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エウカリスチアの年の学び(2)
−エウカリスチアの呼称−
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   エウカリスチアは、いろいろな呼称をもって表現されてきた。 イエスの最後の晩餐がその起源である。そのときご自分の記憶(記念)として行なうようにお命じになった言葉と行為は、 そのイエスの死の直後から、最後の晩餐に居合わせた12使徒たちを中心とするキリスト教徒によって実行され、今日まで受け継がれてきた。 この最後の晩餐とそのときイエスがお命じになったこととその意味内容は、 「無尽蔵な豊かさ」(カト・カテ:1328)を含んでいて、それが教会の歴史の中でいろいろな呼称を生み出すこととなった。 それを網羅するものではないが、ここに列挙してみる。 それを総括するのが、「エウカリスチア」で、ほかの呼称は、 この同じエウカリスチアが含み持ついろいろな意味の一側面を際立たせるものであって、別々のものを意味しているのではない。

イエスの晩餐を記憶する行為の呼称

「エウカリスチア」:
 ギリシア語の原語は、そのラテン語訳が eucharistia。 それにときどき gratiarum actio と訳されたこともある。その原語は一般的に感謝を意味する。 しかし、この呼称の起源は、イエスが最後の晩餐のときに唱えられた感謝の祈りにある。 この感謝の祈りも一般的な祈りではなく、式文として定まっていた。 この食前と食後に唱える祈りがどのようなものであるか、 ユダヤ教文書のミシュナによって窺うことができる。その祈りは、ヘブライ語で「バルーフ・アタ」(「あなたほめたたえられますように」、 英語で blessed art thou)で始まる。この「バルーフ」を唱えられたことを考えて、聖書にある最後の晩餐の記事の中では動詞で、 イエスは「賛美の祈りをささげて」(ギリシア語でエウロゲーサス:マルコ14:22;マタイ26:26)、 ないし「感謝の祈りをささげて」(ギリシア語でエウカリステーサス:ルカ22:17、19;1コリ11:19)、とある。 この後者からエウカリスチアという呼称が用いられるようになった。名詞エウカリスチアは聖書にはないが、 西暦1世紀末の『ディダケ(12使徒の教訓)』(9:1,5)とアンティオキヤのイグナティオスの著作(エフェソの信徒への手紙13:1など)に現れる。
 イエスが唱えられた食前食後の祈りは、ミシュナ第1編ゼライームの第1部ベラホートの第6章を手がかりにしてわかるのだが、その日本語訳がある。 石川耕一郎・三好迪訳『ミシュナ』I ゼライーム、ユダヤ古典叢書、教文館、2003年、22−25、383−384(解説)参照。 なお、「バルーフ」で始まる祈りは、ブラハと言われるが、その複数形がベラホートである。

「パンを分つこと(裂くこと)」:
 ギリシア語の原語は、そのラテン語訳が fractio panis。 このギリシア語の呼称は使2:42;ルカ24:35にあるので、使徒時代に遡る。 その意味はパンを手で「分かつ」、「分かち与える」ことを意味する。これが最後の晩餐のときのイエスの特徴ある行為であった (マルコ14:22;マタイ26:26;ルカ22:19;1コリ11:24)。そこからこの呼称が用いられるようになった。 日本語で「裂く」と訳されることがあるが、この訳語が適切かどうか、疑問が表明されてきた。 それはむしろ手でパンを「裂く」というより「割る」、「分かつ」、 「分かち与える」行為を言うとして、ミサ奉献文でも、「割って」となっている(故堀田雄康師の案か)。

「主の晩餐」:
 ギリシア語の原語は 、 そのラテン語訳が coena dominica;3−4世紀のローマと北アフリカで dominicum とも言われた。 この呼称の起源も1コリ11:20にあり、使徒時代に遡る。 イエスの最後の晩餐のときにイエスがお命じになったことを、お命じになったとおり実行した晩餐を「主の晩餐」と呼ぶようになった。 この呼称は、古代イスラエルの過越しの祭りを神なる主がモーセをとおして制定されたことを記す出T12:12−14に発想を得て言われるようになったかもしれない。 ここには「主の祭り」(同12:14)とある。そこから「主の晩餐」と言われるようになったと思われる。 しかし、この「主」は主イエス・キリストのこと。 それはこの晩餐を制定されたのが主イエス・キリストであるというだけでなく、 繰り返し祝われるこの晩餐で祝う対象がイエスであり、特にその十字架上の死と復活、つまり新しい過越しであり、 またこの晩餐を主催するのも復活して生きる主イエス・キリストであることも意味している。 これはまた終末の日に祝われるであろう「小羊の結婚の晩餐」(黙19:9)の先取り、前もっての味見としても考えられてきた。

