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神を映すものとしての人間
−旧約聖書における人間観の一考察−

本稿は岸英司編『宗教の人間学』(世界思想社 1994年)
47−63頁に掲載された内容をもとに加筆したものです。
 
和田 幹男



旧約聖書とは

 キリスト教が発生したのは、 ユダヤ教の中からであるが、 その発生当時のユダヤ教にとって聖書であったのが、 旧約聖書である。 ナザレのイエスもその弟子たちも、 この聖書によって心を養われ、 進べき人生を教えられたのだった。 このナザレのイエスの教えと活動およびその効果を書きとめたものが新約聖書である。 キリスト教はこの新約聖書のみならず、 以前からあった聖書も旧約聖書と呼んで受けとめ、 尊重してきた。 このように今日聖書といえば、 ユダヤ教徒は別にして旧約聖書と新約聖書からなる一つの書のことである。

 旧約聖書に限っていえば(#1)、 これはユダヤ教の聖書として、 イスラエル民族と共に古く、 千数百年の歴史を刻んで伝えられてきた宗教的伝統を書きとめたものである。 ユダヤ教とはイスラエル民族の宗教だからである。 イスラエル民族の起源を、 その先祖の一団がモーセに率いられてエジブトを脱出した出来事、 いわゆる出エジプトにあるとすると、 その歴史はおよそ紀元前13世紀頃までさかのぼる(#2)。 その後、 この一団は荒れ野の旅を経て、 パレスティナの農耕地に定着し、 原住民と融合しながら増大し、 やがて紀元前10紀には ダビデ王とソロモン王の時に王国として世界史に登場するまでになった。 まもなくこの王国は北のイスラエルと南のユダとに分裂したが、 ナイル川流域のエジプトと メソポタミアのアッシリアとパビロニアという当時の世界勢力の圧迫を受けながらも、 北は紀元前722年に、 南は紀元前586年に滅されるまで続いた。 イスラエル民族はその後もバビロンにおける捕囚として生き残り、 紀元前540年頃世界の覇権を握ったペルシア支配下で故郷に戻り、 都エルサレムに神殿を再建し、 この神殿を中心とした民族集団として存続し、 続いて政治的にはギリシアの支配、 ローマの支配を受けながらイエスの時代に至ったのであった。 このイスラエル民族の宗教的伝統はまずは祝祭を媒介に口伝として伝えられ、 それがやがて徐々に文書とされるようになり、 これがまた徐々にまとめらた。 こうして旧約聖書は出来上がったのであるが、 その成立の事情から ここには千数百年に及ぶ歴史の色々な時代の宗教的伝統が集められていることがわかる。

 旧約聖書に含まれている書は、 39書(プロテスタントによる)ないし 46書(カトリックによる)で(#3)、 その中には基本信条を示し、 「律法」ともいわれるモーセ五書のほか、 歴史書、 預言書、 知恵文学、 祈りなど色々な性格の書がある。 そこから古代イスラエル人の宗教思想、 宗教行事のみならず、 彼らの世界観や歴史、 異国との交流、 法伝承、 政治機構、 軍事組織などを知ることができる。 ここで、 この旧約聖書において人間がどう捉えられているかを問う前に、 その最も基本的な事項をまず確かめておこう。


古代イスラエルが信仰する神とは

 彼らが「主」と呼ぶその神(#4)は、 全聖書が教えているのであるが、 それがどういう神であるか、 ここでは旧約聖書に基づいて確かめておこう。 彼らはその独特な神を前提とし、 それを視野に入れて天地万物も、 その中で起こるすべての出来事、 人間そのものも理解しようとするので、 その神をどのように捉えようとしていたかを知らなければ、 結局彼らの世界観も歴史観も人間観もわからないことになる。

 さて、 その「主」なる神は、 天地万物を造った唯一の神であり (創世記1章1節〜2章4a節、申命気6章4〜5節など)、 そのお造りになった天地万物をつかさどり(ヨブ記38〜39章参照)、 その中の人間の歴史を導く者である(イザヤ41章1〜5、24〜26節、44章24〜45章7節参照)。 これは、 その神がこの宇宙万物を構成する物質のどれとも異なる存在、 「有るもの」である(出エジプト記3章14節参照)ということである。 従って、 それは目に見えず、 耳で聞こえず、 五感では感知されない。 従ってまた、 それはこの宇宙万物が時間と空間という限界内にあるのに対し、 この限界をも超える者でもある。 それゆえ、 神はいつでも、 どこにでもいる者だとも言える。

