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]T ジェラシュ(ゲラサ)
和田 幹男



 ジェラシュは、ヨルダン王国のみならず、全オリエントの中でシリアのパルミラと並んで、 古代ギリシア・ローマの都市景観をとどめる最も魅力的な、真珠のような遺跡である。 それは数千の石柱の町であり、「オリエントのポンペイ」と言われる。 特にその楕円形の列柱に囲まれたフォルム(広場)は、ヴァティカンのサン・ピエトロ広場(ベルニーニ作)を思わせる。 古代にこのような美的感覚の町づくりがあったとは、まさに驚きである。そのほんの一部を紹介しよう。

 町の位置
 ジェラシュは、トランス・ヨルダン内陸部の山地を南北に走る古代からの主要道路「王の道」にあって、 ヨルダンの首都アンマン(古代のラバト・アンモン、フィラデルフィア)から北に50キロあまりのところ、 ヨルダン・シリア国境から南に50キロあまりと、丁度その中間点にある。
 地理的には北のヤルムク渓谷(ワディ・ヤルムク)と南のヤボク渓谷(ワディ・ザルカ)の間にある山地、 かつて聖書でギレアドと言われた地方にある。 特にその南の渓谷ワディ・ザルカの支流の一つがジェラシュの近くまで北上して来ている。 このギレアド地方は、ヨルダン川を挟んで古代イスラエルとも深い関係がある。 そのギレアドあたりに古代イスラエル12部族の中のルベン族、ガド族、マナセ族は土地を与えられたという。 他方、ギレアドをめぐって、ダマスコに都をもつシリア、ないしアラムの民族と、くりかえし争った。 ただし、ジェラシュは、ヨルダン川からかなり離れているためか、旧約聖書には出ない。
 新約聖書では、イエスがガリラヤ湖を渡って、「ゲラサ人の地」で悪霊に憑かれた人を癒されたとある(マルコ5:1―20)。 「ゲラサ人」とはゲラサの町の人々ということだが、ジェラシュとはこのゲラサのことである。 ただし、この町がガリラヤ湖畔から50キロも離れていて、問題となる。 このマルコ福音書に並行する記事がマタイ福音書8:28−34にあって、 ここでは「ガダラ人の地」とあり、歴史的にはこのほうが真実に近い。 またルカ福音書8:26−39にある並行記事ではマルコ福音書と同じく「ゲラサ人の地」とあるが、 ある写本によると「ゲルゲサ人の地」とあり、このほうが真実に近いかもしれない。


皇帝トラヤヌス
皇帝ハドリアヌス

町の歴史
 この町の起源は明らかではない。新石器時代から付近に人が住んでいた痕跡はあるが、 町としてはギリシア・ローマ時代以前の痕跡は文献にも出ていないし、考古学的にも確認されていない。 しかし、ギリシア時代になって、アレキサンドロス大王の時代にはあったようで、 この大王の死後セレウコス王朝に属し、「キリソロアスのアンティオキア」と呼ばれていたことがわかっている。 この町の守護神がギリシアのオリュンポスの神ゼウスであって、その神殿があることから、 それはセウコス王朝のアンティオコス4世エピファネス(在位、前175−164)によるのかもしれない。 ゼウスはヘラ、アテナと共に、ローマの3主神のひとつで、ラテン語でユピテル (英語のジュピター、ヘラがユノン、アテナがミネルヴァ)と言われて、 カピトルの丘にその神殿があった。 アンティオコス4世エピファネスは若い頃ローマに人質に取られて、 そこで教育を受け、ローマの後押しでシリアのアンティオキアに都をもつセレウコス王朝の王となった。 そのため、この王はゼウスの信奉者で、この信仰を自国内に徹底的に広めようとした。 それに抵抗して、エルサレムではマタティアスとその子ら、つまりマカバイの兄弟たちがハシディムと共に戦い、 セレウコスの兵を追い出してしまった。これがマカバイ戦争である。 それに対して、ジェラシュはその信仰を受け入れたのであろう。 その後、この町は前84年にユダヤのハスモネア朝のアレキサンドロス・ヤンナイオスによって支配下に置かれたが、 前63年にローマの将軍ポンペイウスがその支配から解放し、この町をデカポリス地方の自由都市の一つとした。 これがジェラシュの発展の第一歩となったが、実際に大いに発展するのは、 ローマ皇帝トラヤヌス(在位、98−117年)の時代になってからである。 この皇帝はペトラに都をもつナバタイ人を支配下に置き、帝国の組織を再編し、アラビア州を創設したが、 ジェラシュはこの新しい州の中心として発展することとなった。 その州都はシリアのボツラとされたが、ジェラシュは交通の要衝として、 北はダマスコ、ボツラ、西はスキトポリス、ペラ、ガダラ、南はフィラデルフィア(アンマン)と結ばれ、 大いに発展することとなった。さらに次の皇帝ハドリアヌス(在位、117−139)もこの町を支援し 、この町をギリシア・ローマ的に構築されるように、自らその計画にかかわったらしい。 皇帝トラヤヌスやハドリアヌスといえば、その治世はローマ帝政時代の中で、最も安定し、繁栄した時期にあたるが、 そのローマの輝きがこの古代遺跡に反映していると言えよう。
 ハドリアヌス皇帝はエルサレムもアエリア・カピトリーナと呼ばれるローマの植民都市に造りかえたが、 その跡はほとんど残ってはいない。それゆえジェラシュにそのモデルを見ることができるかもしれない。 皇帝ハドリアヌスは西暦129年にこの町を訪れたが、そのときこの皇帝をたたえて造られた凱旋門が、 町の南の城門から離れて、その南300mのほどのところ残っている(写真下)。
 
