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日本語訳聖書の歴史
―素描―
和田 幹男

本稿は日本「キリスト教」総覧、別冊歴史読本事典シリーズ26、 新人物往来社、1996年、66−71頁に掲載されたものを基に、 その後の情報も加筆し、ささやかながら充実をはかった。02.05.26
 1.日本の古代

 最後に聖書に触れた国は、日本であろう。 それほど日本は、聖書が成立した地域と隔たっている。 しかし、日本と聖書との接触はかなり古くから始まっていたかもしれない。 エフェソ公会議(431年)で異端とされたネストリウスのキリスト教は東に伝わり、 ペルシアで栄え、さらに東へと中国にまで達し、ここでは景教と呼ばれた。 景教碑文によれば、唐の長安に阿羅本をはじめ宣教師団がきて太宗に優遇され、 638年に義寧坊に大秦寺という教会を建てた。折しもそれは日本が遣唐使を送りはじめた時期にあたり、 その後日本から中国に渡った僧侶たちが景教に接し、聖書にも触れた可能性がある。 厩戸皇子(うまやどのおうじ)ともいわれる聖徳太子が、片岡に行ったとき一人の乞食を憐れみ、 衣服を与え、あとで使いにその乞食を訪ねさせると、乞食は死んでいたが、 その墓は空で、衣服が棺の上にあったという(『日本書紀』巻第22)。 これは復活したイエスの「空の墓」の記述(ヨハネ20章)を思わせる。 もしその聖徳太子伝説が福音書から発想を得ているなら、 それはある種の聖書翻訳といえるかもしれない。 厩戸皇子(うまやどのおうじ)という名前そのものがキリストの誕生を思わせる。

 2.キリシタン時代

 日本が聖書に確かに触れたのは、1549年に来日したフランシスコ・ザビエルに始まるキリシタン時代になってからである。 彼自身聖書と注釈をもっていたことが、ルイス・フロイスの『日本史』に記録されている。 また1554年に日本にもたらされた図書目録があって、 200冊ほどの中で約3分の1が聖書関係で、旧新約全書が3部、 新約聖書が6部、詩編7部のほか注釈書、コンコーダンスまで含まれていた。 その聖書は当時西欧で流布していたラテン語訳ウルガタ聖書であった。 宣教師たちはこの聖書をミサなど典礼で用いる一方、教えを説きながらその一部を訳して聞かせたことであろう。 典礼上、宣教上必要に応じて聖書の和訳は個人的に宣教師によって始められ、 ルイス・フロイスによると1563年にはジョアン・フェルナンデス修道士によって四福音書の全訳が完成されており、 それは度島で起った火災で焼失したらしい。キリシタン時代の和訳聖書について、 新約聖書の一部であるが、その本文そのものがわれわれに伝わっている。 それはヴァティカン図書館で発見されたバレト写本である。これは2000年5月、 東京で開催された聖書展で展示された。 そこには1590年頃日曜日のミサの朗読用福音書抜粋が載せられている。 それは、H・チースリクによると大部分がマタイ福音書の抜粋で、 38箇所に及び、それは同福音書の半分にあたる。 そのほか、ルカとヨハネ福音書からそれぞれ32、27箇所、 それにマルコ福音書から4箇所、使徒言行録から1箇所ある。 そのほか聖書の和訳は、断片的であるが、多くあるキリシタン文書の中で引用される聖句に見ることができる。 たとえば、要理問答書『どちりいなーきりしたん』に引用される 「科を犯す者は天魔の奴也」はヨハネ8章34節の訳である。 この問答書と並んで要理を説くA・ヴァリニャーノ編『日本のカテキズモ』(ラテン語、1586年、リスボアで刊行)があるが、 松田毅一は1960年エヴォラ図書館にあった古い屏風の下張りの中から、 そのカテキズモの和文の稿本に近いものを発見した。その中に旧約聖書の断片的引用があり、 海老沢有道はこれが最も古い和訳聖書の本文ではないかと言う。 さらに忘れてはならないのは、新約全書が翻訳され、印刷されていたらしいという情報であろう。 英国の船長ジョン・セーリスの『日本航海記』の中に、 1613年10月9日に京都を訪れたときの記述があり、 ここに日本人イエズス会士が多くいて、日本語で印刷した新約聖書をもっていたという。 この記事は、1791年6月26日付けリスボン発のロウレイロのデ・ムル宛書簡 (デ・ムルが出版したコフラー著『公趾支那誌』中に引用)に東アジアにおけるイエズス会文献目録があり、 その中に京都で印刷された日本語新約聖書が記録されていて、信憑性があると判断されている。 この全訳新約聖書は、伝存しておらず、幻の聖書である。

