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教皇庁教理省宣言
『ドミヌス・イエズス』の理解を深めるために
和田 幹男


本宣言の主題

 本宣言は、現在ますますその重要度が増すカトリック教会とほかの諸宗教との対話が進められる中で、 イエス・キリストとその教会をいかに考えなければならないかを、あらためて問題にしている。 グローバル化が進む中で、2001年9月11日の対米同時多発テロのような深刻な諸問題発生が相次ぎ、 その解決に向けて宗教のかかわりも重要視されるようになってきた。 その宗教に関して、世界中に多様な宗教があって、これを事実として認め、 その上で諸問題の解決を目指さなければならなくなってきた。 いわゆる宗教の多元性は無視できず、各宗教はほかの宗教と連携しなければならなくなった。 この宗教多元性をカトリック教会としていかに受けとめるかを、本宣言は問題としている。 どこにその問題があるかといえば、宗教的多元性を事実として認め、 それぞれの宗教に救いへの道があると考えるなら、 カトリック教会はこれまで主イエスから委託された使命として重視してきた福音宣教をどう考えればよいのかというところにある。
 本宣言がこの問題を真正面から取り上げているとするなら、 この日本というアジアの一国で諸宗教に囲まれてカトリック信仰を生きる者にとって、 本宣言は見過ごしにできないし、また軽々しく片付けることも許されない。 この宣言の公表後、国内国外で批判の声があげられた。 その中には焦点のあったものもあれば、あっていないものもある。 確かに、教皇庁から出されたこの宣言には、特にいわゆる宣教地から言えば、 昔に戻ったかのような文体とその奥にある思考形態、論の進めかたに違和感を覚えさせられるかもしれない。 何よりも感性的に反発を感じるところがある。 しかし、ここには組織神学が盛んではない現代日本のカトリック教会にとって、 心しておかなければならない重要な教えも少なくなく、また美しいとさえ思われるところもある。 その重要な教えの幾つかがこの日本で十分明らかに説明されずにきて、 なおざりにされているとすれば、その教えの再確認は必要とさえ思われる。 そういうわけで、批判する前に本宣言の内容をよく理解するよう努める必要がある。
 最近、日本では教皇庁の公文書に対してあまり関心がないか、 関心があっても批判的に取り上げられることが多い。 大聖年中に教皇庁から発表された『記憶と和解』に対しても否定的な論評が発表された。 またこの『ドミヌス・イエズス』に対しても否定的な発言が相次いだ。 それぞれの論客の意図するところとは異なるであろうが、 その結果日本のカトリック教会は教会の内にも外にも、 広く教皇庁に対する不信感を招いてしまったのではないだろうか。 これがまた結果的に日本のカトリック教会の教会としてのアイデンティティ喪失の危機を招くことにならなければいいが、と願う。
 さらにまた現在、宗教的多元性の積極的意味をカトリック信仰の観点から追求し、 諸宗教間対話に生かしていく必要があるのは言うまでもないが、 その追求の中で諸宗教それぞれの信念を軽々しく並置し、 同等の価値を認めるのはいかなるものであろうか。 また特に過去の数世紀にわたり社会と人々の心の支えとなってきた伝統的な宗教と最近おこされた擬似宗教も含めて新宗教、 新々宗教を同一視することはどうだろうか。 宗教的多元性をいかに考えるべきか判断を誤れば、 一般大衆の宗教的無知、無関心、幼稚性、白紙状態を助長しかねない。 こうして宗教がらみの凶悪犯罪を招くことになるかもしれない。 オウム真理教事件が日本の宗教界に突きつけたこの問題は放置されたままだが、 宗教的多元性を宗教的相対主義的に理解することに警告を発する本宣言は、 まさにその問題に触れる。本宣言を的確に評価するのは、容易ではないが、 われわれにとってもきわめて重要な主題を取り上げている。


