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教皇庁聖書委員会
聖書とキリスト論
和田 幹男 訳 


序言
第1部 イエス・キリストに近づく道、現代におけるその総覧
第1章 イエスに近づく数々の道:概観
1.1.1.伝統的ないし古典的神学による道
1.1.2.批判的タイプの思弁による道
1.1.3.キリスト論と歴史学的探求
1.1.4.キリスト論と宗教学
1.1.5.ユダヤ教学からイエスに近づく道
1.1.6.キリスト論と「救いの歴史」
1.1.7.キリスト論と人間学
1.1.8.イエス・キリストの「実存的」解釈
1.1.9.キリスト論と社会的関心
1.1.10.新しいスタイルの組織的研究
1.1.11.上からのキリスト論と下からのキリスト論
第2章 イエス・キリストに近づく数々の道:その危険と限界
第3章 危険性、限界、不確実さを前にどうすればよいのか?
第2部 キリストについての聖書の総合的証言
第1章 神の救いの御業とメシアへのイスラエルの希望
2.1.1.旧約聖書における神とその啓示
2.1.2.神と人間:約束と契約
2.1.3.救いの仲介
2.1.4.イスラエルの特別な宗教的経験の評価
第2章 イエス・キリストにおける救いの約束の成就
2.2.1.イエスの人物とその使命
2.2.2.イエスへの信仰の起源
2.2.3.救いの仲介者キリスト

 この日本語訳はA・ボナツィ師の協力を得て、和田幹男が翻訳し、 英知大学キリスト教文化研究所『紀要』第15巻第1号、平成12年(2000)3月、43-106頁に掲載されたものである。 その概説、同誌107頁以下も参照、またそれと共に本HPに出ている各項目の解説および参考文献も参照: 1)伝統的ないし古典的神学による道、2)批判的スタイルの思弁による道、3)キリスト論と歴史学的研究、 4)キリスト論と宗教学、5)ユダヤ教学からのイエスへの道、6)キリスト論と「救いの歴史」、 7)キリスト論と人間学、8)イエス・キリストの「実存的」解釈、9)キリスト論と社会的関心、 10)新しいスタイルの組織的研究、11)上からのキリスト論と下からのキリスト論




序言

 教皇庁聖書委員会の任務は、自ら聖書釈義の著作を作成することではない。 当委員会は聖書研究を正しい方向に促進し、教会の教導職に対し有効に貢献しようとする。 このたび本文書を作成することになったのは、 キリスト−メシアについて聖書が何を教えているかを問われたからである。 本文書は直接に聖書学者、聖書釈義を専門とする研究者のためではない。 またそれは独自の責務をもつ要理教育の教師のためのものでもない。
 聖書が理解されるよう奉仕し、司牧の任務にある者を支援するため、課題としたのは、以下の二項である。

1. 聖書によるキリスト論を扱う最近の諸著作を注意深く検討し、 いろいろな傾向と研究法を明らかにし、その一つだけを用いるなら、 聖書の証言とキリストにおける神の恵みを完全に理解するには危険があることを指摘すること。その上、
2. 聖書が説く教えを総合し、簡潔に要約すること。その内容は、
a) 神の約束と、すでに実現した恵み、神の民におけるメシアへの希望について第一の契約(旧約聖書)が説く教え。
b) ナザレのイエスの言葉と行いについて最終的にキリスト教諸共同体がもつに至った信仰の理解と、 ユダヤ教がその神的権威を認めていた聖句を瞑想して得られたその信仰の理解を表現する新約聖書が説く教え。

  当聖書委員会は、聖書が徐々に形成された過程の研究については、 釈義的、文献学的、歴史学的研究にと、そのそれぞれ固有の研究作業に任せることにし、 聖書正典の中に完成されたものとしてある証言に限って考察することとした。 これが、この文書の題名を『聖書とキリスト論』とした理由である。

 しかし、本公文書では指摘に過ぎない若干の主題について幾分か立ち入った検討を行い、 司牧の任務にある者にこれらを提示するのは有益であると思われた。 委員会は幾人かの構成員に自己の責任で付帯記事を作成するよう依頼する一方、 委員会もそれを用いて共同作業を行った。ここには学問的形式の聖書釈義はないが、 キリスト論において議論中の幾つかの点について、読者は聖書神学ないしその方法論のまとめを見出せるであろう。
アンリ・カゼル、p.s.s.

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 わたしたちの時代には、特に西洋において、不可知論者または無信仰者であると臆せず自称する人が多くいる。 だからといって、彼らがイエス・キリストとこの世界におけるその役割に無関心なのだろうか。 世に出まわる研究書や刊行物を見る限り、問題設定の仕方は変わったが、無関心ではない。 しかし、キリスト者の中には、その問題提起と提案される回答の多様性のゆえに、戸惑っているものがいる。 教皇庁聖書委員会はこの点について司牧者と信徒たちに助言を与えたいと思う。そのため
1. これらの研究書とそのそれぞれの関心のあるところ、 およびそこに含まれる危険について簡単な概要を提示すること、
2. 救いメシアへの期待について聖書に含まれる証言の総体を簡単に思い起こすようにし、 この背景のもとに福音を正確に位置づけ、その期待と、 期待を基礎づけている約束がイエス・キリストにおいて成就したことを、 いかに理解すべきか、示すこととしたい。


第1部
イエス・キリストに近づく道、現代におけるその総覧

第1章 イエスに近づく数々の道:概観

 ここでイエス・キリスト研究の歴史を余すところなく提示するつもりはない。 ただ、今日そのためにさまざまな道が試みられているということを確認しておく。 それらを大まかに分類し、その幾つかについては代表的な名前を何人か添えて要約することになるが、 その分類は論理的でも年代順でもない。

1.1.1. 伝統的ないし古典的神学による道
1.1.1.1. この道は、思弁的傾向の教義的論考が取るもので、 これは諸公会議の決議と諸教父の著作を出発点として教義の組織的考察を展開する。 De Verbo Incarnato、「受肉した御言葉」論(325年のニカイヤ公会議、431年のエフェソ公会議、 451年のカルケドン公会議、553年、681年の第2、第3のコンスタンティノポリス公会議)、 およびDe redemptione、「贖い」論(529年のオランジュ教会会議、 1546年と1547年のトリエント公会議第5、第6総会) がそれである。

1.1.1.2. このように考えられる論考であるが、現代になって多くの点で豊かにされた。
a) たいてい聖書批判学を用いて、聖書の各文書ないし各文書群に含まれる固有の教えを区別し、 こうしてその神学的釈義はいっそう堅固な根拠をもつものとされる(J・ガロなど)。
b) 「救いの歴史」(Heilsgeschichte,以下1.1.6参照)に基づいた神学の側面的影響は、 諸教父が「救いの経綸」(oeconomia,seu dispensatio Salutis)と呼ぶものの中に、 イエスの位格(Persona)をいっそうしっかりと位置づける。
c) 現代の観点を考慮しながら、西欧中世において論考された幾つかの問題は、 部分的であるが新たに取り上げられた。このようなものとしてキリストの知 (scientia Christi)とその位格の成長がある(例えばJ・マリタンなど)。

1.1.2. 批判的タイプの思弁による道
1.1.2.1. 思弁神学者の一部は、 聖書研究の分野で積極的な成果をもたらした一種の批判的解釈法を、 諸教父と中世の神学者の著作のみならず、諸公会議の決義にも適用する必要があると考える。 諸公会義の決義もその作成の歴史的、文化的背景を考慮して解釈されなければならないという。

1.1.2.2. 実際に諸公会議の歴史を研究して明らかになるのは、 その諸決義は、神学者を分裂させていた学派の論争や、観点と言語の相違を乗り越えて、 新約聖書から来る信仰をあらためて肯定しようとする努力だったことである。 この努力にもかかわらず、対立は必ずしも完全に解消されたとはかぎらない。 たとえばカルケドン公会議の文化的背景や採用された表現の言語を批判的に検討すると、 決議の内容とこれを正確に書き表すために用いられた表現を、よりよく区別することができる。 文化的文脈が変化すると、表現そのものは、同じ用語が同じ意味ではもはや用いられなくなった言語的背景では、 その効果を失うことにもなりかねない。

1.1.2.3. それゆえ、いっそう注意深く新約聖書そのものに戻り、 あらためてこの啓示の根源的な源泉と諸公会議の表現を対比する必要がある。 その場合、「歴史的人物としてのイエス」の研究により、 その「彼の人格」(persona humana)について語るようになったものもいる(たとえば、P・ショーネンベルク)。 しかし、スコラ神学者が彼の「個別的で独自の人物」 (humanitas individualis et singularis)と呼んだのと同じ意味で、 「彼の人物」(personalitas humana)というほうが適切ではないだろうか。

1.1.3. キリスト論と歴史学的探求
 もうひとつの道は、さらに歴史科学の方法により出発する。 この方法は、過去の文書の研究においてその有効性を証明したが、 これを新約聖書の本文に適用することになったとしても当然である。

1.1.3.1. 事実、19世紀の始めからイエスの生涯を歴史的に復元することに注意が集中されてきた。 イエスがその同時代人にどのように見えたのか、またイエスがどのような自意識をもちえたのかの探求である。 ライマルス、パウルス、シュトラウス、ルナンなどの唯理主義的研究者の中では、 キリスト論の教義との関連では自ずと離脱が生じた。 それは"自由主義"といわれる流派によってプロテスタントの中でも受けとめられた。 彼らは批判的に打ち立てられた"聖書神学"をもって、 実証的研究をすべて排除すると思われた"教義神学"に代えようとした(A・ハルナック著『キリスト教の本質』参照)。 この「歴史のイエス」の探求はあまりにも矛盾する結果に終わった。「イエス伝研究」 (Leben-Jesu-Forschung)は、絶望的な企て(A・シュバイツァー、第2版、1913年)と見なされるに至った。 カトリック側では、M・−J・ラグランジュが福音書研究のために「歴史学的方法」の原則をしっかりと打ち立てた (La Méthode historique、第3版、1907年)が、福音書本文のすべての詳細にわたり、 その全体の歴史性を求めて、実際には上記と同じ問題を避けることはできなかった (このような学者として、ディドン、ル・カミュ、微妙な意味あいを込めてレブレトン、ラグランジュ自身、 フェルナンデス、プラ、リッチョッティなど)。R・ブルトマンの試論(後述1.1.8.参照)は、 この「イエス伝研究」の袋小路にとって新たな出発点となった。

1.1.3.2. それ以来、「歴史学的方法」には、重要な補足が加えられた。 歴史学者自身が歴史学における客観性について実証主義者の観念を問題にしたからである。
a) この客観性は、自然科学の客観性とは別ものである。それは、過去に一回限り起こった、 (社会的、心理的、文化的などの)人間の経験に関するものであって、 それをそのまま完全に復元することはできない。そこに「真理」を見いだそうとすると、 それが残した足跡とそれに関する証言(遺物と文書)からしか、そういう試みができない。 しかしまた、それはそれを「内から」理解する物差しによってしか近づくことができない。
b) 歴史学的研究におけるこのような探求には、必然的に人間の主観が介入する。 歴史家は、出来事を伝え、その主役を想起させるすべての文書の中に、 その保たれてきた証言の価値を損なうことなく、主観があることを認めざるをえない。
c) 歴史家自身の主観も、その歴史における「真理」の探求において、 その作業のすべての段階に介入する(H・G・ガダマーの著作参照)。 歴史家は自分の個人的関心との関連で題材を選び、 一定の「先行理解」(Vorverständnis)をもってそれらの研究にあたるが、 研究している証言から学びつつ、その先行理解の修正を行う。 歴史家が歴史的証言と対応する中で、自分自身の観点を批判的に見たとしても、 研究発表は自分の人間観の影響を受けないのは稀なことである(レオン・デュフールの著作参照)。

1.1.3.3. この実情の中で、イエスについての歴史学的研究は最も典型的なケースである。 それは「中立的」ではありえない。実際、イエスの位格はすべての人間に関わるものであり、 それゆえ歴史学者にも関わる。イエスの生と死の意味のゆえに、またその告知の人間的意義のゆえに、 また新約聖書の色々な書物が証言するイエスの位格の解釈のゆえに、そうなのである。 この点についてのすべての研究が行われた諸条件は、歴史学者によっても、 神学者によっても獲得された結果が大いに異なっていることの説明となる。 だれもイエスの人間性、十字架で頂点に達する彼の人生のドラマ、彼の言葉と行い、 それに彼の現存そのものによって彼が人間に残した告知を純粋に「対象として」学び、示すことはできない。 しかし、つぎの二つの危険を避けるために、なんの妨げもなくこの歴史的研究は欠かせない。 つまり、イエスが単なる神話上の英雄であるとか、メシアとして、 神の子としてイエスを承認するのを非理性的な信仰主義(Fideism)の問題として放棄するとか、の危険である。

1.1.4. キリスト論と宗教学

1.1.4.1. 歴史研究の基礎を補うために、 もう一つ別の事象の研究が添えられなければならない。 それは諸宗教と、諸宗教間に観察できる相互作用の研究である。 このような展望に立って、たとえば福音書の本文によるとイエスが告げたという「神の国の福音」から、 初期キリスト教信仰をさまざまに提示する本文に見られるような 「メシアであり神の子であるイエスの福音」への推移を説明しなければならないのではないだろうか。

1.1.4.2. 19世紀以来、比較宗教史は飛躍的に進み、 この点で古くからあった道を新たにした。その進展には二つの原因があった。 第一は、エジプトの象形文字とメソポタミアの楔形文字の解読 (シャンポリオン、グロテフェンドなどによる)により古代オリエント文書を取り戻したことであり、 第二は「原始的」と言われる諸民族の人類学的研究である。 こうして宗教的現象は、 ほかの人間的現象に還元できないものであり(R・オット著『聖なるもの』参照)、 同時にまたその信念と儀礼においてきわめて多様なものであることが明かになった。

