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教会における聖書の解釈
−教皇庁聖書委員会−

PONTIFICIA COMMISSIO DE RE BIBLICA
L'interpretation de la Bible dans l'Eglise
“ L'interpretation des textes bibliques ”
MCMXCIII
3.文書の訳文:translation

 
和田 幹男 訳
『英知大学キリスト教文化研究所紀要』
第16巻 (2001年)、202−319頁


教会における聖書の解釈
教皇庁聖書委員会
1993年4月15日
教皇庁聖書委員会の文書への序
導入部
第1部 聖書解釈の方法と近づく道
第2部 解釈学の諸問題
第3部 カトリック聖書学の諸特徴
第4部 教会の命における聖書の解釈
結論




教皇庁聖書委員会の文書への序
1259
 聖書の研究は神学の魂のようなものである。 第2ヴァティカン公会議は、教皇レオ13世の表現を取って、 こう言う(啓示憲章第24項)。 この研究に終わりはない。 それぞれの時代はその時代の仕方で新たに聖書の理解を追求しなければならない。 解釈の歴史において、歴史批判学的方法の採用は新しい時代の幕開けとなった。 この方法により、聖書本文をその原初的意味で理解する新しい可能性が生まれた。 すべての人間的なものがそうであるように、この方法も、積極的な可能性と共に、ある危険を伴っていた。 原初的な意味の追求は、御言葉をその現在の意味がわからなくなるほど、まったく過去のものにしてしまいかねない。 その方法は、御言葉の人間的次元しか現実のものとして浮かび上がらせないようなものになりかねない。 その真の著者である神は、人間的な現実の理解のために開発されたこの方法では届かず、見逃されかねない。 聖書に「世俗的」研究方法を適用すれば、これは必然的に議論を呼ぶ。
1260
 真理をいっそうよく理解し、個人的観念に規律を与えるのに役立つものは、 すべて神学にとって有効な貢献となる。 この意味で歴史批判学的方法が神学の作業に取り入れられたのは正しかった。 しかし、わたしたちの展望を狭くし、単なる人間的なものを越えて目と耳が向かうの妨げるものがあれば、 開いたままでいるために、その妨げるものすべては排斥されなければならない。 それゆえ、歴史批判学的方法が現れるやいなや、その有用性と正しい位置づけについて論争が起こり、未だにまったく終わってはいない。
1261
 この論争の中で、カトリック教会の教導職は重要な文書をもって幾たびも立場を明らかにした。 最初に、教皇レオ13世は1893年11月18日付け回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』 によって解釈が向かうべき方向として幾つかの道しるべを決めた。 自由主義が教義とされるほど極端なまでに自信に満ちていた時代に、 レオ13世は新しい可能性の積極的な側面を締め出しはしないものの、とりわけ批判的な態度を露わにした。 その後50年経って、偉大なカトリック聖書学者の実り豊かな研究活動のおかげで、 教皇ピオ12世は1943年9月30日付け回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』 の中でいっそう大きい紙面を奨励に割き、聖書を理解するために現代の研究方法を利用するように呼びかけた。 第2ヴァティカン公会議の1965年11月18日付け神の啓示に関する憲章『デイ・ヴェルブム』は、 このすべてを取り入れている。 教父神学の不朽の展望と現代人の新しい方法論的知識を合わせて、 それはわたしたちに一つの総合を残したが、これはいつまでも続く権威となっている。
1262
 そうこうするうちに、聖書学の研究方法の幅は、30年前には予想できなかったような広がりを見せた。 構造主義から唯物論的、心理分析的、解放論的解釈に至るまで新しい方法や新しく近づく道が提唱されている。 他方、新しい試みも進められている。それは教父たちの聖書解釈を再評価したり、 聖書の新しい形式の霊性的解釈に道を開くことを目指している。そこで教皇庁聖書委員会は自分の義務として、 『プロヴィデンティッシムス・デウス』から100年、『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』から50年経った今、 現在の状況の中でカトリック聖書学がどこに位置しているかを見定めるよう努めた。 教皇庁聖書委員会は、第2ヴァティカン公会議に続いて与えられた新しい組織のもとでは、教導職の一機関ではなく、 専門家からなる委員会であり、彼らは、カトリック聖書学者として学問的かつ教会的責任を自覚し、 聖書の解釈の重大な諸問題について立場を明らかにするものであり、 このために自分が教導職の信頼に支えられていることを意識するものである。 この枠組みの中で、本文書は作成された。これはしっかりした基礎の上に、現在用いられている聖書学方法論を展望する一つの総覧を提供し、 こうして求める者にはその数々の道にある可能性と共に限界に関して指標を提示するものである。 これを前提として、この文書は聖書の意味の問題に取り組む。人間の言葉と神の言葉が出会い、 歴史的出来事の独一性(singularité)と、永遠でありまた各時代にとって その時代のものでもあるこの言葉の不変の価値が出会うところにあるその意味はいかに認めることができるのかの問題である。 聖書の言葉はその起源を実際の過去にもつが、ただ過去だけでなく、神の永遠性から来るものでもある。 それはわたしたちを神の永遠性に導いてくれるが、これは時間による経過をとおしてなされ、 その時間には過去、現在、未来がある。この文書は聖書を理解するために正しい道がどこにあるかとの 問題を明らかにするために真に貴重な助けとなり、新しい展望を開くものと、わたしは思う。 これは1893年と1943年の回勅が敷いた線を続け、この線を実り豊かに、さらに増長するものである。
1263
 聖書委員会の委員の皆さんには、その忍耐強くて、しばしば辛い骨折りを思い、 感謝を申し上げたい。 そのおかげで徐々にこの文書が出来上がった。 この文書が広く行き渡り、聖書にある神の言葉をますます深く身につけようと追い求めるにあたり、 効果的に貢献するものとなるよう願う。
ローマにて、1993年、福音記者聖マタイの祝日に
枢機卿ヨセフ・ラッツィンガー


導入部
1264
 聖書本文の解釈は、わたしたちの時代にも強い関心の的でありつづけており、 重大な論議を呼びおこしている。 この議論はここ最近の数年、新しい次元でも行われるようになった。 キリスト教信仰にとって、また教会の命にとって、キリスト教徒とほかの宗教の信徒の関係にとっても、 聖書は基本的に重要なものであるから、教皇庁聖書委員会は請われて、これを議題に見解を明らかにすることになった。

A.現在の問題点
1265
 聖書の解釈は、ときにはそう思わせようとする人もあろうが、現代になって作り出された問題ではない。 その解釈に困難があることの証しが、聖書そのものにある。 そこには鮮明な本文と並んで、 難解な文もある。 エレミヤの託宣を幾つか読んで、ダニエルはその意味を長い間自問自答している(ダニ9:2)。 使徒言行録によれば、1世紀の一エチオピア人がイザヤ書の一節(イザ53:7−8)のことで同じ状況にあり、 解釈してくれる人が必要なことを認めた(使8:30−35)。 ペトロの手紙2は、 「聖書の預言は何一つ自分勝手に解釈すべきはない」(2ペト1:20) と明らかに述べ、ほかにパウロの手紙には「難しく、理解しにくい箇所があって、 無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様曲解し、自分の滅びを招いている」 (2ペト3:16)と見ている。
1266
 したがって問題は古いが、時代が進むにつれ深刻になった。 今後、聖書に言われる事実や言葉に行き着くために、 その読者はほとんど20世紀ないし30世紀も遡らなければならず、そのために問題が起こらないわけがない。 他方、人文科学が達した進歩の事実により、現代では解釈の問題はいっそう複雑になった。 古代文書の研究に数々の学問的方法が適用されることとなった。 いかなる計りでもってこれらの方法が、 聖書の解釈に適合したものかどうかを考えることができるようか。 この質問に対して、 教会は司牧上賢明に長い間きわめて寡黙に答えただけだった。 なぜなら諸々の研究方法は、 積極的な諸要素をもってはいたが、キリスト教信仰に反する選択肢と結びついていたからである。 しかし、積極的な発展が実現し、それはレオ13世の回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』 (1893年11月18日)に始まりピオ12世の回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』 (1943年9月30日)に至る一連の教皇文書によって指摘されている。 またそれは教皇庁聖書委員会の宣言『サンクタ・マーテル・エクレシア』(1964年4月21日)によって、 またとくに第2ヴァティカン公会議の教義憲章『デイ・ヴェルブム』(1965年11月18日)によって確認された。
1267
 この建設的な姿勢がいかに実り豊かなものであるかは明らかで、否定できない。 聖書研究はカトリック教会の中で目を見張る飛躍を遂げ、その学問的価値は学界と信徒の間でいっそう認められることとなった。 キリスト教諸教会間の対話は、それによりきわめて促進された。 神学における聖書の影響も深くなり、 神学の刷新に貢献した。 聖書への関心がカトリック信徒の中で増し、キリスト教的生活の進歩を促した。 この分野の真面目な養成を身につけた者は皆、前批判的な聖書解釈を明らかに不十分だと判断し、 これも理由なしではなく、今後その段階に戻ることは不可能だと考える。
1268
 しかしながら、最も普及した学問的方法、 − つまり「歴史批判学的研究」方法 −、 がカトリックを含む聖書学において一般に実用化されているまさにこの時、この研究方法が問題にされている。 これは一方では学界そのものの中で、ほかの数々の研究法や近づく道が登場することによるのであり、 他方、信仰の観点からその研究法では不十分だと判断する数多くの信徒の批判による。 その呼び名が示すように、時代が推移する中での聖書本文の歴史的進展とその諸伝承  − ないし通時性 −  にとくに注目するものとして、歴史批判学的研究方法は、ある界隈では、 聖書本文の用語にしても、構文にしても、語りの織りなしかた、あるいはその説得の工夫にしても、 その本文の共時的理解を主張する諸研究法により、現在では競合関係にある。 さらにまた、 過去を復元するという通時的研究方法がもつ関心に代えて、多くの人々の中には、哲学的に、 心理分析的に、社会学的に、政治的になどと聖書本文を現在の時点に置いて問う傾向がある。 この数々の研究方法と近づく道の複数性は、ある人々には豊かさのしるしとして評価されるが、 ほかの人々の目には大きな混乱と映る。
1269
 この混乱は、事実であれ、表面的なものであれ、学問的聖書研究に反対する論客に新しい論拠となっている。 彼らによると、聖書解釈の論争は、聖書本文を学問的研究方法の要請のもとに置くことから何も得るものはなく、 反対に多くのものが失われるということを明らかにしている。 彼らは、 学問的聖書学が結果としてそれまで平穏に認められてきた数多くの点について煩雑さと懐疑を呼び起こしたことを強調する。 またその聖書学は、一部の聖書学者に強いて、イエスの処女懐胎や奇跡、その復活や神性までも、 このような大いに重要な問題について教会の信仰に反する立場を取らせるものだと強調する。
1270
 これがたとえこのような否定な結果に至らなくても、彼らによると、 学問的聖書研究はキリスト教的生活の促進ということになれば、その性格として不毛である。 それは神の言葉の生ける泉に、より容易く、より確実に近づくようにする代わりに、 聖書を閉じた書にしてしまい、その解釈はいつでも問題とされ、技術的な洗練を必要とし、 これにより一部の専門家に保留された領域にされてしまう。 この一部の専門家には、 あの福音書の一節を当てはめるものがいる。 「知識のかぎを取り上げ、自分が入らないばかりか、 入ろうとする人々をも妨げてきた」(ルカ11:52;マタ23:13も参照)。
1271
 その結果、学問的聖書研究の忍耐を要する作業に代えて、あれこれと実践されている共時的聖書解釈のような、 より単純に聖書に近づく道を取る必要があると考え、それで十分だとするばかりか、 すべての研究を断念して、いわゆる「霊的」聖書解釈を奨励し、 これをもって聖書解釈をただ主観的で個人的な霊感に導かれるものとし、 この霊感を育成するためのものとして理解する人がいる。ある人々は、 自分たちが個人的に心に見るキリストと自発的に宗教的に求めるものを満たすものを、 とくに聖書の中に追い求める。ほかの人々は個人的にしても、集団的にしても、 あらゆる問題に対する直接の答えがそこに見出せると主張する。啓示を受けたと主張し、 その啓示による解釈を唯一の真なるものとして提示する宗教的集団は数多い。

B.本文書の目的
1272
 それゆえ、聖書解釈に関して表明される批判や苦情、それに期待に留意しながら、 聖書解釈をめぐる現状のさまざまな側面を真剣に検討する必要があり、 新しい方法と近づく道によって開かれた種々の可能性を評価し、 最後にカトリック教会における聖書解釈の使命にいっそう適切に応じた方針を正確に見定めるように努める必要がある。
1273
 ここに本文書の目的がある。 教皇庁聖書委員会の願望は、人間的であると同時に神聖な性格をもつ聖書に、 できるだけ忠実に解釈するようになるため、いかなる道を取るべきかを指摘することにある。 委員会はここで聖書に関して、たとえば霊感の神学と言った提起されるすべての問題に対して、 ある立場を取ることを主張するものではない。 望みとするのは、 聖書本文に含まれるすべての豊かさを効果的に活用するのに貢献するものとして受け容れられ得る諸々の研究方法を検討することである。 こうして神の言葉がその民の一人一人にとって常にいっそうその霊性の糧となり、信仰と希望と愛の生活の泉となり、 また全人類にとって光となるように(啓示憲章第21項)するためである。
1274
この目的を達成するために、本文書は:
1. 数々の方法と近づく道1を簡単に紹介し、それらが秘める可能性と限界を指摘し、
2. 解釈学上の諸問題を検討し、
3. 聖書のカトリック的解釈にとって特徴的な幾つかの次元について、 また神学のほかの分野との関連についてひとつの省察を提案し、
4. 最後に、教会の命の中で聖書の解釈が占める位置について考察する。

原文脚注1:釈義の「方法」という用語により、本文を説明するために用いられる学問的作業行程の総体をいう。 「近づく道」という用語により、ある特殊な観点からその向かう方向が定まっている研究をいうことにする。


第1部 聖書解釈の方法と近づく道

 A.歴史批判学的研究方法 
1275
 歴史批判的研究方法は古代文書の意味を学問的に研究するためには不可欠の方法である。 聖書は、「人間の言語で書かれた神の言葉」として、そのすべての部分において、 またそのすべての資料において人間である著者によって作成されたものであるから、 その正しい理解のためにこの方法を利用することは、正当なものとして認められるだけでなく、必要とされる。

1.研究方法の歴史

1276
 この研究方法の現状を正しく評価するために、その歴史を一瞥することが適切である。 この解釈の方法の幾つかの要素はきわめて古い。 それは古代において古典文学を解説したギリシア人によって、 時代が下って教父時代にオリゲネスやヒエロニムス、アウグスティヌスなど著作家によって用いられた。 当時、その方法はあまり開発されたものではなかった。 その現代の形式は、 とくにルネッサンス期の人文主義者とその彼らの原典主義以降もたらされた度重なる改善の結果である。 新約聖書の本文批判が学問分野として発達できるようになったのは、 1800年以降、公認本文(textus receptus)を離れるようになった後のことでしかなかったが、 文学批判の始まりは17世紀のリシャール・シモン(Richard Simon)の著作にまで遡る。 彼はモーセ五書に見られる重複記事、内容の相違、文体の違いに注目し、 そのすべての本文をただ独りの著者モーセの著作とすることが認めがたいことを確認した。 18世紀になって、ジャン・アストリュック(Jean Astruc)はさらにモーセが創世記作成にあたり複数の資料 (とくに主な資料として二つ)を用いたという説明を与えるのにとどまったが、 その後聖書批判学はますます毅然としてモーセをモーセ五書作成の著者とすることに異を唱えるようになった。 文学批判は、長い間聖書本文の中に複数の異なる資料を見分けるための努力と同一視された。 こうして19世紀には「資料」仮説が発展し、これはモーセ五書の編集を説明しようとするものであった。 そこには部分的に並行し、異なる時代から来る4つの資料が融合されているのではないかと。 それはヤヴィスト(J)、エロヒスト(E)、申命記(D)、祭司文書(P:祭司、Priesterの文書)で、 モーセ五書の最終編集者はその全体に構造を与えるためにこの最後の資料を用いたのではないかと。 同様の仕方で、三つの共観福音書の間に認められる共通点と相違点を同時に説明するために「二資料」仮説が用いられた。 それによるとマタイ福音書とルカ福音書は二つの主たる資料から作成されているのではないかと。 これは一方ではマルコ福音書、他方ではイエス語録(独語のQuelle,「資料」のQを取ってQ資料と言われる)のことである。 本質的に、 これら二つの仮説は現在もなお学問的聖書解釈において維持されているが、反論の対象ともなっている。
1277
 聖書本文の作成年代を見定めたいとの願望から、この種の文学批判は複数の異なる資料を区別するために聖書本文を細分化し、 分解してしまう作業にとどまり、その聖書本文の最終的文学構造とその現在の本文が表現する メッセージに十分な注意を向けてこなかった(その最終編集者の著作としてあまり評価してこなかった)。 この事実により、またある聖書学者はかつて行われていたような比較宗教史学の影響を受けて、 あるいはある哲学の観念から出発して、聖書に対して否定的な判断を発表してきただけに、 歴史批判学は非建設的であり、破壊的であると思われても仕方がなかった。
1278
 ヘルマン・グンケル(Hermann Gunkel)は、このように理解された文学批判の閉塞状態から聖書研究を脱出させた。 彼はモーセ五書を文書の集成と見なすことに変わりはなかったが、様々な断片それぞれにある独特な構文法に注意を向けた。 彼はそのそれぞれの文学様式(たとえば「伝説」とか「賛美」)とそれが形成された社会環境ないし 「生活の座」(Sitz im Leben、たとえば法的状況とか典礼的状況など)を見定めようとした。 この文学様式の追求に関連して、共観福音書研究においてマルティン・ディベリウス(Martin Dibelius) とルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann)によって始められた「様式批判研究」(Formgeschichte、様式史研究)がある。 この後者は「様式史」研究に加えて、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger)の実存哲学に発想を得た聖書解釈学を混入させた。 その結果、様式史研究はしばしば重大な保留を呼び起こした。 しかし、この研究方法はそれ自体結果として、 新約聖書の伝承が、イエスご自身の宣教から、イエスがキリストであると宣べ伝える宣教へと移る中で、 キリスト教共同体ないし原始教会の中にその起源をもち、その様式を帯びるに至ったことをいっそう明らかに示すこととなった。 様式史研究に編集史研究、「編集史批判研究」が加わった。 これは福音記者それぞれの個人的貢献とその 編集作業を導いた神学的志向性を明るみ出そうと努める。 この最後の方法を利用することによって 一連の様々な段階の歴史批判学的研究方法はいっそう完全なものとなった。 本文批判から文学批判に移り、 ここで分解し(資料研究)、つぎに様式批判研究に移り、最後に編集の分析に移るが、ここでその構成された本文に注目する。 このように聖書の著者たちの著作意図も、また彼らが最初の宛先人に向けたメッセージもいっそう 明確に理解することができるようになった。

2.研究方法の基本原理

1279
 古典的な形態の歴史批判学的研究法の基本原理は以下のとおりである。
 これが歴史学的方法であるのは、古文書の本文に  − ここでは聖書の本文に −  適用され、 それによってその歴史学的な意味を研究するのみならず、またとくに聖書本文成立の歴史的経過、 ときにはきわめて複雑で長期にわたる通時的経過を明らかにしようと努めるからである。 その成立の様々と異なる段階で、聖書の本文は時間的地域的に様々と異なる状況にあった 多様な部類の聴衆と読者に向けられたものであった。
1280
 これが批判学的方法であるのは、しばしば理解し難い聖書本文の意味を現代の読者に近づき易いものになるようにと、 (本文批判から編集批判研究までの)それぞれの過程において可能な限り客観的な学問的判断基準の助けを借りて行われるからである。
 分析的な学問方法として、それは古代のほかのすべての本文と同様に聖書本文を研究し、 これを人間の言語として解説する。 しかしながら、それはとりわけ聖書本文の編集批判研究において 聖書学者が神の啓示の内容をより良く把握できるようにする。

3.研究方法の概略

1281
 歴史批判学的研究方法は、その発展の現状では以下のとおり段階的に進められる。
 かなり以前から実践されてきた本文批判は、一連の学問的作業を開始する。 最古で最良の写本証言およびパピルス、複数の古代訳、教父文書の証言に基づき、 それは一定の原則にしたがって、可能な限り原本に近い聖書本文を確立するように努める。
1282
 つぎにその聖書本文は、古代語学(philologie historique)研究によって得られた知識を用いて、 語学的(形態論と構文法)かつ意味論的分析に付せられる。 ここで文学批判は、 本文に大小ある単元の始めと終わりを識別し、その単元の本文にある内的整合性を確認するように努力する。
1283
 重複や相容れない相異点やほかに何かしるしがあれば、複数の本文からなるという性格を現しており、 そのとき幾つかの小さな単元に分けられ、その単元が様々と異なる資料に属するのではないか追求される。 様式批判は様々な文学様式とその起源の社会環境およびその発展の特性を見定めるように努める。 伝承史批判は本文を伝承の流れの中に位置づけ、歴史の行程における発展を正確に把握するように努める。 最後に、編集批判は本文が最終的に書として書きとめられる前に蒙った変更を研究する。 それはこの最終的状態にある本文を分析し、そこにある固有な志向性を見分けるように努力する。 前の数段階では本文の形成を通時的展望の中で説明しようと努めるのに対して、 この最後の段階では共時的研究をもって締めくくられる。 このとき聖書本文はそれ自体において、 その様々と異なる要素の相互連関により、また著者が同時代の人々に伝えたそのメッセージの側面を考慮しながら説明される。 そのとき、本文の実践面での機能も考慮に入れることができる。
1284
 研究対象である本文が歴史記述の文学様式で書かれているか、歴史の出来事に関連しているときには、 その現代的意味での歴史的な意味あいを正確に把握するために、歴史批判が文学批判を補充する。
 このように聖書の啓示が具体的に展開した様々な段階が明るみに出される。