本宣言発表の背景

社会的時代的背景

 教皇庁の公文書は、いつもその時代の問題に答えようとして発表される。 本宣言の場合、その問題の背景になっているのは、宗教的多元性である。 これはわれわれ日本のカトリック教徒にとって何も新しい信仰の背景ではない。 したがって、本宣言は西欧における宗教的多元性がその背景になっていると言えよう。 実際に、20世紀も終わりに近づくと、 それまでキリスト教国であった西欧はアフリカ系、アラブ系、アジア系、 それに東欧系といろいろな民族が共存する地となった。 それと共にいろいろな宗教が身近に並存するようになった。 こうしてローマの教皇庁のお膝元に大きなイスラーム教のモスクが建てられた。 イタリアの主要都市には日本の一新興宗教の拠点が設けられ、その宣教活動が活発に行われている。 また東洋起源の一宗教集団が若者を集めて堂々と大集会を催し、 マスコミの関心を引いている。これまでキリスト教しかなかったところに、 他の諸宗教の宣教活動が熱心に行われ、その勧誘を受け入れる者が増えているのも事実である。 このような事実を前に戸惑う司教や司祭や教師もあろう。 いずれにせよ、西欧でキリスト教以外の諸宗教への関心が高まり、それが今日まで続いている。 その証拠に西欧の主要都市にある書店を覗いてみると、 特に一般読者向けの諸宗教関連の書物が目にとまるようになった。 これはキリスト教以外の宗教をそれぞれ明確に紹介しようとするものである。 このように諸宗教についての知識が広く行き渡るようになると共に、 この宗教的多元性の現実をいかに考えればよいのか、 その理論的考察も広がりを見せるようになった。本宣言の背景に、 このような宗教的多元性の実情があるのではないかと思う。

  神学的背景

 宗教的多元性の事実を前にして、これをいかに説明するのか、 神学においていろいろな試案や提案が発表されている。 カトリック教会がほかの諸宗教を積極的に評価するのは、 第2ヴァティカン公会議(1962−1965)を契機として始まった。 その評価は、同公会議の『教会憲章』(第2章16−17項)、 『現代世界憲章』(第1章22項)、『宣教活動教令』(第1章3項)、 『諸宗教宣言』(第2項)の中に見ることができる。 それ以前では、「教会外に救いなし」(extra Ecclesia nulla salus)という語句は、 厳密な意味で理解することが1949年8月8日付けボストンの大司教宛て検邪聖省書簡の中で退けられている (DS3866−3873)にもかかわらず、教会に広く行き渡っていた確信をよく表現している。 当時考えられていた教会もあまりにも一面的に、 この世界の中で教皇を頭として活動する組織として捉えられる傾向があった。 第2ヴァティカン公会議では、教会とは何かがあらためて信仰の対象として啓示、 つまり聖書に基いて問い直され、教会は神の救いの計画の中にすでに秘められてあるもので、 その計画遂行の最終的担い手としてのナザレのイエスと内面的に密接に結び合わされたものとして 「秘義」であると再確認された(教会憲章)。この世界における組織としての教会は、 その一側面でしかない。この組織としての教会の外にも救いのための神の働きがあり、 キリスト教以外の諸宗教の伝統を尊敬し、そこにある積極的な要素を高く評価するよう心を開いた。 それに神学的根拠を提供した神学者の一人がK・ラーナーで、 彼が提唱した「無名のキリスト者」論、「匿名のキリスト者」論は大きな影響を与えた。 この第2ヴァティカン公会議が開かれた1960年代に諸宗教の神学が生まれたが、 それは以前の諸宗教に対する考えが排他的教会中心主義とすれば、 一般的に包括的キリスト中心主義と言えよう。 その考えによると教会とかかわりのなかった人にも神の救いが与えられるが、 その恩恵もイエス・キリストの仲介と聖霊の働きによるとする。 1970年代になって諸宗教の信仰者の交流が世界的な規模で飛躍的に盛んになり、 これを背景に諸宗教の神学も多様に展開されるようになった。 つまり諸宗教の神学も新しいパラダイムを必要とするのではないかということが提唱されるようになった。 それ以来、ほかの諸宗教を神学としていかに考えればいいのか、 諸宗教との対話の実践を推進しながら、また第2ヴァティカン公会議の神学を踏襲ないし意識しつつも、 それをいっそう深め、またはそれを超えて思考され、議論されるようになった。 こうしてある学者はキリスト教徒はキリストによって救われるが、 それ以外の諸宗教の信奉者はそのそれぞれの宗教によって救われるのであり、 これも神の計画として考えなければならないのではないのかとか、 教会中心主義やキリストよりも神中心主義として考えなければならないのではないかとか、 いろいろと試論が提唱された。その中にはその提唱者が意図するところとはかならずしも言えないが、 宗教的相対主義の容認ないし是認につながるものもあった。 本宣言はそのような神学の実情を前にして作成され、公表された。
 1990年代後半に諸宗教の現実をキリスト教神学としていかに理解すべきかという問題に取り組んだカトリック神学者としては J・デュピュイ、J・F・ニッター、M・アマラドス、R・パニカーがその代表的なものとして指摘される。 それにまた諸宗教との対話の問題に取り組んだH・キュングや日本の宗教的伝統にも詳しい J・ヴァルデンフェルスの名を上げることができる。 カトリック以外の学者J・ヒックなどもこの課題に取り組んでいる。いつものことだが、 新しい事実への神学の取り組みには、たとえ伝統的神学から見て行き過ぎ、 ないし逸脱があったとしても、驚いてはならない。最先端の問題に取り組む神学者は、 問題が重要で緊迫しているだけに、当然リスクを犯して挑戦するものである。 彼らのおかげで結果的に神学も豊かになるのは、今に始まったことではない。
 その中で本宣言の中で曖昧ないし誤っていると考えられているのは、 J・デュピュイである。名指しこそされていないが、彼がやり玉にあげられている。 彼は1997年に『宗教的多元性のキリスト教神学に向けて』という著作を発表したが、 本宣言が出された背景に特にこの著作があったことに疑いの余地はない。 J・デュピュイは、その著作が教理省で検討され、 そこには曖昧さと問題があると指摘され、尋問された。 またその著作について、教理省が『J・デュプュイの著作"宗教的多元性のキリスト教神学に向けて"についての通知』 (notificazione a proposito del libro di J.Dupuis " Verso una teologia cristiana del pluralismo religioso") を2001年1月24日に発表し、これは同月27日付け『オッセルヴァトーレ・ロマーノ』誌に掲載された。 この通知は、宣言『ドミヌス・イエズス』と同じ内容を問題にしている。 教理省は、このデュピュイとその神学につながるほかの多くの神学者に警告を与えたようとしたのであろう。 実際に本宣言が発表された2000年の大聖年を機会にカトリック神学が諸宗教の現実にいかに関わっていくかについて、 盛んに議論が展開された。