1.1.4.3. このような展望の中で、 20世紀の初頭に「宗教史学派」 (Religionsgeschichtliche Schule)は、 起源と進化の様相のもとに、一方ではイスラエル宗教の起源と進化を、 他方ではシンクレテイズムとグノーシス主義の影響を深く受けた ヘレニズム世界におけるユダヤ人イエスによるキリスト教宗教の発生を説明しようと試みた。 R・ブルトマン(以下1.1.8参照)は、この原理を躊躇なく受け継ぎ、 新約聖書におけるキリスト論的言語の形成を説明しようとした。 この同じ原理は、キリスト教信仰を持たない学者の中で一般的に認められたままになっている。 そのとき、キリスト論はその現実の内容をすべて失う。 しかし、「宗教学」の当然の権利を少しも拒むことなく、その現実の内容を保つことができる。

1.1.5. ユダヤ教学からイエスに近づく道

1.1.5.1. 明らかにユダヤ教は、 イエスの人物を理解するためにまず学ばなければならないものである。 福音書はイエスがその土地とその民の伝統に深く根ざしていたことを示している。 今世紀の始めから、キリスト教徒の研究者は、 新約聖書とユダヤ教文書の間にある多くの関連箇所を明らかにした (H・L・シュトラック、P・ビレルベック、J・ボンシルヴァンなどの著作参照)。 つい最近では、クムランの出土品とモーセ五書の古パレスティナ・タルグムの再発見は、 問題を新たにし、その研究に刺激を与えた。 初期には、この研究の裏に古代ユダヤ教の背景のもとに福音書に含まれているものの史実性を強調しようとする心遣いがしばしばあった。 現在では、むしろキリスト教のユダヤ教的ルーツをいっそうよく理解しようと努め、 キリスト教が枝分かれした元の根幹を見失うことなく、その独創性を正確に測ろうとしている。

1.1.5.2. 第1次世界大戦後、何人かのユダヤ人歴史学者は、 キリスト教の説教家たちにも責任がある数世紀このかたの怨念を乗り越えて、 直接イエスの人物とキリスト教の起源に関心をもった (J・クラウスナー、M・ブーバー、J・G・モンテフィヨーレなど)。 彼らが強調しようと努めたのは、イエスのユダヤ性(たとえば、P・ラピデ)、 その教えとラビ伝承との関係、会堂と神殿の宗教生活に密に結ばれた告知の預言的ないし知恵的独創性であった。 幾つかの依存関係が、クムランの側からも、ユダヤ人歴史学者(Y・ヤディンなど)によって、 あるいはキリスト教信仰とはまったく離れて(J・アレグロ)研究され、 またユダヤ教典礼における旧約聖書の敷衍訳の側からも、 ユダヤ人学者(たとえばE・I・クッチャーなど)とキリスト教徒の学者 (R・ルデオー、M・マックナマラなど)によって研究されている。

1.1.5.3. 何人かのユダヤ人歴史学者は、「兄弟イエス」に関心をもち(Sch・ベン・ホリン)、 イエスの人柄の幾つかの側面を明らかにし、 その彼の中に古いファリサイ派に近い教師(D・フルッサル)、 またはユダヤの伝承がその記憶をとどめている奇跡治癒師に近い人物(G・ヴェルメシュ)を見い出そうとした。 イエスの受難記をイザヤ書の苦難のしもべとの関連に置くことを認めた学者たちがいる(M・ブーバー)。 これらの労作は、キリスト教徒の学者たちもキリスト論研究において真面目に取り上げなければならない。

1.1.5.4. しかしながら、ユダヤ人学者(たとえばS・サンドメル)の傾向として、 イエスの人物像に超越的側面、特に神の子であることが付けられたのは、タルソのサウロによるとする。 この説明は、宗教史学派系統の歴史学者の説明に近いが、 パウロ自身の深いユダヤ性を必ずしもないがしろにしない。 いずれにせよ、イエスと同時代のユダヤ教をそのすべての多様性において研究することが、 イエスの人物と、初期キリスト教が認める「救いの経綸」におけるそのイエスの役割を理解するために 必要な前提条件であることは、明かである。 さらに、このような基礎の上にユダヤ教徒とキリスト教徒の間で実り豊かな対話を護教的魂胆なしに進めることができる。

1.1.6. キリスト論と「救いの歴史」

1.1.6.1. 19世紀に自由主義的「歴史主義」(1.1.3.1参照)に対し、 また当時大きな影響を及ぼしたヘーゲルの観念論的一元論に対する反動として、 ドイツのプロテスタント神学者(たとえばJ・T・ベック、J・Chr・K・フォン・ホフマン)は、 「救いの歴史」(Heilsgeschichte)の概念を自分の主張としたが、 これは教父や西欧中世の神学者が「救いの経綸」と呼ぶものにかなり近いものであった。 信仰によって開かれた展望の中で福音を受けとめるなら、 神がいわば御自分の介入の痕跡をお残しになり、 それによってこの歴史を完成へとお導きになる意義ある出来事を、 人間の歴史の中に見出すよう努めることになる。これらの出来事は聖書の編み目ともなっており、 このように考えられる歴史の「決着」は終末論という名を与えられた。

1.1.6.2. この救いの歴史の展望の中で、 キリスト論もその構築のために選ばれた出発点に従って、さまざまな様相のもとに展開する。
a) 新約聖書におけるキリストの諸称号について(F・ハーン、V・テイラー、L・サブランなど参照)、 あるいは「神の知恵」としてのキリストについて(A・フェイエなど)の著作と並んで、 O・クルマンは同じ基礎の上に本質的に「機能的な」キリスト論を構築し、 「存在論的」形態の形而上学的分析を控える。問題の諸称号は、 イエスが御自分の行動と態度とに密接に関連して御自分にお与えになったものか、 福音宣教者たちが新約聖書の中でイエスに与えたものである。 その諸称号は、イエスによりその生存中になしとげられた御業、 教会の中に現存するその御業、教会がその希望を寄せる最終(または終末)の御業に関わるもので、 またその先在(préexistence)に関わるものもある(P・ベノア)。 こうして救済論(ないし贖いの神学)は、古典的論考にあったような別扱いではなく、 キリスト論に組み込まれることになった。
b) W・パネンベルクは、すべての歴史の決着の先取り(ないし「プロレプシス」)としてのイエスの復活を、 考察の主発点とする。歴史(ヒストリエ)の探求の道でその真理を確立できるとし、 イエスの神性も同時にしっかりと確立されると考える。 これを出発点として彼はイエスの生涯とその活動の解釈を行う。 イエスの宣教は人々に神の国を開設し、その死は人々の救いを実現し、 その復活によって神はそのイエスの使命を確証したのだという。
c) J・モルトマンは当初から終末論的展望に立つ。 人類史の全行程は約束という極点に向かうものとして現れる。 信仰をもってその約束を受け取る者は、そこに「神の救い」に向かっての希望の源泉を見いだす。 この救いは、人間存在のすべての次元に関わるものである。 事実、それが旧約の預言者の約束の中にある。 今、福音はイエスの死と復活を告げ知らせることによってその約束を成就する。 十字架において、神はその独り子の中に人間の苦しみと死を受け取られたが、 それは逆説的にそれを救いの手段とするためだった。 愛のために、イエスは罪深く苦しむ人類と連帯されるが、それは人類に解放を確約するためであり、 この解放は神との関係の次元でも、心理的な面(人間学)でも、 社会生活の面(社会学と政治学)でも、その人類の全存在に関わるものである。 このように贖いの神学は行動計画に通じる。 同様の心遣いが「社会的解釈」(G・タイセン、E・A・ジャッジ、A・J・マラーブなど)にも見られる。

1.1.7. キリスト論と人間学
 この主題のもとに、人間の経験と人間学の諸側面に出発点を求めるという共通の性格をもつ多様な道をまとめる。 この道は、信仰に導く前提としての「信憑性のしるし」について19世紀と20世紀初頭に行われた議論をそれぞれの仕方で新たに取り上げる。 このような試論が出発点とするのは、外的しるしであったり(古典的護教論)、 その普遍性において考えられる宗教的経験であったり(「モデルニスムス」の試み)、 人間の「行為」の内的要求であったり(M・ブロンデル)する。それ以来、これらの問題は変化したが、 その変化はキリスト論の分野で影響を残した。

1.1.7.1. P・テイヤール・ド・シャルダンは人間を宇宙進化の「最終の発芽」として示す。 こうして受肉した神の子、キリストは、その起源以来人類と宇宙が辿る歴史を統一する原理として考えられる。 こうしてイエスの誕生と復活をとおして信じる者に、「人間という現象」全体の首尾一貫した意味が明かとなる。

1.1.7.2. K・ラーナーによると、考察の出発点は、 彼が「超越論的」という呼びかたで分析する人間の実存に求められる。 それは根本的に認識であり、愛であり、自由である。 この実存の諸次元は、イエスの位格の中に、その地上における生の間に完全に実現した。 その復活と教会の中にあるその命と聖霊が信仰者になさる信仰の賜物をとおして、 イエスはすべての人に人間の最終目標を達成できるようになさり、イエスなしにはその目標は挫折に終わる。

1.1.7.3. H・キュングは、キリスト教、 他の世界的諸宗教、現代のヒューマニズムが向かいあうのを気遣いながら、 ユダヤ人イエスの歴史的存在に注目する。彼はイエスが神と人間の根本義と、 御自分を死に至らしめたドラマ、それに自ら提唱して先導し、 聖霊が教会の中にたえず湧き出させることになる生き方と、いかに取り組まれたかを検討する。 そのとき、キリスト教的実践は、「徹底的ヒューマニズム」として現れ、これが人間に本来の自由をもたらす。

1.1.7.4. E.スヒレベ−クは、イエス個人の経験を研究し、 それと人間共通の経験に橋をわたそうとする。 彼はまずイエス個人の経験と生前イエスが交わった最初の同伴者たちの経験を結ぶ。 「終末の預言者」としてイエスが甘受された死は、 イエスに対する彼らの信仰に終止符を打ったのではない。 神がその生涯に下した承認として理解される、その復活の告知が示しているのは、 彼らがイエスの中に、死に対する神の勝利と、 教会の中で彼に従って歩むすべての人のための救いの約束を認めたということである。

1.1.8. イエス・キリストの「実存的」解釈
 釈義家であり、神学者であるR・ブルトマンによって提案された福音の「実存的」解釈にあるのも人間の学と同じタイプの道である。

1.1.8.1. 聖書釈義家として、ブルトマンは自由主義プロテスタントにおける 「イエス伝」研究が達した否定的結論を取り上げる。彼の見るところによると、 そのような研究はけっして神学の基礎になるようなものではない。 宗教史学派と同様、彼は原始キリスト教の信仰については、 これを特に黙示的背景から由来するユダヤ教的要素とヘレニズム宗教から由来する異邦的要素との折衷の結果であるとする。 このように、(19世紀の終わりにM・ケラーによって提案された原則に従って)、 「史的イエス」は以前にもまして「信仰のイエス」から無関係とされる。

1.1.8.2. それにもかかわらず、ブルトマンはキリスト教信仰者として留まろうとし、 神学的著作活動を実行したいという。神を前にしたイエスの態度が先にあったが、 福音の「ケリグマ」の価値を守るために、 彼はこれを神によって罪人に与えられる赦しの宣言に還元してしまう。 この宣言が、イエスの十字架の意味であり、これが歴史的出来事の中に刻まれた真の神の「言葉」であるという。 彼の見るところによると、これが復活のメッセージの内容である。 これに応答するものとして要求されるのは、「信仰による決断」(S・キエルケゴール参照)で、 これのみが人間に新しい実存、完全に真正な実存に入ることを確証する。 この信仰は、それ自体教義的内容をもたない。 それは、人間を神の御手に委ねる自由の献身として「実存」領域のものである。

1.1.8.3. ブルトマンによると、新約聖書に見られるキリスト論と救済論の言語表現は、 当時の「神話的」言語の中でなされている。 従って、この言語は「非神話化」されなければならない。 つまり、それは神話的言語の法則を考慮しながら解釈し、「実存的解釈」の対象としなければならない。 これは、ただ福音のメッセージの実践的結論を示すことだけを目的としているのではない。 それは、「救われた」人間実存を構成する諸々の「カテゴリー」を明らかにすることを目指す。 この点で、ブルトマンの考察はM・ハイデッガーの『存在と時間』にある哲学に深く依存する。

1.1.8.4. その聖書釈義の著作において、 ブルトマンは同時代のM・ディベリウスとK・L・シュミットと並んで、 古典的文学批判を越え、本文の「形成」(「様式史」、Formgeschichte)に寄与した文学「様式」の批判に努めた。 それが課題するは、福音書本文からイエスについての歴史的内容を取り出すことよりも、 これらの本文と「原始キリスト教」の具体的な生活との関連を確定し、 それがそこで占めていた位置と果たした機能(「生活の座」、Sitz im Leben)を見定めることであり、 これは信仰の様々な側面を生き生きと把握するためである。 この点でブルトマンの研究成果を拒否することなしに、 その弟子たち(E・ケーゼマンなど)はキリスト論の起源にイエス自身を再発見する必要性を感じた。

1.1.9. キリスト論と社会的関心

1.1.9.1. 社会生活は人間の条件であるので、社会生活が投げかける実践上の諸問題への関心が、 神学者であろうとなかろうと、イエスに注目するかなりの数の「聖書読者たち」の考察において支配的となっている。 人類社会の諸悪を観察しながら、または経験しながら、 彼らはイエスの「行動」(praxis)に眼を向け、そこにわれわれの時代にも適するモデルを求めようとする。 19世紀以来、ユートピア的社会主義(プルードン参照)はその福音の側面に興味を抱いた。 K・マルクス自身、宗教の事柄を丸ごと拒絶しつつも、聖書のメシア思想の側面的影響を受けたし、 F・エンゲルスもその「階級闘争」理論との関連で、たとえば黙示録にあるような、原始キリスト教の希望を解釈した。

