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教会における聖書の解釈
−教皇庁聖書委員会−

PONTIFICIA COMMISSIO DE RE BIBLICA
L'interprétation de la Bible dans l'Église
die XV mensis aprilis
MCMXCIII
4.文書の解説:Commentary 
和田 幹男


教皇庁聖書委員会『教会における聖書の解釈』解説


(T)教皇ヨハネ・パウロ2世の記念演説
演説の要点
第1部 『プロヴィデンティッシムス・デウス』から『ディヴィノ・アフランテ・スプリトゥ』ヘ
第2部 カトリック聖書解釈と受肉の秘義との調和
第3部 聖書委員会の新しい文書
参考文献
(U)教皇庁聖書委員会『教会における聖書の解釈』
a)内容目次
b)内容解説
(1)全体的展望
(2)本文書の新しい側面
(3)第1部 聖書解釈の方法と近づく道
(4)第2部 解釈学の諸問題
(5)第3部 カトリック的聖書解釈の諸特徴
(6)第4部 教会の命における聖書の解釈と結論


( I ) 教皇ヨハネ・パウロ2世の記念演説解説


 1993年4月23日、教皇ヨハネ・パウロ2世は、 聖書研究に関する教皇レオ13世の回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』発布100周年と、 教皇ピオ12世の回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』発布50周年記念を祝って演説した。 この機会に教皇は、教皇庁聖書委員会が作成した文書『教会における聖書の解釈』を受け取り、謝意を表明した。 同教皇は、この新しい文書に言及する前に、聖書研究に関してレオ13世に始り、ピオ12世を経て、 この新しい文書に至る100年のカトリック教会教導職の歩みを振り返った。 その間大きな足跡を残した第2ヴァティカン公会議の啓示に関する教義憲章『デイ・ヴェルブム』に言及されているのは当然である。 この演説は、序文のあと、本論は3部に分けられて述べられ、結びで終わっている。 本論は、それぞれ次の小見出しが付けられている。
第1部 『プロヴィデンティッシムス・デウス』から『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』へ
第2部 カトリック聖書解釈と受肉の意義との調和
第3部 聖書委員会の新しい文書

演説の要点

第1部 『プロヴィデンティッシムス・デウス』から『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』へ
 演説の内容は、聖書研究に関してこの100年歴代教皇ないし そのもとで教皇庁が行ってきた指導とその業績を羅列するだけではない。 教会はそれぞれの時代にその時代の問題に直面してきたが、 教皇はここでその時その時の教会の応答の根底に一貫して流れるものは何かを明らかにした。 ここにこの演説の新鮮味と素晴らしさがあると思う。 この演説を読むだけでも、その新鮮味と素晴らしさが感じられようが、レオ13世に始まるこの100年の聖書関連公文書を読んでくれば、 その実感はなおいっそう強いことであろう。
 第1部で、教皇はこの100年の教会の歩みを振り返る。 19世紀に聖書研究の分野で歴史批判学的研究法が発展し、伝統的聖書解釈が軽蔑され、 教会の信仰そのものまで否定される危険があった。 これに対してレオ13世は、 歴史批判学的研究法そのものは否定せず、当時この研究法を用いる学者に潜む唯理主義を問題とした。 超越者なる神を否定または無視し、聖書のすべてをただこの世界内の物理的または 歴史的因果関係によってのみ説明できるとするその主義主張に問題があるとした。 したがって、同教皇は歴史批判学的研究法そのものについては、 むしろこれを正しく用いて研究を促進するよう奨励した。 その教皇の心にあったのは、聖書には人間の言葉としての側面があり、 これはあらゆる人間に関する学問の対象になるということである。
 その50年後に直面したのは、以前とは逆にその歴史批判学的研究法を否定し、 聖書のいわゆる「霊的」解釈を主張する教会内部の声であった。 これに対してピオ12世が与えた答えは歴史批判学的研究法の肯定であり、奨励であった。 この研究法は、当時すでにかなり洗練され、実りをもたらしつつあった。 ここでも、教皇の心にあったのは、聖書の言葉の人間的側面であった。 聖書は人間の言葉として歴史的、地理的に、また言語として、一般に文化的に制約を受けたものであり、 そういうものとして歴史批判学の対象となる。
 この聖書の言葉は、ただ人間の言葉であるだけでなく、神の言葉でもある。 それは人間の言葉をとおして伝えられる神の言葉である。この二つの側面を裂くことはできない。 レオ13世もピオ12世も、この切断に至らないよう警告したのだった。 それはナザレのイエスが人間であると同時に神であるということと切り離して考えられない。 イエスは神の御言葉が「肉」、つまり人間となったおかたであり、 したがってイエスは神性と人間性を兼ね備えている。 これはエフェソ公会議(431年)とカルケドン公会議(451年) において当時のギリシヤ語・ラテン語圏の教会でネストリウスやエウティケスが唱えた キリスト論に対して明文化された信仰であるが、その内容は教会の起源にさかのぼる。 これを受肉(incarnatio)の秘義という。聖書の言葉が「神的である」と同時に 「人間的である」ということは、その受肉の秘義との連関で受け継がれてきた信仰で、 ヨハネ・パウロ2世は二つ回勅の根底にこの信仰があることを明らかにした。