 3.明治時代の個人訳

 その後、長いキリシタン弾圧の時代を経て、 幕末から明治の初めにかけて日本におけるキリスト教の宣教が再開されたが、 聖書の翻訳が新たに始まったのはプロテスタントの宣教師たちによってである。 その最初の偉業をなしとげたのはギュツラフ(K.F.A.Gutslaff, 1803-1851)である。 彼は東南アジアの各地で伝道を行ったが、特に中国において活動し、 その間1823年に漢訳全聖書を完成したR・モリソンと知り合い、 その聖書を用いるばかりか、その改訳にも携わった。 彼はマカオで日本人漂流民、尾張出身岩吉、久吉、音吉と出会って日本語を学び、 メドハーストの刊行した英和辞典を頼りにヨハネ福音書とヨハネの手紙を翻訳し、 それを1837年シンガポールで発行した。 その「ハジマリニ カシコイモノゴザル」というヨハネ1:1の訳文がまさに近代和訳聖書の第一歩であった。
 つぎにウィリアムズ(S.W.Williams, 1812-1884)のヨハネ福音書とマタイ福音書がある。 この和訳聖書もマカオでギュツラフ訳と同じ頃翻訳されたらしい。 これは1859年来日した宣教師S・R・ブラウンによって日本に伝えられたが焼失し、 またマカオの印刷所の火災によって稿本そのものも焼失してしまい、 1850年肥後の漂流民、原田庄蔵が筆写したものしか伝わっていない。
 つぎに1846年から8年間沖縄で厳しい監視のもとで伝道したベッテルハイム (B.J.Bettelhaim,1811-1870)の琉球語訳聖書がある。 彼はルカ、ヨハネ福音書、使徒言行録、 ローマの信徒への手紙を1855年、香港で出版した。 さらに琉球語が日本語と異なるので4福音書の和漢対訳を作成したが、 その中ヨハネ福音書の稿本は不明のままである。 その後、改訂を続け、アメリカで作成し、その死後ウィーンで出版されたヨハネ、ルカ福音書、使徒言行録がある。
 日本国内で最初に聖書を翻訳したのは、ゴーブル(J.Goble,1827-1896)である。 彼は4福音書と使徒言行録を翻訳したが、禁教下の当時、1871年(明治4年)にマタイ福音書しか出版できなかった。 同じ頃、ヘボン(J.C.Hepburn, 1815-1911)とブラウン(S.R.Brown, 1810-1880)は共同で、 漢訳聖書を参考に新約旧約各書の翻訳を行っていたが、 火災によってマタイとマルコ福音書の原稿を除いて焼失してしまった。 焼け残りの原稿をもとに翻訳は続けられ、1872−3年(明治5−6年)にマルコ、 ヨハネ、マタイ福音書が出版された。日本人として最初に聖書の翻訳を手がけたのは、 永田方正(1844-1912)で、新旧約聖書の抄訳を行い、 1873年(明治6年)に『西洋教草一名愛敬篇』で出版した。 それに排邪論者田嶋象二は聖書の部分訳を行い、その著作に載せている。 日本で最初に新約聖書全書の完訳を行ったのは、ブラウン(N.Brown, 1807-1889)である。 1873年、65歳で来日した彼はバプテスト教会の宣教師で、 プロテスタント宣教師たちが共同で聖書翻訳を目指す委員会の一人になったが、 バプテスマの訳語を「洗礼」ではなく、「浸礼(しずめ)」とすべきことを主張して、 ほかの委員と意見が合わず、1876年委員を辞任し、その後5年をかけて川勝鉄弥の協力を得て、 1879年(明治12年)に新約聖書を完訳し、刊行した。

