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神の啓示に関する教義憲章
和田 幹男 訳


序言
第1章 啓示そのものについて
第2章 神の啓示の伝達について
第3章 聖書霊感と聖書解釈について
第4章 旧約聖書について
第5章 新約聖書について
第6章 教会の命における聖書
ここに掲載するのは、非公式の新試訳。啓示憲章第1章、第2章、第3章第11項の解説は、 拙著『私たちにとって聖書とは何なのか』−現代カトリック聖書霊感論序説−、 女子パウロ会、1986年を参照のこと。また、本HPの同憲章概説、同憲章第3章第12-13項解説、 第4章解説、第5章解説、第6章解説も参照。
教皇パウロ6世(1965年)
第2ヴァティカン公会議
神の啓示に関する教義憲章


序言

 第1項
 神の言葉を恭しく傾聴し、確信して公言するにあたり、 この聖なる教会会議はつぎの聖ヨハネの言葉につき従うものである。 「わたしたちはあなたたちに永遠の命を告げ知らせます。 この命は御父のもとにあって、わたしたちに現れたものです。 わたしたちが見て、聞いたものを、あなたたちに告げ知らせます。 それはあなたたちも、わたしたちとの交わりに加わっていただくためです。 わたしたちの交わりは御父とその御子イエス・キリストとの交わりです」 (1ヨハ1:2−3)。それゆえ、 トリエント公会議と第1ヴァティカン公会議の足跡に密着しながら意図するのは、 神の啓示とその伝達について紛れのない教えを提示することである。 それは全世界が救いの知らせを聞いて信じ、信じて希望し、希望して愛するようになるためである。 Cf. Augustinus, De catechizandis rudibus , 4,8 : PL 40,316:アウグスティヌス『教えの手ほどき』(熊谷賢二訳、創文社、1964年、35頁)参照。
Cf. Augustinus, De catechizandis rudibus , 4,8 : PL 40,316:アウグスティヌス『教えの手ほどき』(熊谷賢二訳、創文社、1964年、35頁)参照。


第1章 啓示そのものについて

第2項
 神は、その慈愛と英知をもってご自身を啓示し、 ご自分の意志の秘義(エフェ1:9参照)を明らかにすることを喜びとされた。 この秘義は、受肉した御言葉であるキリストをとおして聖霊において御父に人間を近づかせ、 神の本性に与らせるものである(エフェ2:18;2ペト1:4参照)。 それゆえ、この啓示によって見えない神(コロ1:15;1テモ1:17参照) がその愛のあふれから人間に友として(出33:11;ヨハ15:14−15参照)語りかけ、 会話を交わされるのであり(バル3:38参照)、こうして人間をご自分との交流に招き、受け容れようとされる。
 啓示のこの営みは、相互に内的に関連する仕草と言葉によってなされた。 このように救いの歴史の中で神によってなされた働きは、教えを、また言葉によって意味される事柄を示し、 確証する一方、言葉はその働きを告知し、その中に含まれる秘義を明らかにする。 この啓示によって、神について、また人間の救いについて深い真理がキリストにおいてわたしたちに輝く。 キリストは、すべての啓示の仲介者であると同時に、充満だからである。 マタ11,27;ヨハ1,14と17;14,6;17,1−3;2コリ3,16;14と4,6;エフェ1,3−14参照

第3項
 神は御言葉によって万物を創造し(ヨハ1:3参照)保存しながら、 その被造物の中にご自分についての恒久の証しを人間に提供しておられる(ロマ1:19−20参照)。 高い次元の救いの道を開こうと意図し、さらにそのうえ、人祖たちにその初めからご自分を示された。 彼らの堕落後は、贖いの約束をして救いを希望するように彼らを起こし(創3:15参照)、 ひとときも人類への配慮を怠らず、 こうして善い行いを忍耐して続けながら救いを求めるすべての人間に永遠の命を与えるようになさった(ロマ2:6−7参照)。
 そのときが来て、神はアブラハムを大きい民にしようとして呼び出された(創12:2−3参照)。 この民を族長たちのあとモーセと預言者たちをとおして教え導かれた。それはご自分が唯一の生ける真の神であり、 配慮する父であり、正義の審判者であることを承認させるため、 また約束された救い主を待望させるためであり、こうして幾世紀も福音の道を準備なさった。

第4項
 しかし、預言者たちをとおして幾度もいろいろな方法で語った後、 神は「最後にその日が来て御子によってわたしたちに語られた」(ヘブ1:1−2)。 神は人間の中に住んで神の内奥を語り告げるためにご自分の御子を、 すなわち万民を照らす永遠の御言葉を遣わされた(ヨハ1:1−18参照)。 それゆえ肉となった御言葉、《人々に遣われた人》 Epist.ad Diognetum ,7,4 : Funk,Patres Apostolici , I , p.403:『使徒教父文書』、「ディオグネートスへの手紙」(佐竹明訳、184頁)。 であるキリストは、 「神の言葉を語り」(ヨハ3:34)、 御父がご自分に為すべく委ねた救いの事業をなし遂げられる(ヨハ5:36、17:4参照)。 それゆえ、キリストを見る者は御父をも見る(ヨハ14:9参照)ことになる。 このキリストこそ、ご自分の全現存と現れ、言葉と活動、しるしと奇跡、 特にその死と死者よりの栄えある復活、最後に真理の霊の派遣によって、 啓示をあますところなく完成し、神の証しによって確証なさる。つまり、 わたしたちを罪と死の闇から解放し、永遠の生命に再起させるために神がわたしたちと共にいるということを。
 それゆえ、このキリストの営みは、新しくて決定的な契約として、 けっして過ぎ去るものではなく、わたしたちの主イエス・キリストの栄えある再臨 (1テモ6;14;テト2:13参照)の前には、新しい公的啓示はもはや期待してはならない。

