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はじめに 聖書はどう読めばよいのかについて、本誌(1997年10月号)ですでに皆様と一緒に考えたことがありました。 そのとき、近代に始まった聖書研究法に対して、 伝統的な聖書解釈を維持するカトリック教会がいかに対応してきたか、およそ第2ヴァチカン公会議まで簡単に見ました。 ここでは、それを振り返りながらも、その後の聖書研究の進展と変化を踏まえて、教会が目指す方向を考えてみることにします。 第2ヴァチカン公会議まで 伝統的な聖書解釈というのはラテン語ウルガタ訳を公認聖書として、これを主として教会教父たちの解釈に基づいて読むことでした。 その前提として、聖書は聖霊の霊感によって書かれた書物ですから、誤りはないと、その無謬性が固く信じられていました。 実際に、この聖書の霊感性と無謬性は第1ヴァチカン公会議(1869〜70年)において再確認されております。 まさにその頃から、近代的な聖書研究法が発展を始めました。 ヘブライ語やギリシア語聖書写本が発見され、聖書の本文研究が進みました。 オリエントの各地で考古学調査が行われるようになり、歴史文書としての聖書の分析と検討が盛んになりました。 それに人類学など自然科学の発達も新しく真の世界像を明らかにしました。 このように発展を始めたのが、聖書の歴史批判学的研究方法です。 その結果、聖書には誤りがあるのではないかとも疑いが表明されました。 たとえば、ヨナ書にはアッシリアの都ニネベはそのまわりを1周するのに3日かかるとありますが、 その古代都市が発見され、これはそれほど大きな町ではありませんでした。 このように聖書の批判学的研究は、伝統的解釈、聖書の無謬性、さらには教会そのものに対する批判につながりかねないものでした。 そこで聖書研究に教会がはじめて公式に与えた指針が、 1893年教皇レオ十三世が発布した回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』でした。 教皇はこの回勅で聖書が聖霊の霊感によって書かれた書であり、 そこには何の誤りもないことを確認した上で、 歴史批判学的研究方法が正しく用いられるなら、何の妨げもなく、むしろ推奨すべきものだとしました。 ただし、この世界に生起する出来事をすべてこの世界内の原因と結果で説明し尽くせるとする唯理主義をもって この研究法を用いることには警告を発したのでした。 この回勅の意義は、信仰の現代化を急ぐモデルニズムの問題処理の中で、20世紀はじめの数十年はあまり認められませんでした。 しかし、1943年、教皇ピオ十二世は回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』を発布し、 レオ十三世の主旨に沿って歴史批判学的研究法を奨励したのでした。 この回勅の発布のきっかけは、聖書の学問的研究を否定し、 ただ敬虔な聖書解釈だけを推進すべきだとするD・ルオトロというイタリア人司祭の冊子配布でした。 ピオ十二世は、聖霊の霊感によって書かれた聖書には、 聖書記者が込めた字義的意味とその聖霊が込めた霊性的意味があること、 その字義的意味を明確にするために歴史批判学的研究法が欠かせないことを説き、 聖書の本文研究、聖書語学の研究、その文学(文献)批判、文学様式批判研究を推奨しました。 このように古代人の表現法や様式に注意して、それで何を言おうとしているかを読み取る必要があることを説きました。 その聖書記者の著作意図に注目して解釈するなら、聖書に誤りがあるはずがないとしたのでした。 ただし福音書に関しては、未解決の問題が残りました。 これは1964年、教皇庁聖書委員会が公表した『福音書の歴史的真実性に関する指針』で答えが出され、補完されました。 こうして、第2ヴァチカン公会議(1962〜1965年)が聖書について纏めた『啓示憲章』が作成されたのです。 ここでは特に聖書が無謬であるばかりか、 人間の救いに関わる真理と限定にした上で、この真理を教えるものであると明言されました(第11項)。 また聖書解釈については、聖書の字義的意味を求めて歴史批判学的研究法を活用する意義を再確認すると共に、 信仰の次元に立ってその霊性的意味を読み取る必要性が説かれています(第12項)。 第2ヴァチカン公会議以降 第2ヴァチカン公会議は、教会とは何か内省し、世界の中で何をなすべきかを見直すことを主眼として開催されました。 