1.1.9.2. 現代では、特にラテン・アメリカ諸国で著された解放の神学は、 一部の歴史家(S・G・F・ブランドン参照)がローマ権威筋に対する政治的反抗者として示した「解放者イエス」の中に、 「行動」と希望の根拠を追い求める。人間に社会的、政治的解放をもたらすために、 イエスは貧しい人々の問題のために働くことこそ人生の課題となさったのではないか。 こうして経済、政治、イデオロギー、それに宗教の分野でも、 圧迫する権威の横暴に立ち向かわれたのではないか。しかしながら、問題の神学は多様である。 一方では、解放が神に対する人間の根本的な関係も含む全面的なものである必要があると強調するものがある (たとえば、G・グティエレス、L・ボフなど)。 他方では、主として人間相互の社会的関係を強調するものがある(J・ソブリノ)。

1.1.9.3. 事実、幾人かの無神論のマルクス主義者たちは、 「希望の原理」(E・ブロッホ)を追求しながら、 兄弟愛に基づくイエスの「実践」の中にひとつの道があるのを見、 それは新しい人類をこの歴史に登場させるために開かれており、 そこでは完全な「共産主義」の理想が実現するという(たとえば、M・マコヴェッチ)。

1.1.9.4. 福音書の読者の中には、 現代の一部のマルクス主義者たちによって提示された社会現象と人類史の解釈を原則として受け入れ、 新約聖書の本文にその分析法を適用し、唯物論的聖書読書法を提案するものがいる。 このように彼らは、その本文から解放的「実践」の諸原理を摘出し、 これは「教会的イデオロギー」とはまったく関係がないと言う。 こうして彼らは自分たちの社会活動の根拠としようとする(たとえば、F・ベロ)。 誠実なキリスト教徒も何人かいる幾つかの研究者グループは、 この方法論を採って理論を実践に結びつけようとするが、 必ずしも「弁証法的唯物主義」の理論的目標に賛同するものではない。

1.1.9.5. このすべての聖書読書法は、 「史的イエス」に注目する。彼らの観点によると、 解放の「実践」の創始者は人間イエスにほかならず、 その解放のための行動は現代世界において新しい手段をもってなし遂げられなければならない。 ある意味では、この方向で展開される企画は、古典的神学において救済論と社会倫理が占めていた立場を取るものである。

1.1.9.6. 明らかに異なる展望の中で、社会・政治的分野の問題に関わり、 人間に、特に貧しく圧迫された階級に効果的で実現可能な希望を提供しようとする実践神学を目指して、 今日幾つかの研究が現れている。キリストの十字架をとおして、神は苦悩する人類と連帯し、 その解放を実現しようとなさる(J・B・メッツ参照)ということ。このように倫理の分野へと導く。

1.1.10. 新しいスタイルの組織的研究

1.1.10.1. この表題のもとに取り上げるのは、 キリスト論を神御自身の神論的啓示として考える二つの総合、 つまりK・バルトとH・U・フォン・バルタザールの総合である。 聖書批判学の結論が疎かにされることはない。 しかし、組織的総合の構築は、聖書全体に準拠することによってはじめて可能である。 ナザレのイエスと信仰のキリストは、密接に結びついた二つの「視点」を成し、 それは人類史における神の自己啓示を成り立たせる。 この啓示は、信仰の中でしか明らかに見いだせないものである(K・バルト)。 H・U・フォン・バルタザールにとっては、十字架上の死に至るまでの父なる神への徹底的従順をとおして示された、 キリストの「ケノシス(自己卑下)」が、三位一体の神の生命の本質的側面を明らかにすると同時に、 身をもって死を体験することにより罪深い人類の救いを実現する。

1.1.10.2. バルトにあっては、キリストの全存在は父なる神の最高の言葉としてしかその意味をもたない。 教会において聖霊をとおしてこの言葉との交わりを伝えながら、 神は信じる者にこの現世に関わって行動することを要求する倫理に道をお開きになる。 そこでは政治生活も無縁ではありえない。 美学の道による神の観想を提唱するフォン・バルタザールにあっては、 理性による省察、歴史的検証、愛をもって自由になされる人間の献身的活動は、 復活秘義そのものの中に一つに総括される。このように一つの「歴史神学」の素描が浮かび上がり、 これは観念論にも、唯物論にも還元されてしまうものではない。

1.1.11. 上からのキリスト論と下からのキリスト論

1.1.11.1. 論評してきた様々なキリスト論研究の中で、 「史的イエス」を出発点とするものは、何らかの意味で「下からのキリスト論」といえよう。 それに対して、父なる神に対して子としてのイエスの関係に重点を置くものは、 「上からのキリスト論」ということができる。現代における多くの試論は、 その二つの観点を結びつけようと努める。つまり聖書本文の批判的研究から始めて、 イエスの言葉とその人間としての経験の中に含蓄的にあるキリスト論が、 新約聖書にある明示的なキリスト論に深く連続していることを論証する。 この結びつきは、様々な道によって追求されている (たとえば、L・ブワイエ、R・フラー、C・F・D・モ−ル、I・H・マ−シャル、B・レイ、 Chr・デュコック、W・カスパー、M・ヘンゲル、J・D・G・ダンなど)。

1.1.11.2. このすべての著者たちが取る道とその結論は、 完全に一致するというにはほど遠いが、二つの主要な点で共通する。
a) 一方ではどのようにイエスがその同時代人(家族や論敵、弟子たち)に自らを示し、 理解されたかということ、 他方ではどのように復活者としてのイエスの出現が そのイエスを信じた人々にその生涯と人物を理解させたかということがあり、 この二つは区別する必要がある。この二つの局面の間に、切れ目はない。 しかし、かなり注目すべき変化があって、これがキリスト論そのものの構成要素となっている。 このキリスト論は、「ナザレのイエス」が体験された諸々の限界を重視する必要があると同時に、 このイエスの中にその復活により聖霊の光の中で完全に啓示される「信仰のキリスト」を認めることを弁える。
b) 新約聖書の各書がキリストの秘義の様々な理解を反映していることを確認する必要がある。 しかし、その各書は、救世主であるイエスにおいて成就したという聖書の言語にいつも準拠しながら、 そうする。成就というからには、聖書の本文にはその原初的な意味があるにしても、 ユダヤ教がイエスの時代に再読して与えた意味があるにしても、 「意味の増幅」を前提としている。この意味の増幅は、単なる神学的思弁の結果ではない。 それは、イエス御自身の人物の中に起源があり、その独自の性格を明らかにするものである。

1.1.11.3. このような展望の中で、釈義家と神学者はイエス個人の人物像の問題に立ち向かう。
a) この人物像は、イエスがその価値観を完全に承諾なさったユダヤ的教育によって形成されたものである。 しかし、またそれは、神と自分との関係についても、人々の間で果たすべき御自分の使命についても、 独自の自覚を持ちあわせるものでもあった。聖書本文(たとえばルカ2の40.52)を見れば、 その意識に進展があったことを認めざるをえない。
b) しかし、釈義家も神学者も、イエスの「心理学的人物像」の再現を企てることには拒否反応を示す。 新約聖書本文にそれを読みとるのに批判的問題があるためであり、 このような思索には行き過ぎか、過小評価か、いずれにせよ濫用の危険があるからである。 彼らはその人格が秘義であることに畏敬の念を抱くが、 イエスもその言葉と行いをとおして御自分の内なる秘密を何らか窺わせられたことがあっても(H・シュールマン)、 それを明かに説明しようとはなさらなかった。新約聖書の様々なキリスト論にしても、 その内容を「補助的言語」を用いて再表現した諸公会議の決議にしても、 秘義そのものをまさにこれだと限定しないで、省察を深めるように方向を示したものである。

1.1.11.4. イエスについての省察において、 この釈義家と神学者はキリスト論を救済論から切り離さないということでも同様に一致する。 神の御ことばは肉となられた(ヨハネ1の14)が、それは神と人間の間で仲介の機能を果たすためであった。 もしイエスが「完全に自由な」人間であり、また「他者のための人間」でありえたというなら、 それはこの自由と自己奉献の源泉が、 独特で類のない意味で父と呼びかけることができた神とのこの親密性以外にどこにもないからにほかならない。 キリストの先在性とその知性の問題は避けて通ることはできないが、キリスト論研究のいっそう進んだ段階に属する。

第2章 イエス・キリストに近づく数々の道:その危険と限界

 ここで紹介した道には、それぞれ長所があり、聖書的基礎と豊かさ、生産力がある。 しかし、その多くには、それひとつだけを用いるなら、聖書のメッセージ全体を明らかにしないか、 イエス・キリストについて欠陥イメージを広める危険がある。 それゆえ、その幾つかにある限界を正確に見定めておく必要がある。
1.2.1. 伝統的ないし古典的神学による道は二つの危険にさらされている。

1.2.1.1. キリスト論の命題になっている文章表現は、 新約聖書そのものの言語というより、むしろ教父時代ないし中世の神学者の言語に依存し、 その啓示の最終的源泉である新約聖書を、それ自体では教義のために十分確定された文章表現としては、 あまりにも不正確であるかのように考える。

1.2.1.2. その「古典的な」キリスト論における、 いわゆる「伝統的」な教義を弁護または根拠づけようとする心遣いに動かされて新約聖書を用いるのは、 聖書学者が避けてとおれない幾つかの聖書批判学上の問題にあまりにも閉鎖的になる危険をおかす。 たとえば、福音書の幾つかの物語の詳細について、 これはその時代の慣用に従って神学的内容をいうためのものであるのに、 そのすべての史実性をあまりにも容易に認めることにもなりかねない。 またはイエスがその口で述べたと福音書が伝える幾つかの言葉は、 福音書各書の間で相違しているのにイエス自身の正真正銘の言葉であるとあまりにも容易に認めることにもなりかねない。 このようにわたしたちの時代に当然取り上げられる諸問題を避け、 教義上肯定すべきことの根拠を、まさに議論されている「保守的」タイプの批判的結論に求める危険をおかす。

1.2.2. 古典的神学者と諸公会議が用いた言語の批判に関する神学的反省の試みは、 正しい洞察に基づいている。しかしながら、聖書の証言を裏切らないために、二つの条件を見落とすことができない。

1.2.2.1. 教会史の過程で用いられた「補助的」言語(language auxiliaire)は、 信仰にとって霊感を受けた著者によって用いられた準拠的言語(language referentiel)、 つまり旧約にその根をもつ新約聖書の言語と同一の価値をもつものではない。 「言語の相対性における啓示の絶対なるもの」を把握するために、 使徒的教会の基礎的体験とそれに続く教会の体験の連続性に注意しながら、 その必要な区別および分析は聖書が言おうとするところのものそのもの (affirmations formelles)を犠牲にしてはならない。

1.2.2.2. この研究作業の中には、我々の時代の固有な思考範疇と言語に絶対的な価値を認める危険があり、 こうして聖書の本文から得られるキリスト理解が問題視されることにもなりかねない。 これは新約聖書の本文が選択の対象とされるか、または諸哲学体系が命じる解釈の対象とされるなら、 起こりかねないであろう。しかし、キリスト論は聖書全体から得られる均整を重んじ、 そこに用いられる言語の多様性を受け入れなければ、構築されない。

1.2.3. 過去の人物と出来事を理解するためにその価値が証明された歴史的研究は、 ナザレのイエスの場合にも当然欠かせない。その数々の証言が受容され、 伝達された環境に関する歴史的所与がどれも疎かにできないことは明白である。(前掲1.1.3参照)

1.2.3.1. しかしながら、単に本文を分析するだけでは十分でない。 事実、これらの本文は、抽象的な観念に生きるのではなく、 イエスの復活に対する信仰を始めたばかりの、またそれを徐々に深めつつあった共同体の中で編集され、 受容されたものである。そのイエスの復活は、 さまざまなユダヤ人共同体の体験の中に挟み込まれた救いの出来事であった。

1.2.3.2. この点でユダヤ教の信仰とキリスト教の間に決定的な違いがあるため、 「モーセの律法、預言者たちと詩編」(ルカ24:44) に基づく使徒たちの最初の信仰とその使徒たちが復活したキリストと出会って得た信仰が連続していることを忘れがちにさせるかもしれない。 だが、この連続性は歴史的事実でもある。アブラハムとモーセの神に対する彼らの宗教的態度の中に、 復活の出来事の前と後に連続性がある。彼らは「信仰のキリスト」と共に生きる前に、 「歴史のイエス」と共に生きていた。現代の研究者たちの主観的姿勢がいかなるものであれ、 新約聖書にあるキリスト論の深い一貫性を そのようにその発展の内部にあって成り立たせているものを再発見する必要がある。

1.2.4. キリスト教の諸起源を研究するために比較宗教学の力を借りることは必要であるが、 それには二つの危険がある。

1.2.4.1. それは予断の支配を受ける可能性がある。キリスト教も、 そのすべての類比的事例と同様に、 それが発生した世界に既に存在した諸要素のシンクレティズムの融合によって説明すべきだという予断である。 つまりそれはユダヤ起源の信仰者集団とヘレニズム的世界との出会いの結果、 その信仰者集団がヘレニズム世界から借用せざるを得なかったわけだが、 ユダヤ的要素と当時の異教的要素の融合が行われたという。 実際には、紀元前3世紀からユダヤ教はヘレニズムと出会ってきたのであり、 その固有の伝承に対立する要素を排除したこともあれば、 それを豊かにする諸価値を吸収したこともあった。 それに続く数世紀ギリシア語に翻訳された聖書を読むことによって、 ユダヤ教はすでにインカルチュレーションの成功を示した。誕生したキリスト教は、 この聖書を受け継ぎ、同様の道を進んだ。