第5項
 啓示する神に人間が差し出さなければならないのは、 「信仰の従順」(ロマ16:26参照、またロマ1:5;2コリ10:5−6も)である。 《啓示する神に知性と意志のまったき服従》を差し出し、 Conc.Vat.I,Const.dogm.de fide catholica, Dei Filius,cap.3 :第1ヴァティカン公会議、カトリック信仰に関す教義憲章『デイ・フィリウス』、第3章:Denz 1789(3008) 神によって与えられた啓示に自発的に同意しながら、 人間が自己のすべてを神に自由に委ねるという信仰の従順である。 この信仰が示されるためには、神の恩恵があらかじめ働きかけて助け、 聖霊の内なる助力が心を動かして神に向け、知性の眼を開き、 《真理に同意してこれを信じることの甘美さをそのすべての人に》 Conc.Araus.II,can.7 :第2オランジュ司教会議、規定第7条:Denz 180(377):Conc.Vat.I,l.c.:第1ヴァティカン公会議、前掲箇所:Denz 1791(3010) 味わわせる必要がある。また啓示の理解がますます深くなるように、 同じ聖霊はご自分のたまものによって信仰を絶えず完全なものになるようになさる。

第6項
 この神の啓示によって神はご自身と、人間の救いについてその意志で永遠にお定めになったことを示し、 伝えることを望まれた。それは、《人間理性の理解をまったく超える、神の恵みを分かち与えるためである》。 Conc.Vat.I,Const.dogm.de fide catholica, Dei Filius,cap.2:第1ヴァティカン公会議、   カトリック信仰に関する教義憲章『デイ・フィリウス』、第2章:Denz 1786(3005)
 この聖なる教会会議は、《万物の起源であり、終結である神は、 人間理性がその自然の光で被造物によって確かに認識することができる》 Ibid:同書:Denz 1785 et 1786(3004 et 3005) (ロマ1:20参照)と宣言する。しかし、 《神のことがらの中で人間の知性にとって本来わからないものではないものも、 人類が置かれている現状では、万人によって、容易に、揺らぐことのない確実性をもって、 なんの誤りの混在もなく認識することができる》のは、その神の啓示によることを教えるものである。
マタ11,27;ヨハ1,14と17;14,6;17,1−3;2コリ3,16;14と4,6;エフェ1,3−14参照
Epist.ad Diognetum ,7,4 : Funk,Patres Apostolici , I , p.403:『使徒教父文書』、「ディオグネートスへの手紙」(佐竹明訳、184頁)。
Conc.Vat.I,Const.dogm.de fide catholica, Dei Filius,cap.3 :第1ヴァティカン公会議、カトリック信仰に関す教義憲章『デイ・フィリウス』、第3章:Denz 1789(3008)
Conc.Araus.II,can.7 :第2オランジュ司教会議、規定第7条:Denz 180(377):Conc.Vat.I,l.c.:第1ヴァティカン公会議、前掲箇所:Denz 1791(3010)
Conc.Vat.I,Const.dogm.de fide catholica, Dei Filius,cap.2:第1ヴァティカン公会議、 カトリック信仰に関する教義憲章『デイ・フィリウス』、第2章:Denz 1786(3005)
Ibid:同書:Denz 1785 et 1786(3004 et 3005)


第2章 神の啓示の伝達について
第7項
 神は、あらゆる民族の救いのために啓示なさったことが、 時代を越えて、あますところなくとどまり、どの世代にも伝達されるように、 いとも優しく配慮なさった。そのため至高なる神のすべての啓示の完成者であるキリスト (2コリ1:20、3:16−4:6)は、前もって預言者たちをとおして約束されていた福音を自ら成就し、 自らの口で公布して、神の賜物を授けながら、この福音を救いのすべての真理と実践上の規律の源泉として万人に宣べ伝えるように 、 マタ28,19−20;マコ16,15.Conc.Trid.,Decr . De canonicis Scripturis:トリエント公会議、『正典聖書についての教令』:Denz. 783(1501) 使徒たちに使命を託された。この使命は、キリストが言われた言葉や会話や活動から受け取ったこと、 あるいは示唆する聖霊から学んだことを言葉による宣教や生活の模範や諸制度をもって伝えた使徒たちによって、 また同じ聖霊の霊感のもとで救いの知らせを書にしたためた  Cf.Conc.Trid.,l,c.:トリエント公会議、同書:Conc.Vat.I,Const.dogm.de fide catholica,Dei Filius, cap.2 :第1ヴァティカン公会議、カトリック信仰に関する教義憲章『デイ・フィリウス』、第2章:Denz 1787(3006) 彼ら使徒たちと使徒的人物によって、忠実に果たされた。
 福音が教会の中にあますところなく、生きたものとして、いつまでも保たれるために、 使徒たちは後継者として司教たちを残し、『自分が就いている教導職の役割を託した』。 Iraeneus , Adv. Haer., III, 3, 1:エイレナイオス『異端反駁』3の3の1、小林稔訳、キリスト教教父著作集3/1、『エイレナイオス3』、教文館、1999年、9頁:PG 7,848 ; Harvey , 2, c. 9 それゆえ、この聖なる伝承と旧新両約聖書は、教会が顔と顔をあわせてあるがままの神に相まみえるに至るまで (1ヨハネ3:2)、地上を旅しながら、すべての恵みを与えてくれる神を眺めるための鏡のようなものである。

第8項
 それゆえ、使徒たちの宣教は、霊感の書の中で特別な様相のもとで表現され、 絶えることのない継承によって世の終わりまで保存されなければならないものであった。 したがって使徒たちは、自らも受け継いだものを伝えながら、 信徒たちに説教や手紙で学んだ伝承(2テサ2:15参照)を堅持し、 ひとたび託された信仰のためには戦うように(ユダ3参照)、 Cf.Conc.Nic.II:第2ニカイヤ公会議:Denz 303(602):Conc.Constant IV Sess.X,can.1:第4コンスタンティノポリス公会議、第10総会:Denz 336(650-652) 戒めている。 使徒たちが伝えたのは、神の民が聖なる生活を営み、信仰を増すために必要なすべてのものを含み、 このように教会は、その教えと生活と礼拝活動においていつまでも存続し、 教会が教会であるためのすべてを、教会が信じるすべてをあらゆる時代の人々に伝達している。
 使徒たちに起源をもつこの伝承は、聖霊に介護されて教会の中で発展する。 Cf.Conc.Vat. I, Const. dogm.de fide catholica, Dei Filius, cap.4 :第1ヴァティカン公会議、カトリック信仰に関する教義憲章『デイ・フィリウス』、第4章:Denz 1800(3020) 受け継がれる事物と言葉の把握は、心に留めて思いめぐらす(ルカ2:19、51参照) 信仰者たちの瞑想と探求によって、また体験される霊的な事柄を深く理解することによって、 また司教職の継承とともに真理の確かなカリスマを受けた人たちの宣教によって増大するからである。 すなわち、教会はこの流転する時代の中で、神の真理の充満に向かって、神の言葉が自己の中に完成するまで、前進してやまないのである。