 ジェラシュは3世紀にますます盛況を呈した。それを支えたのは、交通の要衝としてのみならず、 周囲には水が豊富にあって、果物や野菜、穀物の栽培に適した土地があったことにもよる。 それは今日も同じで、ジエラシュとその周辺には緑の木々や耕地が多いことが認められる。
 西暦4世紀になると、ローマ帝国内でキリスト教が解禁され、ジラシュのキリスト教化が始まった。 特に6世紀に多くの教会が建てられ、ジェラシュにはその数15を数える。
 この輝かし町も度重なる地震、ペルシアによる侵略、イスラーム教徒による占領、十字軍による攻撃、 ペストの流行などで住民が去り、廃虚となった。

 主な建造物
 ハドリアヌスの凱旋門から南の城門(写真下)まで舗装された道があった。その左(西側)には競馬場があった。

 その南の城門を入ると、楕円形のフォルム(広場)に出るが、その前に左にゼウスの神殿(写真下)がある。 この神殿跡は高みにあって、広場を見下ろしているが、この高みに神殿が造られたのは、西暦2世紀になってからで、 以前にはその前の位置に広い聖域をもち、石柱で囲まれてあったことが、考古学調査によってわかっている。

 楕円形の広場はフォルムと言われているが、実はフォルムではなく、ゼウス神殿の前の聖域であった。 その中央に祭壇があり、その上に石柱があるが、これは祭りのときに火をともすためであった。 楕円形の列柱が夜、その火に照らされて浮かび上がる光景は、幻想的で美しかったにちがいない。 当時の舗装の石畳が残っている。その北の端から町の中を南北に走る主要道路、カルドが始まっていた。

 ジェラシュには半円形劇場が二つあるが、その一つがゼウス神殿の西側の高台にある。 現在も毎年ここで祭りが行われるので、この劇場はよく整備されている。
観客席
舞台

 カルドは両側に列柱が並び、敷石で舗装されていた。これは北の城門まで800mある。 その両側に豪華な門構えをもった店舗などが並んでいたが、その一つ、市場(Macellum)が復元されている。 その中は八角堂のようになっていて、これはこの町の最も美しい建造物と言えよう。
 このカルドに交わって、東西に走る主要道路デクマヌスが、この町には二つある。 その四つ辻には4本柱のテトラピュレと言われる門が立っていた。南の四つ辻にはその土台が残っている。 その北の四つ辻との間に、左側にニュンフェウムがあり、さらに行くと、左に登っていく階段がある。 この階段はアルテミス神殿へと導くアプローチである。 したがって、アルテミスの神殿は、二つのデクマヌスの間にある。
カルド
市場
南の四つ辻
南のデクマヌス
カルド(ニュンフェウム付近)

 アルテミス神殿
 ゼウス神殿と競うかのようにアルテミス神殿が立っている。 アルテミスは狩猟の女神、獣の守り神、豊穣多産の神でもある。 ローマ時代の1世紀以前に遡って、ここにアルテミス神殿があった痕跡はなく、この神殿は西暦2世紀、 この町が大々的に新しく改造、増築されたときの建造。 それは皇帝アントニヌス・ピウス(在位、137−161)の時代であろう。 現在残っているのはその中心部(写真下)。それは高さ4mの石造りの土台(podium)の上には、 石柱に囲まれた聖所(cella)があった。石の階段のアプローチがある。 これを中心として、かつては列柱に囲まれた広い聖域があり、 カルドからこの聖域に登っていく階段があったが、その工事は完成されないまま、キリスト教の時代になった。

 ビザンツ時代の教会
 西暦4世紀にローマがキリスト教に自由を公認すると、ジェラシュでもキリスト教徒が増え始め、 4世紀の終わりにはジェラシュ最古の教会としてカテドラルが建てられた。 それはカルドにあるニンフェウムの南を西に入ったところにある。 さらに、このカテドラルの西に聖テオドルスの教会がある。これはアルテミス神殿の聖域の南側にあたる。 このとき、教会建築のため、異教の神殿の石柱などが利用された (写真下はアルテミス神殿方面から見た聖テオドルス教会、その前庭への入り口)。

 ジェラシュは、ギリシア・ローマの植民都市からキリスト教の町に変貌することとなったが、 それは特に6世紀、ユスティニアヌス皇帝(在位、527−565)の時代に進んだ。 この時期に、アルテミス神殿の南西に「聖コスマと聖ダミアノ教会」(写真下左)が造られた。 その床のモザイクは、そのまま現在も見ることができる。これに隣接して南に「洗礼者聖ヨハネ教会」(写真下右)、 さらに「聖ゲオルグ教会」があった。この3つの教会は西暦530年頃の建造である。ほかにも多くの教会があった。

 658年の地震の直後、661年にはウマイヤード朝の支配下に入り、イスラーム教徒が町を一部再建して住むようになった。 その住居跡が南のデクマヌスの側に残っている。またここで鋳造されたコインも見つかっている。 彼らは、ゲラサというギリシア語の町の名を受け継いた。 この町は748年に再び地震で破壊され、もう再建されることはなかった。 廃虚の上にイスラーム教徒の砦が造られたが、1120年エルサレムの十字軍の王ボードワン2世によって占領されたが、 それがどこにあったか確認されてはいない。


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