1.2.4.2. 同様に、あたかも諸教会には枠もなく、確固たる伝承もなかったかのように、 初期キリス教共同体にはいかなる内的規制もない創造的な機能のみが備わっていたとする危険がある。 極端な場合、ある歴史家はキリスト・イエスの中に、歴史性のまったくない「神話」しか見ない。 このような矛盾した推論はほとんどの場合退けられる。 しかし、かなりの数の無信仰の歴史家は、ヘレニズム世界のキリスト教共同体はユダヤ教の伝承の「救い主」を、 「密儀宗教」と並ぶ「救済宗教」の中心的英雄に仕上げたと考える。 宗教学は、このような観点を強いる進化論的公理を強要するものではけっしてない。 それは「共通点」を見抜こうと努めるが、信仰内容を歪曲化するまで平均化するものではない。 それはどの宗教にもいえるように、キリストの宗教の特異性を、 「福音」の独創性に関連して明らかにしなければならない。 このように、それは現象学の回り道によってキリスト論そのものに道を開くことができる。

1.2.5. ユダヤ的背景の研究を深めるのは、 イエスの人格とキリスト教的生活をその独自の信仰と共に理解するために本質的なことである。

1.2.5.1. しかしイエス研究は、この展望の中でのみ排他的に行うなら、 まさにそのユダヤ的性格を明らかにするところで、イエスの人格を見損なう危険がある。 イエスは律法と預言の伝承に最も忠実であったとしても、 ほかのユダヤ教教師と並ぶ一人の教師にすぎなかったのであろうか。 または、恐ろしい誤解の犠牲になった一人の預言者だったのだろうか。 ユダヤの文献が記憶にとどめるほかの霊能者と同様の霊能者だったのだろうか。 または彼を理解しなかった大祭司の共謀もあって、 最後にローマの権力によって犠牲にされた政治的扇動者であったのだろうか。

1.2.5.2. イエスは当時のファリサイ的敬虔主義と対立したが、正確に言えば、 その緊張関係は同じ遺産を分かち合う兄弟たちの論争に比すべきものである。 しかし、イエスから出た運動のその後の生命力は、その国の宗教的指導者たちから排斥された後、 イエスと彼らの間にある根本的な差異について、 福音書の記述が原初的な状況をいっそう鋭くすることができたと認めても、 その差異にはなおいっそう深いところに原因があることを示している。 それは、神との関係のあり方についてであり、 またイエスがその神の国の福音をとおして同時代人にもたらした「聖書の成就」についてである。 イエスのユダヤ的性格の研究を深めながら、この点を忘れることはできない。

1.2.6. 救いの歴史の観念からイエス・キリストに近づくことにより、 救済史(Heilsgeschichte)という表現はあまりにも曖昧なままであるが、 重要な結果がもたらされた。それが未解決のまま残した諸問題は、 この研究法を進めた学者たちによって、いろいろとある。

1.2.6.1. 「歴史」という用語は、少なくともラテン語を起源にもつ現代の諸言語および英語において、 「歴史的」人物としてのイエスについて語るときと、救いの「歴史」について語るときと、 同じ意味をもつものではない。ドイツ語では、 歴史=ヒストリエ(Historie)と歴史=ゲシヒテ(Geschichte)を区別することができるが、 個々の場合におけるその用語の用法は難しい問題である。 実際イエスの歴史は、文献資料の研究によって近づくことのできる経験の分野に属するが、 救いの歴史はそうではない。これは一般的な経験を含むが、 信仰による洞察(intelligence)をとおしてしか近づけない理解(comprehension)を前提とする。 キリスト論をその正しい地平に位置づけるために、この区別に注意する必要がある。 そのためには、歴史家にあっても神学者にあっても、信仰に生きること、 およびその入り口となる「信仰の決断」に開かれていることが前提される。

1.2.6.2. この見解は、特にその本性上純粋に経験的な確認を越えるキリストの復活にあてはまる。 実際それはイエスを「来たるべき世界」において考えさせる。 その現実は、栄光のキリストが一部の選ばれた証人たちに出現したことによって帰結されることができるのであり、 それはその墓が開かれ、空で見つかった事実によって裏付けられ得る。 しかし、すべての歴史家がただその学的研究調査のみをもって、 どの観察者にも近づき得る事実としてそれを証明できるかのように前提して、 この問題を単純化してはならない。ここでも「信仰の決断」、 またはより適切に「開かれた心」が、取るべき立場を決定する。

1.2.6.3. キリストの諸称号に関しては、その存命中に自らご自分にお与えになったものと、 使徒時代の神学者たちによって与えられたものとを区別するだけでは足らない。 むしろ肝要なのは、人間の救いの実現においてイエスがはたす役割を定義する機能的称号と、 その御子であり、御言葉としてのイエスがもつ、神との関係に関連する関係的称号を区別することである。 この問題の研究において、イエスの態度と行動の検討が、その称号の検討と同様に重要である。 行動はその人格の最も深いところにあるものを露わにするからである。

1.2.6.4. 終末に向かう救いの歴史の緊張とこれが引き起こす希望は、 人類社会におけるキリスト教的「実践」のために重要な結果をもたらすものである。 しかし、「終末」という用語は、それ自体曖昧である。 「終わりの日」というのは、歴史的な体験の彼岸にあるものなのか。 イエスは、御自分が生きていた世代が過ぎる前に「この世」の終わりが来ることを告げたのか。 またはそれによってイエスは歴史そのものが展開する条件の上に新しい展望を開いたのか。 それは「救いの歴史」の最終段階のことで、これは神の国の福音の告知によって開始されたが、 まだ完成されず、教会の歴史が続く限り併存するということではないだろうか。 正真正銘のキリスト論はこの諸問題を正確に明らかにする必要がある。

1.2.7. 幾つかの人間学から近づく道の危険は、多岐にわたる省察様式を含むが、 現に存在し、歴史を刻む人間というきわめて複雑な存在の構成要素の幾つかを過小評価することにある。 そこから期せずして欠陥キリスト論になるかもしれない。

1.2.7.1. 人間という現象の観察において、その宗教的側面またはその歴史的展開は、 いつも十分詳しく研究されているだろうか。 こうしてユダヤ教の中でのイエスの人格と教会の設立を人類一般の進化過程の中に正確に位置づけているだろうか。 「オメガ点」に向かう人間についての楽観的な視点は、 人間の進化が通過しなければならない危機についても考慮しているものの、 悪の問題とイエスの死の意義に十分な位置を残しているだろうか。 ここで新約聖書のイエスとキリスト論の研究は必要な補完となる。

1.2.7.2. 人間存在の哲学的分析の思弁的試論には、その基礎を否定する者によって拒否される危険がある。 聖書的所与は確かに疎かにされるものではない。 しかし、それは批判学の要求するところと新約聖書内におけるキリスト論の多様性をいっそうよく考慮に入れて、 しばしば再評価されなければならない。そうすることによってのみ、 哲学的人間学は、一方ではこの地上におけるイエスの人格の存在と、 他方ではキリスト教徒の存在における栄光のキリストの役割と向かいあうことができる。

1.2.7.3. ユダヤ人としてイエスの人生、態度、宣教、自意識、使命感の示しかた、 自己の死への展望とその死の意味づけ、原始キリスト教におけるイエスの復活に対する信仰の起源とその死の解釈、 新約聖書におけるキリスト論と救済論の形成と進展を含む人間イエスの歴史的研究は、 出発点としては正しい。しかし、そのようにして得た教義上の諸要素を、 そのために前もって用いた批判研究の仮説にあまりに依存させるのは危険である。 もしこの方法論を用いて最も蓋然性の高い仮説しか取り上げないなら、 キリスト論は内容的に欠陥あるものとなろう。特に「最古」とみなされる本文のみを真に権威あるものとし、 最も新しい本文を二次的な理解によるものであって、 「史的イエス」に帰せられる「原初的」所与を本質的に変更したものだとする場合に、 その欠陥キリスト論が認められる。その最も新しい本文は、旧約聖書を媒介とし、 またイエスの言葉と行為の理解を深めることによって、 総合的に、またその起源から事実としてあったキリストの信仰的理解を、 その時代に明示的にするという機能を果たしているのではないだろうか。 イエスも、またその弟子たちもその権威をまったく疑問視することがなかった旧約聖書が果たしたとすべき役割が、 ここではあまりにも疎かにされる危険がある。それでは新約聖書そのものの解釈を誤ることにもなりかねない。

1.2.7.4. イエスの体験とキリスト教徒の体験の間に連続性があることを確めようと努めるのは、 まったく当を得ている。最小限にとどめようとする仮説にとらわれずに、 そこに確かめるべく残されているのは、以下のことである。 いかに、いかなる意味で「終末的預言者」なるイエスが信仰において神の御子として認められるようになったか。 いかにその弟子たちの中にあった萌芽的信仰と希望がその死に対するイエスの勝利の確信へと成熟することができたのか。 いかにして、使徒時代の諸教会を悩ました論争の中で、キリストが望んだ真の「実践」、 つまり本物のイエスへの帰依(Sequela Jesu)の基礎となるものを見極めることができたのか。 新約聖書にはイエスの人物とその救いの仲介者としての機能についていろいろな解釈があるが、 いかにしてそれらは事実そうであったものの、またイエスにおいて、 イエスによってなされた啓示の真の表現として認めることができるのか。 この諸条件を考慮することにより、そのキリスト論にある霞を晴らすことができるのではないのか。

1.2.8. 実存的分析に基づいて近づく道は、 イエス自身が実践した従順を範として神に対する信徒個人の奉献を強調することにより、 解釈と神学的省察、および生きた信仰の間の結びつきを力説する。 聖書の本文の厳密な批判を行いながら、しばしばそれは、 その本文が形成されたのはキリスト教共同体のためであったわけだが、 その共同体におけるその本文の果たした機能を明らかにし、 またその結果として今日の教会においてその本文がはたす機能を明らかにするに至った。 しかし、多くの釈義家と神学者は、その所属する教会がどれかに関わりなく、この方法の限界と欠陥を示した。

1.2.8.1. 歴史的人物としてイエスを認めることは信仰のためには関心のないものとすることもあって、 その批判の徹底主義は、福音書研究の成果をきわめて微細な核に絞ってしまう。 このようにイエスはもはやまことにキリスト論の起源にはいないものになる。 キリスト論は、復活のケリグマから生まれたものであって、 自ら律法のもとに生きて自らの人物において律法(トーラ) を成就したユダヤ人としてのイエスの存在から生まれたものではないということになる。 もし律法には、その挫折によって、人間は自分自身を救うには無力だということを示す役割しかなかったとするなら、 旧約聖書の神学もなくなってしまうのではないだろうか。

1.2.8.2. 復活のケリグマを翻訳し、キリストとは何なのか、 その働きとはいかなるものかを言うために、 新約聖書の中で用いられている象徴的言語は、 ここではただ「神話」の領域に帰せられる。 こうして旧約と新約聖書の関係は、最小限にされる。 最後に、「神話的」言語を解釈するために提案された実存的解釈は、 当然の結果キリスト論を人間学にしてしまうのではないだろうか。

1.2.8.3. もしイエスの復活とその高揚が復活のケリグマの神話的翻訳でしかないのであれば、 どうしてキリスト教信仰が十字架から生まれることができたのか、わからない。 もしイエスが独自の意味で神の「子」でなければ、 なぜ神がこの十字架を介してそのかたにおいて御自分の「決定的な言葉」をわたしたちに語られたのか、見えない。 最後に、信仰の「証明」の唯理主義的な考えを避けるために、 その信仰を根拠づける「しるし」の観念をなくしてしまうなら、 信仰主義への招きになってしまうのではないだろうか。

1.2.8.4. この道が信仰を排他的に個人的決断に集中させればさせるほど、 人間存在の社会的側面を見過ごしにしてしまうのではないだろうか。 そればかりか、あまりにも曖昧なままの「愛の倫理」を、 正義の積極的な要請を含むとされる「法の倫理」に根本的に対立するものとする。 このすべての理由により、ブルトマンの学徒は、実存分析に基づく包括的な省察の企画を正当としながらも、 キリスト論の起源にイエスを再び取り戻そうとすることになった。

1.2.9. キリストがもたらした救いは、ただ「霊的なもの」ではない。 つまりそれはこの世界の問題から遊離したものではない。 その救いは、現状にのしかかるすべての暴力の圧政から神の恵みをとおして解き放つはずのものである。 解放の神学はこのことに注意を喚起するのに有益であった。 しかし、この一般的な原理からではあるが、危険な諸結論が引き出されることがあり得る。 それは特にその救済論が新約聖書の掟に余すところなく合った倫理に明らかに結びついていない場合である。

1.2.9.1. 一部のマルクス主義者は、イエスの福音に側面から注目し、 そこに真に兄弟愛に基づく社会生活の理想を求めようとした。 しかし、経済的・政治的領域における彼らの社会現象の分析方法はそのまま使われており、 それは理論上基本的な無神論を含む哲学的人間論と結びついている。 この分析方法とこれと結びついた「実践」を無批判に採用し、 そこで考えられる「解放」の担い手に聖書の神を仕立てると、 神そのものの性格、キリストの正しい解釈、最後に人間そのものの理解を誤る大きな危険がある。

