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教皇庁聖書委員会
『聖書とキリスト論』概説
和田 幹男 


T.教皇庁聖書委員会
U.『聖書とキリスト論』の公表
V.『聖書とキリスト論』の内容概説
1)『聖書とキリスト論』の目次
2)内容概説
a)キリスト論とは
b)第一部の主眼と概要
c)第二部の主眼と概要
d)本文書が前提とするもの

本稿は、英知大学キリスト教文化研究所『紀要』第15巻第1号、平成12年(2000)、 107-125頁に掲載されたものである。それにここでは若干付加した。



 1984年、教皇庁聖書委員会は『聖書とキリスト論』と題する文書を公表した。 イエスを書いた出版物が数多く出回る現代、これをいかに受けとめれば良いのかとの疑問に答えて、 同委員会がまとめたものである。この文書は今日の日本においても、大いに参考になろう。 ここでまず教皇庁聖書委員会とはいかなるものか、その性格と活動、 また特に『聖書とキリスト論』の性格について述べてから、その内容を概略的に示すこととする。
 
T.教皇庁聖書委員会


 近代に始まった聖書の歴史批判学的研究法をいかに受けとめるべきかとの問題に、 教皇レオ13世はカトリック教会としてはじめて、 1893年11月18日付け回勅『プロヴィデンティッシムス』をもって回答し、 その方法を積極的に評価した。その聖書学を促進するため、 同教皇は1902年10月30日付け使徒的書簡『ヴィギランツィアエ』をもって教皇庁聖書委員会を創設した。 この委員会は、その後モデルニズムの問題に終始し、実際には聖書学に厳しい態度を取り続けた。 しかし、ピオ12世の1943年9月30日付け回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』を経て、 第2ヴァティカン公会議(1962−1965年)においてその聖書研究法はまったく公認されることとなった。 その後、教皇パウロ6世は1971年6月27日付け自発令『セドゥーラ・クーラ』をもって教皇庁聖書委員会を根本的に改革した。 それまで枢機卿によって構成された同委員会は、この自発令によって、 全世界から選ばれた聖書学者20名によって構成されることになった。 総会は年に一回開かれ、ある主題を決めて各委員が研究を発表する形式を取ることなった。 結論は、教皇の裁定のもと、その名で公表することもできるとした。 委員会の目的は、「聖書研究を正しく促進し、聖書解釈に関して教会の教導職に支援活動を行う」ことにあると明記された。 この聖書研究の促進はこれまでと同じだが、その活動がこれまで教導職の行使であったものから、 これを支援するものとなったところに新しさがある。

 この委員会が公表した文書は、はじめは各委員の論文の羅列にとどまっていたが、 やがて委員会としての結論がまとめられ、それに各委員の論文がつけられるようになり、 最後にそのきわめて充実した結論のみが公表されるようになった。すでに公表されたのは、
1) 『聖書の光のもとでの信仰と文化』(Pontificia Commissione Biblica, Fede e Cultura alla luce della Bibbia, Atti della Sessione Plenaria 1979 della Pontificia Commissione Biblica. Editrice Elle Di Ci, Torino, 1981: 委員の論文のみを掲載)。
2) 『聖書とキリスト論』(Commission Biblique Pontificale, Bible et Christologie, Paris, 1984: フランス語とラテン語の結論と委員の論文を掲載)。
3) 『教会における統一性と相違性』(Unité et Diversité dans l'Église, Texte officiel de la Commission Biblique Pontificale et travaux personnels des membres, Libreria Editrice Vaticana, 1989: フランス語のみ、委員の文を掲載)。
4) 『教会における聖書の解釈』(Commission Biblique Pontificale, L'Interpretation de la Bible dans l'Église, Libreria Editrice Vaticana, 1993: フランス語など主な現代語のみ、掲載論文なし): 日本語訳は英知大学キリスト教文化研究所『紀要』第16巻(2001年3月)、199−319頁
5) 『キリスト教の聖書におけるユダヤの民とその聖書』 (Commission Biblique Pontificale, Le peuple juif et ses Saintes Écritures dans la Bible chrétienne, Libreria Editrice Vaticana, 2001): 最近公表された文書で、キリスト教の聖書の中でのユダヤの民とその聖書、 つまり旧約聖書を取り上げている。