第9項
 それゆえ、聖なる伝承と聖書は相互に密接に結びつき、共有しあっている。 なぜなら、両者は、同じ神的起源から発し、ある意味でひとつになり、 同一の目標に向かうからである。つまり、聖書は霊の息吹によって書にされたものとして神の発言であり、 他方聖なる伝承は主キリストと聖霊から使徒たちに託された神の言葉をその後継者たちにあますところなく伝達するもので、 これはこの人たちが真理の霊の照らしを受け、宣教においてその言葉を忠実に保ち、 説明し、広めるためのものである。こういうわけで教会が、 啓示された事柄すべてについて確信を汲みとるのは、聖書のみによるのではない。 そのため両者とも、ひとしく敬虔と尊敬の念をもって受容され、尊重されなければならない。 Cf.Conc.Trid.,Decr.De canonicis Scripturis :トリエント公会議、『正典聖書についての教令』:Denz. 783(1501)参照。

第10項
 聖伝と聖書は、神の言葉のひとつの聖なる遺産を形成し、教会に託されている。 この遺産に密に結びにつくことにより、その司牧者たちのもとに集まった聖なる民全体は、 使徒たちの教え、交わり、パンを裂くことと祈りの中に絶えずとどまり(使2:42ギリシア語本文参照)、 こうして教会の指導者と信徒の間に見事な心の一致が実現し、受け継がれてきた信仰を保ち、実践し、公言する。 Cf.Pius XII,Const.Apost. Munificentissimus Deus,1 nov.1950:ピオ12世、教皇令『ムニフィケンティッシムス・デウス』、1950年11月1日発令: AAS 42(1950), 756 、collatis verbis Cypriani,Epist.66,8 : CSEL 3,2,733 :Ecclesia plebs Sacerdoti adunata et pastori suo grex adhaerens :キプリアヌス、『手紙』66,8の言葉、「教会は一人の司祭に結ばれた民、その牧者につき従う群」と共に参照。
 書にされたものにしても伝承されたものにしても、神の言葉を権威をもって正しく解釈する任務は、 Cf.Conc.Vat. I, Const. dogm. de fide catholica, Dei Filius, cap.3 :第1ヴァティカン公会議、カトリック信仰に関する教義憲章『デイ・フィリウス』、第3章:Denz 1792(3011) ただ教会の生きた教導職に委ねられており、 Cf.Pius XII , Litt.Encycl. Humani Generis,12 aug.1950:ピオ12世、回勅『フマーニ・ゲネリス』、1950年8月12日発布:AAS 42(1950) 568-569 : Denz 2314 その権威はイエス・キリストの名において行使される。 とはいえ、この教導職は神の言葉の上にあるのではなく、これに奉仕するものであり、 伝承されたもの以外に何も教えるものではない。教導職は、神の命令と聖霊の助けによって、 神の言葉を敬虔に聞き、これを聖なるものとして保ち、忠実に説明し、 また神から啓示されたものとして信ずべきだと提示することはすべて、 そのひとつの信仰の遺産から汲みとるからである。
 したがって、聖伝と聖書と教会の教導職が、神のきわめて賢明な計画によって、 密接な相関関係にあり、その中のいずれも他のものなしには成り立たず、三つとも同時に、 ひとつの聖なる霊の活動のもとに各々独自の仕方で、霊魂の救いのために効果的に貢献していることは明らかである。
マタ28,19−20;マコ16,15.Conc.Trid.,Decr . De canonicis Scripturis:トリエント公会議、『正典聖書についての教令』:Denz. 783(1501)
Cf.Conc.Trid.,l,c.:トリエント公会議、同書:Conc.Vat.I,Const.dogm.de fide catholica,Dei Filius, cap.2 :第1ヴァティカン公会議、カトリック信仰に関する教義憲章『デイ・フィリウス』、第2章:Denz 1787(3006)
Iraeneus , Adv. Haer., III, 3, 1:エイレナイオス『異端反駁』3の3の1、小林稔訳、キリスト教教父著作集3/1、『エイレナイオス3』、教文館、1999年、9頁:PG 7,848 ; Harvey , 2, c. 9
Cf.Conc.Nic.II:第2ニカイヤ公会議:Denz 303(602):Conc.Constant IV Sess.X,can.1:第4コンスタンティノポリス公会議、第10総会:Denz 336(650-652)
Cf.Conc.Vat. I, Const. dogm.de fide catholica, Dei Filius, cap.4 :第1ヴァティカン公会議、カトリック信仰に関する教義憲章『デイ・フィリウス』、第4章:Denz 1800(3020)
Cf.Conc.Trid.,Decr.De canonicis Scripturis :トリエント公会議、『正典聖書についての教令』:Denz. 783(1501)参照。
Cf.Pius XII,Const.Apost. Munificentissimus Deus,1 nov.1950:ピオ12世、教皇令『ムニフィケンティッシムス・デウス』、1950年11月1日発令: AAS 42(1950), 756 、collatis verbis Cypriani,Epist.66,8 : CSEL 3,2,733 : "Ecclesia plebs Sacerdoti adunata et pastori suo grex adhaerens ″:キプリアヌス、『手紙』66,8の言葉、「教会は一人の司祭に結ばれた民、その牧者につき従う群」と共に参照。
Cf.Conc.Vat. I, Const. dogm. de fide catholica, Dei Filius, cap.3 :第1ヴァティカン公会議、カトリック信仰に関する教義憲章『デイ・フィリウス』、第3章:Denz 1792(3011)
Cf.Pius XII , Litt.Encycl. Humani Generis,12 aug.1950:ピオ12世、回勅『フマーニ・ゲネリス』、1950年8月12日発布:AAS 42(1950) 568-569 : Denz 2314


