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『神の啓示に関する教義憲章』概説
和田 幹男 


第4章 旧約聖書について(14−16項)解説
第14項解説:イスラエルの歴史による啓示と旧約聖書
第15項解説:キリスト教徒にとっての旧約聖書の意義、その不完全性
第16項解説:旧約聖書と新約聖書の相互関係
参考文献
 
 啓示そのものについて(第1章)、その伝達について(第2章)述べ、 その中で聖書を位置づけ、聖書の霊感性と真理性を確認し、聖書解釈の基本(第3章)を示してから、 ここで旧約聖書について(第4章)、新約聖書について(第5章)と、個々に分けて考察する。 まず旧約聖書についてだが、この名称そのものが、すでにキリスト教信仰を前提とし、神学を表現している。 「新約聖書」との対比でそう言われるからである。ユダヤ教では旧約聖書を聖書としているが、新約聖書は除かれる。 そこでは旧約聖書が聖書であって、旧約聖書という名称はない。 したがって、旧約聖書という名称自体キリスト教信仰を前提としている。 キリスト教は旧約聖書と新約聖書を分けて考えるが、聖書はこの両書からなる一つの書である。 それでは、その中でキリスト教は旧約聖書をいかに理解するのだろうか。第4章でその考察が行われる。
 キリスト教信仰にとって旧約聖書は何なのか。ここには重大な問題が潜んでいる。 キリスト教の歴史を紐解けば、旧約聖書を受け容れるべきではないという異端があったし、 その全書を「旧約聖書」という名称のもとにキリスト教の中で広く確固とした信仰内容として受け容れられるようになるのも、 教父エイレナイオスの著作が証しているように、およそ西暦2世紀後半以来のことである。 そこで、なぜ、いかなる意味でキリスト教は旧約聖書を聖書として受容してきたのであろうか。 これを反省することにより、いかに旧約聖書を読めばよいのかという反省にもつながる。 旧約聖書を旧約聖書という名称のもとに新約聖書との対比で受容する背後に、旧と新を準備と完成、 約束と成就という関係の理解がある。新約が旧約の完成であり、成就であるとするなら、 どうして過去のその準備と約束がまだ今なお考える必要があるのだろうか。 西暦2世紀後半のキリスト教信仰において旧約聖書が聖書として広く確固としたものとして受容されるようになったというなら、 それ以前のキリスト教信仰においてはどうだったのか。その答えを求めて新約聖書、 なかでもキリストへの信仰を強調したパウロの手紙の中で、また特に福音書の中で内容的に旧約聖書はいかなるものであるか、 詳細に調べてみる必要がある。実際に、パウロの手紙の中でも、 福音書の中でも旧約聖書の内容は前提とされるだけでなく、 その花を咲かせる根となっているのではないだろうか。 旧約聖書の内容が新約聖書の中にあまりにも深くその基礎になっていたからこそ、 キリスト教信仰は一貫して旧約聖書を退けることができなかったのであろう。 ただし、その花とはイエス・キリストにほかならず、これが旧新両約聖書の繋ぎ目であり、 その多様だが調和ある一貫性の原理と言わなければならないのではないか。
 このように旧約聖書が何のかについて考える上で、この第4章はまたとない題材を提供してくれる。 ここでまず旧約聖書とは何のか(第14項)、つぎに旧約聖書にはいかる意義があるのか(第15項)、 最後に新約聖書とはいかなる関係にあるのか(第16項)についてまとめられている。
 なお、旧約聖書をいかにキリスト教徒は受けとめるべきか、その後もなお論議されている。 「旧約」という呼び名そのものに問題がありはしないか。それは西暦2世紀後半の教会の考えかたによるのだが、 それでよいのだろうか。それ以前ではどうであろうか。特にイエスやその弟子たちの時代には聖書といえば、旧約聖書のことで、 「旧約」とは呼ばれていなかった。新約聖書がまとまって出来上がってから、 それに対して旧約聖書といわれ、これには価値判断が込められているかもしれない。 そこで1984年の教皇庁聖書委員会による『聖書とキリスト論』では、旧約聖書とは呼ばず、「最初の契約の書」という。


