もどる
第二ヴァティカン公会議文書における聖書関連箇所
和田 幹男 


a)典礼憲章における聖書関連箇所
b)エキュメニズム教令における聖書関連箇所
c)司祭養成教令における聖書関連箇所
d)諸宗教宣言における聖書関連箇所

 すでに述べたとおり、第2ヴァティカン公会議が公布した16の公文書はそれぞれ孤立したものではなく、 相互に関連しあっているが、聖書を主題とした啓示憲章も例外ではない。 この憲章は公会議も締めくくりに近い時期に完成されただけに、 その内容はほかの公会議文書の決議ないしその過程での議論を前提としていることが多い。 その中でも啓示憲章にとくに深い関連があるのは、 憲典礼章、エキュメニズム教令、司祭養成教令、諸宗教宣言第4項のユダヤ教条項である。 第2ヴァティカン公会議文書の翻訳があるが、その訳文には難点が多く、またやや古くなった感があるので、ここに新しい訳を試みた。

a)典礼憲章における聖書関連箇所

 典礼憲章は、第2ヴァティカン公会議の最初の実りであり、身近に、また具体的に教会の改革を感じさせるものとして、 改革の機運を大いに高めた。それまでミサは司祭が壁に向かって捧げ、聖書朗読も一人でラテン語で行い、 参加する信徒たちは、いはば蚊帳の外であったが、第2ヴァティカン公会議以降は司祭は信徒たちに向かって現代語でミサも、 聖書朗読も行うようになった。これは当時、新鮮味溢れるものだった。 ミサだけでなく、聖務日課も諸秘跡の執行も刷新され、今日に至っている。 典礼憲章の中でも、とくに第7項は新鮮味豊かに耳に響いた。 典礼の中でもミサの聖変化や諸秘跡におけるキリストの現存は以前から教えられてはいたが、 その中で奉仕者が聖書を朗読するとき、キリスト御自身が今そこに集っている信徒に語るのだということは新しい認識であったからである。 これを前提として典礼において聖書がいかに重要であるか、またいかに用いられるべきか、見直しが行われた。 それと呼応して、啓示憲章第21項がある。 ここでは典礼憲章の中で聖書に関して述べている第7、24、35、51−52、90−92項を列挙する。

第7項:[典礼におけるキリストの現存]
636
 これほどの御業を成し遂げるために、キリストは御自分の教会にいつもおられ、とくに典礼行為の中におられる。 キリストはミサのいけにえの中で、『かつて十字架上で御自分を奉献なさった同一人物として、 祭司たちの奉仕により今も奉献なさりながら』、その奉仕者の人格の中にも、また何よりも御聖体の両形態の中にも現存しておられる。 キリストは、人が洗礼を授けると、キリスト御自身が洗礼を授けることになるというその御自分の力をもって、諸秘跡の中に現存しておられる。 キリストは、聖書が教会の中で読まれるとき御自身が語られるので、その御自分の言葉の中に現存しておられる。 最後に、教会が嘆願し、賛美するとき、 『わたしの名において二人か三人集まるとき、 彼らの中にわたしはいる』(マタ18:20)と約束なさったそのおかたが現存しておられる・・・」

第24項:[典礼における聖書の重要性]
637
 典礼の祝いにおいて聖書が最も重要の位置を占める。聖書により朗読が行われ、これが説教で説明され、詩編が唱われ、 その息吹と発想により祈りと祈願、典礼聖歌が作り出され、また聖書により動作と象徴がその意味を与えられる。 それゆえ、典礼の刷新、発展、適応に心がけるためには、東西諸教会の儀式の尊敬すべき伝承が証しする、 あの聖書に対する甘美にして生き生きとした情感を促進する必要がある。」