第3章 聖書霊感と聖書解釈について
第11項
 神から啓示されて、聖書の中に文字によって含まれ、かつ示されていることは、 聖霊の息吹きによって書かれたものである。聖にして母なる教会は、 旧約および新約の全書をそのすべての部分を含めて、使徒的信仰に基づき、聖なる書であり、 正典書であるとしている。それは、これらの書が聖霊の霊感によって書かれ (ヨハ20:31;2テモ3:16;2ペト1:19−20;3:15−16参照)、 神を著者としてもち、そのようなものとして教会に委ねられている Cf.Conc.Vat. I, Const. dogm. de fide catholica, Dei Filius, cap.2 :第1ヴァティカン公会議、カトリック信仰に関する教義憲章『デイ・フィリウス』、第2章: Denz 1787(3006):.Pont  comm . bibl .Decr 18 jun.1915 :教皇庁聖書委員会、1915年6月18日発令の教令: Denz 2180(3629) : EB 420 . S.s.c.s.officii, Epist. 22 dec.1923:検邪聖省、1923年12月22日付け書簡:EB 499 からである。 神は聖書の作成にあたって、固有の能力と素質を用いる人間を選んで、これを使用した。 Cf.Pius XII,Litt.encycl.Divino afflante,30 sept.1943:ピオ12世、回勅『ディヴィノ・アフランテ』、1943年9月30日発令:AAS 35(1943) p.314 ; EB 556 それは、神が彼らの中に、また彼らをとおして働き、 Cf.Pius XII,Litt.encycl.Divino afflante,30 sept.1943:ピオ12世、回勅『ディヴィノ・アフランテ』、1943年9月30日発令:AAS 35(1943) p.314 ; EB 556 彼らは神が望むことをすべて、 またそのことだけを、真の著者として書にして伝えるため In et per hominem、「人間の中に」と「人間をとおして」 : ヘブの1,1と4,7( in 、「の中に」):2サム23,2;マタ1,22としばしば( per 「をとおして」); Conc.Vat.I.Schema de Doctrina catholica,nt.9 :第1ヴァティカン公会議『カトリックの教理に関する草案』、註2: Coll.Lac.VII,5224  Leo XIII,Litt.encycl . Providentissimus Deus,18 nov.1893:レオ13世、回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』、1893年11月18日発令:Denz 1952(3293); EB 125
である。
 それゆえ、霊感を受けた著者、すなわち聖書記者が主張していることはすべて、 聖霊によって主張されているとされなければならない。したがって聖書は、 神がわたしたちの救いのために聖なる書に書きとめられることを望んだ真理を 確固として誤りなく教えるものと言わなければならない。 Cf.Augustinus,De Gen.ad litt.2,9,20:PL 34,270-271;CSEL 28,1,46-47:アウグスティヌス『創世記逐語注解』片柳栄一訳、アウグスティヌス著作集16、創世記注解(1)、教文館、1994年、53−54頁)et Epist.82,3::『書簡』82,3:PL 33,277;CSEL 34,2 p.354 −Thomas,De Ver.q.12 a.2,C:トマス・アクィナス『真理論』 第12問第2項C:Conc.Trid.,Decr.De canonicis Scripturis:トリエント公会議、『正典聖書についての教令』:Denz.783(1501):Leo XIII,Litt.encycl. Providentissimus Deus:レオ13世、回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』、1893年11月18日 発令:EB 121,124,126-127;Pius XII,Litt.Encycl.Divino afflante:ピオ12世、回勅『ディヴィノ・アフランテ』、1943年9月30日発令 :EB 539 参照:。 そのため「聖書はすべて神の霊感によるもので、人を教え、戒め、誤りを正し、 正しさに導く教育をするために有効です。神の人があらゆる善良な業を果たすために教えられ、 完全な者となるためです」(2テモテ3:16−17)。

第12項
 聖書の中で神は人間をとおして人間の流儀で語られたので、 Cf. Augustinus , De Civ.Dei, XVII 6,2:PL 41,537;CSEL 40,2,228:アウグスティヌ『神の国』XVII、6,2、大島春子、岡野昌雄訳、アウグスティヌス著作集14、教文館、1980年、222−223頁参照。 聖書を解釈する者は、神がわたしたちに伝えようとお望みになったことを把握するためには、 聖書記者たちがまさに何を意味しようと意図し、 その彼らの言葉をもって神が何を明らかにすることを喜びとされたかを注意深く研究しなければならない。 聖書記者たちの意図を汲み取るために、とりわけ》文学様式《も考慮しなければならない。 なぜなら、さまざまな性格の歴史書、あるいは預言書ないし詩文学、あるいはそのほかの文学様式において、 真理はそれぞれ異なる仕方で提示され、表現されているからである。 したがって、聖書を解釈する者は、聖書記者たちが一定の状況の中でその彼らの時代と文化の条件のもとで、 当時用いられていた文学様式で表現しようと意図して表現した意味を探求する必要がある。  Cf.Augustinus,De Doctr.Christ.III 18,26:PL 34 ,75-76;CSEL 80,95:アウグスティヌス『キリスト教の教え』III、18,26、加藤武訳、アウグスティヌス著作集6、教文館、1988年、174−175頁参照。 聖なる著者たちが書いて主張しようとしたことを正しく理解するためには、聖書記者の時代にはあって、 その彼らにとって自然で通常であった思考法、表現法、物語法にも、 また当時人々の交流の中で広く慣用となっていたそれらの方法にも、ふさわしい注意を払わなければならないからである。  Cf.Pius XII , l.c :ピオ12世、前掲箇所:Denz 2294(3829-3830);EB 557-562
 しかし、聖書は同じ一つの霊において書かれたものであり、 その同じ一つの霊においても読まれ、解釈されなければならないから、 ベネディクト15世、回勅『スピリトゥス・パラクリトゥス』、1920年9月15日発布:EB 557-562 − Hieronymus,In Gal.5,19-21:ヒエロニムス、『ガラテア書注解』: PL 26,417A参照。 その聖なる本文の意味を正しく把握するために、すべての教会の生きた伝承と信仰の類比を考慮にいれて、 聖書全体の内容と統一性にも、等しく勤勉に配慮する必要がある。聖書釈義家の任務は、 この諸規則に沿って聖書の意味を深く理解し、提示するために働くことにあり、 それはあたかも研究が準備されて、教会の判断が成熟するためである。 聖書を解釈することに関するこのすべては、最終的には教会の判断に委ねられる。 教会が神の言葉を保ち、解釈する神の委託を受け、使命を果たすからである。 Cf.Conc.Vat.I,Const.dogm.de fide catholica,Dei Filius,cap.2:第1ヴァティカン公会議、カトリック信仰に関する教義憲章『デイ・フィリウス』、第2章:Denz 1788(3007)参照。

