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Y 出エジプトの出来事−Exodus−
和田 幹男



 イスラエルの先祖がエジプトにいて辛苦をなめさせられたこと、そこから脱出を試みて成功したこと、 その後荒れ野を旅してカナンに来たことは、幾世代もイスラエルの信仰の中で想起された。その民を率いたのが、名をモーセと言った。
写真はエジプトのギザのスフィンクスとピラミッド、1962年撮影。
 この信仰内容は信仰告白の中で、また祝祭のときに語り聞かされる物語の中で受け継がれた。それが聖書に書きとめられている。
信仰告白: 要約的に、「主がエジプトの地から導き出した/導き上った」という表現で、 申265b−9;620ー24 ;ヨシュ242b−13;1サム12;詩136;135;78;105などの中で。
物語形式: 出1ー1521に、 ヤヴィスト伝承、エロヒスト伝承、祭司文書と重層的に書き留められている。

 よく知られているのはその物語である。ヨセフを知らない王が立って、イスラエル人への圧迫をはじめ、 その中で生まれたモーセは殺される運命にあったが救われ、王宮で育った(1ー210)。 成長したモーセは同胞を殺したエジプト人を打って、ミディアンの荒れ野に逃れ、そこの祭司レウエルの娘ツィポラと結婚、 義父の羊を飼っていたところ、燃える柴の中から呼びかける神の出現にあい、 イスラエル人解放のための召命を受けた(211ー431、62ー7)。 モーセはエジプトに帰ってファラオの前に出て、イスラエル人を去らせるよう願うが、 ファラオは頑迷にそれを拒む(5ー6、78ー13)。 そこで主なる神はモーセをとおして10の災いをエジプトに襲わせられる (714ー1029、119−11.1−8)。 この最後の災いが襲ったときにイスラエル人はモーセに率いられてエジプト脱出を敢行したが、 それが過越祭の時期にあたっていたため、この祭りが出エジプトを記念することとなった(12ー1316)。 逃げたイスラエル人を追跡して、ファラオは軍隊を出動させ、イスラエル人は脱出に失敗するかに見えたが、 葦の海のところで奇跡的に救われ、脱出に成功した(1317ー1431)。 モーセは勝利の歌をうたい、女預言者ミリアムも歌い踊った(151−21)。

出エジプトの主人公モーセの使命、ボッティチェッリ作、 システィーナ礼拝堂;モーセが黄色い衣服をつけて7回描かれている。 右下はエジプト人を殺すモーセ、その上はミディアンに逃げるモーセ、その左は悪い牧童を追い払うモーセ、 中央はミディアンの祭司の娘たちとの出会い、その左上はその祭司の羊飼いになったモーセ、 その左は燃える柴の中から神に呼びかけられたモーセ、民を率いてエジプトを出るモーセ。

 聖書にある出エジプトの出来事は、主なる神による特別な救いの御業として 幾世代も伝えられ、 出来事が起こってから相当の時間が経ってから書き留められたものである。 この書き留められたものから実際の出来事としての出エジプトはどこまで確かめられるのであろうか。


