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シナイ山は、特にモーセとゆかりのある山だが、預言者エリヤも見落としてはならない。 それはまた聖書とその後のユダヤ教とキリスト教におけるモーセとエリヤとの深い結びつきを示唆する。 サンタ・カタリーナ修道院聖堂の主祭壇奥のモザイクは、タボル山において光輝く御変容のイエスを中心に、 モーセとエリヤが現れたところを描いている。ここではシナイにおけるエリヤを考えてみることとする。 写真はシナイ山(ジェベル・ムサ)山頂から北方を眺望。山岳地帯の北にはティーの高原が広がる。 聖書におけるエリヤ物語 エリヤがシナイ山、別名ホレブに逃げていったということは、列王記191−18に味わい深く書かれていて、 古来大いに親しまれてきた。 これはエリヤ物語(王上171ー2129、王下11ー224)の中の一つとして、 またはエリシャ物語(王下31ー815、1314−21)も含む、 一連の預言者物語の中の一つとして興味深く読むことができる。 エリヤとその弟子エリシャは、イスラエルが唯一の神ヤーウェの信仰を守りぬくために大きな役割を果たした預言者である。 換言すれば、イスラエルの民の中にその信仰を根付かせるために決定的な役割を果たしたのがモーセだとすれば、 その信仰が深刻な危機に瀕したときに、これを命がけで守ったのがエリヤであり、エリシャだった。 この二人は、イザヤとかエレミヤなどのようにその名が題名となる預言書を残してはいない。 彼らの活動は民間伝承として語りつがれ、それが列王記に書かれて伝えられている。 他方、列王記に並行してイスラエルの歴史を記した歴代誌にはこの預言者たちの物語群は欠けている。 しかし、エリヤの記憶はけっして忘れられてはいない(マラキ322;シラ481−16参照) |
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![]() 物語の歴史的背景 エリヤとエリシャ物語は、前九世紀の北王国イスラエルを歴史地理的背景として語られている。 この背景設定は、単なる空想によるのではなく、今日明らかにされつつある実情に沿っており、 この物語がきわめて古い起源をもつことを示唆している。イスラエルの王オムリ(前885ー874)は、 アッシリアの文献にも言及されるように顕著な業績を残した有能な人物であった。 この王は弱体化した北王国イスラエルをめざましく復興させた。 聖書外資料「メシャ王の碑」が示しているようにモアブに出兵し武力に訴えることもあれば、 フェニキアのティルスとはその王女イゼベルを息子アハブの嫁に迎えたりして友好につとめ交易を盛んにし、 特にサマリヤに遷都して、その建造に着手した。 アハブ王(前874ー853)も父の政策を受け継ぎ、サマリアの建造を続け、フェニキアと友好を深め、国家の興隆に努めた。 その繁栄はサマリア(現セバスティヤ)の発掘にしのぶことができる。 他方、アラム(シリア)との関係は、背後にいる共通の脅威アッシリアの興隆と衰退の影響を受けて友好と敵対をくりかえすが、 トランス・ヨルダンのキレアドでしばしば戦いを交え、結局アハブも、 ユダの王ヨシャファトと共にラマト・ギレアドにいるアラム軍との戦いで戦死し、 ヨシャファトは逃げ帰った(王上22章参照)。 この事情はこの数年前ダンで出土した「ダンのアラマイ語碑文」にも窺うことができる。 この時代のイスラエルにおける宗教事情は、容易に想像することができる。 フェニキアのティルスから嫁に迎えたイゼベルのために、 サマリアにバアルの神の神殿が建てられたことからもわかるように、異教が盛んになり、邪教がはびこることになった。 それは同時に、イスラエルの伝統的なヤーウェ信仰の危機を意味する。 このような時代背景のもとに預言者エリヤとエリシャがヤーウェ信仰を擁護しようとして登場した。 その活動が、カルメル山におけるエリヤとバアル神の預言者たちの戦い(王上181−46)のような伝説として語り継がれた。 |