 U.『聖書とキリスト論』の公表


 『聖書とキリスト論』の草案はフランス語で書かれた。 それが1984年4月、15名の委員によって討議され、投票により承認された。 それが8ヶ月後、ラテン語との対訳で、パリで公表された。 さらに英語、独語など主な現代語でも公表されたが、これもラテン語と対訳になっており、 このラテン語本文が公式文となっている。
 この文書には、委員会書記のH・カゼル師の名で序言が添えられている。 それによると当聖書委員会はこの文書をもって聖書釈義の著作を作成することも、 聖書研究や要理教育の専門家を指導することも意図しないという。 ただ、本文書作成は「キリスト − メシアについて聖書が何を教えているか問われたから」だという。 だれから問われたかは、言われてない。それは一般読者、信徒からであり、 その問いを受けた司祭、司教からであろう。こういうわけで、同委員会はその目的にしたがって、 教皇、司教、つまり教導職を支援するために本文書をまとめたということであろう。

 人間の救いに関してイエスから教会の職務として使命と責任を託されたのは、教皇、司教であって、 聖書学者ではない。しかし、教皇、司教も聖書学者を管理し、統制しようとする意図をもたない。 聖書学には固有の方法で真理を追求する使命があって、そこには完全な学問的自由がある。 学説の対立はどの分野おいても起こりうるが、その学説の正否は学問の尺度によって定められはずのものでる。 ただし、聖書学には学問としての限界があり、最先端の学問に打ち込む学者には常に誤るリスクがあるし、 常識を破って発言する場合には誤解を招くこともある。 この教皇、司教と聖書学者の関係はいかに考えればようのであろうか。 今ここに生きる人間に救いの道を示す使命と責任がある教皇、 司教は、この観点から聖書学の貢献に期待する一方、一部の偏狭な解釈や誤った学説にはご免である。 この教導職と聖書学の間に緊張関係が生じることもあるが、 本来は両者とも異なる立場で神の言葉に奉仕するはずのものである。 この関係を第2ヴァティカン公会議の啓示憲章はつぎのように書く。 「聖書釈義家の任務は、この諸規則に沿って聖書の意味を深く理解し、提示するために働くことにあり、 それはあたかも研究が準備されて、教会の判断が成熟するためである。 聖書を解釈することに関するこのすべては、最終的には教会の判断に委ねられる。 教会が神の言葉を保ち、解釈する神の委託を受け、使命を果たすからである」(第3章12項)。 本文書は、このような自覚をもった聖書学者によって作成されている。

 ここで問題とされるのは、ナザレのイエスそのものである。 この人物をどう理解すればよいのか。その理解のため聖書を読めばよいが、 この聖書をいかに読むかによって、イエス理解は大いに異なる。 多様なイエス理解はキリスト教の始めからあったが、とくに現代では数多くの本が出回っていて、 イエスを知ろうすれば、初心者のみならず、長年の信徒も、事実戸惑いを禁じえない。 他方、これはキリスト教にとって根本的な問題となりうる。 イエス理解の如何によって、その信仰者の生活と行動が異なってくるであろうし、 救いそのものの捉え方も異なって来よう。したがってイエス理解は読者各自が自由に決めればよいとは、 教会は考えない。ここにイエスが現代、教会にとっても大きな問題となっているわけがある。 このイエス理解は、キリスト論と言われる。教皇庁聖書委員会は、 世の中に出回っている多種多様なキリスト論を前にして、いかなる態度を取るべきか、 その方向をここで示そうとしたと言えよう。

