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これはA・ボナツィ師の協力を得て和田幹男が翻訳したもので、文責は和田が負う。イタリックのところも原文による。 |
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序 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1.主イエスは、昇天する前に、すべての人に福音を告げ、 すべての国の民に洗礼を授ける使命をご自分の弟子たちに、こう委託された。 「全世界に行き、すべての被造物に福音を宣べ伝えなさい。 信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられる」(マルコ16:15−16)と。 また「わたしは天においても地においても、すべての権能が与えられている。 したがってあなたたちは行って、すべての国民を弟子にし、父と子と聖霊の名において彼らに洗礼を授け、 わたしがあなたたちに委託したことをすべて守るように教えなさい。 見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる」 (マタイ28:18−20;またルカ24:46−48;ヨハネ17:18;20:21;使徒言行録1:8も参照)と。 教会の普遍的使命はこのイエス・キリストの委託から生まれ、 幾世紀も経て御父、御子、聖霊である神の秘義と、 全人類のための救いの出来事としての御子の受肉の秘義を宣べ伝えることによって果たされている。 ここに基本的最重要事項があって、これはキリスト教の信仰告白の中に含まれている。 「わたしは、天地の創造主、見えるものと見えないものすべての創造主であり、全能の御父であるひとりの神を信じます。 わたしは、神の独り子、ひとりの主イエス・キリストを信じます。 このおかたは世々に先立って御父から生まれ、すなわち造られずに生まれ、 御父と同一本質で、神からの神、光からの光、真の神からの真の神であって、このおかたをとおして万物は造られた。 このおかたはわたしたち人間のため、わたしたちの救いのために天から降り、 聖霊によって、処女マリアの胎内に受肉し、人間となられた。 このおかたはわたしたちのためにポンツィウス・ピラトゥスのもとで十字架にかけられ、 苦しみを受け、埋葬され、聖書にしたがって三日目に復活し、天に昇り、御父の右に座しておられ、 生けるものと死せるものを裁くために栄光の中に再び来られる。その支配には終わりがない。 わたしは、主であり、命を与え、御父から発する聖霊を信じます。 これは御父と御子とともに礼拝され、栄光を帰せられるおかたであり、預言者をとおして語られたおかたである。 わたしは一、聖、公、使徒継承の教会を信じます。わたしは罪の赦しのための唯一の洗礼を信仰告白します。 わたしは死者の復活、来たるべき世の命を待望します」 2.教会は時代が経緯する中でイエス・キリストの福音を忠実に宣べ伝え、その証しを行ってきた。 しかし、キリスト教第2千年紀の終わりにあたり、この使命はその遂行からまだほど遠い その諸宗教の伝統には、これが人類に証しし、差し出すことができる諸価値に注目して、 キリスト教以外の諸宗教との教会の関係についての第2ヴァティカン公会議の宣言の中では、 心を開いて積極的な評価がなされている。そこには、こう言われている。 「カトリック教会は、これらの諸宗教の中にある真にして聖なるものを何も排斥しない。 これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教えは、教会が信じ、示すものとは多くの点で異なっているが、 すべての人を照らすあの真理の光線を反映することも稀ではなく、 教会はそれらを真心のこもった尊敬の念をもって考慮する」 3.キリスト教信仰とほかの諸宗教の伝統との対話を実践し、その本質を深める中で、 新しい諸問題が起こり、これに答えようとして新しい研究路線が探られ、数々の提案が出され、 数々の実践法が示されているが、そのすべてには的確な識別が必要である。 本宣言がここで提示するのは、司教たち、神学者たち、 およびすべてのカトリック信徒に対して幾つかの最重要の教えを思い起こさせるためで、 これはまったく必要なものであり、また神学上の考察を行う場合に信仰の真理に即しながら、 現代文化の要請に適切に応じた解決を見出すために助けとなることができる。 本宣言の提示形態はその公表の目的に沿ったもので、本文書が出されるのは、 イエス・キリストと教会の救いの唯一性と普遍性に関して諸問題を組織的に取り扱うためではなく、 また自由に議論されている神学上の諸問題に解決を提示するためではない。 それはただその研究をいっそう深める必要がある幾つかの基本的な諸問題を指摘し、誤っているか、 あるいは曖昧な幾つかの説を排斥して、その唯一性と普遍性に関してカトリック信仰の教えを再確認するためである。 それゆえ本宣言は、教会の信仰の遺産に属する幾つかの真理を復習するため、 以前に教導職が発表した文書の中で与えられている教えの足跡をたどるものである。 4.教会の絶えざる宣教の使命は、宗教的多元性を事実(de facto)としてのみならず、 本来当然(de iure、 あるいは原理として : de principio)あるべきものとしても是認しようと試みる相対主義的性格の理論によって、 今日危機に曝されている。