第14項解説:イスラエルの歴史による啓示と旧約聖書


 ここで第1章の啓示そのものと、特に第3項後半のイスラエルの歴史による啓示で述べられたことを受け継ぎ、 その延長線上で旧約聖書を位置づける。啓示は単なる神による知識の伝授としてではなく、 神の自己譲渡として考えられている。その自己譲渡の出所は愛にほかならない。 本項は「限りなく愛してくださる神」(Amantissimus Deus)といって、神を主語として始める。 その神に、その「限りなく愛する神」にすべての起源がある。 旧約聖書が証しするのは、その神の愛の軌跡であり、それは裁きでもなければ、怒りでもない。 神の心にある意図は「全人類の救い」にほかならない。 「準備」は、「約束」と共に旧約聖書が証しする啓示の基本的性格をいう。 準備があるから完成があり、約束があるからその成就があるからである。新約聖書はその完成と成就を証しする。
 「ひとつの民を・・・選び」で、神の救いの計画が、一人一人個人的に語りかけることによってではなく、 ひとつの民を選んで、この民をとおしてであることをいう。 この「選び」に神の無償の愛の証しという意味と同時に、神が心にかける全人類の救いのための使命という意味がある。 その計画の実現は、まず「アブラハム」に呼びかけ、呼び出すことによって始まった(第3項後半参照)。 わたしたち人類は「手探りしながら」(使17:27)神を求めてきたが、神のほうがわたしたちを求めて、 まずアブラハムに呼びかけられた。 この被造物である自然界をとおしてでは明らかではなかった神からの呼びかけがあることを知るのは、 イスラエルの歴史をとおしてである。その神の計画は、アブラハムに対する神の選びと契約、 つぎにイスラエルの民との契約によって実現されるようになさった。 この民との契約はモーセを仲介者としてシナイの山で実現された。 この「契約」という用語もイスラエルの歴史をとおしての啓示の鍵言葉である。 このイスラエルの歴史をとおしてわたしたちに明らかになるのは、要約すれば、 イスラエルの愛の神が「唯一の真にして生ける神」であるということ。 この表現は第3項後半にもある。「言葉と仕草」については第2項参照。 歴史と言えば、それは一回限りのの出来事の連続としてのプロセスであるから、 その啓示の営みには深まりと広がりがある。そのため「ますます深く、ますます明らかに」と言われる。 しかし、そこにはそのプロセスの完結も示唆されている。また「広く諸国民に」と、普遍的な展望もある。
 この啓示の営み、その「経綸」を前提として、それを文書として書きとめたものがあり、 それを集めた文書群が旧約聖書である。ここに旧約聖書とは何かが言われている。 「聖なる著者たちによって」とは聖書記者のこと、その著者が複数であるから、 ここで旧約聖書の各書の著者が考えられている。それはまたその各書の主人公とは必ずしも同じではない。 モーセ五書の主人公をモーセとすると、モーセがそのモーセ五書の著者であるとは必ずしも言えない。 イザヤ書は前8世紀の預言者アモツの子イザヤの言葉を内容とするが、 このイザヤがイザヤ書の著者であるとは必ずしも言えない。このようにモーセがモーセ五書の著者であるとか、 イザヤがイザヤ書の著者であるとの伝統は伝統として受け取るが、 近代の聖書歴史批判学が追求して明らかにした旧約聖書の著者のことに、 本啓示憲章は開かれた態度を示している。 これを1906年6月27日付け教皇庁聖書委員会がモーセの著作性について出した回答(EB 181-184)、 1908年6月28日付けの同委員会がイザヤ書の著作性について出した回答(EB 276-280)と比べると、 この半世紀の間に大きな変化のあったことがわかる。 その聖書記者が著者として文書に書きとめた「この救いの経綸」、 つまりイスラエルの歴史をとおしての啓示は、これを「予め告げ」、「語り」、「説明する」ものであったという。 これは神がその歴史の中で起こされることを「予め告げる」ものであり、 また「語る」とは起こった出来事を伝える手法であるから、その予め告げられた出来事が実現したことを「語る」ものであった。 まさにこの予告と実現によってこそ、イスラエルはその唯一にして真の生ける神を認めることができたのであった。 これはイザヤ40−55章に強調される。また神から与えられた律法の各条項も、 神によって起こされた出来事の意味も、神によっていかなる意図をもって与えられたものか「説明され」なければ、 人々にはわからない。イスラエルの歴史には神の口となって語った預言者がいたが、 その預言者をして語らせた神の霊の働きが聖書記者にまでも及び、 聖書記者もその文書の著作活動をもって「予め告げ」、「語り」、「説明する」。 このように予め告げられ、語られ、説明されたこの救いの経綸は、神の真の言葉として、旧約の文書群の中にあると明言される。 このように神の言葉としての旧約聖書の価値が確認されている。