 4.共同訳の時代へ

 聖書翻訳は個人訳の時代から共同訳の時代に入っていく。 聖書は教会という信仰共同体が世に送る書物であり、 個人訳もこの聖書の性格を自覚して行われてきたが、 その性格にいっそう添うように共同で翻訳が行われることになる。 1873年(明治6年)のキリスト教禁教令解除の前年に、 プロテスタント宣教師らによる聖書翻訳委員会(翻訳委員社中)が横浜で組織された。 委員会は新約聖書の翻訳を目指すもので、 J.C.ヘボン、S・R・ブラウン、D・C・グリーンからなり、それにN・ブラウン(後に辞任)、 R・S・マクレー、J・P・パイパー、W・B・ライトが加わる。 日本人として協力したのが奥野昌綱、高橋五郎、松山高吉などであった。 翻訳は1874年(明治7年)に始まり、訳出された書から順次分冊発行され、 新約全書が完訳されたのが1880年(明治13年)であった。 その合本『新約全書』の刊行は1885年(明治18年)である。 翻訳は当時のギリシア語のテキストゥス・レケプトゥス(Textus Receptus)を底本に英語の欽定訳と漢訳聖書を参照して行われ、 訳文は文語であった。出版にあたったのは米・英・北英の三聖書会社(協会)であった。 旧約聖書についても、1876年(明治9年)に東京聖書翻訳委員会が組織され、 横浜の委員会と協力していくこととなった。委員会はD・タムソンらが名を連ね、 出版は大英国および北英国(スコットランド)、両聖書会社の支援で行われることとなった。 1878年(明治11年)に宣教師会は各教派協同の翻訳事業として新しく計画を立て、 委員会は聖書翻訳常置委員会に改組され、委員長にヘボン、書記にG・カクランが就いた。 1882年(明治15年)、翻訳を速やかにするためヘボン、 P・K・ファイソン、G・F・フルベッキを翻訳責任者とし、 翌年日本人翻訳委員として松山高吉、植村正久、井深梶之助が加えられた。 旧約の和訳は、1882年から順次翻訳された各書が分冊発行され、 1887年(明治20年)にその全書27冊が、 1889年(明治22年)に旧新約聖書の一巻本『(引照)舊新約聖書』が米・英・北英の三聖書会社から刊行された。 訳文は新約と同様文語であった。その翻訳事業の中心になって15年間尽くしたヘボンの功績ははかりしれない。 これが明治訳で、日本における最初の完訳聖書であり、 プロテスタントのみならず広く一般に用いられるようになり、明治の知識人に大きな影響を与えた。
 この明治訳の完成の頃から、すでにその改訳の必要性を主張する声があり、 1906年(明治39年)には福音同盟会と聖書翻訳常置委員会が協議して宣教師と日本人各4名、 計8名の翻訳委員を選出した。しばらく時を経て、 1910年(明治43年)に底本としてネストレの校訂ギリシア語本文を用い、 改正英訳聖書を参考に改訳作業を始めた。その文体は文語であったが、 平易であって口語に近づけると共に日本語として優れたものにすることを旨とした。 それは1917年(大正6年)に完成した。これが大正改訳の『新約聖書』である。 旧約聖書の改訳も要望されたが、改訳事業は遅れ、第2次世界大戦の混乱期を迎え、 『ヨブ記』(1950年)、『詩編』(1951年)を改訳しただけで、中断された。 なお、これまで米・英・北英(スコットランド)聖書協会が支援してきた聖書翻訳・出版事業は、 1938年(昭和13年)に設立された日本聖書協会が受け継いだ。

