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教皇庁教理省宣言
『ドミヌス・イエズス』概説
和田 幹男


はじめに

 西暦2000年の大聖年中、8月6日に、教皇庁教理省は、 イエス・キリストと教会の救いの唯一性と普遍性について、宣言を公表した。 その直後から、日本でもこの宣言は、おおむね否定的な論調で報道された。 カトリック中央協議会のホーム・ページ中の福音宣教研究室を開くと、 本宣言の要約として、その全体ではなく、文脈を無視しての抜粋で、 本宣言の真意は伝わっていると言えようか。それに英国『タイム』紙の解説抜粋が出ているが、 これはジャーナリズムによるもので、本宣言の内容そのものとは関わりがない。 またWCCニュースの抜粋があるが、本宣言はエキュメニズムに触れることはあっても、 これを主題とするものではない。最後に日本で活動しているフランコ・ソットコルノラ師の論評が紹介されているが、 その主旨はわたしも本宣言を最初に速読して受けた印象とほぼ同じである。 また『福音宣教』誌も論評や解説を掲載している(増田祐志「第3バチカン公会議への起爆剤」−宗教的多元主義と『主イエス』、 同誌2001年1月号、18−28頁;同誌2001年7月号、特集『主イエスをめぐって』)。 しかし、本宣言そのものの日本語訳がなければ、 原文ないしその西欧語への訳文を読めない読者はその論評や解説を評価することができない。 カトリック中央協議会のホーム・ページや『福音宣教』の記事などから情報を得て刺激を受け、 わたしのまわりにいる学生や教会の信徒たちの中に、本宣言そのものを読んでみたいとの願望がある。 ここでその日本語訳を試みた。その文書としての公式発表は、 AAS XCII (2000) , no.10, pp.742-765にラテン語でなされている。 ここで本宣言は、ラテン語でDominus Iesus で始まるので、 これが広く本宣言の名称として用いられている。 ここでも、この習慣に従ってその冒頭のラテン語を翻訳し、本宣言を『ドミヌス・イエズス』と呼ぶこととする。 翻訳にあたってまず底本としたのは、そのイタリア語訳であったが、 翻訳後、そのラテン語本文があることを知り、これと照合した結果、 ラテン語本文にいっそう忠実なものになったと思う。 読者は本宣言を直接読んで、どうお考えになるのか、まずはおまかせしたい。 ただし、内容は重厚で濃度が高く、その文体と用語、 それにその前提としての思考形態は、現在の日本の読者にとって馴染みの薄いものであるかもしれない。 違和感を覚える読者もあることだろうと、予め断っておく。
 この翻訳には同僚のA・ボナツィ師の協力を得た。 多くの貴重な助言をいただき、同師には深く感謝している。 そのすべての助言を訳文そのものに生かすことはできず、 文責は和田が負うが、ここで生かせなかった助言は、語彙集で触れる。