第35項:[聖書朗読とその説教、典礼教育]
638
 「典礼において儀式と言葉が密接に結びついていることが明らかに現れるために:
 1)  聖なる祝典において聖書朗読がいっそう豊富に、多様に、適切になるように刷新すること。
 2)  典礼行為の部分としての説教のいっそう適切な位置が、儀式が許容する限り、儀式書注記にも指摘されること。 説教の務めは、まことに忠実に、かつ厳正に果たされなければならない。 これは、救いの歴史ないしキリストの秘義における神の驚くべき御業、このわたしたちの中に、 とくに典礼の祝典の中に常に現存し、働いている神の驚くべき御業の告知のようなものとして、 とくに聖書と典礼の泉から汲み取られる。
 3)  またいっそう直接的な典礼教育も、あらゆるしかたでたたき込むこと。 もし必要ならば、その儀式の中で短い訓示が、司祭または権限ある奉仕者により、ただ適切な時に、 所定の規定または同様の言葉によって与えられるよう配慮しなければならない。
 4)  大祝日の前晩や、待降節と四旬節の週日、それに主日と祝日に、御言葉の聖なる祝典を促進し、 まさに司祭が不在のところでこれを大いに促進すること。 この場合、助祭ないし司教の派遣を受けたほかの者が祝典を指導する。」


  第51項:[ミサにおける聖書朗読]
639
 「神の言葉の宴が信徒たちの前にいっそう豊かなものとして備えられるために、聖書の宝庫がいっそう広く開かれること、 こうして一定の年数を周期として、聖書の主要部が民に朗読されるようになることが望ましい。」

第52項:[説教]
640
 説教は、典礼暦の経過に沿って聖書によって信仰の秘義とキリスト者としての生活律を説明するものであり、 典礼そのものの部分として大いに勧められる。 しかもまた主日と守るべき祝日に、参列する民と共に祝われるミサでは、重大な理由がなければ、説教は省いてはならない。」

第90項:[信仰心を生かし潤す泉、聖務日課]
641
 「さらに教会の公的祈りとしての聖務日課は信仰心の泉であり、個人的祈りの養いであるから、 司祭たちおよび聖務日課に与るほかのすべての者が、この聖務を果たしながら、 心を声に和するようにすることが、主において切に求められる。 この目的をいっそうよく達成するために、典礼と聖書、なかんずく詩編の自己養成をいっそう豊かに得るようにすること。
 刷新を遂行するにあたり、何世紀も用いられたローマ聖務日課の尊敬すべき宝庫が、 これを委託されたすべての者にとってより広く、より容易にその恩恵に浴することのできるものとなるように、適応すること。」

第91項:[詩編の配分]
642
 「第89項に提示された日課の過程を実際に守ることができるようするために、詩編はもう一週間ではなく、 より長い時間の間隔の中に配分すること。
 幸いにも始められている詩編の改訂作業は、キリスト教ラテン文学、音楽にもあるその典礼上の慣習、 およびすべてのラテン教会の伝統を考慮して、きるだけ速やかに完成すること。」

第92項:[朗読に関する原則]
643
 「朗読に関しては、原則は以下のとおりである。
a)聖書朗読は、神の言葉の宝庫が、いっそう豊富に近づき易いものとなるように整備すること。
b)教父たち、教会博士、教会人の著作の朗読は、より適切なものを選択採用すること。
c)聖人たちの受難記ないし伝記は、歴史的に信頼できるものを取り上げること。」

b)エキュメニズム教令における聖書関連箇所

 第2ヴァティカン公会議の主要な目標の一つに、キリスト教徒の分裂の傷を出来るだけ癒し、一致への道を開くことがあった。 そのために分かれた兄弟たちとの共通の絆を確認し、過去の誤りを反省し、 分かれた兄弟たちの中にあるキリスト教本来の信仰の遺産に敬意を表し、そこから学ばせてもらうこともあった。 とくに西欧のプロテスタント諸教会、諸教派からは聖書への深い愛と尊敬を学ばせてもらった。 これは、カトリック教会において軽視されがちなものであった。 聖書に対する第2ヴァティカン公会議の愛、尊敬、重視は、実はそのプロテスタント諸教会、諸教派の影響によると言ってよい。 それはエキュメニズム教令の第21項に窺うことができる。 こうして聖書は今後は分かれた兄弟たちとの一致回復の重要な手段となることが期待されるようになった。 そのことは啓示憲章第22項に触れられている。ここではエキュメニズム教令第21項を見ることとする。