その後、世界の変化と発展は予想を超えて目ざましく、 聖書研究においても、その歴史批判学的研究法は大いに押し進められ、きわめて高度に専門化することになりました。 その結果、聖書研究は一部の専門的聖書学者の独占物になるおそれが出てくる一方、 そこから深い聖書のメッセージが明らかにされたかというと、どうもそうでもなさそうでした。 それに第2ヴァチカン公会議以後、新しく色々な聖書研究法や聖書読書法が提唱されるようになりました。 聖書の修辞分析、語りの分析、記号論分析、正典論的に近づく道、ユダヤ教的聖書解釈から近づく道、 影響史的に近づく道、社会学的、文化人類学的、心理学ないし心理分析的に近づく道、解放の神学から、 また女性解放運動(フェミニスト)からの道などです。 それにまたそのすべてに対する反動として学問的研究の意義を認めない聖書解釈法も提唱され、広がることになりました。 ファンダメンタリスムと言われ、聖書に書かれていることをそのまま字義どおり真理だとする解釈です。 これは狂信じみたキリスト教徒やセクトに見られます。 このように聖書の解釈法が異なりますと、イエスのイメージも様々と異なってきます。 イエスのイメージが様々と異なりますと、教会のイメージも様々に異なって捉えられるようになりました。 イエスはその教会の創始者だからです。 そこで、イエスはいかなる人物として理解しなければならないのかというキリスト論の問題と共に、 聖書はいかに解釈すべきものなのか、その解釈が問題になりました。 この現状を前にして、教皇庁聖書委員会は1984年に『聖書とキリスト論』を、 1993年には『教会における聖書の解釈』を公表しました。 教皇庁聖書委員会は、第2ヴァチカン公会議後1971年教皇パウロ六世の機構改革により、 20名のカトリック聖書学者からなる諮問機関となり、 その文書は拘束力はありませんが、大いに参考になります。 カトリック聖書学者のおおよそのコンセンサスが表現されているからです。 『聖書とキリスト論』は、現に出回っている様々なキリスト論を11に分類し、 そのそれぞれにある長所と短所を指摘し上で、 イエスの欠陥イメージを避けるために、 聖書の証言の総体(グローバル)に基づき、 人間の全面的な(トータル)救いを考えながら、 イエスを十全的(インテグラル)に理解することを目指す必要があることを説いています (全訳と概説は、英知大学キリスト教文化研究所『紀要』第15巻第1号、2000年3月、43〜125頁に掲載)。 『教会における聖書の解釈』と教皇の演説 この文書は1993年4月15日にフランス語で完成されました。 同月23日、レオ十三世の聖書回勅発布百周年、 ピオ十二世書の聖書回勅発布五十周年を記念して式典が行われ、 その中で教皇ヨハネ・パウロ二世はこの文書を受容され、また聖書研究の基本について演説をされました。 その後7ヶ月経った11月23日、教皇の演説と共にその文書は英、独など主な現代語にも翻訳され、公刊されました。 ここで特に指摘したいのは、まずその教皇ヨハネ・パウロ二世の演説です。 教皇はこの百年を振り返り、 聖書研究が正しい方向に進められるように望んで歴代教皇が果たしてきた業績をただ羅列するだけでなく、 その根底に流れる一貫した聖書観がいかなるものであるかを説いたのでした。 それは聖書の言葉は人間の言葉であると同時に神の言葉でもあり、 この二つの側面は裂くことが出来ないこと、 これは人間であると同時に神であるイエスの受肉の秘義との調和の中に理解すべきだということです。 この受肉の秘義の関連で、歴史批判学の重要性を再確認すると同時に、それだけでは聖書研究が不十分であることを明らかにしました。 それは感銘深い演説です。 同教皇は、こう言います。「したがって、・・・カトリック聖書学者に求めるのは、 受肉の秘義、 つまりある一定の歴史的現実における神的なものと人間的なものとの結びつきの秘義とのまったくの調和の中にとどまることです。 この地上におけるイエスの存在は、 西暦1世紀の初頭のユダヤとガリラヤという時代と地理だけではなく、 またその根が古代オリエントの一小民族の長い歴史の中にあることによっても定められており、 その歴史は弱さと偉大さ、神の人々と罪深い人々、ゆっくりとした文化的進歩と政治的変転、 数々の失敗と成功、平和と神の支配への憧憬を兼ね備えていました。 