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V エリコ
和田 幹男



 ヨルダン川を渡り、ギルガルに宿営したイスラエルの民は、西に進んでエリコの町を占領した(ヨシュア記6:1−21)。 聖書の記述によれば、当時エリコの町は城壁に囲まれ、イスラエルの人々の攻撃に備えて、城門を堅く閉ざしていたという。 主なる神の命令を受けて、ヨシュアは祭司たちが雄羊の角笛を吹いて主の箱を先導し、部下の兵士たちが毎日町の周りを一周して、 これを6日間続け、7日には7周して、祭司たちが角笛を吹いて民がみな鬨(とき)の声をあげるようにした。 そうすると城壁は崩れ落ち、民は町に突入して、これを占領することができた。これが約束の地に入って最初に獲得した町となった。
 このようにイスラエルの民はエリコの町を占領したが、いかに占領したかというと、典礼の行列によってであった。 おそらくこのようにエリコの占領を記念する祝祭が行われていて、これがこの記述の伝承のもとになったらしい。 その祝祭が定期的に行われたのが、ギルガルの聖所かもしれない。いずれにせよ、エリコの占領は武力によるのではなく、 宗教行為によるものであった。そのとき、イスラエルの民は矢を一本も射ることなく、敵をひとりも殺すことはなかった。
 写真は、フィレンツェ、ドゥオモ前洗礼堂東側にある「天国の門」(部分:ギベルティ作、15世紀): ヨルダン川の涸れた川床を渡るイスラエルの民がエリコの城壁の前で角笛を吹いて、鬨の声をあげているところ。

 このイスラエルの民が占領したエリコは、現在のエリコの町の北およそ2km、 イエス洗礼記念のヨルダン川岸辺から西におよそ6ー7kmの地点にある遺跡丘テル・エ・スルタンだとされている。 写真はイスラエル側の山の上からヨルダン渓谷を見渡したもの。遠くにトランス・ヨルダンの山並みが見えるが、 その間に左右(南北)にかすかに見える緑の帯がヨルダン川。下の写真は、中央左よりにあるのがテル・エ・スルタン。 その向こう側に「エリシャの泉」があって、灌漑により一面が緑化されている。その中をヨルダン川に向かって一本の道が通っている。 1972年1月撮影。 
 イスラエルの民がヨシュアに率いられてエリコの町を占領したのが歴史的事実だとすれば、 紀元前1200年前後のことであろう。この頃、この地方全般は青銅器時代から鉄器時代へと移行する時期にあり、 これはこの文明をもった民族が入ってきたことによるが、 これはまたかなりの規模で諸民族の移動を引き起こしたことを窺わせる。 イスラエルの民もその核がこの時代に約束の地に入ってきたと考えることができる。 写真はエリコの城壁の倒壊:ローマ、サンタ・マリア・マジョーレ教会のモザイク(5世紀)
 エリコの町は、このイスラエルの民の到来を確認しようとする考古学の対象となってきた。 その調査研究の歴史は、19世紀に始まるパレスチナ考古学発展とその結果の凝縮である。 ヨシュアによるエリコ占領を考古学的に実証しようとの魂胆で始められた発掘は、数回行われた。 発掘調査はテル・エ・スルタンが古代エリコの遺跡であると確認し、まず1867年、ワレン(C.Warren)によって行われた。 当時はパレスチナ考古学も草創期で、時代測定の基準として出土する陶器の重要性もまだ気づかれてはいなかった。 本格的な発掘は1907−9年に、ゼリン(E.Sellin)とワッツィンガー(C.Watzinger)によって行われた。 このとき城壁があることは確認されたが、いつ建造されたかは未解決。次の発掘調査は、1930−1936年、 ガースタング(J.Garstang)によって行われた。彼はある箇所で破壊の痕跡をみつけ、 これをおよそ前1400年頃のものと見定め、イスラエルの民の到来をこの頃ではないかとしたが、聖書学者も、 考古学者もこれを疑問視した。新たな発掘調査が1952−1958年にケニヨン女史(Kathleen Kenyon)によって行われた。 その結果、この遺跡に一方ではイスラエルの民によるエリコ占領は確認することができなかったが、 他方では前1万年以前の石器時代から始まる長い歴史が宿されていることが明らかされた。
 それは聖書学にとって何を意味しているかと言えば、聖書は考古学が実証するような歴史的事実を記録するものではないということ。 それゆえ、聖書学はまず聖書の記述がそれ自体で何を言おうとしているのかを、厳密に検討し、 明らかにしなければならないということである。 その上で考古学の調査結果と聖書の記述はいかなる関係にあるのかも考えていかなければならない。