 この文書は、各現代語において細部に至ると相異がある。 フランス語でその凝縮した表現のため曖昧な場合、ラテン語文ではそれが明らかな場合もあれば、その逆もある。 ラテン語のほうが、語尾変化があって明らかな場合もあれば、 フランス語のほうが冠詞のないラテン語より明らかなこともある。また強調したい用語は、 イタリックで書かれるか、カッコで囲まれるか、またはその両方で示されているが、 それが両言語の本文で統一されていないことがある。また両言語の本文は、 大文字を用いて特別な意味であることを示すことが多い。たとえば、大文字の「霊」(聖霊)。 これは、現代英語にはない。またフランス語文の中で時称(過去形、現在形、未来形など) の移行が注意して表現されていないために、またそれが両言語の本文で異なることがあり、 理解しがたいことがある。
 この日本語訳は、まず和田がフランス語文を基本に訳出した。 それにラテン語および英語、独語、伊語を参考にした。その訳文は、A・ボナツィが懇切丁寧に総点検した。 ただし、この訳文の責任は和田が負う。原文でイタリックになっているところは、 訳文では太字の斜字で示した。また》《の囲みは「 」で表した。参考にしたのは、
1) Commission Biblique Pontificale, Bible et Christologie, Paris, 1984
2) Fitzmyer, Joseph, A., The Biblical Commission and Christology, TS 46(1985), 407-479(英語訳と解説)
3) Müller, Paul-Gerhard, Bibel und Christologie, Ein Dokument der Päpstlichen Bibelkommision, Stuttgart, 1987(フランス語とドイツ語、それにラテン語、解説)
4) ENCHIRIDION BIBLICUM, Documenti della Chiesa sulla Sacra Scrittura, Edizione bilingue, Bologna, 1994, No.909-1039, p.916-1019(ラテン語とイタリア語)。

V.『聖書とキリスト論』の内容概説

 1)『聖書とキリスト論』の目次

序言
第1部 イエス・キリストに近づく道、現代におけるその総覧
第1章 イエス・キリストに近づく数々の道:概観
1.1.1. 伝統的ないし古典的神学による道
1.1.2. 批判的タイプの思弁による道
1.1.3. キリスト論と歴史学的探求
1.1.3.1. イエス伝研究
1.1.3.2. 歴史家の先入観
1.1.3.3. 歴史家は中立ではありえない
1.1.4. キリスト論と宗教学(宗教史学派)
1.1.5. ユダヤ教学からのイエスに近づく道
1.1.6. キリスト論と「救いの歴史」(クルマン、パネンベルク、モルトマン)
1.1.7. キリスト論と人間学(テイヤール・ド・シャルダン、ラーナー、キュング、スヒレベ−ク)
1.1.8. イエス・キリストの実存的解釈(ブルトマン、ケーゼマン)
1.1.9. キリスト論と社会的関心
1.1.9.1. ユートピア的社会主義、マルクス主義(プルードン、マルクス、エンゲルス)
1.1.9.2. 解放の神学(ブランドン、グティエレス、ボフ、ソブリノ)
1.1.9.3. 希望の原理(ブロッホ、マコヴェッチ)
1.1.9.4. 唯物論的聖書解釈
1.1.9.5. 社会倫理
1.1.9.6. イエスにおける神の連帯性(メッツ)
1.1.10. 新しいスタイルの組織神学の研究(バルトとフォン・バルタザール)
1.1.11. 上からのキリスト論と下からのキリスト論
第2章 イエス・キリストに近づく数々の道:その危険と限界
1.2.1. 古典的(伝統的)キリスト論の問題点
1.2.2. 教義決議に用いられた言語に対する批判
1.2.3. 歴史批判学のイエス研究
1.2.4. 比較宗教学とイエス研究
1.2.5. ユダヤ教学によるイエス研究
1.2.6. 「救いの歴史」から近づく道
1.2.7. 人間学から近づく道
1.2.8. 実存的分析に基づいて近づく道
1.2.9. 「解放の神学」におけるイエス
1.2.10. 新しい組織神学におけるイエス研究
1.2.11. 上からのキリスト論と下からのキリスト論
第3章 危険、限界、流動的現状を前にして
1.3.1. 教会の信仰の交わりの中で
1.3.2. 旧約・新約全聖書の一貫性
1.3.3. 十全的キリスト論に向かって
第2部 キリストについての聖書の総合的証言
第1章 神の救いの御業とイスラエルのメシアへの希望
2.1.1. 旧約聖書における神とその啓示
2.1.1.1. アブラハムの神
2.1.1.2. 万物の創造者、歴史の主:王者
2.1.2. 約束と契約
2.1.2.1. 律法への従順、土地の約束、契約
2.1.2.2. 預言者:正義と公正の支配をもたらす神の忠実さの証人
2.1.3. 救いの仲介
2.1.3.1. 救いの仲介者
a)神の養子とされた王
b)祭司−レビ人
c)預言者
d)賢者
救いの諸仲介
a)メシアなる王
b)主のしもべ
2.1.3.2. c)人の子
2.1.3.3. 歴史の中に働く力
a)霊
b)神の言葉(メムラー)
c)知恵
2.1.4. 選ばれたイスラエルの宗教的経験の成果
2.1.4.1. 旧約聖書:イスラエルの経験の証言
2.1.4.2. 神の国への期待
第2章 イエス・キリストにおける救いの約束の成就
2.2.1. イエスの人物とその使命
2.2.1.1. 福音書の証言
2.2.1.2. イエスと旧約聖書の伝承
a)先生、預言者、ダビデの子としてのイエス
b)キリスト、メシア
c)人の子
d)苦難のしもべ
e)神の言葉、神の霊、神の知恵
2.2.1.3. 神を前にしたイエス
a)イエスにおける父と子の関係の秘義
b)神の子としてのイエスの使命感
2.2.1.4. キリスト論の源泉としてのイエス
2.2.2. イエスへの信仰の起源
2.2.2.1. 復活の光
a)弟子たちの不完全な復活前信仰
b)復活体験
c)復活者イエスの現れ
2.2.2.2. キリスト論の発展
a)新しい契約
b)福音伝承の成長と各福音書の特別なキリスト論
c)複数のキリスト論の総体が証言すること
d)キリストへの信仰の言語による表現様式
2.2.3. 救いの仲介者としてのキリスト
2.2.3.1. ご自分の教会の中に現存するキリスト
a)キリストの現存と再臨
b)キリストの「行動空間」としての教会
c)識別の霊
2.2.3.2. キリストのすべて、十全的キリスト論へ
a)キリストの救いはすべてを総括する(トータル)へ
b)万物の支配者なるキリスト(パントクラトール)