 5.明治時代のカトリック訳聖書

 日本におけるカトリックの宣教再開は、 1844年パリ外国宣教会のフォルカード神父(T.-A.Forcade, 1816-1885)が琉球上陸に成功したことで始まる。 しかし、キリスト教はまだ禁教とされていて、事実上宣教は不可能であった。 実際にこれが可能になるのは、1858年(安政5年)の西欧列強国との修好条約締結による開国を待たなければならなかった。 翌1859年、ジラール司教(P.S.B.Girard, 1821-1867)が江戸に入り、 メルメ神父(Mermet)が函館に到着することをもって宣教が再開された。 続いてムニクー神父(P.Mounicou)やプチジャン神父(B.T.Petitjean)らが渡来した。 宣教師たちは日本政府から治外法権を認められた横浜、函館などの居留地を拠点に活動を始めたが、 1862年最初の天主堂が建立されたのも横浜であった。その頃、ムニクー神父が要理書の編纂にあたった。 1865年にはその『聖教要理問答』が出版されるが、このように要理書の作成に力が注がれた。 1865年には長崎では大浦天主堂が完成し、この際にプチジャン神父によって旧キリシタンが発見された。 それは感動的な出来事であった。それ以来、1868年(明治元年)に始まり、 版を重ねた『聖教初学要理』と共に、キリシタンのための出版物が多く作成されることとなった。 このようなわけで聖書そのものの日本語訳はプロテスタンに比べて大いに遅れをとった。 1873年(明治6年)にキリスト教の禁令が解かれてからも、日本のカトリックには、 1879−80年(明治12−13年)大阪の伝道士小島準冶による『舊新両約聖書伝』のようなものしかなかった。 最初の日本語福音書として出版されたのが、 1895−97年(明治28―30年)の高橋五郎訳『聖福音書』上下である。 この翻訳はシュタイヘン神父の協力のもとで、ウルガタ訳ラテン語聖書に基いて行われた。 ついに1910年(明治43年)になってE・ラゲ訳『我主イエズス・キリストの新約聖書』が出版された。 ラゲ神父(E.M.E.Raguet, 1854-1929)は宣教活動に打ち込みながら、この格調高い文語訳新約聖書を完成した。 これは昭和時代も進んで第2次世界大戦後しばらくして、バルバロ訳『新約聖書』にとって代わられるまで愛用された。 他方、旧約聖書の翻訳は待望されたが、1932年(昭和7年)のF・X・ラルボレット訳『トビア書注解』、 『マカベ前後書注解』、『智書注解』、1941年(昭和16年)の渋谷治訳『創世記』、 1950年(昭和25年)の同訳『聖詩編』と分冊が散発的に出版されただけであった。 1954−59年(昭和29−34年)になって、 ラテン語ウルガタ訳を底本として文語に翻訳された光明社発行『旧約聖書』4巻が出版された。 それは口語訳のバルバロ訳聖書の発行、流布とほとんど時を同じくしていて、 あまり用いられることはなかった。 第2次世界大戦後サレジオ会宣教師F・バルバロ神父が口語訳全聖書翻訳に意欲的に取り組み、 1965年口語訳旧約新約『聖書』(ドン・ボスコ社)を完成したが、これがバルバロ訳の名で親しまれた。 その功績については拙稿「バルバロ訳聖書の輝き」(『カトリック生活』、1991年5月号2−3頁)参照。