4.評価

1285
 とくにその発展の現段階における歴史批判学には、いかなる価値が認められるのであろうか。
 客観的に用いられるなら、この研究方法はそれ自体では何ら先験的(アプリオリ)判断を伴うものではない。 もしそれがある一定の先験的判断と共に用いられるなら、それはこの研究方法それ自体によるのではなく、 解釈にかかわっての選択による。 この選択が解釈を方向づけ、偏りあるものとすることができる。
1286
 この研究方法は、その始めには資料批判研究と宗教史批判研究という意味で方向づけられたものであったが、 結果として聖書に近づく新しい道を開いた。 こうして、それは聖書が数々の著作を集めたものであり、 その著作も、はるかにしばしば、特に旧約聖書の場合ただ独りの著者の創作ではなく、 イスラエルの歴史と、または原始教会の歴史と切り離せなく密に結ばれた長い前史をもっていることを示した。 かつてユダヤ教の解釈にしても、キリスト教の解釈にしも聖書の解釈は、 神の言葉が根づいた具体的で多様な歴史的条件についての意識をもってはいなかった。 それは大まかで漠然とした知識しかもっていなかった。 伝統的な聖書解釈と、 その始めには意識的に信仰を無視し、ときにはこれと対立した学問的聖書研究との出会いは、 痛ましいものであったことは確かである。 しかしながら、その後これが健全なものであることが露わになった。 この研究方法がその外部からくる偏見から解放されると、聖書の真理(啓示憲章第12項参照) をいっそう正確に理解できるよう導いた。 回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』によると、 聖書の字義的意味の研究は聖書学者の本質的な任務であり、この任務を果たすためには聖書本文の文学様式を見定める必要がある (『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』、EB 550,560参照)。 これは歴史批判的研究方法を手がかりに行われる。
1287
 確かに歴史批判学的研究方法の古典的活用はその限界を示した。 それが聖書本文の意味の追求をその本文形成の歴史的環境の枠内に限り、 聖書の啓示のその後の時代と教会の歴史の流れの中で明らかになったそのほかの意味があることの潜在能力には無関心だからである。 しかしながら、この研究方法は大きい価値のある聖書釈義と聖書神学の著作を産み出すのに貢献した。
1288
 この方法をある一つの哲学大系と混在させることをやめてから久しい。 最近、聖書学の傾向は聖書本文の内容にあまり注目しないで、 その本文の形式を重点的に強調する方向にこの方法を向けたが、 この傾向は細分化された意味論(各用語、各熟語、各本文の意味論)の貢献により、 また本文の実践的側面の研究によって修正された。
1289
 この研究方法に聖書本文の共時的分析を含めることについては、それが正しい作業であることを認めなければならない。 なぜなら神の言葉の表現であるのは最終段階の本文であって、それに先立って編集されたものではないからである。 しかし、通時的研究は聖書に命の息吹を与える歴史のダイナムズム(力ある動き)を把握するために、 またその豊かであるがゆえの複雑さ(riche complexité)を示すためにあくまで欠かすことはできない。 たとえば、契約法典(出21−23章)は、申命記(申12−26章)とレビ記 の中に保たれているほかの法典(神聖法典、レビ17−26章)とは異なる古代イスラエル社会の政治的、 社会的、宗教的状況を反映している。 かつての歴史批判学的聖書研究にある歴史主義的傾向を非難することができるかもしれないが、 それに続いてその逆の行き過ぎ、つまり排他的な共時的聖書学による歴史無視の行き過ぎもあってはならない。
1290
 結論として、歴史批判学的研究方法の目的は、とくに通時的に聖書の著者たちと編集者たちによって 表現された意味を明らかにすることにある。 この研究方法は、ほかの数々の方法と近づく道と共に、 現にわれわれが手にしている聖書の本文が意味しているものに現代の読者がたどり着く道を開く。

B.文学性に注目して分析する新しい研究方法
1291
 聖書を研究するためのいかなる学問的方法も、聖書本文にある豊かな意味と意義をすべて明るみに出すには限界がある。 その有効性がいかなるものであれ、歴史批判学的研究法をもって十分であるとすることはできない。 それは、それが研究する聖書本文の多くの側面を暗闇の中にそのまま残さざるを得ない。 現在、ほかの聖書研究法や近づく道が提唱されているが、これは驚くに当たらない。 それは聖書本文のいろいろな側面を深く理解しようとするもので、注目に価する。
1292
 このB節では、最近推進されている文学性に注目して分析する新しい研究方法を幾つか紹介することとする。 これに続く節(C、D、E)では、様々と異なって近づく道を簡単に検討するが、その中のあるものは伝承の研究に関連し、 あるものは「人文科学」に関連し、さらにあるものは現代の特殊な状況に関連するものである。 最後に、ファンダメンタリズムの信奉者の聖書読書法を考えることとするが、これは聖書解釈のあらゆる方法論的努力を拒む。
1293
 現代の言語学および文学研究における進歩を活用して、 聖書学は文学性に注目して分析する新しい方法を徐々に用いるようになった。 それは、特に修辞分析であり、語りの分析であり、記号論分析である。

1.修辞分析(Analyse rhetorique)

1294
 実のところ、修辞批判はそれ自体新しい研究法ではない。 新しさは、一方では聖書の解釈におけるその系統的な利用にあり、他方では「新修辞学」の発生と発展にある。
1295
 修辞法とは、説得力ある論述(discours)を作成する術である。 程度の差はあるが、 聖書本文はすべて説得力ある本文であるという事実により、修辞法の何らかの知識は聖書学者にとって常識の一部である。 学問的聖書解釈は批判精神の要求に応じるものでなければならない作業であるから、修辞分析は批判的に実践されなければならない。
1296
 最近の多くの聖書研究は聖書の中に修辞法があることに大いに注目してきた。 これに近づく道は様々あるが、三つに分類することができる。 第一の道は古典ギリシア・ラテンの修辞学に基づくもの、 第二の道はセム語族的文章構成法に注目するもの、第三の道は「新修辞学」と言われる現代の研究に発想を得たものである。
1297
 論述があるところにはいかなる状況であってもどこにも、つぎの三つの要素がある。 つまり語り手(または書き手)と論述(または本文)と聞き手(または宛先)である。 したがって、古典的修辞学は説得の三つの要因を分け、これが論述の質の善し悪しに関わると考える。 つまり語り手の権威(l'autorité)と、論述の論証(l'argumentation)と、 これが聞き手に起こす感動(les émotions)である。 状況と聞き手が様々と異なることにより、語りかたも大いに影響される。 アリストテレス以来、古典的修辞学は雄弁術の三つの異なる様式を認めてきた。 つまり(法廷における)弁論の様式(le genre judiciaire)と、 (政治集会における)演説の様式(le délibératif)、(祝祭における)褒貶の様式(le démonstratif)である。
1298
 この修辞法がヘレニズム文化に及ぼした莫大な影響を確認し、聖書各書、 特に新約各書の幾つかの側面をよりよく分析するために古典的修辞学を利用する聖書学者の数が増えている。
1299
 ほかの聖書学者は聖書の文学的伝承の特異な特徴に注意を集中させる。 セム語族の文化に根ざすこの伝承は、対称法的文章構成による表現を好む傾向を示し、 これにより本文の様々な要素の間にある関連が定められている。 並行法はじめほかのセム語族的手法の多様な構文法の研究により、本文の文学的構造がいっそう良く見分けられ、 こうしてそのメッセージのより良い理解が達成されるはずである。
1300
 もっと一般的な観点に立って「新修辞学」をもって、文体の様相や弁論の術、 論述の形態の総点検とはまた別の何かを明らかにしようとする。 新修辞学は、言語の具体的なある独特な用法が有効で、確信を伝えることができるのは、なぜかを研究する。 それは単なる形式の分析にとどまることを拒否し、「現実主義的」であろうとする。 それは議論の実情に、これに当然の注意を向ける。 それは、文体や構文法を研究するが、聴衆に働きかける手段としての文体や構文法を研究する。 その目的のために、言語学、記号論、人類学、社会学など最近の学問分野の成果を援用する。
1301
 「新修辞学」は、聖書に応用することにより、説得力ある宗教言語としての啓示言語の核心に迫り、 伝達の社会的文脈におけるその迫力を測ろうとする。
1302
 聖書本文の批判研究を豊かにするものであるから、修辞分析は、特にこの最近深められたその理解は、 高く評価するに価する。 それは長い間疎かにされてきたものを補い、その起源にあった展望を発見、ないしより優れた光のもとに置く。
1303
 「新修辞学」には、根拠があって、それは説得力があって納得させるという言語にある能力に注意を引くということである。 聖書は単なる真理の羅列ではない。 それはある(社会的)文脈において伝達の機能を備えるメッセージであり、 論証のダイナミズムと修辞的戦法を含み持つメッセージである。
1304
 しかしながら、修辞分析には限界もある。 それが記述的(descriptives)であることにとどまるなら、 その結果はしばしば文体への関心以外の何ものでもない。 基本的に共時的であり、 それはそれ自体で十分と言える独立した研究方法であると主張することはできない。 これを聖書本文に応用するとき、幾つかの問題が起こる。 つまり、聖書本文の著者たちは最も教養ある社会階級に属していたのだろうか?。 彼らは自分の著作を作成するにあたり、どこまで修辞の原則に従ったのだろうか? 具体的に特定されたある著作を分析するにあたり、いかなる修辞法が妥当なのか、 ギリシア・ラテンの修辞法か、それともセム語族的修辞法か?。 ある聖書本文にあまりにも洗練された修辞的文章構造があると見なしすぎる危険があるのではないだろうか。 これらの疑問があるが、 −またほかの疑問もあろうが−、 この種の分析の採用を断念させるものではない。 それはただ識別することなしに援用しないよう忠告しているにすぎない。

2.語りの分析(Analyse narrative)

1305
 語りとして聖書を解釈する方法が提案するのは、聖書の特徴でもある、 人間が相互に心を通わせる場合の基本様式である叙述(le recit)と証しという形式に応じて、 聖書のメッセージを理解し、伝達する研究方法である。 事実、旧約聖書は救いの歴史を提示するが、 その効果的叙述が信仰告白、典礼、要理教授の本質となっている (詩78:3−4;出12:24−27;申6:20−25;26:5−12参照)。 他方、キリスト教の宣教の告知もイエス・キリストの生涯と死、復活というひと続きの語りを含む。 福音書はこの出来事の詳しい叙述をわたしたちに残している。 要理教授自体も語りの形式で表されることがある(1コリ11:23−25参照)。
1306
 この語りとして近づく道については、その複数の分析方法と神学的 考察を分けることが肝要である。
 現在、多くの分析方法が提案されている。あるものは、古代における典型的な語りを研究することから始める。また別にあるものは、記号論とも共通点を持ち得る現在の具体的なある「語りの学」 (narratologie)を基盤とする。語りの分析は、 話の筋立て、作中の人物、 語り手が取る視点に関する本文の要素に特に注目して、 読者を 「叙述の世界」とその価値体系の中に取り込もうとして、 いかに歴史が語られるのか、 その語りかたを研究する。
1307
 この多くの研究法は、 「実の著者」 (auteur réel) と 「含蓄的著者」 (auteur implicite)、 「実の読者」 (lecteur réel) と 「含蓄的読者」 (lecteuri mplicite)の区別を導入する。 「実の著者」 とは、 叙述を作成 した人物のことである。 「含蓄的著者」 をもって意味するのは、 本文が読み続けられる過程で (その文化、気質、傾向、信仰などと共に) 発展しながらその本文が産み出す著者像 (l'image d'auteur) のことである。 「実の読者」 と呼ぶのは、 本文を読んだか、 読まれるのを聞いたその最初の宛先人から今日の読者ないし聞き手に至るまで、 この本文に近づいたすべての人のことである。 「含蓄的読者」 をもって理 解されるのは、 本文が前提とし、 産み出す者のこと、 話の世界に入って、 含蓄的著者をとおして実の著者が目指したように応答する理知的 感情的活動を行う能力のある者のことである。
1308
 本文はその影響を及ぼし続けるが、 これは実の読者 (たとえば20世 紀末のわれわれ) が自らをどれほど含蓄的読者と同一化できるか、 その程度に応じてである。 聖書解釈の重要な任務のひとつは、 この実の読者と含蓄的読者との同一化を容易にすることである。
1309
 この語りの分析に、本文の意義を評価する新しい仕方が連携する。 歴史批判学的研究方法がむしろ本文をあたかも 「窓」 として、 (語られる出来事についてのみならず、それが語られた共同体の状態についても) ある特定の時代についていろいろな考察に打ち込むことがでるようにするのに対して、 強調されるのは本文が同様にあたかも 「鏡」 として、 ある世界像 −叙述の世界像− を与えるという意味で、 機能するということである。 この世界像は読者の物の見かたに影響し、 その読者がほかでもなく、 むしろある価値を受け容れるようにさせる。
1310
 この典型的な文学的研究と共に神学的考察がなされ、 聖書の叙述 −したがってまたその証し− に本来的に含まれるもの、 信仰を深めるためのその結果を考え、そこから実践型、司牧型の解釈法が結論として引き出される。 このようにして霊感を受けた本文を、 しばしば非聖書的な範疇と言語にしたがって表現される一連の神学的命題に還元することに対する反発がなされる。 語りの解釈に求められるのは、聖書の叙述に固有な伝達法とその意義を、新しい歴史的文脈の中で活性化することであり、 それは救いのためにその有効性により優れた道を開くためである。 ここで強調されるのは「救いを語る」必要性 (語りの「情報提供的」側面)と「救いを目指して語る」必要性(発話するものを実現する「遂行的」側面)である。 実際に、聖書の叙述は −場合によって明示的であることもあれば、 含蓄的なこともあるが− 実存的な呼びかけとして読者に向けられている。
1311
 聖書を解釈するために、語りの分析は顕著に有益なことを示している。 なぜならこれは本来語りである、きわめて多量の聖書本文に応じたものだからである。 これは  − 歴史批判学的研究方法が見定めようと努めるような −  その歴史的文脈における本文の意味と今日の読者にとってのその本文の意義の間の、 しばしば越え難い橋渡しを容易にすることに貢献できる。 それに対して、 「実の著者」と「含蓄的著者」の区別は、解釈の問題の複雑さを増す。
1312
 聖書の本文に応用するにあたり、語りの分析は前もって定められた模範の本文に適用するだけでは満足できない。 それはむしろそれらの本文それぞれの特殊性に応じて適用するように努めなければならない。 共時的に本文に近づくこの研究は、通時的研究によって補足されることが求められる。 また別に、警戒しなければならないのは、聖書の叙述に含まれる所与の教義的作業を すべて排除する傾向があるかもしれないということである。 その傾向があれば、それはこのような作業を実際に行う聖書の伝承そのものとも、またこの道を踏襲した教会の伝承とも食い違うものとなろう。 最後に、語りとして伝達された神の言葉の主観的で実存的な有効性を、 真理とその理解の十分な基準として考えることはできないということを指摘しておかなければならない。

3.記号論分析(Analyse sémiotique)

1313
 いわゆる共時的研究法、つまりその最終段階において読むようになっている聖書本文の研究に集中する研究法の一つに、 記号論分析(Analyse sémiotique)がある。 これはこの二十年、ある界隈で大いに発展した。 まず「構造主義」という一般的な用語をもって呼ばれるこの研究法は、 スイスの言語学者フェルディナン・ドゥ・ソシュール(Ferdinand de Saussure)を元祖とすることができる。 彼は今世紀の初頭、すべての言語は幾つかの定まった規則に従う諸関係の組織であるという学説を考案した。 多くの言語学者と文学研究者はその研究法の発展に目覚ましい影響を受けた。 聖書研究に記号論を用いる聖書学者の大多数は、 アルジルダ・J・グレマス(Algirdas J.Greimas)と彼が創設したパリ学派に準拠する。 現代言語学に基づいて同様に近づく道ないし研究法の発展はほかにもある。 ここではグレマスの研究法を簡単に紹介し、分析することにしよう。
1314
 記号論は3つの原理ないし前提の上に立っている。
 内在性の原理:すべての本文は意味の全体をなしている。 分析はその全体を考察するが、
ただこの本文のみを考察する。 それは、著者だとか、宛先とか、語られる出来事とか、 編集史などのような「外部」の所与には助けを求めない。
1315
 意味の構造の原理:関係をとおして、特に相異の関係をとおしてしか、 また関係、特に相異の関係の中にしか意味はない。 したがって、一つの本文の分析は、本文の意味を成り立たせている諸要素の(対立、相同・・・)関係の網を確定することにある。
1316
 本文の文法の原理:本文はそれぞれ文法、つまり幾つかの規則ないし構造に従う。 論述(discours)と呼ばれる文節の総体の中には、異なる位相(niveaux、レベル)があり、そのそれぞれにその文法がある。
1317
 一つの本文の包括的内容は、その異なる3つの位相において分析することができる。
 語り(narratif)としての位相。 叙述(le récit)において、最初の状態から最終の状態へと 推移させる変形(la transformation)を研究する。 語りの過程の内部で、ある状態から別の状態への変形を示していて、 その間に論理的に結びついている様々な段階を克明に示そうと努める。 そのそれぞれの段階において、 その状態を決定し、変形を産み出す諸「作用因子」(des actants)が果たす「役割」の間にある関係が明確にされる。
1318
 論述(discursif)としての位相。 分析は3つの作業からなる。 a)表象(figures)、つまりある本文が意味するものの要素(主役たち、時と場所)の割り出しと分類、 b)ある本文におけるそれぞれの表象の推移過程を、この本文がそれをいかに用いているかを見定めるために確定すること。 c)諸表象の主題的価値の追求。 この最後の作業は、「いかなるものの名において」(=価値)、 諸表象がこの定められた本文において、ある具体的な推移過程を経ることになっているかを見極めることにある。
1319
 論理−意味論的位相。 これはいわゆる深い位相である。 これはまた最も抽象的なものでもある。 これは、すべての論述の語りとしての、また論述としての仕組みの下には論理および意味表示の形式があるという要請から出てくる。 この位相における分析は、ある本文の語りとしての、また表象としての推移経過の基礎的分明化 (les articulation fondamentales)を統御している論理を明確にすることにある。 これを行うために、手段としてしばしば用いられるのは、「記号論的枠付け」 (carré sémiotique)と呼ばれるもので、二つの反意語、 二つの矛盾語 (たとえば白と黒:白と非白、黒と非黒)の間にある関係を用いる表象である。
1320
 記号論的研究法の理論家たちは絶えず新しい発展をもたらしている。 現在の研究は特に発話行為 (l'énonciation)と間テクスト性(l'intertextualité)に向けられている。 この研究法は、最も容易に示されるということで、まず聖書の中の語りの本文に適用され、 徐々にほかのタイプの聖書の論述のためにも利用されるようになった。
1321
 記号論とは何かについてのこの説明と、とくにその前提とするものの列挙が、 すでにこの研究法の利点と限界を解らせてくれる。 聖書の本文がそれぞれ厳密な言語学的メカニズムに従った一つのまとまりであるという事実にいっそう注目させることにより、 記号論はわれわれが人間の言語で表現された神の言葉である聖書を理解するために貢献する。
1322
 記号論は聖書研究のために利用することができるが、それはただ構造主義哲学において発展を見た幾つかの前提、 つまり本文外の主体や関連事項の否定からこの分析法を切り離す場合においてのみである。 聖書は、神が歴史の中で発せられ、人間である著者たちを介して今日のわれわれに語りかける現実にかかわる言葉である。 記号論によって近づく道は歴史に開かれていなければならない。 本文中の主役たちの歴史をはじめ、 その著者たちの歴史、続いてその読者たちの歴史に開かれていなければならない。 記号論分析を用いる者には内容の形式上の研究にとどまり、本文のメッセージを明るみに出さないという大きな危険がある。
1323
 もし記号論分析が複雑な言語の秘境の中で自己を見失わず、その主要な要素に関して単純な用語で教えられるなら、 キリスト教徒に聖書本文を研究し、この聖書本文の成り立ちとその社会的文化的背景の歴史的認識を まったく持ち合わせていなくても、その意味の幾つかの次元を見出す味わいを得させることができる。 このようにそれは司牧上、専門家でない人々の中で何らか聖書を身につけさせるために役に立つものとなり得る。

C.伝承を基礎として近づく道
1324
 文学性に注目して近づく道は、これまで紹介してきたとおりだが、 研究対象である本文の内的統一性に大きな注意を払うことによって歴史批判学的方法と異なるが、 それぞれの書を個別に考えるので、聖書の解釈のためには十分とは言えない。 ところで、聖書は複数の本文の寄せ集めでもなければ、その本文の間には関係がないものでもなく、 まさに一つの大きな伝承の証しの総体として現れている。 聖書研究はその研究対象に十分に適合させて行うためには、この事実を考慮する必要がある。 このような展望に立って、聖書に近づく数多くの道が現在推し進められている。

1.正典論的に近づく道(Approche canonique)

1325
 歴史批判学的研究法にはその結論において神学としての目標を達成するには問題があるとしばしば実証されている事実を確認して、 20年ばかり前にアメリカ合衆国で正典論的に近づく道が生まれた。 これは聖書をその全体において受けとめるという信仰の明示的な枠組みから出発して、 まさに神学としての聖書解釈の責務に取り組もうとする。
1326
 その実行のために、これはそれぞれの聖書本文を聖書の正典の光のもとに、 つまりある信仰共同体によって信仰の基準として受容されたものとしての聖書の光のもとに解釈する。 これはそれぞれの聖書本文を神のただ一つの計画の中に位置づけるように努め、
わたしたちの時代におけるその現在化にまで至ることを目標とする。 これは歴史批判学的研究法に取って代わろうとするものではなく、補完することを願いとする。
1327
 2つの異なる観点が提唱されている。
 ブレヴァード・S・チャイルド(Brevard S.Child)は、(各文書にしても文書群にしても) 最終的に正典の形態を取った聖書本文、つまり信仰共同体の信仰を表現し、 その生活を導くものとしてその共同体によって受容された形態を取った聖書本文に関心の的を絞る。
1328
 最終的に確定された形態の聖書本文に対してというより、ジェームス・A・サンダース (James A.Sanders)が注目するのは「正典の成立過程」ないし信仰共同体が規範としての 権威を認めた文書群の進展に対してである。 この過程の批判的研究において、古来の諸伝承が恒常的であると同時に順応性があり、一貫性があり、 相異なる事象を結びつける一つの全体をなすようになり、ある信仰共同体の自己同一性の源泉となる前に、 新しい歴史的文脈においていかに再利用されてきたかが検討される。 この過程において幾つかの解釈上の手法が用いられてきており、それは正典決定の後も用いられている。 それは聖書本文を現在化しようとするミドラシュの類の手法である。 それは、伝承を常に同時代に即したものにすることを目指す解釈を借りて、 信仰共同体とその共同体の文書群の間の絶えざる相関関係を促進するものである。
1329
 正典論的に近づく道は、 原初的で原始的であると前提されるもののみが正真正銘のものであるかのように過大評価することに対する反発であるが、 それには理由がある。 霊感を受けた聖書とは、まさに教会が信仰の原則として認めたものとしての聖書である。 このことに関して、聖書各書が現在取っている最終的な形態を強調することもできれば、 その文書群が正典として成立している総体を強調することもできる。 ある書物が聖書となるのは、正典全体の光においてでしかない。
1330
 信仰共同体が、正典本文の解釈のために、実際に十全的にそれに対応した文脈である。
ここで信仰と聖霊は聖書解釈を豊かなものとする。 共同体への奉仕を行う教会の権威筋は、 聖書解釈が聖書本文を産み出した大きな伝承に忠実なものとしてとどまるように見張っていなければならない(啓示憲章第10項参照)。
1331
 正典論的に近づく道が取り組まなければならない問題は少なくない。 それは特に「正典の過程」を見定めようとするときに言える。 ある本文が正典であると言えるのは、どの時点からなのか。 信仰共同体がある本文に規範としての権威を認めたときから、 これがこの本文の最終的確定以前であっても、その本文が正典であると言うことが許されると思われる。 新しい状況の諸側面(宗教的、文化的、神学的)を考慮しながら行われた諸伝承の反復がメッセージの同一性を保っているときから、 「正典論的」解釈があったということができる。 しかし、問題が起こる。正典形成に至らせた解釈の過程は、 わたしたちの時代まで聖書解釈の原則として認められなければならないものであろうか。
1332
 他方、ユダヤ教の聖書正典とキリスト教の聖書正典の関係は複雑で、解釈上多くの問題が生じる。 キリスト教は、ヘレニズム世界のユダヤ教共同体において権威を認められていた文書群を「旧約聖書」として受容したが、 その中の幾つかの書はヘブライ語聖書には欠けているか、あっても別の形態でこれを提示している。 したがって、集成体が異なる。 この事実から、正典論的解釈は同一でありえない。 それぞれの本文は集成体全体との関連で読まれるはずだからである。 しかし、何はさておき教会は旧約聖書を復活の出来事  − キリスト・イエスの死と復活 −  の光のもとで読む。 この出来事は、根源からの新しさをもたらし、 最高の権威をもって聖書にその決定的で最終的な意味を与えている (啓示憲章第4項参照)。 この新しい意味の決定は、キリスト教信仰の構成要素をなしている。 しかしながら、それはキリスト教の復活信仰に先立つ、先行の正典的解釈の実質をぬぐい去ってはならない。 救いの歴史のそれぞれの段階は、尊敬しなければならないものだからである。 その信仰内容から旧約聖書を除くなら、新約聖書を歴史におけるその根を取り去ることにつながる。

