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父なる神の慈愛
『声』誌1999年1月号から
和田 幹男



イエスへの信仰からイエスの信仰へ

 キリスト教は、ニカイヤ、コンスタンチノポリス公会議の信仰宣言を基礎とし、 父である神、その御子イエス、聖霊を唯一の神として信仰する。 これがなければ、いかにキリスト教を名乗っても、キリスト教ではない。 その中でもナザレのイエスへの信仰がキリスト教の核心である。
父なる神は、ユダヤ教が信じる唯一の神と同じである。 この神の働きとして聖霊も、ユダヤ教は信じている。 しかし、この神の受肉した御言葉としてナザレのイエスを信仰するのはキリスト教だけである。 キリスト教にとって、イエスは神であり、人間であり、このイエスが信仰の対象である。
イエスご自身は一人の人間として何を信じておられたのであろうか。
イエスは一ユダヤ教徒として生まれ、成長されたので、当時ユダヤ教が教える神を信じておられた。 ユダヤ教はモーセの律法に基づく宗教で、その基本は旧約聖書に書きとめられている。 イエスは律法に現れるこの神の意志を尊重し、それに徹底的に従われた。 またイエスは自分と同じようにその神を信じ、その意志に従うように人々に教えられた。


旧約聖書によって教えられた神

 イエスが信じた神を問題にすれば、まず旧約聖書が教える神を見なければならない。 そこにはユダヤ教がその長い歴史をとおして学んだ宗教伝承がまとめられている。 その神をあえて要約すれば、 まず天地万物の創造者(創1・1〜2・4a、イザ40・12〜17、21〜31など)であり、 支配者(ヨブ38〜42など)である。
それは、この神が宇宙万物を構成する物質のどれとも異なって、被造界の「外」に実在する者。 したがって、それは五感では感知されず、時空を超える者であり、宇宙万物の創造者として想像を絶する威力と知恵を有し、永遠から永遠に生きる者である。
このようにこの神は常に人間の理解を超越すると同時に、この世界の「中」のどこにでも存在するおかたである。 それはまた人間の歴史を導かれるおかたでもある(イザ41・1〜5、24〜26、44・24〜45・7など)。 ユダヤ人は自分たちの歴史がその神によって導かれたことを教わった。 出エジプトの救い、荒れ野の旅、約束の地の獲得、 国家の創設とその崩壊、捕囚と離散、神殿の再建、 列強国による支配と終末の期待など変遷をとおして、 神とはどういうかたなのか学んだ。 その歴史をとおして絶えず先入観を打ち破られながら、その神を学んだ。 その中で、自分たちを導いた神が全人類のための神でもあるという認識も与えられた。 「地上のすべての氏族はあなた(=アブラハム)によって祝福に入る」(創12・3)。 「民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた」(イザ42・5、また60・3も参照)。

 この神は抽象的な観念ではなく、知恵と意志を備えた人格神だということである。 これは人間と同じようにではあるが、人間をはるかに超える知恵と意志を備えている。 また人格というのもあまりにも人間のレベルに下げて考えてしまう危惧があるので、位格神と言われる。
イスラエルがその歴史をとおして学んだのは、人間がその神を求める前に、 神が人間を求めて語りかけておられるということだった。 「古代オリエントの諸国民はすべて神を探し求めていたが、手探りしながらであった(使17・17)。 知恵の書によると、彼らが神を探し求めながら彷徨ってのは、 事物の美しさに魅せられ、この世界の諸勢力を神々と考え、 その造り主がどれほど優れているかを知らなかった(知13・3)からである。
ところが、神がイスラエルに自らを示されたのは、人間を探し求めているのは御自分だということであった」(『聖書とキリスト論』、教皇庁聖書委員会、1984年参照)。 古代イスラエルの宗教文化が達したのは、唯一の真の生ける神の存在だけでなく、 それが位格神であり、その神が人間を救おうとする意志を持っておられるということだった。