その結果、たとえばイエス・キリストの啓示の決定性と完結性や、 ほかの諸宗教における信奉と対比してのキリスト教信仰の本性、聖書各書の霊感性、 永遠の御言葉とナザレのイエスの位格的同一性、受肉した御言葉と聖霊による救いの営みの同一性、 イエス・キリストの秘義の救いの唯一性と普遍性、教会の救済的普遍的仲介性、 神の国とキリストの国と教会が区別されながらも不可分離的であること、 キリストの唯一の教会がカトリック教会に存する(subsistentia)というような諸真理は、 ある人々によってはすでに過去のものと考えられている。 これらの主張の根源として、哲学的あるいは神学的性格の幾つかの前提があり、 これが啓示された真理の理解と受容を妨げている。その幾つかを指摘することができるが、 それはキリスト教の啓示も含めて言われる神の真理の知り尽くし難さと言い尽くし難さの確信、 ある人にとっては真理であっても、ほかの人にとってはそうではないという真理に対する相対主義的な知の態度、 西洋の論理的知の形態と東洋の象徴的知の形態の間にあると想定される極端な対比、 認識の唯一の源泉として理性を考え、 「人生の真理にあえて達するために高い次元にあるものに自己の洞察力を働かせることができない」 ある場合は主張として、またある場合は仮説として、 様々と異なる様相をまとって提示されるこれらの前提のもとに、 幾つかの神学上の提案の根拠が考案され、 それによってキリスト教の啓示およびイエス・キリストと教会の秘義が絶対的真理として、 また救いの普遍性としての性格を失うか、少なくとも疑いと不信感の陰を投げかけられている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第1章 イエス・キリストの啓示の充満性と決定性 |
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5.日増しに広がりつつあるこの相対主義的知の形態を癒すために、 まずイエス・キリストの啓示の決定的、完結的性格を再確認する必要がある。 実際に、堅く信じなければならないのは、 「道、真理、生命である」(ヨハネ14:6)受肉した神の子イエス・キリストの秘義の中に、 神の真理の充満の啓示があるということである。 「父のほかに、子を知る者はなく、子と、子が父のことを現そうと望む者とのほかに、父を知る者はない」(マタイ11:27)。 「いまだかつて、神を見た者はない。父の懐にいる神、独り子こそ、神を現したのである」(ヨハネ1:18)。 「実に、神のうちに満ちているものすべては、キリストのうちに形をとって宿っており、 あなたがたはキリストに結ばれることによって、それに満たされている」(コロ2:9−10)。 神の言葉に忠実に、第2ヴァティカン公会議はこう教えている。 「この啓示によって、神について、また人間の救いについて深い真理がキリストにおいてわたしたちに輝く。 キリストは、すべての啓示の仲介者であると同時に、充満だからである」 このため、回勅『救い主の使命』は福音を真理の充満として宣言する任務をあらためて教会に示した。 「神は、ご自分の啓示のこの決定的なことばをとおして、最も充満した様相のもとにご自分を明らかになさった。 神はご自分がだれであるかを人類に語られた。神のこの確実で決定的な自己啓示にこそ、 教会が「本性的に宣教者である」ことの主たる根拠がある。 それゆえ、教会は福音を、 つまり神がご自分についてわたしたちに知らしめられた真理の充満を宣べ伝えないことができない」 6.したがって、イエス・キリストの啓示が限定され、未完結で、不完全な性格のものであって、 ほかの諸宗教にある啓示によって補完されなければならないものであるという命題は、教会の信仰とは相反する。 この主張の根底にある理由は、神に関する真理がその総体と充満性においてはいかなる歴史上の宗教によっても、 それゆえキリスト教によっても、またイエス・キリストによってさえも理解されることなく、 明らかにされることもないということに基づくと思われる。 このように考えることは、神の救いの秘義の充満する完全な啓示がイエス・キリストの中にあるという、 前述の信仰の肯定するところとは根本的に対立する。 実際に、イエスのことば、活動、そのすべての歴史の出来事は、 人間的な現実としては限定されたものであったとはいえ、 その主体としては「真の神であり、真の人」 7.神の啓示に適合した返答が、 「信仰の従順(ロマ1:5;16:26;2コリ10:5−6参照)であり、 "啓示する神に知性と意志のまったき服従"を差し出し、 神によって与えられた啓示に自発的に同意しながら、 人間が自己のすべてを神に自由に委ねるという信仰の従順である」 信仰の従順は、真理そのものである神によって保証された、 キリストの啓示の真理を受容することを意味する したがって対神徳としての信仰(fides theologalis ) とほかの諸宗教にある信奉(credulitas )の間にある区別は堅く守られなければならない。 もし信仰が啓示された真理を恩恵のおかげで受容することであり、 「わたしたちを秘義の内奥に入らせ、それに妥当する理解を得るよう助けるもの」 今日行われている論考において、このような相違が必ずしも眼中におかれず、 そのためしばしば唯一であると共に三位である神によって啓示された真理の受容である対神徳としての信仰と、 まだ絶対的真理の追求中で、まだ啓示する神への同意を欠く宗教体験にほかならない、 ほかの諸宗教にある信奉が同一視されている。ここにキリスト教とほかの諸宗教の相違を矮小化し、 ときには失わせるまでにしてしまう傾向が幾人かの人々に見える根拠のひとつがある。 8.ほかの宗教にある聖なる文書が霊感を受けて書かれたものであるという仮説もまた提言されている。 確かに、その中にある幾つかの要素が、どれほど事実上手段となり、 これによって多くの人々が数世紀にわたって神に対する彼らの宗教的関係を養成し、 保持することができたか、また今日もなおそうすることができているか、認めなければならない。 