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教皇庁教理省宣言
『ドミヌス・イエズス』
和田 幹男 訳 


目次
第1章 イエス・キリストの啓示の充満性と決定性
第2章 救いの働きにおける受肉した御ことばと聖霊
第3章 イエス・キリストの救いの秘義の唯一性と普遍性
第4章 教会の唯一性と同一性
第5章 教会、神の国、キリストの国
第6章 救いに関わっての教会と諸宗教
結論

これはA・ボナツィ師の協力を得て和田幹男が翻訳したもので、文責は和田が負う。イタリックのところも原文による。



1.主イエスは、昇天する前に、すべての人に福音を告げ、 すべての国の民に洗礼を授ける使命をご自分の弟子たちに、こう委託された。 「全世界に行き、すべての被造物に福音を宣べ伝えなさい。 信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられる」(マルコ16:15−16)と。 また「わたしは天においても地においても、すべての権能が与えられている。 したがってあなたたちは行って、すべての国民を弟子にし、父と子と聖霊の名において彼らに洗礼を授け、 わたしがあなたたちに委託したことをすべて守るように教えなさい。 見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる」 (マタイ28:18−20;またルカ24:46−48;ヨハネ17:18;20:21;使徒言行録1:8も参照)と。
 教会の普遍的使命はこのイエス・キリストの委託から生まれ、 幾世紀も経て御父、御子、聖霊である神の秘義と、 全人類のための救いの出来事としての御子の受肉の秘義を宣べ伝えることによって果たされている。 ここに基本的最重要事項があって、これはキリスト教の信仰告白の中に含まれている。 「わたしは、天地の創造主、見えるものと見えないものすべての創造主であり、全能の御父であるひとりの神を信じます。 わたしは、神の独り子、ひとりの主イエス・キリストを信じます。 このおかたは世々に先立って御父から生まれ、すなわち造られずに生まれ、 御父と同一本質で、神からの神、光からの光、真の神からの真の神であって、このおかたをとおして万物は造られた。 このおかたはわたしたち人間のため、わたしたちの救いのために天から降り、 聖霊によって、処女マリアの胎内に受肉し、人間となられた。 このおかたはわたしたちのためにポンツィウス・ピラトゥスのもとで十字架にかけられ、 苦しみを受け、埋葬され、聖書にしたがって三日目に復活し、天に昇り、御父の右に座しておられ、 生けるものと死せるものを裁くために栄光の中に再び来られる。その支配には終わりがない。 わたしは、主であり、命を与え、御父から発する聖霊を信じます。 これは御父と御子とともに礼拝され、栄光を帰せられるおかたであり、預言者をとおして語られたおかたである。 わたしは一、聖、公、使徒継承の教会を信じます。わたしは罪の赦しのための唯一の洗礼を信仰告白します。 わたしは死者の復活、来たるべき世の命を待望します」第1コンスタンティノポリス公会議、コンスタンティノポリス信仰告白:DS 150

2.教会は時代が経緯する中でイエス・キリストの福音を忠実に宣べ伝え、その証しを行ってきた。 しかし、キリスト教第2千年紀の終わりにあたり、この使命はその遂行からまだほど遠い  ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第1項(邦訳3頁)参照;AAS 83(1991)249-340。 それゆえ、洗礼を受けたすべての者にある宣教の責務について、使徒パウロがあげる叫びはこれまで以上に切実である。 「わたしが福音を宣べ伝えても、誇りにはなりません。そうしないではいられないからです。 もし福音を宣べ伝えないなら、わたしにとってわざわいです」(1コリ9:16)。 ここに、教導職が福音宣教という教会の使命を、特に世界中の人々の諸宗教の伝統との関連において明らかにし、 促そうとして努める特別な配慮の理由がある 第2ヴァティカン公会議、宣教活動教令と諸宗教宣言参照;またパウロ6世、使徒的勧告『福音宣教』:AAS 68(1976)5-76; ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』も参照。
 その諸宗教の伝統には、これが人類に証しし、差し出すことができる諸価値に注目して、 キリスト教以外の諸宗教との教会の関係についての第2ヴァティカン公会議の宣言の中では、 心を開いて積極的な評価がなされている。そこには、こう言われている。 「カトリック教会は、これらの諸宗教の中にある真にして聖なるものを何も排斥しない。 これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教えは、教会が信じ、示すものとは多くの点で異なっているが、 すべての人を照らすあの真理の光線を反映することも稀ではなく、 教会はそれらを真心のこもった尊敬の念をもって考慮する」 第2ヴァティカン公会議、諸宗教宣言第2項。 この足跡に沿って歩みながら、教会は「道、真理、生命」(ヨハネ14:6)であるイエス・キリストを宣べ伝える責務を果たすために、 諸宗教間対話も用いるが、これは諸国民への宣教とは取り替えられるものではけっしてなく、 同時に行われるもので、これは「救われるすべての男女が、 異なる仕方ではあるがイエス・キリストの救いの秘義にその霊をとおして与ることになる」その起源にある「同一性の秘義」 諸宗教間対話のための教皇庁委員会と諸国民の福音宣教省、訓告『対話と宣言』第29項(邦訳27頁):AAS 84(1992)414-446; 第2ヴァティカン公会議、現代世界憲章第22項参照。 による。 福音宣教という教会の使命の一部をなす、このような対話は ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第55項(邦訳98―99頁)参照、 真理に対しては従順を、自由に対しては尊重を守る中で、相手が信じることを寛く理解する心構えがあり、 互いに知り合って、相ともに豊かにしあうための刺激となることを意味する 諸宗教間対話のための教皇庁委員会と諸国民の福音宣教省、訓告『対話と宣言』第9項(邦訳12頁)

3.キリスト教信仰とほかの諸宗教の伝統との対話を実践し、その本質を深める中で、 新しい諸問題が起こり、これに答えようとして新しい研究路線が探られ、数々の提案が出され、 数々の実践法が示されているが、そのすべてには的確な識別が必要である。 本宣言がここで提示するのは、司教たち、神学者たち、 およびすべてのカトリック信徒に対して幾つかの最重要の教えを思い起こさせるためで、 これはまったく必要なものであり、また神学上の考察を行う場合に信仰の真理に即しながら、 現代文化の要請に適切に応じた解決を見出すために助けとなることができる。
 本宣言の提示形態はその公表の目的に沿ったもので、本文書が出されるのは、 イエス・キリストと教会の救いの唯一性と普遍性に関して諸問題を組織的に取り扱うためではなく、 また自由に議論されている神学上の諸問題に解決を提示するためではない。 それはただその研究をいっそう深める必要がある幾つかの基本的な諸問題を指摘し、誤っているか、 あるいは曖昧な幾つかの説を排斥して、その唯一性と普遍性に関してカトリック信仰の教えを再確認するためである。 それゆえ本宣言は、教会の信仰の遺産に属する幾つかの真理を復習するため、 以前に教導職が発表した文書の中で与えられている教えの足跡をたどるものである。

4.教会の絶えざる宣教の使命は、宗教的多元性を事実(de facto)としてのみならず、 本来当然(de iure、 あるいは原理として : de principio)あるべきものとしても是認しようと試みる相対主義的性格の理論によって、 今日危機に曝されている。その結果、たとえばイエス・キリストの啓示の決定性と完結性や、 ほかの諸宗教における信奉と対比してのキリスト教信仰の本性、聖書各書の霊感性、 永遠の御言葉とナザレのイエスの位格的同一性、受肉した御言葉と聖霊による救いの営みの同一性、 イエス・キリストの秘義の救いの唯一性と普遍性、教会の救済的普遍的仲介性、 神の国とキリストの国と教会が区別されながらも不可分離的であること、 キリストの唯一の教会がカトリック教会に存する(subsistentia)というような諸真理は、 ある人々によってはすでに過去のものと考えられている。
 これらの主張の根源として、哲学的あるいは神学的性格の幾つかの前提があり、 これが啓示された真理の理解と受容を妨げている。その幾つかを指摘することができるが、 それはキリスト教の啓示も含めて言われる神の真理の知り尽くし難さと言い尽くし難さの確信、 ある人にとっては真理であっても、ほかの人にとってはそうではないという真理に対する相対主義的な知の態度、 西洋の論理的知の形態と東洋の象徴的知の形態の間にあると想定される極端な対比、 認識の唯一の源泉として理性を考え、 「人生の真理にあえて達するために高い次元にあるものに自己の洞察力を働かせることができない」  ヨハネ・パウロ2世、回勅『信仰と理性』第5項(邦訳11頁) 者の主観主義、 歴史の中に決定的で終末的な出来事の現存を理解し受容する難しさ、 歴史の中の単なる神の現れにしてしまうような、永遠の御言葉の歴史的受肉の出来事の形而上学的空洞化、 神学研究において、哲学的、宗教的に様々な文脈から考えを取り入れ、 その間の整合性と組織的関連性も、それとキリスト教の真理との両立性も意に介さない者の折衷主義、 最後に教会の伝承と教導職の外で聖書を読み、解釈する傾向がある。
 ある場合は主張として、またある場合は仮説として、 様々と異なる様相をまとって提示されるこれらの前提のもとに、 幾つかの神学上の提案の根拠が考案され、 それによってキリスト教の啓示およびイエス・キリストと教会の秘義が絶対的真理として、 また救いの普遍性としての性格を失うか、少なくとも疑いと不信感の陰を投げかけられている。