2.ユダヤ教的聖書解釈の伝統を援用して近づく道

1333
 旧約聖書はキリスト教時代に先立つ4ないし5世紀のユダヤ教の中でその最終的形態を取ることとなった。 このユダヤ教が新約聖書と教会誕生の起源の背景ともなった。 数多くの古代ユダヤ教史の研究、特にクムランの発見に刺激されてなされた研究は、この全期間を通じてイスラエルの地においても、 離散の地においても、ユダヤ世界がきわめて複雑であったことを明らかにした。
1334
 まさにこの世界の中で聖書解釈が始まった。 聖書のユダヤ教的解釈の最も古い証しの一つがギリシア語70人訳聖書である。 アラマイ語で書かれたタルグムもまたその同じ努力のもう一つの証しである。 この努力は旧約聖書本文の保存のため、またその聖書本文の意味の説明のためになされた驚くべき量の学識豊かな取り組みを積み重ねながら、 わたしたちの時代まで続けられている。 最も優れたキリスト教の聖書学者も、オリゲネスと聖ヒエロニムス以来聖書をより良く理解するために聖書に関するユダヤ教徒の博識を 利用するよう絶えず努めてきた。 現代も多くの聖書学者はこれを模範としている。
1335
 古いユダヤ教の伝承は、特に70人訳聖書の理解をいっそう深めてくれる。 これはユダヤ教の聖書であるが、 教会の少なくとも最初の4世紀から、 また東方においては今日までキリスト教の聖書の最初の部分になったものである。 外典・偽典 (apoocryphe、旧約聖書続編) ないし両約中間時代文書 (intertestamentaire) と呼ばれる正典外のユダヤ教文書は、 豊富にまた多様化してあり、 新約聖書を解釈するために重要な資料である。 さまざまな傾向のあるユダヤ教によって実践された多様な解釈の慣習は旧約聖書そのものの中にある。 たとえば、列王記との関連で歴代誌の中にあり、 また新約聖書の中にあって、 ここではたとえば聖パウロの幾つかの聖書的考察が指摘される。 多様な様式 (たとえ話、 比喩、 文選集、 抜粋集、 再読、 ペシェル、 縁遠い本文の並置、 詩編と賛歌、 幻視、 啓示と夢、 知恵文学的作品) は旧約と新約に、またイエス時代の前と後のすべてのユダヤ世界の文学に共通してある。 タルグムとミドラシュは、 最初の数世紀のユダヤ教に幅広くあった説教と聖書解釈を代表している。
1336
 さらに難解な文節や稀で一回限りの単語を理解するために、 中世およびさらに後世のユダヤ教聖書注解者、 文法学者、古代語学者に光を求める旧約聖書学者が多い。 聖書解釈上の議論にあたって、今日このユダヤ教学者の著作に言及することが以前よりも額繁である。
1337
 その古代における起源からわたしたちの時代まで聖書のために貢献したユダヤ教の博識の宝庫は、 旧新両約聖書の解釈のために価値としては第一級の助けとなるが、 それにはよく自覚してこれを利用するという条件がある。 古代のユダヤ教は、大いに異なる分派からなっていた。 ファリサイ派形態のユダヤ教は、のちにラビ集団の中で優勢になるが、 これだけではなかった。 古代のユダヤ教文書の本文は、 数世紀 にわたって順次作成されたものである。 その比較研究を行う前に、 それらを年代的に位置づけることが重要である。 とくにユダヤ教共同体 とキリスト教共同体は総じてこれを枠づけしているものを見れば、 基本的に異なる。 ユダヤ教側には、その多様な形態にしたがってではあるが、 啓示された書と口伝によりひとつの民族と生活上の実践を決定する宗教があるのに対して、 キリスト教側では、 ひとつの共同体を集めるのは、 死んで復活し、 今も生きているメシアであり、 神の子である主イエスへの信仰にほかならない。 この二つの出発点が、 聖書の解釈にとっても、 2つの文脈を創り出しており、 数多くの接触点と類似点があるにもかかわらず、 この2つは根本的に異なる。
3.聖書本文の影響史によって近づく道(Wirkungsgeschichte)

1338
 この道は2つの原理の上に立つ。 a)ある本文は、この本文を消化して自分のものとし、 これに命を与える読者たちに出会わなければ、文学作品にはならないということ。 b)個人的に、または共同体的に行われ、また(文学、芸術、神学、修徳と神秘の) あい異なる分野でそれぞれその形態を取ることができるこの本文の消化は本文そのものを いっそうよく理解させるよう貢献するものだということ。
1339
 古代から知られていなかったわけではないが、この道は文学研究においては、 本文と読者の関係に批判研究の関心が寄せられた1960年から1970年にかけて発展を見た。 聖書学がこの研究の成果を取り込んだが、それは哲学の解釈学がその解釈学の側から作品とその著者の間、 また作品とその読者の間にも必然的に距離があることを強調していたただけに取り込まざるを得なかった。 この展望のもとに、聖書解釈の作業の中に聖書の一書ないし一節が呼び起こした効果の歴史 (Wirkungsgeschichte、影響史)を含めることが始められた。 その読者による関心が機能して時 の経過の中で解釈がいかなる発展をしたかを測り、聖書本文の意味を解明するために伝承がどれほど 重要な役割を果たしたかを評価する努力がなされた。
1340
 本文とその読者が対面することにより、ある動きが起こる。 本文は影響を及ぼし、 反応を呼び起こすからである。 それは呼びかけを響き渡らせ、読者たちはこの呼びかけを個人的に、あるいは集団として聞くことになる。 そこで読者は孤立した主体であることはけっしてない。 読者はある社会空間に属し、ひとつの伝承の中に位置することになる。 読者は問題意識をもって本文に近づき、選択を行い、ある解釈を提案し、 最後にはもう一つの作品を創作したり、聖書を自ら読むことによって直接に発想を得て、 率先してある活動に取り組むこともあり得る。
1341
 このように近づく道の例はすでに数多くある。 雅歌がいかに読まれてきたかの歴史はその優れた証しである。 それはこの書物が教会教父の時代に、西欧中世のラテンの修道世界の中で、 あるいはまた十字架の聖ヨハネのような神秘家によっていかに受容されたか示している。 このように、それはこの著作がもつ意味のすべての次元をより良く見出すようにしてくれる。 同様に新約聖書においても、ある一章節(たとえば、マタイ19:16−26の富める青年の一章節) が教会の歴史の過程でもたらした豊かな実りを示しながら、その一章節の意味を明らかにすることが可能であり、また有益である。
1342
 しかしながら、歴史の証言によって、偏っていて間違った解釈の流れがあり、 たとえば反セム主義やそのほかの民族差別、ないしはまた千年王国主義の幻想に追いやり、 不幸な結果を招くことがあることも否めない。 このことにより、この道が独立した研究分野ではあり得ないことがわかる。 識別が必要である。 聖書本文の影響史のある一時期を特別視し、これを聖書解釈の唯一の規範 とするようなことがないように注意しなければならない。

D.人文科学を用いて近づく道
1343
 神の言葉は、その伝達のために人間集団が生きている中にその根を下ろし(シラ24:12参照)、 聖書の諸著作を作成したさまざまな人間の心理的諸条件をとおして道を切り開いた。 そのことから言えるのは、人文科学  − とくに社会学と人類学、心理学 −  は、 聖書本文の幾つかの側面をより良く理解するために貢献できるということである。 しかしながら、この科学それぞれの本性について、顕著な幾つかの相異点と共に 複数の学派があることを指摘しておかなければならない。 このことを前提として、この類の研究成果を最近活用する学者がかなり数多くいる。

1.社会学的に近づく道(The Sociological Approach)

1344
 宗教文書は、これが産み出された社会と相関関係によって結ばれている。 このことは明らかに聖書本文についても言える。 したがって、聖書の批判的研究は聖書の諸伝承が形成されたさまざまな環境を特徴づけた社会的条件を、 できるだけ正確に認識する必要がある。 この種の社会史的情報は、 人間存在の社会的条件の意味をそのそれぞれの場合において学問的に解釈する、正確な社会学的説明によって補完されなければならない。
1345
 聖書学の歴史において、社会学的視点はすでに長期にわたって位置を占めてきた。 「様式史的研究」が聖書本文の起源にあった社会環境(「生活の座」)に寄せた関心はその証拠である。 聖書の諸伝承がこの諸伝承を伝えた社会・文化的環境の刻印をとどめていることが認められる。 20世紀はじめの30年ほど、シカゴ学派は初期キリスト教の社会史的実情を研究し、 この方向で評価すべき刺激を歴史批判学に与えた。 ここ20年来(1970−1990)、聖書本文に社会学的に近づく道は聖書学にとって不可欠の部分となった。
1346
 旧約聖書研究にとってこの分野で提起される問題は多い。 たとえば、イスラエルがその歴史の過程で体験した様々な形態の社会組織とはいかなるものであったのかが問われなければならない。 その国家形成以前の時代にとって、首長なく分立した社会の民族学的模型が満足のいく出発点の基礎になるのだろうか。 あまり団結力のなかった部族同盟から君主制として組織化された国家へと、またそこから単に宗教的かつ血族的絆に基づく共同体へと、 いかに移行していったのか。 君主制に導いた政治的かつ宗教的中央集権の動きによってその社会構造の中には、 いかなる経済的、軍事的、またその他の変容が呼び起こされたのであろうか。 古代オリエントとイスラエルにおける行動規範を研究することによって、
十戒の原初的本文を復元するただ文学批判的試論よりもいっそう効果的にその十戒の理解が得られるのではないだろうか。
1347
 新約聖書研究にとって、問題は明らかに異なる。 その幾つかを引用する。 その復活以前にイエスとその弟子たちが取った生活形態を説明するために、 定住する住居もなく、家族もなく、 財産もなく生きるカリスマ的巡回説教者の運動という学説にはいかなる価値を認めることができるのであろうか。 自分に従うようにとのイエスの召命に基づく継続の関係は、 イエスが取った徹底的自己放棄の態度と復活後キリスト教運動の態度の間で、 初期キリスト教のきわめて相異する各地の状況の中で保たれたのであろうか。 パウロが築いた各地の教会の社会的構造については、 それぞれの場合にそれぞれに応じた都市文化を考慮しながら、 わたしたちは何を知っているのであろうか。
1348
 概して、社会学的に近づく道は聖書の研究作業に開拓すべき分野を広げ、多くの積極的な側面をもっている。 聖書の世界にあった経済的、文化的、宗教的機能を理解させてくれるために役に立つ社会学的諸事情を知っておくことは、 歴史批判学にとって欠かせない。 聖書学者は使徒時代の教会が何を信仰していたか、 その信仰の証言をよく理解するという任務に取り組まなければならないが、 この任務は、 新約聖書本文と原始教会が「生きた」社会との密接な関係を研究する学問的追求なしには厳密に遂行することはできない。 社会学が差し出す数々の模型を利用することは、聖書時代の歴史研究者に注目すべき刷新の潜在能力を確約するが、 その模型は研究の対象である現実に応じたものに変えなければならないことは当然である。
1349
 ここで社会学的に近づく道には、聖書研究にもたらす幾つかの危険があることを指摘しておかなければならない。 実際に、社会学研究は現に生きている社会の探求にあるので、
 その研究方法を遠い過去の歴史状況に応用しようとするときに問題があることを予想する必要がある。 聖書および聖書外文書は、その時代の社会について総合的展望を与えるものとしては必ずしも十分な文書資料となるものではない。 さらに、社会学的研究法には人間存在の個人的、宗教的次元よりも、むしろその経済的、制度的側面に注目する傾向がある。

2.文化人類学的に近づく道(The Approach through Cultural Anthropology)

1350
 文化人類学の研究を活用して聖書本文に近づく道は、社会学的に近づく道と密接な関係にある。 この2つの道の相異は、同時に感覚の位相(niveaux、レベル)と、研究方法の位相と、注目する対象の側面の位相にある。 社会学的に近づく道は  − これまで見てきたとおり −  とくに経済的および制度的側面を研究するのに対して、 人類学的に近づく道が関心を寄せるのは、言語、芸術、宗教のみならず 衣服、装飾、祝祭、舞踏、神話、伝説および民族学に関わるあらゆるものの中に映し出されている他の諸側面の広い全体である。
1351
 一般的に、文化人類学は、あい異なる型の人間  − たとえば地中海的人間 −  の特徴を、その社会環境において、これが意味するものすべてと共に見定めようと努め、田舎または都市の状況を研究し、 社会によって認められている諸価値(名誉と不名誉、秘密、信頼性、伝統、教育と学校の種類)や社会的規制の行われかた、 家族とか家柄、親族、女性の地位について人がもつ観念、制度的対称項目(主人と顧客、所有者と借り手、 恩人とその受益者、自由人と奴隷)に注意を払い、聖と俗、タブー、通過儀礼、魔術、資源、権力源、情報源なども忘れない。
1352
 これらさまざまな要素に基づき、多数の文化に共通する類型と「模型」を立てる。 この種の研究が聖書本文の解釈にとって有益であることは明らかであり、イスラエル社会における女性の位置とか、 農耕祭の影響など、旧約聖書中の同類の観念の研究のために効果的に利用されている。 たとえば譬え話のようなイエスの教えに関連のある聖書本文においては、 多くの詳細がこの道によって解明することができる。 神の国の観念とか、救いの歴史における時間の捉えかたとか、 原初的諸教会が統合に向かった過程とか、基本的な観念についても同じことが言える。 この道は、人間の本性の中にその基礎がある聖書のメッセージの恒常的要素と特殊な文化に負うところのたまたま定まった要素を、 より良く区別してくれる。 しかしながら、ほかにある幾つかの道と同様、この道はそれ自体では啓示がもたらす独特な内容を考慮するには及ばない。 この道の結論とするものを評価するときには、このことを自覚することが肝要である。

3.心理学的に、精神分析的に近づく道(Psychological and Psychoanalytical Approaches)

1353
 心理学と神学は相互に対話を止めることはけっしてなかった。 現代心理学は無意識の世界の動的構造の研究にまで広がり、 古代文書の解釈の新しい試みを起こすこととなったが、それは聖書の場合にも言える。 その全体が聖書本文の精神分析的解釈を扱った著作がある。 続いて激しい議論が起こっている。 どこまで、またいかなる条件のもとで心理学および精神分析学は聖書の理解をいっそう深めるために貢献できるのかと。
1354
 心理学および精神分析学は聖書研究をある意味で豊かにしてくれた。 そのおかげで、聖書本文は生活体験と行動規範としていっそう良く理解されることができるからである。 よく知られているように、宗教は常に無意識の世界との討論の状態にある。 それは広範囲にわたり人間の欲動の正しい方向性に与るものである。 歴史批判学が方法論的に通ってきた各段階は、本文中に表現されるさまざまな位相の実態の研究によって補完される必要がある。 心理学と精神分析はこの方向にあって前進しようと努める。 これは聖書の多次元的理解に道を開き、啓示に用いられた人間言語の暗号を解くのを助ける。
1355
 心理学と、また別の仕様で心理分析は、とくに象徴(シンボル)の新しい理解をもたらした。 象徴的言語は、純粋に概念的な思考では近づけないが、真理を問題とするときに価値のある宗教体験を表現できるようにする。 それゆえ、聖書学者と心理学者または精神分析学者が共同で進める学際研究は、ある確かな利益をもたらしており、 それは客観的に裏付けられ、司牧の分野で確かめられている。
1356
 聖書学者と心理学者の共同作業が必要であることを示す事例は数多く掲げることができる。 宗教儀礼やいけにえ、禁忌の意味を明らかにするため、また聖書の表象言語(langage image)、奇跡物語の比喩的意味、黙示的幻視と幻聴の劇的効力を説明するための共同作業が必要である。 ここで問題になっているのは、聖書の象徴言語がいかなるものであるかを単に述べるだけでなく、 神の神秘的現実(la realité "numineuse")と人間との接触が行われる啓示と呼びかけとしてその機能を把握することである。
1357
 聖書のより良い理解を目指しての聖書学者と心理学者ないし精神分析学者の対話は、 批判的でなければならず、それぞれの分野の境界線を尊重しなければならないことは明白である。 いかなる場合でも、心理学ないし精神分析が無神論であるなら、信仰の事項を考慮するには無能の状態にあると言えよう。 人間の責任が及ぶ範囲を正確に見定めるのに有益な心理学と精神分析であるが、罪の実態と救いの実態を排除するものであってはならない。
 他方、自然発生的な宗教性と聖書の啓示を混同することや、聖書のメッセージにある歴史としての性格 を損なうことには注意しなければならない。 聖書はそのメッセージに、唯一の出来事の価値を保証するものにほかならない。
1358
 さらにまた、「精神分析的聖書解釈」をただこれしかないかのように語ることはできないことを指摘しておこう。 実際に、心理学のいろいろな領域やいろいろな学派から由来するもので、許容しうる知識がたくさんあって、 聖書の人間的かつ神学的解釈にとって有益な光を与えてくれている。 数ある学派のどれか一つの立場を絶対視することは、 共同作業の豊かな生産性にとって利するものではなく、むしろ損なうものになりかねない。
1359
 人文科学は社会学、文化人類学、心理学に限られるものではない。 他の諸科学も、聖書解釈にとってそれぞれ役に立ち得る。 このすべての分野においては、そのそれぞれ専門領域を尊重し、 同一人物が聖書学と人文科学系の一学問領域に同時に通じた専門家であることはあまりないことを認めなければならない。

E.社会的文脈から近づく道(Contextual Approach)
1360
 ある本文の解釈は、常に読者がもつ物の考えかたと気がかりとに依存する。 読者はある側面に特別な関心を寄せると、意識することもなく、ほかの側面をなおざりにする。 したがって、避けられないのは、聖書学者がその研究作業において、現にある同時代人の考えに呼応して、 これまで十分な位置が得られなかった新しい視点を取るということである。 読者はそのことを批判的識別眼をもって考えておくことが大切である。 現在、解放の神学と女性解放という2つの運動が特別な関心の的となっている。

1.解放の神学から近づく道(The Liberationist Approach)

1361
 解放の神学は複雑な現象であって、これを不相応に単純化してはならない。 神学の運動としては、それは70年代の始めに確立された。 その出発点は、ラテン・アメリカ諸国の経済的、社会的、政治的現状に加えて、教会の2つの出来事がある。 それは現代世界の要請に答えて教会の司牧活動を刷新し、志向させる意志表示をした第2ヴァティカン公会議と、 この公会議の教説をラテン・アメリカの要請に適用した、1968年のメデジンにおける第2回ラテン・アメリカ司教総会である。 この運動は世界のほかの部分(アフリカ、アジア、合衆国の黒人集団)にも普及することとなった。
1362
 解放の神学は一つだけあるのかどうかを見分け、その方法論を見定めることは容易ではない。 いずれにせよ、その聖書の読み方を十分に見極め、その利点と限界を指摘することは容易ではない。 それは特別な方法論を採用するものではないと言えよう。 しかし、それは独特な社会文化的で政治的な視点から出発して、 聖書の中に自分の信仰と人生の糧を求める住民の必要性に答える機能を果たすように志向性をもった聖書の読み方を実践する。
1363
 聖書本文がその起源の文脈にあって何を言うのかを関心の中心として、 客観的に説明しようとする解釈に満足する代わりに、ここでは住民が生きている現状から生まれる読み方が追求される。 この住民が圧迫の状況のもとに生きているなら、聖書に向かうのは、 自分たちの戦いと希望の中で圧迫に耐えることができる糧をそこに求めるためでなければならない。 現にある実態は無視されてなならず、むしろその反対に、神の言葉の光のもとに明らかにするためにあい対面させなければならない。 この光のもとから、正義と愛による社会の変容に向かっての正統なキリスト教的実践が産み出されるはずである。 信仰の中で、聖書は全面的解放の原動力を発揮するものに変容する。
1364
 その原理は以下のとおりである。
 神はご自分の民の歴史の中に、その民を救うために現存しておられる。 それは貧しい人々の神であり、圧迫にも不正にも耐えることがおできにならない。
 それゆえ聖書解釈は中立ではありえず、神に従って貧しい人々の側の立場を取り、 被圧迫者の解放のための戦いに関わらなければならない。
 この戦いに参加することにより、 聖書本文が被圧迫者との効果的な連帯の文脈の中で読まれるときにのみ見出されるその意味が顕わにされるようになる。
1365
 被圧迫者の解放は集団として実現される過程であるから、貧しい人々の共同体こそ解放の言葉としての聖書を 受け取るものとしては最良の宛先である。 さらに、聖書本文が共同体のために書かれたものであるなら、聖書が読まれるようにまず委託されているのも、共同体にほかならない。 神の言葉はまったく現実のものであるが、それはとくに「基礎的出来事」(エジプトからの脱出、イエスの受難と復活)がもつ、 歴史の過程で新しいことを実現する潜在能力による。
1366
 解放の神学は、価値ある諸要素を含んでいて、その価値は疑うことができない。 救いの神が現存しているという深い感覚、信仰の共同体的次元を強調していること、 正義と愛に根ざした解放の実践の緊急性、その戦いと希望の最中で神の言葉を神の民の光とし、 糧としようとする聖書の読書法がそれである。 このように聖霊の息吹きを受けた本文が現在もつ意義が十分に強調されてきた。
1367
 しかし、このような聖書の読書法には危険が伴う。 これは現に進行中の一つの運動に結びついているので、以下で指摘することは、暫定的のものでしかない。
 この聖書読書法が関心の中心とするのは、圧迫の状態を解明し、社会変革に向かう実践を示唆する語りと預言的本文である。 ここかしこで、それは偏っているかもしれず、聖書のほかの本文にはそれほど注意を傾けない。 聖書解釈は中立でありえないということは確かであるが、一面的であることに警戒しなければならない。 さらに、社会的で政治的な参画は聖書学者が直接関わる責務ではない。
1368
 聖書のメッセージを社会政治的文脈に挟み込もうと望んで、ある一部の神学者と聖書学者は社会の実態を分析する 手段を借りてくるように導かれた。 この展望の中で、ある流派の解放の神学は、唯物論に発想を得た分析を行ってきた。 彼らが聖書を読んだのもこの枠の中であったが、ここには、とくにマルクス主義の階級闘争原理に関するところで、 問題が起こらないわけがなかった。
 厖大な社会問題が切迫する中で、 むしろ地上的終末観に強調点が置かれてきたが、ときには聖書の超越的終末観の次元では損壊があった。
1369
 社会的政治的変化により、この道は新たな諸問題と取り組み、新しい方向を求めるように仕向けられた。 これがさらに発展し、教会の中で豊かな実を結ばせるめに、決定的な要因は、その解釈学的前提事項とその方法、 それと教会全体の信仰と伝承との結びつきをいっそう明確にすることであろう。