第2部 カトリック聖書解釈と受肉の秘義との調和
 まずこの受肉の秘義との関連で聖書を受けとめなければならないことを明示した回勅の箇所を引用する。 それは第2ヴァティカン公会議の啓示憲章第13項でも取り上げられているが、これは同憲章の最も感動的な箇所でもある。 このことは、聖書がすべて聖霊の息吹によって書かれた書物であるという一貫した教会の聖書観に基づくことは言うまでない。 そこでその人間の言葉としての側面を理解するために、歴史批判学的研究法がきわめて重要であり、欠かせないものだということになる。 教皇はこの研究法の重要性をあらためて強調する。 またその聖書の言葉の人間的側面を明らかにするために最近の学界で提唱されているほかの研究法にも注目すべきことがあることも説く。 しかし、この聖書の学問的研究で十分ではないと指摘する。 それは聖書の人間の言葉をとおして示される神の言葉、神が心を中を打ち明け、呼びかける声を読み取るところまで行かなければならない。 そうでなければ、前提的で二次的なことに終始し、最も重要なことを避けてしまうことになりかねない。 ここに現代の聖書学がただ煩雑になるばかりで、一部の専門家の占有物となり、 そのわりに聖書の豊かな内容は伝わってこないことへの警告があるかもしれない。 その高度に専門化した聖書学に対する拒否反応とその結果としてのファンダメンタリズムへの傾斜も耳にする。 それゆえ聖書学者も神に祈り、聖霊の光を願い、またその言葉に生きることが必要である。 またその言葉に生かされ、生きてきた信仰共同体、つまり教会との絆を保ち、その言葉を告げ知らせる活動に参加することの大切さを説く。 そういうわけで、聖書学者には教会の教導職のもとにありなかがらも、 その教導職の判断が成熟したものになるために働く任務があることも指摘する。


第3部 聖書委員会の新しい文書
 ここで教皇庁聖書委員会がこのたび作成した新しい文書について述べる。 まず聖書学者には未知の分野の開拓に向かって学問的自由があること、 また実際にこうして多くの実りがあったが、同時に未知の分野がさらに広がったことを言う。 これを前提として、カトリック聖書学の特質として、その文書にある精神の開放性 (l'ouverture d'esprit)を掲げ、それに平衡性(équilible)、つまりバランス感覚と、 これに必然的に伴う節度(modération)を加えている。 最後に聖書が全人類に宛てられたものであるから、 すべての人が理解できるように聖書の解釈は易しいものでなければならず、 また時代を越えてのその聖書の内容の現在化(actualisation)と、 地域を越えての文化内順応(inculturation)に努める必要性を説いている。 このように教会における聖書の解釈が来たる3千年紀の世界にとって光となり、愛を増し、 「新しい飛躍」の動因となるようにとの願いを表明している。 確かに開放性、平衡性、節度、現在化、文化内順応は、この新しい文書を理解するための鍵言葉と言えよう。


参考文献:
この演説はフランス語で行われた。原文はL'Osservatore Romano, Cittàdel Vaticano, 24.4.1993, pp.6-7に掲載。
参考文献は上記のほか、
1. L'interprétation authentique de l'Écriture Sainte est capitale pour la foi chrétienne,
Documentation Catholique, 6 juin, 1993, 503-509
2. Päpst Johannes Paul II, Ansprache zum neuen Bibeldokument, Bibel und Kirche, 49.Jahsgang.Quartal 4/1994, 174-180 (独訳)


 ( II ) 教皇庁聖書委員会『教会における聖書の解釈』解説

 a)内容目次 

・教皇庁聖書委員会文書への序文、J・ラッツィンガー枢機卿

・導入部: A) 現在の問題点
B) 本文書の目的


・本論

第1部 聖書解釈の方法と近づく道

A.歴史・批判学的研究法:
1. 研究法の歴史
2. 原理
3. この研究法の実情:  
 本文批判(Textual Criticism)
 語学的分析(形態論、構文法)と意味論的分析
 文学批判(Literary Criticism)
 様式批判(Form Criticism)
 伝承史批判(la critique des traditions)
 編集批判(la critique de la redaction)
4. 評価

B.文学性に注目して分析する新しい方法:
1. 修辞分析(Rhetorical Analysis)
2. 語りの分析(Narrative Analysis)
3. 記号論分析(Semiotic Analysis)