T) 本宣言全体の概要

 まず序文があり、つづいて本論があり、最後に結論がある。本論はつぎの6章からなる
 第1章 イエス・キリストの啓示の充満性と決定性
 第2章 救いの働きにおける受肉した御ことばと聖霊
 第3章 イエス・キリストの救いの秘義の唯一性と普遍性
 第4章 教会の唯一性と同一性
 第5章 教会、神の国、キリストの国
 第6章 救いに関わっての教会と諸宗教
 本宣言の主題「イエス・キリストと教会の救いの唯一性と普遍性について」から言えば、 第3章第4章にその中心がある。しかし、この第3、第4章の前に、 その論述の前提として、第1章第2章の論述がある。
 この第1章で、神からの啓示はイエス・キリストの中に欠けたところなく充満して実現し(充満性)、 完結して決定的であることを確認する。この啓示に応えて、 これを受容することが、信仰(fides)であり、これは恩恵の賜物である。 この意味で、ほかの諸宗教にある信仰を「信仰」とは呼ばずに、「信奉」(credulitas)という。 ただし、あとの第20項で教会の目に見える境を越えて、その恩恵があることも認めなければならないとすることに注意。 この章は、聖書が聖霊の霊感によって書かれた書だという霊感性は、 ほかの宗教書を除いて旧約と新約の正典書に限られるということと、 その真理性を確認する。第2章でそのイエス・キリストは、 神の御ことば(ロゴス)が受肉したおかただということを確認する。 つまり神の御ことば受肉した御ことば同一性が確認される。 このように神の御ことばが、受肉した神の御ことば抜きで行う救いの営み(「救いの経綸」とも訳される)はないことを明らかにする。 また聖霊の働きもこの御ことばと共に行われるものであって、 御ことばと関係なしの聖霊の活動がないことを確認している。
 こうして、第3章でイエス・キリストの救いの秘義が唯一のものであって、 ほかにはなく、それが遍(あまね)く全人類にそうなのだ、つまり普遍的なものということを確認する。 このようにキリストの唯一無比、その無類のかけがえのなさを強調する。 第4章では、まずイエス・キリストによって創設された教会はそのイエスと内容的に深く結びついたものとして その救いの秘義の唯一性と普遍性を受け継いだものだということを確認する。 その上で、このようにイエス・キリストによって創設された教会は、 いかなる意味で現在のローマ・カトリック教会と同一と言えるか、その同一性が論じられる。
 第5章では、これまでの論述をさらに展開し、 教会神の国キリストの国の関係について述べる。 この三つは区別されなければならないが、不可分のものであって、 その一つを極端に強調するとき、問題が起こると警告する。 最後の第6章では救いのために教会が必要であることと同時に、 神の普遍的救いの意志の実現として教会の目に見える境界を越えて キリストと聖霊の救いの活動があることも認める必要があることをいう。 このように宗教的多元性を神学の課題として取り上げ、その理解を深める作業を奨励している。 他方、相対主義を招くような宗教的多元性の安易な説明には警告している。 また諸宗教との対話は教会の宣教活動の一部として重要なことであるが、 これが宣教活動のすべてではなく、宣教活動そのものは今後も遂行しなければならないという。
 序文では、どうしてこのような主題を取り上げることになったかを述べる。 つまり、主イエスから委託された諸国民への福音宣教の使命は、 宗教的多元性という現実を前にいろいろな神学的説明が提唱されている。 その中には問題を含むものがあり、識別が必要だという。 このように本宣言は宗教的多元性そのものを問題にしているのではなく、 その一部の説明に対して伝承によって受け継がれてきた信仰の真理とは相容れないものがあるようで、 そのため信仰の真理を再確認しようとする。それが本宣言の内容で、 これは啓示論と信仰論、聖書論、三位一体論、キリスト論、聖霊論、 教会論、恩恵論の要約で、きわめて重厚である。 その要約も、伝統的な三位一体論、キリスト論から論を起こすが、 その枠を越えて神の「救いの営み」全体の観点から展望する。

