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エジプト脱出を敢行したイスラエルの先祖たちは、モーセに率いられ、荒れ野の道を通って約束の地カナンに向かった。 彼らはエジプトからまずシナイ山に来て(出1522−1827)、 ここで主なる神と契約を結ぶためにかなり長く滞在し (出191−4038; レビ紀全書、民11−1010)、 そこからまたヨルダン川東部のモアブの平野に向かって出発した (民1011−1445; 201−221; 申命記11−5)。 その旅程も書かれている(民331−49)が、実際に彼らが辿った道のりは、わからない。 今から3千年以上も過去の道も、地名も実際にどこにあったかわからない。 また聖書の記述を書いた人がそれをどこだと考えて書いたのだろうかということも、2千年以上も過去のことでわからない。 ここではその荒れ野の旅の前半、エジプトからシナイ山までを、4世紀以来のキリ スト教の伝承にしたがってしのぶこととする。 写真上はシナイ半島西部の荒れ野。写真下はマラの泉の苦い水を、 杖をもって甘い水に変えるモーセとイスラエルの進行をさえぎるアマレク人。 ローマ、サンタ・マリア・マジョーセ教会のモザイク、5世紀。 | |||||
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荒れ野の旅における不平の主題 彼らはまず、シュルの荒れ野の向かったと言われるが、それはどこにあったか、わからない。 三日の道のりを行くと、マラに着いたという(出1522−26)。 これもどこにあったかわからないが、キリスト教の伝承は、 スエズからシナイ半島西岸に沿って数キロ行ったところにあるアイン・ムサ、「モーセの泉」と言われるオアシスだとしてきた。 これは「苦い」という意味で、そのような名の泉があったかどうか、わからない。神はこれを甘い水に変えられたという。 荒れ野に入ると、まず水が問題となる。この水のことで、彼は不平を言った。 エジプトの苦役から救い出されるやいなや、彼らが言ったこの不平は反信仰的態度にほかならない。 このように、これから続く荒れ野の旅は、その後のすべての信仰者の歩みを意味している。 その逆行として不平は罪を意味している。しかし、民が罪深いのも事実だが、それ以上に神は憐れみ深い。 換言すれば、罪を犯すことによって、神の憐れみも体験することができる。 罪を犯したことがなければ、どうして神の憐れみがわかるのだろうか。 ここで掟の意味も考えさせられる。掟は人間が守るために与えられるのだが、人間は弱くそれを破ってしまう。 それは、掟が与えられるのは、人間が自分の弱さを感じ入り、頼るべきものは神の憐れみしかないということを知るためではないのか。 神はここで「わたしはあなたを癒す主である」(出1526)と言われる。 主なる神が癒しの神であることを明言する珍しい箇所である。 つぎに彼らは12の泉があり、70本のなつめやしが生えるというエリムに来た。 天からの不思議な食べ物 荒れ野を旅しながら、食糧も問題となる。イスラエルの先祖たちも早速不平をいう。その不平は冒涜的である。 「あなたたち(モーセとアロン)は、われわれをエジプトから連れ出した」(最も基本的な信仰告白)が、 それは「飢え死にさせるためだった」(出163)。 この冒涜にもかかわらず、神は天からの不思議な食べ物、マナとうずらを与えられた(出161−36)。 この不思議な食べ物については、民数紀111−34にも出ている。 しかし、出エジプト記161−36にマナとうずらが与えられたことが書かれているのは、 荒れ野の旅の始めから主なる神の配慮があったことを言うためであろう。 その不思議な食糧も毎日その日に食べる分が与えられたが、6日目はその倍の2日分が与えられたという。 このようにエジプトにおける束縛から解放されるやいなや、安息の日が与えられた。 この意味で安息の日は救いの恵みのひとつであり、しかもこの1日を労働しなくてもよいように、神が食糧を十分与えられるという、 神の恵みの豊かさを味わう日でもあるのではないだろうか。 写真は、マナとうずらが与えられる。ローマ、サンタ・マリア・マジョーレ教会のモザイク、5世紀。 |
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フェイランのオアシス イスラエルの先祖たちが向かったシナイ山がジェベル・ムサだとすると、その間にフェイランのオアシスがある。 これは南シナイ最大のオアシスで、豊かな水量を誇る。 地下の堅い岩盤に大量の水が溜められていて、2kmにおよぶなつめやしの林がある。 ここは聖書のレフィディムにあたるとされてきた。マサとかメリバと言われる泉もそのオアシスのことされてきた。 ここで神は岩から水を湧き出させたという(出171−7; 民201−13)。 初期の修道者たちもまずここに来て、ここからシナイ山の麓へと行ったと思われるが、 ここがシナイ半島南部のキリスト教徒の中心として、司教座もあった。 またここが、シナイ山に向かう巡礼者がその途中で訪れる地として、今も昔も変わってはいない。 エジプトからここに来るには、まずシナイ半島西岸に沿って南下し、アブ・ゼニマを経て石油の産地アブ・ルデイスを目指す。 ここから内陸部への道があって、この道を進むと、マガラに着く。 このあたりでトルコ石やマンガンが産出されたので、前3千年紀からファラオの遠征隊が送られたらしく、 エジプト象形文字や人物が刻まれた岩がある。またここはナバタイ人の隊商路でもあったので、岩山の麓にはナバタイ語の碑文もある。 そういうわけで、この涸れ谷は、ワジ・ムカタブ(碑文の涸れ谷)とも言われる。 左右にある高い岩山の間をぬって進むと、フェイランのオアシスに至る。 ここには小さい修道院とその庭もあるが、これもシナイ山麓のサンタ・カタリーナ修道院に属する。 |