第15項解説:キリスト教徒にとっての旧約聖書の意義、その不完全性


 旧約聖書が示す神の救いの経綸が「主眼」とするところは、「準備すること」にあるという。 これは完全なものとする未来の観点から過去を見て、その過去の性格を言ったものである。 旧約の経綸は、未来である新約の経綸との連続性と志向性の中に考えなければならない。 その新約の経綸とは、「キリスト」と「その支配の到来」にある。 このキリストは「万民の贖い主」と言われ、その支配は「そのメシアとしての支配」と言われる。 ここで死んで復活したナザレのイエスのことが考えられているのは、言うまでもない。 このイエスへの信仰と理解を前提として、この観点から旧約の経綸を見れば、これは準備することにあったと要約することができる。
 実際に新約聖書はいたるところで旧約聖書が示すイスラエルの過去を見、 この過去との連続性の中にあること、またその志向性の到達するところにあるとしている。 たとえばガラ4:4、「時が満ちると・・・」と。 旧約聖書のほうもアダムやアブラハムなどから始まる系図を絶えず意識する (創5:1−32;11:10−32;25:1−5など、 それに特に1歴代誌1−9章参照)一方、新約聖書もそれを続けてイエスの系図を掲げる (マタ1:1−17;ルカ3:23−38)。 この血筋の連続は、天地創造における、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」 (創1:28)との神の祝福の実現としてのみならず、 アブラハムとその子孫の選びが地上の諸民族の祝福のためであるとの普遍的な救いの展望にも伴われ、 新約はイエスにその実現を見ている(ガラ3:16)。その選びにもかかわらず、 イスラエルの不忠実な実情の経験から、「残りもの」の考えが現れ、 その選びとこれに伴う使命がこの「残りのもの」によって担われることになるが、 新約におけるこの「残りのもの」の考えは、最終的には不忠実なほかのものの救いをも展望に入れる(ロマ9−11章)。
 このアブラハムの子孫は神の民を形成することになり、 これが新約の神の民に受け継がれ、ここで血筋を超え、万民が集う民として完成される。 この新約の民は、イエス・キリストからくる新しい命に生かされている。 この歴史における神の救いの計画とその実現には社会的な側面がある。新約の神の民に至って、 その民を結ぶ絆はもう血筋ではなく、「真にして生ける真の神」への信仰となる。 しかし、この神への信仰は旧約の民がその長い歴史をとおしての葛藤によって得られたものであった。 この意味で旧約の民の準備がなければ、新約の民も考えられない。 このように旧約聖書を準備と見なすことによって、 過去の遺跡や遺物の相次ぐ発見によって歴史の感覚が鋭くなった現代人にとって近づきやすい展望が与えられたといえよう。