第21項:[エキュメニズムと聖書]
644
 「聖書への愛と尊敬、ほとんど礼拝といえるものによって、わたしたちの兄弟は、絶えざる熱烈な聖書研究へと導かれている: 福音は「まずユダヤ人、つぎにギリシア人にと、すべて信じる者にとって、救いのための神の力だからである」(ロマ1:16)。
  彼らは聖霊を祈り求めながら、預言者たちによって予め告げられ、わたしたちのために肉となった神の言葉であるキリストにおいて、 あたかも自分に語りかける神を、聖書そのものの中に追い求めている。 その中にキリストの生涯、神であるこの導師が人間の救いのために教え、成し遂げられたこと、とくにその死と復活の秘義を瞑想している。
 しかし、わたしたちから分かれた兄弟たちは聖書の神的権威を肯定するものの、 聖書と教会の関係について、−それぞれ異なっていて異なるように−わたしたちとは異なる理解をする。 その教会の中で、カトリック信仰によれば、真正にして権威ある教導職が、 書にされた神の言葉を提示、説教するにあたり特別な位置を占めるものとなっている。
 にもかかわらず、聖書はその対話において、救い主である神がすべての人間に与えられる一致を達成するための、 その神の力ある御手にある優れた手段である。」

c)司祭養成教令における聖書関連箇所

 キリスト教信仰にとっての聖書の重要性を確認してから、聖書研究が未来の奉仕者である司祭の養成においてどれほど大切なものか、 自ずと明らかになる。ここで「聖書の研究は、すべての神学の魂のようなものである」という。 これは啓示憲章第24項で言われていることであり、 これはまたレオ13世の回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』の中ですでに言われていることでもある。 司祭養成教令第16項はつぎのようになっている。

第16項[神学校における神学関連科目の授業]
661
 「信仰に光に照らされ、教会の教導職に導かれて 、神学関連科目の授業が行われ、 学生がカトリックの教えを神の啓示から正確に汲み取り、深く理解し、自分の霊的生活の糧とし 、 これを司祭としての任務において告げ知らせ、説明し、弁護できるようにしなければならない。
 聖書の研究は、すべての神学の魂のようなものであるはず だから、この研究による学生の養成は、 とくに精力的になされる必要がある。適切な入門を前もって与え、解釈の方法への導入を的確に行い、 学生が神の啓示の最も重要な主題を理解し、日々聖書を読んで瞑想することにより励ましと養いを得るようにしなければならない
 教義神学では、まずその聖書の主題が提示されるようにしなければならない。 東方と西方の教会教父たちが啓示のそれぞれの真理を忠実に伝承し、解明するために何を貢献したか、またさらなる教義の歴史を、 −その教会全体の歴史との関連も考慮してー、学生に紹介し 、 つぎに救いの諸々の秘義を総体として可能な限り明らかにするために、 聖トマスを師範として、思弁の働きにより、学生がこの諸々の秘義を深く理解し、 その間の関連を学ぶようにしなければならない。 またそれが常に典礼の行為の中、 および教会のすべての命の中に現存し、活動していることを認めるように、学生に教えなければならない。 また人間の諸問題の解決を啓示の光のもとに追求し、その永遠の真理を変化する人間の条件に合わせ、 それを同時代の人間に適切に伝えることを学ばなければならない
 同様に、ほかの神学関連科目も、キリストの秘義と救いの歴史とのいっそう生き生きとした接触により刷新する必要がある。 倫理神学を充実するために特別な配慮がなされ、その学問的解説は聖書の教えに大いに養われて、 キリストにおける信徒の召命が崇高であること、世界の命のために愛をもって実りをもたらす義務があることを明らかにしなければならない。 同様に教会法の説明においても、教会史の講義においても、本公会議によって公布された『教会』に関する教義憲章にしたがって、 教会の秘義への考慮がなされなければならない。典礼は、まず最初に取り上げるべきで 、真のキリスト教的精神の欠くべからざる源泉であるが、 これは聖なる典礼に関する憲章第15項と第16項の意向に沿って教えられなければならない 。」 第2ヴァティカン公会議が公表した文書は16を数える。 その中で憲章(constitutio)と言われる文書が4つある。 これは最も重要で基礎的なものである。それに教令(Decretum)と言われる文書が9ある。 これは憲章と関連がある幾つかの主題をさらに深く検討したものである。 それに宣言(Declaratio)と言われるものが3つある。これも重要な主題を扱うが、 第2ヴァティカン公会議の目標からみて宣言にとどめられた。