1.2.9.2. 一部の「解放の神学者」は、希望の最後の原理として「信仰のキリスト」を固く守ってはいる。 しかし、実際はただ「歴史のイエス」の「実践」だけに排他的に注目し、 その実践も部分的に見誤らせる読解法により、おおよそ恣意的に再構築されており、 こうして「信仰のキリスト」は「イデオロギーの解釈」として、 またはまったくその歴史的実像の「神話化」としてしか見られていない。 そこでは、ローマ帝国とその地方行政の勢力に服していたキリスト教の諸共同体にあった 「権威」に対する考えはいかなる正確な分析の対象ともされず、 マルクス主義の尺度にしたがってこの「権威」に対する考えを解釈する大きな危険がある。

1.2.9.3. 結果としてその教会における聖霊をとおして働くキリストの解放は、 もはや考慮されることがない。イエスは単なる歴史的な「モデル」となり、 その行動は他の最も現代的で効果的な手段によって続けられなければならないとする。 このようにキリスト論を完全に人間論にしてしまう危険がある。

1.2.10. 思弁神学のキリスト研究は、つねに見直しを必要とする批判学の諸仮説に左右されることを、 原理的に、−それも理由なしではなくー、拒否する。しかし、過度に総合しようとすることにより、 新約聖書のキリスト論の多様性が豊かさとなっているのに、これがぼかされる危険があるかもしれない。 あるいはまた、旧約聖書によってなされた準備が無視されるか、過小評価され、 こうして新約聖書からその根を奪う危険があるかもしれない。啓示の研究の中に、 明確で、きわめて正確な位置が聖書釈義の作業に与えられることが望ましい。 啓示は、その歴史的諸起源から進展を経て完成に向かうキリストの秘義全体の中にあるものである。 そこには、聖パウロが考える(ガラ3:24参照)のとは別の意味で、 人類をキリストに導く神の《教育》がある。

1.2.11. 「上からのキリスト論」と「下からのキリスト論」を結びつけるためになされたすべての試みは、 確かに今後なすべき研究の方向を示している。が、幾つかの問題は未解決のままかもしれない。

1.2.11.1. 福音書に関して、そこに表現されるイエスの言葉の形成に関して、 イエスを伝える記述のその濃度に差がある歴史性に関して、各福音書の著作年代と著者に関して、 その作成の事情と段階に関して、キリスト論の教義的展開に関して、 批判学上の諸問題は、釈義的研究の枠内では開かれたままである。 そこには、組織的キリスト論そのもののために正当であるだけでなく、必要かつ実り豊かな探求の分野がある。

1.2.11.2. 世界の歴史におけるキリストの唯一無類の価値を把握するために、 諸文化の発展の中に聖書を位置づけて研究することは省けない。 聖書は歴史の比較的遅い時期に現れたものであるから、諸文化から幾つもの要素を取り込んで、 啓示に奉仕するものとした事情を研究しなければならない。 諸文化の中にあってイエスのユダヤ性は、その全人間性の基体である。 この2世紀、考古学および民族学の諸発見に刺激されたこのイエス研究の道は、 始まったばかりである。 他方、いかにしてこのイエスがあらゆる時代のあらゆる人間にとって救い主であるのかを理解するために、 全被造物の創始者であり原型であり、歴史全体をとおして働く力である神の知恵とその言葉 (ヨハネ福音書の序文参照)としてイエスを認めながら、 そのイエスの先在性(prae-existentia)の問題を考察する必要がある。

1.2.11.3. 栄光化されたキリストがその贖いの御業を実現するために、 いかにこの世界の中で実効性をもって働き続けておられるのかを理解するために、 聖霊によって導かれたキリストの体である教会と、 その発展する教会のまわりにある人類社会との関係について、いっそう正確な聖書の研究を推し進める必要がある。 この関係のもとで、教会論は、 社会学者の研究調査を越えるまさにそのところで、キリスト論の本質的一側面となる。

第3章 危険性、限界、不確実さを前にどうすればよいのか?

 これまで述べてきた経験が示しているのは、 このすべての危険を前にしてその最終的な「真理」を表すような一刀両断の命題を提案したり、 そのすべての問題を包括して、一気に解決するような組織的論考を作りあげることはできないということである。

1.3.1. 教会伝承の総体との信仰の交わりは、 神学者が(全新約聖書を含む広い意味での)使徒時代の基礎伝承に、たえずさかのぼるよう命じる。 しかし、その交わりは、聖書全体について、またこれがイスラエルにおいて占めていた位置について、 また新約聖書の諸書と共にイエスをとおしてそのイスラエルに接ぎ木としてつながり、 「正典」目録、−つまりキリスト教信仰と生活の「規範」−、 の終結まで至った新しい枝についても、不勉強をけっしてゆるさない。 この最後の点について、ユダヤ教徒とキリスト教徒の間に根本的な相違がある。 しかし、「正典性」には原理があると、そのどちらも認めている。

1.3.2. 文書としての聖書形成への発展は、神の賜物の発展を反映しており、 このように神は人類に御自分の啓示と救いをもたらされた。キリスト教徒にとって、その御子であり、 「処女マリアから生まれた」真の人間が賜物の頂点である。 このように聖書の一貫性は、父祖たちに与えられ、預言者たちによって増し加えられた約束と、 つづいて神の国とメシアへの期待を中心に実現されている。イエスにその成就があるというのは、 その約束と期待のことにほかならない。キリスト論において聖書にさかもどるということは、 この全体性の原理に準じることである。これは教父も中世の神学者も心がけたことであり、 彼らは当時の文化が差し出す方法論にしたがって聖書の本文を読み、解釈したのだった。 わたしたちの時代の文化には、ほかの方法論が備わっている。 しかし、それをいかに、何のために用いるか、その用法と目標は同じでなければならない。

1.3.3. 信仰のある聖書の読者が聖書の中にこの十全的キリスト論 (christologia integralis)をいっそう容易に見分けることができるように、 せつに求められるのは、聖書学が現代の釈義の方法を助けとして進められ、 現状に甘んじることなく、その研究と考察においていっそう発展することである。 実際に、聖書各書が霊感を受けたその著者によって現在の形態になされるまで、 その形成の過程の中には、数多くの問題がまだ闇に包まれたままである。この類の研究をないがしろにし、 表面的な聖書解釈にとどまり、この間違った解釈を「神学的」と考える者は、 虚偽の道を進むことになろう。あまりに単純化した解決は、 成熟した信仰をもってなされる神学の考察のためには、けっして堅固な基礎にはならない。 しかし、教皇庁聖書委員会は、あまり重要でない個々の問題の議論はさておき、 研究は十分進み、その結論の中には信仰ある読者がだれもそのイエス・キリスト探求にあたり、 堅固な基礎となるものを見つけることができるようになったと考える。
 続いて二章に分けてその堅固な基礎を示すこととする。
 1.旧約聖書における救いと救い主の約束と期待
 2.ナザレのイエスという人物におけるその約束と期待の成就


第2部
キリストについての聖書の総合的証言

第1章 神の救いの御業とメシアへのイスラエルの希望

 周知のとおり、イエスと初期キリスト教共同体は旧約聖書と呼ばれる聖書各書に神的権威があることを認めていた。 実際に、その聖なる著者たちの証言に基づいて、イスラエルは自分の神に救いの意志があることを信じ、 その救いへの道を認めることができた。それゆえ、神とその民の関係のこの最初の経験は、 堅固な基礎の上に成り立っており、その重要性は正しく評価されるように要求するにふさわしいものである。
 そこで、この旧約聖書の中から、キリスト教徒がイエスの中にその完全な成就があるとする三つの事項を取り上げ、 検討することができる。 a)ほかの神々と異り、イスラエルの希望の基礎となった真の神の認識、 b)イスラエルが諸国民の中で自分の歴史の流れを経て得たその神の救いの意志の体験、 c)神と人間との契約と交流をたえず押し進めた様々な仲介。 ここで神がイスラエルになさった啓示のさまざまな段階をたどるのではなく、 すでに到来したキリストの光のもとに初期キリスト教共同体が聞いて理解したその 「先の契約」の主たる証人たちを思い起こすこととする。

2.1.1. 旧約聖書における神とその啓示

2.1.1.1. 古代オリエントの諸国民はすべて神を探し求めていたが、 それは「手探り」しながらであった(使17,27)。 知恵の書によると、彼らが神を探し求めながら彷徨ったのは、 事物の美しさに魅せられ、この世界の諸勢力を神々と考え、 その造り主がどれほど優れているかを知らなかった(知13,3)からである。 ところが、神がイスラエルに自ら示されたのは、人間を探し求めるのは御自分であることであった。 神はアブラハムを召し出し(創12:1−3)、 すべての諸国民の中でまったく無償のまま(申7:8)ご自分の特別な民(出19:5−6;申7:6)となる子孫を、 彼に起こされた。アブラハムとその子孫において諸国は祝福を受けることとなった(創12:3;22:18;26:4)。 諸国が救いを見出し(イザ45:22−25)、 希望するものを探し求めなければならない(イザ51;4−5)のは、 だたこの神においてだけである。

2.1.1.2. 神は、万物の創造者である(創1:1−2:4)が、 特に歴史の主であり、支配者である(アモ1:3−2:16;イザ10:5以下)ことを、 イスラエルに自ら示された。そのおかたは「最初のものであり、最後の者であり」、 このおかたのほかに、このおかたのように働くことができるほかの神はいない (イザ44:6;45:5−6)。イスラエルの中にしか、 その神はおられず、そのおかたは唯一のおかたである(イザ45:5)。
 この神が人間に自らを示されるのは、ことに王としてである。 神はすでにその創造の威力をもってその王としての支配を現された(詩93:1−2;95:3−5)が、 イスラエルの運命をその御手で担うことにより(出15:18;イザ52:7)、なおいっそうその支配と、 また来るべき支配を明らかにされた(詩98)。
 この王としての神の支配は、エルサレムにおいて献げられる礼拝祭儀の中心にあった(イザ6:1−5;詩122)。 イスラエルが自ら選んだ支配者たちに身を委ねたとき(サム上8:1−9)、 これらの王の軛のもとで苦しみながら(サム上8:10−20)、 その神の中に善い牧者を見出すこととなった(詩23;エゼ34)、 なぜなら神はいつも「忠実で・・・、正しく、真っ直ぐであり」(申32:4)、 「憐れみ深く、優しく・・・寛容と真実に富んでいる」(出34:6)からである。
 従って、人間に近くいます神は、イスラエルの信仰の本質そのものである。 聖四文字によって表されるその神の固有の名は、この信仰の承認(出3:12−15)であり、 同時にそれによって忠実さを呼びかけながら、 その民との間に打ち立てようとなさる関係がどのようなものであるかを示している。

2.1.2. 神と人間:約束と契約

2.1.2.1. 「ご自分自身に対する」誓い(創22:16−18)によって表された、 挫かれることのない意志の力で(エレ31:35−37)、 神は一つの民を構成する人々に関わりを持とうとされた。神は彼らのために指導者を立て、 責任をもたせてご自分の計画を実現させようとされた。アブラハム(創18:19)、 モーセ(出3:7−15)、「士師たち」(士2:16−18)と王たち(サム下7:8−16)がそれである。 神がご自分の民を奴隷としての軛や外国の支配から解き放ってくださったのも (出3:8;ヨシュ24:10;サム下7:9−11)、 また約束の地の恵みをその民になさったのも(創15:18;22:17;ヨシュ24:8.13;サム下7:10)、 最後にその民に救いを得させられるのも(出15:2;士2:16.18)、 この人々をとおしてであった。また神がこの同じ民にご自分の掟と法律を伝えられたのも (創18:19;出15:25;21:1;申5:1;12:1;ヨシュ24:25−27;王上2:3)、 彼らをとおしてであった。その掟と法律を守ることは、 イスラエルにとって隣人の人格とその幸いを尊重することによって (出20:3−17;申5:5−21;出21:2以下;レビ第19章)、 神を信仰告白する形態であった。土地の約束と法律への従順は、 聖書の中では「契約」(berit)の法律概念のもとに示されており、 それは神がご自分と人々の間で打ち立てられる新しい絆を表現している。

 確かに、この民とその指導者たちはこの契約に自由に入った(出24:3−8;申29:9−14;ヨシュ14−24)。 しかし、絶えず彼らは主なる神(YHWH)と並んで他の神々を受け入れ(出32:1−6;民25:1−18;士2:11−13)、 あらゆる形の不正をもって隣人を圧迫する(アモス2:6−8;ホセア4:1−2;イザ1:22−23;エレ5:1以下)誘惑を受け、 このように彼らはその神と結んだ契約を破った(申31:16.20;エレ11:10;32:32;エゼ44:7)。 幾人かの王はその不正(エレ22:13−17)とこの契約の断絶(エゼ17:11−21)のために特に咎められなければならない。 しかし、神の忠実が人間の不忠実を制し(ホセア2:20−22)、 彼らと新しい契約(エレ31:31−34)、永遠で挫かれることのない契約(エレ32:40;エゼ37:26−27)を結ばれた。 その契約は、割礼の印で区別されたアブラハムの子孫(創17:9−13)のみならず、 虹のしるし(創9:12−17;イザ25:6;66:18)によって全人類にまで及ぶ。