 この神は 人間の世界の投影のように考えられる神話の神々とは まったく異なるといわねばならない。 エジプトでもメソポタミアでも、 その中間のカナン地方でも、 またギリシア、ローマでも神話の神々は数多く考えられ、 親しまれ、 像や祭壇や神殿をもって大いに信仰されていた。 これら神々は 「すべて空しく、業もむなしい。彼らの鋳た像はすべて風のよにうつろ」(イザヤ41章29節)と言われるように、 「主」なる神以外に神は存在しないと考えられていた。 またこの神は、 人間の願望の投影として 人間の願いをかなえてくれるはずだとして信じられる神でもない(エレミヤ7章1〜15節参照)。 このように、 神は神を必要とする人間がいなければ、 存在しないものではなく、 人間がいてもいなくても存在する者である。 このように神は、 それ自体で永遠から永遠に存在しておられる。

 この神は見事な天地万物を造って、 つかさどる者として、 はかり知れない力と知恵を備えた者である(詩編136参照)。 ただし、 その神はこの宇宙原理とか、 エネルギーそのものとか、 抽象的で命のない存在でもない。 それは人間と同じようにではないが、 知恵と意志と心を備えた人格神ないし位格神である。 従って、 この神は人間が「あなた」と呼びかけ、 賛美し、 感謝し、 その御旨に沿って願うこともできる、 つまり、 このように人間が祈ることができるおかたである。 このような神そのものは、 人間が考える限りの神を常に超えるものであるが、 たえずこの宇宙万物とそこに起こる出来事によって自分を示す者であり、 神に向かって心の目と耳を開いておくことを要求する者、 つまり倫理的要求の根源でもある。 宇宙万物と、 特にその中の人間は所詮被造物として その創造者への指向性を植え付けられているからにほかならない。

 このような神は、 古代イスラエル独特の信仰によるものだが、 神とは本来そのように考えなければならないものではないだろうか。 そういう意味で、 古代イスラエルの信仰する神は、 万民が信仰する神となるべき性格のものであった。 実際にこの神をイスラエルの民族の壁を乗り越えて万民に説いて、 広げたのがキリスト教であった。 その好例を、 当時文芸の中心であったアテネに来て、 知識人を前に神を説いたパウロの説教、 名高いアレオパゴスにおける説教に見ることができる(使徒言行録17章22〜31節参照)(#5)。 このように古代イスラエルの唯一神はキリスト教をとおして、 またその後イスラム教をとおして、 いまや世界中の人々の信仰するものとなっている。


人間とは

 人間とは何なのかという問いは、 あらゆる人間が直面する根本的な問題である。 ギリシアのデルポイのアポロン神殿に刻まれていた碑銘 「汝自身を知れ」という句も根本的な問題を提起する。 ローマ国立博物館にあるモザイクには、 この句と共に、 火で焼かれる死体が描かれている。 死すべき運命にある人間は皆、 この問題を心に秘めている。 聖書もこの問題を提起している。 「人間とは何なのか」(ヨブ記7章17節)と。 また修辞的にではあるが、 「人間は何ものなのでしょうか」と詩編作者も問う(詩編8編5節、144編3節)。

 古代のイスラエル人は前科学的とはいえ、 古代人なりに人間がいかに形造られるのかを考え、 胎児が母胎の中で形造られるさまをこう書く。 「あなたはわたしを乳のように注ぎ出し、 チーズのように固め、 骨と筋を編み合わせ、 それに皮と肉を着せてくださった。 わたしに命と恵みを約束し、 あなたの加護によってわたしの霊は保たれていました」(ヨブ記10章10〜12節)。 ここには受精後母胎の中で液状のものが固まり、 それに固形物である骨と筋が加わり、 それが皮と肉で覆われた胎児が、 息(霊)を与えられて命ある人間になるという考えが現れている(詩編139編13〜16節も参照)。 ただし、 その行為を神に帰せて述べている。 今日、 生命科学や遺伝子工学、 医学の諸分野の発達には目ざましいものがあり、 私たちは胎児の発生から発育について、 古代とは比べることができないほど正確で詳しい知識をもっている。 そればかりか、 雌雄の産みわけから、 命そのものを造ろうとするまでになっている。 しかし、 人間とは何かという根本的な問題には答えを出してくれてはいない。 科学と技術は物質としての人間の生命活動の仕組みを明らかにしてくれたが、 人間そのものの理解をどれほど深めてくれたことか。 人間には物質を超える深みと広がりがあり、 科学と技術がそれを究めるには限界がある。

