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エウカリスチアの年の学び(4)
−イエスの最後の晩餐、その最古の証言−
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   最古の証言
 最後の晩餐においてイエスが何を行い、何を言われたか、その内容については、すでに指摘したとおり、4つの記事がある。 この4つという複数の記事があること自体、その歴史的事実の証言として価値があり、その歴史的現実がいかなるものであったかを推し量らせてくれる。 その4つの証言の中で最古のものが、パウロの手紙にある記事。 最古ということは、イエスが行った晩餐に、時間的に最も近いということである。 パウロがこのコリントの信徒に宛てた手紙を書いたのは、西暦50年代の中頃であるから、それが書きとめられたのはイエスの死後、25年ほどしか経っていない。 この手紙の中で、パウロは、その記事を自分で創作したのではなく、引用している。 この引用文を抜き出せば、これはさらに古いものということになる。それはどこにあったものか。 それは教会の伝承にあったもので、パウロがこの手紙を書いた時点よりも、さらに歴史的現実の近くに迫ることができる。 ここでまずこのパウロの記事を注意深く読むこととしよう。


 T コリントの信徒への第1の手紙における主の最後の晩餐

 パウロが第2宣教旅行のときに創設したコリントの教会で分裂が生じ、反福音的な悪習が紛れ込んでいることに心を痛め、この手紙を書いた。 その中で悪習の一つとして集会における富者が貧者を排除しながら「主の晩餐」を行なっていることを咎め(1コリ11:17−19、20−22)、 続いてイエスの最後の晩餐のときのことを思いおこさせ(同11:23−26)、主の晩餐をふさわしく行うよう厳しく戒めている(同11:27−34)。

 a)1コリント11:23−26

 23わたしが主から受け取ったものを、またあなたたちに受け渡します。 すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、 24感謝の祈りをささげて分かち、言われた。 『これはあなたたちのための、わたしの体である。これをわたしの記憶のために行いなさい』と。 25同様に、食事の後に杯を[取って]言われた。 『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むときにはその度毎に、これをわたしの記憶のために行いなさい』と。 26あなたたちはこのパンを食べ、この杯を飲むときにはその度毎に、[主が]来られるまで、その主の死を告げ知らせるのです」。 ([ ]は翻訳上の補足)

 用語解説
 ここでパウロは「わたしが」と自分を強調して、「受け取った」ものを、「受け渡す」という。 これはユダヤ教のラビ用語で、伝承を受けとって(qibbr min)、 受け渡す(mãsar le )ことを言うときに用いるもの(ミシュナ・ピルケ・アボット1:1参照)で、 1コリ15:3でも同じ動詞を用いている。 こうして、1コリ15では「すなわち」と言って、 福音を要約し明文化したもの(1コリ15:3b−5)を引用している(拙著『聖パウロ』―その心の遍歴―150−155頁参照)。 そこと同じように、ここでも「すなわち」(23節)以下で、最後の晩餐の伝承を引用している。 事実、それは共観福音書にある最後の晩餐の記事ときわめて共通していて、パウロが自由に書いたものではない。 その伝承は当時イエスの死を記憶して行なわれていた典礼集会にあったもので、 引用文そのものも、すでに典礼的に定式化され、ギリシア語としても滑らかな文体を呈しているが、その伝承の起源はイエスまで遡ることを意味している。
 パウロ自身この伝承にあったものを、いつ、どこで受け取ったのだろうか。 それは推察でしかないが、その本文にすでにヘレニズム世界における適応された痕跡をとどめているので、エルサレムではなく、ユダヤ以外のどこかであろう。 それはおそらく、パウロが西暦30年代終わりから40年代始めにかけて滞在したアンティオキアの教会と思われる。 この町で、パウロはバルナバに呼び出されて、一緒に宣教活動を始めた。