 それは人間が人間の道を歩むことを要求する神でもある。 人間は、この世界の物質と生物とのつながりの中にあると同時に、人間にしかない特性をもっている。
それは倫理性ということにある。 倫理性とは、法律として規定される以前からあるもので、 人間が人間としてなすべきこと、してはならないことをいう。 それは責任を問われることに明らかに現れる。 犬が噛みついても責任がないが、人間が噛みつけばそうではない。 まさに倫理性にこそ、人間が人間たる所以がある。
その倫理性がどこから来るのかと言えば、 この世界と人間を創造した神からにほかならない。 それゆえ、その神は人間がただ願いごとをする相手ではない。 それでは、神は人間の欲求を満たすはずのものだと想定されるものであって、これは神ではない。 神に願ってもよいし、願わなければならないが、 その神はむしろ自ら人間に要求するもので、人間はそれに従わなければならない。 その要求が倫理であり、それは十戒(出20・1〜17、申5・6〜21)のみならず、 どの人間の良心にも生れつき刻み込まれている。

 神が知恵と意志を備えた位格神であるから、 わたしたちは神に向かって「あなた」と呼びかけ、祈ることができる。 「わたし」と「あなた」の対話としての祈りは、 詩編に集められているように、イスラエルの宗教伝承によって教えられた。 この言語を絶する知恵と力を備え、 時空を超える神に対して、 人間に対するのと同じように「あなた」と呼びかけるということは、 考えてみれば驚くべきことである。
それは、どういうことであろうか。
敬虔なユダヤ人哲学者M・ブーバーは、 神との「わたし」と「あなた」の対話についてこう述べている。 「雲に包まれた関係であるが、自己開示的であり、無言語だが、 言語形成的であり、わたしたちは“あなた”といわれるのを聴かないが、 呼びかけられていると感じ、わたしたちは 〜形成しながら、思考しながら、行動しながら〜答える。 わたしたちは、口をもって“あなた”と言うことはできないが、 わたしたちの全存在をもって(わたしとあなたという)基礎語を語る」。

 イスラエルの宗教伝承は、畏れながらも、 これほど親しみをもって神に祈ることを教えるが、 そこには父としての神はほとんど意識されていない。
父なる神の観念がないではない。 イスラエルは主なる「神の子ら」、「その長子」であるとの自覚がある一方(出4・22など)、 神は父であると言われる(申32・6)。 しかし、それはきわめて稀であり、 比喩的にそう言われるにすぎない(イザ63・16、64・7、エレ3・4、31・9、マラ1・6参照)。 また、詩編の中で「父よ」と呼びかけることもない。
イスラエルは意識的に神を父と呼ぶのを控えたとさえ思われる。 近隣の諸民族がそれぞれ自分たちの神々を父と呼んでいたので、 その神々とイスラエルの神とが紛れるのを避けようとしたのであろう。
イスラエルは、むしろ「契約」の用語をもって神との関係を理解しようとした。 何ものでもない自分たちを選んでくれた神の無償の愛をこの「契約」によっていっそう明らかに表すことができた。
神とその民の関係を契約として捉える申命記の中に、神の愛が言われるところがある。 「主はあなたの先祖に心を引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった」(申10・15、また7・7〜8、4・37〜38参照)。 しかし、ここでは父の愛ではなく、契約の愛であり、それは友情とか恩情の線上にある。

 唯一神信仰が確立してくると、 父なる神という表現も現れる(トビト13・4、知2・16、14・3、シラ23・1、4、51・10)。 その例が死海文書(感謝の詩編9・29〜31、35〜36)にもある。

    まことにあなたは父よりもわたしを知り、
    胎にいたときからわたしを固め、
    母の腹にいたときから、
    わたしを心にかけてくださった。
    産み親の胸にいたときからわたしに対するあなたの憐れみがあり、
    育て親の懐にいたときからわたしの安泰を気にされた。

    まことにあなたはあなたのすべての信徒の父、
    幼子を愛でる母親のようにあなたは彼らのことで喜び、
    育て親のように、懐の中であなたのすべての御業を支えてくださる。