2)本宣言の論旨

序文
 序文(第項)では、まず1)で、教会が主イエスの委託 (マルコ16:15−16;マタイ28:18−20)に基いて、 すべての人に福音の宣教をする使命をもっていることを確認する。 教会は、三位一体の神の秘義と受肉の秘義を宣べ伝えて、 その使命を果たしてきた。 こうしてこの秘義への信仰宣言が含まれる第1コンスタンティノポリス公会議の信仰告白 (381年、Denz 150)を引用する。つぎに2)で、 教会のこの使命はイエスから20世紀を経た現代も、 第2ヴァティカン公会議が打ち出した諸宗教との対話を促進しながら、 同時に続行されなければならないという。 3)では、その諸宗教との対話を実践し、これを理論的に深める中で、新しい諸問題が起こり、 その数々の応答の中には、「的確な識別」を必要とするものがある。 そこで、本宣言は不可欠の教義内容を思い起こさせたいという。 そのため、「イエス・キリストと教会の救いの唯一性と普遍性」に関して、 「・・・自由に議論されている幾つかの基本的な問題を指摘し、 ある特定の誤っているか、あるいは曖昧な立場を排斥し、カトリック信仰の教えを再確認する」と言って、 すでに教導職が公表した文書にある教えを再確認する。 実際には、本宣言では第2ヴァティカン公会議の憲章、教令、宣言を始め、 教皇ヨハネ・パウロ2世の回勅『救い主の使命』などからの引用を列挙している。 こうして4)で、教会の宣教の使命は、「宗教的多元性を事実(de facto)としてのみならず、 本来当然あるべきものとして(de iure)、 あるいは原理(de principio)としても是認しようと試みる相対主義的性格の理論によって、 今日危機に曝されている」と言い、その結果、「たとえば」と断って、 現在問題になってことを列挙する。これが本論で論じられる主な主題である。 つまり「イエス・キリストの啓示の決定性と完結性」、 「ほかの諸宗教における信奉とキリスト教信仰の本性」、「聖書各書の霊感性」(第1章)、 「永遠の御ことば(ロゴス)とナザレのイエスの位格的同一性」、 「受肉した御ことばと聖霊による救いの営みの同一性」(第2章)、 「イエス・キリストの秘義の救いの唯一性と普遍性」(第3章)、 「教会の救済的普遍的仲介性」(第4章)、 「神の国とキリストの国と教会の区別されながらもある不可分離性」(第5章)、 「キリストの唯一の教会がカトリック教会にあるということ」(第4章)。 さらに、その諸問題が起こる根源に「キリスト教の啓示を含めて言われる神の真理の知り尽くし難さと言い尽くし難さの確信」、 「ある人にとっては真理であっても、 ほかの人にとってはそうではないという真理に対する相対主義的知の態度」、 「西洋の論理的知の態度と東洋の象徴的知の態度の間にあると想定される極端な対比」、 「認識の唯一の源泉として理性を考え、 "人生の真理にあえて達するために高い次元にあるものに自己の洞察力を働かせることのできない者"の主観主義」、 「歴史の中に決定的で終末的な出来事の現存を理解し受容する難しさ」、 「歴史の中の単なる神の現れにしてしまうような、永遠の御言葉の歴史的受肉の出来事の形而上学的空洞化」、 「神学研究において、哲学的、宗教的に様々な文脈から考えを取り入れ、 その間の整合性と組織的関連性も、それとキリスト教の真理との両立性も意に介さない者の折衷主義」、 「最後に伝承と教会の教導職の外で聖書を読み、解釈する傾向」を列挙する。 こうして、「キリスト教の啓示およびイエス・キリストと教会の秘義が絶対的真理として、 また救いの普遍性としての性格を失っているか、 ・・・・少なくとも疑いと不確実性の陰を投げかけられている」という。

第1章
 第1章(第項)で、 啓示について、イエス・キリストの啓示が決定的で、完結しており、 ほかの諸宗教によって補完される必要がないことを確認する。 5)で、「堅く信じなければならないのは」と言って、その教義内容をいうが、 この言い回しは、以下で繰り返し出る。ここでは、 その教義内容は「受肉した神の子イエス・キリストの秘義の中に、 神の真理の充満の啓示がある」ということ。 これをマタイ11:27、ヨハネ1:18、 コロ2:9−10と、第2ヴァティカン公会議の啓示憲章第2、 第4項と回勅『救い主の使命』5、回勅『信仰と理性』14の引用をもって根拠とする。 6)では、前述したことにより、イエス・キリストの啓示が未完で、不完全なもので、 ほかの諸宗教によってよって補完されなければならないという考えは、 教会の信仰とは相容れないことを確認する。 その理由として、あらためてイエス・キリストの啓示は、歴史の出来事として限定されたものであっても、 イエス・キリストという啓示する主体は「真の神であり、真の人」である、 受肉した神の位格にほかならないからだという。 7)では、神の啓示に相当する返答が、信仰ということであるが、 キリスト教徒がイエス・キリストを信じる対神徳としての信仰(fides theologalis)と、 ほかの諸宗教の信徒が自分の信仰するものを信じる信奉(credulitas)とは同一視されないこと。 キリスト教徒が信じる信仰は、神の賜物であり、恩恵によるものだが、 ほかの諸宗教の信徒が信じる信仰はそうではない。 ただし、その恩恵が教会の目に見える境を越えて働いていることも認めなければならないが、 それについては、後述している(本宣言20項参照)。 8)では、ほかの諸宗教にある宗教書と聖書は、共通する要素があったとしても、 前者は霊感を受けて書かれた聖書と同一視することはできない。 この聖書の霊感性を、啓示憲章第3章11項の引用をもって確認している。