 (イ)イスラエルの先祖がエジプトにいたということについて
 エジプトにアジア地方(シリア・パレスチナ)出身の遊牧民がいて、労働を強いられていたことがあった。 これがハピル、ないしハビル (エジプト語でprw,アッカド語で ap/birū)と呼ばれ、 記録に見られる。
 アメノフィス2世(前1438ー1412)の碑
 セティ1世(前1304ー1290)の碑:ベト・シェアン出土
 トトメス3世の武将によるヤッファ陥落の報告書
 ラメセス2世(前1290ー1224)の手紙
 ラメセス3世(前1198ー1166)がヘリオポリスのアテム神に捧げた贈物表
 ラムメス4世(前1166ー1159)の碑
 それにくさび形文字の文書のなかに現れる。
 cfr.O.Loretz, Habiru-Hebraer, 1984, Berlin-New York.
 このハピルないしハビルが、 ヘブライ(ibrî)という用語と関連があるかもしれない。 ibrîは ヘブライ語聖書では34回出る。外国人が述べるところで10回、 外国人に述べるところで10回、前10世紀には用いられなくなっている。 この言葉は、おそらくカナン人を指しており、イスラエル人と非イスラエル人を含んで言っているらしい。
 モーセの名(Moše')は、 エジプトの名Ah-moses, Thut-moses, Ptah-moses, Ra-msesのように、 msy/wから来ているかもしれない。またメラリ(出616)、 ピンハス(出625)もエジプト語の語源を持っているかもしれない。
 ピトム(出11)という町も、Pr-Itm(Atumの家)のことで、 現在のTell el Maskuhtaらしい。またラメセスの町も Pi-Ramsesのことで、 タニス(アウァリス)か、カンティールのことらしい。 このPi-Ramsesという名はエジプト第20王朝の後、エジプトの文書からはきえる。 そうすると、聖書は非常に古い記憶をとどめているということになる。
 (ロ)出エジプトの出来事の時期
 第19王朝(1320ー1200)は、エジプトが再び非常に繁栄した時代である。 とくにラメセス2世は、政治的に安定、軍事的に成功し、盛んに建築事業を行った。 その後継者メルネプタ(1228ー1220)も力を維持し、「海の民」の侵入にあったが、これを撃退した。 その有名な戦勝碑に史上はじめて「イスラエル」の名を残している。
 もしモーセに率いられて脱出を敢行した一団がタニスで強制労働させられていたとすると この町を始めたセティ1世(前1318ー1304)から、 この町を完成したラメセス2世の時代に出エジプトが起こったと考えられる。 出エジプトの出来事そのものを証明する文献ないし考古学的証拠はないが、 聖書が伝える出エジプトが考えられないということを示す証拠もなく、 かえってそれが十分起こりうる状況であったということができる。 前13世紀の前半から中頃にかけて出エジプトの出来事が起こったらしい。 ただし、出来事自体はこれを体験したもの以外のものにとって耳にするような特別な事件ではなかった。 写真はラメセス2世、大英博物館蔵
 メルネプタの戦勝碑にある「イスラエル」は、何を指しているか定かでないが、 カナン地方にあった部族連合体を指しているようで、エジプトを脱出したイスラエルの先祖とは無関係らしい。
 cfr.Engel, H., Die Siegesstele des Merenptah, Biblica 60(1979), 373-399:Stager, L.E., Merenptah, Israel, and Sea Peoples, New Light on an Old Relief, Eretz Israel 18, 56*-64*:Fecht, G., Die Israelstele, Gestalt und Aussage, in Fontes atque Pontes, Festgabe fur H.Brunner:Yurco, F., Mernephtah's Palestinian Campaign, SSEJournal 8(1978)


 ハ)出エジプトの出来事
 出エジプトの出来事自体如何なるものであったか、想定するまえに、 出1ー1521の物語も詳しく検討する必要がある。 これは、いくつもの伝承層が重なって現在の文になっているが、その最古の層にとくに注目してみると、 それはヤウィストの本文で、前8世紀以上にさかのぼるものではない。 Weimar, P.-Zenger, E., Exodus.Geschichten und Geschichte der Befreiung Israels, SBS 75, Stuttgart, 1979(2 ed.)参照。 これも、実際の出来事としての出エジプトから数世紀経ってから書き留められたもので、 ここからその出来事自体を知ることなど到底出来ない。 ただその中に古くからの記憶が含まれているとして、その出来事を想定してみよう。
 ハピルないしハビルの一団のようであったイスラエルの先祖たちは、 ナイル・デルタの東部で強制労働に服させられていた。 強制労働に服させられていた者の逃避行はほかにも例があるが、イスラエルの先祖たちも、 ある機会をとらえて脱出を試み、これに成功した。その一団を率いた指導者がモーセであった。 その機会は、何か疫病が流行し、エジプトが混乱状態に陥ったことが考えられる (出718.21にある魚の死、出93.6にある家畜の死、 出11、1229にある初児の死参照)。 その脱出の途中、国境警備兵のようなエジプト人の追跡を受けたが、 奇跡的にこの危機を逃れることができたというようなことがあったらしい(出1427参照)。 それが水のそばであったらしい。この「葦の海」(紅海?)の救いの出来事 (出1317−22;141−31)は、その後着色されて語り継がれたが、 それには前に述べたヨルダン渡河の奇跡物語の影響がある。
 この脱出は、人間的には不可能と思われたが、実際に成功し、そこに彼らは自分たちの神の特別な助けの介入を見たのではなかったか。 この出エジプトの成功が主なる神によるものだと説いたのが、モーセではなかったか。 この救いの出来事は、遊牧民が過ぎ越しの祝いをする頃に起こったので、 その出来事は年毎に行われるこの祝いで記憶されることになったらしい。 この救いを体験した集団はかなり小さいもので、 聖書が書き記すように12部族がそろってエジプトを脱出したというのは後代の作者による。 また、この出来事はエジプト人にとっては取るに足らない些細なことで、聖書以外に記録はない。 写真は紅海。シナイ半島西岸からエジプトを望む。
葦の海における奇跡的脱出成功、4世紀末期、ローマ、写真はローマ文明博物館にある複製。 追走するファラオとその軍隊(左)と逃げていくイスラエルの先祖たち(右)。