 聖書の記述とは別に、ケニヨン女史の発掘調査はその厳密な研究法により、驚くべき結果をもたらした。 それは中近東のこの地で人間の生活形態が、いつ、いかに自然物採集と狩猟から農耕と家畜飼育へと、 陶器を知らない前陶器時代から陶器時代へと、前都市生活時代から都市生活時代へと移っていったかを明らかにした。 特に世界を驚かせたのは石器時代の中でも前陶器時代に造営された、高さ8.50m、 直径が基礎部で11m、頂上部で9m、内部に21段の階段をもつ塔の発見である(写真)。 その造営の時期は前8200−7600と推定される。
 この塔の外側には高さ5.75m、幅2.35mの城壁があって、この玉子型の町(3ヘクタール)を取り巻いていた。 当時すでに人間の組織化が行われていたとは驚きである。このエリコが世界最古の町でではないかとされる。
 エリコが巨大な城壁を備えた都市国家の様相を呈してくるのは青銅器時代早期(EB:前3100−1950) と中期(MB:前1950−1550)である。EBの城壁に、MBの城壁が加えられ補強されて、 巾15mもある城壁が町を取り巻いていた。この時代はエリコが最も栄えた時代であった。 また地震があったり、攻撃されたりして破壊と修復が繰り返された城壁の一部も明らかにされた。 写真の左は、EB、MBの城壁の断面。右は破壊と修復が17回も繰り返された城壁。

 MBのエリコの町が激しく燃えて破壊された。いつごろのことかと言えば、それは1550年ごろのこと。 だれによって破壊されたかと言えば、ヒクソク人を追い払ったエジプト人ではないかと考えることができるが、実証されるものではない。 その後、この町は150年ほど放置された。聖書学のほうから最も関心が寄せられる青銅器時代後期(LB:前1425―1275年) のエリコについては注目すべきものはなく、その後、城壁もなく、 その破壊の跡もない。それがヨシュアに率いられてイスラエルの民がやってきた頃のエリコである。 前9世紀になってまた町の命が活気づいてくる。北王国イスラエルのアハブの時代に、 「ベテルの人ヒエルはエリコを再建した」(列王上16:34)とあるとおりである。
 テル・エ・スルタンに長い間人間が住んだ歴史が込められている理由は、この遺跡のすぐ東の、豊かな水量を誇る泉にある。 この泉は以前には悪かったが、預言者エリシャが告げたことばによって清い水になったという聖書の記述(列王下2:19−22)がある。 それにより、ここは「エリシャの泉」と言われる。かつてはその水源は遺跡の中にあった。 写真の左はかつで水源があった付近の家の跡、右は現在の水源。

 エリコの町の西には一つの山があって、その頂きからヨルダン渓谷を見下ろすことができる。 この山は、イエスが洗礼を受けられた後、荒れ野にとどまりサタンの誘惑を受けられたこと (マルコ1:12−13;マタイ4:1−11;ルカ4:1−13)を記念して、「誘惑の山」と言われる。 中腹のワディ・キルト(左)側に「誘惑の修道院」があって、ここでイエスが石をパンを変えるよう誘惑され、 頂上でイエスは、サタンを拝むならこの世界を与えられると誘惑されたという。写真は誘惑の山。

 イエスがエリコの徴税人ザアカイの家に泊まられた(ルカ19:1−10)という新約時代のエリコの位置は、定かではないが、 現在のエリコの町あたりにあったらしい。他方、現在のエリコの町の西方で、 ワディ・キルトの流れの近くにあったヘロデ大王の冬の宮殿が発掘により明るみにだされている。 それに、テル・エ・スルタンの北方には西暦8世紀、ウマイヤード王朝のヒシャム(724−743)によって建造された宮殿がある。 これは、ビザンツ様式の影響を受けたイスラーム初期の建造物。 このすべてをゆっくりと見て回ることができる平和の時代を希求してやまない。 写真はイエスとザアカイ:ユニウス・バッススの石棺(部分)、ローマ、サン・ピエトロ大聖堂宝物室所蔵


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