第1章 イエス・キリストの啓示の充満性と決定性

5.日増しに広がりつつあるこの相対主義的知の形態を癒すために、 まずイエス・キリストの啓示の決定的、完結的性格を再確認する必要がある。 実際に、堅く信じなければならないのは、 「道、真理、生命である」(ヨハネ14:6)受肉した神の子イエス・キリストの秘義の中に、 神の真理の充満の啓示があるということである。 「父のほかに、子を知る者はなく、子と、子が父のことを現そうと望む者とのほかに、父を知る者はない」(マタイ11:27)。 「いまだかつて、神を見た者はない。父の懐にいる神、独り子こそ、神を現したのである」(ヨハネ1:18)。 「実に、神のうちに満ちているものすべては、キリストのうちに形をとって宿っており、 あなたがたはキリストに結ばれることによって、それに満たされている」(コロ2:9−10)。
 神の言葉に忠実に、第2ヴァティカン公会議はこう教えている。 「この啓示によって、神について、また人間の救いについて深い真理がキリストにおいてわたしたちに輝く。 キリストは、すべての啓示の仲介者であると同時に、充満だからである」 第2ヴァティカン公会議、啓示憲章第2項。 それはまたこう締めくくる。 「それゆえ肉となった御言葉、"人々に遣われた人"であるキリストは、 "神の言葉を語り"(ヨハ3:34)、御父がご自分になすべく委ねた救いの事業をなし遂げられる(ヨハ5:36、17:4参照)。 それゆえ、キリストを見る者は御父をも見る(ヨハ14:9参照)ことになる。 このキリストこそ、ご自分の全現存と現れ、言葉と活動、しるしと奇跡、特にその死と死者よりの栄えある復活、 最後に真理の霊の派遣によって、啓示をあますところなく完成し、神の証しによって確証なさる。 [ . . . ] それゆえ、このキリストの営みは、新しくて決定的な契約として、けっして過ぎ去るものではなく、 わたしたちの主イエス・キリストの栄えある再臨(1テモ6;14;テト2:13参照)の前には、 新しい公的啓示はもはや期待してはならない」 同第4項
 このため、回勅『救い主の使命』は福音を真理の充満として宣言する任務をあらためて教会に示した。 「神は、ご自分の啓示のこの決定的なことばをとおして、最も充満した様相のもとにご自分を明らかになさった。 神はご自分がだれであるかを人類に語られた。神のこの確実で決定的な自己啓示にこそ、 教会が「本性的に宣教者である」ことの主たる根拠がある。 それゆえ、教会は福音を、 つまり神がご自分についてわたしたちに知らしめられた真理の充満を宣べ伝えないことができない」  ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第5項(邦訳12頁) 。 ゆえに、イエス・キリストの一つの啓示があるだけで、これが「普遍的で最終的なある真理をもたらし、 人間の考えを呼び起こしてやまない」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『信仰と理性』第14項(邦訳26頁)

6.したがって、イエス・キリストの啓示が限定され、未完結で、不完全な性格のものであって、 ほかの諸宗教にある啓示によって補完されなければならないものであるという命題は、教会の信仰とは相反する。 この主張の根底にある理由は、神に関する真理がその総体と充満性においてはいかなる歴史上の宗教によっても、 それゆえキリスト教によっても、またイエス・キリストによってさえも理解されることなく、 明らかにされることもないということに基づくと思われる。
 このように考えることは、神の救いの秘義の充満する完全な啓示がイエス・キリストの中にあるという、 前述の信仰の肯定するところとは根本的に対立する。 実際に、イエスのことば、活動、そのすべての歴史の出来事は、 人間的な現実としては限定されたものであったとはいえ、 その主体としては「真の神であり、真の人」 カルケドン信仰告白:DS 301. アレキサンドリアの聖アタナシオス、『受肉について』54,3:SC 199,458参照 である、 受肉した御ことばの神の位格を有しており、 それゆえ神の秘義そのものの奥深さは超越的で汲み尽くせないとはいえ、 神の救いの道の啓示の決定性と充満性の特徴を帯びている。 神に関する真理は、人間の言語で言われたからといって廃され、弱められるものではない。 それがむしろ、唯一無比で、十全的で完全でありつづけるのは、 ここで語って活動するのが受肉した神の御子にほかならないからである。 このために(キリスト教)信仰は、受肉した御ことばが、 受肉から栄光をお受けになるまでのそのすべての秘義をもって、 人類に対する神の救いのすべての啓示の、分与されたものであっても現実の源泉であり、 完成であると信仰宣言するよう要求する 第2ヴァティカン公会議、啓示憲章第4項参照。 またわたしたちは、 この「すべての真理を」(ヨハネ16:13)使徒たちに教え、この彼らをとおして、 時代が経過する中で教会全体に教えられることになるキリストの霊である聖霊が必要であることも信仰宣言する。

7.神の啓示に適合した返答が、 「信仰の従順(ロマ1:5;16:26;2コリ10:5−6参照)であり、 "啓示する神に知性と意志のまったき服従"を差し出し、 神によって与えられた啓示に自発的に同意しながら、 人間が自己のすべてを神に自由に委ねるという信仰の従順である」 同第5項。 この信仰は恩恵の賜物である。「この信仰が示されるためには、神の恩恵があらかじめ働きかけて助け、 聖霊の内なる助力が心を動かして神に向け、知性の眼を開き、 "真理に同意してこれを信じることの甘美さをそのすべての人に"味わわせる必要がある」 同
 信仰の従順は、真理そのものである神によって保証された、 キリストの啓示の真理を受容することを意味する 『カトリック教会要理書』第144項参照。 「信仰は何よりもまず人間が神に人格的に結びつくことである。 それは同時に、また不可分に、神が啓示なさったすべての真理に対して自由に同意することである」 同第150項。 したがって「神の賜物」であり、「神により注ぎ込まれた超自然的徳」 同第153項 である信仰は二重の結びつきを意味する。 そのひとつは啓示する神への結びつきと、もうひとつは神によって啓示された真理への結びつきであり、 これはこれを語るおかたに差し出される信仰による。 このために「わたしたちは御父であり、御子であり、聖霊である神のほかに何も信じてはならない」 同第178項
 したがって対神徳としての信仰(fides theologalis ) とほかの諸宗教にある信奉(credulitas )の間にある区別は堅く守られなければならない。 もし信仰が啓示された真理を恩恵のおかげで受容することであり、 「わたしたちを秘義の内奥に入らせ、それに妥当する理解を得るよう助けるもの」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『信仰と理性』第13項(邦訳23頁) であるなら、 ほかの諸宗教にある信奉は人間が真理を追求して理想とし、自ら神的なもの、 絶対的なものと見なしてそのために実践してきた英知と宗教的感性の宝を構成する経験と思考の総体に基く 同第31−32項参照
 今日行われている論考において、このような相違が必ずしも眼中におかれず、 そのためしばしば唯一であると共に三位である神によって啓示された真理の受容である対神徳としての信仰と、 まだ絶対的真理の追求中で、まだ啓示する神への同意を欠く宗教体験にほかならない、 ほかの諸宗教にある信奉が同一視されている。ここにキリスト教とほかの諸宗教の相違を矮小化し、 ときには失わせるまでにしてしまう傾向が幾人かの人々に見える根拠のひとつがある。

8.ほかの宗教にある聖なる文書が霊感を受けて書かれたものであるという仮説もまた提言されている。 確かに、その中にある幾つかの要素が、どれほど事実上手段となり、 これによって多くの人々が数世紀にわたって神に対する彼らの宗教的関係を養成し、 保持することができたか、また今日もなおそうすることができているか、認めなければならない。 このために、ほかの諸宗教の行動様式や戒律、教えに注目して、 第2ヴァティカン公会議は、――前に記憶したとおり――この諸宗教についてこう明言する。 「多くの点で[教会が]信じ、示すところのものとは異なっていても、 すべての人を照らすあの真理の光を映していることが珍しくはない」 第2ヴァティカン公会議、諸宗教宣言第2項、また第2ヴァティカン公会議、宣教活動教令第9項参照:ここでは「彼らに固有の儀礼と諸民族の文化」の中にある善について述べる。教会憲章第16項参照:ここでは非キリスト教徒の中にある善と真の要素に言及し、それは福音を受容するための準備と考えることができると言う。
 しかしながら、教会の伝承は霊感を受けた本文を、 聖霊の霊感を受けたものとしての旧約と新約の正典書だけだとする トリエント公会議、聖書および諸伝承の受容についての教令参照:DS 1501; 第1ヴァティカン公会議、教義憲章『デイ・フィリウス』、第2章参照:DS 3006。 この伝承の足跡にしたがって、第2ヴァティカン公会議の『神の啓示に関する教義憲章』はこう教える。 「聖にして母なる教会は、旧約および新約の全書をそのすべての部分を含めて、 使徒的信仰に基づき、聖なる書であり、正典書であるとしている。 それは、これらの書が聖霊の霊感によって書かれ (ヨハ20:31;2テモ3:16;2ペト1:19−21;3:15−16参照)、 神を著者としてもち、そのようなものとして教会に委ねられているからである」 第2ヴァティカン公会議、啓示憲章第11項。 これらの書は、 「神がわたしたちの救いのために聖なる書に書きとめられることを望んだ真理を確固として 誤りなく教えると信仰告白しなければならないものである」 同
 しかしながら、キリストにおいてすべての諸国民をご自分に呼び集めることを望んで、 またご自分の啓示と愛の充満を彼らに伝えることを望んで、神は絶えず幾多の様相のもとに、 「それぞれの個人にのみならず、諸国民にもその精神的豊かさをとおして」現存なさるのであり、 「諸宗教は、たとえ欠落、不十分さ、誤りを含んではいても、 その精神的豊かさの主要で本質的な表現なのである」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第55項(邦訳98頁);またその第56項も参照;パウロ6世、使徒的勧告『福音宣教』第53項参照。 事実、その信奉者たちにとって養いと人生の指針となっている、 ほかの諸宗教の聖なる文書は、そこに現存する善と恩恵の諸要素をキリストの秘義から受け取っている。

第2章 救いの働きにおける受肉した御ことばと聖霊

9.現代の神学研究においてしばしば登場するのは、 神的事物の啓示者としてナザレのイエスを、独特な、有限の一歴史的人物とし、 これを排他的にではなく、同じように啓示と救済をもたらす者とみなされるほかの諸人物と並んで、 これを補完する者だという考えである。無限なる者、絶対なる者、 神の最終的秘義なる者はこのように数多くの様相のもと、 また数多くの歴史人物のもとに人類に現れているのであり、 ナザレのイエスもその一つの場合ではないのかと。 いっそう明確に言えば、 イエスは御ことば(Logos)が救いのために人類と心を通わせるために時の流れの中で取った数多くの顔の一つではないのかと。
 さらに、一方ではキリスト教が差し出す救いの普遍性を、 他方では宗教的多元性の事実を認めてそのいずれも犠牲にしないために、 教会の外でも、またこの教会との関連なしでも認められる永遠の御ことばの営みと、 受肉した御ことばの営みという二つの救いの営みがあるのではないかと提唱されている。 後者では神の現存がいっそう充満的であるとは言え、ただキリスト教徒に限定されており、 普遍性ということで前者が後者に対していっそう価値があるのではないかと。