1: ピオ12世、回勅『フマ−ニ・ゲネリス』:Pius XII, Litt.Encycl.Humani generis, 121 aug.1950, AAS 42(1950), pp.567-569;EB 611;演説『シ・ディリギス』:Si diligis, 31 mai 1954, AAS 46(1954), p.314s;パウロ6世、教皇庁立グレゴリアン大学における演説:Paulus VI, Allocutio in Gregoriana Pontificia Studiorum Universitate habita, 12 mart.1964:AAS 56(1964), p.364s;第2ヴァティカン公会議、 『教会に関する教義的憲章ルーメン・ゲンツィウム』第25項:Const.Dogm.de Ecclesia Lumen Gentium, n.25:AAS 57(1965), pp.29-31参照。
2: 聖ボナヴェントゥーラ、『神への心の旅』、序:S.Bonaventura, Itinerarium mentis in Deum, Prol.n.4: 「塗油なしの読書、信心なしの推考、賛美なしの追求、歓喜なしの考察、信仰心なしの努力、愛なしの知、謙遜なしの理解、 神の恵みなしの研究、神の息 吹きを受けた英知なしの勧賞で十分だと、(だれも)考えないように」 (S.Bonaventura, Opera Omnia, V, Quaracchi, 1982, p.296)参照。
3: レオ13世、回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』:Leo XIII, Litt.Encycl. Providentissimus Deus, 18 nov.1893:ASS 26(1893-94), p.283;EB 114 参照。
4: 教皇庁聖書委員会、『正しく聖書を教えることに関する指針』: Commissio Pontificia De Re Biblica, Instructio de Sacra Scriptura recte docenda, 13 Maii 1950, AAS 42(1950), p.502 ; EB 601参照。
5: ピオ12世、回勅『フマ−ニ・ゲネリス』:Pius XII, Litt.Encycl. Humani generis, 12 aug.1950, AAS 42(1950), pp.568s;EB 611: 「・・・聖なる源泉の研究によって神学はたえず若返る。反対にわれわれが経験によって知っているところによると、 聖なる遺産の追求を疎かにする思索は徒労に終わるということである」参照。
6: ピオ12世、1939年6月24日の神学生への訓話:Pius XII, Sermo ad Alumnos seminariorum, 12 iunii 1939, AAS 31(1939), p.247;:「真理を求め、広めて・・・競い合うことは、 聖トマスの教えを勧めることによって禁止されずに奨励され、むしろ正しい方向に向かうようにされる」。 パウロ6世、教皇庁立グレゴリアン大学における演説:Paulus VI, Allocutio in Gregoriana Pontificia Studiorum Universitate habita, 12 mart.1964 : AAS 56(1964), p.365:「(教師は)・・・教会の博士、 なかでも主要な位置を占める聖トマス・アクィナスの声に耳を傾ける必要がある。 この天使的博士はその能力においても、真理への誠実な愛においても、深遠な数々の真理を追求し、 明らかにし、最も見事に体系化収集する英知においてもまことに大いに優れており、 その教えは信仰の基礎を安全なものと固めるだけでなく、健全な進歩の実りを有意義に、 また確実に確保するために最も有効な手段である。」また1965年9月10日の第6回国際聖トマス学会における演説も参照: Cf.etiam Allocutio coram VI Congressu Internationali Thomistico, 10 sept.1965:AAS 57(1965), pp.788-792。
7: 第2ヴァティカン公会議『聖なる典礼に関する憲章』、Sacrosanctum Concilium, 第7、第16項:AAS 56(1964),pp.100s参照。
8: パウロ6世、回勅『エクレジアム・スアム』:Paulus VI, Litt.Encycl.Ecclesiam Suam, 6 aug.1964,AAS 56(1964), p.640s
9: 第2ヴァティカン公会議『聖なる典礼に関する憲章』、Sacrosanctum Concilium、 第10、第14、第15、第16項:典礼聖省、指針:S.C.Rituum, Instructio Inter oecumenici ad exsecutionem Constitutionis de Sacra liturgia recte oridinandam, 26 sept.1964, nn.11 et 12 : AAS 56(1964), pp.879s参照。

d)諸宗教宣言における聖書関連箇所

 諸宗教宣言第4項のユダヤ教条項は、キリスト教とユダヤ教の関係をその後対話をとおして深める基礎になったものである。 キリスト教はそのルーツを追求すれば、ユダヤ教の基盤に行き着く。 唯一なる神も、その神への信仰に基づく十戒の倫理も、それに旧約聖書もユダヤ教からいただいたもの、 それにイエスもその母マリアもユダヤ教徒であった。その深い絆を自覚するということは、 聖書をいかに受けとめるかということにも影響する。その条項はつぎのようになっている。

