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『神の啓示に関する教義憲章』概説
和田 幹男 


第6章 教会の命における聖書(第21−26項)解説
第6章概説
第21項解説:教会にとって聖書は何か
第22項解説:聖書の翻訳
第23項解説:聖書釈義家の任務
第24項解説:神学における聖書の重要性
第25項解説:聖書を読むべきこと、またいかに読むべきかについての勧告
第26項解説:結び
主な参考文献


第6章概説


 
 概観
 神の啓示(第1章)とその伝達(第2章)、 特に聖書におけるその現存(第3−5章)について基本的な教えを確認してから、 ここでその結果として実践上の指針を与えようとする。 この公会議は司牧宣教的な目標を掲げていることを考えれば、この第6章がなければ、 この啓示憲章は中途半端なものであったであろう。 とは言え、本章の主眼はただ単に実践上の指針のみならず、教会にとって聖書とは何のかをも総合的に明らかにしようとする。

   題名
 本章の題名はその始めの草案では「実践上の結論」ないし「教会における聖書の利用」 (1963年5月の草案)であった。確かにまずは論旨としては聖書についての教えを深め、 明らかにしてから、その聖書は教会の中でいかに「利用」すべきかを明らかにしようと計画された。 しかし、教会と聖書は、利用するものと利用されるものという関係以上に深く結びついている。 それゆえ、その題名も「教会の命における聖書について」(1964年7月の草案以降)とされた。 その原題のラテン語はDe Sacra Scriptura in Vita Ecclesiae である。 これを「教会生活における聖書」と訳すこともできよう。 しかし、この訳だと、わたしたちカトリック信徒の教会生活の中での聖書の位置という意味に取られる。 少しなじめないかもしれないが、原題を直訳して、「教会の命における聖書について」とした。 実際に本章の内容は、この題名が示すように広い。 その内容は第2ヴァティカン公会議の教会憲章や典礼憲章など諸公文書にも触れるところも多く、 その関連も網のように広がる。このように本章は、 公会議教父たちが相互に考えを改め深めて結論に達した同公会議全体の実りでもあるとも言える。 特に同公会議が掲げた目標の一つ、キリスト教徒の一致を深めるのに貢献し、具体的な行動計画を示すところもある。

 要旨
 教会は聖書を尊重してきたこと、これを信仰の最高の規範、宣教活動の養い、 教会の子らの支えと考えるということ(第21章)。 それゆえ、その子らは聖書に広く近づけるようにしなければならない。 これはその翻訳によって(第22章)、また聖書を研究する聖書学者の支援によって実現する(第23章)。 実際に聖書は神学の魂のようなものであり、宣教活動の糧であるはずである(第24章)。 それゆえ聖職者も言葉の奉仕に立てられた者も絶えず聖書と親しみ、 信徒も、特に修道者も喜んでそれに慣れ親しむようにしてもらいたい。 それを正しく容易にするために司教には特別な任務がある(第25章)。 このように聖書を読み、学ぶことにより、霊性にとって新たな刺激が期待される(第26章)。
 なお本章は、必ずしも論理的に筋道を明らかに書かれてはいない。 これはその司牧的性格のゆえで、読者はそれに留意して読む必要がある。 それゆえ、聖書翻訳については第22と25項、宣教活動の養いとしての聖書については第21と24項、 聖書とご聖体は第21と26項と、主題が繰り返される。

 到着点であると同時に出発点
 本章を理解するために、教会にとっての聖書と活用に触れて、 これまで教会が発表してきた主な聖書関連公文書を思い起こすことも有益であろう。
1) トリエント公会議第4総会(1946年4月8日):ラテン語ウルガタ訳聖書の価値についての教令(EB61-64)。
2) トリエント公会議第5総会(1946年6月17日):教会や修道院における聖書の公的読書と解説についての教令(EB65-72)
3) 信徒による聖書の読書に関する敬虔主義者たちの提題非難(Denz.-Schon.2479-2485)
4) 教皇レオ13世の聖書回勅『プロヴィデンッティッシムス・デウス』(1893年 11月18日) :特にその前半に教会における聖書を読むことと研究することの重要性を説き(EB81-99)、 終わりに聖書研究者、司祭、聖職者を励ましている(EB128-134, また114も)。
5) 教皇ベネデキクト15世の聖書回勅『スピリトゥス・パラクリトゥス』(1920年9月15日): その第2部で、聖ヒエロニムスにならい、すべての信徒が聖書を熱心に恭しく読むべきことを広く取り上げている(EB464-495)。
6) 教皇ピオ11世の自発令「ビブリオールム・スキエンツィアム」(1924年4月27日): 聖書学の向上を目指して法的にも支援(EB505-512)。
7) 教会の典礼における聖書原語に基く現代語訳聖書の利用についての教皇庁聖書委員会の回答 (1934年4月30日;1943年8月22日)(EB520, 535-537)
8) 教皇ピオ12世の聖書回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』(1943年9月30日): 聖書学を積極的に評価し、その推進を支持し、聖書の重要性とその活用を勧める(EB566-569)
9) 教皇庁聖書委員会の訓令『サンクティッシムス・ドミヌス』(1950年5月13日): 神学校と修道者教育機関における正しい聖書教育について(EB582-610)
10) 聖書関連の団体や集会についての教皇庁聖書委員会の訓令(1955年12月15日)(EB622-633)。
11) 聖なる典礼に関する憲章『サクロサンクトゥム・コンキリウム』 (典礼憲章)に含まれる聖書の重要性に関する教え、特に第24項、第35項)。
12) 福音書の歴史的真理性に関する教皇庁聖書委員会の指針『ヘック・マーテル・エクレジア』(1964年4月21日)
 教会は折に触れて絶えず聖職者と信徒が聖書を読むように指導してきた。 その関連の公文書は19世紀以来20世紀に入って増加している。 またその性格も、聖書を読むことによってもたらされる信仰の危険を恐れて護教的なものから、 聖書を読み、黙想することを広く積極に勧めるものへと変化してきている。 それゆえ、そのひとつの到達点が本章にあるということができ、その重要性は上に掲げた諸公文書に照らして理解することができる。
 本章で指摘されたことは、第2ヴァティカン公会議後どのように実行され、 実りをもたらしたか検証されなければならない。それに伴い、新たな課題が生じたとしても不思議ではない。 特に1993年、教皇庁聖書委員会が発表した『教会における聖書の解釈』との比較は大いに参考になろう。


第21項解説:教会における聖書の尊重


 第21項はその後につづく第22―26項で言われることの基礎となることを言う。 それゆえ、これは教義的性格のもので、すでに第1−5章で考察したこととの関連もある。 しかし、こうしてすでに一般的に教会における聖書の司牧宣教的活用を述べる。 それゆえ第21項は、教義的考察から司牧宣教的実践への移行部ということができる。
 本項の成立過程を見れば、1963年の『神の啓示に関する教義憲章草案』 (I)までにかなりの発展と増加と共に、強調点の推移があった。 強調点はそれ以前では教会が聖書のために行ってきたことにあったが、 その草案(I)以後は教会にとって聖書がいかに重要なものなのかにある。 また、その後も個々の表現において正確化が期された。その最終的に承認された本文は、つぎの要点からなる。
  1)教会は聖書を常に尊重し、聖書に養われてきたこと。
  2)教会は聖書を常に信仰の最高の規範として掲げてきたこと。
  3)聖書は教会の宣教活動と、その宗教そのものにとってと同様養いであり、指導原理であること。
  4)事実、聖書の中で父なる神がご自分の子らに出会いに来られる。
  5)その言葉は教会にとって力強い支え、教会の子らの力、養いの食べ物と飲み物であること。