10. これらの命題はキリスト教信仰とは明らかに異なる。 実のところ堅く信じなければならないのは、マリアの子、ナザレのイエス御自身がただ独り、 御父の御子であり御ことばであることを宣言する信仰の教えである。 「始めに神のもとにいた」(ヨハネ1:2)御ことばは、「肉になった」(ヨハネ1:14)おかたそのものである。 "生ける神の御子"(マタイ16:16)である"イエス・キリスト"の中に、 「神性の充満が余すところなく肉体的に宿っている」(コロサイ2:9)。 このおかたは、「御父の懐におられる神の独り子」(ヨハネ1:18)であり、 その「愛する御子であって、このおかたの働きをとおしてわれわれは贖いを得る [ ...] 。 彼の中にその充満が余すところなく住まうようになさり、 彼をとおしてその彼の十字架の御血をもって地上にあるものと天上にあるものを平和にして、 すべてのものを御自分と和解させることを神は喜びとされたからである」(コロサイ1:13−14.19−20)。
 聖書に忠実を守り、誤っていて簡略化された解釈を退けて、 第1ニカイヤ公会議は「神の子イエス・キリスト」に対する自己の信仰を荘厳にこう宣言した。 「このおかたは御父から生まれた独り子、すなわち御父の本質から[生まれた]、 神からの神、光からの光、真の神からの真の神、造られずに生まれ、御父と同一本質であって、 このかたをとおして天にあるものも地にあるものも、万物は造られた。 このかたはわたしたち人間のため、わたしたちの救いのために降り、 受肉し、人間となり、苦しみを受け、三日目に復活し、天に昇り、 生けるものと死せるものを裁くために来られる」  第1ニカイヤ公会議:DS 125 と。 教父たちの教えに従い、カルケドン公会議もこう信仰宣言した。 「ひとりの同じ御子、わたしたちの主イエス・キリストは、このおかた自身神性において完全であり、 人性においても完全であり、まことに神であって、 まことに人であって、 [ ...] 神性にしたがって御父と同一本質であり、 人性にしたがってわたしたちと同一本質であり [ ...] 、 神性にしたがって世々に先立って御父からお生まれになったが、 時代の終わりに、その同じおかたはわたしたちのため、わたしたちの救いのために、 人性にしたがって処女マリア、神の母から(お生まれになった)」 カルケドン公会議:DS 301
 このために、第2ヴァティカン公会議は、――「新しいアダム」、 「見えない神の映し」(コロ1.15)である――キリストについて、こう明言した。 「このおかたは完全な人間であって、 最初の罪によってそのとき以来歪められた神の似姿をアダムの子らに回復させてくださった。 [ ...]罪のない小羊は、ご自分の血を自由に流して、 わたしたちに命をもたらし、 このおかたの中に神はわたしたちをご自分と、 またわたしたちどおしを和解させ、 悪魔と罪の奴隷状態から引き抜いてくださった。 このようにわたしたちはそれぞれ使徒パウロと共に、神の御子は『わたしを愛し、 わたしのためにご自分を犠牲にしてくださった』(ガラ2.20)と言うことができる」 第2ヴァティカン公会議、現代世界憲章第22項
 このように考えて、ヨハネ・パウロ2世は、明らかにこう宣言された。 「いかなるものであれ、御ことばとイエス・キリストの分離を導入するものは、キリスト教信仰に反する [ ...]。イエスは受肉した御ことば、 一人の分かつことのできない位格(ペルソナ)である[ ...]。 キリストはナザレのイエスにほかならず、これがすべての人の救いのために人となられた神の御ことばである。 [ ...]神がすべての民に豊かにお与えになるあらゆる種類の賜物、特に霊的な富を見出し、 評価するよう努めながらも、それを神の救いの計画の中心に立つイエス・キリストから引き離すことはできないのです」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第6項(邦訳13−14頁)
 また御ことばの御ことばとしての救いの働きと、受肉した御ことばの救いの働きの分離を導入することも、 キリスト教信仰に反する。受肉によって、神の御ことばが遂行なさるすべての救いの働きは、 この御ことばがすべての人の救いのためにお受け取りになった人性と常に一体をなして実現されるからである。 人間であり神である二つの本性をもってお働きになる唯一の主体は、御ことばの唯一の位格(ペルソナ)にほかならない 聖大レオ、『フラヴィアヌムへの教書(トムス)』参照:DS 294
 それゆえ、救いの働きを御ことばとしての御ことばによるとし、 イエス・キリストの人性を"経ずに"(praeter)、 またこれを "超えて"(ultra)行われるものがあるとする学説は、 教会の教えとは両立することができない 聖大レオ、『皇帝レオ1世宛の手紙』―プロミジッセ・メ・メミニー参照:DS 318:「その聖処女の受胎から神性と人生が結合されて、人なしには神性もなく、神なしに人性もないという何たる同一性になった・・・」参照:また同、DS 317参照。

11.同様に、堅く信じなければならないのは、 三位であり唯一である神がお望みになっている救いの営みの唯一性についての信仰の教えである。 その救いの営みの源泉として、またその中心として、 創造と贖いに関して神の恵みの仲介者(コロサイ1:15−20参照)であり、 万物の総括者(エフェ1:10参照)であり、 「わたしたちのために知恵、正義、聖化、贖いそのものとなられたかた」(1コリ1:30)である御ことばの受肉の秘義がある。 実際に、キリストの秘義は、神の中におけるその永遠の選びから再臨のときに至るまで、内容的に同一なのである。 つまり、「彼(=キリスト)において[御父は]、わたしたちが聖にして汚れのないものであるようにと、 宇宙の基礎を置く前に愛をもってわたしたちを選んでくださった」(エフェソ1:4)。 また、「彼(=キリスト)においてわたしたちも受け継ぐものとなり、 すべての働きをなさるかたの前もってお決めになったことにしたがって、 そのおかたの意志の計画にしたがって、わたしたちは前もって定められていた」(エフェソ1:11)。 また、「なぜなら神(御父)は、前もって知っておられた人々が、 ご自分の御子の映しそっくりになるようにとあらかじめお定めになったからです。 それは御子が大勢の兄弟の中で長子となるためです。 神は、あらかじめ定めた者を召し出し、召し出した者を正しい者とし、 正しくされた者たちに栄光をお与えになりました」(ロマ8:29ー30)と。
 教会の教導職は、神の啓示に忠実を守りながら、イエスが普遍的な仲介者であり、 贖い主であることを確固として明言する。「万物は神の御ことばによって創造されたが、 その神の御ことばご自身、肉となられた。 それはこのおかたが完全な人間として万人の救いと万物の 総括の働きをなさるためであった。 主は[ ...] 御父が死から復活させ、高揚し、生ける者と死せる者の審判者として立てて、 ご自分の右に座すようになさったおかたである」 第2ヴァティカン公会議、現代世界憲章第45項;またトリエント公会議、教令『原罪について』第3項参照:DS 1513
 この救いのために仲介の働きは、永遠の大祭司キリストの贖いのいけにえの唯一性も意味する (ヘブ6:20;9:11;10:12−14参照)。

12.またほかに、受肉し、十字架上で死んで復活した御ことばの営みよりも いっそう普遍的な性格をもつ聖霊の営みがあるのではないかとの仮説を提唱する者もいる。 この主張も、救いのための御ことばの受肉を三位なる神の出来事として考えるカトリック信仰に反する。 新約聖書において、受肉した御ことばであるイエスの秘義は、聖霊が現存するところであり、 また人類へのその聖霊の注ぎの始まりとなっており、 これはただメシア時代のみならず(使徒言行録2:32ー36;ヨハネ7:39;20:22;1コリ5:45参照)、 歴史におけるその到来に先立つ時代にも言えることである(1コリ10:4;1ペト1:10ー12参照)。
 第2ヴァティカン公会議はこの基本的な真理を教会の信仰の自覚に呼び覚ました。 全人類に対する御父の救いの計画を提示する中で、 同公会議はその始めからキリストの秘義を聖霊の秘義と密接に結びつける  第2ヴァティカン公会議、教会憲章第3−4項参照。 この時代の流れにおける頭であるイエス・キリストによる教会を建てるというすべての働きは、 このイエス・キリストがご自分の聖霊と互いに協働して実現なさったものとして考えられている 同第7項参照;また聖エイレナイオス参照:彼は、「[教会の中に]キリストの通交、つまり聖霊が委託されている」(『異端論駁』第3巻、24、1:SC 211,472)と言った。
 さらに、聖霊と共に、また聖霊をとおしてなされるイエス・キリストの救いの働きは、 教会の目に見える境を越えて全人類にまで及んでいる。 キリストがすでに今、聖霊において信じる者を生かしてご自分と共にいるようになさり、 復活の希望をお与えになるのは過ぎ越しの秘義をもってであるが、 この過ぎ越しの秘義について述べながら、同公会議はこう明言する。 「それはキリスト教徒のみならず、善意のすべての人々にも言うことができる。 この彼らの心の中で恩恵は目に見えずに働いているからである。 実際に、キリストはすべての人のために死んでくださったのであり、 人間が最終的に呼ばれているのも実にただひとつ、神聖なものに向かってである。 それゆえ、確信しなければならないのは、聖霊はすべての人に、ただ神のみがご存じの方法で、 過ぎ越しの秘義とあいまみえる可能性をお与えになっているということである」 第2ヴァティカン公会議、現代世界憲章第22項
 したがって、受肉した御ことばの救いの秘義と聖霊の救いの秘義との連結は明らかである。 後者は、時間的に人となった御ことばに先立って生きていようと、 その到来の後に歴史の中で生まれて生きていようと、 同じ一つの目標に神から呼ばれているすべての人の命の中で、 人となった御子の救いの影響を現実化するものでしかない。 つまり、彼らすべてを生かすのは御父の霊であり、 これを人としての御子は惜しみなくお与えになる(ヨハネ3:34参照)。
 そのため教会の教導職は最近確固として、また明確に神の同一で唯一の営みをこう思い起こさせた。 「聖霊の現存と活動は個々の人のみならず、社会や歴史にも、 また諸民族や諸文化、諸宗教にも及ぶものである。 [...] 復活者キリストはご自分の霊の力をもって人々の心の中で働いておられる[...]。 さらに諸宗教儀式や諸文化の中にある"御ことばの種"を撒き、 それをキリストにおいて成熟するようになさるのも聖霊である」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第28項(邦訳50頁):「御ことばの種」という用語については、また聖ユスティノス、2アポロギア8, 1-2;10, 1-3;13, 3-6:ed.Goodspeed, pp.84;85;88-89.も参照。 とはいえ、この全宇宙と人類史全体の中で聖霊が歴史としての救いを もたらすために果たしておられる働きを認めながらも ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第28−29項(邦訳49−52頁)参照 、 教導職はこうも強調する。 「この聖霊は、受肉において、またイエスの生涯、 その死と復活においてお働きになったのと同じ霊であり、 また教会の中でお働きになっているのと同じ霊である。 それゆえ、これはキリストに代わるものでもなければ、 ときにはキリストと御ことば(ロゴス)の間にあると考えられることがある、 ある種の空虚を満たすものでもない。聖霊が人々の心の中で、また諸民族の歴史の中で、 諸文化、諸宗教の中で働いておられることに関しては、 福音前準備の役割を果たしておられるのであり、 これも聖霊の働きによって人となられた御ことばであるキリストとの関連なしではありえない。 その聖霊の働きも"完全な人間であるそのかたにすべての人の救いと普遍的な統括をなさせるために"ほかならなかった」  同第29項(邦訳51頁
 このすべてを短く要約すれば、聖霊の働きはキリストの働きを超えてあるものでもなく、 そのそばにあるものでもないと言わなければならないということである。 三位であり唯一の神の唯一の救いの営みがあるだけで、 これは神の御子の受肉とその死と復活の秘義によって実現され、 聖霊の協力によって効果あるものとされ、これがその救いの効果をもって全人類と宇宙にまで及んでいる。 つまり、「人間は、聖霊の働きのもとキリストをとおしてでしか、神との交わりに入ることはできない」 同第5項(邦訳13頁)