このために、ほかの諸宗教の行動様式や戒律、教えに注目して、 第2ヴァティカン公会議は、――前に記憶したとおり――この諸宗教についてこう明言する。 「多くの点で[教会が]信じ、示すところのものとは異なっていても、 すべての人を照らすあの真理の光を映していることが珍しくはない」 しかしながら、教会の伝承は霊感を受けた本文を、 聖霊の霊感を受けたものとしての旧約と新約の正典書だけだとする しかしながら、キリストにおいてすべての諸国民をご自分に呼び集めることを望んで、 またご自分の啓示と愛の充満を彼らに伝えることを望んで、神は絶えず幾多の様相のもとに、 「それぞれの個人にのみならず、諸国民にもその精神的豊かさをとおして」現存なさるのであり、 「諸宗教は、たとえ欠落、不十分さ、誤りを含んではいても、 その精神的豊かさの主要で本質的な表現なのである」 |
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第2章 救いの働きにおける受肉した御ことばと聖霊 |
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9.現代の神学研究においてしばしば登場するのは、 神的事物の啓示者としてナザレのイエスを、独特な、有限の一歴史的人物とし、 これを排他的にではなく、同じように啓示と救済をもたらす者とみなされるほかの諸人物と並んで、 これを補完する者だという考えである。無限なる者、絶対なる者、 神の最終的秘義なる者はこのように数多くの様相のもと、 また数多くの歴史人物のもとに人類に現れているのであり、 ナザレのイエスもその一つの場合ではないのかと。 いっそう明確に言えば、 イエスは御ことば(Logos)が救いのために人類と心を通わせるために時の流れの中で取った数多くの顔の一つではないのかと。 さらに、一方ではキリスト教が差し出す救いの普遍性を、 他方では宗教的多元性の事実を認めてそのいずれも犠牲にしないために、 教会の外でも、またこの教会との関連なしでも認められる永遠の御ことばの営みと、 受肉した御ことばの営みという二つの救いの営みがあるのではないかと提唱されている。 後者では神の現存がいっそう充満的であるとは言え、ただキリスト教徒に限定されており、 普遍性ということで前者が後者に対していっそう価値があるのではないかと。 10. これらの命題はキリスト教信仰とは明らかに異なる。 実のところ堅く信じなければならないのは、マリアの子、ナザレのイエス御自身がただ独り、 御父の御子であり御ことばであることを宣言する信仰の教えである。 「始めに神のもとにいた」(ヨハネ1:2)御ことばは、「肉になった」(ヨハネ1:14)おかたそのものである。 "生ける神の御子"(マタイ16:16)である"イエス・キリスト"の中に、 「神性の充満が余すところなく肉体的に宿っている」(コロサイ2:9)。 このおかたは、「御父の懐におられる神の独り子」(ヨハネ1:18)であり、 その「愛する御子であって、このおかたの働きをとおしてわれわれは贖いを得る [ ...] 。 彼の中にその充満が余すところなく住まうようになさり、 彼をとおしてその彼の十字架の御血をもって地上にあるものと天上にあるものを平和にして、 すべてのものを御自分と和解させることを神は喜びとされたからである」(コロサイ1:13−14.19−20)。 聖書に忠実を守り、誤っていて簡略化された解釈を退けて、 第1ニカイヤ公会議は「神の子イエス・キリスト」に対する自己の信仰を荘厳にこう宣言した。 「このおかたは御父から生まれた独り子、すなわち御父の本質から[生まれた]、 神からの神、光からの光、真の神からの真の神、造られずに生まれ、御父と同一本質であって、 このかたをとおして天にあるものも地にあるものも、万物は造られた。 このかたはわたしたち人間のため、わたしたちの救いのために降り、 受肉し、人間となり、苦しみを受け、三日目に復活し、天に昇り、 生けるものと死せるものを裁くために来られる」 このために、第2ヴァティカン公会議は、――「新しいアダム」、 「見えない神の映し」(コロ1.15)である――キリストについて、こう明言した。 「このおかたは完全な人間であって、 最初の罪によってそのとき以来歪められた神の似姿をアダムの子らに回復させてくださった。 [ ...]罪のない小羊は、ご自分の血を自由に流して、 わたしたちに命をもたらし、 このおかたの中に神はわたしたちをご自分と、 またわたしたちどおしを和解させ、 悪魔と罪の奴隷状態から引き抜いてくださった。 このようにわたしたちはそれぞれ使徒パウロと共に、神の御子は『わたしを愛し、 わたしのためにご自分を犠牲にしてくださった』(ガラ2.20)と言うことができる」 このように考えて、ヨハネ・パウロ2世は、明らかにこう宣言された。 「いかなるものであれ、御ことばとイエス・キリストの分離を導入するものは、キリスト教信仰に反する [ ...]。イエスは受肉した御ことば、 一人の分かつことのできない位格(ペルソナ)である[ ...]。 キリストはナザレのイエスにほかならず、これがすべての人の救いのために人となられた神の御ことばである。 [ ...]神がすべての民に豊かにお与えになるあらゆる種類の賜物、特に霊的な富を見出し、 評価するよう努めながらも、それを神の救いの計画の中心に立つイエス・キリストから引き離すことはできないのです」 また御ことばの御ことばとしての救いの働きと、受肉した御ことばの救いの働きの分離を導入することも、 キリスト教信仰に反する。受肉によって、神の御ことばが遂行なさるすべての救いの働きは、 この御ことばがすべての人の救いのためにお受け取りになった人性と常に一体をなして実現されるからである。 