第2章
 第2章(第12項)では、イエス・キリストについて述べる。 9)では、神的なものの啓示者として歴史上数々の人物がいるが、 ナザレのイエスをその一人と考えることに警告する。 さらに、「キリスト教が示す救いの普遍性」と「宗教的多元性」の事実を調和的に説明するため、 「永遠の御ことば(ロゴス)」と「受肉した御ことば」を区別して、 そのそれぞれの救いの営みの説明の試みがなされているという。 10)では、「永遠の御ことば」と「受肉した御ことば」の同一性が確認されている。 ナザレのイエスは、受肉して、人間になった永遠の御ことばにほかならない。 それを、ヨハネ1:2、マタイ16:16、コロサイ2:9、ヨハネ1:18、コロサイ1:13−14.19−20の引用により、 またニカイヤ公会議信仰宣言、カルケドン公会議信仰宣言、 それに第2ヴァティカン公会議の現代世界憲章22項、 回勅『救い主に使命』6項の引用を根拠として再確認する。 このように、イエス・キリストの救いの営みの唯一性を確認する。 これに対して11)では、このイエス・キリストの救いの営みのが内容的に統一されていると同時に普遍的なものであることを言う。 12)では、聖霊の働きについて、聖霊とイエス・キリストとの協働についてのべる。 キリスト教が示す救いの普遍性と宗教的多元性の事実を調和的に説明するため、 受肉した永遠の御ことばであるイエスよりも大きく広く、 このイエスをとおしてではなく聖霊の働きがあるのではないかという提案は、 カトリック信仰に反するという。まずイエスにおける受肉の秘義は、 聖霊の現存と働きと深く結びついている。 これを新約聖書(使2:32ー36;ヨハネ7:39;1コリ5:45;10:4;1ペト1:10ー14参照) と第2ヴァティカン公会議(教会憲章3−4;7参照)を引用して確認する。 その上で、聖霊の働きが「教会の目に見える境を越えて全人類にまで広がっている」ことも認めなければならないが、 この聖霊の働きも受肉した御ことばであるキリストの働きと無縁ではなく、 深く結びついていて、唯一で同一の救いの営みしかない。 これを回勅『救い主に使命』29、6、5項からの引用をもって確認する。

第3章
 第3章(1315項)では、救いの秘義としては、 ただイエス・キリストの救いの秘義しかなく(唯一性)、 これは全人類、全世界にとってそうなのだ(普遍性)ということを述べる。 13)では、「教会の信仰の恒久の要素として、堅く信じなければならないのは」と言って、 それは「その受肉と死、復活の出来事をもって救いの歴史を完成し、 ご自分の中にその救いの歴史の充満と中心を有しておられる神の子であり、 主であり、唯一の救主であるイエス・キリストの真理である」という。これを新約聖書(1ヨハネ4: 14;ヨハネ1:29;使3:1−8;4:12;10:36.42.43;1コリ8:5−6; ヨハネ3:16ー17;1テモ2:4−6;エフェソ1:3−14;2コリ5:15:使4:12と 第2ヴァティカン公会議の現代世界憲章第10項を引用して確認する。 14)では、イエス・キリストの救いの秘義の唯一性と普遍性を信仰の原理原則として前提しながら、 ほかの諸宗教の事実を事実として神学の問題として取り上げなければならないという。 この分野でなすべき作業はたくさんある。 「今日の神学は、ほかの宗教的体験が様々とあること、 および神の救いの計画におけるその意義について瞑想しながら、 ほかの諸宗教の数々の人物や積極的要素も神の救いの計画の中に組み込まれているのかどうか、 組み込まれているならいかに組み込まれているのか、探求するよう促されている」。 この神学の作業は、教会の教導職の指導のもとに行われるのであるが、 その指導はその作業の必要性を認めている(教会憲章第62項)と共に、 「キリストの唯一の仲介を最高の原理としなければならない」という(回勅『救い主の使命』4)。 こうして、「神の救いの働きをキリストの唯一の仲介のほかにあると見る提案は、 キリスト教的かつカトリック的信仰とは背反することになる」と結ぶ。 15)では、最近の神学では「唯一性」とか、「普遍性」とか、 「絶対性」とかの用語を避ける傾向があるが、 実際にはこれは受けとめた啓示に対する「忠実」から出てきた表現である。 実際に、キリスト教はその始めから、死んで復活した神の子イエスだけが、 全人類に、また人間一人一人に啓示を与え、 永遠の命を与える目的をもつおかたであるということの有効性を認めてきた。 「この意味で、イエス・キリストが人類とその歴史にとって別格無比で、 このおかたにのみ固有の、排他的で、普遍的で、絶対的な意義と価値をもっておられると言うことができるし、 またそう言わなければならない」という。 このイエス・キリストの唯一性、別格性、無比性、絶対性を、 現代世界憲章第45項と回勅『救い主の使命』4の引用によって確認する。 同時に、このキリストの仲介の働きに協力するものがあることも認める必要があり、 その協力はあくまで参与的なものである。