「(聖なる)集い」:
 ギリシア語の原語は、、そのラテン語訳は synaxis、または collecta。 ギリシア語動詞シュナゲイン(「集まる」、「集められる」)の派生語のひとつ。 この同じ動詞から派生語でシュナゴゲと言えば、ユダヤ教の会堂のことであり、シュナクシスと言えば、教会の公的集会、特に主の晩餐の集会をいう。 公的集会というからには、それは教会の教会としての集会であり、個人的信心の集会ではない。この用語は新約聖書にはなく、 教会教父たちの著作の中に現れる。フランス語の「主の集い」(assemblée du Seigneur)がその意味あいをよく保存している。

「ミサ」:
 missio または dimissio(「派遣」)をいう後期ラテン語の missa が原語で、 古代では missae missarum solemnia と言われた。主の晩餐の典礼の締めくくりに派遣(missio)が行なわれるが、 ここから発想を得て用いられるようになった呼称。そのミサの締めくくりの派遣は、現在でもラテン語では、 Ite Missa est。 これは直訳すれば、「行きなさい。解散です」とも、 「行きなさい。派遣です」とも取れる。 したがって、それは解散して派遣される時であるということ。 この解散と派遣をいうミサが、主の晩餐の呼称となった。 現行の日本および各国のミサで、それは、「行きましょう。主の平和の中に」となっており、派遣の意味は薄れていると思う。

「いけにえ」:
 ギリシア語の原語は、そのラテン語訳が Sacrificium(「いけにえ」、「犠牲」)。 いっそう限定して「ミサのいけにえ」(Sacrificium Missae)と言われることがある。 ここで記憶して祝うのが、いけにえとしてのイエスの十字架上の死であることを見ての呼称。
 かつて主なる神とイスラエルの民はシナイ山で契約を結んだ(出エ19−24)。 その契約締結のとき、雄牛を屠ってその血の半分を祭壇に、半分を民の代表者にふりかけて、モーセは言った、 「見よ、これが・・・契約の血である」(24:8)。 これを前提として、いけにえとしてのイエスの血が、新しい神の民と結ばれた契約締結を意味していることがわかる。 この新しい神の民とは教会のこと。このいけにえがないと、教会もない。 いけにえとしてのエウカリスチアが強調される根拠の一つがここにある。
 ラテン語のホスチア(Hostia)も、元来いけにえを意味する。 これはキリスト教徒にとって、イエスの十字架上の死であり、 その体である。そこから特にミサで聖別されたパンを意味する。 さらにそれは聖別する以前のパンの意味で用いられることがある。

「捧げ」:
 原語はラテン語の Oblatio。「いけにえ」の場合と同じで、イエスの死を父なる神への「捧げ」と考えての呼称。 それゆえ、その死と死に渡されたイエスの体は、ラテン語で Oblata(「捧げ物」)と言われ、 それと同一とされる聖別されたパンとぶどう酒もそう言われる。 ここから一般に薬を飲むときに用いる「オブラート」という用語が由来する。

「典礼」:
 ギリシア語の原語は 、そのラテン語訳が liturgia。 このギリシア語の原語は一般に公的な奉仕をいうものであったが、教会では典礼一般をいうものとして用いられるようになり、今日に至っている。 このギリシア語は9世紀以来ギリシア世界で主の晩餐を意味するものとして用いられるようになった。 これは、古代キリスト教ラテン語の actio,agendaにあたる。

「聖なるもの」:
 ギリシア語、ラテン語 sacrum。主の晩餐の聖なる性格を見ての呼称。 特に聖別されたパンとぶどう酒の聖性を見ての呼称。聖と俗の区別の感覚が薄れた現代ではピンと来ないかもしれない。

「キリストの体」:ラテン語の Corpus Christi
「キリストの血」:ラテン語の Sanguis Christ
  主のことばにしたがって聖別されたパンとぶどう酒がキリストの体そのもの、 キリストの血そのものであることに注目しての呼称。 日本語の「聖体」、「御聖体」は、この「キリストの体」を翻訳したもの。

「天使のパン」:ラテン語の panis angelicus
「天使からのパン」:ラテン語の panis de coelo
  聖別されたパンそのものの聖性、その天上性を見ての呼称。