第3章 イエス・キリストの救いの秘義の唯一性と普遍性

13.イエス・キリストの秘義の救いの唯一性と普遍性を否定する命題もしばしば支持されている。 この意見もなんら聖書的根拠を持たない。実際に、教会の信仰の恒久の要素として、 堅く信じなければならないのは、その受肉と死、復活の出来事をもって救いの歴史を完成し、 ご自分の中にその歴史の充満と中心を有しておられる神の子であり、 主であり、唯一の救い主であるイエス・キリストの真理である。
 新約聖書の言葉は、「御父がご自分の御子を世の救い主としてお遣わしになった」(1ヨハネ4:14)と、 明らかに証している。また、「見よ、世の罪を除く神の子羊を」(ヨハネ1:29)と。 最高法院をまえにしての演説で、生まれながら足の不自由な人がイエスの御名によって癒されたこと (使徒言行録3:1−8参照)を説明して、ペトロはこう公言した。 「救いはこのかたをおいて、ほかでは得られません。天の下で、人間につけられた名のうちで、 われわれを救うことのできる名は、ほかにはないのです」(使徒言行録4:12)と。 さらに同使徒はつけ加えて、イエス・キリストは「万民の主であり」、 「生きている者と死んだ者との審判者として神によって定められた者であり」、 そのため「このおかたを信じる者はだれでもその御名によって罪の赦しを得る」 (使徒言行録10:36.42.43)と言う。
 パウロはコリントの信仰共同体に向かって、こう書いている。 「まことに、たとえ天であれ、地であれ、そこに神々と呼ばれているものがあり、 実際に多くの神々と多くの主があっても、わたしたちにとってはただ一人の神、 御父だけがおられ、このおかたから万物は由来し、わたしたちはこのおかたに向かうものなのです。 また、ただ一人の主、イエス・キリストだけがおられ、 このおかたによって万物は存在し、わたしたちもこのおかたによるのです」(1コリ8:5−6)と。 使徒ヨハネもこう明言している。つまり、「神はご自分の独り子を与えるほど、この世を愛された。 それは、御子を信じる者が一人も滅びず、永遠のいのちを得るためです。 神は独り子を世に遣わされたが、それは世を裁くためではなく、 このおかたをとおして世が救われるためである」(ヨハネ3:16ー17)。 新約聖書の中で、神の普遍的救いの意志はキリストの唯一の仲介と密接に結びつけられている。 「神はすべての人が救われて、真理を深く悟るようになることを望んでおられます。 神はただ一人であり、神と人との間の仲介者もまた、人であるキリスト・イエスただ一人です。 このおかたはご自分をすべての人のために贖いとしてお与えになりました」(1テモ2:4−6)。
 この御父からイエス・キリストをとおして聖霊において差し出される唯一の普遍的救いの賜物 (エフェソ1:3−14参照)を意識してこそ、 初期のキリスト教徒はイスラエルに向かっては救いの完成が律法を越えるものであったことを論証し、 数々の救いの神々を信じることによって救いに憧れていた当時の異教世界と出会ったのだった。 この信仰の遺産は最近の教会の教導職によって改めて明らかにされた。 「見よ、教会は、万人のために死んで復活したキリスト(2コリ5:15参照)が、 ご自分の霊をとおして人間に光と力を与え、 こうして人間が自分の最高の召命に答えることができるようになさることを信じる。 また、天の下で人間には救われるためにはその御名のほかに名はない(使徒言行録4:12参照)と信じる。 同様に教会はその自分の主であり師であるおかたの中に全人類の歴史の鍵、中心、目的があると信じる」 第2ヴァティカン公会議、現代世界憲章第10項;また聖アウグスティヌスも参照。彼は人類にけっして欠けることがなかった普遍的な救いの道、キリストの外では誰も解き放たれなかったし、誰も解き放たれることなく、また誰も解き放たれないであろうと述べた:『神の国』10,32,2:CCL 47, 312

14.それゆえ、カトリック信仰の真理として堅く信じなければならないのは、 唯一にして三位である神の普遍的救いの意志が、いつの時代のためにも、 ただ一度、神の御子の受肉、死とその復活の秘義によって差し出され、為し遂げられたということである。
 この信仰の要素を考慮して、今日の神学は、ほかの宗教的体験が様々とあること、 および神の救いの計画におけるその意義について瞑想しながら、 ほかの諸宗教の数々の人物や積極的要素も神の救いの計画の中に組み込まれているのかどうか、 組み込まれているなら、いかに組み込まれているのか、探求するよう促されている。 この研究と瞑想にあたり、神学の研究には教会の教導職の指導のもとに広大な作業分野が開かれている。 事実、第2ヴァティカン公会議はこう教える。「贖い主の唯一の仲介(の働き)は、 被造物の中に種々の協力があることを拒絶せず、かえってこれを起こすものであり、 この協力は唯一の源泉に与るものである」 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第62項参照 。 理解を深めなければならないのは、 この参与的仲介の意味であるが、これはいつでもキリストの唯一の仲介を最高の原理としなければならない。 「キリストの唯一の仲介に参与しているさまざまな形態と領域の仲介が除外されることはなくても、 これはただキリストの仲介からのみその意味と価値を得ているのであり、 そのキリストの仲介と並行したもの、ないしは補足的なものとして理解されることはできない」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第5項(邦訳13頁)参照。 しかしながら、神の救いの働きをキリストの唯一の仲介の外にあると見る提案は、 キリスト教的かつカトリック的信仰とは相容れない。

15.神学において"唯一性"とか、"普遍性"とか、"絶対的性格"とか、 このような用語は避けるべきだという提案が稀ではなく見受けられる。 この用語を用いることにより、 ほかの諸宗教と比べてイエス・キリストの救いの出来事の意味と価値を過度に強調しているかのように思われる。 実際には、この言語表現が単に表しているのは、啓示に対する忠実にほかならない。 ほかの言語表現は啓示の源泉そのものの説明にすぎないからである。 その始めから、キリスト教徒の共同体はイエスに救いの威力があるのを承認してきたが、 これがいかなるものかと言えば、ただこの人間になって十字架の上で死んで復活した神の子であるそのおかただけが、 ――御父から受けた使命のため、また聖霊の力強い働きをもって――全人類に、 また人間一人一人に啓示(マタイ11:27参照)と神の命 (ヨハネ1:12;5:25ー26;17:2参照)を賜物として与える任務を持っておられるような、  それほどの救いの威力である。
 この意味で、イエス・キリストは人類とその歴史にとって別格無比で唯一であって、 このおかたにのみ固有の、排他的で、普遍的で、絶対的な意義と価値が備わっていると言うことができるし、 またそう言わなければならない。事実、イエス・キリストはすべての人の救いのために人になった神の御ことばである。 この信仰の自覚を明らかにして、第2ヴァティカン公会議はこう教える。 「実際に、神の御ことばにより万物は創造されたが、神の御ことば御自身、肉となられた。 それは完全な人間としてこのおかたがすべての人の救いを実現し、 頭として万物を総括する(recapitulare)ためであった。 この主は人間の歴史の目標点、"諸々の歴史と文明が向かう焦点"、 人類の中心、すべての心の喜び、その憧れを満たす充満である。 この主は、御父が死から復活させて高揚し、ご自分の右の座につかせ、 生ける者と死せる者の審判者としてお立てになったかたである」 第2ヴァティカン公会議、現代世界憲章第45項。人類の歴史におけるキリストの必要かつ絶対的格別性と普遍性は、聖エイレナイオスによってよく表現されている。神の独り子としてのイエスの優越性を瞑想して、「天においては、神のご計画の原初的独り子、完全な御ことばとしてすべてを統治し、法をもって定めるので、地上では、聖処女の独り子として正しい人、聖なる人、神を敬う人、善良な人、神に喜ばれる人、まったく完全な人であるので、彼は死者の中の独り子で、神の命の頭領兼首長であるので、自分に従うすべての者を地獄から救う」という(Demonstratio, 39:SC 406, 138)。。 「まさにこのキリストの唯一無比の別格性のゆえに、 キリストは絶対的かつ普遍的な意味をもつおかたなのであり、 それゆえキリストは歴史の中にありながら、この同じ歴史の中心であり、目標点なのです。 "わたしはアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。 初めであり、終わりである"(黙示録22:13)」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第6項(邦訳14頁)