第4章
 第4章(1617項)では、教会について考察する。 16)で、教会は主イエスによって「救いの秘義」として設立され、 この秘義としての教会はその主と深く結びついており、 「このおかた自身、教会の中におられ、教会はこのおかたの中にある」という。 これはキリストは頭、信徒はその肢体というように頭と肢体は区別されるが、 一つの「キリストの体」をなしている教会というパウロの教え(1コリ12:12−13.27;コロ1:18)、 また「キリストの花嫁」という類比によって表明されている。 したがって、イエス・キリストの救いの仲介性の唯一性と普遍性は、 教会にも言わなければならない。教会も唯一で普遍的な救いの秘義として信じなければならない。
 このキリストによって基礎を置かれた教会は、 現在教皇と司教団によって統治されているローマ・カトリック教会と同一かどうか、問うことができる。 この問いに対して、キリストの教会は、ローマ・カトリック教会の「中に存する」[subsistit in]」と言って、 第2ヴァティカン公会議の教会憲章第8項の教会観を確認する。その文章表現をもって、 「第2ヴァティカン公会議は二つの教理を調和させようとする。 一方では、キリストの教会はキリスト教徒の分裂にもかかわらず、 その充満としてはただカトリック教会の中だけに存在し続けるということである。 他方、"その境界の外にも"、 ないしカトリック教会とはまだ充満する交わりの中にはない教会(Ecclesia) と教団(communitates ecclesiales)の中にも"聖化と真理の数多くの要素が存在する"(教会憲章8)ということである」という。 17)では、前項で言われたことに基き、 「存在するのはキリストの唯一の教会」であり、 これは「ローマ・カトリック教会の「中に存する」という。 他方、カトリック教会と完全な交わりに欠けるが、「使徒継承」、 つまり有効な位階制度と、 それゆえ「有効な聖体祭儀」を保っている諸教会も、 真の意味で個別的であるが「教会」(Ecclesia)である(エキュメニズム教令14と15)という。 他方、有効な司教職と聖体秘義の本来的かつ十全的な本質を保持していない教団は、固有な意味で教会ではないが、 この教会の中で洗礼を受けた者とは基本的に「不完全であるが、ある交わりの中にある」という。 「したがって、キリスト教徒はキリストの教会を、――あい異なるが、 なんらか一つにまとまった――、諸教会と教団の総体として考えることはできない。 またキリストの教会が今日どこにも存在せず、 それゆえそれはすべての教会と教団が追い求めなければならない目標と見なされるべきものだと、 自由に考えることは許されない」(回勅『教会の秘義』1)という。

第5章
 第5章(第1819項)では、教会キリストの国神の国との関係について論じる。 18)では、教会が、 「キリストの国と神の国を告げ知らせ、 これをすべての民の中に確立する」使命をもっていると共に、 地上におけるこの国の「芽生え」であり、「始まり」であり、 また「秘跡」つまり、「しるし」であり「手段」であるという第2ヴァティカン公会議の教会憲章5の確認をもって始め、 その説明が続く。この教会は、神の国とキリストの国と深く結びついたものであるが、 「教会」も「神の国」も「キリストの国」それぞれも、 またその結びつき自体も神の秘義であって、いかなる神学も説明し尽くせるものではないという。 19)では、その教会は自己を神の国と同一視してはならないし、 教会の目に見える境界の外にキリストと聖霊の活動があることを認めなければならないと明言する。 神の国や、キリストの活動、聖霊の活動のほうが教会より広く、全人類の中に現存している。 教会はそれに奉仕するものであるが、これを極端に考え、神の国中心主義になり、 キリストを無視するようになってはいけないという。 こうして、創造の秘義を強調して贖いの秘義を無視し、 過去の教会中心主義の虚構をもって教会を過小評価してはいけないという。 それは、キリストとその教会が神の国に対して唯一の関係にあるからだという。