2.女性解放運動から近づく道(The Feminist Approach)

1370
 女性解放的聖書解釈は19世紀の終わりに合衆国において、 女性の権利のための闘争という社会的文化的文脈の中、 聖書改訂委員会と共に誕生した。 この委員会は、「女性の聖書」(The Women's Bible) 2巻本(1885年、1898年)を作成した。 この流れは、1970年代以降新しく力を得て登場し、 莫大な発展を見たが、これには特に北米における女性解放運動との関わりがある。 厳密に言えば、女性解放的聖書解釈にはいろいろなものがあり、これを区別する必要がある。 それは大いに異なる利用法があるからである。 その統一性がどこから来るのか言えば、それは女性という共通の主題であり、それが追求する目標、 つまり女性の解放と、男性と平等の権利獲得という目標からである。
1371
 ここで主として3つの形態の女性解放的聖書解釈があることを述べておく。 つまり過激な形態と新正統主義的形態と批判的形態である。
 その過激な形態では権威あるものとしては聖書は全面否定される。 聖書は男性による女性支配(男性中心主義)のために、男性によって作成されたという。
1372
 新正統主義的形態では、弱者のため、それゆえ女性のための立場を取る限り、聖書は預言的なもの、 容認して役立てることができるものとして受け容れられている。 この志向性が、女性とその権利の解放に利するすべてのものを明らかにするためにの「正典中の正典」として受けとめられている。
1373
 批判的形態では、わかりにくい方法論を用い、イエスの運動とパウロの諸教会の中に女性キリスト教徒の位置と役割を見出そうと努める。 当時、人々が取ったと思われるのは、男女平等主義である。 しかし、この実状は、家父長主義と男性中心主義が徐々に優勢になって、 新約聖書の書物の中で、さらにそれに続いて、その大きい部分において覆い隠されてきたようである。
1374
 女性解放的聖書解釈は新しい研究方法を編み出したわけではない。 それは現にある聖書研究法、とくに歴史批判学的方法を用いる。 しかし、それは研究上の2つの判断基準をつけ加える。
 その第1は、女性解放の原理である。 これは解放の神学という一般的な運動の線上にあって、 女性解放運動からその発想を得ている。それは懐疑の解釈法を用いる。 つまり、歴史は通常、勝利者の側から書かれており、真理をえぐり出すためには聖書本文に信頼するのではなく、 そこに何かほかのことが露わにされているのではないかと、その指標を追求しなければならない。
1375
 その第2は、社会学の原理である。 これは聖書時代の社会について、その社会階層とそこで女性が占めていた位置についての研究を基礎としている。
1376
 新約聖書の書物に関しては、その研究目標は、最終的に新約聖書に表現されているところにしたがって、 女性とは何かにあるのではなく、西暦1世紀に女性が置かれていた2つの異なる状況の歴史的復元にある。 つまり、ユダヤおよびギリシア・ローマ社会の中で慣習化されていたその状況と、 イエスの運動とパウロの諸教会の中で開設された革新的なその状況である。 ここでは、「すべての人が平等な、イエスの弟子たちの共同体」が形成されていたにちがいない。 この展望を裏づける根拠として援用される本文のひとつは、パウロによるガラテヤの信徒への手紙第3章28節である。 その目指すところは、その原初の教会の中で女性が果たしていた役割についての忘れられていた歴史を現代に再発見させることにある。
1377
 女性解放運動の聖書解釈によってもたらされる肯定すべき貢献は数多くある。 こうして女性が聖書研究に積極的な役割を果たすようになった。 女性たちは、聖書における、またキリスト教初期の歴史と教会における女性の現存とその意義、その役割を洞察するのに、 しばしば男性に勝る成功をおさめた。 女性の尊厳および社会と教会におけるその役割にいっそう大きな注意を向けることにより、 現代の文化的地平線は、聖書本文に新しい設問を出し、新しい発見の機会を与えるようにした。 偏見に満ち、男性による女性支配を正当化しようと目論む、現にある幾つかの解釈を女性の感覚は暴き、正すことになった。
1378
 旧約聖書に関しては、神のイメージについて、より優れた理解が得られるように多くの研究がなされた。 聖書の神は家長的思考の反映ではない。 それは父であるが、母性的心情と愛の神でもある。
1379
 女性解放運動の聖書解釈はある立場に基づいている限り、偏見をもって聖書を解釈する危険にさらされており、 したがって議論の余地を残す。 それは自分の命題を実証するために、しばしば、より良い論拠がないこともあって、 沈黙の論拠(des arguments ex silentio、訳者註:言われていないことを想像して論拠とすること)に依存せざるを得ない。 沈黙の論拠が一般に警戒すべきものであることは、周知のとおりである。 これは結論を根拠にもとづいて立証するために十分なものでは、 けっしてあり得ない。 他方、聖書本文の中にほのめかされている手がかりを見分けることによって、 この本文そのものが隠そうとしていると考えられる歴史的状況を復元するためになされる試みは、 本来の意味での聖書研究としては、もはや適してはいない。 仮定としての異なる復元図を優先しようとして、 聖霊の息吹を受けた聖書本文の内容を拒否することにつながるからである。
1380
 女性解放運動の聖書解釈はしばしば教会における権威の問題を取り上げる。 これが論議の的となり、 対決の的にすらなっていることは、よく知られている。 この分野においては、女性解放運動の聖書解釈は、 自ら否定する罠に落ちることなく、また奉仕としての権威を説く福音の教えを見失わないのでなければ、 教会にとって役に立つものではあり得ない。 この教えは、イエスが男性にも女性にも、 そのすべての弟子たちに向かって与えられたものにほかならない2。
 [原文脚注2:この最後の項目は投票総数19票中賛成11票であった。 反対は4票、棄権は4票であった。 反対投票した者は、投票結果が本文と共に公表されることを要求した。 委員会はこれを了承した。]

F.ファンダメンタリズムによる解釈
1381
 ファンダメンタリズムによる解釈が出発点とするのは、霊感を受けた神の言葉であって無謬である聖書が そのすべての細部において字義どおりに読まれ、解釈されなければならないという原理である。 しかし、この「字義どおりの解釈」によって意味するのは、初歩的な字義主義的解釈、 つまり聖書をその拡大と発展を考慮して理解しよとする努力をすべて排除する解釈である。 したがって、それは聖書を解釈するためには歴史批判学的研究法も、またほかのすべての学問的研究法も利用することに反対する。
1382
 ファンダメンタリズムによる聖書読書法は、宗教改革の時代に、 聖書の字義的意味に忠実であろうとする心遣いの中にその起源をもつ。 啓蒙時代以降では、プロテスタント教会において自由主義的聖書研究に対する防壁として現れた。 「ファンタメンタリズム」という用語は、 1895年ニューヨーク州のナイアガラで開催されたアメリカ聖書会議と直接に関連している。 保守的プロテスタント聖書研究者はそこで「ファンダメンタリズムの5つの要点」を決議した。 つまり聖書の逐語的無謬性、キリストの神性、処女からのその誕生、代替贖罪苦の教え、 キリスト再臨時における肉体の復活である。ファンダメンタリズムによる聖書解釈が世界のほかの諸地域にも広がるにつれ、 ヨーロッパやアジア、アフリカ、南アメリカで、同じ「字義主義的」であるとは言え、 ほかの種類の聖書解釈法を産み出した。この類の聖書解釈法は、 20世紀後半に幾つかの宗教的集団やセクトの中で、 またカトリック信徒の間でも賛同者を得、ますます増えている。
1383
 たとえファンダメンタリズムが神による聖書の霊感性と神の言葉の無謬性、 5つの基本的要点に含まれているほかの聖書的諸真理を強調することには根拠があっても、 これらの真理の提示の仕方は、 その代表的学者が何を言おうと、 聖書的ではない観念の中にその根をもっている。 それはある厳格な教義的立場への断固とした同意を要求し、 キリスト教的生活と救いに関する教えの唯一の源泉として、 いかなる質問も、 いかなる批判的研究も拒否する聖書解釈を押しつけるからである。
1384
 このファンダメンタリズムによる聖書解釈法の基礎にある問題は、 聖書の啓示の歴史としての性格を考慮するのを拒み、 その解釈法が受肉そのものの真理を余すところなく受けとめるには、 自らを無能なものにしていることにある。 ファンダメンタリズムは、 神との関連に関して神的なものと人間的なものとの緊密な関係を見逃す。 それは、霊感を受けた神の言葉が人間の言語で表現されたこと、 またそれが神の霊感のもとで、 能力的にも資料的にも限界のある人間であった著者たちによって編集されたことを、 認めるのを拒む。 この理由のため、 それは聖書本文が聖霊によって一語一語書き取らせられたものであるかのように扱う傾向を示し、 神の言葉が具体的な、 ある時代の制約を受けた言語や熟語で表現されたことを認めるには至らない。 それは、 その多くが時間的に長期にわたって続けられ、 かなり異なる数々の歴史的状況の跡をとどめる作業の実りである聖書本文の中には数々の文学様式や人間の思考法があるが、 これらにはいかなる注意も払わない。
1385
 ファンダメンタリズムは、 とくに歴史的事実やいわゆる科学的真理と言われるものに関して、 聖書本文の中に事細かに書かれていることまでその無謬性を、 また不当なまでに強調する。 それはしばしば、 その歴史性を主張するようなものでないことでも、 歴史と見なす。 なぜならそれは過去動詞で伝えられ、 語られたことはすべて、 象徴的ないし表象的意味の可能性に対して払うべき注意を払うこともなく、 歴史的な出来事として考えるからである。
1386
 ファンダメンタリズムは、 聖書本文がそのヘブライ語またはアラマイ語、 ギリシア語の表現では問題をもっているとき、 その問題を無視すか、 拒否する傾向をしばしば示す。
 それは古代訳にしても現代訳にしても、 ある特定の翻訳聖書に密に結びつく。 それはまた、聖書そのものの内部における幾つかの文節の 「再読」 (relecture、読み直し) を考えることも同様に省く。
1387
 福音書に関しては、ファンダメンタリズムは福音伝承の成長を考慮せず、 この伝承の最終段階(福音記者が書にしたためたもの)とその始めの段階(歴史人物としてのイエスの行動と言葉)を無邪気に混同する。 同時にそれは重要なことを疎かにする。 つまり、ナザレのイエスとその彼のメッセージが創り出した迫力を、初期のキリスト教共同体自体がいかに理解したかを疎かにする。 まさにそこにあるのが、キリスト教信仰の使徒的起源の証しであり、その直接的表現である。 このようにファンダメンタリズムは福音そのものが発する呼びかけを骨抜きにしてしまう。
1388
 ファンダメンタリズムには、また同様に大いに狭い視野をもつ傾向がある。 なぜならそれは聖書に書かれているからと言って、時代おくれの古代宇宙論を、現実と相容れないものではないと考えるからである。 これは文化と信仰の間で、より開かれた関係を考えて対話を進めるのに妨げとなる。 それは、ある幾つかの聖書本文の非批判的解釈に基づいて、たとえば人種差別のような、 キリスト教の福音にまさに正反対の、偏見に満ちた政治的思想や社会的姿勢を確認しようとする。
1389
 最後に、「聖書のみ」の原理に執着して、ファンダメンタリズムは聖書の解釈を聖霊によって導かれた伝承、 つまり信仰共同体に中で聖書との絆を保ちながら正真正銘のものとして発展する伝承から切断する。 新約聖書がキリスト教徒の教会の中で形成されたものであり、この教会の聖書であって、 この教会の存在がその聖書本文作成に先立つものであるとの自覚に欠けている。 この事実により、ファンダメンタリズムはしばしば反教会的である。 それは、伝承の一部となった信仰宣言や諸教義、典礼の実践事項を、教会そのものの教えるという機能もともども疎かにしてもよいと考える。 それは、教会が聖書を基礎として聖書の中からその命と発想を汲むものであることを認めない個人的解釈の一形態としての姿をもつ。
1390
 ファンダメンタリズムによって近づく道は、人生の諸問題に関する聖書の答えを求める人々にとって魅力的であるから、危険である。 それは、聖書がその一つ一つの問題に即答を必ずしももつものではないと言う代わりに、 信心深いが、ごまかしの解釈を示して、彼らを欺くこともあり得る。 ファンダメンタリズムは言わずとも、思考をある種の自殺に招く。 それは、無意識の中に聖書のメッセージの人間的限界を、このメッセージの神的本質と混同するので、人生の中に偽りの確信を与える。


第2部 解釈学の諸問題

 A.現代哲学の解釈学
1391
 聖書解釈の歩みは、認識において、とりわけ歴史の認識において主観が関与するものを明らかにした 現代哲学の解釈学を考慮して再考するよう呼びかけられた。 解釈学的考察が新しい発展を始めたのは、フリードリッヒ・シュライエルマッハー(Friedrich Schleiermacher)、 ウィルヘルム・ディルタイ(Wilhelm Dilthey)、 それにとくにマルティン・ハイデッガーの著作の出版をもってであった。 この哲学者たちのあとを追いながらも、またそれから離れて、さまざまな著者たちは現代解釈学の理論とその聖書への適用を深めた。 彼らの中で、われわれは特にルドルフ・ブルトマン、ハンス・ゲオルグ・ガダマー(Hans Georg Gadamer)、 ポール・リクール(Paul Ric?ur)を取り上げることとする。 ここでは彼らの思想の全貌を取り上げることはできない。 ただ彼らの哲学の中心的な考えで、聖書本文の解釈に影響のあるものを指摘するだけで事は足りるであろう。
 [原文脚注3:ゲルハルト・エーベリング(Gerhard Ebeling)とエルンスト・フックス(Ernst Fuchs)が押し進めた神の言葉の解釈学は、 ほかの道から出発し、ほかの分野の思想に属する。 それは解釈学の哲学というより、解釈学の神学を扱う。 しかしながら、エルンスト・フックスは、神の言葉がその宛先の人々と結ばれてでなければ十分にその意味を持たないと主張することにより、 ブルトマンやリクールのような著者たちと同じように考えている]。

1.現代の展望

1392
 第1世紀と第20世紀の世界の間には文化的に距離があることを意識し、 聖書の扱う現実が現代の人間に語りかけるようにしようとの心遣いをもち、 ブルトマンはあらゆる理解に必ずある先行理解を強調し、新約聖書の実存的解釈の理論を構築した。 ハイデッガーの思想に準拠しながら、理解を導く前提事項がなければ、聖書本文の解釈も不可能であると主張した。 先行理解("Vorverständnis")は、聖書本文が語る事物に対してその解釈者がもつ命の関わり ("Lebensverhältnis")に基づいている。 しかし、主観主義を避けるために、 先行理解は聖書本文が語りかけるものによって深められ、豊かにされ、また変更され、訂正されることも必要である。
1393
 何を出発点とすれば聖書本文は今日の人間に理解されるようになるのか。 この疑問を明確にしてくれるであろう的確な理法(conceptualité)を求めて、 ブルトマンはハイデッガーの実存分析の中に回答を見出したと言明する。 ハイデッガーの実存主義理論は普遍的な意味をもつものであろうし、 新約聖書のメッセージの中に啓示された人間実存を理解するためにも最も適合した構造と概念を提供してくれるものと思われる。
1394
 カダマーも同様に本文とその解釈者の間には歴史的な距離があることを強調する。 彼は解釈学的循環の理論を取り上げ、発展させる。 わたしたちの理解を決めている先取りと先行理解は、わたしたちが担っている伝承から来る。 この伝承は歴史的文化的諸条件の総合でもって成り立っており、これがわたしたちの命の文脈、 わたしたちの理解の地平(horizon)を構成している。 解釈する者は、本文の中で問題となっている現実との対話に踏み込まなければならない。 理解は本文の地平とその読者の地平という、この異なる地平が融合("Horizontverschmelzung")する中で行われる。 その理解は、帰属 ("Zugehörigkeit")ということがなければ、 つまり解釈する者とその対象との間に基本的な親近性がなければ、可能ではない。 解釈は弁証法的過程である。 つまり、ある本文を理解するということは、いつも自分自身をいっそう広く理解するということである。
1395
 リクールの解釈学の思想については、 まず留意しなければならないのは、 本文を正しく自分のものとするために必要な前提条件として距離があること(distanciation)の機能を明らかにしたことである。 第1の距離は、本文とその著者の間にある。 本文は一旦作成されると、その著者に対して、ある自立を始める。 こうして、それは意味の経歴を始める。 もう一つの距離は、本文とその後つぎつぎと続くその読者の間にある。 読者は本文の世界を、その自分の世界との他者性(altérité)において尊重しなければならない。 それゆえ、文学批判および歴史批判の研究方法は解釈のために必要である。 しかしながら、本文の意味は、本文を自分のものとした読者が生かされる中で現在化されるのでなければ、十分には与えられることができない。 その彼らの状況の中から、本文が示す基本的意味の線上にありながら、 新しい意味を浮かび上がらせるように、彼らは招かれている。 聖書を知るということは、言語に留まっていてはならない。 それはその本文が語る現実に到達するよう求める。 聖書の言語は、「考えさせる」象徴言語であって、その豊かな意味を絶えず見出させる言語であり、超越的現実を目指すと同時に、 人間をその存在が深い次元にまで及んでいることに目覚めさせる言語である。

2.解釈する場合の有用性

1396
 聖書本文の解釈を扱うこの幾つかの現代の理論について何を言わなければならないのか。 聖書はつぎつぎと続くすべての時代のための神の言葉である。 したがって、文学批判、歴史批判の研究方法を、 より大きい解釈の模型の中に組み入れることを可能にする解釈学の理論を無視することはできない。 問題は、聖書本文の著者とその最初の宛先人の時代とわたしたちの現代という時代の距離をいかに克服し、 キリスト教徒の信仰生活を養い育てるために、いかに聖書本文のメッセージを正しく現在化すればよいのかにある。 すべての聖書解釈は、現代の意味での「解釈学」によって補完されるよう呼びかけられている。
1397
 解釈学、つまりわたしたちの世界の今日における解釈の必要性は、 聖書そのものの中に、またその解釈の歴史の中に基礎をもっている。 旧約と新約にある書物の総体は、基礎となった出来事を長い時間をかけて繰り返した解釈が、 信仰共同体の命とのつながりを保ちながら、産み出したものとしての姿をもつ。 教会の伝承の中では、聖書の最初の解釈者たち、教会教父たちの考えるところでは、聖書解釈は彼らの時代の中で、 その彼らの状況の中にいるキリスト教徒にとっての意味を明らかにするのでなければなされなかった。 聖書本文の文章表現の中に、聖書本文が表現する信仰の現実を再発見しようと努め、 この現実をわたしたちの時代の信仰者としての経験に結びつけるのでなければ、聖書本文が意図するところに忠実とは言えない。
1398
 現代の解釈学は歴史実証主義に対し、また自然科学で用いられる客観性の判断基準を聖書研究 にも適用しようとする誘惑に対する健全な反応である。 他方、聖書の中で報告される出来事は解釈された出来事である。 他方、これらの出来事の叙述の解釈はすべて、必然的に解釈する者の主観性も含みもつ。 聖書本文の正しい認識は、聖書本文が語るところのものとの生きた親近性をもつのでなければ近づき得るものではない。 どの聖書解釈者にも投げかけられる問いは、つぎのとおりである。 聖書が語る深い現実を正しく把握させて、 その表現を今日の人間のために意味あるものとしてくれることができるのは、どの解釈学の理論であろうか。
1399
 事実、 ある解釈学の理論は聖書の解釈のためには不適であると認めざるを得ない。 たとえば、 ブルトマンの実存主義的解釈はキリスト教のメッセージをある特殊な哲学の枠に閉じこめてしまう。 さらに、 この解釈が至上命令とする諸前提のゆえに、 聖書の宗教的メッセージは、 その客観的現実の大部分を空洞化され (過度の 「非神話化」 の結果) 、 結局人間論的メッセージに従属するものとなる。 哲学は、 すべての解釈の中心的対象であるところのもの、 つまりイエス・キリストの人物とわたしたちの歴史の中で実現された救いの出来事を理解するための手段とはならず、 むしろ解釈の規範となる。 それゆえ、 聖書の正真正銘の解釈は、 まず幾つかの出来事の中に、 それに最高の様相のもとにイエス・キリストの人物の中に与えられた意味を受けとめることである。
1400
 この意味が聖書本文の中に表現されている。 主観主義を避けるために、 優れた現在化が聖書本文の研究に基づくものとされ、 聖書解釈の前提は絶えず聖書本文との検証に付されなければならない。
1401
 聖書解釈は、 すべての文学的歴史的文書一般の解釈と同じであるとしても、 同時にこの解釈にとって独特なケースでもある。 その特殊な性格はその対象から来る。 救いの出来事とそのイエス・キリストの人物における成就は、 全人類の歴史に意味を与える。 新しく歴史の中でなされる解釈は、 その豊かな意味の開示であり、 明示でしかありえない。 これらの出来事を伝える聖書の叙述は、 ただ理性だけでは完全には理解されない。 教会共同体における生さた信仰と聖霊の光のような、 特殊な前提事項がその解釈を左右する。 霊における命の成長と共に、 聖書の読者の中で聖書本文が語る現実の理解も成長する。

 B.聖霊の息吹を受けた聖書の意味
1402
 現代の哲学的解釈学の貢献と最近の文学研究の発展は聖書研究にその任務の理解を深めさせてくれたが、 その複雑さもいっそう顕著になった。 古代の聖書研究は、 現代の学問的要求を考慮に入れることができなかったことは明らかであるが、 すべての聖書本文に多くの段階の意味があるとした。 最も知れ渡っていたのは、 字義的意味 (sensus litteralis) と霊性的意味 (sensus spiritualis) の区別である。 西欧中世の聖書研究は霊性的意味の中に3つの異なる側面を区別したが、 それはそれぞれ啓示された真理、 取るべさ行動、最終的実現に関連するものであった。 ここからデンマークのアウグスティヌス(13世紀)の有名な2行詩がある。 "Littera gesta docet,quid credas allegoria,moralis quid agas,quid speres anagogia" :文字は出来事を、比喩は信ずべきことを、 倫理は行うべきことを、先導は希望すべきことを教える。
1403
 この意味の多重性に対する反動として、歴史批判学的聖書研究は、多かれ少なかれ公然と意味の単一性の命題を取り入れた。 この命題によると、ある一つの本文は多くの意味が同時にあることはできない。 歴史批判学的研究のすべての努力は、ある具体的な本文がその作成の諸条件の中でもつ「その」正確な意味を確定することである。
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 しかし、今ではこの命題は、書かれた本文に意味の多様性があることを肯定する言語学と哲学的解釈学の結論と衝突する。
 問題は単純ではなく、また問題はすべての様式の本文に、つまり歴史記述、比喩、託宣、法文、格言、祈り、 賛美などに同じようにあるものでもない。 しかしながら、いろいろな意見を考慮しながら、幾つかの一般原則を提示することができる。

1.字義的意味(The Literal Sense)