第4章 教会の唯一性と同一性

16. 唯一の救い主である主イエスは、ただ単に弟子たちの共同体を結集なさったのではなく、 救いの秘義として教会を設立された。このおかた自身、教会の中におられ、 教会はこのおかたの中にある(ヨハネ15:1以下;ガラ3:28;エフェソ4:15ー16;使徒言行録9:5参照)。 したがって、キリストの救いの秘義の充満は、その主と切っても切れない関係にある教会のものでもある。 事実、イエス・キリストは教会の中で、教会をとおしてご自分の現存と救いの働きをお続けになるのであり  第2ヴァティカン公会議、教会憲章第14項参照 (コロ1:24−27参照)、また教会はその体である(1コリ12:12−13.27;コロ1:18) 同第7項参照。 命ある体の頭とその肢体が同一視されないとはいえ切っても切れないように、 キリストと教会も確かに混同されることができないが、切り離すこともできず、 ただ一つの「キリスト全体」を構成している 聖アウグスティヌス、『詩編注解』詩編90、『講解説教』2、1:CCL 39,1266;聖大グレゴリウス、『ヨブの道徳的解釈』序、6、14:PL 75, 525;聖トマス・アクイナス、『神学大全』III, q.48, a.2 ad 1参照。 この同じ不可分離性は新約聖書の中でキリストの花嫁としての教会の類比によっても表現されている (2コリ11:2;エフェ5:25−29;黙示録21:2.9参照) 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第6項参照
 したがって、イエス・キリストの救いの仲介が唯一で普遍的であるということと関連して、 カトリック信仰の真理として堅く信じなければならないのは、 そのおかたによって基礎がおかれた教会の唯一性である。ただ一人のキリストしかいないように、 そのキリストのただ一つの体、ただ一人の花嫁しかいない。 つまり、「ただ一つの公で、使徒継承の教会」しかない 信仰告白:DS 48:ボニファチウス8世、大勅書『ウナム・サンクタム』:DS 870-872 ;第2ヴァティカン公会議、教会憲章第8項参照。 さらに、ご自分の教会をけっして捨てることがなく(マタイ16:18;28:20参照)、 ご自分の霊と共にこれを導くであろう(ヨハネ16:13参照)との主の約束は、カトリックの信仰によると、 その唯一性と同一性が、また教会には救いに必要なすべてのものが、 けっして欠けることがないということもそれ自体意味している 第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第4項;ヨハネ・パウロ2世、回勅『キリスト者の一致』第11項(邦訳11−13頁)参照
 カトリック信徒は、キリストによって基礎を置かれた教会とカトリック教会の間に、 ――使徒的継承に根づいた 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第20項参照;また聖エイレナイオス、『異端論駁』III, 3.1-3:SC 211, 20-44;聖キプリアヌス、『手紙』33, 1:CCL 3B, 164-165;聖アウグスティヌス、『律法と預言書の反対者に対して』I.20, 39:CCL 49, 70参照 ――歴史的連続性があることを信仰告白しなければならない。 つまり、「これが[...] われわれの救い主が復活の後に牧するようにとペトロにお委ねになり (ヨハネ21:17参照)、この彼とほかの使徒たちにその流布と指導をお託しになった (マタイ28:18以下参照)唯一の教会である。そのおかたはこの教会を"真理の柱と基礎" (1テモテ3:15参照)としてお立てになった。この世界の中で社会として設立され、 組織化されたこの教会は、ペトロの後継者とこの彼との交わりの中にある 司教たちによって治められているカトリック教会の中に存する[subsistit in]」 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第8項。 「 ...中に存する[subsistit in]」という表現をもって、 第2ヴァティカン公会議は二つの教理を調和させようとする。 一方では、キリストの教会はキリスト教徒の分裂にもかかわらず、 その充満としてはただカトリック教会の中にだけ存在し続けるということである。 他方、「その境界の外にも」、 つまりカトリック教会とはまだ充満的な交わりの中にはない教会と教団の中にも 同、それにヨハネ・パウロ2世、回勅『キリスト者の一致』第13項(邦訳19−20頁)と第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第3項参照 「聖化と真理の数多くの要素が存在する」 それゆえ、Subsistit in との言語表現からキリストの唯一の教会が非カトリックの諸教会と諸教団にも「存する」ことができるとする命題を考案する者の解釈は公会議本文の正真正銘の意味とは反する。「それゆえ、公会議が subsistit を選んだのはただひとつの真の教会が存することを明らかにするためで、他方、そのためにその目に見える境の外にあるのはただ教会の要素であって、これは――教会そのものの要素であるから――カトリック教会を指向しており、これに導くものである」(教理省、『レオナルド・ボフの著作 教会:カリスマと権力についての通知』:AAS 77(1985)756-762) ということである。 しかし、この後者に関して明言しなければならないのは、 これらの価値が由来するのは、恩恵と真理の充満が託されているのがカトリック教会であるとはいえ、 その同じ恩恵と真理の充満からである 第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第3項 ということである。

17.したがって、存在するのはキリストの唯一の教会であり、 これはペトロの後継者とこれと交わりのある司教たちによって統治されているカトリック教会の中に存する 教理省、宣言『教会の秘義』第1項参照。 カトリック教会と完全な交わりの中にあるのではないが、 使徒継承と有効な聖体祭義という最も緊密な絆によってこれと結ばれている諸教会も真の個別教会である 第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第14項と第15項;教理省、書簡『交わりの概念』第17項参照。 それゆえ、これらの諸教会の中にもキリストの教会が現存し、活動している。 神の意志によりローマの司教が客観的に有し、 全教会に行使する首位権について 第1ヴァティカン公会議、教義憲章『パストール・アエテルノス』:DS 3053-3064;第2ヴァティカン公会議、教会憲章第22項参照 のカトリックの教理を受諾しないということで、 カトリック教会との充満する交わりに欠けるところがあったとしても、そうである。
 それに対して、有効な司教職と聖体秘義の本来的かつ十全的な本質を保持していない教団は 第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第22項参照、 固有な意味で教会ではない。しかしながら、 これらの教会の中で洗礼を受けた者は洗礼によってキリストに組み込まれており、 それゆえ教会とは不完全であるが、ある交わりの中にいる 同第3項参照  。 実際に洗礼はそれ自体、十全的な信仰告白と聖体秘義と教会における充満的な交わりによる、 キリストにおける命の完成への指向性をもつものなのである 同第22項参照
 「したがって、キリスト教徒はキリストの教会を、 ――あい異なるが、なんらか一つにまとまった――、諸教会と教団の総体として考えることはできない。 またキリストの教会が今日どこにも存在せず、 それゆえそれはすべての教会と教団が追い求めなければならない目標とみなされるべきものだと自由に考えることは許されない」 教理省、宣言『教会の秘義』第1項。 事実、「すでにあるこの教会の諸要素は、その充満において結び合わされてカトリック教会の中にあり、 そのような充満を欠いてほかの諸教団にある」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『キリスト者の一致』第1項(邦訳3−4頁)。 「したがって、分離した諸教会と諸教団には、欠けたところがあるとわたしたちは考えるが、 それらは救いの秘義の中で実際にはその意義と重みを奪われているわけではいない。 キリストの霊はそれらを救いの手段として用いることを拒まれず、 その価値はカトリック教会に託されている同じ恩恵と真理の充満から来る」 第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第3項
 キリスト教徒の間に一致が欠けていることは、教会にとって確かにである。 それは教会が一致を失ってしまったという意味ではなく、 「分裂が歴史におけるその普遍性のまったき実現にとって障害となっているという意味で」 教理省、書簡『交わりの概念』第17項;それに第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第4項参照、 そうなのである。

第5章 教会、神の国、キリストの国

18.教会の使命は、「キリストの国と神の国を告げ知らせ、 これをすべての民の中に確立することである。教会は地上におけるこの国の芽生えであり、始まりとなっている」 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第5項。 一方では、教会は「秘跡、すなわち神との密接な交わりと全人類の一致のしるしであり、手段である」 同第1項。 したがって、教会は御国のしるしであり、手段である。教会はこれを告げ知らせ、確立するために呼ばれたものである。 他方、教会は「父と子と聖霊の一致によって集められた民」 同第4項、それに聖キプリアヌス、『主の祈りについて』第23項:CCL 3/A, 105 である。 それゆえ、教会は「秘義においてすでに現存するキリストの国」  第2ヴァティカン公会議、教会憲章第3項参照 であって、 そのためその芽生えとなり、始まりとなっている。神の国には実際に終末的な次元がある。 それはこの時間の中に現にあるものであるが、その完全な実現はただ歴史の終わりと完成と共になされるであろう 同第9項参照、また『十二使徒の教訓』9:4と10:5にある神に向かってなされた祈り、「あなたの教会が世界の端からあなたの国に集められますように」(Funk,I,20);「主よ、あなたの教会を覚えてください・・・これを四方の風から聖なるものにしてそのためにあなたが準備なさったあなたの国に集めてください」(Funk I, 22)参照。
 聖書の本文と教会教父の証言から、また教会の教導職の諸文書から、 天の国とか、神の国とか、キリストの国という表現に関して一義的な意味は帰結されず、 またこれらと教会の関係についても帰結されず、それ自体秘義であって、 これをある人間的概念の中に押し込むことはできない。 それゆえ、これらの題目について様々な神学的説明があり得る。 しかしながら、このあり得る説明のいかなるものも、 キリストと御国と教会の間にある密接な結びつきをいかなるしかたであれ否定したり、 空洞化することはできない。事実、「[神の国は]、キリストからも、 教会からも引き離されることはできない。 [...] 御国がイエスから切り離されるなら、 もはやイエスによって啓示された神の国ではなくなり、 神の国が意味するところのものを窒息させて、 これを単に人間的ないし観念的な組織に変えさせる危険を招くことになり、 キリストの本性を窒息させて、 キリストはもはやすべてのものが服すべき(1コリ15:27参照)主としては消し去られることになる。 同様に、御国を教会から切り離すことはできない。確かに教会はそれ自体目的ではなく、 神の国のためにあるのであって、教会はその芽生え、しるし、手段である。 しかし、キリストとも御国とも区別されていながら、教会はその両者に不可分の絆で結び合わされている」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第18項(邦訳33−34頁)、それに使徒的勧告『アジアにおける教会』第17項(邦訳47−49頁)参照。神の国はキリストから切り離すことができず、それはある意味でキリストと同一視されるほどである(オリゲネス、『マタイ福音書注解、説教』14.7 : PG 13, 1197 ;テルトゥリアヌス、『マルキオン反駁』IV, 33, 8:CCL 1, 634参照)