 (A)土の塵にすぎない人間

聖書の人間観と言えば、 創世記の楽園物語を思い出すかもしれない(#6)。 そこには、 一見幼稚な筆致で神が人間を形造るさまが書かれている。 しかし、 きわめて優れた児童文学の手法で、 人間とは何かの答えが模索されている。 まず創世記2章4b〜8、18〜24、3章20〜21、23節をまとまった物語とし、 それが言わんとするのは何かを求めて読んでみよう。 そこには人間についての深い洞察がある。 主なる神があたかも陶工のように土をこねて人間のかたちを造り、 その鼻に命の息を吹き入れて、 命ある人間が造られたと言う(創2章7節)。 これは人祖アダム個人がどのように造られたかを言わんとするものではない。 こういう言い方で、 人とは何なのかをいうものである。 それはまず「土の塵」にすぎないということである。 「土」はヘブライ語でアダマーと言われる。 従って、 この土から造られた人祖は「アダム」と言われる。 このアダムが「人」一般を表すこととなる。 このように人間は土なのである。 人間が元来ひとにぎりの砂のように無価値で、 はかないものであることを言っている。 こういう意味で人間は同じく土から造られた野の獣や空の鳥とも違いがない。 ある賢者はこの人間の側面を徹底的に強調して、 こう言う。 「人間に臨むことは動物にも臨み、 これも死に、 あれも死ぬ。 同じ霊をもっているにすぎず、 人間は動物に何らまさるところはない。 すべては空しく、 すべてはひとつのところに行く。 すべては塵からなった。 すべては塵に帰る。 人間の霊は上に昇り、 動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう」(コヘレト3章19〜21節、シラ書16章29節〜17章1節も参照)。

 だが、 創世記の著者は「その鼻に命の息を吹き入れられた」と言って、 人間が神からの尊い命をもつものであることを説いている。 このように人間は無価値で、 はかないものであるが、 同時に崇高で尊いものだということである。 ここには人間が朽ちる身体と不滅の霊魂から成るものだという二元論的人間観はない。 人間全体が無価値な土にすぎないと同時に 尊い命の息を与えられたものだということである。 さらに、 この人間が動物とは異なるものだということは、 人間が動物に名をつけるような支配者の位置にあるということ(創世記2章19〜20節参照)だけではなく、 「彼に合う助ける者」として女をお造りになった(創世記2章21〜22節参照)ということでも示している。 この男にとって女との関係は、 「わたしの骨の骨」、 「わたしの肉の肉」、 つまりもう一つの自分として、 お互いに助け合うものだということである。 人間とはこのような交わりの中にあるものであり、 同時に動物とはこの点で根本的に異なることを説いている。 このようにここに至高であるが優しい神を想定して、 人間の尊厳性と共に男女同権も、 人間の連帯性も教えられている。 こう読めば、 ここには何と新鮮に響くメッセージがあることか。 時代を超えた聖書の言葉の価値がうなずけるのではなかろうか。 新鮮に響くのは、 わたしたちが神を知らず、 知っていても考慮せず、 人間の尊厳性を考えてきたからかもしれない。

 (B)全被造界の一部としての人間

 楽園物語の前に、 創世記第1章の天地創造も見逃すことができない。 ここには「神の似姿」というきわめて重要な人間観があるからである。 これは古代ギリシアの哲学者アリストテレスの「人間とは社会的動物」、 近代フランスの知性パスカルの「人間とは考える葦」と並ぶ 人間本質の有名な定義とされる。 「神の似姿」はラテン語でイマゴ・デイ( imago Dei )と言われ、 このイマゴ・デイはキリスト教の人間観となり、 よく知られているが、 その根拠は創世記第1章26〜28節にある。 しかし、 その本来の意味が何かは、 まずこの節をその天地創造全体(1章1節〜2章4a節)の文脈の中で 注意深く読む必要がある。