2)内容概説


a)キリスト論とは

 まずキリスト論とは何か、あらためて明らかにしておこう。 ゴータマ・ブッダの場合、一人の修行者として長年修行を積んだ末、 悟りを開き、人々にその悟りへの道を説いたと言われる。阿弥陀如来などとして礼拝の対象となるのは、 その死後数世紀経ってからである。ナザレのイエスの場合、私人として生活した後、 3年という短い宣教活動の末、十字架にかけられて死んだ。 このイエスは、復活したということでその死後まもなくキリスト(メシア)として、 また神の独り子として礼拝の対象となった。このイエスは人間でありながら、 どうして神として礼拝されるようになったのか、その根拠はどこにあるのか、 その根拠としての復活は何のことか、はたしてイエスは人間なのか、 それとも神なのかが問われるようになった。このような問いは、キリスト教の始めから出され、 答えが試みられてきた。このイエスはいったい何ものかを問うのが、キリスト論である。  そのイエスを伝える主要な資料が聖書、特に四福音書であるが、 この聖書をいかなる文書として受け取り、いかに読まなければならないかとも関連して、 キリスト論の問題は変遷してきた。18世紀以来歴史批判学が聖書研究に導入され、 今日さらにまた新たな装いのもとにキリスト論が論議され、展開されるようになった。