 その内容は、トリエント公会議第5総会(1946年7月17日、EB65)、 教皇レオ13世の聖書回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』(1893年11月18日)、 教皇ピオ12世の聖書回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』(1943年9月30日)においても言われている。 しかし、聖書に対して教会がもつ尊重の事実と根拠をこれほど豊かに、また濃密に示した公文書はほかにない。

1) 教会は聖書を常に尊重し、聖書に養われてきたこと
 「教会は、主の御体そのものと同じように聖書を常に尊重してきたが、 こうして何よりもまず聖なる典礼において、神の言葉とキリストの御体の食卓から生命のパンを絶えず受け取り、 信徒たちに差し出してきた。」

 教会は、「主の御体」、つまり御聖体と同じように「聖書を」常に尊重してきた。 この主の御体と聖書の比較は教会の最古の時代からあるもので、 それはヨハネ福音書第6章に基く。ここでキリストは、 ご自分が父なる神からのパンを与える者だと言われ(ヨハネ6:32−34)、 また秘跡としてのパンそのものだとも言われる(同6:51−59)。 このように聖書とご聖体が、信仰を養うパンにたとえられている。 神の言葉としての聖書と肉となった神の言葉(ヨハネ1:14)がキリスト教信仰者にとって「生命のパン」であり、 秘跡としてのそのパンとは、肉となった神の言葉そのものにほかならない。 このパンのニ重の意味は教父たちによっても広く展開され、また『キリストに倣いて』第4巻第9章にも見出される。 この二重の養いの糧としてのパンは、典礼の中でも中心である聖体祭儀においてあたかもひとつの食卓であるかのように、 その食卓に与る信徒に同時に分け与えられる。
 ここで教会の命における聖書を考察しながら、まず典礼との関連で聖書を取り上げていることに注目しよう。 その意義深さを理解するために、本公会議ですでに検討を終えた典礼憲章を思い起こす必要がある。 教会にとって典礼は何なのか。それは神の民として教会の生命活動そのものであり、その生命の発露である。 典礼がなければ、教会はありえない。その教会の典礼の中心は、 教会の起源から主イエスの死と復活を記念する「パンを裂く」式であった(1コリ11:23-26;使2:42参照)。 それが今日まで、聖体祭儀として受け継がれてきた。教会の典礼は、 この聖体祭儀を中心に時代を超えて絶えず自らを現在化し、それぞれの地域で文化内順応しながら今日に至っている。 その典礼の中で聖書は神の言葉として読まれてきた。 この典礼における聖書の朗読はユダヤ教の会堂で行われる安息日礼拝を中心とする慣習を受け継いだものであった。 このユダヤ教とキリスト教の典礼における聖書の朗読は、 ただ単なる朗読ではない。典礼には独特の時間の観念があって、 たとえばイスラエルの先祖たちのエジプト脱出が典礼の中で朗読されるとき、 それは単なる過去の記憶ではなく、その脱出の出来事そのものが形を変えてその朗読を聞く聴衆に実現すると受けとめられてきた。 同様に聖体祭儀の中で福音書が読まれるとき、ただ過去のイエスの言葉と行いを記憶するのではなく、 今、現にいるイエスがその聴衆に語りかけるものとして受けとめられてきた。 聖書はすべてこのように典礼を背景としてまとめられ伝わってきた。 その証拠にわれわれの聖書の底本となっているヘブライ語聖書の写本にしても、 ギリシア語聖書の写本にしてもすべて古代のユダヤ教ないしキリスト教の典礼で用いられていたものである。 このように教会と典礼、典礼と聖書、教会と聖書は深く結びついている。 典礼という生きた社会的文脈を離れて聖書が人々の手に入るようになるのは、印刷機の発明以来の現象なのである。
 教会がいかに、またどれほど聖書を尊重してきたか、これで推察がつこう。 その尊重を証しする教父たちの文書は数えきれない。 また典礼について、特にその典礼神学について第2ヴァティカン公会議は特に典礼憲章で認識を新たにしたが、 典礼と聖書の関係については第7項、第24項、第35項、それに教会の祈りについての第92項参照。

2) 教会は聖書を常に信仰の最高の基準として掲げてきたこと。
 「教会は、その聖書を聖なる伝承とともに自らの信仰の最高の基準として常に掲げてきたし、また掲げる。 それは神の霊感を受けて一回かぎりいつの時代のためにも文字にされたその聖書が、 神御自身の言葉を不変のまま与えており、預言者たちと使徒たちの言葉をもって聖霊の声を響かせているからである。」

 ここで聖書が教会の信仰の最高の基準であるという事実を確認し、どうしてそうなのか、その理由を説明する。 「その聖書を」と、前の文で言われた「聖書」を受けている。 この聖書が信仰の最高の基準(suprema regula fidei)であるという。 これはカトリック神学において伝統的に考えられてきたことで、 「祈りの法則が信仰の法則」(lex orandi lex credendi)といわれる。 神の民である教会の祈りである典礼が、信仰の法則である教義に先立ってある。 聖書が最高の基準という意味は、その典礼で用いられてきた聖書が、 教会の中で信仰するように提示されるものすべての最終的な基準であり、 そのすべてはこの基準によって判断されたものだということである。 この基準として聖書と共に聖なる伝承もある。この「伝承」をいかに考えるべきか、 またその伝承と聖書の関係はいかなるものかについては、 本啓示憲章第2章(第7−10)で詳しく正確に説明されている。 ここでそれに言及し、「と共に」(una cum)は、聖書と伝承が別々のものではなく、 一つの証しをなすものであるとのこの公会議の考えを注意深く表している。
 聖書がどうしてそうなのか、その理由は、イ)それが「神の霊感を受けて」文字にされたものとして神に起源をもつからである。 この聖書の霊感性については、本憲章第3章第11項で正確に説明されている。 ロ)文字にされた神の言葉として聖書は「不変のまま」、時代を超えてその神の言葉を伝えるからである。 このように聖書は、教会が生きた声をもって行う神の言葉の宣教にとって動かない基礎の石の役目を果たす。 ハ)このように神の霊感によって文字にされ、 聖書によって伝わる預言者たちと使徒たちの言葉は聖霊の声として今も響いているからである。 これはまずもって典礼を背景によく理解できる。
 それゆえ教会は「神の言葉を恭しく傾聴する」ものであり(本憲章第1項)、 教会の教導職も「神の言葉の上にあるのではなく、これに奉仕するものである」(同第2章第10項)。 それゆえ、聖書は伝承と共に「神の言葉をあますところなく伝達する」ものとして、教会の信仰の最高の規範なのである。

3) 聖書は教会の宣教活動と、その宗教そのものにとってと同様養いであり、指導原理であること。
 「それゆえ教会のすべての宣教活動は、キリスト教宗教そのものと同じように聖書によって養われ、統べ治められなければならない。」