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![]() 荒れ野の旅の苦労は、飲み水や食べ物に加えて、敵意ある民族からの襲撃もある。 聖書はアマレク人との戦いをイスラエルの先祖たちがレフィディムにいたときのこととして伝えている。 その戦いのとき、モーセは丘の頂に登って祈ったという。 モーセが手をあげて祈っている間、イスラエルは優勢になったので、戦いに勝つまでモーセが祈り続けるよう、 その両手をアロンとフルが支えたという(出178−15)。 このときモーセがアロンとフルと共に登ったという丘がフェイランのオアシスの近くにある。 戦いも信仰者の人生。ただし、その武器は「祈りと学問」(エラスムス)。 写真は、モーセが祈ったという丘 |
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![]() シナイ半島の遊牧民にイスラーム信仰を宣教した預言者の墓。 ここで毎年、200以上の遊牧民の部族が集まり、盛大な祭りを行うという。 それは数日続くが、これが商いのほか、嫁探し、婿捜しの機会になるという。ここから南に向かえばシナイ山。 |
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荒れ野の旅の神学 荒れ野の旅はその間に起こった色々な出来事の物語をとおして親しまれてきた。 苦い水が甘い水に変えられた物語(出1523−26)、うずらとマナを与えられた物語 (出161−36; 民111−34)、 岩から水が与えられた物語(出171−7; 民201−13)、 敵対する民族の妨害にあったこと(アマレク人との戦いは出178−16、 エドム人の通過拒否は民2014−21、シホンとオグとの戦いは民2121−35)、 カナンに偵察隊を送った物語(民13−14章)、青銅の蛇の物語(民214−9)など。 それにバラムの託宣のこと(民22−24章)、ペオルにおけるイスラエルの背信(民25章)と続く。 これらの出来事は預言書や詩編の中でも記憶され、言及されている。 荒れ野の旅が神の導きによって行われたということはイスラエルの信仰の基本に属し、その信仰箇条の一つであった。 従って、それはくりかえし「記憶」すべきものである(申82)。 旅は神の指図によって行われ、その物語で言われるように途中不思議な水も食べ物も与えられ、妨害者を退けることができた。 預言者はイスラエルに対するこの神の愛を思い起こさせている (アモス210; ホセア217; 111−4; 134−5; イザヤ6313−14; また詩7721; 7815−16.23−29.52−55; 10540−41)。他方、イスラエルはどうであったかと言えば、 荒れ野では神に忠実であり、 理想的であったという考えもあるが (アモス525; ホセア216−17; 111−4; エレ21−3)、 すでに神に不忠実であったという考えも現れる。しばしば言われる民の不平 (出1524; 162−10; 173; 民142.36など) や試し(出177)は不信仰の表明にほかならない。 この考えも詩編や預言書に見られる(詩7817−22.30−42; 8112−13; 958−11; 10614; エゼ2010−20)。 特に申命記は神の愛を思い起こさせる一方(申82−5)、 民の不信仰を強調し、その世代のみならず神に忠実なモーセまで罰として約束の地に入れなくされたとする (申11−329; 341−8、それに 43−4; 616; 922−24)。 また祭司文書も、シナイ山を出発してからの民の歩みを神に対する不従順と神の罰の始まりとしている (民1332; 142.26−29.35−37; 161−35; 201−13)。 このように回心を呼びかけ、律法への従順を説くものとなっている。 また第2イザヤは捕囚の地バビロンからの帰還を荒れ野の旅の再現として表現しようとする (イザ4316−20; 4820−22; 5211−12、また351−2.6−8)。 荒れ野の旅は新約聖書においてもイエスの受けた誘惑(マタ41−11; ルカ41−13)、 パン増加の奇跡(ヨハ622−59)などで前提されている (1コリ101−13; ヘブ37−19参照)。 謝辞:シナイ半島の聖地を3回旅する機会に恵まれた。 1回目は、1971年12月末、エルサレムのエコール・ビブリックの研修グループと共に、 2回目は1978年、3回目は1983年、日本からの巡礼団と共にであった。 特に1回目は野宿しながら、砂漠用トラックでの旅だった。 毎日、ミサがあり、みんなで食事を準備しながらの研修であった。 そのときの引率はドミニコ会士、故レモアン師。 30年以上経った今、同師を、またそのとき岩に刻まれた文字を読んでくれた E・ピュエシュ師、 写真をくれた T.コワスルキ師、考古学者 J・バレンシさんなど、みなを懐かしく思い、深く感謝する。 そのおかげでこの旅を書くことができた。 |