2.1.2.2. 預言者たちはそのすべての形態におけるこの契約断絶の躓かされた証人であり、 こうして選ばれた民に主なる神(YHWH)による断罪を告げた(王下17:7−23)が、 それはとりもなおさず人間の数々の不忠実を超えるこの同じ神の忠実の特別な証人となるためであった。 神は、律法への従順によってその献身を実現できるよう能力を授けて、 人間の心を根底から造り変えられる(エレ31:33−34;エゼ36:26−28)。 したがって、イスラエルの側からの度重なる契約の失敗にもかかわらず、預言者たちは、 彼らの神がその愛と限りのない赦しのおかげで(アモ7:1−6;ホセ11:1−9;エレ31:1−9)お与えになる救いの実現を、 その歴史の最悪のときでも(エゼ37:1−14)、希望するのをやめなかった。
 神は、イスラエルの諸部族から、自分の地に住む自由な一つの民をつくるという約束を、 ダビデによって実現された(サム下7:9−11)。その子孫たちはその跡を歩まなかったが、 預言者たちはその国でダビデのように(サム下8:15)、 特に貧しい者、弱い者に対して正義と公正を行き渡らせる、 この王を常に期待しつづけた(イザ9:5−6;11:1−5;エレ23:5−6;33:15−16)。 このような王は、ご自分の民に対する神の「熱情」の示しであり(イザ9:6)、 その民の起源から約束されていた平和の保証となるはずのものである (アモ9:11−12;エゼ34:23−31;37:24−27)。
 預言者たちは、またエルサレムの清めと復興も告げた。 それは、神がそのご自分の神殿にお住まいになる場所である。 その後、それは「正義の町」(イザ1:26)、 「主はわたしたちの正義」(エレ33:16)、 「主がそこにおられる」(エゼ48:35)という象徴的な名をもつことになる。その城壁も「救い」と、 その城門も「賛美」と呼ばれる(イザ60:18)。すべての諸国はダビデとの永遠の契約に参加することとなる(イザ 55:3−5)。諸国はこの復興された聖なる町においてイスラエルの神の救いに与るよう呼びかけられることとなる (イザ62:10−12)。なぜなら律法と正義は出て、地の果てまで及ぶのは、 シオンからであり(イザ2:1−5;ミカ4:1−4)、 諸国が救いを見いだせるのはただ主なる神(YHWH)においてのみだから(イザ51:4−8)である。

2.1.3. 救いの仲介

2.1.3.1. 確かに、神ご自身がご自分の民と全人類をお救いになるが、それは様々な仲介によってである。

a) この救いの到来にあたって、王は特別な位置を占めている。 神は王をご自分の子として養子縁組みされ(サム下7:14;詩2:7;110:3[LXXによる];89:27−28)、 かつて救い手であった士師たちになさったように(士2:16)、 この王にその民の敵にうち勝つ力を授けられた(サム下7:9−11;詩2:8−9;110:1以下;89:23−24)。 神の知恵を授与され(王上3:4−15.28)、 この王は契約の神に対して忠実でなければならず(王上11:11;王下22:2)、 正義と公正がその王国のいたるところ、特に貧しい者、 やもめと孤児に対して守られるように見張らなければならない (イザ11:3−5;エレ22:15−16;詩72:1−4.12−14)。 したがって申命記が契約のすべての義務に対するこの王の恭順を強調するにはわけがある(申17:16−20)。 やはり正義に対するこの王の忠実さをとおしてこそ、 その民に平和と自由を確かなものにすることになる(詩72:7−11;エレ23:6;イザ11:5−9)。 しかし、実際にそうであったのだが、もし王が契約に対する義務に不忠実であるなら、 自分もその民も奈落の底に引き込むことになる(エレ21:12:22:13−19)。 諸国の民はといえば、彼らもどこにいても、神が人間にお与えになるその恵みの祝福に与るよう招かれている。

b) 王たちが祭司の役割を果たすこともあったが(サム下6:13.17−18:王上8:6以下;等)、 その役割の実行が委ねられるのは祭司であるレビ人に対してである(申18:18)。 祭司の役割が定められているのは、律法との関連においてであることを強調する必要がある(エレ18:18)。 祭司はその番人であり(ホセ4:6;申31:9)、 律法を構成する色々な諸規定(申33:10)を教える (マラ2:6−7)。その礼拝における役割をとおして、 祭司は自分自身を、また自分と共にイスラエルの共同体を聖化し(レビ21:8)、 神に喜ばれるいけにえの奉献を可能にする(申33:10)。 礼拝は過去の救いの出来事を祝い(詩132;136)、 イスラエルがその神に対して負った義務を想起させるものである (イザ1:10−20;ホセ8:11−13;アモ5:21−25;ミカ6:6−8)から、 礼拝にかかわる祭司の役割の真価は、預言者たちの紛れのない証言によると、 律法に奉仕する者としてのその役割を果たすかどうかにかかっている(ホセ4:6−10)。

c) 預言者はイスラエルがもった救いの経験の中で重要な役割を果たした。 神の「言葉」が住むところとされ(エレミヤ18:18)、 預言者はその歴史の危機的時点に立ち会った(エレ1:10)。 預言者はまず民とその政治的および宗教的指導者たちの不忠実を告発しなければならなかった(王下18)。 その自分の神の名誉にかけて、 まさにシナイ契約に訴えて人間は人間をその人格とその福利において尊敬しなければならないことを要求した (王上21;アモ2:6−8;5:7−13;ホセ4:1−2;ミカ3:1−4;エレ7:9)。 律法を軽蔑することは、罪深い民に神の審判を招き、 預言者のとりつぎもそれを遮ることができなかった(アモス7:−9;8:1−3)。 不忠実な民が真に回心することによってのみ、 神にその救いを新たに示していただけるかもしれないことになった (アモ5:4−6;エレ4:1−2;エゼ18:21−23;ヨエ2:12−17)。 ところが、その回心がほとんど不可能で(エレ13:23)、 もろいものであることが露わとなった(ホセ6:4)ので、 それを実現できるのは、ただ神だけだということとなった(エレ31:18;エゼ36:22)。 ここに、失敗が最も深刻になった時点でも、なぜ預言者にはより良い未来を告げることができたのか、 そのわけがある(ホセ2:20−25;イザ46:8−13;エレ31:31−34;エゼ37)。 この教育は、罪深い人間の条件に対する神の愛の勝利を準備するものであった(ホセ11:1−9;イザ54:4−11)。

d) 創造者なる神が人間にお委ねになったこの宇宙の意味を理解するのは賢者のつとめである (シラ16:24−17:14)。この宇宙は恵みであると同時に神の善意を映しているからである (創1:1−31;2:1−4;詩編8)。また社会の中で生活し、 実現すべき理想(箴1−7)、あるいは畏れ敬うべき秘義 (箴30:18−19)を未来の世代に伝える責任ある者としての人間の色々な経験を収集し、 啓示の光に照らして評価するのも賢者のつとめである。 しかしながら、賢者が自分の勧告の価値を過大評価し(イザ5:21;29:13−14)、 その自分の勧告をもって主なる神(YHWH)の律法を侵害する(エレ8:8−9)こともあり得る。 人間の幸福と成功に寄与するためには、 最終的にそのような知恵の限界を見定めることが重要となる(コヘ1:12−2:26)。

2.1.3.2. 歴史が示したのは、人間が持続的に神と心を通わせるようになるには、 この様々な仲介は成功しなかったということである。いつも繰り返される挫折の果てに、 神はその民の宗教的意識の中に、その御国を決定的に創設することができる、 新しい仲介者たちへの希望を起こされた。

a) 昔のダビデ王家の王たちと比べて、王なるメシアはへりくだる者であるが、 すべての争いを終結させ、すべての国々に平和をもたらすことになる(ゼカ9:9−10;詩編2:10−12も参照)。 このメシアの国の決定的な創設は神ご自身の御業であることに疑いの余地はないが(ダニ2:44−45)、 「永遠の正義」が到来するとき、「最も聖なる者に油が塗られる」とき(ダニ9:24)、 それを実現しようとなさるのは、またしてもご自分の聖なる民の仲介をとおしてである(ダニ7:27)。

b) いまだにその深い秘義に包まれた「主のしもべ」は、 普遍的な契約を確証し、全世界に唯一の真の神である救い主を啓示し、 神が布告する秩序を創設する(イザ42:1−4;49:1−6)。 彷徨う民の苦しみを連帯し、主のしもべはその罪の重みを自分の肩に担い、 こうして多くの者を義化する(イザ52:13−14;53:1−12)。

c) 最後に、時が成就すれば、それは(当時「いと高きおかたの聖徒からなる民」、 ダニ7:18、として解釈されていた)人の子の人物像として現れ、 「天の雲と共に」神の御前に来て、 彼に従うことになる地上のすべての諸国民に対する永遠の支配権を受け取る(ダニ7:13−14.27)。

2.1.3.3. 世界と歴史における神のこの御業を現すために、 イスラエルの信仰は異邦の諸宗教がときには神々とみなした幾つかの霊能の表象を借用することもあった。 しかし、イスラエルの信仰はそれらをアブラハムの神の創造的かつ救済的現存を思い起こさせるために、 この神のもとにあるものとする。

a) 霊は神の力であって、万物の創造にあたり総指揮をとり、それを絶えず新しくする(詩104:29−30)。 霊は特に歴史の中で働く。神の勢力として、それは幾つかの使命を遂行可能とする。 士師たちを捉えてイスラエルを解放させた(士3:10;6:34;11:29)のもこの霊であった。 それはダビデの上に(サム上16:13)、理想的な王の上に(イザ11:2)、 主のしもべの上に(イザ42:1−4)降って、 この世界における神の支配の真の仲介者とした。 預言者の中に現状の理解(エゼ2:1−7;ミカ3:8) と間近に迫る救いの希望(イザ61:1−3)をつくりだすのもこの霊である。終末において、 この同じ霊は、死から復活する新しい民を創造し(エゼ37:1−14)、 神の掟を守らせる(エゼ36:26−28)。最後にすべての人間に、この霊が住まうものとなり、 救いへの門を開く(ヨエ3:1−3)。

b) 神の言葉は、人間に宛てられた神のメッセ−ジ(申4:13と10:4:「十の言葉」参照)だけではない。 それはまた先ず活動的な力であって、すべてを啓示するものである。 そのご自分の言葉によって、「神が言われると、すべてはあった」(詩33:6−9;創1:3以下参照)。 この創造はその言葉の御業であると同時にその霊の御業でもある(詩33:6)。 預言者たちの口に置かれた(エレ1:9)神の言葉は、 彼らにとって喜びとなることもあれば(エレ15:16)、 彼らの骨の中の火となることもあった(エレ20:9;また23:29参照)。 最後にこの言葉は、霊と同様に徐々に人格的性格のもとに語られるようになる。 それはイスラエルの口と心の中に場所を占める(申30:14)。 それは「天に場所を確保する」(詩119:89)。 それは派遣されて、使命を果たし(知18:15−16)、 実りをもたらすことなしに神に戻ることはない(イザ55:11)。 ラビ伝承はこのイメージを強く力説する。 そこでは主の言葉(メムラー)はこの世界との関係における神ご自身の活動を現す。

c) 箴言の書の中で、知恵は王侯らのもつ一つの特質または人生に成功する処世訓であるばかりでなく、 神の創造的知恵として示されている(箴3:19−20;8:22以下)。 王侯らが統治できるのも、実はその知恵によってである(箴8:15−16)。 この知恵はその道を歩むよう人間を招く。こうして人間は命を見出すことになっている(箴8:32−35)。 万物に先だって創造され、宇宙の現れに際して指揮し、 人々の間に住まうことを喜びとする(箴8:22−31)。時代が下がって、 それは「いと高き方の口から出る」ものと言われ(シラ24:3)、 続いて契約の書とモーセの律法と同一視される(シラ24:23;バルク4:1)。 ソロモンの知恵の書は、知恵を万物に浸透する霊を所有するものとし、 知恵の中に「永遠の光の反映、神の働きを映す曇りのない鏡」を見ている(知7:26)。

2.1.4.イスラエルの特別な宗教的経験の評価

2.1.4.1. 旧約聖書各書は、絶えず再読され、途切れることなく再解釈され、 これまで簡単に見てきた経験と希望の、権威ある証言としてとどまっている。 イエスの時代に、ユダヤ教徒の希望は、諸流派と諸分派の中で優勢となった意見にしたがって、 色々と枝分かれした形を取るようになっていった。その最終的実現は確かなことと見なされていたが、 その成就の様相は決めかねるものとなっていた。 たとえば、ファリサイ派はダビデの子孫から出るメシアの到来を信じていたが、 エッセネ派では政治権力をもつことになる王なるメシア(油塗られた者)のほかに、 このメシアに対して優位に立つ祭司なるメシア(ゼカ4:14;またレビ4:3参照)と、 その二人に先立って来る一人の預言者(申18:18;1マカ4:46;14:41参照)への期待があった。

2.1.4.2. すべての人間の救いをもたらし、人間の条件の根元的変革をもたらす神の国への期待は、 いずれにしてもイスラエルの信仰と希望の核心をなしている。良い知らせ(福音)の内容であるその到来は、 エルサレムを再興し、全世界に光をもたらす(イザ52:7−10)。正義と公正に基づき、 この神の国はすべての人間に、救いをお望みになる神の聖性の真の規模を露わにする(詩93;96−99)。 この世界の勢力は王としての神の支配を簒奪した。彼らはまたその空しい自惚れを剥奪されることになろう。 人間の間で起こるその神の支配の大いなる現れの一つは、 復活の約束に基づく死の克服であろう(イザ26:19;ダニ12:2−3;二マカ7:9.24;12:43−46)。
 「自分よりも強いお方」(マタ3:11−12とその並行箇所)が創設するその決定的な神の国の間近な到来を告げることになったのは、 洗礼者ヨハネである。今、時は満ちて、自分の罪を悔い改めるすべての人は、 真にその救いを喜ぶことができることになる(マコ1:1−8;マタ3:1−12;ルカ3:1−18)。