 つぎに「主から」というのは、「主イエスから」ということ。 この表現に戸惑うかもしれない。パウロはイエスの最後の晩餐に居合わせなかった。 それではパウロはここで、ガラテヤの信徒に宛てた手紙にあるように、主イエスから「啓示によって」直接受け取ったと言っているのだろうか。 そうではなさそうである。ここでは「啓示によって」とは言わない。それゆえ、ここでは「主から」は、主イエスから始まる伝承から受け取ったという意味であろう。 また、この「主」は歴史的人物としてのイエスではなく、 復活して高揚されたキリストからの意味だと主張する学者もいたが、歴史的人物としてのイエスと高揚されたキリストは別人と見るのは誤りで、 歴史的人物としてのナザレのイエスが高揚されて生きておられ、この「主から」の伝承という意味で理解される。
 パウロはこの手紙全体で分裂状態にあるコリントの教会に主イエスから伝承されてきた教えを思い起こさせ、これを皆に忠実に守らせることによってその傷を癒そうとしている。 このことも考えあわせると、ここでパウロが教会の伝承にあるものを忠実に、正確に伝えようとしていることがなおのこと、頷かれる。

 その引用は、「主イエスが渡される夜」で始まる。これは、福音書の晩餐記事と比べると定式化された表現であることがわかる。 ここで「主イエス」()にしても、 「渡される夜」という表現にしても、すでにヘレニズム化されている。 したがって、これはヘレニズム世界のどこかの教会で繰り返し行なわれていた集会から取られたものであろう。
 この句によってその典礼の起源となる出来事の時が言われる。この時の指摘が重要で、ここで言われることが超時間的なことではなく、歴史の一時点で行われたことを言う。 そのように受難の要約も始まっていた(マルコ9:30−31;10:32−33参照)。
 「渡される」という動詞は、「裏切られる」という意味と、「死に渡される」という意味がある。 前者なら、イエスが愛する十二人の一人イスカリオトのユダによって裏切られたことを考えての表現である。 他方、後者ならイエスが主のしもべとして死に渡されたことを言う。 この「渡される」は、イザヤ書53章12節のギリシア語訳に主のしもべが、死に「渡される」とあって、ここから取られていると考えられる。 そうだとすると、イエスはイザヤ書53章で言われる「主のしもべ」としてその死に向かわれたのだというイエス理解が読み取れる。 このイエス理解は、主のしもべキリスト論と言われ、これが生まれたばかりの教会にあったキリスト論ではないかと言われる。 旧約聖書のイザヤ書53章にある「主のしもべ」に基いたこのキリスト論は、最古のキリスト論である。 実際に、イエスご自身迫り来るご自分の死を、イザヤ53章の主のしもべの死の光のもとに理解し覚悟されていたからこそ、 またこのようにご自分の死を予め説明されていたので、生まれたばかりの教会はその同じ光のもとにイエスを理解したのではないかと思われる。 これはイエス御自身による自己理解であり、キリスト論といえよう。 ここでは、「裏切られる」と「死に渡される」の両方の意味が込められているのではないだろうか。

 このイエスが「(渡される)夜」のこととして、福音書の記事も始まる。 このイエスが「渡される」夜の出来事は、12人の使徒の一人によって裏切られたにもかかわらず、 主のしもべとして御自分の父の使命を死ぬまでまっとうされた御受難の始まりとして、特に痛みとして初期キリスト教徒の記憶に深く刻み込まれていたのであろう。
 それは過越しの祭りの食事が行われる夜でもあったのかどうかという議論があるが、1コリではイエスの最後の晩餐が過越し祭の食事だったとは言われていない。 実際に、イエスの受難と死は、ユダヤ教徒の最大の祭りである過越し祭の前に行なわれた。 それゆえ、イエスの最後の晩餐は、歴史的事実としては厳密な意味での過越し祭の宴ではなかった。 それゆえ、それはまずは死を覚悟してその弟子たちと共にされた別れの晩餐であった。 ユダヤ教徒であった12人は、その翌年過越し祭を祝うとき、イエスの死と復活を自分たちの過越しとして祝うようになったとしても、不思議ではない。 それゆえ、イエスの死の意味をこの過越し祭の習慣に基いて理解し、説明した。 その過越し祭の晩餐で小羊を食べる習慣があったが、キリスト教徒にとって、イエス・キリストがその小羊として理解され、説明された。 この「小羊」はイザヤ53章の主のしもべについても言われる。 それゆえ、主のしもべとしてご自分の死を受容されたイエスが過越しの小羊であると理解した。 それゆえ、イエスの最後の晩餐と受難の記述には過越し祭の習慣の影響がある。 この過越しとしてのイエスの死と復活は、初期のキリスト教徒の理解であるが、それはイエス自身にすでにその理解があったかもしれない。 過越し祭の直前に最後の晩餐を行なわれたイエスには、当然過越し祭のこと、その宴のことも念頭にあったに違いない。