 現代の聖書学において、 これを書いたのはその名前はわからないが祭司文書の著者として、 紀元前6世紀のバビロン捕囚期末期 ないしその後数十年に生きていたユダヤ人であることがわかっている。 わたしたちはこの著者の言わんとすることを読みとるよう努める。

 さて、 ここで「創造する」とはどういうことであろうか。 それを「初めて作ること」という我々の概念、 ないし西欧で中世以来説かれてきた 「無よりの創造」という哲学の概念で理解しようとしてはならない。 紀元前6ないし5世紀に生きていた祭司文書の著者は 「初めに、神は天地を創造された」(1章1節)と書いたとき、 この動詞「創造された」(ヘブライ語でバラー)で何を考えていたのだろうか。 その著者が書くものから読み取らなければならない。 創世記1章1節は、 これから書こうとすることのタイトルのようなもの、 創世記1章2節は神がその「創造する」という御業を始めるにあたって、 その前に在った状態を言うもの、 創世記1章3節から2章4節前半に その神の創造の御業そのものをいう見事な文章がある。 そうなら、 その著者によるとその創造の御業とは 混沌と暗闇の原始の水だけがあったところを光輝き、 空と海と陸を現出させ、 彩り豊かで陸は緑に満ち、 空には太陽、月、星々が巡り、 秩序と調和があって空にも海にも陸にも命が溢れる世界とすること、 その頂点に神の「かたどり」と「似姿」としての人間がいる世界とすることではないだろうか。 「神はこれを見てよしとされた」とくりかえされるように、 それは美しいものであった。 ここで人間はこの被造界の一部として、 これに組み込まれたものである。

 (C)神を映すものとしての人間

 それでは被造界にあって、 神に「かたどり」、 「似せて」創造された人間とはどういうことであろうか。 まず聖書の箇所をゆっくり読んでみよう。

 26神は言われた。 「我々にかたどり、 我々に似せて、 人を造ろう。 そして海の魚、 空の鳥、 家畜、 地の獣、 地を這うものすべてを支配させよう。」 27神は御自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。 男と女に創造された。 28神は彼らを祝福して言われた。 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。 海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記第1章26〜28節)

 「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」と神は言ったとある。 ここに人間を創造する神の強い意志が表れている。 27節にある「創造する」という動詞は、 聖書では神を主語としてしか用いられない。 したがって、 人間は神の働きによって直接に造られたものと考えられている。 しかし、 ここでどうして「我々に」と神が複数になっているのだろうか。 キリスト教古来の伝統はここに三位一体の神の示唆があると取り、 天地創造を父なる神と御子なる神と聖霊の共同の御業と考えてきた。 また現代では神学者 K・バルト はここに唯一だが「我と汝」の関係のある神が言われていると説く。 このような考えは正しいであろうが、 キリスト教固有の信仰を前提していて、 はたしてそれが祭司文書の著者の考えであろうか。 彼にとってはイスラエルの神なる主以外に考えられず、 それは唯一の主である。 他方、 この複数についてはほかに色々と説明が試みられてきた。 天地創造の記述に際し、 モデルになったバビロニアの神話があって、 その中で人間が創造されるとき、 神々が創造したとあるので、 その名残りではないかとか、 列王記上22章19〜23節やヨブ記1〜2章などにあるように、 神が天上の法廷ないし会議において、 使いたちに囲まれ何か重大なことを決定するという神話的発想が受け継がれ、 唯一神信仰のもとで多神教的要素は排除され、 その表現法だけが受け継がれたのではないかとかである。 また国王や皇帝が語るとき、 「わたし」という代わりに「我々は」と言う「尊厳の複数」があるが、 これが用いられているという意見もある。 他方、 「熟慮の複数」というのがある。 一個人が自分の行った決定を表現するときに用いる複数で、 雅歌1章の9、11節と、 サムエル記下24章14節に認められる( 日本語の訳文では動詞の単数形か複数形は訳出されないので、 ヘブライ語本文を参照 )。 ほかにだれもいないのに、 Let us go! 、 「我々は行こう」と言う場合にあたる。 このように、 わたしは創世記1章26節の「我々」を、 文体論的に説明できるのではないかと思う。