人間であり神である二つの本性をもってお働きになる唯一の主体は、御ことばの唯一の位格(ペルソナ)にほかならない それゆえ、救いの働きを御ことばとしての御ことばによるとし、 イエス・キリストの人性を"経ずに"(praeter)、 またこれを "超えて"(ultra)行われるものがあるとする学説は、 教会の教えとは両立することができない 11.同様に、堅く信じなければならないのは、 三位であり唯一である神がお望みになっている救いの営みの唯一性についての信仰の教えである。 その救いの営みの源泉として、またその中心として、 創造と贖いに関して神の恵みの仲介者(コロサイ1:15−20参照)であり、 万物の総括者(エフェ1:10参照)であり、 「わたしたちのために知恵、正義、聖化、贖いそのものとなられたかた」(1コリ1:30)である御ことばの受肉の秘義がある。 実際に、キリストの秘義は、神の中におけるその永遠の選びから再臨のときに至るまで、内容的に同一なのである。 つまり、「彼(=キリスト)において[御父は]、わたしたちが聖にして汚れのないものであるようにと、 宇宙の基礎を置く前に愛をもってわたしたちを選んでくださった」(エフェソ1:4)。 また、「彼(=キリスト)においてわたしたちも受け継ぐものとなり、 すべての働きをなさるかたの前もってお決めになったことにしたがって、 そのおかたの意志の計画にしたがって、わたしたちは前もって定められていた」(エフェソ1:11)。 また、「なぜなら神(御父)は、前もって知っておられた人々が、 ご自分の御子の映しそっくりになるようにとあらかじめお定めになったからです。 それは御子が大勢の兄弟の中で長子となるためです。 神は、あらかじめ定めた者を召し出し、召し出した者を正しい者とし、 正しくされた者たちに栄光をお与えになりました」(ロマ8:29ー30)と。 教会の教導職は、神の啓示に忠実を守りながら、イエスが普遍的な仲介者であり、 贖い主であることを確固として明言する。「万物は神の御ことばによって創造されたが、 その神の御ことばご自身、肉となられた。 それはこのおかたが完全な人間として万人の救いと万物の 総括の働きをなさるためであった。 主は[ ...] 御父が死から復活させ、高揚し、生ける者と死せる者の審判者として立てて、 ご自分の右に座すようになさったおかたである」 この救いのために仲介の働きは、永遠の大祭司キリストの贖いのいけにえの唯一性も意味する (ヘブ6:20;9:11;10:12−14参照)。 12.またほかに、受肉し、十字架上で死んで復活した御ことばの営みよりも いっそう普遍的な性格をもつ聖霊の営みがあるのではないかとの仮説を提唱する者もいる。 この主張も、救いのための御ことばの受肉を三位なる神の出来事として考えるカトリック信仰に反する。 新約聖書において、受肉した御ことばであるイエスの秘義は、聖霊が現存するところであり、 また人類へのその聖霊の注ぎの始まりとなっており、 これはただメシア時代のみならず(使徒言行録2:32ー36;ヨハネ7:39;20:22;1コリ5:45参照)、 歴史におけるその到来に先立つ時代にも言えることである(1コリ10:4;1ペト1:10ー12参照)。 第2ヴァティカン公会議はこの基本的な真理を教会の信仰の自覚に呼び覚ました。 全人類に対する御父の救いの計画を提示する中で、 同公会議はその始めからキリストの秘義を聖霊の秘義と密接に結びつける さらに、聖霊と共に、また聖霊をとおしてなされるイエス・キリストの救いの働きは、 教会の目に見える境を越えて全人類にまで及んでいる。 キリストがすでに今、聖霊において信じる者を生かしてご自分と共にいるようになさり、 復活の希望をお与えになるのは過ぎ越しの秘義をもってであるが、 この過ぎ越しの秘義について述べながら、同公会議はこう明言する。 「それはキリスト教徒のみならず、善意のすべての人々にも言うことができる。 この彼らの心の中で恩恵は目に見えずに働いているからである。 実際に、キリストはすべての人のために死んでくださったのであり、 人間が最終的に呼ばれているのも実にただひとつ、神聖なものに向かってである。 それゆえ、確信しなければならないのは、聖霊はすべての人に、ただ神のみがご存じの方法で、 過ぎ越しの秘義とあいまみえる可能性をお与えになっているということである」 したがって、受肉した御ことばの救いの秘義と聖霊の救いの秘義との連結は明らかである。 後者は、時間的に人となった御ことばに先立って生きていようと、 その到来の後に歴史の中で生まれて生きていようと、 同じ一つの目標に神から呼ばれているすべての人の命の中で、 人となった御子の救いの影響を現実化するものでしかない。 つまり、彼らすべてを生かすのは御父の霊であり、 これを人としての御子は惜しみなくお与えになる(ヨハネ3:34参照)。 そのため教会の教導職は最近確固として、また明確に神の同一で唯一の営みをこう思い起こさせた。 「聖霊の現存と活動は個々の人のみならず、社会や歴史にも、 また諸民族や諸文化、諸宗教にも及ぶものである。 [...] 復活者キリストはご自分の霊の力をもって人々の心の中で働いておられる[...]。 さらに諸宗教儀式や諸文化の中にある"御ことばの種"を撒き、 それをキリストにおいて成熟するようになさるのも聖霊である」 このすべてを短く要約すれば、聖霊の働きはキリストの働きを超えてあるものでもなく、 そのそばにあるものでもないと言わなければならないということである。 三位であり唯一の神の唯一の救いの営みがあるだけで、 これは神の御子の受肉とその死と復活の秘義によって実現され、 聖霊の協力によって効果あるものとされ、これがその救いの効果をもって全人類と宇宙にまで及んでいる。 つまり、「人間は、聖霊の働きのもとキリストをとおしてでしか、神との交わりに入ることはできない」 |