b)第一部の主眼と概要
 
 この文書は二部に分けられる。
 第一部では最近の著作を展望し、いろいろなキリスト論を11に分類し(第1章)、 そのそれぞれに潜む危険ないし限界を指摘し(第2章)、それを前にどうすればよいかを問う(第3章)。 その答えとして、これまでのイエス研究は多岐にわかれており、そのすべてに長所もあるが欠点もあり、 そのひとつだけではイエスについての欠陥イメージになるおそれがあることを確認する。 その上で、イエスを理解するためには、聖書の証言の総体に(global)聞く必要があると言う。 このようにイエスを十全的に(integral)理解することを目指さなければならない。 それは、人間の全面的な(total)救いが何かも考えることになる。 イエスに近づくのは、究極的な救いを期待してだからである。 このように聖書の総体的(グローバル)証言に基づき、十全的な(インテグラル)キリスト理解を目指し、 人間の全面的(トータル)救いを考えるよう呼びかける。ここにこの文書の特徴があり、 この自覚があれば、個々のイエス研究から貴重なことを数多く学ぶことができる。
 最近のキリスト論関連の著作を展望するといっても、その先駆が現代聖書学が勃興した18世紀までさかのぼるものがあり、 その場合さらに前々世紀のキリスト論まで指摘している。またイエス研究は、聖書学だけでなく、 教義学(組織神学)においてもなされてきた。この聖書学と教義学におけるイエス探求は、 切り離して考えることはできない。伝統的な教義ないし教義そのものを否定するのも、 一つの教義的決断を前提するからである。教義学はこの問題も取り上げ、 きわめてダイナミックに展開されてきた。したがって、 この分類の中には聖書学と教義学のすべてのキリスト論が視野に入れられている。 さらにその底流に古代から現代まで変遷してきた哲学があり、無意識の中にも、その影響がある。 こういうわけで結果的に、この第一部は20世紀西洋の哲学、神学、聖書学におけるキリスト論を総括している。