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![]() トランス・ヨルダンのティシュベ出身の預言者エリヤは、バアル神の預言者たちとの戦いのあと、 アハブ王と王妃イゼベルに命を狙われ、ホレブ山に逃げた(王上191−18)。 エリヤはイスラエルから南に向かい、まずベエル・シェバまできた。 そこに従者を残して一人旅を続け、一本のえにしだの木の下に来て座り、疲れ果て、ただ死を願うばかりであった。 そのとき御使いに水と食べ物を与えられ助けられた。 こうして四十日四十夜かけて神の山ホレブに着いた。 かつて主なる神ヤーウェが現れ、モーセを仲介者としてイスラエルの民と契約を結ばれた山である。 したがって、この山はイスラエルにとってそのヤーウェ信仰の原点といえる山である。 ヤーウェ信仰を守ろうとして疲れ果てたエリヤがこの山に来たのは、なぜであろうか。 ヤーウェ信仰をその原点から見直すためであろうか。 今日、聖地巡礼の中でもイスラエル巡礼が盛んに行われ、シナイ山に行く信仰者も少なくない。 そのシナイ巡礼の先駆けとしてエリヤを考えることができるかもしれない。 すでに見てきたように、四世紀以来、キリスト教の伝統は、これをシナイ半島の南部にあるジェベル・ムサと見なしてきた。 そこはまたこのエリヤをしのぶにも絶好の場所である。 写真は荒れ野の中のえにしだの木 |
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![]() エリヤはホレブに来て洞穴に入り、夜を過ごしたが、そのとき「主の御前に」非常に激しい風が起こった。 しかし、そこには主はおられなかった。つぎに地震が起こった。しかし、そこには主はおられなかった。 つぎに火が起こったが、そこにも主はおられなかった。そのあと、「静かにささやく声」(11節)が聞こえた。 洞穴の入り口に立つと、その声はエリヤに語りかけたという。 激しい風、地震、火ではなく、そのあとのこの静けさの中にこそ、主なる神はおられ、エリヤに語りかけた。 確かに騒がしい世の中では祈ることができず、 古来西洋でも東洋でも静寂を求めて砂漠や山間に退いて瞑想の生活をしようとする修道僧がいた。 ヤーウェを求めて、その声を聞こうとしてエリヤもホレブに逃げてきたのであろうか。 この「静かにささやく声」の「静かな声」は、ヨブ記のエリファズの最初の言葉にも出る。 このヨブ記では夜の幻の中であるが、何か恐ろしい雰囲気の中で神が現れ、語りかけたときのことが言われている (ヨブ412−21)。このいずれの場合も、「静かにささやく声」は、問題にすれば、それほど明らかではない。 そのヘブライ語デママの語根がdmmなら「黙る」、「沈黙する」の意だが、dmh、 dwmなら「唸る」、 「轟かせる」という、まったくの逆のことを意味する。 |
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![]() この神の声を聞いて、真の神の信仰者として残ったのは、預言者エリヤだけである。 この「残る」という表現にも注意したい。 なぜなら、ここに聖書における「残りの者」の思想の原点があると思われるからである。 民族存亡の危機において、その災いを免れて生き残る者がいるものである。 宗教でもそうで、真の信仰はほんの一握りの「残りの者」によって受け継がれる。 先に読んだ激しい風、地震、火、静かにささやく声は、ここでは象徴的な意味も含んでいるらしい。 激しい風はハザエルを、地震はイエフを、火はエリシャを、 静かにささやく声はイスラエルの七千人の残りの者を意味しており(王上1915−18参照)、 このアラムの王ハザエル、イスラエルの王イエフ、弟子のエリシャ、 イスラエルの七千人の残りの者に対してエリヤが神から果たすべき使命を受けたということを言っているようである。 そのことがその後語られることになる。 シナイにおけるエゲリア 西洋からの最初のシナイ山巡礼者は、前に紹介したエゲリアである。 ここでもう少し、そのときの様子がどうだったか、読んでみよう。当時シナイ山とホレブ山を別の峰と考えていたことがわかる。 「3.それで土曜日の夕、わたしたちは神の山に入り、ある修道院に着きましたが、 そこに住んでいる修道者たちがきわめて親切に迎えてくれ、出来る限りのもてなしをしてくれました。 そこには教会があり、司祭もいました。 それでその夜はそこに留まり、日曜日の早朝そこからそこに住んでいる司祭と修道者とともに山を一つ一つ登り始めました。 その山々を登るのはこの上もなく骨の折れることです。 と申しますのは、言はば螺旋階段を登るように迂回しながらゆっくり登るのではなく、 壁を登るようにその山一つ一つを全くまっすぐ登り、まっすぐ降りる必要があり、こうしてあのまん中にあって、 まさしくシナと言われる山の麓に到達することができるからです。 で、このようにこれがわたしたちの神、キリストの御旨でもあり、同伴してくれた聖なる方々の祈りにも助けられ、 またこのように徒歩で登らざるをえず、家畜の背に乗ることもあたわず、大きな苦労をともなうものでしたが、 その苦労も感じませんでした。