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 その著者たちが作成したとおりの本文の正確の意味は、「字義的」と呼ばれるが、この意味を確定しようと努めることは、 正当であるばかりか、不可欠である。 聖トマス・アクィナスはすでに、それが基本的に重要であることを言明していた (『神学大全』第1部、第1問、第10項、第1問に対して)。
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 字義的意味は、ファンダメンタリズムの信奉者たちが固く守る「逐語的」(litteraliste)意味と混同してはならない。 その字義的意味を表すために、ある本文を一語一語翻訳するだけでは足りない。 その本文は、当時の文章表現の慣習にしたがって理解しなければならない。 本文が比喩的であれば、その字義的意味は一語一語から直接に出てくるものではなく (たとえば、「腰に帯を締めよ」、ルカ12:35)、この用語の比喩的用法に対応するものである(「心構えをもて」)。 それが叙述であれば、その字義的意味はその語られる事実が実際に行われたことだという言明であるとは必ずしも言えない。 叙述は歴史記述の類型に属するものではなく、想像による作品であるかもしれないからである。
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 聖書の字義的意味は、霊感を受けた人間である著者によって直接に表現された意味である。 霊感の実りであることにより、この意味は、その主たる著者である神によって望まれたものでもある。 この字義的意味は、その本文を文章としての文脈と歴史的文脈の中に位置づけて正確に分析することによって見分けることができる。 聖書学の主要な任務は、できる限りの正確さをもって聖書本文の字義的意味を確定するために、 文学的歴史的研究のすべての可能性を用いて、まさにこの分析を進めることである(『ディイヴィノ・アフランテ』、550)。 このために、古代の文学様式の研究は、とくに必要である(同、560)。
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 ある本文の字義的意味はただ一つだけであろうか。 一般的には、そうである。しかし、それは絶対的原則ではない。 それには2つの理由がある。 一方では、人間である著者は複数の位相の現実に同時に言及しようとすることができる。 それは現に詩によくある。 聖書霊感もこの心理と人間言語の可能性を排除しない。 第4福音書には多くの実例がある。 他方では、人間の言語表現がただ一つの意味しかもつことがなくても、神の啓示はその表現が両義性をもつように導くことができる。 ヨハネ11:50にあるカヤファの言葉がその例である。 これは不正な政治的画策と同時に神の啓示を表現している。 この2つの側面がそれぞれ字義的意味に属する。 その両方とも文脈から明らかにされるからである。 これは極端な場合かもしれないが、意義深い。 霊感を受けた聖書本文の字義的意味をあまり狭く考えることには注意する必要がある。
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 多くの聖書本文にあるダイナミックな側面にとくに注意する必要がある。 たとえば、王的詩編の意味は、狭くその作成の歴史的状況に限ってはならない。 王を語りながら、詩編作者は現実の制度と同時に、神の計画に沿った王制の理想的展望にも思いを寄せ、 その本文は歴史の中で現れていたような現実の王制を超えるようなものであった。 歴史批判学的聖書研究には、聖書本文の意味を正確な歴史的状況に排他的に関連づけて、その意味を限定する傾向が、あまりにもしばしばある。 それがむしろ努めなければならないのは、聖書本文によって表現されている考えが向かう方向を明確にすること、 聖書学者に意味を限定するよう招く代わりに、 むしろ反対に何らか予測されるその広がりを見抜かさせるように示唆する方向を明確にすることである。
1410
 現代解釈学の一潮流は、人間の言葉が文書化されるときに、この言葉は異なる状態に置かれ、 影響を受けることを強調した。 文書化された本文は、新しい環境に置かれ、これがその本文を異なる様相のもとに明らかにし、その意味に新しい定義を加える能力をもつ。 この文書化された本文がもつ能力は、神の言葉として認められる聖書本文の場合、とくに効果を発揮する。 実際に、信仰共同体にその聖書本文を保存するようにしているのは、 この聖書本文が来たるべき世代にとっても光と命をもつものであり続けるという確信である。 字義的意味は、その始めからその後のさらなる発展に開かれたものであり、その発展は新しい諸文脈の中での「再読」により行われる。
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 だからと言って、主観的に解釈して聖書本文にあるのはどんな意味でもよいとすることはできない。 反対に、聖書本文が文書化されたときにその人間である著者によって表現された意味とは異質と思われるその解釈は、 すべて非正真正銘の意味として排除しなければならない。 異質な意味を容認することは、歴史的に与えられた神の言葉である聖書のメッセージをその根から断つこと、 こうして収拾のつかない主観的解釈に門戸を開くことに等しくなるであろう。

2.霊性的意味(The Spiritual Sense)

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 しかしながら、高次元の成就のあらゆる可能性を排除するような狭い意味で「異質なもの」を理解するようなことがあってはならない。 イエスの死と復活という過越の出来事は、根本的に新しい歴史的文脈を設定し、古い聖書本文を新しい様相のもとに明らかにし、 その意味の変化を受けるようにさせた。 とくに、その古い状況のもとでは誇張として考えなければならなかった聖書本文が幾つかあるが (たとえば、神がダビデの子について語り、 その王座を「いつまでも」揺るがないものとすると約束した託宣 :2サム7:12−13;1歴代17:11−14)、 これは今後字義的に理解されなければならない。 なぜなら、「キリストは、死者の中から復活して、もう死ぬことはない」(ロマ6:9)からである。 字義的意味の狭い歴史主義的概念をもつ聖書学者は、ここに異質なものがあると考えるかもしれない。 聖書本文のダイナミックな側面に開かれた目をもつ聖書学者は、 深い連続性があると同時に聖書本文が異なる位相にあることを認めることであろう。 つまり、キリストはいつまでも支配なさるが、 この地上のダビデの王座にあってではないと(また詩編2:7−8;110:1、4も参照)。
1413
 このような場合、「霊性的意味」と言われる。 一般的原則によれば、霊性的意味とは、キリスト教信仰にしたがって理解されるもので、聖書本文を聖霊の影響のもとで、 キリストの過越秘義とそこから来る新しい命の文脈の中で読むとき、 その本文によって表現されている意味であると定義することができる。 この文脈は事実、実在する。 新約聖書はそこに聖書の成就を認めている。 したがって、聖書は聖霊における命の文脈でもあるこの新しい文脈の光に照らして読むのが通常である。
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 ここに与えられた定義から、霊性的意味と字義的意味の関係について多くの有益な説明を得ることができる。
 現にある一つの意見とは反対に、この2つの意味の間に必ずしも区別はない。 ある聖書本文がキリストの過越秘義またはそこからくる新しい命に直接に関係するとき、その字義的意味が霊性的意味である。 新約聖書の中では、これが普通の場合である。 したがって、まさに旧約聖書に関連して、キリスト教の聖書解釈は最もしばしば霊性的意味について語る。 しかし、すでに旧約聖書の中に、聖書本文は多くの場合、字義的意味として宗教的霊性的意味をもっている。 キリスト教信仰は、そこにキリストによってもたらされる新しい命との関係の先取りを認める。
1415
 区別があるときには、霊性的意味は字義的意味との関係を欠くものであることは、けっしてできない。 後者は不可欠の基礎である。 そうでなければ、聖書の「成就」とは言えないであろう。 成就があるためには、実際に連続性と整合性という関係は本質的なものである。 しかしまた、より高い位相の現実への移行があることも当然である。
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 霊性的意味は、想像や知的推論によって導かれる主観的解釈と混同してはならない。 それは、聖書本文がその本文にとって外ものではない実際の事実、 つまり過越の出来事とその汲めども尽きぬ生産力と関係をもつことにより湧き出てくる。 この過越の出来事こそ、全人類のためにイスラエルの歴史の中でなされた神の介入の頂点である。
1417
 共同体の中にしても個人的にしても、霊性的解釈が正真正銘の霊性的意味を見出すのは、 ただこの展望にとどまっている場合だけである。 そのとき、聖書本文と過越秘義と聖霊における命の現状という3つの位相の現実が関係しあう。
1418
 キリストの秘義が全聖書の解釈の鍵となっていると確信し、 古代の聖書研究は聖書本文のきわめて詳細なところにまで霊性的意味を見出そうと努め  − たとえば祭儀規定の各条項にまで −、 ラビの聖書解釈法を用いたり、ヘレニズム世界の比喩から発想を得たりした。 過去においてその司牧的有用性が何らかあったかもしれないが(『ディヴィノ・アフランテ』、n.553参照)、 この類の試行は、現代の聖書研究では解釈上真の価値は認められてはいない。
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 霊性的意味の可能な側面の一つは、予型論的側面である。 普通、これは聖書そのものではなく、 聖書によって表現される現実に属すると言われる。 キリストの表象としてのアダム(ロマ5:14参照)とか、洗礼の表象としてのノアの洪水(1ペト3:20−21)とかである。 実際に、予型としての関係が基づいているのは、通常、聖書による古代の現実の記述のしかたであって (アベルの叫び声:創4:10;ヘブ11:4;12:24)、ただ単にこの現実ではない。 それゆえ、そこではまさに聖書の一つの意味が取り扱われている。

3.より充足した意味(The Fuller Sense、Sensus Plenior)

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 比較的最近になって、「より充足した意味」という名称が論議を呼んだ。 より充足した意味とは、神によって望まれているが、人間である著者によって明らかには表現されていない聖書本文の、 より深い意味であると定義される。 この実在が見出されるのは、ある聖書本文を、 これを用いるほかの聖書本文に照らして、あるいは啓示の内的発展との関係の中で研究するときである。
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 したがって、ここで取り扱われているのは、あるいは聖書著者が以前の聖書本文を、 これに新しい意味をもたらす新しい文脈の中で取り上げるときに、その以前の本文に付与する意味についてか、 あるいは真正な教義の伝承または公会議の決議が聖書の本文に与える意味についてである。 たとえば、マタイ1:23の文脈は、「処女が身ごもるであろう」との70人訳の訳文(ギリシア語parthenos)を用いて、 身ごもるであろうアルマ(almah, ヘブライ語で「おとめ」)を告げるイザヤ7:14の託宣に、より充足した意味を与える。 三位一体についての教父や公会議の教えは、父なる神、御子、聖霊についての新約聖書の教えの、 より充足した意味を表現する。原罪に関するトリエント公会議の決議は、人類にとってのアダムの罪の結果に関して、 ロマ5:12−21にあるパウロの教えの、より充足した意味を示す。しかし、この類の意味を  − 聖書本文の明示により、あるいは正真正銘の教義的伝承により −  検証できなければ、 いわゆるより充足した意味に訴えることは、まったく有効性に欠く主観的解釈につながる。
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 結局、「より充足した意味」は、 霊性的意味と字義的意味が区別される場合における聖書本文の霊性的意味のまた別の表示法として考えることができよう。 その基礎は、聖書の主たる著者である聖霊が人間であるその著者を導いて、 そのすべての深い意味を見抜けなくてもその真理を表すような表現を選ばせることができるということにある。 この深い意味は、一方では聖書本文の意味するところを明らかにするその後の神の業の実現により、 他方ではまた聖書本文が聖書正典の中に含められることにより、時間の経過の中でいっそう充実して啓示される。
 このように新しい文脈が構成されることにより、 原初的な文脈では闇に包まれたままになっていた意味の潜在能力が発揮される。


第3部 カトリック聖書学の諸特徴
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 カトリック聖書学は、特殊な学問的研究方法により他と異なろうとするものではない。 それは聖書本文の一つの側面が人間である著者たちの著作であること、 彼らが自分の諸々の表現能力および彼らの時代と生活環境に可能であった手段を用いたことを認める。 ]したがって、それはその諸資料の研究によって聖書本文を説明することにより、 またそれぞれの著者の人物を考慮にいれて(『ディヴィノ・アフランテ』、EB.n.557参照)、 言語的、文学的、社会・文化的、宗教的、歴史的文脈においてその本文の意味をより良く 把握させるすべての研究方法および近づく道を、その背後にある観念抜きで用いる。 それはその研究方法の発展と研究の進歩に積極的に貢献する。
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 特徴とするのは、教会の生きた伝承の中に自覚的にあるということで、 そのため第一に心がけるのは聖書によって確かめられる啓示に忠実であるということである。 現代の解釈学は、すでに見たとおり、一つの、あるいは別の「先行理解」を出発点とすることなしに、 ある本文を解釈することが不可能であることを明らかにした。カトリック聖書学は、 現代の学問的文化とイスラエルおよび初期キリスト教共同体を密接に結ぶ先行理解をもって聖書本文に近づく。 このことにより、その聖書解釈は聖書の内部に現れており、またその後教会の命の中に続く 解釈のダイナミズムとの繋がりの中にある。それは解釈する者とその解釈の対象との生きた 親近性の要請に呼応するものであり、この親近性こそ解釈という作業を可能にする一つの条件をなす。
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 しかしながら、すべての先行理解にはそれぞれ危険がある。 カトリック聖書学の場合、危険は聖書本文が表現しておらず、伝承のその後の発展の実りである意味を聖書本文にあるものとすることにある。 聖書学者はこの危険に警戒しなければならない。

A.聖書そのものの伝承におけるその解釈
1426
 聖書の本文は、本文以前にあった宗教的諸伝承を表現したものである。 これら本文がどのようにその伝承と関連しているかは場合によって異なっており、 聖書の著者たちの独創性も現れるが、その程度には差異がある。時間の経過の中で、 多数の諸伝承が少しづつ融合し、大きな共通の伝承を形成した。聖書はその経緯の実現に貢献したが、 聖書はこの経緯を現わすものとして特別な事例であり、その規範として今もあり続ける。
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 「聖書そのものの伝承におけるその解釈」 は、 大いに多様な側面を含んでいる。 この表現によって、 聖書が人間の基本的経験またはイスラエル史上の特別な出来事をいかに解釈しているかということも意味することができれば、 あるいはまた聖書本文が、 文書化されたものにせよ、 口承伝承によるものにせよ、 資料を再解釈して、 この資料をいかに用いているか (その中の幾つかはほかの宗教ないし文化から由来する) ということも意味することができる。 しかし、 わたしたちの主題は聖書の解釈であるから、 ここではこれらの幅広い諸問題を扱おうとはしないで、 ただ単に聖書内部における聖書本文の解釈について幾つかの要点を提示しようと思う。
1.再読(Relectures)
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 この類のものとしてはほかに例がない内的統一性を聖書に与えるのに貢献しているのは、 後の時代の聖書本文が前の時代の文書にしばしば依存しているという事実である。 その本文は以前の文書をほのめかして、 ときどきその原初的な意味とは大いにかけ離れた新しい意味の側面を発展させる「再読」を示したり、 以前の文書に明示的に言及してその意味を深めたり、 その成就を明言したりする。
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 まさにこのように土地の遺産は神がアブラハムにその子孫のために約束されたものだが (創15:7、18) 、 それは神の聖所への導入となり (出15:17) 、 真の信仰者のために指定された (詩95:8) 神の安らぎへの参与となり (詩132:7−8) 、 最後に天上の聖所 (ヘブ6:2、18−20) 、 「永遠の遺産」 (ヘブ9:15) への導入となる。
1430
 預言者ナタンはダビデに 「家」 を、 つまり 「いつまでも揺らぐことのない」 王朝の継承を約束する託宣 (2サム7:12−16)を告げたが、 この託宣は幾たびも思い起こされた(2サム23:5;1王2:4;3:6;1歴代17:11−14) 。 それは特に困窮の時においてであった(詩89:20−38) 。 その際、 それは意義深い多様な意味で思い起こされた。 それはほかの託宣によって続けられ (詩2:7−8;110:1、4;アモス9:11;イザヤ7:13−14;エレミヤ23:5−6など) 、 その中にはダビデその人の支配の再来を告げるものもある (ホセア3:5;エレミヤ30:9;エゼキエル34:24;37:24−25;またマルコ11:10参照)。 約束された支配は普遍的になる (詩2:8;ダニ2:35、44;7:14;またマタイ28:18参照) 。 それは人間が受けた召命を十分に実現する (創1:28;詩8:6−9;知恵9:2−3;10:2) 。
1431
 エルサレムとユダに課せられた罰の70年についてのエレミヤの託宣(エレミヤ25:11−12;29:10)は、 2歴代25:20−23で思い起こされ、その実現を確認しているが、 長い時間が経った後、この神の言葉はまだ隠された意味を保っており、 当時の現状理解のために光を投げかけてくれるはずだとの確信をもって、 ダニエル書の著者によって再び瞑想されている(ダニ9:24−27)。
1432
 善人に報い、悪人を罰する神の分配的正義の基本的な主張(詩1:1−6;112:1−10;レビ26:3−33など)は、 これにしばしば呼応しない身近な経験と衝突する。 そのとき聖書は激しく抗議と反論を表明させ(詩44;ヨブ10:1−7;13:3−28;23−24)、 徐々に秘義を深める(詩37;ヨブ38−42;イザヤ53;知恵3−5)。

2.旧約聖書と新約聖書の関係

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 その本文間の関係は、旧約聖書への示唆や明示的引用に満ちた新約聖書の書物の中で極端なまでに濃度の高いものとなる。 新約聖書の著者たちは、神の啓示の価値を旧約聖書に認めている。 この啓示がイエスの生涯と教え、特に罪の赦しと永遠の命の源泉としての彼の死と復活の中にその成就に達したことを、 彼らは明言する。「キリストはわたしたちの罪ために聖書にしたがって死に、 葬られ、三日目に聖書にしたがって復活させられ、・・・に現れた」(1コリ15:3−5)。 これは使徒たちの宣教の核心である(1コリ15:11)。
1434
 いつものとおり、聖書とこれを成就する出来事の間で、関係は単に素材的呼応ではなく、 相互の照らしあい、弁証法的進歩の関係である。聖書が出来事の意味を啓示すると同時に、 出来事が聖書の意味を啓示すること、つまり、出来事がすでに広く受け容れられていた解釈 の幾つかの側面を断念して新しい解釈を受け入れることを余儀なくさせることが認められる。
1435
 イエスはその公生活のときから、個人的で独創的な立場を取っておられた。 それは、当時広く受け容れられていた解釈、 「律法学者とファリサイ人」(マタ5:20)の解釈とは異なるものであった。 それには多くの証言がある。山上の垂訓にある反定立(マタイ5:21−48)、 守るべき安息日についてのイエスの尊厳ある自由(マルコ2:27−28とその並行箇所)、 祭儀的清浄規定を相対化なさったその処方(マルコ7:1−23とその並行箇所)、 反対にほかの分野における徹底的なその要求(マタ10:2−12とその並行箇所;10:17−27とその並行箇所)と、 特に「収税人と罪人」に対するその応対(マルコ2:15−17とその並行箇所)と、数えることができる。 イエスの立場から言えば、それは反体制分子の気まぐれではなく、反対に、聖書に表現されている 神の意志に対していっそう深く忠実であることにほかならない (マタ5:17;9:13;マルコ7:8−13とその並行箇所;10:5−9とその並行箇所)。
1436
 イエスの死と復活は、そのすでに始まっていた展開を極限にまで押し進め、 ある点では完全な断絶と同時に予期せぬ開放を呼び起こした。「ユダヤ人の王」 (マルコ15:26とその並行箇所)であるメシアの死は、王的詩編とメシア預言の地上的解釈の変容を呼び起こした。 その復活と、神の子としてのその天上における栄光化は、これらの同じ聖書本文にそれまで考えることのできなかった十全的な意味を与えた。 誇張的と思われた表現は、それ以後は字義どおり理解しなければならない。 それらはキリスト・イエスを表現するために、神が準備なさったものであることが明らかになった。 イエスは、まことに「主」(詩110:1)であり、この用語の最も強い意味でそうだからである (使2:36;フィリ2:10−11;ヘブ1:10−12)。 イエスは神の子 (詩2:7;マルコ14:62;ロマ1:3−4)、神と共なる神(詩45:7;ヘブ1:8;ヨハネ1:1;20:28)。 「その王としての支配には終わりがない」(ルカ1:32−33;また1歴代17:11−14;詩45:7;ヘブ1:8)。 また同時にイエスは「永遠の祭司」である (詩110:4;ヘブ5:6−10;7:23−24)。
1437
 新約聖書の著者たちが旧約聖書を再読したのは、この過越の出来事の光に照らしてであった。 栄光化されたキリストが送る聖霊(ヨハネ15:26;16:7参照)が、彼らにその霊性的意味を見出させた。 このように彼らは旧約聖書の預言的価値を以前にも増して言明し、また救いのための制度としてのその価値を強く相対化するようにも導かれた。 この第二の観点は、 すでに福音書の中に現れているが (マタイ11:11−13とその並行箇所;12:41−42とその並行箇所;ヨハネ4:12−14;5:37;6:32参照)、 パウロの幾つかの手紙の中で、またヘブライ人への手紙の中で力説されている。 パウロと、ヘブライ人への手紙の著者は、トーラ(律法)が啓示としてそれ自体、 法制度としての自らの終わりを告げていることを説いている (ガラ2:15−5:1;ロマ3:20−21;ヘブ7:11−19;10:8−9)。 そこから結論されるのは、 キリストへの信仰を受けとめた異邦人は聖書にある法制上のすべての諸規定に服する必要がなくなり、 諸規定はそれ以後その総体として一つの特別な民の法制度の法規に落ち着くようにされることとなった。 しかし、その異邦人たちは神の言葉としての旧約聖書に養われる必要があり、 これは彼ら自身が生きる過越秘義のすべての次元をより良く彼らに見出させてくれる (ルカ24:25−27;44−45;ロマ1:1−2参照)。
1438
 それゆえキリスト教の聖書の内部において、新約聖書と旧約聖書の関係は複雑さに欠けるものではない。 特別な聖書本文を利用する場合、新約聖書の著者たちは当然その時代の知識と解釈の手法を手がかりにしている。 その彼らに現代の学問的聖書研究法に即するように求めることは、時代錯誤であろう。聖書学に必要なのは、 むしろその古代の手法の知識を得ることである。それは実際になされた聖書の利用法を正しく解釈できるようになるためである。 他方、限られた人間の知識であるものに絶対的な価値を認めることができないのも、正しいことである。
1439
 最後につけ加えなければならないのは、新約聖書の内部において、すでに旧約聖書の内部におけると同様に、 様々な異なる展望が並置されており、ときにはその間に緊張関係があるのが観察されるということである。 たとえばイエスの心況について(ヨハネ8:29;16:32とマルコ15:34)、またはモーセの律法の価値について (マタイ5:17−19とロマ6:14)、または義とされるための業の必要性について (ヤコ2:24とロマ3:28;エフェ2:8−9)。聖書の特徴の一つは、まさに組織的精神の欠如であり、 反対にダイナミズムを誘発する緊張の現存である。聖書は、同じ出来事を解釈するにしても、同じ問題を考えるにしても、 多様な解釈法、考えかたを受容した。このように、聖書は単純化と偏狭な精神を拒否するように招いている。