19.教会と御国の裂くことのできない関係を肯定しても、それは神の国が、 ――その歴史の段階において考えられたものとしても――、 その目に見える社会的な現実における教会とは同一視されないことを蔑ろにすることを意味しない。 実際に、「[教会の]目に見える[ . . . ]境の外にあるキリストの活動と聖霊の活動」  ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第18項(邦訳35頁) は排除されてはならない。 したがって、つぎのことを考えておかなければならない。「御国は、人間、社会、全世界と、すべてにかかわる。 御国のために働くということは、人間の歴史の中に現存し、これを造りかえる神の躍動的力を認め、 協力することを意味する。御国を建造するとは、そのあらゆるかたちで現れる悪からの解放のために働くことを意味する。 短く言えば、神の国はその救いの計画をそのすべての充満において示し、実現することである」 同第15項(邦訳30頁)
 神の国とキリストの国と教会の間にある関係を考える中で、 とにかく避けなければならないのは部分的で一面的な誇張であって、 これは「故意に御国を強調する考えを持ち、"御国中心主義"と自認する人々によって提唱されるもので、 それは自己自身を考えずに、ただ御国を証し、 これに仕えることにまったく没頭する教会像を引き立てる。 キリストは"他者のための人"[ ...] であったように、 "教会は他者のため"のものだという。[ ...] この考えは有益な部分と同時に、 有害な部分もあらわにする。まずもって、キリストを黙って見過ごしにする。彼らが言う御国は、 "神中心主義"に基づくが、それは彼らによるとキリストがキリスト教信仰を持たない者によっては理解されないからであり、 他方、様々と異なる民族、文化、宗教が、その呼び名はいかなるものであれ、 唯一の神的存在者の中に出会うことができるからだと言う。同じ理由でこの考えは、 多様な文化や信仰に現れる創造の秘義を優先的に取り上げるが、贖いの秘義については沈黙する。 さらに、彼らが理解する御国は、過去のいはば"教会中心主義"に対する反動として、 また教会自体がただしるしであって、しかも曖昧さに欠けるものではなかったということで、 教会を退けたり、過小評価するように仕向ける」 同第17項(邦訳32−33頁)。 これらの命題はカトリック信仰とは相反する。 なぜならキリストと教会が神の国と有している関係の唯一性を否定するからである。

第6章 救いに関わっての教会と諸宗教

20.これまで記憶に呼び起こしてきたことから、 教会と諸宗教が救いとはいかなる関係にあるかの理解を深めるために、 神学研究がたどるべき道にとって必要な幾つかの指標が明らかとなる。
 まずもって、堅く信じなければならないのは、「旅する教会が救いのために必要だということである。 実際に、ただキリストのみが救いの仲介者であり、道であり、 このおかたが教会というご自分の体の中でわたしたちに現存なさる。 そのキリストは、信仰と洗礼の必要性をはっきりしたことばをもって強調し (マタイ16:16;ヨハネ3:5参照)、同時に人々があたかも門としての洗礼によって教会の中に入るように、 この教会の必要性も確証された」 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第14項、それに福音宣教教令第7項、エキュメニズム教令第3項参照。 この教えは、 神の普遍的救いの意志(1テモテ2:4)に対置されるものではない。 したがって、「この二つの真理、つまりすべての人がキリストにおいて救われるという真の可能性と、 このような救いにとっての教会の必要性は共に合わせて考えなければならない」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第9項(邦訳18−19頁)、それに『カトリック教会要理書』第846−847項参照
 教会は「救いの普遍的秘跡である」 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第48項。 それは教会が自分の頭である救い主イエス・キリストと秘義的に常に結ばれ、 それに服しながら、神の計画の中でそれぞれの人の救いとも切り離すことができない関係にあるからである  聖キプリアヌス『カトリック教会の一致について』6 : CCL 3, 253-254 ;聖エイレナイオス、『異端反駁』III, 24, 1 : SC 211, 472-474参照。 実際に目に見えるかたちで正式には教会の成員ではない人々にとって、 「キリストの救いは開かれており、これは恩恵によるのであり、 この恩恵は、教会とは秘義的な関係にありながらも、正式にはこの教会に彼らを導き入れないが、 彼らの内面的条件と生活環境に応じて光を与えている。この恩恵はキリストから来るもので、 ご自分がおささげになったいけにえの実りであり、聖霊によって分け与えられるものである」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第10項(邦訳19−20頁)。 この恩恵は切っても切れない絆で教会と結ばれており、 「御父である神の計画により御子の使命と聖霊の使命にその起源がある」  第2ヴァティカン公会議、宣教活動教令第2項。ここで説明した意味で、「教会の外に誰もけっして救われない」という有名な句は理解されなければならない(第4ラテラノ公会議、第1章『カトリック信仰について』:DS 802参照)。また『ボストン大司教宛検邪聖省書簡』: DS 3866-3872も参照。

21.神の救いの恩恵が――これは常にキリストをとおして聖霊において与えられ、 教会とは秘義的な関係にあるものだが――非キリスト教徒の各個人にまでいかに届けられるのかについて、 第2ヴァティカン公会議は、ただ神が「ご自分だけが知っている道で」 第2ヴァティカン公会議、宣教活動教令第7項。 お与えになるとだけ言う。 神学は現在このことを深く追求しようとしている。このような神学の作業は奨励されなければならない。 神の救いの計画とその実現の道筋をいっそうよく理解するために疑いの余地もなく有益だからである。 しかしながら、キリストの仲介について、 また教会が人々の中で――最終的には普遍的な救い主キリストの国である――神の国とは "別格で唯一の関係" ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第18項(邦訳35頁) にあることについて、ここまで述べてきたことから、 明らかにカトリック信仰に相反するのは、ほかの諸宗教によってなされる救いの道と共に、 数々の道のひとつとして教会を考えることである。 この場合、ほかの諸宗教は、終末的な神の国に向かって共に歩むものであるとしても、 教会と並んでその補完として、そればかりかむしろ本質的に教会と等価的なものとして並置されることになろう。
 多様性に富む宗教伝承の中には、神から来て 教会が喜びと注目をもって受け入れる御ことばの種がある(第2ヴァティカン公会議、福音宣教教令第11項、諸宗教宣言第2項参照)。、 「人々の心の中、諸文化と諸宗教の中での聖霊」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第29項(邦訳51頁) の働きの一部をなす宗教性の諸要素が含まれ、 差し出されていることは確かである。実際に、ほかの諸宗教の幾つかの祈りや儀礼は、 人々の心を促して神の働きに開かれるようにするための様々な道ないし教育として、 福音の前準備の役割を担うこともできる 同および『カトリック教会要理書』第843項参照。 しかしながら、そこにはキリスト教の秘跡に固有な神的起源と事効的効力ex opere operato)を認めることはできない トリエント公会議、教令『秘跡について』、カノン8『秘跡一般について』:DS 1608参照。 さらに、ほかの儀礼が迷信やその他の誤謬に基いていて(1コリ10:20−21参照)、 永遠の救いにとってむしろ障害となっていることも無視できない ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第55項(邦訳98−99頁)

22.救い主イエス・キリストの到来と共に、神は教会を創設して、 これが遍く全人類の救いの手段(使徒言行録17:30−31参照)となることをお望みになった 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第17項;ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第11項(邦訳20−23頁)参照。 この信仰の真理を主張することは、教会がこのわたしたちの世界にある諸宗教を、 真心を込めて高く評価している事実に何ら抵触しない。 しかし、同時に「"どの宗教も価値は同じだ" と考えるように仕向ける宗教的相対主義の足跡を刻まれたメンタリティーを根底から排除する」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第36項(邦訳62頁)。 ほかの宗教の信奉者たちが神の恩恵を受けることができるということも真理であるが、 その彼らを教会の中で救いの手段の充満に恵まれている者の状態 ピオ12世、回勅『キリストの神秘体』:DS 3821 参照 と比べるなら、 彼らが客観的に重大な欠損状態にあることも真理であることに変わりはない。 しかしながら、「教会のすべての子らは、自分たちの優れて恵まれた状態も自分たちの功績によるのではなく、 キリストの特別な恩恵によるのであり、自分たちの考えと言葉と行いがそれにふさわしいものでなければ、 救われないばかりか、なお厳しい裁きを受けることになる」 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第14項 ことも覚えておかなければならない。 それゆえ、なぜ教会が主のご委託(マタイ28:19−20)に従って、 またすべての人に対する愛に基く務めとして、「"道、真理、生命"(ヨハネ14:6)であり、 人々がそこに宗教的生命の充満を見出し、神がその中ですべてのものをご自分と和解させておられるキリストを、 絶えず宣べ伝えており、また宣べ伝えなければならないか」 第2ヴァティカン公会議、諸宗教宣言第2項 がよく理解される。
 諸国民への福音宣教は、宗教間対話をとおしても実行されなければならないが、 「今も昔も同じようにまったくその意義と必要性を保っている」 第2ヴァティカン公会議、宣教活動教令第7項。 実際に、「"神はすべての人が救われて、 真理を認めるようになることを望んでおられます"(1テモ2:4)。 つまり神は真理を認めることによるすべての人の救いを望んでおられる。 救いは真理の中にある。真理の霊の導きに従順である人々はすでに救いの道を歩んでいるが、 この真理が託されている教会は、これを彼らにもたらすために、 彼らの切望に応えて出て行かなければならない。まさに普遍的な救いの計画を信じるがゆえに、 教会は宣教的でなければならない」 『カトリック教会要理書』第851項、また同第849−856項も参照。 それゆえ、対話は福音宣教の一要素であるが、 諸国民に対して自分が行う宣教活動の中で教会が果たすべき任務の一部にすぎない ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第55項(邦訳98頁);使徒的勧告『アジアにおける教会』第31項(邦訳89−92頁)参照。 対話の前提となる平等性は、対話する双方の平等の人格的尊厳に関わるものであって、 教えの主題と内容に関わるものではなく、 ましてや――人となった神ご自身である――イエス・キリストに関わるものではなく、 このおかたはほかの宗教の開祖たちと対比されるものではない。 実際に、教会が愛と自由尊重に導かれて 第2ヴァティカン公会議、信教の自由宣言第1項参照、 まず第一に意欲的に取り組ななければならないのは、 すべての人に主によって決定的に啓示された真理を告げ知らせることと、 御父である神と御子と聖霊との交わりに充満して参与するためにはイエス・キリストに回心し、 洗礼および他の諸秘跡をとおして教会に結びつく必要性があることを告知することである。 他方、神の普遍的救いの意志の確信は、救いを告げ、 主イエス・キリストへの回心を告げる務めを妨げるどころか、むしろ増し加える。