第2章 イエス・キリストにおける救いの約束の成就

2.2.1. イエスの人物とその使命

2.2.1.1. 福音書の証言

 「女から、しかも律法の下で生まれた」ナザレのイエスは、「時が満ちると」(ガラ4:4)、 イスラエルの希望を成就するために来られた。その福音の宣教をとおして言われたように、 「時は満ち、神の国は近づいた」(マコ1:15)のだった。そのイエスの人物の中に、 この神の国はすでに現存し、活動していた(ルカ17:21と神の国の譬えを参照)。 イエスが神の霊によって行われた奇跡と力の御業は、神の国が到来したことを示すものであった(マタ12:28)。 イエスは「律法と預言者を廃止するためではなく、成就するために」来られた(マタ5:17)。
 しかしながら、この「成就」は、 イエスの同時代人が聖書を読むことによって推論したことと同じようなものとすることはできない。 この成就がそれとどのように異なるものであったかを知るためには、 福音書の証言を注意深く検証しなければならない。福音書は、イエスの言葉と行動を体験し(使1:1)、 聖霊の権威をもって(二テモ3:16;またヨハ16:13参照)それを伝達したイエスの弟子たちから出るものである。 聖霊の活動は、確かにただ単に資料的に忠実な伝達を保証することにだけあったのではない。 その活動はむしろ、イエスに関わる歴史と事実について、時が経つにつれますます充実し、 ますます発展した表現をつくりだした熟考を実らせたのだった。そこから、 たとえば共観福音書とヨハネ福音書の間に見える調子や理解、語彙の差異が来る。 しかし、初期の使徒的共同体においてイエスについての記憶とその熟考の成熟が神の霊によって 導かれたものであるとの確信があったからこそ、 その色々な発展段階においてイエスとそのメッセージの提供を受け取るキリスト教徒は、 それを教会によって保証された真正の神の言葉として信仰をもって受容することができた。

2.2.1.2. イエスと旧約聖書の伝承

 律法に対してのみならず、救いの仲介者に聖書がつける諸称号に対してイエスがお取りになった態度は、 本質的にイエスが神と保っておられた関係、つまり御父に対する御子の関係(以下の2.2.1.3参照)に由来する。

a) イエスが「先生」(マコ4:38など)、 「預言者」(マタ16:14;マコ6:15;ヨハ4:19)と呼ばれるのを受け入れ、 この後者では自称さえされている(マタ13:57;ルカ13:33)のを見ても、驚くにあたらない。 イエスは純粋にこの世的な意味で王、ないしメシアであることを拒否されたが(ルカ4:5−7;ヨハ6:5)、 ダビデの子という呼称を退けることはなさらなかった(たとえば、マコ10:47など)。 そのうえ、「聖書を成就するために」、群衆の歓呼する中をエルサレムに入城された日に、 イエスはダビデ王家の王として振る舞われた(マタ21:1−11、またゼカ9:9−10参照)。 つづいて、イエスは神殿の中で「権威ある者」として行動されたが、 どのような権能をもってこのようなことをするのかを、 祭司たちに言おうとはなさらなかった(マコ11:15−16、28)。 実際にこのところでは、イエスの使命は王的というより預言者的性格を示している (イザ65:7とエレ7:11が引き合いにされるマコ11:17参照)。

b) イエスはペトロが十二人の弟子たちの名においてご自分がキリスト(すなわちメシア)であると信仰告白するのをおゆるしになった。 しかし、すぐにそのことについて誰にも何も言わないよう禁じられた(マコ8:30など)。 それはこの信仰告白はまだ不完全だからであり、 イエスはご自身ではすでにご自分の最後の挫折とその死をお考えになっていた(マコ8:31など)からである。 ダビデの子であるメシアについてイエスが抱いておられた観念は、実際に律法学者たちのそれとは異なっている。 それが見えるのは、イエスが彼らに、メシアとは詩編110:1にしたがってダビデの主のことであると (マタ22:41−47とその並行箇所)、明らかになさるところである。共観福音書の中で、 イエスが神(あるいは:祝福された者)[サム下7:14;詩2:7参照]の子であるキリスト(メシア)かどうか知ろうとして、 大祭司がイエスに質問するところでは、 イエスは各福音書によって内容が微妙に異なる返答をする (マコ14:62;マタ26:64;ルカ22:69−70;ここでは質問自体が二つに分けられている)。 しかし、この三つの箇所で、イエスは神の栄光の中にある王のように、 「これから人の子(ダニエル7:13−14参照)が神の(あるいは:威力の)右の座に座るだろう」と、 明らかに宣言なさる。ヨハネ福音書によると、イエスが「ユダヤ人の王」かどうかを知ろうとして、 総督ピラトが質問するとき、イエスはご自分の王としての支配が「この世界から(εκ)のものではない」こと、 それを働かせるのは「真理を証言するために」(ヨハ18:36−37)であることを、はっきりされる。 実際に、イエスは支配者としてではなく、仕える者として、 また奴隷となってまで(マコ10:45;ルカ2:27;ヨハ13:13−16)行動なさった。

c) 福音書の本文の中でイエスだけがご自分をさして言う「人の子」の呼称は、 ダニエル書(ダニ7:13参照)にしたがって救いの仲介者としてイエスを示すものであるから、きわめて重要である。 しかし、この呼称には御受難まで、少なくともカヤファの前での返答まで、何らかの曖昧さがあった。 それはアラマイ語で自分をいうかなり一般的な表現であったからである。 要するに、イエスはご自分の人格の秘密−または秘義−をけっして明示的に露わになさることのないような仕方で行動し、 発言された。それは人々がそれを理解することができなかったからである。ヨハネ福音書によると、 イエスはその弟子たちが「理解できる」(ヨハ16:12)ことしか語らなかった。

d) しかし同時に、イエスはあとで霊によって明らかにされる(ヨハ16:13)多くのことを示唆なさった。 このように、最後の晩餐のときに杯を取って言われた言葉の中で(マコ14:24とその並行箇所)、 イエスは「多くの人のために」自分の命を渡し(イザ53:12)、 自分の血をもって新しい契約に捺印する(イザ42:6;エレミヤ31:31)、 苦難のしもべの使命を示唆なさったように思われる。イエスは自分が来たのは「仕えられるためではなく、 仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるためである」(マコ10:45)と仰せになったときに、 すでにそのしもべの使命をお考えになっていたと、考えることができる。

e) さらに、まだある。神は様々な人物をとおしてご自分の到来をお告げになっただけではない。 神はその様々な特質による救いの仲介を、つまりその言葉、その霊、 その知恵(2.1.3.3の前述を参照)を思い起こすようにされた。 事実、イエスは父の御名によって、その権威をもって発言する者として自らを示された。 それはヨハネ福音書にも(ヨハ3:34;7:16;8:26;12:49;14:24と、イエスにロゴス、 「御言葉」の称号を与えるその序言参照)、共観福音書にも、 「・・・とあなたたちは言われたが、わたしはあなたたちに言う・・・」 (マタ5:21以下;また7:24、29参照)とあるところに認められる。他方、イエスは自分が聖なる霊によって発言し、 行動し、この神の力を備え、それを自分の弟子たちに送ろうとすること (ルカ24:49;使1:8;ヨハ16:7)を明言なさった。最後に、イエスはご自分の中にその知恵が現存し、 活動していること(マタ11:29;またルカ11:31参照)を示唆された。

 このように、イエス・キリストは、神が人間のもとに来るようにと準備して旧約聖書の中で描いて来られた、 上からと、下からの二つの道の出会う地点である。上からとは、わたしたちの世界にお降りになる神の言葉とその霊、 その知恵のますます親密になる呼びかけのこと。 下からとは、正義と平和の王として、へりくだった苦しむしもべとして、神のもとに自分も昇り、 また自分と共に人間を昇らせる秘義に包まれた人の子として、ますますその輪郭が明らかにされるメシアのことである。 そこからキリスト論には二つの進むべき道があることになる。 一方では、イエス・キリストの中に、ご自分の命を分かち与え、 人間を救おうとして人間のもとに来られる神を明らかにし、 他方、イエス・キリストの中に、 新しいアダムとして神の養子としての原初的使命に再び目覚める人間を明らかにすることである。

2.2.1.3. 神を前にしたイエス

a) イエスの最終的な秘密−またはむしろその秘義−は、 本質的にイエスが神に対してもっておられた子としての関係 (relatio filialis)にある。実際、イエスは祈りの中で、神を「アッバ」とお呼びになった。 この用語はアラマイ語で、親しみを込めて「父」をいうものである(マコ14:36など)。 イエスは、ただ御父だけが天使たちのみならず、 その子も除いて審判の日を知っておられると仰せになったその同じ文節の中で(マコ13:32)、 自分自身を「子」の名でお呼びになった。このように「御父」の前で「御子」として示す表現法は、 ヨハネ福音書の多くの箇所にも(そのようなものとして、ヨハ17:1、「父よ、時が来ました。 あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、 あなたの子に栄光を与えてください」;またヨハ3:35−36;5:19−23)、マタイとルカ福音書の、 「ヨハネ的」といわれる「イエス語録」(マタイ11:25−27=ルカ10:20−21)にも見られる。 ここでは、神とイエスの関係は、イエスが「すべてのことは、父からわたしに任せられています。 父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」 (マタイ11:27=ルカ10:22)と言うことができるほど親密であった。

b) これが、イエスの内奥にある秘密であって、 これがそのすべての行動と態度の源泉となっていたのであり、 それは換言すれば、イエスが真に「子である」(filialitas)ということである。 イエスは幼少の頃からその意識をもち(ルカ2:49)、 御父の御旨に対する御自分の完全な従順によってその意識を明らかにお示しになった(マコ14:36とその並行箇所)。 この子としての身分はまた、完全に人間であること、 「知恵にも、年齢にも、神の前および人の前での寵愛にも成長する」(ルカ2:52)人間であることを妨げるものではなかった。 このように、イエスは御父から受けた自分の使命について、 幼少の頃から十字架上の死まで段階的に、いっそう正確になる意識をお持ちになるようになった。 最後に、その死の体験は、ほかのすべての人間と同じようにイエスによっても残酷に感じられた (マタ26:39;27:46とその並行箇所参照)。つまり、「御子であるにもかかわらず、 苦しむことによって、従順を学ばれた」のである(ヘブ5:8)。

2.2.1.4. キリスト論の源泉としてのイエス

 このように旧約聖書の中で取り上げられたすべての呼称、救いのすべての働きとすべての仲介は、 イエスの人格の中に受けとめられ、結びあわされている。 しかし、イエスを信じる者にはそれらを新たな様相のもとに解釈する必要があった。 逆説的に、そのメシア(すなはちキリスト)の国は、十字架の躓きをとおして、 つまりイエス自身苦難のしもべとして(イザ53を取り上げた一ペト2:21−25)死の定めに服し、 復活により人の子の栄光にお入りなった(使7:56;黙1:13;またダニ7:13−14参照)あと、 到来したのだった。このようにイエスは信仰をもって「ダビデの子なるメシア」として、 「力ある神の子」として(ロマ1:3−4)、「主」として(使2:36、フィリ2:11など)、 神の知恵として(一コリ1:15;またコロ1:15−16;ヘブ1:3参照)、 神の言葉として(黙19:13;一ヨハ1:1;ヨハ1:1−14)、 いけにえにされ、栄光を与えられた神の小羊として(黙5:6以下;ヨハ1:29;一ペト1:19)、 忠実な証人として(黙1:5)、真の牧者として(ヨハ10:1−2;またエゼ34参照)、 王である祭司の性格を帯びた新しい契約の仲介者として(ヘブ8:1から10:18まで)、 また旧約聖書では神にのみ帰せられる呼称(イザ41:4;44:6)、 「最初にして最後のもの」(黙1:17)として認められた。このように、 聖書はイスラエルが期待していたのとは異なり、それより優れた仕方でイエスの中に成就した。 しかし、これはイエスをメシア、主、神の子として宣言する(ロマ8:29;ヨハ20:31) このイエスへの信仰行為そのものをもってしか認めることができないものである。

2.2.2. イエスへの信仰の起源

2.2.2.1. 復活の光

a) イエスの弟子たちは長い間「彼を信じて」いたが(ヨハ2:11参照)、 その信仰はイエスが生きておられる間はきわめて不完全なままであった。 その信仰は、すべての福音書が証すように、イエスの死に動揺もした。 しかし、それは復活者イエスがご自分の者たちに現れるようにと、 神がなさったとき(使10:41−42;また1:3;ヨハネ20:19−29参照)、 いっそう完全で、明白なものとなった。イエスが「数多くの証拠をもって生けるものとしてお現れになった」 (使1:3)というその現れは、その弟子たちが期待していたものではなく、 「その復活の真理を躊躇なく受け取ったのでもなかった」 (聖レオ一世教皇『説教集』61:4;マタ28:17;ルカ24:11参照)。 しかし、この現れが「主はまことに復活された」(ルカ24:34)ということを認めるように彼らを導いた。

b) 最初聞いただけでは難しく思われたイエスの幾つかの言葉も(ヨハ2:22参照)、 またその幾つかの行動も(ヨハ12:16)、 復活の光のもとで明らかになった。イエスが彼らの「心を開いて、聖書を理解するようになさった」 (ルカ24:32、45)ときになってはじめて、そのすべての意味をもつことになったのは、 特にその受難と死であった。初期キリスト教共同体の信仰の基礎となった言葉の「証人たち」が立てられたのも、 このようにしてであった(ルカ24:48;使1:8;また一コリ15:4−8も参照)。 実際に、彼らの証言は、「モーセの律法と預言者たちと詩編」 (ルカ24:44)の中でイエスについて書かれているすべてのことを理解するよう導き、 こうしてどのように神の約束がそのイエスにおいて成就したかを悟るよう導いた。

c) この幾たびかの「現れ」(使10:40−41;マコ16:12−14)は、 同時に死の中からのイエスの復活の続きとして示された出来事の意味を説明した。 その出来事とは、復活の日の夕に与えられた聖霊の恵み(ヨハ20:22)であり、 五旬祭における弟子たちのもとへの聖霊の降臨(使2:16−21、33)、 《イエスの名で》行われた癒し(使3:6など)のことである。この時から、 使徒的信仰はイエスが告げた神の国(マルコ1:15)のみならず、 この国の始まり(使8:12;19:8など参照)となったイエスの人格そのものを中核としていく。 これが、その復活前に弟子たちが知っていたイエスであり、 死者の中からの復活をとおしてご自分の栄光にお入りになった(ルカ24:26;使2:36)イエスである。

