモンはエジプトのアレキサンドリアのプトレマイオス王朝の支配下に置かれた。 こうしてヘレニズム化が進み、ラバト・アンモンの町もギリシア語でフィラデルフィアと呼ばれるようになった。 前2世紀に入ると、シリアのアンティオキアのセレウコス王朝のもとに置かれた。 このとき町の住民はこれを歓迎したようである。 前164年にユダ・マカバイがセレウコスの支配からエルサレムを解放すると、 それに敵意をもって攻撃的になった周辺諸国の一つとしてアンモンがあり、 ユダ・マカバイはこれを攻めている(マカバイ上5:6−8)。
 前63年には、アンモンもエルサレムと同様、ローマの将軍ポンペイウスのもと、その支配下に入ることとなった。 その後、フィラデルフィアはトランス・ヨルダン地方を通る重要な街道「王の道」の要(かなめ)として栄えた。 この町はデカポリス地方の重要な町のひとつとして数えられている (写真下左はアクロポリスに残るローマ時代のいわゆるヘラクレス神殿跡、写真下右はこの町の守り神テュケ、 町の城壁をかたどった冠を戴いている:ヨルダン国立考古学博物館蔵)。

 313年以降、ローマがキリスト教に自由を公認すると、キリスト教が大いに盛んになった。 このアンマンとその周辺に幾つも教会があったことが、その遺跡によってわかっている。 アクロポリスにも教会があった(写真はその教会跡)。
   西暦635年以降、町はアラブの支配下に置かれ、ダマスコを都とするウマイヤード朝 (661−751年)の時代には繁栄を続けた(写真はウマイヤード時代のモスク)。 このとき以来、町はアンマンと呼ばれるようになった。その後、バビロンを都とするアバシド朝になって、 アンマンの衰退が始まり、トルコ時代には廃虚と化した。1921年に、ヨルダン首長国の都となり、 1947年にはトランス・ヨルダン王国の都となり、再び活気を取り戻し、現在ますます拡大しつつある。
 アクロポリスには、ローマ時代の神殿跡、ビザンツ時代の教会跡、 それにイスラム時代初期のウマイヤード時代のモスクと宮殿跡がある。 それにそこには小さいが、貴重な出土品が陳列されているヨルダン国立考古学博物館もある。

参考文献
Le monde de la Bible, 22.janvier-février 1982, au-dela du Joudain, La Jordanie au temps des Grecs et des Romains


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