 これを前提として、20世紀末期に新たな展開を見せるキリスト論がよく見えてくる。 その一つにユダヤ教学からの道として死海写本に基いてイエスとその教えに新しい光を与えるものがある。 これは飛躍的な進展を見せつつある。これと並んでタルグム研究から同じく新しい光を与えようとするものも盛んになっている。 そのいずれもイエスの歴史人物像のすべてではないが、幾つかの重要な側面を深く覗かせてくれよう。 それにアメリカのイエス・セミナーのグループ研究も話題になっているが、 地味な死海写本研究者のイエス研究と比べると、いささかジャーナリズムに持てはやされすぎていてはいまいか。 しかし、これを意識しながら、刺激も受けて、J.Meierはじめ、注目すべき研究が出てきている。 それにキリスト教以外の諸宗教を神学の主題として取り上げ、研究が進んでいるが、 この文脈の中でイエスの人物も新たに研究されるようになった。 その否定的効果を懸念して、教理省は2000年8月に『ドミヌス・イエズス』という文書を公表した。 これには批判すべきところもあるが、傾聴すべきところも少なくない。
 キリスト論の分類は、イエスにいかに近づくか、その近づく道によってなされている。 それは以下のとおりである。
  1)伝統的ないし古典的神学による道(1.1.1と1.2.1)。
  2)批判的スタイルの思弁による道(1.1.2と1.2.2)。
  3)キリスト論と歴史学的研究(1.1.3と1.2.3)。
  4)キリスト論と宗教学(1.1.4と1.2.4)。
  5)ユダヤ教学からのイエスへの道(1.1.5と1.2.5)。
  6)キリスト論と「救いの歴史」(1.1.6と1.2.6)。
  7)キリスト論と人間学(1.1.7と1.2.7)。
  8)イエス・キリストの実存的解釈(1.1.8と1.2.8)。
  9)キリスト論と社会的関心(1.1.9と1.2.9)。
 10)新しいスタイルの組織的研究(1.1.10と1.2.10)。
 11)上からのキリスト論と下からのキリスト論(1.1.11と1.2.11)。
 ここに分類されるキリスト論がすべて直接または間接的に聖書を用いて、イエスを説明しようとする。 ところが、それによって示されるイエスはかなり異なる。本文書は、まさにこの問題を取り上げるので、 『聖書とキリスト論』と題されたのであろう。この11の分類はあくまで模型である。 そのそれぞれに代表的な学者の名があげられているが、この学者の名はその中に1つにだけ分類されず、 幾つかにあてはまる場合もあろう。
 その中で、1)と2)は、組織的な教義神学の枠内で論議されているものである。 それは基本的に公会議の決議や教父、中世の神学者の著作を踏み台として、思弁的な思考を行う点で共通する。 1)伝統的ないし古典的神学による道は、その中であくまで伝統を重んじるものや、 それに沿って、現代の学問の成果をもってその内容を豊かにしようとするものを含む。 2)批判的スタイルの思弁による道は伝統的な教義神学を批判し、否定する教義神学者の立場である。 3)−4)は聖書を歴史資料とみなし、それに基づいて実証的にイエスの歴史的人物像を復元しようとする。 これは18世紀に始まった歴史学の方法を採用するので、1)に対して新しい学問であり、 それとは対立関係にある場合もある。3)キリスト論と歴史学的研究はイエスという歴史的人物の研究に限り、 4)キリスト論と宗教学は広く古代オリエントの宗教の中でイエスとその宗教、宗教史を研究する立場である。 その延長線上で5)ユダヤ教学からのイエスへの道は、特に古代のユダヤ教との関連でイエスとその宗教を明らかにしようとする。 それはユダヤ教の伝承を書きとめたラビ文書(ミシュナ、タルムード、タルグムなど)の研究からイエスに近づくもので、 これはユダヤ教独特の宗教伝承に基づいてユダヤ教徒としてのイエスに光をあてるので、 キリスト教徒のイエス像とは対立する場合もあるが、キリスト教徒の独善に対する警告でもある。 6)は、「救いの歴史」という展望の中でイエスの人物とその意義を見ようとする。 これは1)ー2)に対して、教父時代の信仰的歴史観に戻って伝統的教義の枠を超えようとし、 3)−4)に対し、現代の聖書学がイエスについて明らかにした歴史的事実を評価しながらも、 その意義を問い直すものとして神学的といえる。7)−8)は、現代の自然科学、 特に現代哲学が明らかにする人間理解を基盤に、聖書解釈を重視しながら、 イエスの人物とその意義を明らかにしようとする。7)は、 6)が信仰を前提とした聖書理解に基く「救いの歴史」の展望を主張するのに対し、 また後述する10)のバルトが聖書を神の言葉として信仰をもって受け取ることを強調するのに対し、 その主張と強調の正しさを認めながらも、 聖書がこれを受けとめる現代人にとって意義あるものであると説得力をもって示さなければ無意味ではないかという心遣いをもつ立場である。 8)も同じ心遣いをもち、20世紀の新約聖書学に決定的ともいえる影響を与えたR・ブルトマンの神学を特に取り上げる。 9)は、社会問題と取り組む立場からイエスに近づくもので、それは19世紀にさかのぼるが、 特に最近解放の神学で浮上した。10)は、 20世紀に神学の綜合を試みた最大の神学者といわれるK・バルトとH・ウルス・フォン・バルタザールを特に取り上げる。 11)は、伝統的教義学が教える「上から」のキリストに対して、 実証的に明らかにされる歴史的人物としての「下から」のイエスを強調する比較的最近のキリスト論を取り上げる。 これに対し本文書は否定的というより、今後の課題としている。


c)第二部の主眼と概要
 
 第二部は、十全的キリスト論に向かって、その道を示そうとする。 そのために聖書全体の総合的証言を要約しようと試みる。 聖書全体とは、旧約聖書と新約聖書の全書を意味する。 イエスを理解するために新約聖書だけ、またその中の福音書だけでよいとする傾向があるが、 それに対して旧約聖書も含めて全聖書が必要だという。 事実、新約聖書の中でイエスはキリストであると言われるが、 この「キリスト」という用語自体旧約聖書の中にその起源があり、 それが新約聖書の中でイエスについて言われる。神という言葉も、旧約聖書にさかのぼって理解する必要がある。 キリスト教が信じる「唯一の真の生ける神」を知るに至ったのは、長いイスラエルの宗教伝承をとおしてであり、 それが書きとめられているのが旧約聖書の中である。イエスが神に祈り、神を説いたとき、その神を前提としている。 またその前提のもとに、神に従うとはどういうことか、イエスはその同時代人と論争もしたのだった。 神の国、福音、神の言葉など新約聖書のすべての鍵言葉についても同じことが言える。 そういうわけで旧約と新約の聖書全体がイエス理解のために不可欠である。
 この旧約と新約聖書の関係についてキリスト教は長い間誤解してきたかもしれない。 旧約聖書は律法を教え、イエスはその律法の束縛から解放したという図式で、旧約を見てきた。 旧約という用語自体、価値判断を内蔵しているので、原文ではこれを「最初の契約の書」となっている。 こうしてその宗教性、つまりユダヤ教信仰の真価を見損なってきたかもしれない。 それではイエスの真価そのものも誤解してきただけでなく、反ユダヤ主義を育み、煽ってきた。 この文書は旧約と新約の関係をどう理解すべきか、反省を示唆する。