2.2.2.2. キリスト論の発展

a) イエスの約束(ルカ24:49;使1:8)にしたがって、 その弟子たちは五旬祭の日になって、「上からの力、つまり聖霊の力に満たされた」(使2:1−4;10:44参照)。 実際に、これは新しい契約の特別な賜物であった。 最初の契約によって、律法が神の民に与えられ、 新しい契約によって預言者の約束どおりに主の霊がすべての肉の上に降りひろげられた (使2:16−21;またヨエ3:1−5[LXXによる]参照)。 この「霊における洗礼」により(使11:16;またマタ3:11とその並行箇所)、 使徒たちはキリストのために証しをするため(使2:23−26;10:39など)、 大胆さ(パレシア、使4:29、31)をもって神の言葉を告げるため、 主イエスの名によって奇跡を行うために(使3:6など)、勇気と力を与えられた。 このようにしてイエス・キリストを信じる人々の共同体が創設された。 その後、「聖霊のうちに建てられた」(使9: 31;またロマ15:16−19;エフェ2:20−22参照)この教会は、 キリストと神の国の証しがなされて「地の果てに至るまで」 (使1:8)伝えられるような勢いで、ユダヤ人の間と諸国民の中で成長した。

b) この復活の光のもとに福音の諸伝承は徐々に集められ、 書き留められ、最後に四書に固定されることとなった。 この四書は、「イエスが行われたこと、教えられたこと」(使1:1)の単なる集録ではない。 そこには神学的解釈も加えられている(1964年5月14日付け教皇庁聖書委員会の「福音の歴史的真理性に関する指針」、 AAS,LVI/III,Vol.VI,1964,p.712,718:)。 それゆえ、そこには福音記者それぞれのキリスト論を求めなければならない。 このことは、教父時代に「神学者」の名を与えられたヨハネに特に言える。 同じように、新約聖書に保たれているすべての書の著者も異なる仕方で、 イエスの行動と言葉、またとりわけその死と復活を解釈している。 このように使徒パウロのキリスト論について語ることができる。そのキリスト論は、 パウロの初期の手紙から、またそれより発した伝承にいたるまで発展し、変化している。 またヘブライ人への手紙、ペトロの第一の手紙、ヨハネの黙示録、ヤコブの手紙とユダの手紙、 ペトロの第二の手紙にも、このすべての書に同じ発展があるのではないが、それぞれ異なるキリスト論がある。

 これらのキリスト論は、旧約聖書を成就するキリストという人物に異なる光をあてることによって区別されるだけでなく、 またそのそれぞれは新しい要素を加えもしている。 特にマタイとルカの「幼年物語」がそれで、これはイエスが処女懐胎されたことを教える。 他方、パウロとヨハネの文書群はそのイエスの「先在」の秘義を明らかにする。 「仲介者であり、贖い主である主キリスト」について全面的な論考は、どこにもない。 実際は、新約聖書の著者はそれぞれ、牧者として、教師として、声は異なるが、 ただ一つの歌の交響曲として同じキリストを証しているということである。

c) キリスト論が信仰に基づいて根づいたキリスト理解として、 キリスト教徒の中にあって正真正銘のものであるためには、 これらの証言はその全体において受けとめられなければならない。 キリスト教徒がそれぞれ、精神的近親感により、あるいは文化の相異により、 キリストを語るのにいっそう適当と思われることにしたがって、そのキリスト論のいずれかに、 いっそう敏感になることも確かにゆるされる。しかし、信徒にとって、キリストが告げ知らせ、 キリストを語るただ一つの福音を成すのは、その総体である。そのキリスト論のどれも、 あたかも二次的発展によるものでキリストの真の姿を映し出さないとか、 古代の文化的文脈により限界づけられ、その意義は失われたとして、排除できるものではない。 その本文の解釈は、いつも必要であるが、その内容を空洞化するにいたるものであってはならない。

d) それぞれ自分の固有のキリスト論を示すためにその著者たちが用いる表現に関しては、 大きな注意を向けるに価するものである。前述したとおり(前掲の2.2.1.4参照)、 これらの表現はその大部分が聖書から取られている。しかしながら、 福音宣教がヘレニズムの哲学や宗教と接触を始めた時点から、使徒時代の牧者と教師は、 諸国民の言語の中で一般に用いられていた表現と表象を信仰が求めるところにしたがって再解釈しながら、 徐々に賢明に取り容れるようになった。なお、この種の例は数少ない(コロ2:9のプレロマ、「充満」を見よ)。 このような場合は誤ったシンクレティズムによるものとしてはならない。 これも、ほかの場合がいっそう直接に聖書によるほかの表現を借りて描いている同じキリストを描き出そうとするものである。 このようにそれは、万人に正しく福音をあますところなく告げ知らせるために、 その同時代人たちに聖書の特殊で基礎的な言語を明らかにするための「補助的」言語を見い出さなければならなかった−また、 これからも見い出さなければならない−あらゆる時代の神学者たちに道を開くものである。

2.2.3. 救いの仲介者キリスト

2.2.3.1. 教会の中に現存するキリスト

a) キリストは世の終わりまでご自分の人々とともに留まっておられる(マタイ28:20)。 そのすべての命が主であるキリストから来る教会は、その秘義を究め、それを人々に知らせる使命をもっている。 だが、これは信仰と聖霊の働きかけがなければ、実現することはできない(一コリ2:10−11)。 実際に、聖霊はその賜物を特にそれぞれの人にお望みになるままに(一コリ12:11参照)分かち与え、 「キリストの体の構築を目指し、ついにはわたしたちが皆、 神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、 キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するようになさる」(エフェ4:12−13)。 このように世界の中に置かれて、教会はその信仰をもって自分の中にキリストの現存を経験する(マタ18:20参照)。 それゆえ、教会は確固たる希望をもってその主の栄光ある到来に向かうのである。 教会がその祈りの中で、特にその主の受難と復活の記念を祝い(一コリ11:26)、 「主イエスよ、来て下さい」と(一コリ16:22;また黙22:20参照)、 力をこめてその再臨を呼びかけるとき表明するのは、この願望なのである。

b) 異なる歴史の状況の中で、正真正銘のキリストの現存と働きを認識するのは教会の務めである。 それゆえ、教会は「時のしるし」を探り求め、それをたえず福音に照らして解釈する (『現代世界憲章』第4項参照)ことに心がける。その実践のために、 福音の奉仕者と信徒は、それぞれ自分の役割に応じてわたしたちの救い主である神の教えを守り(テト2:10)、 「ゆだねられているものを保ち》(一テモ6:20)、 「風のように変わりやすい教えにもてあそばれること」(エフェ4:14)のないようにしなければならない。 それゆえ、キリストへの真の信仰と聖霊の正真正銘の働き、 キリスト教徒の正しい「実践」は、たえず「識別され」(一コリ12:10)、 「吟味され」(一ヨハ4:1)なければならない。
 真の信仰とは、肉をもって来られ(一ヨハ4:2)、 御父の御名を啓示し(ヨハ17:6)、すべての人のために自分を身代金として渡し (一テモ2:6;またマコ10:45とその並行箇所参照)、 三日目に復活し(一コリ15:4)、栄光の中にあげられ(一テモ3:16)、 神の右に座し(一ペト3:22)、その栄光ある現れが時代の終わりに期待される(テト2:13)、 神の子イエス・キリストへの信仰のことである。このすべてのことを信仰告白しないキリスト論は、 使徒伝承の証しを、聖エイレナイオスによると信仰の最後の基準(『使徒の証明』第3項)を、 使徒継承によってすべての諸教会の中で守られ(『異教徒反駁』III、i、2)、 洗礼のときにすべてのキリスト教徒によって受容された(同書、I、ix、4)「真理の基準」を逸脱している。

c) 同様に、聖霊の働きも確かなしるしの助けをもって識別されなければならない。 教会はその旅路にあって聖霊によって導かれている。 しかし、信徒各自と同じように(ロマ8:14)、教会は「どの霊も信じる」(一ヨハ4;1)というわけにはいかない。 「イエスの霊」(使16:7)しか、これなしにはだれも「イエスは主である」と言うことができない (一コリ12:3)この聖霊しか、神の霊はないからである。 この同じ霊は、イエスが言われたすべてのことを弟子たちに思い起こさせ(ヨハ14:26)、 彼らをすべての真理に導き入れ(ヨハ16:13)、 ついに教会の中で「神の言葉が成就する」(『啓示憲章』第8項)までに至らせる。
 この霊によって御父はイエスを死者の中から甦えらせ(ロマ8:11)、 このイエスの中に「真理に基づく正義と聖性にある」(エフェ4:24)新しい人間を創造なさった。 またこの霊によって御父は、キリストを信じるすべての人々を甦らせてくださる(ロマ8:11;一コリ6:14)。 信仰と洗礼によって、キリスト教徒はキリストの肢体となり(一コリ6:13)、 その命を受け、聖霊の神殿となる(一コリ6:19)彼らの体においてまでキリストに結ばれる。 彼らすべてにあっては、彼らはただ一つの体となり、 これはキリスト御自身の十字架にかけられて復活した体にほかならない。 ただ一つの霊によって生かされるこの体(一コリ12:12以下;エフェ4:4)は、 洗礼を受けたすべての人々を自分の肢体として迎えいれる。これが教会である(コロサイ1:24;エフェ1:22)。 キリストはこの体の頭である。キリストはこの体に命を与え、 その霊の力によって(エフェ4:4)これを育てられる(コロサイ2:19)。 これは「新しい創造」(二コリ5:17;ガラ6:15)であり、 そこでキリストは罪が分裂させたすべてのものを和解させられる。 人間と人間を、また反逆して敵となった人間と神を(二コリ5:18−20;ロマ5:10;コロ1:21)、 それに人類に暴力をふるってきた悪の力(コロ1:20;2:15;エフェ1:10、20ー22)を打ち破り、 この全世界を和解させてくださる。

2.2.3.2. 十全的キリストに向かって

a) キリストがもたらす救いは、それゆえ「全体的」で、 洗礼(ロマ6:3−4;コロ2:11−12)と聖体(一コリ10:16−17)、 そのほかの秘跡(ロマ12:1参照)の恵みによって、その身体にまで及び人間を救う。 教会に分かち与えられるキリストの聖性は、こうしてキリスト教徒の具体的な生活の中で広がり、 彼らをとおして彼らが生きている世界の中に広がる。 彼らは、「長子」(ロマ8:29)である兄弟を模範として、神の国の建設に参与するのであるが、 イエスが来られたのは、その愛と正義と平和のすべての計画をもって(ガラ5:22−23;フィリ4:8;コロ3:12−15)、 人々の中にその神の国を打ち立てるためであった。 キリスト教徒は、その師を範として「自分の兄弟たちのために自分の命を与え」(一ヨハ3:16)なければならない。
 イエスが来られたのは、貧しい人々に福音を告げ、捕らわれている人々を解き放ち、 圧迫されている人々を解放するためであった。イエスの弟子たちは、 この解放の働きを続けることを心にとめる。イエスの教会は、 キリストの最後の到来を準備するものであり、その到来のときにはキリストはすべてのものを服従させ、 御自身は「神がすべてにおいてすべてとなられるために」(一コリ15:28)御父に服従される。 今からすでにこの完成を目指して、教会はその成員をとおして現在の世界に入り込んでいる。 彼らをそこから離れさせるどころか、彼らをとおして福音の精神がその家庭および社会的、 政治的組織全体に染み込むように教会は働いている。このようにこの世界に現存するキリストは、 その世界に救いの恵みをひろげておられる:「地の低いところに降り」、 「天よりも高く登って」、キリストは「すべてのものを満たしておられる」(エフェ4:9−10)。

b) これは、骨折りもなく、苦しみもなく実現されるものではない (マタ5:11;ヨハ15:20;16:33;コロ1:24)。 原初からこの世に入った罪(ロマ5:12)は、そこを荒らしまわる働きを続けている。 神の国は、すでに始まったが、まだ完全に現れているのではない。 それは産みの苦しみの中で(マタ24:8;ヨハ16:21−22)、 徐々に発展している。被造物そのものも、虚無に服させられており、 腐敗への隷属から解放されることを切望している(ロマ8:19−21)。 しかし、キリストはその死と復活によってその罪に勝利された。 キリストは「この世の支配者」(ヨハ12:31;16:11、33)を征服された。 それゆえ、これを範とし、その恵みによってキリスト教徒も戦い、苦しまなければならず、必要があれば殉教し、 死ぬことまで求められる。それは「正義が住む・・・新しい天と新しい地」(二ペト3:13)の到来を待望しながら、 善が悪に勝利するためである。  そのときわたしたちを先に愛してくださったお方(一ヨハネ4:19)は、 その養子となった(エフェ1:5)すべての人によって認められ、 愛され、礼拝され、仕えられることになる。このように、人類が拒んだ最初の呼びかけから、 すべての人が終わりなき幸いを得て賛美する日まで、 このお方が憐れみ深い忠実さと疲れを知らぬ忍耐をもって追い求めてこられた救いの御業 (ロマ2:4−5;3:25−26;9:22)が、永遠の至福の中で実現される。 その日には、すべての人が賛美して言う。「玉座に座っておられる方と小羊とに、 賛美、誉れ、栄光、そして権力が世々限りなくありますように」(黙5:13)と。

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