 最後の晩餐で何が行われたかについては、パンを取ってのイエスの行為と言葉、つぎに杯を取っての行為と言葉が言われる。 まさにここに核心がある。これはほかの3つの福音書の記事とも共通する。 その詳細を見ると、この1コリントとマタイ、マルコ、ルカの合わせて4つの証言にはそれぞれ異なるところもある。 それはそのそれぞれが歴史的出来事としての単なる最後の晩餐の報告ではなく、 その出来事の意味を、はじまったばかりの教会が理解しながら実行していた主の晩餐を伝えるものだということである。 その基本的なこと、本質的なことは同じでも、これがそれぞれの環境に順応されて伝えられたということでもある。まずその基本的なことを確認したい。

 その第1は、パンを取っての行為と言葉と、杯を取っての行為と言葉の間に、「食事の後で」という表現があるか、ないかにある。 これはここと、ルカの晩餐記事にもあるが、マルコとマタイの晩餐記事にはない。 イエスの晩餐の史実を伝えるのは、「食事の後に」とあるほうだと考える学者が多い。 なぜならユダヤの習慣で過ぎ越しの晩餐に限らず、ほかの祝祭の晩餐でも食事は食前の酒宴、 食事そのもの、食後の酒宴と分かれていて、イエスが杯を取ってその意味を説明されたのは、この食後の酒宴のことと考えられるからである。 他方、「食事の後に」がない証言は、イエスの2つの行為と言葉が、すでに儀式用に要約されて伝承されていたことを示すと思われる。

 第2に、ここでは「これをわたしの記憶のために行いなさい」というイエスの命令がパンを取っての言葉のあとと、杯を取っての言葉のあとに繰り返されている。 ここにも典礼用に定式化されていたことの痕をみることができる。ルカの記事では、この命令は杯を取っての言葉のあとだけに言われる。 それはパンを取っての言葉についても言われたと理解することができるし、実際そう理解されてきた。 他方、マルコとマタイの証言には言われていないが、これは実際にこの命令を実行している伝承から引用されたものであろう。

 この記憶するようにとのイエスの命令がイエス自身の発言ないしその意図に遡ることにほとんど疑いの余地はない。 この命令があったからこそ、12使徒を中心とする始まったばかりの教会は、すぐにその記憶する集会を実践するようになったと、理解できるからである。 始まったばかりの教会で主の晩餐は「パンを分かつこと(裂くこと)」と言って実行されていたことは、使徒言行録2:24でも言われている。 それは、また使徒教父文書の『ディダケー』(『12使徒の教訓』)9:1−10:7にもある。