第6章
 この最後の章(第2022項)で、 救いに関連して教会と諸宗教の関係を論じる。 20)で、「教会が救いのために必要だ」ということをあらためて確信する必要があると共に、 他方では神の普遍的救いの意志(1テモテ2:4)があって、 形式上教会に属していない人にもその神の恩恵が働いていることも事実で、 この二つを対置して考えてはならないという。この恩恵も、教会との関係で考えなければならないものだからである。
 21)では、キリストをとおして聖霊において与えられる神の救いの恩恵が、 教会以外の非キリスト教徒個人にいかに届くかについては、 第2ヴァティカン公会議は、神が「ご自分だけが知っている道で」(宣教活動教令第7項)と言うにとどめ、 このことの理解を深めることは、今後の神学の課題であり、 その作業は奨励すべきものである。しかしながら、 イエス・キリストの仲介について、 神の国に対して教会が人々の中で持つ「格別で唯一の関係」(『救い主の使命』8)について、 ほかの諸宗教をその教会を補足するものとか、本質的に教会と同等のものとして、 教会もほかの諸宗教と並んで救いの道の一つとして考えることはできないという。 ほかの諸宗教の伝承にある諸要素については、確かに神から来るもので、 「聖霊の働きとされるもの」(『救い主の使命』29)に与っているものがある。 これが、ほかの諸宗教の「祈り」や「儀礼」に見ることができる。 そこには積極的な意味を認めることもできるが、キリスト教の秘跡と比べると、 その祈りや儀礼には、 「秘跡に固有な神的起源と事効的効力(ex opere operato)」を認めることはできないし、 迷信ないしほかの誤謬によるものとして、救いにとってむしろ障害となっていることもあるという。 22)で、教会が神によりイエス・キリストをとおして全人類の救いの手段として創設されたものだという信仰は、 ほかの諸宗教を真心のこもった尊敬をもって考慮しているという事実に何も抵触するものではない。 ただ宗教的相対主義を容認するその無関心のメンタリティーを根底から排除するという。 さらに、ほかの宗教の信奉者たちは、 教会の中で救いの手段の充満を持っているキリスト者の状況と比べると、 客観的に重大な欠落状況にあるが、そのキリスト者自身が置かれている状況も特別な恩恵によるのであり、 それにふさわしい考えと行いが伴わなければ、救われないばかりか、 なおいっそう厳しく裁かれることになる。こうして教会が主から委託された宣教の使命は、 またすべての人に対する愛の要請にも答えて、今後も実行していかなければならない。 ここで救いは真理の中にあると言って、救いの真理の宣教の必要性を特に強調する。 そのため宣教に出て行かなければならないが、その宣教活動の一部として諸宗教との対話があるが、 この対話をもって宣教活動のすべてとすることはできない。また対話は平等性を前提するが、 それは対話する双方の人格的尊厳に関わっての平等性であって、教えの内容に関わるものではなく、 ましてやイエス・キリストに関わるものではない。 イエス・キリストはほかのの宗教の開祖たちと対比されるものではない。 最後に、「教会が愛と自由尊重に導かれて、まず第一に意欲的に取り組ななければならないのは、 主によって決定的に啓示された真理をすべての人に告げ知らせることと、 御父である神と御子と聖霊との交わりに充満して参与するためにはイエス・キリストに回心し、 洗礼および他の諸秘跡をとおして教会に結びつく必要性があることを告知することである。 他方、神の普遍的救いの意志の確信は、救いを告げ、 主イエス・キリストへの回心を告げる務めを妨げるどころか、むしろ増し加える」という。

結論
 結論(第23項)では、まず本宣言では受け継いできた信仰の真理を受け渡すことを意図する。 問題があったり、誤っている諸提案が出されれば、 その信仰とその根拠を説得力をもって効果的に与えるために神学の出番があるという。 これを、カトリックの使徒的教会の中に真の宗教があると信じ、 これを広める使命を自覚し、一旦それを知ったなら、 これを受け入れ、守りぬかなければならないと痛感した第2ヴァティカン公会議の教父たちのことばを引用して説明する。 最後に、キリストの啓示が「真の星」であり続け、 「キリストという真理は、普遍的な権威として他を凌ぐ」という確信を表明し、 このキリストによって実際に、人類家族が一つであることが実現されるという。 しかも、キリストは自分の秘義に与らせることによって、 「独自の最高の仕方で」その統一を実現なさるという。 これをエフェソへのパウロの手紙の一節の引用をもって説いて結ぶ。

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