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第3章 イエス・キリストの救いの秘義の唯一性と普遍性 |
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13.イエス・キリストの秘義の救いの唯一性と普遍性を否定する命題もしばしば支持されている。 この意見もなんら聖書的根拠を持たない。実際に、教会の信仰の恒久の要素として、 堅く信じなければならないのは、その受肉と死、復活の出来事をもって救いの歴史を完成し、 ご自分の中にその歴史の充満と中心を有しておられる神の子であり、 主であり、唯一の救い主であるイエス・キリストの真理である。 新約聖書の言葉は、「御父がご自分の御子を世の救い主としてお遣わしになった」(1ヨハネ4:14)と、 明らかに証している。また、「見よ、世の罪を除く神の子羊を」(ヨハネ1:29)と。 最高法院をまえにしての演説で、生まれながら足の不自由な人がイエスの御名によって癒されたこと (使徒言行録3:1−8参照)を説明して、ペトロはこう公言した。 「救いはこのかたをおいて、ほかでは得られません。天の下で、人間につけられた名のうちで、 われわれを救うことのできる名は、ほかにはないのです」(使徒言行録4:12)と。 さらに同使徒はつけ加えて、イエス・キリストは「万民の主であり」、 「生きている者と死んだ者との審判者として神によって定められた者であり」、 そのため「このおかたを信じる者はだれでもその御名によって罪の赦しを得る」 (使徒言行録10:36.42.43)と言う。 パウロはコリントの信仰共同体に向かって、こう書いている。 「まことに、たとえ天であれ、地であれ、そこに神々と呼ばれているものがあり、 実際に多くの神々と多くの主があっても、わたしたちにとってはただ一人の神、 御父だけがおられ、このおかたから万物は由来し、わたしたちはこのおかたに向かうものなのです。 また、ただ一人の主、イエス・キリストだけがおられ、 このおかたによって万物は存在し、わたしたちもこのおかたによるのです」(1コリ8:5−6)と。 使徒ヨハネもこう明言している。つまり、「神はご自分の独り子を与えるほど、この世を愛された。 それは、御子を信じる者が一人も滅びず、永遠のいのちを得るためです。 神は独り子を世に遣わされたが、それは世を裁くためではなく、 このおかたをとおして世が救われるためである」(ヨハネ3:16ー17)。 新約聖書の中で、神の普遍的救いの意志はキリストの唯一の仲介と密接に結びつけられている。 「神はすべての人が救われて、真理を深く悟るようになることを望んでおられます。 神はただ一人であり、神と人との間の仲介者もまた、人であるキリスト・イエスただ一人です。 このおかたはご自分をすべての人のために贖いとしてお与えになりました」(1テモ2:4−6)。 この御父からイエス・キリストをとおして聖霊において差し出される唯一の普遍的救いの賜物 (エフェソ1:3−14参照)を意識してこそ、 初期のキリスト教徒はイスラエルに向かっては救いの完成が律法を越えるものであったことを論証し、 数々の救いの神々を信じることによって救いに憧れていた当時の異教世界と出会ったのだった。 この信仰の遺産は最近の教会の教導職によって改めて明らかにされた。 「見よ、教会は、万人のために死んで復活したキリスト(2コリ5:15参照)が、 ご自分の霊をとおして人間に光と力を与え、 こうして人間が自分の最高の召命に答えることができるようになさることを信じる。 また、天の下で人間には救われるためにはその御名のほかに名はない(使徒言行録4:12参照)と信じる。 同様に教会はその自分の主であり師であるおかたの中に全人類の歴史の鍵、中心、目的があると信じる」 14.それゆえ、カトリック信仰の真理として堅く信じなければならないのは、 唯一にして三位である神の普遍的救いの意志が、いつの時代のためにも、 ただ一度、神の御子の受肉、死とその復活の秘義によって差し出され、為し遂げられたということである。 この信仰の要素を考慮して、今日の神学は、ほかの宗教的体験が様々とあること、 および神の救いの計画におけるその意義について瞑想しながら、 ほかの諸宗教の数々の人物や積極的要素も神の救いの計画の中に組み込まれているのかどうか、 組み込まれているなら、いかに組み込まれているのか、探求するよう促されている。 この研究と瞑想にあたり、神学の研究には教会の教導職の指導のもとに広大な作業分野が開かれている。 事実、第2ヴァティカン公会議はこう教える。「贖い主の唯一の仲介(の働き)は、 被造物の中に種々の協力があることを拒絶せず、かえってこれを起こすものであり、 この協力は唯一の源泉に与るものである」 15.神学において"唯一性"とか、"普遍性"とか、"絶対的性格"とか、 このような用語は避けるべきだという提案が稀ではなく見受けられる。 この用語を用いることにより、 ほかの諸宗教と比べてイエス・キリストの救いの出来事の意味と価値を過度に強調しているかのように思われる。 実際には、この言語表現が単に表しているのは、啓示に対する忠実にほかならない。 ほかの言語表現は啓示の源泉そのものの説明にすぎないからである。 その始めから、キリスト教徒の共同体はイエスに救いの威力があるのを承認してきたが、 これがいかなるものかと言えば、ただこの人間になって十字架の上で死んで復活した神の子であるそのおかただけが、 ――御父から受けた使命のため、また聖霊の力強い働きをもって――全人類に、 また人間一人一人に啓示(マタイ11:27参照)と神の命 (ヨハネ1:12;5:25ー26;17:2参照)を賜物として与える任務を持っておられるような、 それほどの救いの威力である。 