 旧約による準備を説明して、「預言として」告げること、「予型として」表すことであったという。 何を告げ、何を表すのか。それは前に述べたキリストとその支配の到来にほかならない。 ここで預言とか、予型とかと言って、何を意味しているのであろうか。 預言の意味について公会議中も論議されたが、それは予測不可能な未来の出来事を予告するという限られた意味ではない。 公会議以前の神学で、預言をこの意味で理解し、 この預言がある聖書の宗教の超自然性を論証しようとしたものだった。 またハルマゲドンなどと言って、大異変を予告し、不安を煽る者は後を絶たないが、 預言はそのような似非宗教家が考えているようなものでもない。旧約聖書に登場する預言者を見れば、 アロンがモーセの口となった(出4:16)ように、 神の口となって語った人々のことである。預言とは彼らの発言であり、 予測不可能な未来の出来事を予告することもあれば、現在人々の中にある罪悪を責めることもあれば、 現在や過去の出来事の意味を明らかにすることもある。 未来について言えば、来るべき神の審判を予告することもあれば (アモス2:13−16、ホセア(4:3;イザヤ7:17;エレミヤ7:14;26:6)、 救いを予告することもある(イザヤ2:2−5;9:1−6;11:1−9)。 罪悪を責める預言は多いが、これが来るべき神の審判の予告の根拠になっている。 なぜ現在苦境に落とし込まれたかを説明したり(イザヤ1:4−9;エレミヤ2:14−17、19)、 今こそ神を認めてその意志につき従わなければならないことを説く。 その神の意志は最終的には人間を救うことにあることも明らかにする(イザヤ40:1−11)。 実際に旧約の預言書を見れば、多種多様な発言があり、そのときどきの人間に具体的にどう考え、 どう行動すべきかを指示している。こうしてつまるところ唯一の生ける真の神がいて、 その神には人間を救おうなさる意志があり、そのためイスラエルの歴史を導いておられることが示される。 預言者の発言が実際に実現することにより、その預言者の正真正銘性が証明され、似非預言者とは識別される。 その預言のプロセスは新約まで続き、ここで纏められ、締めくくられる。 このような意味で預言を理解すれば、旧約聖書全体が預言と考えられ、 新約はその実現をイエスの人物とその活動の中に見ている(ルカ22:44;ヨハネ5:39;1ペト1:10)。

 予型とは何のことであろうか。この用語の意味を理解する手がかりが、 パウロの手紙にある。パウロはコリントの信徒への手紙の中で「わたしたちの先祖」、 つまり旧約聖書の出エジプト記にあるイスラエル人に言及し、 彼らが荒れ野を旅したとき、犯した罪とそのため受けた罰を列挙し、 「これらのことはテュピコス(τυπικω)として起こった」(1コリ10:11)とし、 その先祖がかつて犯した罪と受けた罰は、わたしたちへの「警告」のためだという。 テュピコスは副詞で「前例として」、その名詞テュポス(τυπο)は「前例」(1コリ10:6)と訳されるが、 それは手本、模範、鑑(かがみ)を意味し、ときには反面的に見せしめを意味することもある。 パウロはさらにこの用語を用いて、「アダムは来るべき方のテュポスである」ともいう(ロマ5:14)。 この場合、この用語は倫理的な教えの模範という以上に、来るべき方、 つまりキリストがいかなる人物かを予め示したものという意味になる。 このアダムとキリストのように、旧約にあるものと新約にあるものが表象として対応関係にあるものも含めて、 テュポスと言われる。従って、これをここで「予型」と訳す。 この予型として新約と対応関係にあるものとしてアダムのような人物だけでなく、 出エジプトや約束の地の獲得などの出来事の場合、過越しの祭りやいけにえの小羊、 エルサレムや神殿のような事物の場合もある。 この予型とその実現の対応関係はすでに旧約聖書の中に見られ (たとえば、新しい出エジプトとしてのバビロン捕囚の帰還)、 新約聖書もこれを用いてキリストとその活動の意味を説いている(たとえば過越しとしてのイエスの死と復活)。 旧約と新約におけるこの対応関係がどこにあるのか、 その後の教父たちの聖書解釈においても追求され、初期キリスト教芸術に表現されることになる (たとえば、創世記37:28の空の井戸から引き上げられたヨセフと復活したイエス)。 このような解釈は予型論的解釈と言われるが、これは単なる論考や思想ではなく、 あくまで歴史に根ざし、その旧約の出来事と新約の出来事の間にある神のなせる業としての構造的類似性に基づき、 これを洞察してなされるものである。

