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現在、ヨルダン川が国境となって、西にイスラエル(パレスチナ)、 東にヨルダン王国がある。その西にエルサレムはじめ聖書の主要舞台となった聖地が数々あるが、 その東にも見逃すことができな聖地がある。聖書が書かれた時代に、現在の国境はなかった。 それゆえ、聖地と言えばイスラエル(パレスチナ)だが、ヨルダン川を挟んで東西の全域を考えなければならない。 マダバのモザイク地図(6世紀)にあるように、ヨルダン川と死海の東部と西部をあわせて聖地なのである。 写真は死海に流れ込むヨルダン川。上方がトランス・ヨルダン(東部)、下方がチス・ヨルダン(西部)で、 川のこちら側に城壁で囲まれた、なつめやしの町エリコ、手前にエルサレムの町も描かれている。 |
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実際にイスラエルの先祖たちを率いてきたモーセは、ヨルダン東部の南にあるエドム地方(写真はペトラ全景)、 モアブ地方を通ってネボ山まできて、ここで旅の終着点である約束の地を見て死んだ(申命記第34章)。 その後継者ヨシュアはそこからイスラエルの民を率いてヨルダン川を渡り、約束の地に入った。こうしてエリコの町を占領し、 さらに山地に上っていった。モーセが最大の預言者だとすれば、もう一人の偉大な預言者エリヤもこの地方で活動し、 ヨルダン川の岸辺でつむじ風の中を火に包まれた馬車に乗って昇天した(2列王第2章)。 |
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ガリラヤ湖から流れ出し蛇行して死海に注ぐヨルダン川は直線距離でおよそ100kmあるが、 そのほぼ中間で東部から深く切れ込んでヨルダン川に流れ込む涸れ谷がヤボク川である。 その北はギレアドと呼ばれるが、この川はかつてラバンのもとを逃れて帰ってきたヤコブが来たところでもある。 ヤコブが「ヤボクの渡し」(創世記第32章23節)を渡った日の夜、 神秘的な何者かと格闘したという話があるが、そこはペヌエルと言われる(同31節)。 ここにはダビデ・ソロモンの王国が分裂した直後、一時イスラエルの王ヤロブアム1世が都を置いたことがある (列王上第12章25節)。兄弟エサウと再会を果たしたヤコブは一時スコトに落ち着いた(創世記第33章17節)が、 これはヤボク川がヨルダン川に流れ込む地点の近くにある遺跡テル・デイル・アルラとされている。 他方、ギレアドは、イスラエルの歴代の王が、ダマスコに都をもつアラム(シリア)と戦いを繰り返した地方であり、 また預言者エリヤの出身地(ヤベシュ)でもある。 イエスがその宣教活動の始めにそのヨハネのもとに行って洗礼を受けられたのもそのヨルダン川の岸辺であった。 このイエスはモーセの新しい後継者ヨシュアとして、また洗礼者ヨハネは再来の預言者エリヤ (マラキ書第3章23節参照)として登場なさったということになる。 このイエスが受けられた洗礼の記念の場所は、現在イスラエルとヨルダン王国の国境となっているヨルダン川の一隅にある。 写真はヨルダン川周辺の荒れ野。 |
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洗礼者ヨハネは、認められない結婚のゆえに分国王ヘロデ・アンティパスをとがめたために、 首をはねられ殉教した(マルコ第6章14−29節)。その場所は、死海東部の山並みにあったマケルスの砦であったと伝えられる。 現在、その砦は荒れ野にある山々の一つとして、ほとんど訪れる人もなく、 まったくの沈黙の中に洗礼者ヨハネの歴史の証人としてありつづけている。 ヨルダン北部に行けば、ヤボク川上流の一つの支流の近くにあるジエラシュは、 ギリシア・ローマ化された町として明るみにだされ、当時を偲ばせてくれる。 これは北のダマスコから南のアンマン(当時の名はフィラデルフィア)に向かう 「王の道」と言われる街道上の最大の中心都市として大いに栄えていた。 このジェラシュは、新約聖書ではゲラサと言われる。イエスもガリラヤ湖を渡ってこのゲラサ人に地に宣教に出かけられた (マルコ福音書第5章1−20節)。ただし、ジェラシュはガリラヤ湖から50kmほど離れており、 その説明が必要であろう。このジェラシュをはじめ、この地方にはギリシア・ローマ化された町があちこちにあり、 ここはデカポリス地方と言われる。これは10の町という意味である。そのただ一つで、ヨルダン川西部のイスラエルにあるのが、 ベト・シェアン(ギリシア名でスキトポリス)である。ヨルダン川を挟んでほぼその東部にあるのがペルラで、 これは聖書には出ていないが、初期のキリスト教徒が戦争を避けてエルサレムから逃げてきた町だと言われる。 いずれにせよ、デカポリス地方の町々を巡ることにより、 イエスの故郷があるガリラヤ地方も意外と深く広くギリシア・ローマ化されていたのではないかと推察することができる。 この背景のもとに歴史的人物としてのイエスの活動を見なければならない。 |
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