結論

23.本宣言は、幾つかの信仰の真理を思い起こさせ、 説明する中で、「わたしがまず最も大事な事としてあなたがたに伝えたのは、 わたしも受け継いだものです」(1コリ15:3)と、 コリントの信徒たちに書いた使徒パウロの模範に従うことを意図している。 幾つかの不確実な、あるいは誤った提案を心に留めれば、教会の信仰を再確認し、 その希望の根拠を説得力をもって効果的に示すためには神学的に深く追求することが求められる。
 第2ヴァティカン公会議の教父たちは、真の宗教いついて、こう明言した。 「われわれは、この唯一の真の宗教がカトリックの使徒的教会の中に存すると信じる。 この教会に、主イエスは"したがってあなたたちは行って、 すべての国民を弟子にし、父と子と聖霊の名において彼らに洗礼を授け、 わたしがあなたたちに委託したことをすべて守るように教えなさい"(マタイ28:19ー20)と使徒たちに言って、 すべての人の中にそれを広める任務を委託された。人はみな真理を、 特に神とその教会に関わるものの中に探し求めなければならず、一旦それを知れば、 それを心に抱き、守りぬかなければならない」 同
 イエス・キリストの啓示は歴史の中で全人類が「行くべき道を示す真の星」 ヨハネ・パウロ2世、回勅『信仰と理性』第15項(邦訳28頁) であり続ける。 「キリストという真理は、普遍的な権威としてどこでも他を凌ぐ」 同第92項(邦訳139頁)。 実際に、キリスト教の秘義はあらゆる時間と空間の垣根を越え、人類家族が一つであることを実現する。 「いろいろと異なる場所と慣習から、みなが神の子らの一つの家族に与るようにと、 キリストにおいて召されている。[ ...] イエスは分け隔ての壁を壊し、 ご自分の秘義に与らせることによって、独自の最高の仕方でその一つであることを実現する。 この一体性は、教会が聖パウロと共に"あなたたちは、もはや異人でもなく、 客人でもなく、聖なる人々と同市民であり、神の家族なのです"(エフェソ2:19)と言うことができるほど深遠である」  同第70項(邦訳103−104頁)

 教皇ヨハネ・パウロ2世は、2000年6月16日に下記の枢機卿教理聖省長官に許された謁見において、 確かな認識とご自分の使徒的権威をもって、本省総会の席で決議されたこの宣言を承認し、確認し、これを公表するよう命じられた。