第13項
 それゆえ、聖書の中には神の真理と聖性にひとときも抵触することなく、 その永遠の知恵の驚くべき「へり下り」が現れており、 そのため「わたしたちは言語を絶する神の優しさと、 神がわたしたちの本性を気遣い配慮して、どれほど言葉を合わせてくださっているかを学ぶことができる」。 Ioannes Chrysostomus,In Gen.3,8 (hom.17,1):ヨアンネス・クリュソストムス『創世記注解』3,8(説教17,1):PG 53,134. Attemperatio grece  synkatabasis かつて永遠なる御父の御言葉が弱い人間性を受け取り、人間と同じようなものになられたように、 神の言葉が人間の言語で表現され、人間の言葉と同じようなものにされているからである。
Cf.Conc.Vat. I, Const. dogm. de fide catholica, Dei Filius, cap.2 :第1ヴァティカン公会議、 カトリック信仰に関する教義憲章『デイ・フィリウス』、第2章: Denz 1787(3006):.Pont comm . bibl .Decr 18 jun.1915 : 教皇庁聖書委員会、1915年6月18 日発令の教令: Denz 2180(3629) : EB 420 . S.s.c.s.officii, Epist. 22 dec.1923:検邪聖省、 1923年12月22日付け書簡:EB 499
Cf.Pius XII,Litt.encycl.Divino afflante,30 sept.1943:ピオ12世、回勅『ディヴィノ・アフランテ』、 1943年9月30日発令:AAS 35(1943) p.314 ; EB 556
Cf.Pius XII,Litt.encycl.Divino afflante,30 sept.1943:ピオ12世、回勅『ディヴィノ・アフランテ』、 1943年9月30日発令:AAS 35(1943) p.314 ; EB 556
In et per hominem、「人間の中に」と「人間をとおして」 : ヘブの1,1と4,7( in 、「の中に」): 2サム23,2;マタ1,22としばしば( per 「をとおして」) ; Conc.Vat.I.Schema de Doctrina catholica,nt.9 :第1ヴァティカン公会議『カトリックの教理に関する草案』、 註2: Coll.Lac.VII,5224 Leo XIII,Litt.encycl . Providentissimus Deus,18 nov.1893 : レオ13世、回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』、1893年11月18日発令:Denz 1952(3293) ; EB 125
Cf.Augustinus,De Gen.ad litt.2,9,20 : PL 34,270-271 ; CSEL 28,1,46-47:アウグスティヌス『創世記逐語注解』片柳栄一訳、 アウグスティヌス著作集16、創世記注解(1)、 教文館、1994年、53−54頁)et Epist.82,3: :『書簡』82,3: PL 33,277 ; CSEL 34, 2 p. 354 −Thomas,De Ver.q.12 a.2,C:トマス・アクィナス 『真理論』 第12問第2項C:Conc.Trid.,Decr.De canonicis Scripturis : トリエント公会議、『正典聖書についての教令』:Denz.783(1501):Leo XIII,Litt.encycl. Providentissimus Deus : レオ13世、回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』、 1893年11月18日 発令:EB 121,124,126-127;Pius XII,Litt.Encycl.Divino afflante : ピオ12世、回勅『ディヴィノ・アフランテ』、1943年9月30日発令 :EB 539 参照:。
Cf. Augustinus , De Civ.Dei, XVII 6,2 : PL 41,537;CSEL 40 ,2, 228:アウグスティヌ『神の国』XVII、6,2、 大島春子、岡野昌雄訳、アウグスティヌス著作集14、教文館、1980年、222−223頁参照。
Cf.Augustinus , De Doctr. Christ. III 18,26 : PL 34 , 75-76 ; CSEL 80 , 95: アウグスティヌス『キリスト教の教え』III、18,26、加藤武訳、アウグスティヌス著作集6、教文館、 1988年、174−175頁参照。
Cf.Pius XII , l.c :ピオ12世、前掲箇所:Denz 2294(3829-3830) ; EB 557-562
Cf.Benedictus XV, Litt.encycl.Spiritus Paraclitus,15 sept.1920 : ベネディクト15世、回勅『スピリトゥス・パラクリトゥス』、 1920年9月15日発布:EB 557-562 − Hieronymus,In Gal.5,19-21:ヒエロニムス、『ガラテア書注解』: PL 26,417A参照。
10 Cf.Conc.Vat. I, Const. dogm. de fide catholica,Dei Filius, cap.2:第1ヴァティカン公会議、 カトリック信仰に関する教義憲章『デイ・フィリウス』、第2章:Denz 1788(3007)参照。
11 Ioannes Chrysostomus,In Gen.3,8 (hom.17,1):ヨアンネス・クリュソストムス『創世記注解』3, 8(説教17,1): PG 53,134 . "Attemperatio" grece synkatabasis


第4章 旧約聖書について
第14項
 限りなく愛してくださる神は、全人類の救いを心にかけながら意図して準備し、 特別な計画をもってひとつの民を自分のものとして選び、これに約束を託された。 まずアブラハムと契約を結び(創15:18参照)、 つぎにモーセをとおしてイスラエルの民と契約を結び(出24:8参照)、 その自分のものとして獲得なさった民に、自分を唯一の真にして生ける神として、 言葉と仕草をもって啓示されたからである。こうして、いかに神が人間と関わるのか、 その道をイスラエルが経験し、預言者たちをとおして神ご自身語ることによって、 その道を日々ますます深く、ますます明らかに理解するように、 また広く諸国民に示すようになさった(詩21:28−29;95:1−3;イザ2:1−4;エレ3:17参照)。 聖なる著者たちによって予め告げられ、語られ、 説明されたこの救いの経綸は、神の真の言葉として、旧約の文書群の中にある。 それゆえ、神の霊感をうけたその文書群は、永遠の価値を保つ。 「書かれたものは、どれもわたしたちを教えるためであり、 それはわたしたちが忍耐と聖書の慰めによって希望をもつためである」(ロマ15:4)。