1) ジャック・デュピュイ(J. Dupuis,S. J. )
主な参考文献:
「キリスト論と諸宗教における救いの神学」、 『神学ダイジェスト』74(1993年夏)50−61:この論文を読めば、 確かに問題があることがわかるであろう。 ただし、著者自身その後熟考を重ね、曖昧さを取り去るよう努めているので、 そのことも配慮する必要がある。 それに『ドミヌス・イエズス』が説く内容には反論すべきところが何もなく、 同じ内容を異なる表現で、異なる文脈の中で明らかにしただけだと釈明している。
Jésus-Christ à la rencontre des religions, Paris, 1988
Toward a Christian Theology of Religous Pluralism, Maryknoll (Orbis Books) , New York,1997 : Vers une theologie chretienne du pluralisme religieux, Paris,1997
Il cristianesimo e le religioni, Dallo scontro all'incontro, Brescia, 2001

2) ポール・ニッター(Paul Knitter)
主な参考文献:
「キリスト教は真にして絶対の宗教か」、 『神学ダイジェスト』61(1986年夏)39−50 (Concilium 21, 1985の独語からの邦訳)
ジョン・ヒック、ポール・F・ニッター編、八木誠一、樋口恵訳『キリスト教の 絶対性を超えて――宗教的多元主義の神学――』、 春秋社、1993年
Paul F. Knitter, Catholic Theology of Religions at a Crossroads, Concilium 183 (1986) 99-107

3) M・アマラドス(M.Amaladoss)
主な参考文献:
「対話は宣教と両立するか」、『神学ダイジェスト』61(1986年夏) 19−38(Concilium 21, 1985の独語からの邦訳)

 そのほか本宣言が公表される前後、各地で宗教的多元性とキリスト論を主題とした著作の出版が相次ぎ、 また国際会議や研究会が開かれ、その成果が発表されている。

Odasso, G., Bibbia e Religioni, Prospettive bibliche per la teologia delle religioni, Rome, Urbanian University Press, 1998
Cristologia e Missione oggi, a cura di G.Golzani,P.Giglioni, S.Larotemprel, R, Urbanian University Press, 2001 (大聖年中にウルバノ大学で開催されて国際宣教学会議で発表された論文集)
Gesù Cristo e l'unicità della mediazione, M.Crociata (ed.), Roma (Paoline), 2000
Unicità e Universalità di Gesù Cristo, in dialogo con le religioni, a cura di M.Serretti, Roma (San Paolo), 2001(ラテラノ大学後援のもとでなされた研究成果)