C.伝承を基礎として近づく道
1. 正典論的に近づく道(The Canonical Approach)
2. ユダヤ教的聖書解釈の伝統を援用して近づく道
3. 聖書本文の影響史によって近づく道(Wirkungsgeschichte)

D.人文科学を用いて近づく道
1. 社会学的に近づく道(The Sociological Approach)
2. 文化人類学的に近づく道(The Approach through Cultural Anthropology)
3. 心理学的に、精神分析的に近づく道(Psychological and Psychoanalytical Approache)

E.社会的文脈から近づく道(Contextual Approach)
1. 解放の神学から近づく道(The Liberationist Approach)
2. 女性解放運動から近づく道(The Feminist Approach)

F.ファンダメンタリズムによる解釈:

第2部 解釈学の諸問題

A.現代哲学にける解釈学
1. 現代の展望
2. 解釈する場合の有用性

B.聖霊の息吹を受けた聖書の意味
1. 字義的意味(The Literal Sense)
2. 霊性的意味(The Spiritual Sense)
3. より充足した意味(The Fuller Sense、Sensus Plenior)

第3部 カトリック聖書学の諸特徴

A.聖書そのものの伝承におけるその解釈:
1. 再読(Relectures)
2. 旧約聖書と新約聖書の関係
3. 若干の結論

B.教会の伝承における解釈
1. 正典の形成
2. 教父たちの解釈
3. 聖書解釈における教会の様々な成員の役割

C.聖書学者が果たすべき任務
1. 基本方針
2. 研究活動
3. 教育活動
4. 出版活動

D. 神学の諸分野との関係
1. 神学と聖書本文の先行理解(precomprehension)と神学
2. 聖書学と組織神学
3. 聖書学と倫理神学
4. 異なる視点とその相互交換の必要性

第4部 教会の命における聖書の解釈

A.現在化(Actualization)
1. 原則
2. 方法
3. 限界

B.文化内順応(Inculturation)

C.聖書の活用
1. 典礼における聖書
2. 聖なる読書(Lectio Divina)
3. 司牧宣教活動における聖書
4. 教会一致運動における聖書

・結論


  b) 内容解説

(1)全体的展望
 J・ラッツィンガー枢機卿による序文のあと、短い導入部と4部からなる本論が続く。 序文では、枢機卿はどの聖書学研究法にも長所と限界があることを指摘し、 過去100年の研究の歴史を簡単に振り返る。こうして第2ヴァティカン公会議後30年経った現時点で、 聖書学研究がどこに位置しているか、聖書委員会の協力を得て見定めようとしたという。 導入部では、現在、何が問題かを要約し、本文書の目的がどこにあるかをいう。 その問題として、歴史批判学的方法は積極的に評価すべきであるが、 これがあまりにも高度に専門化し、そこから弊害が生じたという。 またほかの諸研究法が提唱されて、聖書学には混乱のおそれがある。 さらにこのような学問的聖書研究そのものへの拒否反応もあると指摘する。 そこで目的は、聖書学の現状を広く見渡して点検し、 カトリック聖書学は今後いかなる役割を果たすべきなのかをはっきりさせることにあるという。
 本論の第1部「聖書解釈の方法と近づく道」は、本論全体の3分に1を越える長いもので、 ここで現在、聖書学で用いられている研究方法を列挙し、そのそれぞれを要約し、 その長所と限界を指摘する。 第2部「解釈学の諸問題」では、解釈するとは何なのか、 その哲学を検討し、つぎに聖書の特別な性格、 つまり聖霊の霊感を受けた書としての聖書はいかに解釈すべきなのかを考察する。 第3部の「カトリック的聖書解釈の諸特徴」では、その特徴を明確にしてから、 聖書そのものの形成とその基盤となった伝承の中でのその聖書の解釈、 その延長としての教会の伝承の中での解釈ということに注目させ、 これを前提として今後聖書学者の果たすべき任務は何か、 聖書学と他の神学諸分野との関係はいかなるものかを明らかにする。 第4部「教会の命における聖書解釈」では、これまでの考察に基づいて、 いかに聖書を解釈すべきか、現在化と文化内順応の観点から説き、 教会の命のいろいろな領域でのその活用を具体的に指摘する。この全体をとおしての主旨は結論に要約される。
 このように本文書は、聖書関連の教皇庁公文書としては最も長いものである。 ここには現代聖書学の諸研究法を総点検し、解釈するという行為そのものを問い、 聖霊の霊感の書としての聖書の解釈において追求すべき重層的意味を指摘する。 つぎにカトリック聖書学は聖書そのものの伝承とそれを受け継ぐ教会の伝承を今後も続け、 その伝承のダイナミズムの中であくまで聖書原文に基づきながらその意味を追求べきこと、 さらに教会全体が聖書のメッセージを現在化と文化内順応も心して求め、その活用を具体的に提案している。 ここにはこの理論から実践へと、その全体をとおして見事な一貫性がある。