この意味で、イエス・キリストは人類とその歴史にとって別格無比で唯一であって、 このおかたにのみ固有の、排他的で、普遍的で、絶対的な意義と価値が備わっていると言うことができるし、 またそう言わなければならない。事実、イエス・キリストはすべての人の救いのために人になった神の御ことばである。 この信仰の自覚を明らかにして、第2ヴァティカン公会議はこう教える。 「実際に、神の御ことばにより万物は創造されたが、神の御ことば御自身、肉となられた。 それは完全な人間としてこのおかたがすべての人の救いを実現し、 頭として万物を総括する(recapitulare)ためであった。 この主は人間の歴史の目標点、"諸々の歴史と文明が向かう焦点"、 人類の中心、すべての心の喜び、その憧れを満たす充満である。 この主は、御父が死から復活させて高揚し、ご自分の右の座につかせ、 生ける者と死せる者の審判者としてお立てになったかたである」 |
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第4章 教会の唯一性と同一性 |
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16. 唯一の救い主である主イエスは、ただ単に弟子たちの共同体を結集なさったのではなく、 救いの秘義として教会を設立された。このおかた自身、教会の中におられ、 教会はこのおかたの中にある(ヨハネ15:1以下;ガラ3:28;エフェソ4:15ー16;使徒言行録9:5参照)。 したがって、キリストの救いの秘義の充満は、その主と切っても切れない関係にある教会のものでもある。 事実、イエス・キリストは教会の中で、教会をとおしてご自分の現存と救いの働きをお続けになるのであり したがって、イエス・キリストの救いの仲介が唯一で普遍的であるということと関連して、 カトリック信仰の真理として堅く信じなければならないのは、 そのおかたによって基礎がおかれた教会の唯一性である。ただ一人のキリストしかいないように、 そのキリストのただ一つの体、ただ一人の花嫁しかいない。 つまり、「ただ一つの公で、使徒継承の教会」しかない カトリック信徒は、キリストによって基礎を置かれた教会とカトリック教会の間に、 ――使徒的継承に根づいた 17.したがって、存在するのはキリストの唯一の教会であり、 これはペトロの後継者とこれと交わりのある司教たちによって統治されているカトリック教会の中に存する それに対して、有効な司教職と聖体秘義の本来的かつ十全的な本質を保持していない教団は 「したがって、キリスト教徒はキリストの教会を、 ――あい異なるが、なんらか一つにまとまった――、諸教会と教団の総体として考えることはできない。 またキリストの教会が今日どこにも存在せず、 それゆえそれはすべての教会と教団が追い求めなければならない目標とみなされるべきものだと自由に考えることは許されない」 キリスト教徒の間に一致が欠けていることは、教会にとって確かに傷である。 それは教会が一致を失ってしまったという意味ではなく、 「分裂が歴史におけるその普遍性のまったき実現にとって障害となっているという意味で」 |
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第5章 教会、神の国、キリストの国 |
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18.教会の使命は、「キリストの国と神の国を告げ知らせ、 これをすべての民の中に確立することである。教会は地上におけるこの国の芽生えであり、始まりとなっている」 聖書の本文と教会教父の証言から、また教会の教導職の諸文書から、 天の国とか、神の国とか、キリストの国という表現に関して一義的な意味は帰結されず、 またこれらと教会の関係についても帰結されず、それ自体秘義であって、 これをある人間的概念の中に押し込むことはできない。 それゆえ、これらの題目について様々な神学的説明があり得る。 しかしながら、このあり得る説明のいかなるものも、 キリストと御国と教会の間にある密接な結びつきをいかなるしかたであれ否定したり、 空洞化することはできない。事実、「[神の国は]、キリストからも、 教会からも引き離されることはできない。 [...] 御国がイエスから切り離されるなら、 もはやイエスによって啓示された神の国ではなくなり、 神の国が意味するところのものを窒息させて、 これを単に人間的ないし観念的な組織に変えさせる危険を招くことになり、 キリストの本性を窒息させて、 キリストはもはやすべてのものが服すべき(1コリ15:27参照)主としては消し去られることになる。 同様に、御国を教会から切り離すことはできない。確かに教会はそれ自体目的ではなく、 神の国のためにあるのであって、教会はその芽生え、しるし、手段である。 しかし、キリストとも御国とも区別されていながら、教会はその両者に不可分の絆で結び合わされている」 19.教会と御国の裂くことのできない関係を肯定しても、それは神の国が、 ――その歴史の段階において考えられたものとしても――、 その目に見える社会的な現実における教会とは同一視されないことを蔑ろにすることを意味しない。 実際に、「[教会の]目に見える[ . . . ]境の外にあるキリストの活動と聖霊の活動」 神の国とキリストの国と教会の間にある関係を考える中で、 とにかく避けなければならないのは部分的で一面的な誇張であって、 これは「故意に御国を強調する考えを持ち、"御国中心主義"と自認する人々によって提唱されるもので、 それは自己自身を考えずに、ただ御国を証し、 これに仕えることにまったく没頭する教会像を引き立てる。 