 このように、まずイスラエルの宗教伝承を書きとどめた旧約聖書からイエス理解に前提となる主題を要約している。 つまりまず神について、神が存在することのみならず、その神に人間を救う「意志」があるとの彼らの確信が、 われわれにとって信じるに価するものであることをいう。それを土台に神が人間になさった語りかけと約束、 その実現のために神が用いる仲介者的存在について述べる(第1章)。 つぎにその約束がナザレのイエスにおいてどのように成就したかを述べる(第2章)。 この旧約と新約両聖書の内容の要約は、イエス理解のためにという観点からなされている。 この観点から、聖書は多様な要素から成っているが、その全体に一貫性があることが示される。 実際に聖書の読者は聖書を読みながら、あちこちの箇所からばらばらな知識を蓄積するにとどまるきらいがあるが、 聖書全体にひとつの筋があって、それを軸にいろいろな書が集められている。
 それだけはない。新約聖書がイエスの人物と教えを記述するとき、旧約聖書の用語や表現を用いていても、 その意味内容には旧約聖書において与えられていたものと同じではなく、それにプラス・アルファがある。 たとえば「メシア」、つまりキリストという用語は、すでにイエス時代のユダヤ教で新たに意味を与えられたり、 変更されたりしたであろうから、当時その旧約聖書の用語がどのような意味で用いられていたかも考慮しなければならない。 新約聖書はその用語を用いてイエスの人物と教えを言おうとしている。この場合、同じ用語を用いていても、 旧約聖書や当時のユダヤ教で与えられていた意味にプラス・アルファが加えられ、 その意味内容に増幅があっても不思議ではない。旧約聖書の用語や表現が新約聖書に用いられる場合、 その意味内容に増幅があることが、20世紀になってからこれを、 "sensus plenior"(the fuller sens、「より充実した意味」)と呼んで、論議されてきた。 この「より充実した意味」という視点も新約聖書各書を読む場合に留意しなければならない。

 福音書もすべてこのようにイエスの人物と教え理解を示しているのであって、 歴史的で客観的な事実の単なる報告ではない。マタイ福音書にはその著者マタイの理解、 マルコ福音書にはその著者マルコの理解が表明されているのであって、 そこに書かれているのは歴史的な事実の報告ではない。ここでマタイにしても、 マルコにしても、それぞれ自分のイエス理解を表明しているが、そこに書かれているのは、 まったくマタイやマルコが創作したイエスではない。 マタイもマルコもその福音書の題材もその判断の視点も伝承から受け取っている。 その福音書以前の伝承では口伝であったか、それとも一部は文書化されていたか問われる。 いずれにせよ、この伝承の段階においても、福音伝承の用語や表現はイエスの人物と教えの理解を表している。 この伝承の奥に歴史上の人物としてのイエスがいることは、現在ほとんど疑う学者はいない。 新約聖書にある用語や表現の「より充実した意味」は、このイエスという独特な唯一無比の人物に起因し、 その人物を証ししているのではないだろうか。