 ローマ、教理聖省の本部より、2000年8月6日、主の御変容の祝日にあたり。
+ヨセフ・ラッツィンガー枢機卿
長官

+タルチシオ・ベルトーネ、sdb
ヴェルチェルリの名誉大司教
秘書



 まず本宣言の中でしばしば引用される教皇庁の公文書とその略号を記す。 第二ヴァティカン公会議が公表した公文書に関しては、 『教会に関する教義的憲章』(Constitutio Dogmatica de Ecclesia Lumen Gentium)は、 『教会憲章』と略す。『神の啓示に関する教義憲章』 (Constitutio Dogmatica de Divina Revelatione Dei Verbum)は『啓示憲章』と略す。 『現代世界における教会に関する司牧憲章』 (Constitutio Pastoralis de Ecclesia in mundo huius temporis Gaudium et Spes)は『現代世界憲章』と略す。 『教会の宣教活動に関する教令』(Decretum de Activitate Missionali Ecclesiae Ad Gentes)は『宣教活動教令』と略す。 『エキュメニズムに関する教令』(Decretum de Oecumenismo Unitatis Redintegratio)は『エキュメニズム教令』と略す。 『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』 (Declaratio de Ecclesiae habitudine ad religones non-christianas Nostra Aetate)は『諸宗教宣言』と略す。 『信教の自由に関する宣言』(Declaratio de Libertate religiosa Dignitatis Humanae)は『信教の自由宣言』と略す。 邦訳は、南山大学監修『第2バチカン公会議公文書全集』、サンパウロ、1986年参照。
 教皇の回勅、勧告など、それに教皇庁の諸機関が公表した公文書に関しては、 ピオ12世、回勅『キリストの神秘体』(サン・パウロ発行):Litt. encycl. "Mystici Corporis", 29 iunii 1943 :AAS 15 (1943), 200ss) ;パウロ6世、使徒的勧告『福音宣教』(カトリック中央協議会発行) :"Evangelii Nuntiandi", AAS 68 (1976) 5-76);教理省宣言『教会の秘義』: "Mysterium Ecclesiae 1", AAS 65 (1973) 396-408;ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』 (カトリック中央協議会発行):" Redemptoris Missio", AAS 83 (1991) 249-340;回勅『信仰と理性』 (カトリック中央協議会発行、2002年3月):"Fides et Ratio", AAS 91(1999) 5-88; 回勅『キリスト者の一致』(カトリック中央協議会発行):Litt. encycl. "Ut unum sint", AAS 87 (1995) 921-982;使徒的勧告『アジアにおける教会』(カトリック中央協議会発行):"Ecclesia in Asia" , AAS 92 (2000) 449-528:教理省書簡『交わりの概念』:litt."Comunionis notio", AAS 85 (1993) 838-850;諸宗教評議会・福音宣教省訓告『対話と宣言』――諸宗教間の対話と イエス・キリストの福音の宣言をめぐる若干の考察と指針――(カトリック中央協議会発行) :"Dialogue and Proclamation", Reflection and Orientations on Interreligous dialogue and the Proclamation of Jesus Christ, AAS 84 (1992) 414-446;『カトリック教会要理書』(カトリック中央協議会、近刊予定) :Catechismus Catholicae Ecclesiae, Vatican City,1998;国際神学委員会『キリスト教と世界宗教』:International Theological Commission, Christianity and the world religions, Vatican City,1997:なおDSは、 デンツィンガー・シェーンメッツァー『カトリック教会文書資料集』(エンデルレ書店)の略。 ここでは聖書も含めてすべての引用は、原文による私訳を試み、文体上の統一を期した。
第1コンスタンティノポリス公会議、コンスタンティノポリス信仰告白:DS 150
ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第1項(邦訳3頁)参照;AAS 83(1991)249-340
第2ヴァティカン公会議、宣教活動教令と諸宗教宣言参照;またパウロ6世、使徒的勧告『福音宣教』:AAS 68(1976)5-76; ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』も参照。
第2ヴァティカン公会議、諸宗教宣言第2項
諸宗教間対話のための教皇庁委員会と諸国民の福音宣教省、訓告『対話と宣言』第29項(邦訳27頁):AAS 84(1992)414-446; 第2ヴァティカン公会議、現代世界憲章第22項参照。
ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第55項(邦訳98―99頁)参照
諸宗教間対話のための教皇庁委員会と諸国民の福音宣教省、訓告『対話と宣言』第9項(邦訳12頁)
ヨハネ・パウロ2世、回勅『信仰と理性』第5項(邦訳11頁)
第2ヴァティカン公会議、啓示憲章第2項
10 同第4項
11 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第5項(邦訳12頁)
12 ヨハネ・パウロ2世、回勅『信仰と理性』第14項(邦訳26頁)
13 カルケドン信仰告白:DS 301. アレキサンドリアの聖アタナシオス、『受肉について』54,3:SC 199,458参照
14 第2ヴァティカン公会議、啓示憲章第4項参照
15 同第5項
16
17 『カトリック教会要理書』第144項参照
18 同第150項
19 同第153項
20 同第178項
21 ヨハネ・パウロ2世、回勅『信仰と理性』第13項(邦訳23頁)
22 同第31−32項参照
23 第2ヴァティカン公会議、諸宗教宣言第2項、また第2ヴァティカン公会議、宣教活動教令第9項参照:ここでは「彼らに固有の儀礼と諸民族の文化」の中にある善について述べる。教会憲章第16項参照:ここでは非キリスト教徒の中にある善と真の要素に言及し、それは福音を受容するための準備と考えることができると言う。
24 トリエント公会議、聖書および諸伝承の受容についての教令参照:DS 1501; 第1ヴァティカン公会議、教義憲章『デイ・フィリウス』、第2章参照:DS 3006
25 第2ヴァティカン公会議、啓示憲章第11項
26
27 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第55項(邦訳98頁);またその第56項も参照;パウロ6世、使徒的勧告『福音宣教』第53項参照
28 第1ニカイヤ公会議:DS 125
29 カルケドン公会議:DS 301
30 第2ヴァティカン公会議、現代世界憲章第22項
31 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第6項(邦訳13−14頁)
32 聖大レオ、『フラヴィアヌムへの教書(トムス)』参照:DS 294
33 聖大レオ、『皇帝レオ1世宛の手紙』―プロミジッセ・メ・メミニー参照:DS 318:「その聖処女の受胎から神性と人生が結合されて、人なしには神性もなく、神なしに人性もないという何たる同一性になった・・・」参照:また同、DS 317参照。
34 第2ヴァティカン公会議、現代世界憲章第45項;またトリエント公会議、教令『原罪について』第3項参照:DS 1513
35 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第3−4項参照
36 同第7項参照;また聖エイレナイオス参照:彼は、「[教会の中に]キリストの通交、つまり聖霊が委託されている」(『異端論駁』第3巻、24、1:SC 211,472)と言った。
37 第2ヴァティカン公会議、現代世界憲章第22項
38 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第28項(邦訳50頁):「御ことばの種」という用語については、また聖ユスティノス、2アポロギア 8, 1-2;10, 1-3;13, 3-6:ed.Goodspeed, pp.84;85;88-89.も参照
39 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第28−29項(邦訳49−52頁)参照
40 同第29項(邦訳51頁
41 同第5項(邦訳13頁)
42 第2ヴァティカン公会議、現代世界憲章第10項;また聖アウグスティヌスも参照。彼は"人類にけっして欠けることがなかった"普遍的な救いの道、キリストの外では"誰も解き放たれなかったし、誰も解き放たれることなく、また誰も解き放たれないであろう"と述べた:『神の国』10,32,2:CCL 47, 312
43 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第62項参照
44 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第5項(邦訳13頁)参照
45 第2ヴァティカン公会議、現代世界憲章第45項。人類の歴史におけるキリストの必要かつ絶対的格別性と普遍性は、聖エイレナイオスによってよく表現されている。神の独り子としてのイエスの優越性を瞑想して、「天においては、神のご計画の原初的独り子、完全な御ことばとしてすべてを統治し、法をもって定めるので、地上では、聖処女の独り子として正しい人、聖なる人、神を敬う人、善良な人、神に喜ばれる人、まったく完全な人であるので、彼は死者の中の独り子で、神の命の頭領兼首長であるので、自分に従うすべての者を地獄から救う」という(Demonstratio, 39:SC 406, 138)。
46 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第6項(邦訳14頁)
47 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第14項参照
48 同第7項参照
49 聖アウグスティヌス、『詩編注解』詩編90、『講解説教』2、1:CCL 39,1266;聖大グレゴリウス、『ヨブの道徳的解釈』序、6、14:PL 75, 525;聖トマス・アクイナス、『神学大全』III, q.48, a.2 ad 1参照
50 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第6項参照
51 信仰告白:DS 48:ボニファチウス8世、大勅書『ウナム・サンクタム』:DS 870-872 ;第2ヴァティカン公会議、教会憲章第8項参照
52 第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第4項;ヨハネ・パウロ2世、回勅『キリスト者の一致』第11項(邦訳11−13頁)参照
53 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第20項参照;また聖エイレナイオス、『異端論駁』III, 3.1-3:SC 211, 20-44;聖キプリアヌス、『手紙』33,1:CCL 3B, 164-165;聖アウグスティヌス、『律法と預言書の反対者に対して』I.20, 39:CCL 49, 70参照
54 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第8項
55 同、それにヨハネ・パウロ2世、回勅『キリスト者の一致』第13項(邦訳19−20頁)と第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第3項参照
56 それゆえ、Subsistit in との言語表現からキリストの唯一の教会が非カトリックの諸教会と諸教団にも「存する」ことができるとする命題を考案する者の解釈は公会議本文の正真正銘の意味とは反する。「それゆえ、公会議が "subsistit" を選んだのはただひとつの真の教会が "存すること" を明らかにするためで、他方、そのためにその目に見える境の外にあるのはただ "教会の要素" であって、これは――教会そのものの要素であるから――カトリック教会を指向しており、これに導くものである」(教理省、『レオナルド・ボフの著作"教会:カリスマと権力"についての通知』:AAS 77(1985)756-762)
57 第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第3項
58 教理省、宣言『教会の秘義』第1項参照
59 第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第14項と第15項;教理省、書簡『交わりの概念』第17項参照
60 第1ヴァティカン公会議、教義憲章『パストール・アエテルノス』:DS 3053-3064;第2ヴァティカン公会議、教会憲章第22項参照
61 第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第22項参照
62 同第3項参照
63 同第22項参照
64 教理省、宣言『教会の秘義』第1項
65 ヨハネ・パウロ2世、回勅『キリスト者の一致』第1項(邦訳3−4頁)
66 第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第3項
67 教理省、書簡『交わりの概念』第17項;それに第2ヴァティカン公会議、エキュメニズム教令第4項参照
68 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第5項
69 同第1項
70 同第4項、それに聖キプリアヌス、『主の祈りについて』第23項:CCL 3/A, 105
71 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第3項参照
72 同第9項参照、また『十二使徒の教訓』9:4と10:5にある神に向かってなされた祈り、「あなたの教会が世界の端からあなたの国に集められますように」(Funk,I,20);「主よ、あなたの教会を覚えてください・・・これを四方の風から聖なるものにしてそのためにあなたが準備なさったあなたの国に集めてください」(Funk I, 22)参照。
73 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第18項(邦訳33−34頁)、それに使徒的勧告『アジアにおける教会』第17項(邦訳47−49頁)参照。神の国はキリストから切り離すことができず、それはある意味でキリストと同一視されるほどである(オリゲネス、『マタイ福音書注解、説教』14.7 : PG 13, 1197 ;テルトゥリアヌス、『マルキオン反駁』IV, 33, 8:CCL 1, 634参照)
74 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第18項(邦訳35頁)
75 同第15項(邦訳30頁)
76 同第17項(邦訳32−33頁)
77 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第14項、それに福音宣教教令第7項、エキュメニズム教令第3項参照
78 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第9項(邦訳18−19頁)、それに『カトリック教会要理書』第846−847項参照
79 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第48項
80 聖キプリアヌス『カトリック教会の一致について』6 : CCL 3, 253-254 ;聖エイレナイオス、『異端反駁』III, 24, 1 : SC 211, 472-474参照
81 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第10項(邦訳19−20頁)
82 第2ヴァティカン公会議、宣教活動教令第2項。ここで説明した意味で、「教会の外に誰もけっして救われない」という有名な句は理解されなければならない(第4ラテラノ公会議、第1章『カトリック信仰について』:DS 802参照)。また『ボストン大司教宛検邪聖省書簡』: DS 3866-3872も参照。
83 第2ヴァティカン公会議、宣教活動教令第7項。
84 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第18項(邦訳35頁)
85 教会が喜びと注目をもって受け入れる御ことばの種がある(第2ヴァティカン公会議、福音宣教教令第11項、諸宗教宣言第2項参照)。
86 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第29項(邦訳51頁)
87 同および『カトリック教会要理書』第843項参照
88 トリエント公会議、教令『秘跡について』、カノン8『秘跡一般について』:DS 1608参照
89 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第55項(邦訳98−99頁)
90 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第17項;ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第11項(邦訳20−23頁)参照
91 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第36項(邦訳62頁)
92 ピオ12世、回勅『キリストの神秘体』:DS 3821 参照
93 第2ヴァティカン公会議、教会憲章第14項
94 第2ヴァティカン公会議、諸宗教宣言第2項
95 第2ヴァティカン公会議、宣教活動教令第7項
96 『カトリック教会要理書』第851項、また同第849−856項も参照
97 ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』第55項(邦訳98頁);使徒的勧告『アジアにおける教会』第31項(邦訳89−92頁)参照
98 第2ヴァティカン公会議、信教の自由宣言第1項参照
99
100 ヨハネ・パウロ2世、回勅『信仰と理性』第15項(邦訳28頁)
101 同第92項(邦訳139頁)
102 同第70項(邦訳103−104頁)
 


本宣言の底本
Congregatio pro doctrina fidei, Declaratio De Iesu Christi atque Ecclesiae unicitate et universalitate salvifica、AAS XCII (2000) , no.10, pp.742-765
そのほか
Dominus Iesus.Dichiarazione circa l'unicità e l'universalità salvifica di Gesù e della Chiesa, Collana Documenti Vaticani, Vatican, 2000
Dominus Iesus .L'unicità e l'universalità salvifica di Gesù e della Chiesa Dichiarazione, Congregatione per la dottrina della fede, Commento di A.Amato, Collana Documenti Santa Sede 69, Bologna, 2000
Dichiarazione "Dominus Iesus" .Collana Documeti e Studi 18, Vatican, 2002

主な神学用語の訳語とその簡単な説明

communio 「交わり」
fides theologalis 対神徳としての信仰
formaliter 「形式上」
incarnatio 「受肉」:カトリック教会では伝統的に「ご託身」と訳されてきた。この表現は、「御ことばは肉となった」(ヨハネ1:14)に基いて、神の御ことばが聖母マリアの胎内で肉(=人間)となったことをいう。つまり、イエスは人間になった永遠の神の御ことばであるということ。
missio 「派遣」、「使命」、「福音宣教」この用語はまず「派遣」を意味するが、ここからその派遣される者が委託される「使命」も意味し、そういうものとして具体的に「福音宣教」を意味することもある。
mysterium 「秘義」:カトリック教会では伝統的に「玄義」と訳されてきた。第2ヴァティカン公会議の教会憲章の検討でその正確な意味が明らかにされた。それは聖書的な意味で、神の中に秘められた救いの計画にほかならない。それゆえ人間には啓示がなければ知り尽くせないものである。
oeconomia salutis 「救いの営み」:これは「救いの経倫」と訳されることがあるが、あまり馴染まれてはいないように思われる。人間の救いのために御父、御子、聖霊の協働をいう。
plenitudo 「充満」:満ち満ちていて欠けたところがないこと。同類語として、perfectio :「完全性」、integritas 「十全性」。
recapitulatio 「総括」:キリストを頭として万物が総纏めされること:エフェソ1:10参照。
subsistit in 「に存する」:第2ヴァティカン公会議でキリストが創設した教会がローマ・カトリック教会に本質的にあるということと同時に、ほかの諸教会、諸教団にもあることをいうために捻出された用語、教会憲章第8項参照(ただしラテン語原文で)。
trinitas 「三位一体」:「三一(論)」とも言われるが、伝統的な「三位一体」と訳した:神は御父、御子、聖霊の三者、つまりそれぞれ位格(persona)であらせられながら、本質としては同一の唯一の神であるというキリスト教信仰の根幹をいう。三位の「位」は「位格」(神に言われるペルソナ)を考えた訳。
unicitas 「唯一性」
unitas 「同一性」、文脈によっては「一つであること」、「一致していること」と訳すほうがよいかもしれない。「同一性の秘義」(第2項)とは人祖アダムを始めとして人類が一つでであるということの秘義。キリストが創設した教会と現在のローマ・カトリック教会の「同一性」(第4章のタイトル)など文脈によってその意味するところが異なる。
universalitas 「普遍性」:全人類に及ぶということ。

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