―――苦労を感じなかったのは、 神の御旨によってわたしの抱き続けてきた望みがかなえられるのが、 目に見えたからです――― :第4時に、わたしたちはあの神の山、聖なるシナの山頂に到達しました。 ここが、律法が授けられたところ、山が煙に覆われていたあの日に主の威厳が降ったところなのです。 今そのところには教会があります。そのところ自体山頂でもあり、十分広くはありませんので大きいものではありません。 しかし、教会自体は非常に美しいものです。それでわたしたちが神の御旨によって頂上に到達し、その教会の門に到達しますと、 その教会に任じられた司祭が修道院から出て、会いに来てくれました。 彼は元気な老人で、若いときからの修道者で、アシティスと言われていました。 何と言おうと、彼はこのところにふさわしい人でした。 他の司祭たちも、またその山の付近に住んでいる修道者たちも、 老齢や病弱のために出かけられない者を除いて皆会いにきてくれました。 だが、そのまん中の山の頂上には誰も住んではいませんでした。 そこにはただ教会と、聖なるモーセがいた洞窟以外に何もありません。 それで、モーセの書にある関連箇所をすべて読み、通常の献げものをささげ、 こうしてこれに交わりをもってから、その教会を出ようとしますと、 そのところの司祭はわたしたちに贈物として、この山で取れた果物をくれました。 聖なるシナの山全体が岩山で、実をつける草木はありませんが、 山の麓に降って行けば、そのまん中の山のまわりにも、その周囲の山のまわりにも、僅かの土地があります。 聖なる修道者たちは、すぐに勤勉に草木を植え、自分の修道院の近くに小さな果樹園ないし耕地を作りました。 あたかも山の地から幾つかの果実を採ってきたようですが、それは彼らが自分の手で栽培したもののように思われます。 わたしたちが交わりをもち、その聖なるかたがたから贈物を与えられ、教会の門を出た後で、 わたしははじめてゆかりのあるところを一つ一つ教えてくださるよう頼みました。 聖なるかたがたは、すぐにその一つ一つを教えてくださいました。 モーセは、民が罪を犯して最初の石版を打ち壊した後、再び石版を受け取るためにもう一度神の山に登りましたが、 そのとき聖なるモーセがいた洞窟があって、彼らはその洞窟や、わたしたちが望んだほかのところや、 また彼ら自身がもっとよく知っているところを教えてくださいました。 敬愛する姉妹なる婦人がたよ、わたしはこのことを知って頂きたいのです。 わたしたちが立っていた所から、つまりその教会の壁のまわり、 つまりそのまん中の山の頂上から見れば、前にはほとんど登っていなかった山々も、 それをはるかに越えるまん中の山を除いてはこれほど高いものはないと思うほど雄大であったのに、 わたしたちの下にあって、わたしたちが立っていたそのまん中の山と比べれば小高い丘同然だったといういことです。 エジプトもパレスティナも、紅海も、アレキサンドリアから広がるあのパルテニクムの海も、 それに広大なサラセンの境界も、そこからは信じられないほど眼下に見渡されました。 聖なる方々はわたしたちにそのひとつひとつを示してくれました。 4.急いで登るよう駆り立てた望みをすべて果たしてから、私たちはその登った神の山の頂上から降り始め、 「ホレブに」と呼ばれる隣接するもう一つの山に向かいました。そこにも教会がありました。 王国記(=列王記)に書き記されているように、アハブ王の顔を避けて逃げてきた聖なる預言者エリヤがいて、 神が「エリヤよ、ここで何をしているのか」と呼びかけられた所がここだったからです。 また今日もそこにはエリヤが隠れていた洞窟が見え、そこにある教会の入口の前にあるからです。 またあの聖なるかたがたが一つ一つ私たちに教えてくださったように神に献げ物をささげるために 聖なるエリヤが備え付けた岩の祭壇もそこに見えるからです。私たちはそこでも献げ物をささげ、 熱心に祈ってからその王国記の箇所の朗読をしました。 訪れるところではどこでも、必ず聖書の該当箇所を朗読するのが、私が私たちのためにいつも最も望んでいることでした。 そこでも献げ物をささげてから、司祭ないし修道者たちの示すところに従って、 そこから遠くないまたもう一つのところに向かいました。 つまり聖なるモーセが主からイスラエルの子らのために律法を受け取っている間に 聖なるアロンが70人の長老たちと共にとどまったところに向かいました。」(私訳) |
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神の母、聖マリア、 わたしたちのために祈ってください。 |
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