 ここで前に述べたことから必然的に帰結されることをいう。 キリスト教という宗教にとって聖書がその信仰の最高の基準であり、 教会の位階制度やその教導職もその下にあって奉仕するものであるなら、 聖書こそそのすべての活動の指導原理であるはずである。その意味で「判断される」(judicatur)ではなく、 「統べ治められる」(regatur)と言われる。それは神の言葉にほかならないからである。 このように教会にとって聖書は最高の判断基準であると共に最高の指導原理としての尊厳と権威を有する。 ただ尊厳と権威を有するものだけでなく、「養い」とされる。教会は日々生きて、成長するはずのものだからである。 このように教会の宣教活動にとっても聖書は、指導的位置を占めるのみならず、日々成長する命の源泉であるはずである。
 教皇ピオ12世の聖書回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』も、 「聖書は・・・聖なる説教の任務の養いとなり、力とならなければならない」という(EB567)。 しかし、これは宣教活動を行う者にとっての勧告として言われた。 本憲章では宣教活動という教会の働きそのものにとってそう言われる。 それは、司祭役務教令の中でも言われる(第13、18、19項)。 聖書が宣教活動にとって指導原理であるということは、 聖書の誤った解釈があるのではないかということを意識し、 それを恐れて、これまで公文書の中ではあまり言われてはこなかった。 それに対してプロテスタン諸教派、諸教会では聖書による宣教活動が大いに重視されてきた。 それゆえ、啓示憲章の中にこの部分が取り入れられたことには、エキュメニズムの影響がある。 カトリック教会はプロテスタント諸教派、諸教会から学んだことなのである。 O・クルマンのように、プロテスタント神学者の中にもこの部分を歓迎する者がいる: 「・・・宣教活動が聖書によって養われる・・・という言明に、 われわれは総じて喜びたい」(1965年12月2日、ローマのドイツのプレス・センターにおける公演)。

4) 事実、聖書の中で父なる神がご自分の子らに出会いに来られる。
 「聖書の中で天にいます父なる神が、深い愛情をもってご自分の子らと出会いに来られ、言葉をかけられるからである。」

 本啓示憲章は、その始めに父とその子らとの会話として啓示そのものを捉えた(第1章第2項とその解説参照)。 それは聖書についても言える。聖書の中で「父なる神が、深い愛情をもってご自分の子らと出会いに来られ、 言葉をかけられる」とは、何と言う聖書観であろうか。聖書のこの本質を忘れてはならない。 その神と人間の対話の場は、まずもって前に言われる典礼、特に聖体祭儀である。 勿論、聖書の中で神と人間個人との対話も行われる。 その場合、人間は洗礼を受けているか、受けていないか、関係ないであろう。 すべての人間が神の子らであるからだ。それゆえ、聖書は歴史や思想などを研究するための書であるより、 まずは父なる神と対話するための書ということである。この対話こそ祈りということにほかならない。
 神と人間との対話は聖書そのものの中にも多い:出エジプト記33:11;ヨハネ15:14−15; バルク書3:38;箴言8:31;知恵1:6;9:9−18など。
 教父たちも聖書について語るとき、神と人間との対話に言及することがある。 ヒエロニムス(書簡133:13)、ヨハネ・クリュゾストモス(創世記2の説教15:1)など。

5) その言葉は教会にとって力強い支え、教会の子らの力、養いの食べ物と飲み物であること。
 「実際に神の言葉には大きな能力と効力があって、教会には支えと威力となり、 教会の子らには信仰の力となり、その魂の糧、霊的生活の純粋でいつまでも水涸れしない泉となっている。 それゆえ、聖書にはつぎの聖句が見事にあてはまる。『神の言葉は生きていて、力があり』(ヘブ4:12)、 『力があって、造りあげ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせる』(使20:32;1テサ2:13参照)。」

 本項の結びであるかのように、ここで神の言葉の力について述べる。 カトリック教会ではこれまで聖書に真理を求める一方、その言葉に力があることは見落としてきたきらいがある。 人間の言葉にも無力なものもあれば、力あるものもある。 この言葉の効力について新たに意識されるようになったが、 神の言葉についてもその比類なき力が説かれるようになった。 それは特にプロテスタントの学者に負うところが大きい。天地創造における神の言葉の威力、 救いのために歴史を導く神の言葉の力の確認にM・ノートやG・フォン・ラートなど、 プロテスタント聖書学者が残した功績は無視できない。 また神の言葉の神学については組織神学者K・バルトはじめ数多い。 カトリックでは、教皇レオ13世が、回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』の中で、 「・・・使徒たちは、聖書によって大いに効果的にキリスト教の英知を広く異邦人に説得し・・・」(EB85)と述べて、 聖書の効力に言及したことがある。またピオ12世は、回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』の中で、 「生きていて、力があり、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊との、 また、関節と骨髄との分かれ目まで刺し通し、 心の思いや考えを見分けることができる神の言葉」とヘブライ人への手紙4:12を引用し、 これは「人の心を動かし、駆り立てるために技巧や人間の言い直しを必要としない。 神の霊の息吹を受けて書かれた聖書そのものが、それ自体で豊かな本来の意味をもっているからである。 それは神の力に富んでおり、それ自体価値がある」(EB553)と述べる。 しかし、これまで教会の公文書で聖書にあるその威力、効力をこれほど明白に強調したことはなかった。 そこにはプロテスタント神学の影響も認められよう。 実は、そのヘブライ人への手紙の引用は、もともとキリスト教一致事務局が準備した草案De Verbo Deiにあったもので、 そこから本啓示憲章の草案に取り入れられた。だが、神の言葉の力は、現在の教会の確信でもあり、 これを2000年に及ぶ経験に裏付けられて肯定している。


第22項解説:聖書の翻訳


 第22項は公会議準備段階の草案では、トリエント公会議の決議文を引用して、 ラテン語ウルガタ訳聖書の権威を再確認し、強調するものであった。 それが1963年の草案では、聖書の現代語訳についてのみ言うものとなった。 本啓示憲章の決議文では、聖書の古代訳について、その中でウルガタ聖書について、 その延長として聖書原語のヘブライ語、ギリシア語本文に基く現代語訳について述べるものとなった。 その過程で本項は性格的にも、内容的にも根底から異なるものとなった。 その推移に、公会議教父たちの思考形態の刷新の典型を見る思いがする。 こうして聖書の翻訳そのもの意義をあらためて問うこととなった。それにキリスト教一致運動への配慮がなされている。
 本項の基本的な主題は以下のとおり。
 1)信徒が聖書に近づけるようにすること
 2)聖書の古代語訳の意義
 3)聖書の現代語訳の必要性
 4)聖書翻訳における分かれた兄弟たちとの協力


1) 信徒が聖書に近づけるようにすること
 「聖書に近づく門戸は、キリスト教徒に広く開かれていなければならない。」
 前項で神の言葉はすべての信徒の「魂の養い」、「霊的生活の泉」であると言われる。 その結果として、聖書はすべての信徒が容易に近づけるものでなければならない。 ここに公会議後、いっそう強く、明らかに意識されるようになる聖書のメッセージの「現在化」(actualization)と 「文化内順応」(incultualization)の考えが秘められている。
 聖書を広く近づけるようにすることは、教会にとって当然なことであるが、 過去を振り返るならば、そうではなかった。西欧中世後期から、特に宗教改革期を経てそれ以降、 カトリック教会は信徒が聖書を読むことに警戒心をもち、制限してきた。 それはカトリック教会を離れた宗教改革者たちが聖書を武器にその改革を広く訴えたからである。 そのことは、カトリック教会が原則として信徒が聖書に近づくのを拒否したことを意味しない。 歴史的な事情がそうしたのであって、その歴史的な事情に決着をつけ、新しい一歩を踏み出そうとしたことが、 この決議文にうかがえる。教会分裂を反省し、一致に向かうこの公会議の姿勢とそのための活動が前提になっていることは言うまでもない。