キリストの教会はこの受肉の現実を重大視し、そのために聖書の『歴史批判的』研究に大いなる重要性を認めてきました。 ・・・それを非難することなどとはほど遠く、わたしの先任者たちはそれを力強く認めたのでした。 『批判学的方法による研究は、聖書記者たちの考えを深く理解するためにきわめて有益であるから、 わたしはこれを大いに承認し、わたしの聖書学者たちはこれをさらに推進していただきたい』と、レオ十三世は書いたのでした」と。 この「大いに」は、ピオ十二世の回勅の中でも取り上げられていると指摘されました。 他方、同教皇はこうも言います。 「しかしながら、この研究で十分ではありません。 教会の信仰と聖書の霊感との関連を尊重して、カトリック聖書学者が注目しなければならないのは、 聖書本文の人間的側面に限られるものではないのです。 聖書学者は、またとくにキリスト教徒の民がこの本文の中にいっそう明確に神の言葉を見抜いて、 これをいっそうよく受けとめるように、こうして神と共なる生活が十分に送れるように支援しなければなりません。 このために、明らかに必要なのは、聖書学者自身が聖書本文の中に神の言葉を見抜くことで、 これはその知的活動が霊的生活の躍動によって支えられていなければ、可能ではないのです」と。 こうしてまた、「そうです。聖霊の吹きを受けた言葉にとって十分に有効な解釈に達するためには、 自分自身聖霊に導かれる必要があります。 そのため祈らなければなりません。 たくさん祈り、祈りの中で聖霊の内なる光を願い、この光を素直に受けとめ、愛を願わなければなりません。 この愛だけが、『愛である』(1ヨハ4:8、16)神の言語の理解を可能にするのです。 聖書解釈の作業中も、できるだけ神の現存の中にとどまらなければならないのです」と。 これは聖書学者向けの演説ですが、聖書を研究するすべてのキリスト信者にも大いに参考になりましょう。 他方、『教会における聖書の解釈』は、かなり長い文書で、カトリック教会が聖書解釈を包括的に取り上げたきわめて重要な文書です。 内容は、ラッツィンガー枢機卿の序文、短い導入部があって、本論が始まります。 この本論は四部に分かれています。 第1部は、本論全体の3分の1を占める長いもので、 前に述べたとおり、現在の聖書学が用いる研究方法を列挙し、そのそれぞれを要約し、その長所と限界を指摘しています。 第2部では、まず解釈するとはどういうことか、その現代の哲学が明らかにすることを検討しています。 これは難解なものですが、手際よく容易に説明しようと試み、その有用性が明らかにされています。 つぎに聖書の特別な性格、つまり聖霊の霊感を受けた書としての聖書はいかに解釈すべきかを考察しています。 ここで聖書の字義的意味、霊性的意味、それに「より充足した意味」が説明されています。 第3部ではカトリック的聖書解釈の特徴として教会の生きた伝承の中にあるという自覚と啓示に忠実であろうとすることを指摘してから、 聖書そのものの形成とその基盤となった伝承の中での解釈、 その延長としての教会の伝承の中での解釈ということに注目し、 これを前提として今後聖書学者の果たすべき任務は何か、 聖書学と他の神学諸分野との関係はいかなるものかを明らかにしています。 さらに第4部で教会生活の中での聖書解釈に言及し、 これまでの考察に基づいて、いかに聖書を解釈すべきか、 現在化(アクチャリゼイション)と文化内順応(インカルチュレーション)の観点から説き、 さらに典礼や霊的読書、司牧宣教のいろいろな領域でのその活用を具体的に指摘しています。 このように本文書は、現代聖書学の諸研究法を総点検し、解釈するという行為そのものを問い、 聖霊の霊感の書としての聖書の解釈において追求すべき重層的意味を指摘し、 カトリック聖書学は聖書そのものの伝承とそれを受け継ぐ教会の伝承を今後も続け、 その伝承のダイナミズムの中であくまで聖書原文に基づきながらその意味を追求べきこと、 さらに教会全体が聖書の言葉を、時代を超えて現在化し、 あらゆる地域で文化内順応を行うことも心に留めて、そのいっそう効果的な活用を促しています。 この理論から実践へと、その全体をとおして見事な一貫性があります。 まことに聖書は、単なる過去の記録文書ではなく、 当初から信仰共同体の生ける伝承の中で、絶えず語りかける愛の父である神の言葉なのです。 |
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