 6.第2次世界大戦後の翻訳

 第2次世界大戦後、新仮名づかい、当用漢字の制定など新しい国語事情のもと改訳が必要となった。 1950年(昭和25年)に日本聖書協会は口語訳聖書の作成を決定し、 新約は松本卓夫、山谷省吾、高橋虔により、旧約は都留仙次、手塚儀一郎、遠藤敏雄により、 それに委員会主事として馬場嘉市、国語関係嘱託として関根文之助が就いて翻訳された。 新約は1954年(昭和29年)に、旧約は1955年(昭和30年)に完成した。 これは日本人による最初の完訳聖書である。

 新共同訳聖書

 その後、キリスト教一致運動が高まる中、カトリックとプロテスタントによる共同訳聖書が作成されることになる。 カトリックは第2ヴァティカン公会議(1962−65年)においてプロテスタントとの共同訳を勧め、 プロテスタントもこれに応え、世界的に共同訳の機運が出てきた。 1966年にはカトリックのキリスト教一致推進事務局とプロテスタントの聖書協会世界連盟は、 いかに共同訳が可能であるかについて討議を重ね、 各国で共同訳を作成する場合の「共同訳指針」を公表するに至った。 これを受けて日本でも、1969年(昭和44年)に共同訳聖書の可能性検討委員会が発足した。
 すでに述べたとおり、これまで聖書翻訳ではカトリックはプロテスタントに遅れをとり、 戦後1964年(昭和39年)にバルバロ訳口語訳旧約新約聖書が完訳されたが、 同時にヘブライ語ないしギリシア語聖書本文にいっそう厳密に基づき、 最新の聖書学の成果にも留意した聖書翻訳が1958年(昭和33年)以来フランシスコ会聖書研究所から分冊発行されていた。 しかし、第2ヴァティカン公会議の精神に則り、共同訳の作業を優先させることにした。 1970年(昭和45年)カトリック・プロテスタントの代表者からなる共同訳聖書実行委員会 (共同議長岸千年、平田三郎)が組織され、出版に至るまで翻訳推進の責任を取り、 その実務には日本聖書協会があたった。それと並行して聖書訳語委員会は、 イエスとイエズスなど両教会で異なる固有名詞の問題の統一を検討した。 翻訳者は諸教会から40名余り集められ、 それをまとめる編集委員会の共同委員長としてB・シュナイダーと高橋虔が就いた。 それに国語の専門委員5名、訳文を監査する検討委員10名が参画した。 底本としたのは最新の批判版で、新約は聖書協会世界連盟のギリシア語新約聖書修正第3版、 旧約はドイツ聖書協会のビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシアであった。 その翻訳にあたって最新の欧米の現代訳を参考にしながらも、独自の解釈によるところもある。 その翻訳は、E・ナイダの動的等価理論に従い、平易な日本語を期したが、その理論に従い、 しかも多数の翻訳者によってなされた訳文をまとめるのは至難のわざであった。 新約は1978年(昭和53年)に完成し、旧約は1987年(昭和62年)に完成し、 改良された新約とあわせて『聖書、新共同訳』と『聖書旧約聖書続編つき、新共同訳』の書名で、二通り刊行された。 この後者の「旧約聖書続編」の中にカトリックが正典とするすべての書が含まれている。
 この聖書が完成した機会に、それまで同じように「主」と仰ぐおかたを、 プロテスタンは「イエス」と呼び、カトリックは「イエズス」と呼んできたが、 日本カトリック司教団がカトリックも典礼の中で「イエス」の呼び名を用いることができると認めることとなり、 日本におけるキリスト教徒一致の大きな障害が一つ除かれ、 両教会の信徒が同じ聖書を用いて共に祈ることができるようになった。 またプロテスタントの旧約正典と明確に区別しながらもカトリックの第2正典と聖公会が公的礼拝で用いる3書が 「旧約聖書続編」の中に入れられているのも日本では画期的なことである。 しかし、これは16世紀の宗教改革者たちの聖書がとった体裁(ルター訳、ジュネーブ聖書など)でもあった。