2) 聖書の古代語訳の意義
 「それゆえ、教会はその始めから70人訳と言われるあの最古のギリシア語旧約聖書を自分のものとして受け容れてきた。 ほかの古代オリエントの諸言語およびラテン語への翻訳聖書、特にウルガタ訳と呼ばれる聖書も常に尊重してきた。」
 聖書の翻訳は紀元前3世紀にエジプトのアレキサンドリアに移り住んだユダヤ人の中で始まった。 彼らは自分たちの聖書をヘブライ語からギリシア語に翻訳した。 このギリシア語訳聖書が最古のもので、70人訳(セプトゥアギンタ)と言われる。 これは最古のもので、その後、アクイラ訳、シンマコス訳、テオドティオン訳などがあるが、 このテオドティオン訳は、現在では死海文書中のワジ・ヘベル出土ギリシア語 12小預言者本文によりアクイラ訳に先立つ70訳の校訂文で、カイゲ校訂文と言われる。 また死海文書の発見により、70人訳聖書がイエス時代にイスラエルの地にあったことも実証された。
 イエスとその弟子たちも、またそこから始まる教会は当時のユダヤ人の聖書、 つまりヘブライ語ないしアラマイ語の聖書を聖書として尊重してきたが、 ギリシア語で書かれた福音書を始め新約各書はそのユダヤ人の聖書を用いる場合、 原則として70人訳を用いている。後にそのユダヤ人の聖書は、旧約聖書と呼んで受容し、 キリスト教徒にとって聖書とはこの旧約聖書と新約聖書からなる一つの書にほかならない。 その後、ユダヤ教徒にとって聖書とはヘブライ語聖書であり、 ギリシア語訳を用いる場合は前述したアクイラ訳となるのに対して、キリスト教徒は70人訳聖書を用いるようになる。 現在まで伝わっている主な写本(シナイ写本、ヴァティカン写本、アレキサンドリア写本など)は、 このキリスト教徒の中で筆写され、用いられていたものばかりである。 キリスト教の中には70人訳聖書を霊感を受けた書とする考えもあるが、この公会議はこの問題には触れていない。 またコンスタンティノポリスのビザンツ典礼系列の東方教会では70人訳聖書を典礼で用いてきて、現在に至る。 この70訳聖書の価値をまず確認することには、この分かれた兄弟たちに対して敬意を表明するという意味もある。  ギリシア語訳旧約聖書については、別のファイル参照(準備中)
 「ほかの古代オリエントの諸言語」に翻訳された聖書として考えられているのは、 まずアラマイ語訳聖書で、これはタルグムと言われる。 タルグムはユダヤ教徒がすでに死語になったヘブライ語の聖書本文を、 安息日礼拝用にアラマイ語に翻訳したものである。 イエス時代以前のタルグムの断片が死海文書中にあるが、古いタルグムの写本の発見とその研究も第2次世界大戦後盛んになってきた。
 タルグムについては、別のファイル参照(準備中)

 つぎに同じセム語族のシリア語への翻訳聖書がある。特にペッシータ訳聖書は、 古代に大いに栄えた東方のシリア教会にとって西方のウルガタ訳聖書に比べられる尊重を受けた。 そのほかセム語族ではアラビア語訳聖書、エチオピア語訳聖書がある。 アラビア語訳聖書は、アラビア語がオリエント地方で優勢になってから翻訳されたもので、 底本はギリシア語訳であったり、シリア語訳であったり、コプト語訳聖書であったり複雑である。
 ビザンツ典礼系列の諸教会でギリシア語訳聖書から翻訳されたものとして、 古スラブ語訳聖書、アルメニア語訳聖書、グルジア語訳聖書がある。
 他方、エジプトのアレキサンドリアには70訳聖書と共に用いられたコプト語訳聖書がある。
 これら古代オリエントの諸言語に広く翻訳された聖書は、 その起源から聖書のメッセージが絶えず現在化され、文化内順応されなければならないと確信されてきたことの、 何よりの証拠である。この点で聖書は、イスラーム教のコーランと根本的に異なる。 コーランの場合、その翻訳はもうコーランではないからである。
 またこの古代オリエントの諸言語の翻訳聖書に言及し、その価値を再確認することには、 これらの諸言語の聖書を典礼に用いる現在の分かれた兄弟たちへの思いも込められている。 このように東方の分かれた諸教会との和解の願望が表明されていると言えよう。
 東方諸言語の聖書と諸教会との関係については、別のファイル参照(準備中)

 西方のキリスト教にとって、古代からラテン語訳聖書が大きな役割を演じてきたことは言うに及ばない。 すでに西暦2世紀末からラテン語訳聖書があったことがわかっているが、 これは70人訳聖書を底本として翻訳されたもので、古ラテン訳聖書(Vetus Latina)と言われる。 その訳文がいかなるものであったかは、 3―4世紀に活動したラテン教父たちの著作の中から聖書引用文を摘出することによって知ることができる。 またスペインのモザラビア典礼用のラテン語訳聖書も古ラテン語訳であり、 それに西欧中世の写本に紛れて伝わる古ラテン語訳聖書本文もあると言われる。
 ラテン語訳聖書の中で最も重要なのが、ウルガタ聖書と言われるものである。 これは、4世紀後半に古ラテン語訳聖書が写本ごとにその訳文が異なるという、あまりにも乱れた状態になり、 これを問題として教皇ダマススがヒエロニムスに校訂させ、改訳させて作らせたラテン語訳聖書である。 これが徐々に古ラテン訳聖書に代わって、西欧中世をとおして用いられるようになった。 これがルネッサンス時代の原典主義の風潮の中で批判されるようになると共に、 その原典に基いて新たにラテン語や近代の言語に翻訳されるようになった。 宗教改革者がこの新しい聖書を用いて、信徒たちに大きな影響を及ぼしたので、 これとは対照的にトリエント公会議(1543−1561年)は、数多くのラテン語訳聖書の中でも、 ヒエロニムス以来教会が用いてきたウルガタ聖書の価値を強調し、これに権威を認めた。 しかし、それはいかなる意味で同公会議がウルガタ聖書にその価値と権威を認めたか、明確に知る必要がある。
 ウルガタ聖書は実際に教会の典礼において千年以上も用いてきた聖書であるから教会の聖書と言えるという意味で、 同公会議はこの聖書の基いて正典を決定した。またこの聖書が正真正銘の本文を伝えて誤りがなく、 信頼するに価するという意味で、典礼や神学において用いることができると教会法的に公けにした。 ただし、当時流布していた写本には乱れがあるので、ヒエロニムスの翻訳本文に遡らなければならないので、 その校訂版を必要とし、その出版を決定した。こうしてシクスト・クレメンティーナ版が出版された。 ただし、これは西欧ラテン典礼の教会のための決定であり、東方の諸教会は考慮外とされているのは当然である。 また同公会議はヘブライ語やギリシア語の聖書本文をないがしろにしていたわけではない。 事実、トリエント公会議の公会議教父たちの中には、そのヘブライ語、 ギリシア語の聖書本文の校訂版作成も視野に入れ、願望する者がいた。当時の時代的制約のもとで、 それはできなかったが、その願望が教皇にまで届けられた。このことについてはは、 ピオ12世もその回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』(1943年)の中で、つぎのように再確認している。