キリストは"他者のための人"[ ...] であったように、 "教会は他者のため"のものだという。[ ...] この考えは有益な部分と同時に、 有害な部分もあらわにする。まずもって、キリストを黙って見過ごしにする。彼らが言う御国は、 "神中心主義"に基づくが、それは彼らによるとキリストがキリスト教信仰を持たない者によっては理解されないからであり、 他方、様々と異なる民族、文化、宗教が、その呼び名はいかなるものであれ、 唯一の神的存在者の中に出会うことができるからだと言う。同じ理由でこの考えは、 多様な文化や信仰に現れる創造の秘義を優先的に取り上げるが、贖いの秘義については沈黙する。 さらに、彼らが理解する御国は、過去のいはば"教会中心主義"に対する反動として、 また教会自体がただしるしであって、しかも曖昧さに欠けるものではなかったということで、 教会を退けたり、過小評価するように仕向ける」 |
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第6章 救いに関わっての教会と諸宗教 |
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20.これまで記憶に呼び起こしてきたことから、 教会と諸宗教が救いとはいかなる関係にあるかの理解を深めるために、 神学研究がたどるべき道にとって必要な幾つかの指標が明らかとなる。 まずもって、堅く信じなければならないのは、「旅する教会が救いのために必要だということである。 実際に、ただキリストのみが救いの仲介者であり、道であり、 このおかたが教会というご自分の体の中でわたしたちに現存なさる。 そのキリストは、信仰と洗礼の必要性をはっきりしたことばをもって強調し (マタイ16:16;ヨハネ3:5参照)、同時に人々があたかも門としての洗礼によって教会の中に入るように、 この教会の必要性も確証された」 教会は「救いの普遍的秘跡である」 21.神の救いの恩恵が――これは常にキリストをとおして聖霊において与えられ、 教会とは秘義的な関係にあるものだが――非キリスト教徒の各個人にまでいかに届けられるのかについて、 第2ヴァティカン公会議は、ただ神が「ご自分だけが知っている道で」 多様性に富む宗教伝承の中には、神から来て 22.救い主イエス・キリストの到来と共に、神は教会を創設して、 これが遍く全人類の救いの手段(使徒言行録17:30−31参照)となることをお望みになった 諸国民への福音宣教は、宗教間対話をとおしても実行されなければならないが、 「今も昔も同じようにまったくその意義と必要性を保っている」 |
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結論 |
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23.本宣言は、幾つかの信仰の真理を思い起こさせ、 説明する中で、「わたしがまず最も大事な事としてあなたがたに伝えたのは、 わたしも受け継いだものです」(1コリ15:3)と、 コリントの信徒たちに書いた使徒パウロの模範に従うことを意図している。 幾つかの不確実な、あるいは誤った提案を心に留めれば、教会の信仰を再確認し、 その希望の根拠を説得力をもって効果的に示すためには神学的に深く追求することが求められる。 第2ヴァティカン公会議の教父たちは、真の宗教いついて、こう明言した。 「われわれは、この唯一の真の宗教がカトリックの使徒的教会の中に存すると信じる。 この教会に、主イエスは"したがってあなたたちは行って、 すべての国民を弟子にし、父と子と聖霊の名において彼らに洗礼を授け、 わたしがあなたたちに委託したことをすべて守るように教えなさい"(マタイ28:19ー20)と使徒たちに言って、 すべての人の中にそれを広める任務を委託された。人はみな真理を、 特に神とその教会に関わるものの中に探し求めなければならず、一旦それを知れば、 それを心に抱き、守りぬかなければならない」 イエス・キリストの啓示は歴史の中で全人類が「行くべき道を示す真の星」 教皇ヨハネ・パウロ2世は、2000年6月16日に下記の枢機卿教理聖省長官に許された謁見において、 確かな認識とご自分の使徒的権威をもって、本省総会の席で決議されたこの宣言を承認し、確認し、これを公表するよう命じられた。 ローマ、教理聖省の本部より、2000年8月6日、主の御変容の祝日にあたり。 |
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+ヨセフ・ラッツィンガー枢機卿 長官 +タルチシオ・ベルトーネ、sdb ヴェルチェルリの名誉大司教 秘書 |
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註 |