 そのほかの主な翻訳聖書

 イ)プロテスタント
 明治初期以来、米・英・北英三聖書協会とこれを引き継ぐ日本聖書協会を中心に翻訳の歴史を述べてきたが、 そのほかに教会訳としてはプロテスタント福音派諸教会が組織した新改訳聖書刊行会(いのちのことば社)の聖書がある。 新約は松尾武を責任者として1965年に完成し、 旧約は名尾耕作を責任者として1970年に完成し、 聖書を完訳、発行した。これが『聖書』新改訳、注・引照付である。 この「新改訳」という表現は、その聖書が日本聖書協会発行の『聖書』1954−5年改訳を新たに改訳したものという印象を与え、 プロテスタント以外の読者にとっては誤解を招きかねなかった。

 ロ)カトリック
 第2次世界大戦後、1951年、サンフランシスコ平和条約により日本の自主独立が回復すると、 戦後復興も本格的に軌道に乗り出した。 その頃、駐日教皇庁公マキシミリアン・ド・フルステンベルグ大司教は、 フランシスコ会極東総長代理に聖書研究所を設立し、学問的に堅固で、 原語に基いた聖書翻訳を企画するよう要請した。 この要請は、1955年の日本カトリック教会の全国教区長会議で賛同を得た。 こうしてフランシスコ会は1956年に東京の瀬田に聖書研究所を設立し、 聖書翻訳作業を開始した。所長はそのときからB・シュナイダー師である。 聖書翻訳は、教皇ピオ12世が1943年に公表した回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』の精神に従って、 聖書原語の本文に基いて、聖書学の成果も取り入れながら厳密な訳文を目指して行ってきた。 こうして1958年に最初の分冊『創世記』が出版された。 これはほぼ第2ヴァティカン公会議を開くことになる教皇ヨハネ23世が即位したときにあたる。 同研究所は続いて、『レビ記』、『知恵の書』などと、聖書の分冊発行を重ねてきた。 その後、第2ヴァティカン公会議(1962−1965)の決議に沿って、 日本でもプロテスタントと共に前述の新共同訳聖書の出版が計画された。 そのためフランシスコ会聖書研究所は惜しまず協力することとなった。 そのため同研究所の作業は遅れた。また初期のスタッフも病死などの理由で去っていった。 ただ所長のみが踏みとどまって現在も作業が続いている。 同研究所は、1979年に『新約聖書』を完成し、 その後旧約聖書も2002年にはその全書の分冊発行が完了する予定になっている。 今後そのフランシスコ会聖書研究所訳の全聖書がまとめて発行されることが期待される。 高齢にもかかわらず意欲的な所長にはただ敬服するばかりである。

 そのほか明治初期から多くの個人訳があるが、 特筆しなければならないのは無教会の学者による聖書で、 塚本虎二の『福音書』(岩波文庫、1963年)、 関根正雄の旧約全書完訳、『律法』、『歴史』、『預言書』、『諸書』(1993−1995年、教文館)である。 それに先だって『創世記』(岩波文庫、1956年)をはじめ旧約15書の発行がある。 なお、最新の翻訳として荒井献、佐藤研責任編集の『新約聖書』(岩波書店)の分冊刊行が完了し、 池田裕ほか責任編集の『旧約聖書』もそれに続いている。

 多様な聖書を前にしての心得

 現在最も普及している聖書が新共同訳『聖書』旧約続編付(日本聖書協会)であることから、 わたしはこの日本語訳聖書を用いて教えることにしている。 このことはこの聖書の和訳が完璧であるという意味ではない。 ヘブライ語ないしギリシア語聖書本文をいっそう正確に翻訳する必要があり、 文体的に改善しなければならないところも少なくない。 それは聖書学的に聖書解釈は絶えず進歩し、従来の解釈法には限界があることが示され、 また新しい解釈法も提言されている一方、日本語も絶えず変化しているからである。 それゆえ、新共同訳聖書の改定も望まれる。そういうわけでも、ほかの和訳聖書も歓迎したい。
 ここでまず取り上げたいのは、フランシスコ会聖書研究所訳・注の聖書である。 その丁寧な訳文と解説付のこの聖書は読者にとって大いに助けになろう。 また日本聖書刊行会の聖書からも学ぶところが少なくない。 これら教会訳のほかに、総じて学問的水準が高いと言われる委員会訳、 岩波書店発行の聖書や、関根正雄訳をはじめ個人訳も参考になる。