3.若干の結論

1440
 これまで述べてきたことから、聖書には聖書の解釈のしかたについて数多くの指示や示唆が含まれていると結論できる。 実際に、聖書はその始めから解釈そのものである。 その本文は古い契約の共同体および使徒時代の 共同体によって彼らの信仰の有効な表現として承認された。 その本文が聖なる書として承認されたのは、その共同体の解釈にしたがってであり、 またこの共同体との繋がりにおいてであった (このように、たとえば雅歌が聖なる書として承認されたのは、神とイスラエルとの関係に適用されたものとしてであった)。 聖書形成の過程において聖書を構成している文書群は、多くの場合、以前に知られなかった新しい状況に対応するため、 手を加えられ、再解釈されたものである。
1441
 聖書の中に現れる聖書解釈法が示唆する要点は、つぎとおりである。
 聖書はその本文に中に啓示された信仰の表現を承認した信仰共同体のコンセンサスに基づいて存在することになったというなら、 その解釈そのものも、教会共同体の生きた信仰にとって、その本質的な諸点におけるコンセンサスの源泉であるはずである。
1442
 皆に承認されて聖書の中にあるその信仰の表現は絶えず新たにされて新しい状況に対応しなければならないもの  − 多くの聖書本文の「再読」を説明するもの −  であったというなら、聖書の解釈も同様に創造性の側面をもち、 新しい諸問題と対面し、聖書を出発点としてそれに答えるはずである。
1443
 聖書本文にはどきどきその間に緊張関係があるというなら、解釈も必然的に複数であるはずである。 いかなる特殊な解釈も、多数の音声の交響曲であるその総体の意味を汲み尽くすことができない。 それゆえ、ある本文の特殊な解釈は排他的であることを避けなければならない。
1444
 聖書は信仰共同体と対話の関係にある。聖書はその共同体の信仰の伝承から湧き出てきたものである。 その本文はこれらの伝承との関連の中に発展したきたが、また相互にそれらの伝承の発展にも貢献してきた。 そこから言えるのは、聖書の解釈は、その多様性と統一性を有し、その信仰の伝承にある教会の懐の中で行われるということである。
1445
 聖書の著者たちにその文筆活動を挿し込ませた、生きた環境を形成したのは、信仰の伝承であった。 この挿し込みはまたその共同体の典礼生活と外部活動、その霊性の世界、 その文化、その歴史の運命の波乱への参与も含んでいた。 したがって、聖書の解釈は同じように聖書を解釈する者が自分たちの時代の信仰者の共同体の全生活と信仰に参与することを求める。
1446
 聖書をその総体において捉えてこれと対話すること、それゆえ以前の時代にとって固有の信仰理解と対話することには、 現在の世代との対話が必然的に伴う。このことがもつ意味は、継続という関係の確立であるが、 また違いの確認ということもある。ここから言えるのは、聖書の解釈は確認と選択の作業を意味するということである。 それは以前の聖書解釈の諸伝承との継続関係にあり続けながら、その諸伝承を保ち、その多くの要素を吸収するが、 ほかの諸点では前進できるようになるため、離れて自由になる。

B.教会の伝承における解釈
1447
 神の民である教会は、教会が聖書を理解し、解釈するとき、聖霊によって助けられていることを自覚している。 イエスの最初の弟子たちは、充満したものを与えられたが、それを直ちにそのすべての側面において 理解する段階に達してはいないことを知っていた。彼らは、忍耐をもって続けた共同体の生活を送る中で、 与えられた啓示をますます深く理解し、その説明が進歩するのを体験した。このことの中に彼らは、 真理の充満へと自分たちを導くためにキリストが約束なさった「真理の霊」の影響と働きを認めた (ヨハネ13:12−13)。教会がキリストの約束に支えられてその道を進むのもそれと同じである。 「父がわたしの名によって遣わす弁護者、聖霊が、すべてのことを教え、 わたしがあなたたちに言ったことをすべて思いださせるであろう」(ヨハネ14:26)との約束に。

1.正典の形成

1448
 「聖霊の霊感によって書かれ、神を著者としてもち、 そのようなものとして教会に委ねられ」 (『デイ・ヴェルブム』、第11項)、 「神がわたしたちの救いのために聖なる書に書き留められるのを望んだ真理」 (同)を含むという意味で、 聖書と見なすべき文書群を、教会は聖霊に導かれて、与えられた生きた伝承の光に照らして識別した。
1449
 聖書の「正典」の識別は、長い過程の締めくくりであった。古い契約の共同体は (預言者の集まりや祭司たちの団体のような特殊な集団から民の総体に至るまで)、 ある数の本文の中に、彼らの信仰を起こし、彼らの生活を導いた神の言葉を認めた。 その共同体はこれらの本文を守って受け継ぐべき遺産として受け取った。 このようにこれらの本文は単なる特別な著者が受けた霊感の表現ではなくなり、神の民の共通財産となった。 新約聖書は、ユダヤの民から伝えられた貴重な遺産として受け取ったこれら聖なる本文を自ら敬っていたことを証している。 それはこれらの本文を「聖書」として(ロマ1:2)、「聖霊の霊感を受けたもの」 (2テモ3:16;また2ペト1:20−21参照)、「破棄されることができないもの」 (ヨハネ10:35)と見なしていた。
1450
 「古い契約」(2コリ3:14参照)を形成するこれらの聖書本文に、教会は自ら認めた書物を密接に結びつけたが、 その書物は一方では、「イエスが行い、教え始めたすべてのこと」(使1:1)について、 使徒たちから由来し(ルカ1:2;1ヨハネ1:1−3参照)、聖霊によって保証された (1ペト1:12参照)、正真正銘の証言と認めた書物であり、他方では、 信仰共同体を構築するために使徒たち自身およびほかの弟子たちによって与えられた教えと認めた書物であった。 これら二つの一連の書物はその後「新しい契約」の名で呼ばれることになった。
1451
 この経過の中で、多くの要因が役割を果たした。それはイエス  − とイエスと共に使徒たち −  が旧約聖書を霊感を受けた書と認めたということ、 その成就をなすのがイエスの過越秘義であったということの確実性であり、 新約聖書の書物が使徒的宣教から由来する正真正銘のものである (これはそのすべてが使徒たち自身によって作成されたものであることを意味しない)との確信であり、 信仰の原則(Regula Fidei)とこれらの書物との整合性およびキリスト教典礼におけるその利用の確認であり、 最後にその共同体の教会的生命との調和およびこの命を育成するその実力の経験である。
1452
 聖書の正典を識別しながら、教会は自らが何であるかとの同一性も識別し、見定めたのであったが、 こうして聖書はそれ以降世紀を越えて教会がその同一性を恒常的に見出し、確かめることができる鏡となり、 教会は絶えず福音に呼応し、自らその伝達の手段となるにふさわしく構えているようになった。このことが、 ほかの古代の宗教文書の価値とはまったく異なる救済的、神学的価値を正典書それぞれに与えている。 ほかの古代の宗教文書は信仰の起源について多くの光を投げかけることができるとしても、 取って替わって正典と見なされる書物の価値を得、それゆえキリスト教信仰にとって基本的なものとなることはけっしてない。

2.教父たちの解釈

1453
 その当初からあった理解は、 新約聖書の著者たちが救いのメッセージを書にしたためるように押した同じ聖霊 ( 『デイ・ヴェルブム』 、 第7項、18項) が、 その霊感の書の解釈のためにも同じように引き続き教会に支援をしているということである (エイレナイオス 『異端反駁』 、 3:24:1;3:1:1;4;33:8; オリゲネス 『諸原理について』 、 2:7:2; テルトウリアヌス 『異端者への抗弁について』 、22参照)。
1454
 教会の教父たちは、 正典形成の過程で特別な役割を果たしたが、 教会が聖書について行う読書と解釈に絶えず伴い、 これを導く生きた伝承との関連でも同様に基礎を置く役割を果たした (『プロヴィデンッテイッシムス・デウス』 、 EB.nn.110-111; 『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』 、 28-29、 EB.n.554; 『デイ・ヴェルブム』 、 第23項;教皇庁聖書委員会 『福音書の歴史的真理性に関する指針』 、1、EB.n.646参照)。 大きな伝承の流れの中で、 教父たちの聖書解釈が残した特別な貢献は、ここにある。 聖書の総体から、 教会の教義伝承に形態を与えることになる基本的目標を取り出し、 信徒の教育と霊的育成のために豊かな神学的教えを与えたこと。
1455
 教会の教父たちにあって、 聖書の講読と解釈はさわめて重要な位置を占める。 それはまず聖書の理解に直接関係する著作、 つまり説教と聖書注解がその証しであるが、 論争と神学の著作もそうで、 ここでは聖書への準拠が主たる論拠となっている。
1456
 聖書を読む通常の場は教会であり、 その典礼の進行にあった。 それゆえ、 提示される解釈はつねに神学的、 司牧的、 敬神的であって、 信徒の共同体と個人に奉仕するためのものであった。
1457
 教父たちは聖書を何よりも神の書、 唯一の著者による唯一の著作と考えていた。 しかしながら、 その人間である著者を単に受動的な手段でしかないもにしてしまうことはなく、 それぞれの書を個別に取り上げて、 それに特別な目的があるとすることを知っている。 しかし、 彼ら流の聖書への接近では、 啓示の歴史的発展にはあまり注意を払うことがでさなかった。 数多くの教父たちは、 神の言葉、ロゴスなるおかたを旧約聖書の著者として掲げ、 このように仝聖書がキリスト論的意味をもつと主張する。
1458
 アンティオケイヤ学派の一部の聖書学者(とくにモプスエスティアのテオドロス)を除いて、 教父たちは聖書の文脈からひとつの句を取り出して、 そこに神が啓示する真理を認めようとすることが許されていると考えていた。 ユダヤ教徒に対する護教論やほかの神学者との教義的論争の中で、彼らは躊躇することなくこの類の解釈を頼りとしている。
1459
 何よりも自分たちの兄弟たちと心を通わせながら聖書を生きようとする心遣いに追われ、 教父たちは彼らが生きていた世界に出回っていた聖書本文を利用するのに、しばしば満足していた。 学問的方法としてヘブライ語聖書に関心をもって、 オリゲネスはとくにユダヤ教徒にはユダヤ教徒にとって承認できる聖書本文に基づいて論証しようとする心遣いに駆り立てられた。 ヘブライの真理(hebraica veritas)という原則を掲げたことで、聖ヒエロニムスは例外的な人物である。
1460
 教父たちは、しばしばと言ってよいほど比喩的解釈法を行う。それは聖書の具体的な一章句を読んで、 一部のキリスト教徒とキリスト教に反論する異教徒が経験するかもしれない躓きを吹き払うためである。 しかし、聖書本文の字義性と歴史性が根こそぎにされることは、きわめて稀である。教父たちが比喩を用いるのは、 異教徒の著者たちによる比喩的解釈法に合わせようとする現象を、一般的には超えている。
1461
 比喩を用いるは、神の書である聖書が神によりその民である教会に与えられたものであるという確信からも来ている。 原則として時代遅れだとか、決定的に無効になったものとして脇に置いてよいものは何ひとつない。 神はキリスト教徒のご自分の民に、常に現実性のあるメッセージを送ってくださる。教父たちは、 その聖書の説明の中で予型論的解釈と比喩的解釈を、ほとんど解きほぐせないほど混ぜあわせ、 交錯させるが、いつも司牧的、信仰教育的目的をもってそうする。書き記されているものはすべて、 わたしたちを教えるために書き記された(1コリ10:11参照)。
1462
 神の書であり、それゆえ汲み尽くせない書が取り扱われているとの確信をもち、 教父たちは具体的に、ある章句はある比喩の図式にしたがって解釈できると信じているが、各自は自由であり、 ただ信仰の類比を重視していれば、ほかのことも提案できると考えている。
1463
 教父たちの解釈に特徴的である聖書の比喩的解釈には、現代人に違和感を抱かせる危険があるが、 この解釈が表現する教会の経験は常に有益な助けとなっている (『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』、31−32、EB.n.554-555;『デイ・ヴェルブム』、第23項参照)。 教父たちは、生きた一つの伝承の懐の中で、正真正銘のキリスト教的精神をもって、神学的に聖書を読むことを教えている。

3.聖書解釈における教会の様々な成員の役割

1464
 教会に与えられたものとして、聖書は信じる者の団体全体の共通の宝である。 「聖伝と聖書は、神の言葉のひとつの聖なる遺産を形成し、教会に託されている。 この遺産に密に結びつくことにより、その司牧者たちのもとに集まった聖なる民全体は、 使徒たちの教え・・・に絶えずとどまる」(『デイ・ヴェルブム』、第10項、また第21項も参照)。
 聖書本文との親しみが、信徒たちの間で教会の歴史のある時代には、 ほかの時代よりもいっそう顕著であったのは事実である。しかし、 聖書は教会生活における刷新の重要な時期にはいつも主たる位置を占めてきた。 それは最初の数世紀の修道生活運動から最近の第2ヴァティカン公会議の時代にまで言える。
1465
 この公会議は、洗礼を受けたすべての者が、キリストへの信仰をもって御聖体の祝祭に与るとき、 その言葉の中にもキリストの現存を認めるものであることを教えている。「聖書が教会の中で読まれるとき、 語られるのは御自身だからである」(『典礼憲章』、第7項)。この言葉を聞くということにより、 彼らは「(神の)すべての民を特徴づける信仰の感覚(sensus fidei)を」 持つものになる。 「(・・・)真理の霊によって起こされ、 支えられるこの信仰の感覚により、神の民は、聖なる教導職の導きのもとに、これに忠実に従いながら、 もはや人間の言葉ではなく、 まことに神の言葉(1テサ2:13参照)を受け取り、一回限り聖なる人々に託された信仰に(ユダ3参照)不断に結びつき、 その信仰を正しい判断をもって深め、これをますます広く生活に適用する」(教会憲章、第12項)。
1466
 それゆえ、このように教会のすべての成員に聖書を解釈するということにおいても役割がある。司教たちは、 自分たちの司牧的任務を実行する中で、使徒たちの後継者として、時代毎に聖書の解釈がなされてきたその生きた伝承の第一の証人であり、 保証人である。「真理の霊の照らしを受け、彼らは宣教において神の言葉を忠実に保ち、説明し、広めなければならない」 (『デイ・ヴェルブム』、第9項、また教会憲章、第25項参照)。司教の協力者として、 司祭たちには第一の義務として御言葉の宣教がある(司祭役務教令、第4項)。彼らは自分の個人的な考えではなく、 神の言葉を伝えながら、福音の永遠の真理を自分の生活の具体的な状況に適用させるとき、 聖書解釈のための特別なカリスマを備えている(同)。司祭と助祭の役割として、 特に秘跡を執り行うとき、御言葉と秘跡が教会の任務において一体をなすことに光をあてるということがある。
1467
 聖体祭儀共同体の司式者と信仰の養成者として、御言葉の奉仕者たちは、主要な責務として単に教えを授けるだけでなく、 信徒たちが聖書を聞いて瞑想するとき、彼らを助けて神の言葉がその心に語りかけるものを聞いて、識別するようにしなければならない。 このようにして、地域教会全体は、神の民であるイスラエル (出19:5−9)を模範として、 神が自分に語りかけることを知り(ヨハネ6:45参照)、 信仰と愛、 それに御言葉への素直さ(申6:4−6)をもってこの御言葉を聞く共同体になる。 まことに御言葉を聞くこのような共同体は、教会全体の信仰と愛の中に絶えず結ばれている条件のもとで、 それぞれその環境にあって、福音宣教と相互対話の拠点、 それに社会変革を推進する者の力強い拠点となる (教皇パウロ6世の使徒的勧告『福音宣教』57−58;教理聖省『キリスト者の自由と解放についての訓令』、67−70)。
1468
 聖霊は、当然キリスト教徒各自にも与えられており、彼らが自分の個人的生活の文脈の中で祈り、 聖書を祈りながら学ぶとき、彼らの心が「中で燃える」(ルカ24:32参照)ようになることができるようになさる。 そのために、第2ヴァティカン公会議が力を込めて求めたのは、聖書が出来る限り近づき易いものにされることである (『デイ・ヴェルブム』、第22項、第25項)。このように聖書を読むことは、 まったく個人的性格のものとは言えないことを指摘する必要がある。信徒は教会の信仰の中で聖書を読み、 また解釈し、つづいてその聖書を読むことの実りを共同体にもたらし、共通の信仰を豊かにするからである。
1469
 すべての聖書伝承、とくに目立って福音書におけるイエスの教えが神の言葉の聞き手の中で特権的な位置にあるものとするのは、 この世界の中で評価が低い人々である。イエスは、賢人や知識人には隠れていることが素朴な人々に啓示され (マタイ11:25;ルカ10:21)、神の国が幼子のような人々のものである(マルコ10:14とその並行箇所) ことを認められた。
1470
 同じ線上にあって、イエスは「貧しいあなたがたは幸いである。神の国はあなたがたのものでる」 (ルカ6:20;またマタイ5:3も参照)と宣言された。メシア時代のしるしの中には、 貧しい人々に対する良い知らせの宣教が含まれる (ルカ4:18;7:22;マタイ11:5;また教理聖省『キリスト者の自由と解放についての訓令』、47−48)。 無力さと人間的資力の欠如の中にあってただ神とその正義にしか希望することできない人々は、 神の言葉を聞いて解釈する能力を持っており、 これは教会全体によって考慮されなければならず、 また社会面における反応を求めるものでもある。
1471
 共同体への奉仕のために聖霊が与える賜物と機能の多様性、とくに教えの賜物を認め (1コリ12:18−30;ロマ12:6−7;エフェ4:11−16)、 聖書解釈におけるその適性のゆえに、 キリストの体の構築のために貢献する特別な能力を発揮する人々には、 教会は高い評価を寄せる(『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』、 46−48、EB.n.564-565;『デイ・ヴェルブム』、 第23項;教皇庁聖書委員会『福音書の歴史的真理性に関する指針』、序、EB.n.645)。 彼らの活動は必ずしも現在与えられる奨励を得たのではなかったが、 その知識を教会の奉仕のために捧げる聖書学者たちは、オリゲネスやヒエロニムと共にその最初の数世紀から、 ラグランジュ神父やその他の学者と共につい最近にまで及んできて、 わたしたちの時代にまで続いている豊かな伝承の中に位置している。 特に、現在大いに強調される聖書の字義的意味の研究には、 古代語や歴史、文化、本文批判、文学様式分析の分野の有資格者であり、 学問的批判研究法を用いることができる学徒たちの共同作業が求められる。 その原初的な歴史的文脈における本文に向けられる注意にも増して、教会は、 「出来る限り多くの、神の言葉の奉仕者が、神の民に聖書の糧を効果的に世話できるようになること」 (『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』、24、53−55、EB.n.551.567;『デイ・ヴェルブム』、 第23項;教皇パウロ6世『セドゥーラ・クーラ』、1971年)を確証するため、 聖書学者たちが聖書に霊感を与えた同じ聖霊によって生かされることを当てにしている。 喜ばしいことの一つに、わたしたちの時代には女性の聖書学者の増加がある。 彼女たちは聖書の解釈においてしばしば新しい突っ込んだ観察をもたらし、 忘却の中に埋もれていた側面を明るみに出している。
1472
 すでに述べたように、聖書が教会全体の財産であり、 司牧者と信徒たちすべてが「保ち、信仰宣言し、協力して実践に移す信仰の遺産」の一部をなすとはいえ、 「書にされたものにしても伝承されたものにしても、 神の言葉を権威をもって正しく解釈する任務がただ教会の生きた教導職に委ねられており、 その権威はイエス・キリストの名において行使される」(『デイ・ヴェルブム』、第10項)ということも、 依然として正しい。それゆえ、このように最終的には、教導職には聖書解釈が正真正銘であることを保証し、 万一の場合、ある具体的な特殊な解釈が正真正銘の福音とは相容れないことを示す任務がある。 教導職はキリストの体としての心が通う(KOINONIA)中で、この任務を果たすのであり、 教会に奉仕するために教会の信仰を公に表現する。教導職は、この目的で神学者や聖書学者その他の専門家に諮問するが、 それはその正当な自由を彼らに認め、彼らとは「自由を与える真理の中で神の民を守る」 という共通目的をもって相互に関係し結ばれているからである(教理聖省『神学者の教会的召命に関する指針』、第21項)。

 C.聖書学者が果たすべき任務 
1473
 カトリック聖書学者が果たすべき任務には数多くの側面がある。 これは教会の任務である。それはそのすべての豊かさを司牧者と信徒が利用できるように聖書を研究し、説明するからである。 しかし、それは同時に、カトリック聖書学者をカトリック以外の聖書学者と多くの他の学問研究分野と関係づける学問的任務である。 他方、この任務は研究活動と同時に教育活動を含む。そのどちらにしても通常では出版という実りを結ばせる。

1.基本方針

1474
 カトリック聖書学者はその任務に取りかかるにあたり、聖書の啓示にある歴史的性格を重要なこととして受けとめなければならない。 旧新両約聖書は、それぞれの時代の刻印をもつ人間の言葉で、神が様々な手段をもって御自分自身について、 また御自分の救いの計画について実現なさった啓示を表現しているからである。その結果として、 聖書学者は歴史批判学的研究方法を用いなければならない。しかしながら、それを排他的に用いるべきだとすることはできない。 本文の解釈に関わるすべての研究方法が、聖書の釈義にそれぞれ貢献する能力を備えている。
1475
 その解釈の作業の中でカトリック聖書学者がけっして忘れてはならないのは、神の言葉を解釈しているのだということである。 彼らの任務は、資料を区別し、文学様式を見定めたり文章構成法を説明して終わるものではない。 その作業の目的は、聖書本文の意味を神が今の現実に語りかける言葉として明らかにするのでなければ、 達成されてはいない。このために、聖書のメッセージの現実性を見抜くのを助け、 現代の聖書読者の要請に答えさせてくれる様々な解釈学的展望を考慮にいれなければならない。
1476
 聖書学者には、聖書各書のキリスト論的、正典論的、教会的意味も説明する必要がある。
 聖書本文のキリスト論的意味は必ずしも明らかではない。これは、可能ならそのたびに 明解にしなければならない。キリストが御自分の血をもって新しい契約をお立てになったが、 最初の契約の各書がその価値を失ったわけではない。福音の宣教の中に取り込まれて、 これらの書は「キリストの秘義」(エフェ3:4)の中でその充足した意味を獲得し、明らかにした。 これらの書はそのキリストの秘義に照らされて、その秘義の多様な側面を明示している。 実際に、これらの書は神の民をその神の到来に向かって準備した(『デイ・ヴェルブム』、第14−16項)。
1477
 聖書各書はそれぞれ異なる目的で書かれ、それぞれ特別な意味をもっているが、それが正典としての総体の一部になるとき、 さらなる意味をもつものとして現れる。それゆえ、聖書学者の任務は、つぎのようにアウグスティヌスが言ったことの説明も含む。 "Novum Testamentum in Vetere latet,et in Novo Vetus patet": 「新約が旧約に秘められ、新約で旧約が明らかになる」 (聖アウグスティヌス『ヘプタメロン問題』2、73;CSEL 28,III,3,p.141)。
1478
 聖書学者は聖書と教会に間にある関係も説明しなければならない。 聖書は信仰共同体の中で存在するようになった。 それはイスラエルの信仰を表現し、つぎに初期キリスト教共同体の信仰を表現している。 聖書に先立ち、伴い、養われた生きた伝承(『デイ・ヴェルブム』、第21項参照)と一つになって、 聖書は神が神の民としての教会の形成と発展を、現在もなお、導くために用いられる手段として特権的位置を占める。 教会的次元と不可分なのが、エキュメニズムに開かれているという精神である。
1479
 聖書はすべての人に神が差し出す救いの恵みを表現するものであるという事実から、聖書学者の任務は、 普遍的な次元も意味しており、これは他の諸宗教と現代世界の期待に注目することを要求する。