第4項[ユダヤ教との宗教的関係]
662
 「この聖なる教会会議は、教会の秘義を吟味しながら、新約の民とアブラハムの子孫とを霊的に結ぶ絆に心を留める。
 事実、キリストの教会は、神の救いの秘義にしたがって、 自分の信仰と選びがすでに父祖たちとモーセと預言者たちの中に起源をもつことを認める。 教会はすべてのキリスト教徒が信仰によってアブラハムの子であり、 同じ父祖アブラハムが受けた召し出しの中に含まれていること、 奴隷であった地からの選ばれた民の脱出の中に教会の救いが神秘的に予め示されていることを公言する。 それゆえ教会は、神が名状し難い慈悲によって古い契約にお入りになったこの民をとおして、 旧約の啓示を受けたこと、異邦人である野生のオリーブの枝がよいオリーブの木につぎ木されて、 その根に養われていることを忘れることができない。教会は、わたしたちの平和であるキリストが、 十字架をとおしてユダヤ人と異邦人を和解させ、両者を自分のうちにひとつにしてくださったことを信じるからである。

663
 また教会は、使徒パウロが自分の同族について述べたことばを常に念頭におく。 「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです」(ロマ9:4−5)、 処女マリアの子であるキリストも。教会はその土台であり支柱である使徒たちも、 世界にキリストの福音を告げ知らせた多くの最初の弟子たちもユダヤ民族の出身であることを覚えている。

664
 聖書が証言するとおり、エルサレムは訪れの時を知らず、またユダヤ人は大部分が福音を受け入れず、 しかも福音の宣布に立ち向かった者も少なからずいた。にもかかわらず、 使徒パウロによれば、神にとってユダヤ人は、その父祖のゆえに今も最も愛すべきものであり、 その賜物と召し出しを悔やんではおられない。預言者たちと使徒パウロとともに教会は、 すべての民が声を合わせて主に祈り「肩を並べて主に仕える」(ゼファ3:9)日、この神だけが知っている日が来ることを待っている。

665
 キリスト教徒とユダヤ教徒が共有する霊的遺産はこれほど大きいものであるゆえ、 この聖なる教会会議は、特に聖書と神学の研究や兄弟的対話によって相互に理解しあい、尊重しあうようになることを喜び、勧めたい。

666
 キリストの死を迫ったのがユダヤ人権力者とその輩であったが、 キリストの受難にあたってなされたことの責任を、無差別に当時のすべてのユダヤ人にも、 また今日のユダヤ人にも負わせることはできない。教会は神の新しい民であるとはいえ、 ユダヤ人が神から見捨てられた者であるとか、呪われた者であるとか、 しかもこれがあたかも聖書から結論されるかのように紹介されることはあってはならない。 それゆえ、要理教育や神のことばの宣教にあって、 福音の真理とキリストの精神に合わないことは何も教えないように皆が心がけなければならない。

667
 さらに、だれに対するものでも、すべての迫害を非難する教会は、ユダヤ教徒との共通の遺産を心に留め、 政治的な理由からではなく、福音の宗教的愛にかりたてられ、ユダヤ教徒に対する憎しみ、 迫害、反ユダヤ主義の運動があれば、それがいつ、だれによってなされるものでも、これを嘆き悲しむ。

668
 他方、教会が常に主張してきたし、今も主張するとおり、キリストは限りない愛をもって、すべての人の罪のために、 苦難と死にすすんで服し、すべての人が救いを得るようにされた。 したがって、宣教する教会にはキリストの十字架を神の普遍的な愛のしるしとして、 またすべての恩恵の泉として告げ知らせる義務がある。」

もどる