 どうして歴史上の一人の人物イエスが礼拝と宣教の対象となり、 それが原始キリスト教で伝承され、それが4福音書で書きとめられるようになったのか。 その基礎はイエスの復活にある。イエスは復活者としてメシア、キリストとして信仰の対象となり、 礼拝され、宣教され、またその生前のイエスの言行もその復活に光で理解されて語り伝えられた。 こういうわけ原始キリスト教の証言はすべて、イエス理解、つまりキリスト論を含んでいる。 新約聖書とその背後にある伝承は、ほとんどすべて旧約聖書の用語を「より充実した意味で」用いて表現されたキリスト論であり、 この多様で豊富な内容をもったキリスト論の源泉に、その要として歴史上の人物イエスがいる。
 このイエスをキリストとその弟子たちが信じるようになった根拠は何のかといえば、イエスの復活にほかならない。 この復活とは何だったのか、突っ込んで考えなければならない。それはキリスト教の最古の信仰宣言にも、 キリストは「死んで、起こされた(ないし生きた)」(1コリ153b−5a)にあるように、 歴史的な出来事としての十字架上のイエスの死に基づいて信じることができた、 今も生きるイエスのことであろう。その復活を承認し、理解するためには、 そのイエスの生の締めくくりとしての死がいかなるものであったかを慎重に検討すると共に、 それに基づいて最初の弟子たちと同じように、信仰の次元に立って見るという開かれた心が必要であろう。
 さらに福音書も含む新約聖書の各書は多様なイエス理解(キリスト論)を示しているが、 またそれも時代的に異なる時期に作成されていることを考えると、 その新約聖書形成の過程でイエス理解に深まりがあったことも予想させる。 この意味で新約聖書内部にイエス理解の進展があったということは、本文書では考えとしてはあるが、 1993年教皇庁聖書委員会発表の文書『教会における聖書の解釈』の中では明らかに言われる。 たとえば肉(人間)となった神の言葉としてのイエス理解(ヨハネ1:14)は、 西暦90年代に作成されたヨハネ福音書にあるもので、 西暦50年代に書かれたパウロの手紙や70年以降に書かれた共観福音書には含蓄的にあったと言えるかもしれないが、 それほど明白な表現を得ていない。そのイエス理解の背後には何があったのであろうか。 そこにはイエスを信じてイエスに従い、イエスと同じように生きた信徒たちの生の体験とその積み上げがあったのではないだろうか。 それは、こうしてはじめてその心の目に見えたイエス理解ではないだろうか。 そのすべての行程に聖霊の働きがあったことは認めざるを得ないが、あまりにも容易に聖霊を持ち出さずに、 イエス理解の深化を説明しなければ、信仰主義(Fideism)になろう。この説明を可能にしてくれたのが、 20世紀に発展を見た聖書の歴史批判学的研究法であり、 そのおかげでキリスト教信仰はイエスの復活秘儀(Mysterium Paschale) からその受肉の秘儀(Mysterium Incarnationis)に至るものであることが納得しやすくなった。 またこの受肉の秘儀が新しくキリスト教徒になった者にとって理解し難いものであり、 そのためまさにこの受肉の秘儀に関連してキリスト論論争がまもなく発生したわけもわかる。 事実、その後キリスト論と言えば受肉論(De Verbo Incarnato)となった。


d)本文書が前提とするもの
 この聖書の内容的要約は、特にこの数十年カトリク聖書学が歴史批判学の方法を用いて明らかにしたことの成果と言えよう。 カトリック教会が歴史批判学の方法を採用することを認めたのは、比較的最近のことである。 カトリック教会、この方法が唯理主義の学者によって開発されので、伝統的な信仰を脅かすのではないかと、 これを危険視した。しかし、1893年、教皇レオ13世は回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』をもって、 この学問的聖書学を基本的に承認した。その後一時期モデルニズムの問題に翻弄されたが、 1943年、教皇ピオ12世は回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』をもって、 その聖書学を基本的に再確認した。ただし、福音書研究についてはR・ブルトマンが提起した学説の利点と欠点の見極めがついてから、 1964年、教皇庁聖書委員会の『福音の歴史的真実性に関する指針』が発表され、 福音書も含めて全聖書に歴史批判学の適用を認めた。これが、第2ヴァティカン公会議の啓示憲章の中でも再確認されている。
 このように歴史批判学による聖書研究を自由に行えるようになって20数年、 その間に重ねた議論を踏まえ、未解決の問題も多々あるが、ナザレのイエスについて何が言えるか、 その研究成果をまとめてもよい時期がきたとされたのであろう。 そのまとめとしても、本文書を見ることができる。

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