 「批判学の方法に従ってこの原本の本文を用いることが、 ウルガタ訳聖書についてトリエント公会議において賢明にも決定された諸規定に抵触するとは、 誰も考えてはならない。なぜなら文書記録によって明らかなことには、まずラテン語聖書、 つぎにギリシア語聖書、ヘブライ語聖書が可能なかぎり修正され、 神の教会の役に立てるために結局いつかは流布されるようにと、 公会議の議長たちが聖なる会議の名で教皇に求めること−実際彼らはそうした−が、 彼らに委託されているからである。 当時その時代の諸問題やそのほかの支障があってこの願いは十分にかなえることができなかったが、 現在ではカトリックの学者たちの協力によっていっそう完全に、 いっそう幅広く実現することができるし、実現するであろうと確信する。 トリエント公会議は、ラテン語訳ウルガタ聖書を「すべての人が正真正銘の聖書として用いるように」と望んだものであるが、 それは周知のとおり、ラテン典礼の教会とそこにおける聖書の公的利用に関してであったのであり、 疑いもなく聖書の原文の権威と重要性を減じるものではけっしてない。 そのとき問題になったのはその原文についてではなく、 当時流布されていた諸ラテン語訳聖書についてであったからである。 同公会議はその中で、 「数世紀にもわたって長い期間その教会において利用されることによって実証された」ものを優先すべきだと決定したのは正しかった。 したがって、このウルガタ訳聖書の優越する権威ないし、いわゆる正真正銘性は、 特に批判学的根拠によるというのではなく、むしろ数世紀にもわたる教会におけるその正しい利用による。 この利用によりそのウルガタ訳聖書は、教会がかつて理解し、今も理解しているように、 信仰と倫理の事柄に関していかなる誤りもないものとして実証されている。 こうして教会が証明し、確証するように、神学上の議論や公的朗読と説教において安全に、 誤る恐れなくそれを引用することができる。またそれでその正真正銘性はまずもって批判学的というよりも、 むしろ法的に言われるのである。それゆえ、教義の事柄におけるウルガタ訳聖書の権威は、 その教義が原文の本文によって確認され、確証されることを、 またその原文の本文があまねく助けとして求められ、 聖書の正しい意味がどこでも日増しに明らかにされ説明されるようになることを、 少しも禁じるものではない ー むしろそれは今日要求される ー。 またそのトリエント公会議の教令は、キリスト教徒が使用して利益を得るため、 また神の言葉をいっそう容易に理解できるようにするため、各国語の翻訳聖書が、 その原文に基づいてまで作成されることを禁じるものでもない。 そのような賞賛に価する翻訳作業が、すでに数多くの地方で、教会の権威筋の認可を得て行われていることは、 わたしにもわかっている。」(EB549)
シクスト・クレメンティーナ版ウルガタ聖書はけっして満足いくものではなかったので、 20世紀になってから教皇ピオ10世の委託を受けて、 ローマの聖ヒエロニムス修道院で校訂版出版のための作業が始められ、今日まで続いている。 このようにトリエント公会議において公認されたウルガタ聖書の権威も制限づきであった。
 ラテン語訳聖書については、別のファイル参照(準備中)


3) 聖書の現代語訳の必要性
 「神の言葉はいつの時代にもなければならないものであるから、教会は母の心遣いをもって、 いろいろな言語に、特に聖書の原文の本文に基づいて、適切で正確な翻訳がなされるように配慮するものである。」
 神の言葉は絶えず現在化し、文化内順応しなければならないという理由で、 現代語訳聖書の必要性を明言する。ただし、その翻訳は「原文の本文に基いて」、 つまりヘブライ語またはギリシア語本文に基いて行われなければならないという。 ただし、「特に」とあるのは、前述した古代訳も考慮にいれてということであろう。 それにいろいろな言語に「適切で正確な」翻訳でなければならないという。 それは現代の諸言語に適合した翻訳でなければならないということである。 これは原文に忠実であると同時に各言語に適合した正確な翻訳だということである。 これは理論的に当然のことであるが、実際には解決すべき大きな困難を含んでいる。
 聖書の原文の本文について:旧約にしても新約にしても、聖書各書を書いた人間の原本はひとつも残っていない。 残って伝わるのは写本だけである。その写本が数多くあり、そこには異読(variations)があって、 良い写本、良くない写本がある。それゆえ、良い写本を探し出し、諸写本を検証して原本に近づく作業が必要となる。 これを本文批判(textual criticism)という。幸いにも、20世紀は聖書の本文批判が大いに進展した。 その知識と技術を身につけて聖書の翻訳にかからなければならない。
 適合した正確な翻訳について:原文の本文に忠実であるために本文批判を前提にその本文が何を言っており、 何を言おうとするのか、あらゆる解釈法を正しく援用して追求しなければならない。 こうして正しく深く理解した原文の本文を、絶えず変化する現代語に翻訳しなければならない。 それは絶えざる努力を意味する。
 つぎに聖書は世界中のあらゆる文化の中で翻訳しなければならない。 これに伴う困難も大きい。一例をあげれば、「雪よりも白く」(詩編51:9)は赤道直下の島の人々にはいかに翻訳すれば良いのだろうか。
 ここで一般的に翻訳とは何か、特別に聖書の翻訳とは何かという問題に直面する。 その回答を求めて現代の翻訳理論と共に、聖書の場合には古代訳の性格および現代語訳経験の歴史が参考になろう。
 
 現代語訳聖書に対する第二ヴァティカン公会議の積極的な発言は、 16世紀のトリエント公会議以降カトリック教会が取った態度と比べると、 天と地が逆転した感がある。現代語訳聖書では宗教改革者による現代語への翻訳聖書が盛んに行われ、 その中には優れていて、大きな影響を及ぼしたものがある。 ドイツ語のルター訳聖書や英語の欽定訳聖書がその顕著たるものである。 そのほとんどがプロテスタントの聖書であった。ただし、当時どれほど優れた写本が検出されていたかどうか、 その本文批判に時代的制約があった。またその原文の本文がどれほど正確に翻訳されていたか、 問題のある翻訳聖書もないわけではなかった。特に解説つきの聖書の場合、 その解説に特別な神学の影響があるものもあった。このようなプロテスタントの聖書に対してカトリックは警戒し、 前述したウルガタ聖書を高揚する一方、現代語への翻訳は怠ってきたと言っていい。 それだけでなく信徒が広く聖書を読むことには消極的であった。 そのトリエント的状況に第2ヴァティカンっ公会議は終止符を打った。
 なお現代語訳聖書については、別ファイル参照(準備中)

4) 聖書翻訳における分かれた兄弟たちとの協力
 「その翻訳が、機会に恵まれ、教会の権威筋の同意のもと、分かれた兄弟たちとの共同作業でなされるなら、 すべてのキリスト教徒がそれを用いることができるであろう。」
 教会一致運動の高まりと共にその一致の基礎として、 諸教会、諸教派の信徒が共通して用いる現代語訳聖書の必要性が要望されるようになった。 西欧キリスト教内の分裂は、まさに聖書の解釈が原因となって起こったとも言えるので、 その原因を除去するという意味もそこには込められている。実際には公会議の頃、 プロテスタンとカトリックが協力して聖書を翻訳しようという機運が高まっていた。公会議はそれを公認した。
 それは「教会の権威筋の同意のもと」と言われる。聖書は教会の書として尊重されてきたので、 信徒であろうがなかろうがその読者に聖書を差し出すのは個人ではなく、教会であるから、そう言われる。 実際にそのため、教皇庁(ヴァティカンのキリスト教一致推進事務局)と聖書協会世界連盟 (ロンドンのThe United Bible Societies)との間で合同会議がつみ重ねられ、 カトリックとプロテスタントが共同で聖書を翻訳し、出版する場合の基本指針が作成された。 これにしたがって各国で共同訳が作成されることなる。
 それはまた、その後の経験を踏まえて1987年に改善され、発表された (Secretariat for Promoting Christian Unity and United Bible Societies, Guidelines for Interconfessional cooperation in translating the Bible, the new revised edition, Vatican Polyglot Press, Rome, 1987:EB 1041-1092)。
 日本ではカトリックの司教団とプロテスタンの代表が共同訳聖書作成のための委員会を形成し、 その翻訳出版に伴う実務を日本聖書協会に委託した。こうして実現したのが、1987年に発行された新共同訳聖書である。