 (ニ)エジプト脱出のルート
   聖書によると、ピトムとラムセスにいたヘブライ人(出111)は、 ゴシェンの地(出926)にいたとも言われる。 彼らはそこからスコテ(1237)、 エタム(1320)、またミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、 バアル・ツェフォンの前に宿営した(出141ー4)と言われる。 ルートについては、神は彼らを「ペリシテ人に地の道」ではなく、 「紅海に沿う荒野の道」に導かれた(出1317ー18)という。 これらの記録にもかかわらず、実際の脱出のルートは明らかではない。 その理由は、これらの地名がそれぞれ現在のどこを指すのか、 また彼らの向かった先のシナイ山がどこにあったのか、明らかでないことにある。 エジプトからパレスティナに向かう当時の主なルートとして、次三つのものがあった。
北方ルート: シルボニス湖から地中海沿岸に沿ってペリシテ人の地方に向かうもの(ホルスの道とも言われてきた)
中央ルート: シナイ砂漠の中央を横切るもの
南方ルート: スエズ湾沿岸沿いにシナイ半島を南下し、内部の山岳地帯に入るもの
 イスラエルの先祖たちは北方ルートを取り、途中荒野にわけ入った者と思われる。 南方ルートは、西暦4世紀以来のキリスト教の伝統が考えてきたもの。 (拙著『聖書年表・聖書地図』、女子パウロ会、52-53頁)


 (ホ)出エジプトの宗教的意義
  出エジプトの出来事は世界史的には規模の小さい出来事であったが、 これを体験したヘブライ人の集団とその子孫にとっては忘れられない大きな出来事であった。 人間的には不可能に見えた脱出に成功し、そこに彼らは自分たちの先祖の神、主の特別の御業を見た。 この歴史上の実際の体験を通じて、彼らはその神が如何なるものであるかをも知り、 全く新しい神認識に至ったと言うことである。出エジプトの救いの体験以前に、 ヘブライ人が自分たちの神をどう考えていたかと言えば、近隣の諸民族がその神々を考えるのと同じように、 守護神とか、豊饒多産をもたらす神とか、神話で語られる神々のひとつと見ていたのではなかったか。 しかし、ヘブライ人は出エジプトという救いの歴史的な出来事を事実として体験し、 自分たちの神は実際の歴史的な出来事に関わってくださるおかただという認識を得るにいたった。 歴史というのは、一回かぎりの出来事の連続である。 そこで、かれらは自分たちの神がこのような歴史を導く神であることを考えるようになったとしても、 不思議ではない。つまり、周期的に巡る自然を通じて人に恵みをもたらす神々とはちがって、 歴史を導く神であるというイスラエル独特の神の認識がそれ以来始まったのではなかろうか。
 また自分たちを救ってくれたのがこの神だいうことで、その後ヘブライ人にとって結び付く神はこの神以外にはなく、 他の神々は排除すべきだということになり、実践的な意味で唯一神信仰が始まった。 これが十戒の第一戒に表現されている。理論的な意味での唯一神信仰、 つまり他の神々は存在しないという明確な認識にいたるのは、かなり時代が下がってからのことである。
 さらに出エジプトは救いの原体験のようなものであったから、 その後くりかえし体験される救いも出エジプトをモデルに考えられるようになったとしても不思議ではない。 すなはち、同じパターンで救いは考えられ、表現されるようになった。 束縛の状態からの解放というパターンである。こうして、新しい出エジプトということが言われる。
 キリスト教徒にとって罪の束縛状態から解放され、 恩恵の世界に生きる道を開かれたイエスの死と復活こそ新しい出エジプトである。 これを過越しの秘義という。主の復活の大祝日に祝うのは、まさにこの過越しの秘義である。

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