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まず本宣言の中でしばしば引用される教皇庁の公文書とその略号を記す。 第二ヴァティカン公会議が公表した公文書に関しては、 『教会に関する教義的憲章』(Constitutio Dogmatica de Ecclesia Lumen Gentium)は、 『教会憲章』と略す。『神の啓示に関する教義憲章』 (Constitutio Dogmatica de Divina Revelatione Dei Verbum)は『啓示憲章』と略す。 『現代世界における教会に関する司牧憲章』 (Constitutio Pastoralis de Ecclesia in mundo huius temporis Gaudium et Spes)は『現代世界憲章』と略す。 『教会の宣教活動に関する教令』(Decretum de Activitate Missionali Ecclesiae Ad Gentes)は『宣教活動教令』と略す。 『エキュメニズムに関する教令』(Decretum de Oecumenismo Unitatis Redintegratio)は『エキュメニズム教令』と略す。 『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』 (Declaratio de Ecclesiae habitudine ad religones non-christianas Nostra Aetate)は『諸宗教宣言』と略す。 『信教の自由に関する宣言』(Declaratio de Libertate religiosa Dignitatis Humanae)は『信教の自由宣言』と略す。 邦訳は、南山大学監修『第2バチカン公会議公文書全集』、サンパウロ、1986年参照。 教皇の回勅、勧告など、それに教皇庁の諸機関が公表した公文書に関しては、 ピオ12世、回勅『キリストの神秘体』(サン・パウロ発行):Litt. encycl. "Mystici Corporis", 29 iunii 1943 :AAS 15 (1943), 200ss) ;パウロ6世、使徒的勧告『福音宣教』(カトリック中央協議会発行) :"Evangelii Nuntiandi", AAS 68 (1976) 5-76);教理省宣言『教会の秘義』: "Mysterium Ecclesiae 1", AAS 65 (1973) 396-408;ヨハネ・パウロ2世、回勅『救い主の使命』 (カトリック中央協議会発行):" Redemptoris Missio", AAS 83 (1991) 249-340;回勅『信仰と理性』 (カトリック中央協議会発行、2002年3月):"Fides et Ratio", AAS 91(1999) 5-88; 回勅『キリスト者の一致』(カトリック中央協議会発行):Litt. encycl. "Ut unum sint", AAS 87 (1995) 921-982;使徒的勧告『アジアにおける教会』(カトリック中央協議会発行):"Ecclesia in Asia" , AAS 92 (2000) 449-528:教理省書簡『交わりの概念』:litt."Comunionis notio", AAS 85 (1993) 838-850;諸宗教評議会・福音宣教省訓告『対話と宣言』――諸宗教間の対話と イエス・キリストの福音の宣言をめぐる若干の考察と指針――(カトリック中央協議会発行) :"Dialogue and Proclamation", Reflection and Orientations on Interreligous dialogue and the Proclamation of Jesus Christ, AAS 84 (1992) 414-446;『カトリック教会要理書』(カトリック中央協議会、近刊予定) :Catechismus Catholicae Ecclesiae, Vatican City,1998;国際神学委員会『キリスト教と世界宗教』:International Theological Commission, Christianity and the world religions, Vatican City,1997:なおDSは、 デンツィンガー・シェーンメッツァー『カトリック教会文書資料集』(エンデルレ書店)の略。 ここでは聖書も含めてすべての引用は、原文による私訳を試み、文体上の統一を期した。 |
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本宣言の底本 |
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Congregatio pro doctrina fidei, Declaratio De Iesu Christi atque Ecclesiae unicitate et universalitate salvifica、AAS XCII (2000) , no.10, pp.742-765
そのほか Dominus Iesus.Dichiarazione circa l'unicità e l'universalità salvifica di Gesù e della Chiesa, Collana Documenti Vaticani, Vatican, 2000 Dominus Iesus .L'unicità e l'universalità salvifica di Gesù e della Chiesa Dichiarazione, Congregatione per la dottrina della fede, Commento di A.Amato, Collana Documenti Santa Sede 69, Bologna, 2000 Dichiarazione "Dominus Iesus" .Collana Documeti e Studi 18, Vatican, 2002 |
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主な神学用語の訳語とその簡単な説明 |
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