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]U ガダラ(ウム・カイス)
和田 幹男


 ヨルダン王国の北西の国境近くにウム・カイスと言われる古代遺跡がある。 ここはヨルダン渓谷から東に上ってきた標高350mほどの高台にあり、 北にはヤルムク渓谷が両側の山並みを切り裂いてヨルダン川に流れ込んでいる。 このヤルムク渓谷が現在シリアとの国境になっており、渓谷の向こうの山並みはゴラン高原で、 かつてはバシャンと呼ばれた地である。 ここはまた、ガリラヤ湖の南東10キロあまりのところに位置していて、 その湖面を眺めることもできる(写真上、手前の山の向こうにガリラヤ湖がある)。 この遺跡はかつてガダラと呼ばれていた町で、この名は「ガダラ人」と言われて福音書に言及されている。 マタイ8:28−34によると、イエスはガリラヤ湖を渡って、「ガダラ人の地」に来て、 悪霊に憑かれた二人を癒されたとある。 そのとき追い出された悪霊は豚の中に入るのをゆるされ、その豚の群れはガリラヤ湖になだれ込んだという。 その記事の検討は別の機会に譲るが、この町に来れば、イエスの宣教活動がしのばれる。 実際にこの町の支配する地域がガリラヤ湖畔まで及んでいた。 ただし、ガダラという町は、ほかにもあって、それは南のペレア地方(おそらく現在のサルト)にあったので、 このペレアのガダラと区別して、ウム・カイスはデカポリスのガダラと呼ぶ学者がいる。 この町はまだあまり知らされていないかもしれない。 それもそのはずで、この遺跡の発掘は1886年にG・シュマッハーによってなされたものの、 あまり注目されず、最近になって1974年以来、エルサレムにあるドイツの福音研究所によって、 U・ワグナー・ルクスのもとで行われ、その規模の大きさが明らかにされた。 この遺跡には民家があったが、10年ほど前にその住民はほかの場所に移され、現在この町全体が遺跡として保管されている。
 ガダラという名前は、ギリシア語というよりもヘブライ語はじめセム語に語源があり、それは壁、城壁を意味する。 しかし、そのセム語族のイスラエル人やアラム人の残した痕跡は、ほとんどない。 それはその後の建造物によって利用され、ほとんどわからなくなっている。 これまで発掘で明らかになったのは、ヘレニズム時代以降、特にローマ時代のものである。 前63年にローマの将軍ポンペイウスがこの町を支配下に置くと、町のローマ化が進んだ。 しかも、ガダラはジェラシュやスキトポリス(ベト・シェアン)と共に最もヘレニズム化、 ローマ化されたデカポリスの町の一つであり、それがイエスの宣教活動の地域にあったことが確認された。

 ギリシア・ローマ時代の町

 

 この遺跡に来てまず注目されるのは、町の主要道路である。 ローマの植民都市はカルドとデクマヌスという二つの主要道路が町の中心を十字に走っているが、 地勢上ガダラの場合、デクマヌスが東西に1700mの長さで舗装され、両側に列柱をもって走っている(写真上)。 このようにヨルダン渓谷にあるスキトポリスやペラからシリアのダマスコやトランス・ヨルダンのジェラシュや フィラデルフィアへの交通の要衝として大いに栄えていたことが窺がわれる。 このデクマヌスに比べて、南北に走るカルドは短く、この二つが交わるところの近くにはニュンフェウム(写真下)があった。 これは水場であるが、その水は町の東に数キロ離れた泉から引いてきていた。 その水路も建造物の中をぬってよく出来ており、それは緊急の場合避難路にもなっていた。

 ローマの植民都市の場合、デクマヌスとカルド(写真下)が交わる町の中心のあたりにユピテルの神殿などがあるのが普通だが、 その異教の神殿は取り壊されたのであろう。その代わり大聖堂があった。カルドの両側には店が並んでいたが、 その一部が現在も見ることができる。

 大聖堂跡が町の中心部にあった。その長方形の列柱が復元されているがその奥にある八角堂の柱の並びが特に美しい。 その長方形の部分はヴェスティブルム(玄関)で、八角堂のあたりが聖堂の中心であったのだろうか。

  ガダラに司教がいたことも、西暦4―6世紀に行われた教会会議に参列した司教の名簿によって確かめることができる。 ガダラの司教はペラの司教と共に、第2パレスティナ(Secunda Palestine)に属し、その中心はスキトポリスだった。

 文化の町ガダラ
 ガダラには大きくはないが、半円形劇場が二つある。町の北東にある劇場はその大まかな跡を見ることができるが、 カルドに沿ってその東にある劇場は復元されている。背もたれのあるような席もあって、これには驚かされた。 ここでギリシアの喜劇や悲劇が演じられたのであろう。 劇場は文化の高さを垣間見せてくれるが、実際にこの町は多くの文化人を輩出させている。 前3世紀のキュニコス派の哲学者で風刺作家であるメニッポス、 前1世紀中頃の詩人メレアグロス、キケロと同時代の哲学者フィロデモス、 修辞学者で、ティベリウス第2代皇帝の師であったテオドロス、西暦2世紀のキュニコス派の哲学者デノマオス、 同3世紀の修辞学者アプシネス。これらの名前は、哲学事典で調べても見つけるのに苦労するほど、ほとんど知られていない。 しかし、彼らがガダラにいたことは事実である。
 カルドの西およそ200mのところでかなり立派な霊廟があった。 またデクマヌスの北にも、東の門から600mのところにローマ時代の建造物や死者の記念碑があった。 主なものは、そこにある小さな博物館に保管かれているが、その死者の記念碑(西暦4世紀の作)にはこう書かれている。 「418(355/6)年、通り行く者よ、わたしはあなたに言う。現在あなたがいるように、わたしもかつてはいた。 現在わたしがなっているように、あなたもなるであろう。死ぬべき者として人生をよく用いよ」。
 さらに西にいくと浴場があり、そこからは幾何学模様のモザイクの床が発見された。 町の外には東西に長く丘の台地が広がっており、 ここで昔からぶどうやオリーブなど果物や小麦など穀物や野菜の栽培が行われてきた。 ここにギレアドの地の豊かさを見ることができる。
 他方、発掘によって明らかになったガダラの高い都市文化は、イエス時代にまで遡るものではないであろうが、 当時から発達を始めていたにちがいない。 それが意味しているのは、イエスが宣教活動を行ったガリラヤ湖周辺で、 予想を超えてヘレニズム、ローマ文化が高いレベルに達し、普及していたということである。 これを前提として福音書を読む必要があろう。 
ヤルムクの渓谷とその向こうのゴラン高原


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