(2)本文書の新しい側面
 教皇庁の公文書にいつも見られるように、ここにも聖書は勿論のこと、 過去に公表された文書への言及ないし引用が多くある。 レオ13世とピオ12世の聖書回勅などが指摘されるが、圧倒的に多いのは、 第2ヴァティカン公会議の文書、なかでも啓示憲章である。 これによって、本文書が主として何を基礎としているかがわかる。 しかし、本文書には、これを超える内容もある。 特にそれは伝承の考察にある。 かつて伝承を考察するとき、 16世紀以来プロテスタントの「聖書のみ」との論争の枠の中で考察したが、 第2ヴァティカン公会議においてその論争に決着をつけ、論争から解放された。 同時にその後解釈の哲学が大いに活発になり、これと相俟ってその伝承の重みと広がりが改めて見直されるようになった。
 さらにまた、第2ヴァティカン公会議の啓示憲章では教会にとって聖書とは何なのかを問うた。 その聖書はいかに読むべきかについては、基本的なことを示すにとどめていた。 当時聖書学界で用いられていた歴史批判学を承認し、聖書の字義的意味の追求の重要性を説いた。 他方、神の言葉としての意味、つまり霊性的意味を読み取る必要も説いた。 その後、前述した歴史批判学的聖書研究の発展およびほかの多彩な聖書研究法の提案、 それに学問的聖書研究への拒否反応もあって、 あらためて聖書とはいかに解釈すべきものなのかも問わずにいられなくなった。 この「いかに」が、「何なのか」と聖書を捉えなおし、その理解も深めることにもなった。 この意味でも、本文書は第2ヴァティカン公会議と比較して、 聖書についていっそう深くて広い理解を示していると言えよう。 本文書全体を読んで、第2ヴァティカン公会議を基礎としなからも、 その後の30年に聖書の理解も成熟したと思わざるを得ない。 さらに遡って、1893年のレオ13世の聖書回勅の時点から見れば、 20世紀のカトリック聖書学界の発展は驚くべき成熟としか思えない。

(3)第1部 聖書解釈の方法と近づく道
 第1部は、大きく分けて歴史批判学的聖書研究法(A) と特に最近盛んに行われるようになった聖書研究法(B−F)を取り上げる。 ここで聖書研究「方法」("méthodes" exégétique)と「近づく道」 ("approche")の区別がなされるが、その説明によると、釈義の「方法」という用語により、 本文を説明するために用いられる学問的作業行程の総体をいう。「近づく道」という用語により、 ある特殊な観点からその向かう方向が定まっている研究をいうことにすると(n.1274の脚注参照)。

A.歴史・批判学的研究法:
 まず歴史批判学的研究法についてであるが、ここでは旧約聖書についても、 新約聖書についてもまとめて取り上げているので、きわめて概略的にならざるを得ない。 この研究法の歴史は古く、また現在でも基本的に必要な作業であるから、 要約してではあるが、ほかと比べて比較的詳しく解説される。 その歴史を簡単に振り返ってから、その原理は、基本的性格として歴史的であり、 批判的であることである。 それゆえ、神の啓示が人間の歴史の中で行われたことを基本信条とするキリスト教にとって欠かせない研究法だということである。 こうして、この研究法の実情として、現在この研究法がどのように実践されているかを概説する。 実はこの研究法も、幾つかの作業分野に分かれており、その一つ一つを、順を追って述べる。 そのそれぞれにも異なる研究史があり、過去には色々と問題があった。 そういうものとして、まず本文批判(Textual Criticism)。 これは主として数ある写本を比較検討して原本に迫る作業である。 つぎに古代語学を援用して本文の各語、各述語を語学的に分析、 つまり文法にある形態論(morphologie)と構文法(syntaxe)の観点から検討し、 意味論的(semantique)にも分析する。 つづいて文学批判(Literary Criticism、これには文献批判との邦訳もある)を行う。 ここで文のまとまり、つまり単元を見定め、そこに取り入れられている資料も検討する。 つぎに様式批判(Form Criticism)では、 その単元の文学様式とこれが用いられた社会環境、つまり「生活の座」を問う。 ここでその単元で著者は何を言おうとするのかが、読み取られる。伝承史批判(la critique des traditions)は、 特にモーセ五書研究において、G・フォン・ラートとM・ノートが提唱した学説に現れる。 最後に編集批判(la critique de la rédaction)は、 伝承の中で最後の著者の編集作業によって作成された本文の言おうとする意味を問うもので、聖書解釈上最重要の作業である。
 総じてこの歴史批判学的研究法の評価は、誤った先入観なしに用いられるなら、 この方法自体はきわまて重要なものと判断される(結論のn.1556も参照)。