第15項
 旧約の経綸が特に主眼としているのは、 万民の贖い主であるキリストとそのメシアとしての支配の到来を準備すること、 預言としてそれを告げること(ルカ24:44;ヨハ5:39;1ペト1:10参照)、 さまざまな予型をもって(1コリ10:11参照)それを表すことである。旧約聖書の文書群は、 キリストが創設した救いの時代以前に人類が置かれていた状態にしたがい、 神とは、人間とは何なのかの認識について、いかに神が人間に働きかけるのかについて、 すべての人に明らかにしている。この文書群は、たとえ不完全で時代の制約を受けたものを含んでいても、 まさに神の教育を証言している。 Cf.Pius XI,Litt.encycl.Mit brennennder Sorge 14 martii 1937:ピオ11世、回勅『ミト・ブレンネンダー・ゾルゲ』、1937年3月14日:AAS 29(1937),p.151 したがって、神の生き生きとした感覚を表現し、 神についての崇高な教えと人間の生について救いとなる知恵、祈りのすばらしい宝を含み、 わたしたちの救いの秘義までも秘めるこの文書群を、キリスト教徒は敬虔に受けとめなければならない。

第16項
 したがって、旧新両約聖書の文書群に霊感を与えた著者である神はその知恵をもって、 新約が旧約に秘められ、新約で旧約が明らかになるように Cf.Augustinus,Quest.in Hept.2,73:アウグスティヌス『ヘプタメロン問題』:PL 34,623参照。 された。 なぜなら、たとえキリストがその血をもって新しい契約をお立てになったのが事実でも (ルカ22:20;1コリ11:25参照)、旧約聖書の文書群はひとつ残らず、 福音宣教の中に取り入れられ、 Cf.Iraeneus,Adv.Haer.,III,21,3:エイレナイオス『異端反駁』3の21の3:: PG 7,950;(=25,1:Harvey,2,p.115):Cyrillus Hieros.,Catech.,4,35:エルサレムのキュリロス『要理教授』:PG 33,497.Theodorus Mops.,In Soph,1,4-6:モプスエティアのテオドルス『ゼファニア書注解』:PG 66,452D-453A 新約聖書の中でその完全な意味を獲得して提示する一方 (マタ5:17;ルカ24:27;ロマ16:25−26;2コリ3:14−16参照)、 これはこれでそれを照らし、説明している。
Cf.Pius XI,Litt.encycl.Mit brennennder Sorge 14 martii 1937:ピオ11世、回勅『ミト・ブレンネンダー・ゾルゲ』、1937年3月14日:AAS 29(1937), p.151
Cf.Augustinus, Quest.in Hept. 2,73:アウグスティヌス『ヘプタメロン問題』:PL 34,623参照。
Cf.Iraeneus , Adv. Haer., III, 21, 3 :エイレナイオス『異端反駁』3の21の3:: PG 7,950 ; (=25,1:Harvey, 2, p.115):Cyrillus Hieros.,Catech.,4,35 :エルサレムのキュリロス『要理教授』: PG 33,497 . Theodorus Mops.,In Soph,1,4-6:モプスエティアのテオドルス『ゼファニア書注解』:PG 66,452D-453A


第5章 新約聖書について
第17項
 信じる者すべてにとって救いのための力である(ロマ1:16参照)神の言葉は、 新約聖書の文書群の中に別格のありようで示され、その力を広く及ぼしている。 時が満ちて(ガラ4:4参照)、御言葉は肉となり、恩恵と真理に満ちて(ヨハ1:14参照)、 わたしたちの中にお住まいになったからである。キリストは活動と言葉をもってこの地上に神の国を創設し、 ご自分の父とご自身を現し、その死と復活、栄光ある昇天および聖霊の派遣をもってご自分の事業をなし遂げられた。 地上から上げられて、すべての人をご自分に引き寄せられた(ヨハ12:32)が、 このかたこそ永遠の言葉をもつ唯一のおかた(ヨハ6:68参照)である。 この秘義は、聖霊においてそのおかたの聖なる使徒たちや預言者たちに今や啓示された (エフェ3:4−6参照)のと同じようには、ほかの世代には明らかにされなかった。 これは福音を宣教し、キリストであり主であるイエスへの信仰を起こし、教会を呼び集めるためであった。 そのために新約聖書の文書群は、永遠で神的な証しとしてありつづける。

第18項
 新約聖書の中でも福音書が、受肉した御言葉、 わたしたちの救い主の生涯と教えについての主たる証しとして、まさしく他を抜きん出て重要であることは、だれもが認める。
 四福音書が使徒的起源をもつことを、教会はいつでも、どこでも考えてきたし、 現在も考えている。使徒たちがキリストの委託により宣べ伝え、 あとで彼らおよび使徒的人物たちが神の霊の息吹を受けて文書にして伝承したことは、 信仰の基礎であり、それはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書である。 Cf.S.Iraeneus , Adv. Haer., III, 11, 8:エイレナイオス『異端反駁』3の2の8: PG 7,885 ; ed . Saganard,p.194