第23項解説:聖書釈義家の任務


 ここでは神の民を神の言葉によって導き養うという教会の司牧に関わるものとしての聖書釈義家ないし聖書学者の任務について述べる。 他方、その研究者としての任務については、すでに啓示憲章第3章12項で述べられている。したがって、本項の要点は、
 1)教会は聖書の理解が絶えず深められるよう配慮を怠らないということ
 2)教父研究と典礼研究の重視
 3)聖書釈義家の任務
 4)聖書釈義家への激励


1) 教会は聖書の理解が絶えず深められるよう配慮を怠らないということ
 「受肉した御言葉の花嫁である教会は、聖霊によって教え導かれ、 その子らが神の言葉によって絶えず養われるために、日毎にいっそう深い聖書の理解を得るよう心がける。」
 まず神の民を神の言葉によって養うという教会の司牧の任務について述べる。 ここで教会は「花嫁」と言われるが、その花婿はイエス・キリスト (黙示録19:7など、また啓示憲章第1章第6項参照)で、 このキリストと切っても切り離せない関係にある。このキリストは「受肉した御言葉」(ヨハネ1:14)と言われる。 「受肉した」とは「人間になった」ということで、あるとき、あるところで生きた人間になったということを意味する。 「御言葉」、つまり神の言葉もその時代的、場所的制約を受けている側面をもつ。 教会はこの神の言葉であるキリストの花嫁。 教会はその神の言葉であるキリストの理解を絶えず深めるよう努めなければならない。 聖書はその全体においてキリストを証しするものであるだけでなく、このキリストの言葉そのものである。 この聖書は時代と地域の文化的制約を受けた言葉であるが、神的側面をもつ。 このように聖書は受肉した御言葉の延長ということができる。 時代を超えて生きる教会は絶えずこの聖書の理解を深めなければならない。 聖書釈義家の任務は、その教会の任務の一端を担う。

2) 教父研究と典礼研究の重視
 「そのために東方と西方の聖なる教父たち、および聖なる典礼の研究も重視するのは当然である。」
 教父学と典礼学を重視すべきことをいう。教父たちによる、 聖書の解釈は、 現代の聖書学が行う解釈とは著しく異なるのは事実である。 しかし、聖書に聖書本来の宗教的意味を読み取る心を育成するのに欠かせないと言えよう (『教会における聖書の解釈』第3部B2, EB 1453-1463参照)。
 典礼学は、教会が教会としての本質を最も顕著にする典礼の本質やその歴史を研究する部門であり、 聖書もその典礼と密接に関連するものとして読まれ、伝わってきたので、 その深い理解なしには聖書を深く理解することもできない。 実際、たとえば旧約聖書のレニングラード写本も新約聖書のヴァティカン写本も、 聖書の写本はすべて典礼用として伝わってきたものであることを考えれば、当然であろう。 教父学と典礼学の基礎知識なしの聖書学は、幹から切り取られた枝のように、 木そのものの命を汲み取るにはあまり役に立たないかもしれない。

3) 聖書釈義家の任務:
 「カトリックの聖書釈義家は、神学のほかの専門家と共に、熱心に協力して働かなければならない。 それは聖なる教導職が見守る中で、適切な補助手段を用いて聖書を研究し、 説明し、こうして神の言葉の奉仕者が一人でも多くなり、 聖書の糧を神の民に豊かに与えることができるようになり、理性を照らし、意志を強くし、 人の心を神への愛に燃え上がらせるためである。」
 聖書釈義家、つまり聖書学者の研究活動の条件として、神学のほかの専門家と協力すること、 教導職が見守る中で行うこと、適切な補助手段を用いることが言われる。 神学のほかの専門家との協力については『教会における聖書の解釈』第3部D(EB 1488-1503参照)。 教導職が見守る中については啓示憲章第3章12項参照。適切な補助手段とはここでは聖書研究法のことで、 これは基本的なものの上に新しく開発されるものもある。 この聖書研究法については『教会における聖書の解釈』全体、特に第3部C(EB 1473-1487参照)。
 聖書学者の活動の対象としては研究と説明と言われる。つまり専門的な研究のみならず、 それを説明しなければならない。これは神の民のためである。 このことは、第26項で言われる司教の任務に協力することとしても考えなければならない。
 聖書学者の活動の司牧的目的として、神の民のために働くみ言葉の奉仕者への奉仕がある。 教皇ピオ12世の言葉の引用し、最終的には人の心に神への愛を燃え上がらせることにあるという。

4) 聖書釈義家への激励
 「この聖なる会議は、聖書を研究する教会の子らに対して、 幸いにも受け取った任務を日毎に力を新たにし、 あらゆる作業において教会の感覚にしたがって遂行し続けるように、励ますものである。」
 この聖書学者への激励は、 17世紀のR・シモンから第二ヴァティカン公会議まで疑惑の目で見られてきたカトリック聖書学者のことを考えると、 大きな変化を示す。その聖書学者のほとんどは、「教会の感覚」をもって活動したのではなかったのか。


第24項解説:神学における聖書の重要性


 教会の子らの心を養うために聖書学者が研究作業に打ち込むように励ましてから、 本項は聖書が神学と御言葉への奉仕にとってどれほど重要かを述べる。 したがって、本項は前項と密接に結びついており、これを補うものと言ってよい。 前項では聖書学者も神学者も聖書の理解を深めるように勧めるが、 本項でその理解を深められた聖書はあらゆる神学研究の基礎だと言われる。
 本項は公会議前の草案では、聖書と神学の関係を扱い、 そこではむしろ聖書とカトリックの教えの間にある調和を強調するものであった。 この問題は、第2章の検討で扱うことにし、本項は1963年の草案から神学に対して神の言葉が第一で、 何ものにも換えられない基礎であるとを言うことになった。これをもとに改善され、現在の本文となった。 その主旨は、以下のとおりである。
 1)神学は神の言葉、その書にされた言葉としての聖書を基礎にするということ
 2)それゆえ、聖書の研究は神学の魂のようなものということ
 3)御言葉への奉仕は聖書を糧とするということ


1) 神学は神の言葉、その書にされた言葉としての聖書を基礎にするということ
 「聖なる神学は、いつまでも変わらない基礎として、聖なる伝承と共に神の書かれた言葉に基づく。 それはこれを基礎としてきわめて堅固に強化されるのであり、絶えず若返り、 キリストの秘義の中に形成されたすべての真理を信仰の光のもとに探求する。」
 本項の中心である次の文の「聖書の研究は神学の魂のようなもの」というために、ここでまず神学と聖書の関係を述べる。
 神学は啓示を研究する学問であるから、その啓示された神の言葉を書として伝達する聖書を研究対象とする。 すでに啓示憲章は第2章と第3章で聖書が啓示を書として書きとめたものであることを確認したが、 これに基いてそう言われる。また聖書と共に「聖なる伝承」も言われる。 啓示憲章は第2章で伝承も神の言葉を「あますところなく伝達する」ものであり(第9項)、 聖書と共に「一つの聖なる遺産」を形成することを確認したからである。
 神学は、この聖書と聖伝を基礎として、これに「基く」と言われる。 神学は聖書そのものを研究する聖書学を含むが、さらに広くそれぞれの時代、 それぞれの地域の文化内で神と人間、人間と人間の問題を前にして人間の救いを考察する。 この意味でその神学は、聖書を離れては成り立たない。聖書に基かなければ、それは神学ではなくなる。 それゆえ、神学にとって聖書は堅固な基礎であると同時に、「絶えず若返る」力の源泉だと言われる。
 「キリストの秘義の中に」とあるのは、全啓示の営みの中心であり、 要がキリストにあるからである(啓示憲章第1章第4項参照)。 「信仰の光で」とあるのは、神学が信仰を前提とする学問であるから、当然のことである。