 最近盛んに行われるようになった研究法(B−F)は、 第2ヴァティカン公会議当時では一部の学者の中にあったものもあるが、 その後インパクトをもつようになった。 それぞれ積極的に評価すべき主張を含むが、 限界と危険もあるとする。 ただし、ファンダメンタリズム(F)は避けなければならない(結論のn.1556も参照)。

B.文学性に注目して分析する新しい方法:
 聖書のメッセージを読み取るために歴史・批判学的研究方法(A)に加えて、 その言語の文学性にも注目しなければならない。 20世紀にこのことを力説し、多大の影響を与えた最大の学者は、 カトリックではL・A・シュンケル(Luis Alonso Schökel)と言える。 彼によると、言語(langage)には、日常語(langage commun)、専門語(langage technique)、 文学語(langage littéraire)という3つの層があり、 分かち合いたい経験や心の内面があまりにも豊かで、 日常語では表現できないときには、 日常語を文学語に変えて表現しようとするが、神の霊感を受けて書かれたとはいえ、 この聖書に用いられているのは、その文学語である。 それゆえ、この意味で聖書の文学性に注目しなければ、 そのメッセージは十分に読み取ることができない。その後、 一般に言語学の研究が大いに盛んになり、この文学性ということに限っても、 多様な聖書研究法が提案されてきた。
 1)修辞分析(Rhetorical Analysis):聖書本文に修辞法があることが特に注目されるようになった。 修辞法とは、あることを述べるときに、だた述べるだけでなく、 相手を説得しようとしていかに述べるべきかを考えて凝らされている術のことである。 ここに注目することにより、著者の意図がいっそう正確に、また深く読み取ることができる。 その聖書にある修辞法を分析するのに有効なのは、ギリシア・ローマ古典の修辞法か、 セム語族独特の修辞法か、最近提唱されている新修辞法か、議論がある。いずれにせよ、 修辞分析はきわめて有益だが、それだけでは十分とすることができない。
 2)語りの分析(Narrative Analysis):聖書は救いの出来事を語り伝え、 証しするものであるから、それに応じた伝達法は語りであり、叙述(証し)である。 この語り、叙述に特に注目して聖書本文を分析する研究である。 これは非聖書的な抽象概念で考案された従来の神学によるのではなく、 聖書そのものの伝達法で今日の聖書読者にそのメッセージを伝えるのにきわめて有効である。 しかし、それを真理とその理解の判断基準とするには不十分で、神学の伝統をまったく無視することはできない。
 3)記号論分析(Semiotic Analysis):F・ド・ソシュールの言語学理論に基づき、 特に聖書学に影響があるのはA・J・グレマスとそのパリ学派の言語学で本文が それ自体で意味するところのものを明らかにしようとする。確かに著者がその著作を公表すると、 この公表された著作は社会の中で著者の意図とは離れて独自の機能を果たすものである。 こういうわけでこの著作そのものがもつ本質と機能に注目して分析することはきわめて重要なことである。 またこの分析を聖書に適用することにより、人間の言葉となった神の言葉そのものの新しい側面を明らかにしてくれよう。 しかし、本文を書いた元来の著者や、その歴史的、文化的背景などをまったく無視し、 ある哲学的前提のもとに、現在ある本文の形式にのみ捕らわれて抽象的に分析するだけなら、問題は小さくない。

C.伝承を基礎にして近づく道。
 聖書本文の文学性に注目して分析する研究法は、 聖書のそれぞれの本文を研究対象とするが、 聖書各書、各本文は、大きな一つの宗教伝承をそれぞれ証しするものとして、 一貫性のあるものである。 この聖書の総体に注目して解釈しようとする道がある。
 1)正典論的に近づく道(Canonical Approach):聖書各書が聖書であるのは、 信仰共同体によってその信仰と倫理の基準として受容された全聖書に含まれてきたからにほかならない。 この受容が、本来正典という概念の基礎である。 この正典については、拙稿「旧約聖書の正典−諸教会の共通点と相違点−」、 『新共同訳聖書注解III、続編注解』、日本基督教団出版局、1993年、481−492頁参照)。 その正典の最終的形態に注目して聖書を解釈すべきだとするのが、B・S・チャイルドである。 他方、正典の成立過程に注目して聖書を解釈すべてきだとするのが、J・A・サンダースである。 この正典に着眼点を置くことは、きわめて重要であるが、歴史批判学的研究法に代わるものではなく、 これを補完するものと考えるべきであり、その具体的解釈は、 その正典成立過程の具体的な諸事情もまだ解明すべきことも多々あり、今後の課題である。
 2)ユダヤ教的聖書解釈の伝統を援用して近づく道:聖書が形成され、 その解釈が始まった時代のユダヤ教の歴史がきわめて顕著に明らかになってきた。 キリスト教の発生も新約聖書の作成もそのユダヤ教の中で行われた。そのユダヤ教の聖書解釈は、 われわれの聖書解釈にとって不可欠とも言えるほど重要な拠り所である。 ただし、ナザレのイエスをメシアであると信仰告白するとこユダヤ教との最大の相違点があり、これに伴い聖書解釈も異なる。
 3)聖書本文の影響史(Wirkungsgeschichte)によって近づく道: 聖書本文がその読者に与えた影響とその歴史も考慮して聖書を解釈すべきだとする立場。 確かにそれは正しい主張であり、たとえば雅歌の解釈に言えるように、豊かな実りをもたらした。 しかし、これは歴史・批判学的研究に代わるものではない。 また、ある時代の、ある解釈を解釈の基準として掲げることはできない。 その影響史の中には、反セム主義や民族差別など負の場合もあった。