 旧約聖書の価値と限界
 旧約聖書は、プロセスとしての歴史による啓示の中で準備段階にあり、 まだ完成されなければならない段階の啓示を書きとめている。したがって、そこには歴史の制約がある。 そのことを念入りに「キリストが創設した救いの時代以前に人類が置かれていた状態にしたがい」と表現している。 この制約のもとで「神とは」何なのか、「人間とは」何のか、 「その神と人間は」いかなる関係にあるのかを明らかにしている。 その明らかにしているものは、ほかでは見出すことができないもので、 すべての人にとってかけがえのない価値のあるものである。 しかし、そこには「不完全なもの」があることを認めざるを得ない。 これは完全なものを前提とした表現である。この完全なものとは新約聖書が証しするイエスにほかならない。 このように旧約聖書を考えることによって、そこにある数多く教えは不完全なものとし、 新約の教えによって完全なものとされなければならないということになる。 そういうものとして敵対する者への憎み(詩編31:7;139:21−22)や復讐の願い(詩編137:8−9)、 敵対民族を皆殺しにすること(たとえば1サム14:18)、 一夫多妻の容認(たとえば1列王11:3)、 異民族の妻との離縁命令(たとえばエズラ記第9−10章)などをあげることができる。 この旧約聖書の教えをそのまま現在も実践すべきものとすると、とんでもないことになる。 同様に、「血を飲んではならない」(レビ記17:10−12)のような規定も、 時代の制約を受けたものとして考えなければならない。旧約聖書には不完全なものがあると認めた上で、 この事実の深い意味も見通さなければならない。それは「神の教育」ということである。 神はあたかも優れた教育者として、 あるいは思いやりのある慈父として幼稚な人類をその歩みにあわせて成熟へとお導きになる。 この展望のもとに旧約聖書を読めば、そこには神について、 人間について、その人間の救いについての貴重な教えがあることがわかり、 キリスト教徒はこの旧約聖書を最大の尊敬をもって受けとめなければならない。


第16項解説:旧約聖書と新約聖書の相互関係


 旧約聖書について述べた後、新約聖書について述べる前に、 この両聖書の関係を考える。旧約と新約聖書からなる聖書は、 古代イスラエル宗教文学の単なる雑多な寄せ集めではない。聖書はその全体をとおして同じ一つの神を語り、 この同じ一つの神に関わった人々を主題とする。教会は信仰の立場から、 聖書各書の著者にその書を書くように霊感を与えたのは神であり、 その神の霊こそその全聖書の著者であると考えてきた。 これを前提として、ここで旧新両約聖書の関係を考察する。  まずここで注目すべきなのは、文書としての旧約聖書と新約聖書の関係が問題とされているということである。 実は、第2草案では「旧新両約に霊感を与えた著者である神は」 (utriusque Testamenti inspirator et auctor)となっていたが、 第3草案で「旧新両約の文書群に霊感を与えた著者である神は」 (librorum utriusque Testamenti inspirator et auctor)と「文書群」(librorum)という用語が加えられた。 「霊感を与えた著者」というからには、ここで問題になっているのは文書としての旧約、新約にほかならないからである。 ただ旧約とか、新約とか言えば、旧約聖書と新約聖書のそれぞれに示されている救いのための神の御業を意味し、 その関係をここで取り扱うということになる。しかし、「文書群」という用語を加えることにより、 その神の御業を証言するものとして書きとめられた旧新両約の文書群、 つまり旧約聖書と新約聖書を問題にするということが明らかにされた。
 この文書群がまずは正典書を意味していようが、正典書とは言われていない。 具体的に正典を問題にすれば、旧約聖書に関してカトリックとプロテスタントでは異なるので、 ここではこの問題に立ち入ろうとしなかったためであろうか。第2草案には正典書に言及されているが、 第3草案以来省かれた。ただし、カトリックとプロテスタントは旧約のどの書を正典とするかにおいて異なる立場を取るが、 正典そのものの存在を認めることでは同じ立場を取る。
 さてその旧約と新約の文書群の関係は、一般的に連続性とか、 一貫性とか、統一性とか言えようが、そこには驚くべき多様性が秘められている。 その多様性にもかかわらず、内容的に密接に結びついていて、その関係には綾があり、 意味が深い。これを表現するのは至難の業で、それゆえ、「・・・神はその知恵をもって」(sapienter)と言っているのであろう。
 ここでアウグスティヌスの有名な言葉を引用する。 「新約が旧約に秘められ、新約で旧約が明らかになる」 (ut Novum in Vetere lateret et in Novo Vetus pateret)と。 これは、第1草案では、「それゆえ、全旧約の意義と重要性は、新約に向かい、 新約において明らかにされるということにある」 (Quare, totius Veteris Testamenti ratio atque momentum in hoc est, ut in Novum tendat et in Novo pateat)とあったが、 これに替えて、第2草案から取り入れられた。第1草案の表現では、 旧約と新約の内的相互関係をいうのに十分ではないと判断されたからである。 第2草案の表現は出エジプト記第20章19節を解説するアウグスティヌスの言葉から取られている。