 それではここに出る「支配させる」、「従わせる」は何を意味しているのであろうか。 しばしば日本人など東洋人は自らも自然の一部と見なして、 これと共生しようとするのに対して、 西洋人は自然に挑戦し、 征服しようとすると主張され、 この態度がこの創世記のこの「支配させる」、「従わせる」に帰せられることがある。 はたして聖書は元来自然に対する人間の攻撃的な征服を教えるているのだろうか。

 まず「支配させる」という動詞だが、 語源的には「足で踏みつける」ことであるが、 聖書におけるそのすべての用法を調べてみると、 実際には文字どうりこの意味で用いられることはない。 むしろそれは「力ある支配」のことで、 慈愛と正義をもって力強く統治することを意味する(#7)。 創世記1章26〜28節で注目すべきことは、 動詞ラダーの目的語が動物だということである。 このような用例は聖書ではここだけである。 しかし、 聖書外まで視野にいれると、 メソポタミアのアッカド語文書にある。 ラダーに当たるアッカド語はレドゥだが、 それは「導く、進む、行く」の意味し、 ロバや馬、牛、らくだ、羊を目的語として用いられることがある。 この場合、 家畜を「せきたてて連れていく」という意味である。 創世記1章26〜28節でも羊飼いが羊を導くようなイメージが背後にあって、 すべての動物を力強く、 愛情をもって飼うようにということが言われていると言えよう。

 つぎに「従わせる」という動詞も、 原語のヘブライ語カバシュは語源学的には「足で踏みつける」の意であるが、 聖書におけるその用法を見れば、 すべて派生的な意味でしか用いられていない(#8)。 特に創世記1章28節にとって参考になるのは ヨシュア18章1節、民数32章22、29節、歴代誌上22章18節で、 これらの箇所では共通して「地」が対象となっている。 ヨシュア18章1節、民数32章22節における土地の獲得は、 申命記3章20節、31章3節、ヨシュア1章15節に言及するもので、 この申命記では 動詞ヤラシュ、「獲得する」「所有する」が用いられている。 その比較から「従わせる」と「獲得する」「所有する」は「地」を目的語とするとき、 同義語であることがわかる。 従って、 創世記1章28節の「地を従わせる」は「地を獲得する」、 「地を所有する」を意味することが明らかとなる。

 それでは「我々にかたどり、我々に似せて」とあるのはいかなる意味であろうか。 この「かたどり」の原語ツェレムは、 聖書の中では 祭司文書中の創世記1章26〜27節、5章3節、9章6節のほか、 民数記33章の52節、 サムエル記上6章の5(二回)、11節、 列王記下11章18節、 歴代誌下23章17節、 詩編39編7節、73編20節、 エゼキエル7章20節、16章の17節、23章14節、 アモス5章26節で用いられている。 この中で詩編39編7節と73編20節を除いて、 ほかの箇所ではどこでも彫られた像、 鋳られたり像、 描かれた像というように具体的な像の意味で用いられている。 他方、 詩編39編7節と73編20節ではツェレムは、 「陰」とか「暗い」という別の意味で用いられ、 これは創世記1章26〜27節とは関係がない。

 他方、 「似せて」の原語デムトの語根 dmh は、 聖書では動詞として27回、 名詞としては25回ばかり出る。 「類似しているもの」の意味でこの名詞は25回中13回がエゼキエル書に出る。 さて、 この「似ているもの」と、 前に述べた「かたどったもの」は同義かどうか、 西欧中世以来議論されてきた。 この問題については、 あとで述べるようにテル・フェヘルイェから出土した 石像の碑文が新しい光を投げかけてくれた。


 創世記1章26〜28節は、 神が御自分に「かたどり、似せて」人を創造なさったということで、 何を言おうとしているのだろうか。 人間の何が神にかたどられ、 似せられているのかについて、 色々な説が出されてきた。 人間の身体的特徴、 特にその直立姿勢を考えて 人間は神の似姿であると言っているのだという説(H・グンケル、L・ケラー など)、 人間の精神、 特にその不滅の霊魂、 その知性と意志に神の似姿を見る説(西欧中世の神学者および現代ではF・デリッチ、J・ケーニッヒ、P・ハイニシュ、W・アイヒロートなど)、 神と人間、 人間相互の間にある「我と汝」の対話関係に神の似姿を見る説(K・バルト)、 この世界における人間の果たすべき機能に神の似姿を見る説(多くの古代オリエント学者)がある。