第19項
 聖にして母なる教会は、上に述べた四福音書には歴史性があると何のためらいもなく肯定し、 神の子イエスが人々の中で生活しながら天に上げられる日まで(使1:1−2参照)、 人々の永遠の救いのために実際に行動し、お教えになったことが、 その四福音書に忠実に伝えられていると、絶えず堅く考えてきたし、現在も考える。 使徒たちは主の昇天後、そのイエス御自身の言葉と行動を、いっそう充実した理解をもって聴衆に伝えたが、 その理解はキリストの栄光ある数々の出来事に教えられ、 また真理の霊の光 ヨハ14,26;16,13参照
に導かれて恵まれたものだった。 ヨハ2,22;12,16参照、同14,26;16,12−13;7,39と比較せよ。 聖なる著者たちが四福音書を書いたが、 それは口頭ないし書面で伝承された多くのものの中から幾つかを選び、幾つかは要約し、 幾つかは諸教会の実情にあわせて説明しながら、 Cf.instructio Sancta Mater Ecclesia a pontificio consilio studiis bibliorum provehendis edita,AAS 56(1964) 715:教皇庁聖書委員会『福音書の歴史的真理性に関する指針』2参照。 結局宣教の方式を保ちながらも、 常にイエスについて真にして真心からのことをわたしたちに知らせようとして書いたのだった。 彼らの著作意図は、彼ら自身の記憶と回想によるものであれ、 「始めから目撃し、言葉の奉仕者であった」人々の証言によるものであれ、 それによって「わたしたちが教えられた言葉の《真理》を知るようにされる」(ルカ1:2−4参照)ことにあったからである。

第20項
 新約聖書の正典は、四福音書のほかに、聖霊の息吹を受けて記述された聖パウロの手紙とほかの使徒的著作も含む。 これをもって神の英知の計画により、主キリストについての事柄が確証され、 その純粋な教えがますます明らかにされ、救いをもたらすキリストの神の御業の力が宣せられ、 教会の始めとその驚くべき広がりが語られ、その栄光ある完成が予告される。
主イエスは約束なさったとおり、ご自分の使徒たちと共におられ(マタ28:20参照)、 真理の充満に至るよう導く聖霊(ヨハ16:13参照)を彼らに送ってくださったからである。
Cf.S.Iraeneus , Adv. Haer., III, 11, 8:エイレナイオス『異端反駁』3の2の8: PG 7,885 ; ed . Saganard,p.194
ヨハ14,26;16,13参照
ヨハ2,22;12,16参照、同14,26;16,12−13;7,39と比較せよ。
Cf.instructio Sancta Mater Ecclesia a pontificio consilio studiis bibliorum provehendis edita,AAS 56(1964) 715:教皇庁聖書委員会『福音書の歴史的真理性に関する指針』2参照。


第6章 教会の命における聖書
第21項
 教会は、主の御体そのものと同じように聖書を常に尊重してきたが、 こうして何よりもまず聖なる典礼において、神の言葉とキリストの御体の食卓から生命のパンを絶えず受け取り、 信徒たちに差し出してきた。教会は、その聖書を聖なる伝承とともに自らの信仰の最高の基準として常に掲げてきたし、 また掲げる。それは神の霊感を受けて一回かぎりいつの時代のためにも文字にされたその聖書が、 神御自身の言葉を不変のまま与えており、預言者たちと使徒たちの言葉をもって聖霊の声を響かせているからである。 それゆえ教会のすべての宣教活動は、キリスト教宗教そのものと同じように聖書によって養われ、 統べ治められなければならない。聖書の中で天にいます父なる神が、 深い愛情をもってご自分の子らと出会いに来られ、言葉をかけられるからである。 実際に神の言葉には大きな能力と効力があって、教会には支えと威力となり、 教会の子らには信仰の力となり、その魂の糧、霊的生活の純粋でいつまでも水涸れしない泉となっている。 それゆえ、聖書にはつぎの聖句が見事にあてはまる。「神の言葉は生きていて、力があり」(ヘブ4:12)、 「力があって、造りあげ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせる」(使20:32;1テサ2:13参照)。

第22項
 聖書に近づく門戸は、キリスト教徒に広く開かれていなければならない。 それゆえ、教会はその始めから70人訳と言われるあの最古のギリシア語旧約聖書を自分のものとして受け容れてきた。 ほかの古代オリエントの諸言語およびラテン語への翻訳聖書、特にウルガタ訳と呼ばれる聖書も常に尊重してきた。 神の言葉はいつの時代にもなければならないものであるから、教会は母の心遣いをもって、 いろいろな言語に、特に聖書の原文の本文に基づいて、適切で正確な翻訳がなされるように配慮するものである。 その翻訳が、機会に恵まれ、教会の権威筋の同意のもと、分かれた兄弟たちとの共同作業でなされるなら、 すべてのキリスト教徒がそれを用いることができるであろう。

第23項
 受肉した御言葉の花嫁である教会は、聖霊によって教え導かれ、 その子らが神の言葉によって絶えず養われるために、日毎にいっそう深い聖書の理解を得るよう心がける。 そのために東方と西方の聖なる教父たち、および聖なる典礼の研究も重視するのは当然である。 カトリックの聖書釈義家は、神学のほかの専門家と共に、熱心に協力して働かなければならない。 それは聖なる教導職が見守る中で、適切な補助手段を用いて聖書を研究し、 説明し、こうして神の言葉の奉仕者が一人でも多くなり、 聖書の糧を神の民に豊かに与えることができるようになり、理性を照らし、 意志を強くし、人の心を神への愛に燃え上がらせるためである。 Cf.Pius XII,Litt.encycl.Divino afflante  30 sept.1943:ピオ12世、回勅『ディヴィノ・アフランテ』、1943年9月30日発令: EB 551,553,567:Pont.comm.bibl.Instructio de S.Scriptura in Clericorum Seminariis et Religiosorum Collegiis recte docenda,13 mai 1950:教皇庁聖書委員会『神学校および修道院における聖書教授法に関する通達』、1950年5月13日発令 : AAS 42(1950) 495-505 この聖なる会議は、聖書を研究する教会の子らに対して、幸いにも受け取った任務を日毎に力を新たにし、 あらゆる作業において教会の感覚にしたがって遂行し続けるように、 Cf.Pius XII , Ibid.:ピオ12世、同書: EB 569 励ますものである。