 「"あなた(=モーセ)がわたしたちに語ってください。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。 そうでないと、わたしたちは死んでしまいます"[出エ20:19]。 これは、愛が新約に属するように、むしろ畏れが旧約に属することを強く、また明らかに意味している。 たとえ旧約に新約が秘められ、新約で旧約が明らかになるにしても」(PL 34, 623)。

 アウグスティヌスは、ここで旧約が畏れを、新約が愛を教えると短絡的に言うのを制限しようとする。 その制限はまず「むしろ」という副詞によって言われ、つぎに「たとえ旧約に新約が・・・」の文で言われる。 このようにこれは旧約と新約を区別した上で、その内的相互関係を言おうとする表現である。 つまり、新約はすでに旧約の中に現存しているということである。 第1草案ではその内的相互関係が十分明らかではなかった。 そこで第2草案から、そのアウグスティヌスの言葉、「新約が旧約に秘められ、 新約で旧約が明らかになる」が取り入れられた。しかし、第2草案の「なぜなら、 たとえある旧約が制定され、準備の期間にのみ相応するものであったが、 新しい律法によって廃止されたが、旧約はひとつ残らず福音宣教の中に取り入れられ、 一つの啓示の部分となり、新約の中でその完全な意味を獲得して提示する」という本文は修正を必要と判断された。 ここではまだ旧約と新約の文書群が問題とされておらず、 また旧約が「準備の期間にのみ相応するもの」であり、「新しい律法によって廃止された」ものと考えられ、 これが「ひとつ残らず、福音宣教の中に取り入れられ、一つの啓示の部分となった」と言うが、 これでは旧約と新約の関係を十分に表現されていないと判断されたのであろう。すでに述べたように、 第3草案以来、旧新両約の文書が問題になっているのであり、 その旧約の文書群と新約の文書群の関係がここで問題とされている。 そうすると、旧約の文書群はただ単に時代的に先行するもので、 それが新約に取り入れられたものという以上の密接な関係がある。 旧約の文書群は時代的に先行するものであるが、新約に取り入れられて、 新約なしには明らかではなかった意味を「獲得して提示する」のみならず、 これはこれで新約の意味を「照らし、説明する」という。それにこの意味こそその「完全な意味」だという。 この主張には最後で至高の啓示者としてのイエス・キリストへの信仰が前提となっている。
このように文書群としての旧約聖書と新約聖書の関係は、 第1幕で予め示したものが最終の幕をまってはじめてその完全な意味を明らかにする演劇にたとえられる。 この演劇全体を見なければ、その最初の幕の意味も中途半端にしか理解されない。 旧約聖書の意味もこのように理解されなければならない。 あるいは旧約聖書は囲碁の名局で名人が打った最高の布石にたとえられよう。 終局になってはじめて名人が打ったその布石の意味が頷かれよう。 新約聖書は旧約聖書にとってこの終局にあたり、その名局全体を振り返ることにより、 旧約各書、各章の意味が理解される。ここで、 このように旧約聖書と新約聖書は一つの書であることが確認されているが、 その理解はなおいっそう深められなければならない。


参考文献


第2ヴァティカン公会議当時、旧約と新約の関係を考察した主な文献
C.Larcher, L'actualité chretienne de l'Ancien Testament, Paris, 1962
P.Grelot, Sens chrétien de l'Ancien Testament, Tournai, 1962

第2ヴァティカン公会議啓示憲章第4章解説
1、 S.Lyonnet, A Propos des chapitres IV et VI de la 《Dei Verbum》, L'étonnant chemin parcouru au cours de l'élaboration du texte conciliaire, Vatican II, Bilan et Perspectives vingt-cinq ans après (1962-1987), sous la  direction de R.Latourelle, Montreal - Paris, 1988, Tome 1, 171-221
2、 G.Deiana, Il rapporto tra antico e nuovo testamento nella "Dei Verbum", in : La "Dei Verbum" trent'anni dopo, Miscellanea in onore di Padre U. Betti o.f.m., a cura di N.Ciola, Lateranum, Anno LXI, n.2-3, Roma, 1995, 183-193
3、 Bibel und Kirche, Zwei Testament - eine Bibel, 55 Jahrgang 1.Quartal 1/200:特集号

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