2.研究活動

1480
 聖書学者の任務は、あまりにも広大なものであって、実りある目標にむかってそのすべてを、 ただひとりで個人的に行うことはできない。 作業の分担が必要であり、これは特に様々な分野の複数の専門の学者が求められる研究に言える。 専門化によって起こり得る欠陥は、学際的な努力によって避けられよう。
1481
 全教会の利益のため、また現代世界にその光を輝かせるため、きわめて重要なことは、 優れた養成を受けた者の人数が十分揃っていて、聖書研究のそれぞれ異なる部門の研究に専念するということである。 司教たちと修道会長上たちは、その目先の任務の必要性にとらわれ、 この基本的な必要事項に配慮するという自分たちにある責任をあまり重視しないよう誘われることがしばしばある。 しかし、このことを怠れば、教会をきわめて重大な不都合にさらさせることになる。 そのとき、司牧者たちと信徒たちは教会とは無関係の、信仰生活とは無縁の聖書学の利するところに陥る危険を犯すことになるからである。 第2ヴァティカン公会議は、 「聖書の研究は神学の魂のようなもの」(『デイ・ヴェルブム』、第24項)でなければならないと宣言して、 聖書研究がまったく重要であることを示した。 同時にそれが含蓄的にカトリック聖書学者に思い起こさせているのは、彼らの研究が神学とは本質的な関係をもっており、 このことの自覚が自分にあることを示さなけらばならないということである。

3.教育活動
 
1482
 この公会議の宣言は、神学部や神学校、修道院教学機関における聖書教育に関わる基本的な任務も同様に明解にした。 このそれぞれの場合において、学問の程度は一様でないことは自明の理である。 聖書学教育は男性と女性によってなされることが望ましい。神学部では教育はいっそう専門的であり、 神学校ではいっそう身近に司牧的志向のものでなければならない。 しかし、それは知的で真摯な次元を欠くものであってはならない。 そうでなければ、神の言葉に対する尊敬を欠くことになろう。
1483
 聖書学の教員は、聖書の字義的、歴史的、社会的、神学的意味をよりよくわからせてくれる、 注意深くて客観的な学問研究に聖書がどれほど価するものであるかを示して、聖書に対する深い敬意を学生たちに伝えなければならない。 学生にただ受動的に記録させる知識の羅列を伝えることに満足してはならなず、 個人的に判断する能力をつけるために根幹となるその作業を説明して聖書研究法への手引きをしなければならない。 与えられる時間の制限を考慮して、つぎの2つの教授法を交互に用いるのが適切である。 一方では、全聖書の研究入門を行い、旧約聖書も新約聖書もその主要部のいかなるものも脇におかず総合的展望を与えること、 他方では、幾つかの聖書本文を良く選んで詳細な分析を行い、同時にいかに釈義を実践するのか、手引きすることである。 いずれの場合も、一面的にならないように、つまり歴史批判的研究の基礎なしに霊性的注解にとどまるのでもなく、 教義的で霊性的内容抜きにして歴史批判的研究法の注解にとどまるのでもないように注意しなければならない。 (『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』、EB.n.551-552;教皇庁聖書委員会『聖書を正しく教えること』、EB.n.598参照)。 聖書教育において、聖書各書が歴史に根づくものであると同時に、 愛をもってその子らに語りかける天の父の個人的な言葉であるその側面 (『デイ・ヴェルブム』、第21項)と、 司牧の務めを果たす中でそれが不可欠であること (2テモ3:16参照)を示さなければならない。

4.出版活動

1484
 研究活動の成果として、また教育活動の補完として、出版は聖書研究を前進させ、広めるためにきわめて重大な機能をはたす。 今日では、出版はただ印刷物によるだけでなく、より迅速で、より影響力のあるほかの手段 (ラジオ、テレビ、電子機器)によっても行われる。この利用も身につけることが肝要である。
1485
 学問的に高度な出版物は、研究者間の対話と議論、協力の主要な手段である。この手段により、 カトリック聖書研究者は、ほかの聖書研究学会および学界全般と相互に関係を保つことができる。
1486
 短期的に見れば、教養ある大衆から信仰教育を受ける子供に至るまで、聖書研究会や使徒職活動諸団体、 諸修道会など様々な範疇の読者に合わせて、きわめて大きな助けになるほかの出版物がある。 普及の才能がある学者は、聖書研究にこれが及ぼすはずの影響を確保するために、 きわめて有益で、実り豊かで、欠くことのできない働きをなす。この領域で、 聖書のメッセージの現在化の必要性がいっそう切実にわかるようにされる。 このことが意味するのは、聖書学者はわたしたちの時代の教育を受けた教養ある読者たちの正しい要求を 考慮しなければならないということであり、彼らの意図を汲んで、時代の制約を受けた二次的に詳細な事項と見なすべきこと、 神話的言語として解釈すべきことを、歴史的であり、かつ霊感を受けた、 その本来の意味として尊重すべきことを明確に区別しなければならないということである。 聖書各書の作成は、現代の言語によるのでなく、また20世紀の文体をもっているのでもない。 そのヘブライ語、アラマイ語、ギリシア語本文に用いられている表現法と文学様式は、 今日の男性と女性の読者にわかるようにされなければならない。そうでなければ、 聖書に無関心になるか、単純主義的に、つまり逐語的ないし空想的に解釈するかの誘惑にあうことになろう。
1487
 その任務は様々と異なるが、そのいずれにあっても、カトリック聖書学者には、神の言葉への奉仕のほかに目的はない。 その野心は、聖書本文に代えて、霊感を受けた著者たちが用いた古代の文書資料を復元するにせよ、 聖書学の最新の結論を現代的に提示するにせよ、その研究作業の成果にあるのではない。 反対にその野心は、聖書本文そのものをいっそう大きな光で明らかにし、それがいっそう深く尊重され、 絶えずますます歴史的に正確に、霊性的に深く理解されるよう支援することにある。

D. 神学の諸分野との関係
1488
 「知解を求める信仰」("fides quaerens intellectum")という意味で、 聖書学はそれ自体神学の一分野であり、ほかの神学諸分野と関係をもつが、その関係は密接であり、また複雑である。 実際に、組織神学は聖書学者が聖書本文と対面するときにある先行理解に影響を及ぼす一方、 他方では聖書学はほかの神学諸分野にこの諸分野にとって基礎となる事項を提供する。それゆえ、 聖書学とほかの神学諸分野の間には、それぞれの専門領域を相互に尊重しあいながら、対話の関係が確立している。

1.神学と聖書本文の先行理解(precomprehension)

1489
 聖書学者が聖書本文と向かいあうとき、必然的に先行理解をもっている。カトリック聖書学の場合、 信仰の確信に基づいた先行理解がある。 つまり、聖書は信仰を起こし、キリスト者としての生活を導くために、 神による霊感を受け、教会に託された本文であるという信仰である。この信仰の確信は、 自然のままの状態では聖書学者には得られない。 それは、教会の共同体の中で神学的省察によって考えぬかれた後に得られるものである。 それゆえ、聖書学者は自分の研究作業の中で、聖書霊感について、 また教会の命における聖書の機能についての教義学者の省察によって方向を与えられる。
1490
 しかし、これとは相互に、霊感を受けた本文を扱う聖書学者の作業は、 教義神学者が聖書霊感と聖書の教会的解釈の神学をより良く説明するために、考慮すべき経験を彼らにもたらす。 聖書解釈は、とくに聖書霊感の歴史的性格のいっそう生き生きした、 いっそう正確な自覚を引き起こす。それによって示されるのは、霊感の進行過程が歴史的なものであり、 その進行過程がそうなのは、それがイスラエルと原始教会の歴史の過程で行われたからだけではなく、 それぞれその時代の特徴をもち、聖霊に導かれて、 神の民の命の中で積極的な役割をはたした複数の人間を媒体として実現したからでもある。
1491
 ほかにまた、霊感を受けた聖書と教会の伝承との密接な関係を明言する神学が確証され、 明確にされているが、 それは聖書本文が形成された生活環境("Sitz im Lebe") が 聖書本文に及ぼした影響にますます大きな関心を聖書学者に持たせることになった聖書学の発展のおかげである。

2.聖書解釈と組織神学

1492
 神学の論拠(locus theologicus)としては唯一のものではないが、聖書は神学研究の基礎として特権的な位置を占める。 学問的厳密さと正確さをもって聖書を解釈するために、聖書学者の作業を必要とする。聖書学者は聖書学者の側から、 自分たちの研究を、「聖書の研究は」効果的に「神学の魂のようなもの」(『デイ・ヴェルブム』、第24項) となることができるように方向づけなければならない。 そのために、聖書各書の宗教的意味内容に特別な注意を払わなければならない。
1493
 聖書学者は教義学者が2つの極端を避けるのを助けることができる。それは、一方では教義の真理を、 重要性のないものと見なすその言語表現から切り離してしまう二元論であり、他方では人間的なものと神的なものを混同し、 人間の表現にある偶有的側面までも啓示された真理と考えるファンダメンタリズムである。
1494
 この2つの極端を避けるために、切り離すことなく区別し、それゆえ緊張が居残ることを受け容れる必要がある。 神の言葉が人間である著者たちの著作の中で表現されている。
 その考えと用語は神のそれであると同時に人間のそれであり、こうして聖書にあるものはすべて神から来ると同時に 霊感を受けた人間から来る。しかし、そこからそのメッセージの歴史的制約に絶対的価値をお与えになったということにはならない。 このメッセージは、解釈され、現在化されること、つまり過去のその歴史的制約から、少なくとも部分的に切り離され、 現在の歴史的制約に植え替えられることを許容するものである。聖書学者は、 教義神学者が教義の発展に貢献するほかの神学の論拠(locus theologicus)を考慮して続けるこの作業の基礎を固める。

3.聖書学と倫理神学

1495
 聖書学と倫理神学の関係についても、同じように見ることができる。 救いの歴史に関わる記述に密接に結びつけて、聖書は守るべき行為に関する多様な勧告、 すなわち戒律、禁令、法令、勧め、預言者の非難、賢人の教訓を提示する。 聖書学者の任務の一つは、この豊かな題材が意味するところを明確にし、こうして倫理学者の作業を準備することにある。
1496
 この任務は単純ではない。しばしば聖書本文は普遍的な倫理規則と祭儀的清浄規定、 特殊な法規を区別しようと心がけることはない。 すべては総合されている。 他方、聖書は、新約聖書にその完成があるという注目すべき倫理的発展を反映している。 それゆえ、倫理的な事柄に関して、ある立場が有効なものとしてあり続けるためには、 その立場が旧約聖書の中に確認されるだけでは十分ではない(たとえば、奴隷制度や離婚の慣習または戦争の場合に相手を全滅させること)。 倫理的意識に発展があったはずだということを考慮に入れさせる識別を働かせなければならない。 旧約聖書の文書群は、神の教育が直ちに取り除けなかった「不完全で時代の制約を受けたもの」 (『デイ・ヴェルブム』、第15項)を含んでいる。 新約聖書自体も、倫理の分野では解釈するのは容易でない。 それはしばしば表象豊かに、あるいは逆説的に、挑発的でさえある表現で示されるからである。 そこではユダヤ教の律法に対するキリスト教徒の関係は激しい論争の対象となっている。
1497
 それゆえ、倫理神学者が聖書学者に多くの重大な問題を突きつけることには理由があり、 それは聖書学者の研究にとって刺激となる。 ひとたびならず、その可能な回答は、 いかなる聖書本文も、問題とされることについて明示的には取り上げていないということである。 その場合でも、聖書の証言はその全体の力に満ちたダイナミズムにおいて捉えるなら、 実り豊かな志向性を見定めるのに助けにならないはずはない。 最も重要な点では、十戒の倫理は基本的なものとしてとどまる。 すでに旧約聖書は、「神にかたどって」 (創1:27)創造された人間の尊厳にまったく即した行為を要求する原則と価値を含んでいる。 新約聖書は、キリストにおける神の愛の啓示により、この原則と価値をいっそう大いなる光をもって明らかにする。

4.異なる視点とその相互交換の必要性

1498
 神学国際委員会は、1988年の教義の解釈に関する文書の中で、 現代になって聖書学と教義神学の間で争いが起こったことを思い出させた。 つづいてそれは、現代の聖書学が組織神学にもたらした積極的な貢献も指摘する(『教義の解釈』、1988年、第1章2)。 より正確に言えば、争いは自由主義的聖書学によって引き起こされたと言い加えるのが有益である。 カトリック聖書学と教義神学の間に全面的な意味で争いはなく、ただ厳しい緊張の時期があっただけである。 しかしながら、どちらの側からにせよ、もしそれ自体正当な視点の相異を、 折り合いのつかない対立に変えてしまうまでに頑なに捉えるなら、緊張関係が争いになるということも、事実である。
1499
 実際に視点は相異しており、また相異していなければならない。聖書学者の任務は聖書本文の意味を、 その本来の文脈の中で、つまりまずその特別な文学的、歴史的文脈の中で、つぎに聖書正典の文脈の中で、 正確に識別することである。 この任務を果たす中で、聖書学者は聖書本文に神学的意味があるとき、 それを明るみに出す。このように聖書学とさらなる神学的省察の間に連続の関係が可能とされる。 しかし、視点は同じではない。 聖書学者の任務は、基本的に歴史的であり、記述的(descriptive)であって、 聖書の解釈に限るからである。
1500
 それに対して教義神学者は、より思弁的で、より組織的な活動を果たす。 この理由で、教義神学者は聖書の幾つかの本文と幾つかの側面にしか真に関心を持たず、 これとは別に聖書以外のほかの多くの事項  − 教父文献、公会議決議、そのほかの教導職文書、典礼 −、 それに哲学体系と現代の文化的、社会的、政治的状況を考察に含める。 その任務は単に聖書を解釈することではない。 それはキリスト教信仰を、そのすべての次元において、とくに人間実存との決定的な関係において、 余すところなく省察して理解しようと目指すことにある。
1501
 その思弁的で組織的な志向性のゆえに、 この神学は聖書を教義の命題を確証するための証明用文言集(dicta probantia)の貯蔵庫と見なす誘惑にしばしば陥った。 われわれの時代では、 教義神学者は古代の本文を正しく解釈するためには文学的で歴史的な文脈が重要であるとの生き生きした意識を持つに至り、 いっそう聖書学者の協力を求めるようになった。
1502
 文書化された神の言葉として、 聖書はいかなる組織神学の中にも完全に取り込まれることも、閉じこめられることもできない豊かな意味を持つ。 聖書の主な機能の一つは、神学の諸体系に対して深刻な不信を投げかけ、 神の啓示と人間の現実には重要な諸側面があることを引き続き思い起こさせることである。 この人間の現実は、組織的省察の努力の中ではときどき忘れられ、疎かにされがちであった。 聖書学研究法の刷新はこの自覚を持たせることに貢献することができる。
1503
 これとは相互に、聖書学も神学研究によって説明されるようにしなければならない。 神学研究は聖書本文に重大な問題を投げかけ、 そこにあるすべての意味とその実りの豊かさをより良く見出させるよう刺激することであろう。 聖書の学問研究は、神学研究からも、教会の霊性的経験と識別から孤立してはあり得ない。 聖書研究は、全世界の救いに向かって進むキリスト教共同体の生きた信仰の文脈の中で行われるとき、きわめて優れたその実を結ぶ。


第4部 教会の命における聖書の解釈
1504
 聖書学者の特別な任務は聖書の解釈であるが、これは彼らの独占物ではない。それは教会の中で、 本文の学問的分析を超える側面を含むからである。 実際に教会は聖書を、ただ単にその教会の起源に関わる歴史の文書資料の総体とは考えない。 教会は聖書を現時点における自分に向けられ、全世界にむけられた神の言葉として考える。 この信仰の確信は、 結果として聖書のメッセージの現在化(仏語actualisation、英語actualization)と文化内順応(inculturation)の実践、 それに典礼や「聖なる読書」(lectiodivina)、司牧宣教の務め、教会一致運動におけるその霊感を受けた本文の様々の活用法を生む。

 A.現在化(Actualization)
1505
 聖書そのものの内部に  − すでに前章で指摘したとおり −、 現在化の実践があるのを確認することができる。 つまり、より古い聖書本文は新しい環境の光に照らして再読され、神の民のその現時点の状況に適用されてきている。 その同じ確信に基づいて、現在化は信仰共同体の中で必ず実践され続けている。

1.原則

1506
 現在化の実践の基礎となる原則は以下のとおりである。
 現在化は可能である。聖書本文は、その意味の充満のゆえに、 すべての時代とすべての文化にとって価値あるものだからである (イザヤ40:8;66:18−21;マタイ28:19−20)。 聖書のメッセージは、各時代の人間の価値体系と行動規範を相対化すると同時に実り豊かなものとする。
1507
 現在化は必要である。そのメッセージがいつまでも続く価値をもつとはいえ、 聖書本文は過去の状況の中で機能を果たすものとして、それぞれ異なる時代の制約を受けた言語で作成されているからである。 今日の男女の読者にとって聖書本文がもつ意味を明らかにするためには、そのメッセージを現在の状況に適用し、 現時点に適合した言語をもってそれを表現する必要がある。このことは、歴史的制約を通じて、 何がメッセージの本質的な要点であるかを識別することを目指す解釈学的努力を前提とする。
1508
 現在化が絶えず考慮に入れておかなければならないのは、 キリスト教の聖書の中で、新約聖書と旧約聖書の間にある複雑な関係であり、新約が旧約を成就すると同時に超越している事実である。 現在化は、このように成り立つダイナミックな統一性との整合性をもって実行される。
1509
 現在化は信仰共同体の生きた伝承のダイナミズムによって実現する。これは、聖書が誕生し、 保持され、伝達された共同体の延長の中に明示的に位置する。現在化の中で伝承は二重の役割を果たす。 一方では、それは誤った解釈から守る世話をする。他方では、それは本源の(original)ダイナミズムの伝達を保証する。
1510
 それゆえ、現在化は聖書本文の操作を意味しない。それは聖書本文に新しい意見やイデオロギーを投影することではなく、 現在の時代のためにそこに含まれている光を誠実に探求することである。 聖書本文はどの時代にもキリスト教の教会の上に権威をもち、その作成の時期から幾世紀も経ったとはいえ、 だれも操作することができない、特権的位置を占める道先案内としての役割を果たし続ける。教会の教導職は、 「神の言葉の上にあるのではなく、これに奉仕するものであり、伝承されたもの以外に何も教えるものではない。 教導職は、神の命令と聖霊の助けによって、神の言葉を敬虔に聞き、 これを聖なるものとして保ち、忠実に説明する」(『デイ・ヴェルブム』、第10項)。

2.方法

1511
 この原則を出発点として、現在化のために様々な方法を利用することができる。
 すでに聖書の内部で実践されている現在化は、続いてユダヤ教の中で、 タルグムとミドラシュに認めることができる手法により続けられた。並行箇所の研究(ゲゼラ・シャヴァ)、 聖書本文の読みかたの変更(アル・ティクレイ)、第2の意味の採用(タルテイ・ミシュマア)などがある。
1512
 教会の教父たちは教父たちで、当時のキリスト教徒の状況に合わせて聖書本文を現在化するために、予型論と比喩を用いた。
 われわれの時代では、現在化は思考形態(mentalité)の変化と聖書研究方法の発展を考慮しなければならない。
1513
 現在化は、聖書本文の字義的意味を見定める、正しい聖書解釈を前提とする。 現在化する者自身が聖書学の養成を受けていないなら、聖書解釈を良い方向に向かわせてくれる、 聖書を読むための優れた手引き書の助けを借りなければならない。
1514
 現在化を正しく進めるために、聖書による聖書の解釈は最も確実で、最も実り豊かな聖書解釈法である。 これは特に旧約聖書の本文が旧約聖書そのもの(たとえば出エジプト第16章のマナが知恵16:20−29において)の中、 および/あるいは新約聖書(ヨハネ第6章)の中で再読されている場合に言える。 キリスト教の信仰生活では聖書本文の現在化はキリストと教会の秘義との関連づけなしには正しく行われることはできない。 たとえば、解放闘争のための模型として、ただ旧約聖書の挿話(出エジプト第1−2章、マカバイ記) だけをキリスト教徒に提示するのは、正常ではないであろう。
1515
 解釈哲学に発想を得れば、解釈の行程にはつぎの3段階がある。 1.現在の状況にあって、そこから御言葉を聞く。 2.聖書本文が照らし出したり、問題にしたりする現在の状況の諸側面を識別する。 3.聖書本文の意味の充満から、キリストにおける神の救いの意志と整合性があって、 現在の状況を実り豊かに発展させることができる要素を汲み取ること。
1516
 現在化によって、聖書は現実にある数多くの問題を明るみ出している。 たとえば、教会の役務の問題、教会の共同体としての次元、貧しい人々の優先的選択、 解放の神学、女性の社会的条件がそれである。 現在化によって、現代人の意識が日増しに認めるようになった諸価値に関心が高まるようになることもあるかもしれない。 そのようなものとして、人権、人命尊重、自然保護、世界平和への希求がある。

3.限界

1517
 聖書の中に表現されている救いの真理にいつまでも即応したものであるために、 現在化には幾つかの限界があることを重視し、正道を外れることがないように警戒しなければならない。
 いかなる場合も聖書を読むにはその本文を選択して読まざるを得ないとはいえ、 偏った読みかたは、すなわち、聖書本文に素直である代わりに、 偏狭な目的のためにその本文を利用するような読みかたは避けなければならない。 (そのようなものとして、たとえば種々のセクトによってなされる現在化の場合やエホバの証人の場合がある)。
1518
 現在化は、聖書本文が基本的に目指すものとは即応しない理論的原理に基礎を持っていれば、そのすべての価値を失う。 そのようなものとして、たとえば信仰に反対する唯理主義や無神論的唯物論がある。
1519
 福音的正義と愛に相反する意味をもって目指される現在化は、いかなるものであれ、 排斥しなければならないことも当然である。 たとえば、人種差別を聖書本文に基づかせようとするものや反セム主義(反ユダヤ主義)、 または男にせよ、女にせよ、性差別がそれである。第2ヴァティカン公会議の精神 (『ノストラ・アエタータエ』第4項)にしたがって、特に注意しなければならないのは、 ユダヤ教徒に対する敵対的態度を挑発したり、 後押ししかねない意味で新約聖書の幾つかの本文を現在化するのを絶対に避けることである。 反対に過去の出来事の悲劇は、新約聖書によると、ユダヤ教徒が神にとって今も「愛すべきもの」であり、 「神が与えた賜物と召し出しとは悔やまれてはいない」(ロマ11:28−29) ことを絶えず思い起こすようにさせるはずのものだからである。
1520
 もし現在化が聖書本文の正しい解釈から出発し、教会の教導職の導きのもとで生きた伝承の流れの中で行われるなら、 正道を外れることは避けられよう。
 いずれにせよ、正道を外れる危険は、聖書のメッセージをわたしたちの時代にその人々の耳と心にまで届かせるという、 欠くべからざる任務を達成することに反対するには、有効な反論とはならない。