 今世紀の初め頃から古代エジプトに神の似姿の観念があったことが指摘され、 聖書との比較検討がなされてきた。 エジプトでは王がばしば神の似姿と言われ、 稀にではあるが人間一般も神の似姿と言われている。 しかし、 その「似姿」といっても、 エジプト語では同義語が多くあり、 そのそれぞれが少しづつ異なる意味あいをもち、 似るといっても色々な似る仕方が考えられていた。 その中で最も注目に価するのは、 王が神の模写、 像であるというとき、 王がこの地上における神の現存を見せるものであることである。 写真や複写機がなかった古代人にとって 原型とその模写の関係はどういうものであったか、 よく想像してみる必要がある。 その関係は現代人が考える以上に深く密接なものであり、 模写は単なる模写ではなく、 強い臨場感をもって原型の現存を印象づけ、 王の現存はまさに神の現存そのものであるかのように受けとめられていた。 このように王をとおして神みずからこの地上を支配し、 働くと考えられていた。 また、 エジプトのファラオやギリシアの支配者、 ローマ皇帝の石像が数多く残っているが、 これも単なる飾りではなく、 その原型のファラオや支配者、 皇帝の現存を臨場感をもって受けとめさせるためのものであった。 他方、 それによって王には横暴はけっして許されず、 かえって神の望む正義を実現し、 維持する使命があるとされていた。

 王のみならず、 人についても神の似姿であるという場合があり、 この場合別の用語が用いられ、 神の本質と行動と、 人間の本質と行動の間にある相応性、 相似性が考えられている。 これらエジプト学が明かにしたことは、 きわめて参考になるが、 創世記1章の26〜28節の「かたどり」と「似せて」との比較となると、 その具体的な依存関係や相関関係は必ずしも明らかではない。 エジプト語とヘブライ語の言語的相関関係が明確でないので、 実証しがいたいからである。

 他方アッシリアにおいても、 しばしば王が神の像と言われている。 紀元前7世紀の四つの書簡には アッシュルの王が神々の「かたどり」(ツァルムー)と言われる。 このツァルムーは前述のヘブライ語ツェレムにあたる。 王は「ベル神のツァルムー」、 「シャマシュ神のツアルムー」、 「マルドゥク神のツァルムー」と言われる。 神の像としての王は、 また王の像は古代エジプトにおけると同様、 写真やコピー機がなかった古代メソポタミアにおいても、 原型そのものの現存を示すものとして考えられていた。 人々はそれを見て、 原型である神ないし王がいることを現代人以上に臨場感をもって感じとった。 創世記の「かたどり」には、この意味あいが込められていると言えよう。

 さらに1979年にメソポタミア北部の テル・ハラフ(聖書のゴザン)の近くテル・フェヘルイェで ひとつの石像(高さ1.65m)が発見された。 この石像は現在、 シリアの首都ダマスカスの国立博物館に展示されている。 そこにはアッシリア語とアラマイ語の両言語で文字が添えられたていた。 紀元前9世紀のもので、 その像の主人公は王ではないが、 支配者にはまちがいない。 アラマイ語がヘブライ語にきわめて近い言語であることから、 その碑文は創世記のツェレムとデムトを理解する上で、 きわめて貴重な光を投げかけてくれる。 この石像の碑文のアラマイ語文の中で ツァルムとあっていいところをデムタとしているところから、 このデムタはツァルムとは別の意味あいをもつことが考えられる。 ここではデムタは、 H・カゼル によると、 まず親子の間にある連続性、 特にその知性および精神面での連続性を言っているのではないかという。 そういう意味で「似る」のはまず親子ということである。 実際に系図を記す創世記5章1節でも、 その始めに神とアダムの間で「似せて」と言い、 5章3節でもアダムとセトとの間もまず「似せて」、 そのあと「かたどって」というが、 それも偶然ではないということになる。 他方、 創世記9章6節では「似せて」は出ない。 そこでは「似せて」の前に「かたどり」がある創世記1章26〜27節と同様、 力ある支配が問題となっているからではないだろうか。