 この父と母が、作者の両親のことか、それとも先祖アブラハムとサラのことか、 あいまいであるが、いずれも肉親が比較のために考えられており、 神は比喩的にそれ以上に父であり、母であると言われる。


イエスが明らかにされた神

 イエスは当時のユダヤ教の神を受け入れ、 さらにその神がいかなるおかたかをいっそう明らかに示された。 それはそのイエスの神意識に窺うことができる。 イエスは神を「アッバ」と呼んで祈られたという福音伝承がある。 イエスは、受難の前にゲッセマネの園で「アッバ、父よ」と祈られた(マルコ14・36)。 また終末の時について尋ねられたとき、「天使たちも、子も知らない。父だけがご存じである」(マルコ13・32)。 また祈るときには「父よ」と呼びかけるようにと教えられた(ルカ11・2、マタイ6・9も参照)。
これが歴史的人物としてのイエスまでさかのぼる伝承と見て間違いない。
このアッバは、J・エレミアスが説いたように子供が父親を呼びかけるときの言葉である。 ここにあいまいさはない。 イエスは天地の創造者であり、 歴史の主である神を幼児のように親しくアッバと自覚された。 処女マリアから生まれ、 父親がいないイエスは、神をアッバと感じておられたということである。

 イエスはこのアッバを確固たる信仰をもって信じておられた。 イエスは「神を信じなさい。まことにわたしは言う。だれでもこの山に向かって「立って海に飛び込め」と言って、少しも疑わず、言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになる」(マルコ11・22〜23)と教えられたが、 これは単なるレトリックではない。 山が海に飛び込むことは今すぐ起こらないかもしれない。 しかし、それは今は「封じられている」(イザヤ8・16)だけなのである。
このイエスの教えは、はからずもご自分の信仰も表している。 人間はすべて兄弟姉妹であり、 それゆえ敵も愛さなければならないというイエス独特の教えも、 まさに神がアッバであることから来る。

 またイエスはそのアッバを何よりも愛された。
敬虔なユダヤ教徒は毎朝毎晩シェマーの祈りを唱えるが、ここに律法の基本がある。 それは「聞け、イスラエルよ、わたしたちの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6・4〜5)という句で始まる。
イエスがこの祈りに日頃親しまれたことは間違いない(マルコ12・28〜34参照)。 このアッバに対する全身全霊を込めての愛こそ、イエスの生涯を貫く基本的姿勢ではなかったか。 まさにこの情熱のゆえにエルサレムの神殿から商人を追い払おうとされた(マルコ11・15〜19)。
そのためにイエスは指導者たちによって捕えられ、死の定めを受けることになった。 その死がまたアッバに対する無条件の愛を証しすることになる。

 このシェマーの祈りを口で唱えることは易しい。 しかし、命を奪われそうになってもなお、この祈りを唱え、神を愛しづけられるか。 ここにこの掟の厳しさがある。 そういう状況でもなお神を愛しきることは、 神の御手に自分を全面的に委託しきるという「信仰」がなければできない。 そこにはイスラエルの宗教伝承が教えてきた神に対する信仰と愛の極致がある。 イエスの死はその父なる神への信仰と愛の極致であった。

 ここで問いたい。 このイエスのように死ぬまで神への愛を貫くことが、はたして人間にできるのだろうか。 できるとしたら、そこには神の力が働いているとしか考えられない。 その神の力こそ「聖霊」と言われるものであり、 イエスをそこまで愛させているのはその父なる神ご自身ではないかということになる。 そこから、父なる神ご自身が、イエスをとおしてご自分を愛しておられるのだとさえいえよう。

 心の目が開かれた弟子たちには、 イエスの死は、愛するとはどういうことかの啓示として見えたのであろう。 ヨハネは「神は愛なり」(1ヨハ4・8)というが、 それはイエスの十字架上の死を瞼に描きながら、 その意味を瞑想した結論のようなものである。
換言すれば、イエスがただ教えだけでなく、 その死において頂点に達する生をもって証しされたのは、 神が人間にとって父であること、慈愛に溢れる父であること、 それゆえ人間と共に苦しんでくださる父であることである。


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