D.人文科学を用いて近づく道に関して
 神の言葉は人間が生きている現実の中に根を下ろしたので、 この人間が生きているいろいろな現実の研究が、その神の言葉の理解に道を開いてくれる。 ここで特に社会学、文化人類学、心理学によって近づく道を取り上げるが、 人文科学のほかの諸科学を排除するわけではない。
 1)社会学的に近づく道(The Sociological Approach):文書と文書が作成された社会との相関関係は 聖書の場合も無視できない。 したがって、歴史・批判学的聖書研究は社会学的視点から補完されなければならない。 これは不可欠でもある。ただし、聖書が作成された時代の社会を知るためには資料は限られており、 その社会に現代の社会をモデルにした社会学的見識がどれほど通用するか、常に問題意識をもつ必要がある。 それに社会学的法則を超える独創的で創造的能力が人間個人に備わっている場合もあることを念頭に置く必要がある。
 2)文化人類学的に近づく道(The Approach through Cultural Anthropology) :文化人類学は言語、芸術、宗教、衣服、装飾、祝祭などあらゆる民族学的事物を研究し、 いろいろな類型の人間の特徴をその社会環境において見定めようとする。 これが、聖書に伝えられる古代イスラエルやイエス、原始教会の女性の位置とか、 祝祭の意義などを解明するのにきわめて有効な助けとなる。 しかし、それだけでは啓示の独特な内容を明らかにするには及ばない。
 3)心理学的、また精神分析的に近づく道(Psychological and Psychoanalytical Approache) :現代の心理学は人間の無意識の世界まで研究し、古代文書の理解に新しい光を投げかけた。 それは聖書研究をも豊かにしてくれた。神の啓示に用いられた人間言語の暗号を解いたり、 象徴言語に含まれる意味を発見させてくれたりする。 それゆえ、聖書学と心理学の対話は有益である。 しかし、学問として相互に批判的でなければならない。 それぞれの領域を見極めること、それに心理学者が有神論者か、無神論者かによってもその学説の真偽は分かれることとなろう。 これは心理学の領域外の議論である。

E.社会的文脈(Contextual approach)から近づく道
 ある書物の解釈は解釈者の関心によっても影響を受ける。 解釈者によってその書物のある側面が解釈され、ほかの側面が度外視されることがある。 聖書を解釈した著作を読むとき、このことを自覚して、批判的識別眼をもつことが大切である。 現在、解放の神学と女性解放運動への関心が、かなりの聖書学者の中に見られる。
 1)解放の神学から近づく道(The Liberationist Approach): 解放の神学は今世紀後半にラテン・アメリカの政治・経済・社会的現状を背景に第2ヴァティカン公会議 とそれに呼応したメデジンのラテン・アメリカ司教総会の方針の結果として出てきた。 それは、そこから世界のほかの地域にも広がった。 それはその諸国で劣悪な状況のもとで苦しみあえぐ 貧しい住民の心の叫びに答える聖書の読み方に支えられたものでもあった。 その聖書の読み方はきわめて貴重なものであることは言うに及ばない。 ただし、聖書を自分たちの関心のあるところだけに絞って読むことなれば、 また解放を唯物論のそれとと同じように理解し、その枠内で聖書を解釈するなら、問題がある。
 2)女性解放運動から近づく道(The Feminist Approach): 女性解放と社会学の2つの原理をもって聖書を解釈する。 この解釈法によって多くの女性の聖書学者が輩出し、 これまで男性主体の聖書学ではなかった発見もあった。 ただし、聖書本文の背景として聖書時代の女性の社会的位置について実証不可能なことを憶測をもって主張することがある。 このように聖書本文の内容そのものの拒否につながる可能性もある。

F.ファンダメンタリズムによる解釈:
 聖書を字義どおり解釈すべきだとし、学問的聖書研究をすべて拒否する。 これは信仰的に強く、信心深く見えるが、理性の自殺を強いるだけでなく、神の言葉の受肉の秘義の否定につながる。