第24項
 聖なる神学は、いつまでも変わらない基礎として、聖なる伝承と共に神の書かれた言葉に基づく。 それはこれを基礎としてきわめて堅固に強化されるのであり、絶えず若返り、 キリストの秘義の中に形成されたすべての真理を信仰の光のもとに探求する。 聖書は神の言葉を含み、また霊感を受けたものであるから、まことに神の言葉なのである。 それゆえ聖書の研究は神学の魂のようなものである。 Cf.Leo XIII,Litt.encycl.Providentissimus Deus:レオ13世、回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』、1893年11月18日発令 :EB 114 . Benedictus XV,Litt.encycl. Spiritus Paraclitus,15 sept.1920 :ベネディクト15世、回勅『スピリトゥス・パラクリトゥス』、1920年9月15日発布:EB 483 同じ聖書の言葉によって御言葉の奉仕、 つまり司牧者の宣教活動、キリスト教の要理教育と教授、その中で格別な位置を占めるはずの典礼における説教も、 健全な糧で養われ、聖なる実を豊かに結ぶことになる。

第25項
 そのためにすべての聖職者は、特にキリストの祭司および助祭または要理教育者として御言葉の奉仕に正当に立てられた者は、 そのだれもが「神の言葉の内なる聴き手ではない、単なるその空しい外なる宣教者」 Augustinus,Serm.179,1:アウグスティヌス『説教』179,1:PL 38 , 966ではないように、 熱心な聖なる読書と入念な研究をもって聖書に密着する必要がある。他方、神の言葉のきわめて豊富な富を、 特に聖なる典礼において、自分たちに委ねられた信徒たちに分かち与えなければならない。 同様にこの教会会議は、すべてのキリスト教徒、特に修道者に対しても、 聖書の読書に慣れ親しんでイエス・キリストを知るというあまりにもすばらしいこと(フィリ3:8)を学ぶように、 大いにまた特別に勧める。「聖書を知らないことはキリストを知らないことに等しいからである」。 Hieronymus,Comm.in Is.prol.:ヒエロニムス『イザヤ書注解』序:PL 24,17.− Cf.Benedictus XV,Litt.encycl.Spiritus Paraclitus :ベネディクト15世、回勅『スピリトゥス・パラクリトゥス』、1920年9月15日発布:EB 475-480:.Pius XII,Litt.encycl.Divino afflante :ピオ12世、回勅『ディヴィノ・アフランテ』、1943年9月30日発令:EB 544 したがって、神の言葉に満ちる聖なる典礼をとおして、また霊的読書や、それに適した企画、 そのほか教会の司牧者の承認と配慮のもとに現在どこでもすばらしく普及している補助手段をとおして、 喜んで聖書に近づいていただきたい。聖書の読書には、 神と人間の会話が成り立つように祈りが伴わなければならないことも忘れてはならない。 「わたしたちは祈るときには神に語りかけ、神の託宣を読むときには神に耳を傾ける」 Ambrosius , De officiis ministrorum I,20,88:アンブロジウス『奉仕者の任務について』:PL 16,50 からである。
 「使徒的教えを託されている」 Iraeneus , Adv. Haer. IV, 32, 1:エイレナイオス『異端反駁』4の32の1:PG 7,1071 (=49,2); Harvey , 2, p.255 司教たちは、自分に委ねられた信徒たちに聖書、 特に新約聖書、その中でも福音書を正しく用いさせるために、必要かつ充分な説明つきの聖書翻訳によって、 教会の子らが安全にかつ有意義に聖書に慣れ親しみ、その精神を教え込まれるように、適切に指導しなければならない。
 そのうえ、適切な注釈つきの聖書の発行がなされ、 それが非キリスト教徒のためにもその実情に合わせたものであるのが望ましく、 またその流布のためにも司牧の責任者も、どの身分のキリスト教徒も賢明に心を砕くようにしていただきたい。

第26項
 そのように聖書を読み、学ぶことによって神の言葉が広がり、 輝き(2テサ3:1)、教会に託された啓示の宝がますます人々の心を満たすように。 熱心に御聖体の秘義に与ることによって教会に命が成長するのと同じように、 とこしえにとどまる(イザ40:8;1ペト1:23−25参照) 神の言葉をますます崇敬することによって霊的生活の新しい刺激を期待することができる。

 この教義憲章の中で定められたすべてのこと、 そのそれぞれのことはこの聖なる公会議の教父たちの意にかなうものであった。 わたしも、キリストによって委ねられた使徒的権能をもって、 公会議教父たちとともにそれを聖霊のうちに承認し、決議し、決定し、 こうして公会議をもって決定したことが神の栄光のために公布されることを命じる。
Cf.Pius XII,Litt.encycl.Divino afflante 30 sept.1943:ピオ12世、回勅『ディヴィノ・アフランテ』、1943年9月30日発令: EB 551,553,567:Pont.comm.bibl.Instructio de S.Scriptura in Clericorum Seminariis et Religiosorum Collegiis recte docenda,13 mai 1950:教皇庁聖書委員会『神学校および修道院における聖書教授法に関する通達』、1950年5月13日発令 : AAS 42(1950) 495-505
Cf.Pius XII , Ibid.:ピオ12世、同書: EB 569
Cf.Leo XIII,Litt.encycl.Providentissimus Deus:レオ13世、回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』、1893年11月18日発令 :EB 114 . Benedictus XV,Litt.encycl. Spiritus Paraclitus,15 sept.1920 :ベネディクト15世、回勅『スピリトゥス・パラクリトゥス』、1920年9月15日発布:EB 483
Augustinus,Serm.179,1:アウグスティヌス『説教』179,1:PL 38 , 966
Hieronymus,Comm.in Is.prol.:ヒエロニムス『イザヤ書注解』序:PL 24,17.− Cf.Benedictus XV,Litt.encycl.Spiritus Paraclitus :ベネディクト15世、回勅『スピリトゥス・パラクリトゥス』、1920年9月15日発布:EB 475-480:.Pius XII,Litt.encycl.Divino afflante :ピオ12世、回勅『ディヴィノ・アフランテ』、 1943年9月30日発令:EB 544
Ambrosius , De officiis ministrorum I,20,88:アンブロジウス『奉仕者の任務について』:PL 16,50
Iraeneus , Adv. Haer. IV, 32, 1:エイレナイオス『異端反駁』4の32の1:PG 7,1071 (=49,2); Harvey , 2, p.255


ローマの聖ペトロ大聖堂にて、1965年11月18日
わたし、カトリック教会の司教パウロ

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