教皇庁公表の関連公文書

 諸宗教との対話の進展に伴い、教皇庁は第2ヴァティカン公会議後、その25周年を記念して、 1992年に諸宗教評議会・福音宣教省訓告『対話と宣言』―― 諸宗教間の対話とイエス・キリストの福音の宣言をめぐる若干の考察と指針―― (カトリック中央協議会: "Dialogue and Proclamation" , AAS 84, 1992, 414-446)を発表した。 また、1997年に、国際神学委員会は、 『キリスト教と世界宗教』 (International Theological Commission, Christianity and the world religions, Vatican City,1997)を発表した。 この二つの文書を作成し、発表した教皇庁の機関は異なるが、 本宣言はまたそのどれとも異なる教理省によって発表された。 ここに教皇庁内部に諸宗教に対する態度に温度差があるということで、 その整合性が問題になるかもしれない。他方、カトリック教会全体として見るなら、 一部の神学者が極端にまで突き進むと思われるとき、 ほかから警鐘が鳴らされるというバランス感覚が現れていると言うこともできよう。 本宣言が、ある神学者の名前をあげて、その学説に警告することはないが、 彼らの試案や提案を意識して書かれていることは確かである。 そういうわけで、現代の宗教的多元性を問題とする著作を読めば、 本宣言の意義も少しは明らかになろう。本宣言とこれらを併せて学ぶことにより、 問題の根を窺い、それをとおして神の救いの秘義をいっそう広く深く理解することになれば、 これは願うところであろう。こうして、諸宗教との対話が深められ、 またいまや一般的風潮となった宗教的相対主義や折衷主義、 それに無関心に対して福音宣教の熱意が新たにされれば、これこそ願うところである。

 日本の宗教学界でも宗教的多元性はかなり盛んに取り上げられている。 そこから学ぶべきことは少なくないし、また認めることができない考えもあろう。 その関連の参考文献をここに掲げておく。(カッコ内は英知大学図書館の請求番号)

ジョン・ヒック著、間瀬啓允訳『神は多くの名をもつ:新しい宗教的多元主義』、岩波書店、1986年
ジョン・ヒック著、間瀬啓允訳『宗教多元主義――宗教理解のためのパラダイム変換』、 法蔵館、1994年
ジョン・ヒック著、間瀬啓允、稲垣久和訳『宗教の哲学』、勁草書房、 1994年:Philosophy of religion, 1990 (161.1-H54)
ジョン・ヒック、 ポール・F・ニッター編、八木誠一、樋口恵訳『キリスト教の絶対性を超えて――宗教的多元主義の神学――』、 春秋社、1993年: J.Hick and P.Fknitter, The Myth of Christian Uniqueness, -Toward a Pluralistic theology of Religion (190, 4-KJ-54)
間瀬啓允・稲垣久和編『宗教多元主義の探求:ジョン・ヒック考』、大明堂、1995年 (161.1-SH-69)
間瀬啓允著『現代の宗教哲学』、勁草書房、1993年 (161.1-Ma-64)
ジョン・ヒック著、間瀬啓允訳『宗教がつくる虹――宗教多元主義と現代』、 岩波書店、1997年:The Rainbow of Faiths, Critical Dialogue on Religious Pluralism, London, 1995 (190,4-H54)
G・デコスタ編、森本あんり訳『キリスト教は他宗教をどう考えるか――ポスト多元主義の宗教と神学』、教文館、1997年
ジョン・ヒック著、間瀬啓允・本多峰子訳『宗教多元主義への道――メタファーとして読む受肉』、 玉川大学出版部、1999年 The metaphor of God Incarnate - Christology in a Pluralistic Age, 1993 (193.21-H54)
ジョン・ヒック著、間瀬啓允・渡辺信訳『もうひとつのキリスト教: 多元主義的宗教理解』、日本基督教団出版局、1989年:The Second Christianity (190.4-H9-1)
根岸敏幸著『宗教多元主義とは何か』――宗教理解への探求――、晃洋書房、2001年

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