 従って、 まとめれば、 創世記1章26〜28節には二つの意味が込められているように思われる。 ひとつは、 「かたどり」で表現され、 もうひとつは「似せて」で表現され、 この二つは互いに関連しあっている。 まず「かたどって」は、 神が王者であるように、 その生き写しである人間も この世界にあって王者として統べ治めるものであるということである。 それは神の慈愛と正義に満ちた力ある支配を代行するだけでなく、 その現存を臨場感をもって示すということを意味する。 つまり、 人間を見れば、 神の支配がわかるというものでなければならない。 それゆえ「かたどって」というより「映して」と訳したほうが良い。 神はご自分を「映して」人間を創造されたと。 このようにこの天地万物の中における人間の果たすべき役割、機能を言っている。 「似せて」は、神と人間が親と子のように似ているものであり、 それが外面においてというより、 むしろ内面において、 つまりその精神的構造、 とくに知性と意志において共通していることを言っているのではないかと思われる。 このように精神的存在者であるがゆえに、 人間は動物界および世界の王者としての機能を果たせるというのではないだろうか。 このような人間観はシラ書17章1〜10節に受け継がれ、 説明される。

 結論として、 まず神のかたどり、 似姿としての人間は、 その神が限りなく至高なる人(位)格神であるがゆえに、 この無限に向かって開かれたものであるということである。 実際に、 わたしたちは自分自身を内省するとき、 その中に真、善、美、それに聖なるものに向かって限りなく開かれ、 志向している心を認めることができる。 その心に答えるものがなければ、 人間はなんと不可解で、 不幸なものであろうか。 その無限の真、善、美、聖性があれば、 それは一つに凝縮し、 わたしたちの心に答えるものとして物質とか、 原理とかではなく、 心を通わせることができる人(位)格であるはずである。 これを神と呼ぶ。 人間はこの神に向かってひとりひとり限りなく開かれており、 呼びかけられている。 ここに人間の尊厳性の一つの根拠がある。 人間はまた「神に僅かに劣るもの」(詩編8章6節)とも言われる。 このように人間は神に限りなく近いものとしても考えられている(#9)。

 人間にはこの尊厳性と共に、 その神がお造りになったこの世界にあって果たすべき使命が与えられている。 それは力強く、 また慈愛をもって創造者なる神が支配しておられることを 臨場感をもって見えるようにすることである。 澄んだ湖面に付近の山が映っているように、 人間を見れば力強く、 慈愛溢れる神の支配が映って見える。 これが人間の果たすべき機能である。 「神にかたどって」とは、 世界における人間のこの機能をいうものであり、 そのために人間は「神に似せて」、 知性と意志という精神的能力を備えられている。 創世記1章26〜28節はこのような人間観を提案していると思われる。 それは今日、 あらためて考えてみてもいいのではないだろうか。


今後の課題

 人間は尊厳あるものとして創造されると共に崇高な使命を帯びているが、 現状はそれにふさわしいものではない。 どうしてか。 創世記2章4b節〜3章24節でその悲しい現実を問う。 人祖アダムによって象徴的に示される人類は、 創造者なる神の意志に逆らい、 悪をこの世界に呼び込んだ。 こうして苦しみや死すべき運命が人類を覆うようになった。 これを新約のパウロは、 その手紙の中で、 明らかにして、 こういう。 「このようなわけで、 一人の人間によって罪がこの世に入り、 その罪によって死が入り、 こうして、 すべての人間が罪を犯したので、 死がすべての人間に及んだ」(ロマ5章12節)と。 この一人の人間、 つまりアダムの罪は原罪と言われる。 この原罪は聖書の用語ではないが、 きわめて重要な聖書的人間観である。 またこの原罪をいかに理解すべきかをめぐって、 キリスト教の歴史ではアウグスティヌスとペラギウス、 カトリックとプロテスタントの間で論争があった。 しかし、 原罪のヴィジョンそのものはけっして否定されなかった。 この原罪の問題も、 聖書の人間観を考えるとき、 見逃すことはできない。 原罪という視点を与えられることにより、 ときには思いもよらない規模でこの世界に起こるあらゆる罪悪を その根源まで見抜かせていただき、 根本的な救いのために何をすべきか、 考えさせていただけるからである。 この人間の現実の問題も、 なおいっそう深く追求したい。