 教会訳は、その旧約正典の数がプロテスタントとカトリックで異なるが、 正典というものがあるということでは共通する。 こうして新旧両約聖書全書を古代の雑多な宗教書の集大成とは考えない。 その全体をまとまったひとつの書として受けとめ、 これを神のことばとして最大の尊敬をもって翻訳されたものである。 それは神を共同で礼拝するという典礼における使用にふさわしいものであることも意図して翻訳されている。 それはまた、同一ないし同類の用語が新旧両約聖書全体で用いられる場合、 そのそれぞれの使用箇所の文脈でのその意味を尊重しながらも、 聖書全体をとおしてのその重層的な意味に敏感である。 そのため同一用語の訳語の統一も重視する。 これは聖書翻訳の場合、至難の業であり、従来の聖書には改善の余地が多くあるが、引照をつけてそれを補ったりもしている。 他方、そこには最先端の学問研究の成果が即座に採用されているとは言えない。 そのような成果が教会という信仰共同体の中で真価が認められて受容されるには時間を要するからである。

 個人訳では、翻訳者が信念をもって自己の研究成果を自由に、 また時には個性豊かに翻訳することができるので、場合によって、 そこには深くて鋭い聖書本文の理解に出会えることもあろう。 しかし、時間の経過に耐えない研究成果や個人的な趣向が紛れ込むこともあろう。 これは一個人が全聖書を翻訳する場合に言えることだが、 複数の個人が聖書各書の翻訳を担当して合作とする場合、 主な訳語の統一、並行箇所の翻訳などは、いっそう至難の業であろう。 それとも新旧両約聖書がひとつの書であるという前提を無視して翻訳することになれば、 そのとき、聖書は古代の宗教的古典書の集大成ということになる。 このような古典書として聖書各書がもつメッセージは、 従来キリスト教徒がそこに読み取ってきたメッセージを超えて心の目を開かせてくれることもある。 しかし、聖書はただ単なる古典書として読んでいい書なのか、 さらに聖書とは本来いかなる書なのかという問題が残る。

 このようなことを念頭に入れておけば、多彩な翻訳聖書があることは、 神のことばそのものに読者が近づくためには大いに役立つと言えよう。

 主な参考文献

海老沢有道著 『日本の聖書』、日本基督教団出版局、1964年; 講談社学術文庫、1989年:日本語聖書翻訳史に関する名著
門脇清、大柴恒著 『門脇文庫日本語聖書翻訳史』、新教出版社、1983年

・ 特にキリシタン時代の聖書について
H・チースリク著 「キリシタン時代に於ける聖書」、『ソフィア』第3巻第2号 (1954)、上智大学編集、177−191頁

・明治時代のカトリック訳聖書について
河野純徳著 『鹿児島における聖書翻訳』―ラゲ神父と第7高等学校造士館教授たち―、 キリシタン文化研究シリーズ21、昭和56年(1981)、キリシタン文化研究会
「ラゲ訳聖書出版70年によせて」、『カトリック新聞』1980年に5回にわたって連載。

・そのほか
浦川和三郎著 『切支丹の復活』前篇、昭和2年(復刻版あり)
『日本聖書協会百年史』、日本聖書協会、1975年
キリシタン文化研究会編 『キリシタン研究』、第7輯、同別冊バレト写本の複製、吉川弘文館、昭和37(1962)年;バレト写本の翻訳と研究


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