(4)第2部 解釈学の諸問題
 第2部の解釈学の諸問題では、現代哲学の解釈学(herméneutique)における 「解釈する」とはいかなる行為かの議論(A)を述べてから、 聖書を解釈する場合に特別に留意すべきことを展開する。
 現代哲学は解釈するとはいかなることか、解釈そのものを問題とするようになった。 ここで主な 解釈学の理論を取り上げる。 特にR・ブルトマン、H・G・ガダマー、P・ リクールの説を紹介する。 つぎにその有用性を問い、解釈学理論の評価と限界を見極めようとする。 これまで意識されなかった解釈の新しい側面を明らかにするので、無視できない。 特にリクールの理論は、注目に価するとされているようである。 これは伝承の理解の深まりと共に聖書のメッセージの現在化を考える上で参考になるものであろう。
 つぎに聖書には聖霊の霊感を受けたものとして人間理性を超える側面があり、 この次元の意味もを明らかにする必要がある。 ここで字義的意味と、霊性的意味と、より充足した意味に分けて順を追って説明する。
 字義的意味(The Literal Sense):人間である聖書著者がその聖書本文に込めた正確な意味といえよう。 古代語学、その言語の文法と構文法の知識を前提とし、その本文で著者が何を言おうとするのか、 その意図を読み取る必要がある。 これが聖書を読むときの基礎である。 この意味が単純なものではなく、含みがあることがある。
 霊性的意味(The Spiritual Sense)については、 これがキリストの復活秘義とそこからくる新しい命に照らしての意味のことで、 字義的意味と霊性的意味の関係も必ずしも区別されるものではないという。 また字義的意味を離れては霊性的意味もないともいう。
 より充足した意味(The Fuller Sense、Sensus Plenior)については、 これは比較的最近に提唱されたもので、神の意図によって込められた意味であるが、 人間である聖書著者には隠された意味のことをいう。しかし。聖書本文そのもの 、あるいは真正な教義の伝承ないし公会議の決議による明示的な記述がなければ、主観的になる危険があるともいう。
 聖書本文に読み取るべき意味について、第二ヴァチカン公会議啓示憲章第12項『デイ・ヴァルブム』で基本的なことを述べるが、 本文書は要約的にではあるが、いっそう広く、深く説く。 聖書の読者に大いに参考になる。

(5)第3部 カトリック的聖書解釈の諸特徴
 第3部のカトリック的聖書解釈の諸特徴では、カトリック的聖書学が特別な学問的方法を採用し、 これによってほかと異なる特徴ある聖書解釈を行うものではないという。 その特徴はむしろ教会の生きた伝承の中にあると自覚するところにあり、 また聖書が示す啓示に忠実であろうとするところにあるという。 こうしてまず聖書形成の背後にあったイスラエルと原始キリスト教の伝承の中で解釈はいかなるものであったか(A)、 その後教会の伝承の中で解釈はいかなるものであったか(B)を述べる。 その終わりに教会のそれぞれの成員の果たすべき役割に触れるが、 続いてカトリック聖書学者の任務が特別に取り上げられ、 ここでその研究、教育、出版活動と勧告がなされる(C)。 ここで聖書学と神学のほかの分野との関係が言われる(D)。 このように後半はかなり具体的な指針となる。
 まず聖書そのものの伝承におけるその解釈では、聖書そのものが伝承を背景に、 その伝承を解釈して文書化したものであるという。 つまり聖書自体、解釈の書だということである。 その解釈と文書化は、きわめて多様であり、創造的でもある。
 そこでまず「再読」(Relectures)ということに注目し、聖書における再読を例題をもって説明する。 例えば、創157.18の約束の地から始まってヘブ915の天上の聖所への導入までの再読のプロセスをを取り上げる。
 ここでその観点から旧約聖書と新約聖書の関係を特別に説明する。 聖書学では学者は一般に専攻が旧約聖書と新約聖書に分かれるためか、 この両約聖書の関係について突っ込んで問われることがないきらいがある。 他方、キリスト教は聖書を旧約聖書と新約聖書からなる一つの書として受け取ってきた。 この一つの書という枠内で、旧約聖書と新約聖書の関係はいかなるものであるか。 第2ヴァティカン公会議は啓示憲章第16項で、その両約聖書の関係を取り上げ、 旧約の文書群がただ単に時代的に新約の文書群に先行して前提となっているのみならず、 内的に新約聖書の中に組み込まれ、さらに新約が旧約にすでに現存しているほど深く関連しあっていることを確認した。 このたびは、イスラエル宗教伝承における再読のプロセスという観点から、その両約聖書の深い関連を説明している。 聖書全体が信仰共同体の生きた伝承の中で産み出されたものなら、現在その聖書を読み、 解釈することもその同じ生きた伝承との繋がりの中で行う必要がある。
 つぎに、教会はイスラエルにおける宗教伝承の解釈とその文書化を続ける信仰共同体であることを確認し、 その延長線上に現在の解釈もあるという。 ここで正典の成立について述べるが、生きた伝承ということを背景に日本では見落とされてきた正典の本質的な側面も含めて説明される。 つぎに教父たちの解釈について述べてから、聖書解釈における教会の様々な肢体の役割を言う。 特にカトリック聖書学者の任務については(EB 1473-1487)、その聖書研究が教会的であり、 それに勿論、学問的であることが言われる(啓示憲章第6章23項参照)。 その基本方針は、神の啓示の歴史性を心に留めるので、 歴史批判学的方法を重視し、それに現代の要請に答えて解釈するので、 他の諸聖書解釈法にも心を開いていなければならないという。 それに神の言葉を解釈するのだということを忘れない。 こうして聖書本文のキリスト論的−正典論的−教会論的意味を明らかにする必要があるという。 それにその研究、教育、出版のための活動がいかなるものであるべきかが言われる。 最後に、聖書を研究するとき、何らかの先行理解ないし前理解(précomprehension) なしに聖書と向かいあわない者はだれもいないが、 カトリック聖書学者の先行理解はいかなるものかを述べる。 その先行理解は聖書を産み出したその原初的信仰共同体の信仰であり、 その信仰との親近性だという。そのあと、聖書学と組織神学、 倫理神学との関係をその基本において明らかにし、各学問研究の成果の相互交換の必要性を説いて結ぶ。