 B.文化内順応(Inculturation)
1521
 異なる時代をとおして聖書を実り豊かなものとして留める現在化の努力に対応して、 異なる地域のためにあるのが文化内順応の努力であり、これはきわめて相異する地域に聖書のメッセージが根付くのを保証する。 とはいえ、この相異性はけっして全面的なものではない。 実際に、真にその名に価する文化はどれも、それぞれの形態ではあるが、神に基づいた普遍的価値をもっている。
1522
 文化内順応の神学的基礎はつぎの信仰の確信にある。つまり、神の言葉はこれが表現されることになった文化を超越し、 またすべての人間にその生きている文化的文脈の中で届くように、ほかの諸文化の中にも広がる能力をもつということ。 この確信は聖書そのものから来る。聖書は創世記からはじまって普遍的志向性を有し(創1:27−28)、 続いてアブラハムとその子孫のゆえに万民に約束された祝福の中でそれを保ち(創12:3;18:18)、 キリスト教の福音を「すべての国民に」まで広がるようにして (マタイ28:18−20;ロマ4:16−17;エフェ3:6)、 それを決定的に確かなものにする。
1523
 文化内順応の第1段階は、霊感を受けた聖書をほかの言語に翻訳したことにある。 この段階は旧約聖書の時代から始められたが、それはそのヘブライ語本文が口述でアラマイ語に (ネヘ8:8、12)、さらに時代が下がって書面でギリシア語に翻訳された時に始められた。 実際に、翻訳は常に原本の本文の単なる移し替え以上のものである。 一つの言語から別の言語への移行は文化的文脈の変化を必然的に意味する。 ここでは、概念は同一ではなく、象徴の意味も異なる。 別の思想伝承と別の生活形態との関連に入るからである。
1524
 ギリシア語で書かれることにより、新約聖書はそのすべてにおいて文化内順応のダイナミズムの特徴をもつものになっている。 イエスのパレスティナ的メッセージをユダヤ・ヘレニズム的文化の中に移しているからである。 新約聖書は、まさにこのことにより、ただ一つの文化圏の限界を超えるという明らかな意志を表明している。
1525
 聖書本文の翻訳は、基礎的な段階であるが、真の文化内順応を確かなものとするためには十分ではない。 これは、聖書のメッセージをそれぞれの地域文化に固有の感じかた、考えかた、生きかた、 表わしかたとの、より明示的な関係を持たせる解釈によって続けられるはずである。この解釈から、 つぎに文化内順応は別の諸段階に移り、 人間実存のすべての次元 (祈り、働き、社会生活、習慣、法制、学問、芸術、哲学および神学の考察)にまで及んで、 キリスト教的地域文化の形成に至る。 実際に、神の言葉は種であって、播かれた地から成長と実りに役に立つ諸要素を汲み取る(宣教活動教令第22項参照)。 したがってキリスト教徒が識別しようと努めなければならないのは、 「どれほどの富を神はその寛大さをもって諸国民にお与えになったか」ということで、 「彼らは同時に福音の光でこの富を明らかにし、解放し、 救い主である神の権威のもとにあらせるように努力しなければならない」(同第11項)。
1526
 だれにもわかることだが、ここではその推移は一方通行ではなく、「相互の生産性向上」である。 様々な文化に含まれる富は神の言葉に新しい実を結ばせる一方、他方では神の言葉の光は諸文化の中に有害な要素があればこれを除き、 価値ある要素があればその発展を促すために選択させる。 キリストその人とその過越秘義のダイナミズム、 その教会への愛に対してまったく忠実であることにより、2つの誤った解決法を避けることができる。 その一つは聖書のメッセージの表面的な「適応」であり、もう一つは混淆による混乱である。
1527
 東方と西方のキリスト教世界では、聖書の文化内順応は初期の数世紀以来行われ、実りの豊かなものであることを示してきた。 しかし、それで終わったと考えることは、けっしてできない。 その文化内順応は、引き続き発展する諸文化と関わりながら、絶えず取り組まなければならない。 比較的最近になって福音宣教が行われて国々では、問題は異なる。 宣教師は、不可避的にその出身国で文化内順応した形態でしか神の言葉を伝えない。 聖書の文化内順応をその外国の形態からそれぞれ自国の文化に応じた形態に移すために、新しい地域教会は大きな努力を払う必要がある。

C.聖書の活用
1.典礼における聖書

1528
 教会が始まったときから、聖書朗読はキリスト教典礼の不可欠の部分をなしてきた。 これは部分的にユダヤ教の会堂における典礼の遺産である。 現在も、キリスト教徒が聖書と接触をもつのは特に典礼をとおしてであり、とりわけ日曜日の聖体祭儀のときである。
1529
 原則として典礼は、中でも聖体祭儀がその頂点をなす特に秘跡としての典礼は、 聖書本文の現在化を最も完全に実現する。 典礼は、神に近づこうとキリストを中心に集まる信徒たちの共同体の中で、 その告知の場となるからである。 そのとき、キリストは、「聖書が教会の中で読まれるとき御自身が語られるので、 その御自分の言葉の中に現存しておられる」(典礼憲章、第7項)。 書かれた本文は、こうして生きた言葉となる。
1530
 第2ヴァティカン公会議が決定した典礼改革は、カトリック信徒に聖書の糧をいっそう豊かに提供するために尽力した。 主日のミサにおける三年周期の聖書朗読の中でも福音書が特権的位置を占めるようにされ、 われわれの救いの原理としてのキリストの秘義がいっそう明らかになるようにされた。 規則的に旧約聖書の本文を福音書の本文と関連づけて、 この朗読周期はしばしば聖書解釈としては予型論の道を示唆している。周知のとおり、 これは唯一の可能な解釈ではない。
1531
 神の言葉をきわめて顕著に現在化する説教は、典礼にとって欠かせない部分である。 このことについては、司牧宣教における聖書との関連で詳しく取り上げよう。
1532
 公会議の指針(典礼憲章、第35項)によって作られた朗読用聖書は、聖書の朗読を 「いっそう豊富に、多様に、適切になるように」するはずであった。 その現状では、 この方針は部分的にしか答えられてはいない。 しかしながら、それがあることにより、 教会一致運動に良い結果がもたらされた。 ある国々では、それによってカトリック信徒における聖書との親しみの欠如が測らされることにもなった。
1533
 御言葉の祭儀は、教会の秘跡それぞれの祭儀執行において決定的に重要な要素である。 これは単なる一連の朗読にあるのではない。 それは等しく沈黙と祈りの時間を含まなければならないからである。 典礼、とりわけ聖務日課(教会の祈り)は、聖書の詩編からとってキリスト教共同体を祈るようにさせる。 その賛歌と祈りにはすべて聖書の言語とその象徴が滲み込んでいる。 したがって、典礼への参加を、どれほど聖書を読む習慣によって準備し、この習慣に合わせる必要があろうか。
1534
 もし聖書が朗読されるとき、「神が御自分の民に言葉をかけられる」 (『ローマ・ミサ典書』、第33項)のなら、 御言葉の祭儀は、朗読の告知にしてもその箇所の解釈にしても、 当然大きな心遣いをもってなされなければならない。 それゆえ、祭儀集会の将来の司会者およびその協力者たちの養成には、 力強く刷新される神の言葉の祭儀が要請するものを十分考慮するよう願いたい。 このように、皆が力を合わせることにより、「神の言葉とキリストの御体の食卓から生命のパンを受け取り、 信徒たちに差し出す」(『デイ・ヴェルブム』、第21項)という自分に託された使命を、教会は果たしていくことであろう。

2.聖なる読書(Lectio Divina)

1535
 聖なる読書(Lectio Divina)とは、聖書の多少とも長い数節を神の言葉として受けとめ、 聖霊が促すままに黙想と祈りと瞑想の中に進められる個人的または共同体的読書である。
1536
 聖書を規則正しく、つまり毎日読む心遣いは、教会における古い慣習に呼応する。 集団的慣習として、それは西暦3世紀に、オリゲネスの時代に認められる。彼は、 一週間継続して朗読された聖書本文に基づいて説教を行っていた。 その頃、聖書朗読と解説のために日々の集会が行われていた。 この慣習はその後顧みられなくなり、 キリスト教徒の中では必ずしも大きな成功を収めることはなかった(オリゲネス『創世記説教』、10の1)。
1537
 特に個人的慣習としての聖なる読書は、西欧中世盛期の修道院世界に認められる。 現代では、教皇ピオ12世が承認した聖書委員会の指針が、 在俗者であろうと修道者であろうとすべての聖職者にそれを勧めている (『聖書について』、1950年、EB.n.592)。 それゆえ、聖なる読書は個人的および集団的という2重の側面のもと、現在再び強く求められるようになった。 これによって追求される目的は、 内的生活と使徒的活動の実りの源泉としての「聖書への効果的で恒常的な愛」を起こし育てること (『聖書について』と『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』、EB.n.591,567)、 典礼のいっそう優れた理解も助けること、神学研究と祈りにおいて聖書が占める重要な位置を確かなものすることにある。
1538
 公会議文書『デイ・ヴェルブム』(第25項)も同様に、司祭たちと修道者たちが熱心に聖書を読むことを強く求めている。 さらに、 − これは新しいことであるが −、 それは「キリスト教徒」 が聖書の読書に慣れ親しんで"イエス・キリストを知るというあまりにもすばらしいこと" (フィリ3:8)」を身につけるように招いている。 そのために、いろいろな手段が提案されている。 個人的読書と並んで、集団による読書も勧められる。 公会議文書が強調するところでは、祈りが聖書の読書に伴うようにしなければならない。 祈りは、聖霊の霊感のもとで聖書のうちに出会う神の言葉に対する応答にほかならないからである。 神の民の中には共同体的聖なる読書のために数多くの自発的な活動が行われているが、 神とイエス・キリストにおけるその救いの計画を、聖書をとおしていっそう良く知ろうとするこの願望を励まさざるを得ない。

3.司牧宣教活動における聖書

1539
 『デイ・ヴェルブム』(第24項)に勧められ、司牧宣教活動における聖書の頻繁な利用は、 司牧者が用いて信徒が理解できる解釈学の類型にしたがって、いろいろな形態を取る。 それは、主として3つの場合、すなわち要理教育、説教、聖書使徒活動に分けられる。 多くの要因が、キリスト教的生活の一般的水準との関連で介在する。
1540
 要理教育における神の言葉の説明  − 典礼憲章第35項、要理教育の一般原則、1971年、第16項 −  にとって、第一の源泉としてあるのが聖書である。 この聖書は、伝承の文脈の中で説明されるとき、要理教育の教えの出発点、その基礎、その規範となる。 要理教育の目標の一つは、聖書に含まれている神の真理を見出させ、 神が人類に御自分の言葉で送るメッセージに出来るだけ広い心で答えるのを促す、 その聖書の正しい理解と、実り豊かな読みかたに導入することでなければならないであろう。
1541
 要理教育は神の啓示の歴史的文脈から出発し、旧約聖書と新約聖書の主人公と 出来事を神の計画の光に照らして紹介する必要がある。
 聖書本文から現在にとってのその救いの意味に移るためには、 いろいろな種類の注解書の発想のもとになっている多様な解釈学の手法を用いることが望ましい。 要理教育の実り豊かさは、用いられる解釈学の手法の価値に左右される。 聖書の出来事と主人公を年代的に順次生起するのを考えるにとどまるなら、 そこには表面的な解説にとどまる危険がある。
1542
 要理教育では明らかに聖書本文のほんの一部しか活用することができない。 一般的に言えば、新約聖書にしても旧約聖書にしても、その中にある特に物語が用いられる。 十戒もよく用いられる。同様に注目しなければならないのは、預言者たちの託宣であり、 知恵文学の教えであり、山上の垂訓のような福音書の長い講話の利用である。
 福音書の提示は、聖書の啓示全体の鍵となり、各自が答えなければならない神の呼びかけを伝える、 キリストとの出会いを呼び起こすようになされなければならない。預言者たちの言葉と 「御言葉の奉仕者たち」(ルカ1:2)の言葉は、この今のキリスト信徒に向けられたものとして現されなければならない。
1543
 同じような指摘は、 キリスト教共同体が現在もつ必要性に応じた霊的糧を古い本文から汲み取らなければならない宣教の役務にも当てはまる。
 現在、この役務は特に聖体祭儀の第1部の終わりに、神の言葉の告知に続く説教によって行われる。
1544
 説教の中でなされる聖書本文の説明では、その細部にまで長く立ち入ることはできない。 それゆえ、その聖書本文の要点、つまり共同体にとっても個人にとっても、 その信仰にとって最も参考になり、そのキリスト教的生活の向上にとって最も刺激となることを明らかにすることが肝要である。 このように貢献しながら、前に述べたことに沿って、現在化と文化内順応の働きをなさなければならない。 このために、解釈学の意義ある原理が必要である。 この分野における準備の欠如が結果的に招くのは、 聖書の解釈を深めることを断念する誘惑に出会い、徳育のための説教にとどまるか、 神の言葉によって照らすことなく現実問題を語るかのどちらかである。
1545
 多くの国々では、司牧宣教の責任者たちが典礼の聖書本文を正しく解釈し、 その意義ある現在化を行うのを助けるために、聖書学者の協力を得て、数々の出版物が出されている。 同様の努力が広がることが望ましい。
1546
 信徒たちに課せられる義務の一方的強調は、確かに避けなければならない。 聖書のメッセージは、神がお与えになる救いの良い知らせであるという基本的な性格を保つものでなければならない。 もし宣教がまず信徒に聖書の中に啓示されている「神の賜物を知る」(ヨハネ4:10)こと、 またそこから出てくる要求を積極的に理解することを助けるなら、 その宣教はいっそう役に立ち、聖書にいっそうふさわしい働きをすることになろう。
1547
 聖書使徒活動は神の言葉、生命の源泉として聖書を知らしめることを目標とする。 まず第1に、それは聖書がなおいっそう様々な言語に翻訳され、 この翻訳聖書が普及することを支援する。それは聖書研究グループの形成、 聖書講演会、聖書週間、聖書雑誌や書物の出版など、数多くの自発的活動を起こし、支持する。
1548
 信仰とキリスト教的活動を視野に入れて聖書を読むことを第一とする教会的団体や活動があって、 重大な貢献をもたらしている。多くの「基礎共同体」は聖書に焦点を合わせて集会を行い、 三つの目標、すなわち聖書を知ること、共同体を作ること、住民に奉仕することを掲げる。 ここでも聖書学者の支援は、健全な基礎に欠ける現在化を避けるために役に立つ。 しかし、無力な人々、貧しい人々が聖書を手にするのを見て喜ぶことができる。 その彼らは、霊的で実存的な観点から確かな聖書学からの光よりもいっそう突っ込んだ光 (マタイ11:25参照)を聖書の解釈と現在化にもたらしてくれるかもしれない。
1549
 出版物、ラジオ、テレビなどとマスコミ手段(「マス・メディア」)の日増しに増大する重要性により、 神の言葉の告知と聖書の認識も、こうした手段を使って積極的に行き渡るようにすることが求められる。 それにはまた特別な側面があり、他方その影響は広く公衆に及ぶので、その利用のためには特殊な準備が求められ、 これによっていい加減な行き当たりばったりも、人目を引く悪趣味の効果も避けることができる。
 要理教育であれ、宣教であれ、聖書使徒活動であれ、聖書本文は常にそれにふさわしい尊敬をもって提示されなければならない。

4.教会一致運動(Ecumenism)における聖書

1550
 組織化された特殊な運動として教会一致運動は、比較的最近のものであるが、この運動が回復しようと掲げる、 神の民の統一の考えは深く聖書に根をもつ。 この目標は、主が常にその心にかけておられた(ヨハネ10:16;17:11、20−23)。 それが前提とするのは、キリスト教徒が信仰と希望と愛において(エフェ4:2−5)、お互いに尊敬しあい(フィリ2:1−5)、 連帯しあう中で(1コリ12:14−27;ロマ12:4−5)、ひとつに結ばれているということであり、 しかしまた特に、ぶどうの木とその枝(ヨハネ15:4−5)のように、 頭とその肢体のように(エフェ1:22−23;4:12−16)キリストに有機的にひとつに結ばれているということである。 この結びつきは、御父と御子の結びつき(ヨハネ17:11、22)を映して、完全なものであるはずである。 聖書はその神学的基礎を明確にしている(エフェ4:4−6;ガラ3:27−28)。 最初の使徒的共同体はその具体的で生きた模型である(使2:44;4:32)。
1551
 教会一致運動の対話が出会う諸問題の大半は、聖書本文の解釈と関係がある。その幾つかは神学上の問題である。 終末論、教会の構造、首位権と団体性、結婚と離婚、役務的祭司職への女性の任用などがこれである。 ほかのものは、教会法的で権限上の問題である。それは普遍教会と地域教会の管理に関わるものである。 最後に、そのほかの問題は、厳密に聖書に関するものである。正典書目録、幾つかの解釈学上の諸問題がそれである。
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 聖書研究は聖書研究だけでこの問題をすべて解決すると言い張ることができないとはいえ、 教会一致運動に重大な貢献をするよう召されている。大きな進歩がすでに実現されている。 同じ研究方法と同類の解釈学的志向性を採用することにより、いろいろなキリスト教各派の聖書学者は、 多くの共同訳聖書の訳文とその注記およびほかの出版物が示しているとおり、聖書の解釈において大いなる合意に達した。
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 また別に認めてしかるべきなのは、幾つかの特別な点で、聖書の解釈に相違があっても、 これはしばしば刺激となり、相互に補完しあい、豊かにするものとして現れる得るということである。 これは、その相違が様々なキリスト教諸共同体のそれぞれ特別な伝承の意味を表現し、 こうしてキリストの秘義の多様な側面を言い伝えるときに言える。
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 聖書は信仰の規則の共通基盤であるから、教会一致運動の至上命令がすべてのキリスト者にとって意味するのは、 霊感を受けた聖書本文を、聖霊に対して素直に、愛をもって、誠実に、謙遜に再読するようにと、 またこの本文を黙想してそれに生き、こうして心の回心と聖なる生活に達するようにとの切実な呼びかけである。 その回心と生活は、キリスト教徒一致のための祈りと共に、すべての教会一致運動の魂である(エキュメニズム教令第8項参照)。 そのために出来るだけ多くのキリスト教徒に聖書の獲得を容易にし、共同訳を  − 共通の聖書本文は、共同で読んで理解するのを助けるから −  励まし、教会一致運動の祈りのグループを促進し、 こうして正真正銘の生きた証言をとおして、相違における統一性の実現に(ロマ12:4−5参照) 貢献するようになることが必要である。


結論
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 この長い論考  − にもかかわらず、多くの点であまりにも短いままではあるが −  の中で言われてきたことから、 明らかにされる第一の結論は、聖書学研究は教会の中で、また世界の中で欠くべからざる任務を果たしているということである。 聖書を理解するためには、これなしで済まそうとするのは幻想であり、霊感を受けた聖書に対する尊敬の欠如を示す。
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 聖書学者を翻訳者の役割にしてしまうことを主張して(聖書を翻訳するということはすでに解釈の作業を行うことであるのを知らずに)、 またさらに彼らに従ってその研究するところにまで行くことを拒否して、ファンダメンタリズムの信奉者は、 神の言葉に対する全面的忠実の大いに賞賛すべき心遣いをもってではあるが、実際には聖書本文の正確な意味からも、 また受肉の秘義より来る結果を全面的に承認することからも、遠く離してしまう道を進んでいることを顧みない。 永遠の言葉はこの歴史の正確なある時期に、ある特定の社会的、文化的環境の中で肉となられた。 その言葉を聞こうと望む者は、それが感知され得るものになったところで、人間知性の必要な助けを受け容れて、 それを謙遜に追求しなければならない。男性にも女性にも人間に語りかけるために、神は旧約聖書の時代から、 人間の言語のあらゆる可能性をとことん用いられたが、 同時にご自分の言葉をこの言語のあらゆる制約に服させることも余儀なくされた。 霊感を受けた聖書に対する真の尊敬が要請するのは、 その意味を良く把握することができるためにはあらゆる必要な努力が尽くされることである。 キリスト教徒各自が聖書本文をいっそう良く理解させてくれるあらゆる類の研究を個人的に行うことはできない。 これは確かである。この任務が託されているのが聖書学者であって、この領域ですべての人の利益のために責任を負う。
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 第二の結論は、聖書本文の本性そのものが要請するもので、 その解釈のためには歴史批判学的研究方法を少なくともその主要な作業において引き続き用いるべきだということである。 事実、聖書は無時間的真理の直接的啓示としてではなく、 まさに神が人間の歴史の中で自らを啓示なさった一連の介入を書きとめた証言として現れている。 ほかの諸宗教の聖なる教えとは異なり、聖書のメッセージは歴史の中に確固たる根をもつ。 そこから言えるのは、聖書の文書群はその歴史的条件を検討することなしに正しく理解することができないということである。 「通時的」研究は聖書研究にとって常に不可欠である。「共時的」に近づく道は、 これがいかなる関心をもつものであっても、それに代わるものではない。
 「共時的」に近づく道に実りある機能を果たさせるためには、 まず「通時的」研究の結論を、 少なくともその大きな線において受けとめる必要がある。
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 しかし、この条件が一旦満たされると、 「共時的」に近づく道(修辞的分析、語りの分析、記号論分析はじめそのほか) も容認することができ、これは聖書学をある部分で刷新し、きわめて有益な貢献をもたらしてくれる。 実際には、聖書が歴史批判学的研究方法の独占物であるとは、言い張ることはできない。 その研究方法にはその限界があり、さらされることになる危険もあるとの自覚をもつことも必要である。 最近発展を見た解釈学の哲学も、また他方では、わたしたちが聖書そのものの伝承と教会の伝承 における聖書解釈について考えることができた事項も、歴史批判学的研究方法が無視する傾向にあった 解釈問題の数々の側面に光を当てた。 実際に、この研究方法は、聖書本文の意味をその起源の歴史的文脈の中に位置づけてまさに確定することに気遣いながら、 その意味するところのダイナミックな側面とその意味の発展の可能性には時には十分に注意を払ってこなかった。 聖書が編集されたところまで行くことなく、ただ聖書本文を構成することになる資料とその伝承層形成の諸問題にだけのめりこむとき、 歴史批判学的研究方法は聖書研究の任務を完全に果たしているとはいえない。
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 聖書そのものがその証言である大きな伝承に忠実であることにより、 カトリック聖書学が出来るだけ避けなければならないのは、 この類の専門家にありがちな歪曲を避け、 その主眼とするところが信仰を深めることであるという神学の科目としての自己自身を維持しなければならないということ。 このことは最も厳格な学問研究に専念しなくてもよいということはほんの少しも意味しないし、 護教的な気配りによって聖書学諸研究法をねじ曲げることも意味しない。研究部門(本文批判、語学研究、文学批判など)は、 それぞれまったく自主性をもって進められなければならない固有の原則をもっている。 しかし、その専門分野はそのいずれにも、それ自体に目的があるのではない。聖書学の任務全体の組織の中で、 その主たる目的への志向性は実効力あるものとしてとどめられ、エネルギーが失われるのを避けさせなければならない。 カトリック聖書学には、超批判的分析の砂地の中に消える水の流れのようになる権利はない。 それは、教会と世界の中で、霊感を受けた聖書の内容を紛れなく伝えることに貢献するという生きた機能を果たさなければならない。
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 神学のほかの分野の刷新と、神の言葉の現在化と文化内順応のための司牧宣教の働きと連携しながら、 すでにその努力が向かっているのは、その目的にほかならない。 現に問題になっているものを検討し、またこの主題について幾つかの考えを書き表すことにより、 この論考がカトリック聖書学の役割について皆さまの側でいっそう明確な自覚を持っていただくのに役立ったことと期待する。

  ローマにて、1993年4月15日、
教皇庁聖書委員会

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