 キリスト教は、 ナザレのイエスこそ、 新しいアダムであり、 神の似姿、 神の肖像(2コリント4章4節、コロサイ1章15節)であるという。 また、 これに倣うことによって神に倣う(「似るもの」)となる(1コリント11章1節、エフェソ5章1節)という。 イエスをこの観点から見ることも、 疎かにできない。



#1 ここでは数ある邦訳聖書の中、 『聖書』新共同訳、旧約聖書続編つき、日本聖書協会、1989年を用いる。 この中にはプロテスタントは聖書として受容しないが、 カトリックは受容する、 いわゆる第二正典(トビト記、ユディト記、エステル記ギリシア語、マカバイ記一、二、知恵の書、シラ書、バルク書、エレミヤの手紙、ダニエル書補遺)も含まれていて、 これらの書にも言及するからである。 ところによっては、 フランシスコ会訳の聖書を用いることもある。
#2 古代イスラエル史の概略については、 拙著『聖書年表・聖書地図』、女子パウロ会、1989年、参照(古代イスラエル史に関する参考文献は同著の巻末参照)。
#3 旧約聖書中に含まれている書 およびカトリックとプロテスタントの聖書におけるその相違については、 『新共同訳旧約聖書注解3・続編注解』、日本基督教団出版局、1993年、付録の拙稿「旧約聖書の正典−諸教会の共通点と相違点−」、481〜492頁参照。
#4 イスラエルの神の名は、 YHWHと書かれ、 これをアドナイ(「主」の意)と発音して伝わってきた。 神への尊敬のために、 神の名を直接発音するのを避けたためである。 従ってYHWHは元来いかに発音されたが、 明らかではない。 ただ古代キリスト教徒の証言から推察して、 「ヤーウェ」とか「ヤハウェ」とか発音されていたと思われる。 これを「エホバ」と発音したとされたこともあったが、 今日これには根拠がないことが明かになっている。 ここではユダヤ教もキリスト教も典礼で聖書を用いるとき、 YHWHを「主」にあたることば(例えばラテン語の Dominus、英語の the Lord、仏語の le カバシュも文字どうり「足で踏みつける」というより、その画にあるような意味で用いられる。 この「所有とする」の意味あいを込めて、 この動詞は2サム8の11、エステル7の8でも用いられる。 またネヘミヤ5の5、2歴代誌28の10、エレミヤ34の11、16では この動詞で人を奴隷とすることを言うが、 ここでも所有とするという意味である。
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#9 詩編8については、 拙論「詩編8における自然と人間」、『世紀』、1993年4月号参照。 本HPも参照。


主な参考文献
杉勇ほか訳、『古代オリエント集』、筑摩世界文学体系1、昭和53年、筑摩書房;
野本真也「神の像としての人間」創世記1章26〜27節研究、『基督教研究』第40巻第2号(昭和52年)77〜99頁;
月本昭男編『創成神話の研究』、リトン社、1996年、特にその中の月本昭男「古代メソポタミアの創成神話」、11〜60頁、吉田泰「旧約聖書祭司文書の創成物語」、61〜154頁。
Angerstorfer,A.,Der Schopfergott des Alten Testaments,Herkunft und Bedeutungs-entwicklung des hebraischen Terminus br'(bara) Schaffen,Frankfurt am Main,1979
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Scheffczyk,L.,hrgn von,Der Mensch als Bild Gottes,Wege der Forschung Band CXXIV, Darmstadt,1969
Gross,W., Die Gottebenbildlichkeit des Mesnchen im Kontext der Priester-schrift,TTQ 161(1981)244-264
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Hamman,A.-G.,L'homme image de Dieu,Paris,1987
Lohfink,N., Unsere grosen Worter,Freiburg-Basel-Wien,1977、特に156-171 (Wachstum) Studien zum Pentateuch,Stuttgart,1988、特に11-28("Macht euch die Erde untertan?")
Mettinger,T.N.D.,Abbild oder Urbild? "Imago Dei" in traditionsgeschichitelicher Sichit,ZAW 86(1974),403-424
Notter,V., Biblischer Schopfungsbericht und agyptische Schopfungsmythen,SBS 68, Stuttgart,1974
Ressemblance et image de Dieu,Dictionnaire de Bible,Suppl.X,col.366-414
Schmidt,W.H.,Die Schopfungsgeschichte der


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