(6)第4部 教会の命における聖書の解釈と結論
 第4部教会の命における聖書の解釈において、 まずこの題名であるが、これは第2ヴァチカン公会議の啓示憲章第6章の題名と同じである。 したがって、それを前提としながら、またそこに暗に含まれていたものであるが、 特に聖書のメッセージの現在化(Actualization)と文化内順応(Inculturation)という表現を用いて、 この観点からいっそう充実したを説明する。 現在化は時代を超えて、文化内順応は国境を超えて、すべての人に向けられた聖書のメッセージを考慮して、 聖書学の役割ないし使命を考える。この2つの観点から聖書を読むということを考えるのは、 大いに参考になる。聖書は常に現在化されつつあった内容を文書化したもので、 この文書化された後も現在化されるよう要求するものである。 この現在化という用語は聖書学の中では用いられていたが、 第2ヴァチカン公会議の文書では見当たらず、新鮮さが感じられる。 他方、文化内順応はInculturationという用語の訳語だが、 このことが特に言われ出したは1970年代以降である。これは、 世界のグローバル化に則して意識されだした福音の本性にかかわることと言えよう。 この用語は、日本ではインカルチュレーションとか文化内開花と言われるが、 本文書にその説明があり、それはむしろ文化内結実と訳すことが適切であろう。
 最後にその聖書の現在化と文化内順応を、まず典礼から始め、 続いて個人的および共同体的「聖なる読書」(Lectio Divina)、 司牧宣教活動の現場、および教会一致運動(エキュメニズム)と分けて、 そのそれぞれの教会の生命活動において聖書をいかに活用すべきかを説明する。
 典礼における聖書(EB 1528-1534)は、啓示憲章第21項で述べられていることを前提としてこれを再認識し、 またそれと呼応して典礼における聖書の活用について典礼憲章が打ち出した刷新を振り返りながら、 その刷新をいっそう促進するように説く。
 「聖なる読書」(EB 1535-1538)は、典礼以外のときに聖書を読むことでこれを勧めている。 この聖書の読書は勉強ではなく、黙想しながら、祈りながら、瞑想しながら聖書を神の言葉として受けとめ、 読むことを意味する。それは個人的に読む形式もあれば、集団的に読む形式もある。 この習慣は古い時代からあるが、宗教改革時代以来カトリックは信徒が現代語で聖書を読むことに消極的であったため 疎かにされてきたと言えよう。しかし20世紀になってカトリックは聖書の重要性に目覚め、 教皇ピオ12世はこれを聖職者に繰り返し勧めた。啓示憲章は「聖なる読書」という用語を用いてはいないが、 第25項で聖書を読むことを聖職者のみならず、広くすべての信徒にも勧めている。 本文書はこの精神に沿って、明らかに「聖なる読書」という伝統的な用語を用いて広く信徒に勧めている。
 司牧宣教活動における聖書(EB 1539-1549)は、啓示憲章第24項を出発点として、 これをいっそう詳しく述べたもの。
 教会一致運動における聖書(EB 1550-1554)は、キリスト教徒の一致が聖書に基く至上命令であることを確認し、 その一致を妨げているものの中に聖書の正典目録や聖書解釈など聖書に関連した諸問題があるので、 この部門で聖書学者は教会一致運動に貢献すべき任務がある。 それは共同訳聖書やその注解などの実現ですでに貢献がなされている。 その目標の達成のために研究だけでなく、祈りと心の回心を欠いてはならない。

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