「不死の妙薬」:ラテン語の medicina immortalitatis
「旅路の糧」:ラテン語の viaticum
  人生は旅と一般に言われるが、キリスト教徒としての人生も故郷への旅、巡礼と見て、その旅路における霊的な養いとして聖別されたパンをいう。 こう考えて、ミサに参加できない投獄中の信徒や病気の信徒に聖別されたパンを持っていく習慣がある。 ローマ迫害時代に投獄中の信徒に命がけでこれを持っていった少年聖タルチシウスの話は有名。 この習慣は今日も行なわれており、特に死の危機にある病人にもっていかれるその聖別されたパンを「不死の妙薬」とか「旅路の糧」と言われる。

「交わり」:
 ギリシア語で、ラテン語で Communio。 これは人と人との交わり、結びつき、分かち合い、心が通い合うこと、連帯性、命と善の共有など、広い意味で用いられるが、 特に主の晩餐に参加して、パンとぶどう酒の装いのもとにキリストの体(と血)をいただくことによって生まれるキリストとの結びつきを言う呼称。 このキリストとの結びつきを基礎として生まれるキリスト教徒間の結びつきも言う。

「秘跡」:
 ギリシア語の、「秘義」、「神秘」がラテン語で Sacramentum「秘跡」と翻訳されることとなった (西暦200年前後の最初のラテン教父テルトゥリアヌスの著作参照)。 そのギリシア語も当時のローマ・ギリシア世界にあった密儀宗教で用いられていた意味ではなく、 聖書に用いられる意味で(ヘブライ語とアラマイ語の rãz)理解されていた。 それは人知を超えて、歴史の中に実現される神の救いの計画をいう。 この意味で御ことばの受肉であるイエス・キリストも、またその救いの御業を続けるために設立された教会も「秘義」と言われる。 それゆえ、秘義、つまり秘跡もその広大な展望のもとで考えられるものであるが、秘跡中の秘跡というとエウカリスチアのことである。 これを頂点として、カトリック教会は7つの秘跡があるとしてきた。特に、「至聖なる秘跡」(Sanctissimum Sacramentum)というと、エウカリスチアのことである。 秘跡とは内容的に何なのか追って検討するが、教会にとって最重要のものであり、この感覚がなくなると、教会は教会でなくなる。


 日本のカトリック教会では、エウカリスチアを言うために、伝統的に「ミサ」(missa)が用いられてきて、最も広く普及している。 また「キリストの体」(Corpus Christi)を「聖体」、「御聖体」と言って、これも広く親しまれてきた。 そこから「(御)聖体の秘跡」とも言われ、「聖体」をもって、ほとんどエウカリスチアの訳語とさえされてきた。 さらにまた、第2ヴァチカン公会議以後は、特に典礼において「感謝の祭儀」と訳されてきた。これら個々の訳語は、 エウカリスチアがもつ色々な意味の一つを際立たせるものであっても、そのすべての意味を包括して言うものではない。 この包括するものとして、エウカリスチアしかないのではないかと思う。 特に出来事としてのイエスの十字架上の死とその祭儀における出来事としての現在化というダイナミックな意味は、ほかの訳語では表現できない。 まさにこの歴史における救いのための神の力の働きが「秘跡」という用語を生み出すこととなった。 これは古代イスラエル宗教を前提としてのキリスト教信仰固有の神の「驚くべき御業」の理解を前提としている。 したがって、これは福音のインカルチュレーションにも限界があるということの歴史的好例だと思う。 エウカリスチアはほかの言語に翻訳できない。従って、西欧のラテン典礼の教会でも、 原語のギリシアをそのまま受け継いでラテン語で eucharistia、つづいて英語 the Eucharist、フランス語 l'Eucharistie、ドイツ語では das Abendmahl「晩餐」と並んで、 die Eucharistie と呼んで、ギリシア語の原語をそのまま保持している。それゆえ、日本語でも「エウカリスチア」という訳語があってもいいのではないかと思う。 『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002年)は幸いにもこの訳語を用いている。 他方、「御聖体」はこの典礼行為の中で聖別されたパンの比類なき尊さ、その聖性をいうものとして併用したいと、個人的には思う。 「感謝の祭儀」は典礼に限っては悪くはないが、組織神学や霊性神学でも用いることができるだろうか。 たとえば、the Eucharistic spirituality という用語が最近の公文書に現れるが、これは「感謝の祭儀的霊性」とは、訳せない。
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