2) それゆえ、聖書の研究は神学の魂のようなものということ
 「聖書は神の言葉を含み、また霊感を受けたものであるから、まことに神の言葉なのである。 それゆえ聖書の研究は神学の魂のようなものである。」
 「聖書の研究は神学の魂のようなもの」という表現は、 教皇レオ13世の回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』(1893年11月18日発令 :EB 114)と、 その回勅の一文を引用した教皇ベネディクト15世の回勅『スピリトゥス・パラクリトゥス』 (1920年9月15日発布:EB 483)から取られたものである。 これはまた第2ヴァティカン公会議の司祭養成教令第16項でも引用されている。
 聖書が神学研究の中心であるとは、教父の時代からの伝統である。 この伝統は続けられてきたが、その後神学は教会が決議してきた教義の数々を研究することに重きを置くようになった。 しかもそれはきわめて抽象的な哲学概念と用語を用いて行うようにもなった。 第2ヴァティカン公会議はその本来の伝統に立ち戻ろうとしたと言わなければならない。 この確認は自ずと神学の刷新、ないし「若返り」をもたらすはずである。

3) 御言葉への奉仕は聖書を糧とするということ
 「同じ聖書の言葉によって御言葉の奉仕、つまり司牧者の宣教活動、キリスト教の要理教育と教授、 その中で格別な位置を占めるはずの典礼における説教も、健全な糧で養われ、聖なる実を豊かに結ぶことになる。」
 神学における聖書の重要性の再確認は、当然司牧宣教活動を堅固なものにすると同時に刷新し、「若返らせる」。 こうして豊かな実を結ばせることが期待される。このことについては、 『教会における聖書の解釈』第4部C3、「司牧宣教活動における聖書」(EB 1539-1549)でいっそう詳しく述べられる。


第25項解説:聖書を読むべきこと、またいかに読むべきかについての勧告


 公会議前の草案では、聖書の朗読を勧める項目は、司祭への勧告と信徒への勧告が別々になっていた。 信徒たちへの勧告では、近年聖書に親しむ信徒が増えてきたことを賞賛する一方、 それを読むことの難しさを指摘し、 正しく解説され承認された現代語訳聖書を持つことと教会の生きた教導職に密に結びつくことが強調されていた。 1963年の草案では、その2つの項目が短縮され、信徒たちへの勧告も聖書に親しむようにと言うにとどめ、 その難しさに関する言及は削除された。そのあと、この2つの項目は1つにされ、司祭のみならず、 助祭および御言葉の奉仕職に就けられた者(カテキスタ)にも言及され、またすべての信徒に加えて、 特に修道者が言われることとなった。それにフィリピ3:8の引用、 さらにヒエロニムスの言葉の引用と徐々に加えられ、いっそう力強く聖書に近づくよう勧められることとなった。 その聖書の読みかたとしては典礼における公的読書と個人的読書が指摘され、 補助手段を用いること、および何にもまして祈りが伴う必要性を言っている。 それに司教たちには法的な権威の行使という外面的なことだけでなく、 牧者として聖書の普及のために指導するように言われる。 最後に非キリスト者にまで聖書が普及するよう配慮すべきことまで述べている。要点は以下のとおり。
 1)神の御言葉の奉仕者への勧告
 2)信徒たちへの勧告
 3)祈りを伴うものであること
 4)司教の指導力
 5)非キリスト者への普及のための配慮


1) 神の御言葉の奉仕者への勧告
「そのためにすべての聖職者は、特にキリストの祭司および助祭または要理教育者として御言葉の奉仕に正当に立てられた者は、 そのだれもが『神の言葉の内なる聴き手ではない、単なるその空しい外なる宣教者』ではないように、 熱心な聖なる読書と入念な研究をもって聖書に密着する必要がある。 他方、神の言葉のきわめて豊富な富を、特に聖なる典礼において、自分たちに委ねられた信徒たちに分かち与えなければならない。」
 前項の最後に聖書の言葉が御言葉の奉仕において養いとなり、 豊かな実りとなることが言われる。 それを続けて、ここで「そのため」と言われる。 その奉仕の任務に就けられた者、特に司祭は聖書を読むように勧められる。 司祭に対して聖書を読むことは、すでに歴代の教皇が勧めてきた (『スピリトゥス・パラクリトゥス』EB 480-481, 484;『ディヴィノ・アフランテ』EB 566)。 ここで勧められる聖書の読みかたは、「熱心な」、「聖なる」ものであるということ。 この「聖なる」は祈りを伴ったものであるという意味で、これはあとでいっそう明らかに言われる。 さらに、「研究」も必要で、それは「入念な」ものでなければならない。 これはより正確な、より深い意味を求めて行う行為をいう。 このような聖書との親しみが日々継続して行う必要があるという意味で、「聖書に密着する」と言われる。 聖書について熱心で聖なる読書を、入念な研究も伴わせて日々継続して行うことにより、 神の言葉の「内なる聴き手」になることができる。このようにアウグスティヌスの言葉が引用されている。 そうでなければ、われわれは聖書を読んでも、表面的な読み手でしかない。 司祭に対する聖書朗読の勧めは、同公会議の司祭役務教令(OP)第18項、第13項、第19項でも言われる。 御言葉の奉仕の任務についている者は、自分が聖書に密着するのみならず、 信徒たちにもその神の言葉の豊かさに与らせるようにしなければならない。 それは特に典礼において配慮しなければならない(本憲章第21項、典礼憲章第24項、第35項参照)。

2) 信徒たちへの勧告
 「同様にこの教会会議は、すべてのキリスト教徒、特に修道者に対しても、 聖書の読書に慣れ親しんでイエス・キリストを知るというあまりにもすばらしいこと(フィリ3:8)を学ぶように、 大いにまた特別に勧める。『聖書を知らないことはキリストを知らないことに等しいからである』。 したがって、神の言葉に満ちる聖なる典礼をとおして、また霊的読書や、それに適した企画、 そのほか教会の司牧者の承認と配慮のもとに現在どこでもすばらしく普及している補助手段をとおして、 喜んで聖書に近づいていただきたい。」
 すべてのキリスト教徒、特に修道者への聖書朗読の勧めは、 本憲章の作成過程の中でもその最終段階で徐々に強調されるようになった。 「大いにまた特別に」(vehementer peculiariterque)は、より強く「激しく、ことさらに」と訳すほうがよい。 信徒が聖書にいっそう近づくようにとの教皇の勧めは20世紀になって打ち出されるようになるが、 教皇ピオ10世は1907年福音書朗読の普及のため「聖ヒエロニムス会」が行っている活動を絶賛して支援した。 特にベネディクト15世は聖ヒエロニムス没後1500年を記念して発布した回勅『スピリトゥス・パラクリトゥス』で、 聖ヒエロニムスを模範としてその勧めをいっそう強調した。 ピオ12世は1943年の聖書回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』でこの歴代教皇の功績を思いだしている。 本項もそれを受け継ぐものだから、この二人の教皇の回勅から引用がなされている。 その勧めを受け継ぎながら、本啓示憲章はそれをいっそう力を込めて強調した。
 聖書を読む目的は、心の糧、養いのためであり(第21項)、 聖書を読む方法はその一部であるが聖書学者の説明があると言われる(第23項)が、 聖書を読むことそのものは何を対象としているのかは、本項で言われる。 それはキリストを知るということにほかならない。ここにキリスト教的に聖書を読むことの焦点がある。 これをパウロの手紙とヒエロニムスの注解書からの引用で明言する。
 ここでその聖書を読むのはまず典礼においてであるが、典礼以外のときにも読むことが勧められる。 それはここで「霊的読書」と訳されているが、その原語は、ラテン語でpia lectio、「敬虔な読書」、 「信心を込めた読書」という意味。これが『教会における聖書の解釈』第4部C2、 「聖なる読書」(EB 1535-1538)で、伝統的な「聖なる読書」(Lectio Divina)という用語を用いて、いっそう詳しく説明される。
 なお聖書読書の勧めは、信徒に対しては本公会議の信徒使徒職教令第4項、 修道者に対しては修道生活教令第6項で述べられている。ここで聖書を読むための方法として、 典礼およびほかの企画や補助手段が推奨されているが、この公会議後各国でそのための活動が盛んに行われてきて、大きな実りがある。

3) 祈りを伴うものであること
 「聖書の読書には、神と人間の会話が成り立つように祈りが伴わなければならないことも忘れてはならない。 『わたしたちは祈るときには神に語りかけ、神の託宣を読むときには神に耳を傾ける』からである。」
 これは司祭はじめ御言葉の奉仕者のみならず、 信徒、修道者すべてが聖書を読むときの基本的心構えをいう。 啓示憲章作成の最終段階で加えられたこの文は、本項の前の文のみならず、 本憲章が述べてきたことから出てくるひとつの結論と言えよう。 前の文では聖書を読むということは、キリスとを知ることだと言っているが、 この「知る」はただ頭で知るだけでなく、心で知ることも意味する。 「知る」は、聖書の用法では知、情、意を含む全人格的関わりを意味していることも付記しておく。 キリストを知ることは必然的に聖書を読む者の生きかたに関わる。聖書を読んでキリストを頭で知って、 読者はキリストとその呼びかけを拒否するか、通り過ぎるか、受容するか、 いずれにしても中立ではすまされない。公会議は「会話が成り立つように」と、 キリストとその呼びかけに肯定的に答えるようにとの願いを込めて言う。この対話にこそ祈りがある。
 また、ここで本憲章が啓示を神と人間との対話として捉えていることとの関連も見逃すことができない。 それによると、啓示はまず神が被造物をとおして、つぎにイスラエルの歴史をとおして語りかけ、 最後にイエス・キリストをとおしてその語りかけを総じてまとめ完成されたが、人間がこれに答えることと捉えた。 その啓示を時代を超えて伝達するため、それを聖霊の霊感によって書きとめたものが聖書である。 この聖書の本質に応じた聖書の読みかたがいかなるものかと言えば、祈りにほかならない。 その最も大切な聖書の読みかたを、アンブロジウスの言葉が短くまとめている。

4) 司教の指導力
「『使徒的教えを託されている』司教たちは、自分に委ねられた信徒たちに聖書、 特に新約聖書、その中でも福音書を正しく用いさせるために、 必要かつ充分な説明つきの聖書翻訳によって、教会の子らが安全にかつ有意義に聖書に慣れ親しみ、 その精神を教え込まれるように、適切に指導しなければならない。」
 聖書がいかなるものであり、いかに読むべきものであるかを述べてから、 ここで司教がその司牧的任務として聖書に関してなすべきことが言われる。 すでに第22項で聖書翻訳について述べたが、ここでは「説明つき」の翻訳聖書の重要性が説かれる。 聖書は、すでにイスラエル宗教伝承の中で神の言葉を説明つきで継承しながら書きとめた書を収集したものである。 それは神の言葉は言葉づらだけでなく、 その内容が読む者の頭と心に刻みこまれなければならないものだという確信に基いている(申6:4−9参照)。 イエスもそれを継承された(マルコ12:28−34参照)。 このように司教たちは信徒たちが聖書の内容を「安全に」、 つまり正しい道に沿って把握し、「有意義に」、 つまりその深みを味わって心が動かされるように指導しなければならないと言われる。 しかも、「適切に」と言われる。つまり過剰な指導でもなく、放置するのでもなくということであろう。 これは直接には司教たちに言われているが、その任務に協力しなければならないという意味を込めて、 すべての御言葉の奉仕者と信徒にも言われている。ここでは特に新約聖書、 なかでも福音書について言われるが、その重要性については第5章第17−18項参照。
 なお、日本ではフランンシスコ会訳聖書が日本カトリック司教団の承認と委託を受けて作成されている。

5) 非キリスト者への普及のための配慮
 「そのうえ、適切な注釈つきの聖書の発行がなされ、 それが非キリスト教徒のためにもその実情に合わせたものであるのが望ましく、 またその流布のためにも司牧の責任者も、どの身分のキリスト教徒も賢明に心を砕くようにしていただきたい。」
 ここでカトリック教会史上はじめて、非キリスト教徒を配慮して翻訳聖書を作成するようにとの願望を表明した。 これは宣教ということを考えれば当然のことである。本公会議の宣教教令ではこのことへ言及が欠落しているので、 その補完がここにあると言えよう。 実はプロテスタンの宣教師は諸外国においてまず聖書をその地の言語に翻訳するのに組織的に情熱をかけて取り組んだのに対して、 カトリックの宣教師はそれを後回しにしてきた。それにはそれなりの事情があるが、 日本語訳聖書の近代の歴史を見れば、その事実は明らかである。本啓示憲章はそのプロテスタントの模範に倣って、 この文が作られたといえよう。プロテスタント側でも、世界聖書協会連盟はこのカトリックの願望に賛意を表明し、 協力を約束した。こうして日本でもキリスト教諸教会、諸教派の協力による翻訳聖書(第22項)が1987年の『新共同訳聖書』 (日本聖書協会発行)で実現したが、続いて同じ協力の精神でその注解書の発行(日本キリスト教団出版局)も行われている。 


第26項解説:結び


 1963年の草案から、本項は結びとして御聖体の崇敬と共に、 神の言葉の尊重と崇敬が新しい霊的刺激となるようにとの希望が表明されていた。 その後、徐々に付加されて、憲章全体の結びとなるようにされた。 啓示について言及され、冒頭にある「神の言葉」が繰り返し述べられ、 本憲章の結びとして、まことに相応しいもとなった。要旨はつぎのとおり。
 1)願い、 2)希望

1) 願い
「そのように聖書を読み、学ぶことによって、神の語りかけが駆けめぐり、たたえられ(2テサ3:1)、 教会に託された啓示の宝がますます人々の心を満たしますように。」
 聖書を読むということ、つまり公的に、また私的に神の語りかけとして祈りながら読むということと、 聖書をそれぞれその読者の状態に応じて学問的に学ぶということ。それによって「啓示」、 つまり第1章、第2章で述べてきたことの「宝」が人々の心に満ちるようになるようにと願う。

2) 希望
 「熱心に御聖体の秘義に与ることによって教会に命が成長するのと同じように、 とこしえにとどまる(イザ40:8;1ペト1:23−25参照)神の言葉をますます崇敬することによって、 霊的生活の新しい刺激を希望することができる。」
  ここで再び御聖体と神の言葉が共に言われる。  ここでも受肉した神の言葉の秘跡的現存である御聖体と神の言葉が書きとめられている聖書は 一緒に教会の成長とその中で信仰に生きるものにとって新しい刺激となることが希望されるという。


主な参考文献


1.La Costituzione Dogmatica sulla Divina rivelazione, ed.by G.Favale, Torino-Leumann, 1966, 417-465:C.M.Martiniによる啓示憲章第6章の解説:これは、 C.M.Martini, La Parole di Dio alle origini della Chiesa, Analecta Biblica 93, Rome, 1980, 3-33に収録。

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