 このパンを取っての行為と言葉、杯を取っての行為と言葉を「わたしの記憶として」行うようにとのイエスの言葉の意図は、どこにあったのだろうか。 イエスがそう言われたとき、この「記憶」(ギリシア語アナムネシス)で何を考えておられたのであろうか。
 これは「記念」とか「思い出」とか訳せようが、いずれにしても、これをわれわれの時代的、文化的背景で理解してはならない。 それはまた、たとえば遺言を忘れないために、くりかえしそれを「思い出す」というような、当時ヘレニズム・ローマ世界にあった意味(リーツマン)でもない。 それは当時のユダヤ教の祝祭ないし典礼の中で言われる用語として、その意味を読み取らなければならない。 ここの「記憶」は、年毎の過越し祭りの制定を記した出エ12:12−14を考えての表現であり、その関連でこの意味を理解しなければならない。 過越しの祭は、主なる神によるエジプトの束縛からの解放というイスラエルの先祖たちの救いの出来事の原初的体験を祝うものだが、 「この日はあなたたちにとって記憶(記念)となる」(出エ12:14)とある。 ここでその祭で記憶しなさいということだけでなく、その祭そのものが記憶だと言われている。 ここの「記憶」(ヘブライ語でジッカロン:zikkãrôn、70人訳ではムネモシュノン:μνημóσυνον)は、 イエスの最後の晩餐における「記憶」とその考えの構造において共通する。 主の晩餐で記憶するのも、やはりイエスの死という出来事だからである。
 出エジプト記はつづいて、「あなたたちはこの日を主の祭りとして祝い・・・」とあるが、 「主の晩餐」(1コリ11:20)という表現もそこから発想を得ているかもしれない(O・ベッツ)。 なお、1コリ11:25では、「記憶」のギリシア語はアナムネーシスで、ギリシア語訳旧約聖書の70人訳のムネシュノンとは異なる。 それは、アナムネーシスが70人訳によるのではなく、ヘブライ語のジッカロン、 ないしタルグムにあるドゥカルナ(dwkrna')ないしネオフィティ写本にあるドゥカラン・タブ(dwkarn tb)を訳したものと思われる。 この70人訳によるものではないということは、アナムネーシスという訳語がエルサレムで始まった初期の教会における独自の訳であることを示唆している。 その初期のエルサレムの教会では、70人訳聖書は使用されていなかったからである。
 ここでこの祭儀用語「記憶」、アナムネーシス、その原語ジッカロンないしドゥカルナはいかなる意味をもつのであろうか。 その「わたしの記憶のために」の「わたし」は、「わたしが記憶するために」という意味ではないかという説がある(J・エレミアス、H・クルーゼ)。 つまり、復活して生きるイエス・キリストが「記憶するため」というわけである。この説は奇異に思われるかもしれないが、無視できない。 旧約聖書の中にも、神が記憶することによって、新しい出来事が起こって歴史が導かれるという考えがある。 ノアの洪水も神が「記憶して」(新共同訳では「御心に留め」と訳される)、水が減り始めたと言われる。 また神はその憐れみを「記憶して」、アブラハムへの約束を成就されたと言われる(ルカ1:54;1:72の「聖なる契約を記憶して」も参照)。 それゆえ、その句に、復活して生きる「イエスが記憶して」という意味もあるのではないだろうか。 したがって、それはイエスがその十字架上の死をもって行なわれたことを、 イエスに記憶させると同時に人間にその恵みの御業を記憶させるためという二重の意味が込められていると言えよう。イエスが「わたしの記憶として」と言われたとき、 このような意味を込めて言われ、イエスの弟子たちは、その意を汲んで、イエスの死後まもなく集まって、お命じになったとおり実行したのだった。
 したがって、ここで用いられている「記憶(記念)」は、ユダヤ教の祭儀を背景とした独特な意味をもつものである。 それは原初的な救いの出来事を、言葉と仕草による象徴行為のもとに、この出来事の主人公が再現し、これに与る者にあらためてそれを体験させるということである。 エウカリスチアの場合、最後の晩餐のときにイエスが手で取られたパンとぶどう酒と、 そのそれぞれが何であるかを示された言葉が象徴行為であり、お命じになったとおり人がそれを行なうとき、 イエス自身その死をもって行なわれた救いの御業を現在化なさる。これが、ここの「記憶」の意味である。

 聖書における「記憶」について、
 TWNT I, 351-352(J.Behm);IV, 678-687(特に685-687, O.Michel)
  P.A.H.de Boer, Gedenken und Gedächtnis in der Welt des Alten Testaments, Stuttgart, 1960
 H.Gross, Zur Wurzel zkr BZ 4(1960) 227-237
 N.A.Dahl, Anamnesis, Mémoire et Commémoration dans le christianisme primitif, Stud.Theol., 1(1947)69-95
 R.LeDeaut, La nuit pascale, Rome, 1963,66-71(ここにある参考文献も参照)

 第3にイエスはパンに関して、「パンを取って」、「感謝の祈りをささげ」、「分かち」、「言われた」の4つの動詞が並んでいる。 この4つの動詞は、共観福音書の記事にも共通してあるが、「分かち」のあとで「彼らに与えて」とある(マルコ14:22;マタイ26:26;ルカ22:19)。 この4つないし5つの動詞は、イエスの最後の晩餐のときの特徴ある仕草として伝えられたことが窺われるが、 パウロの記事にある文には、典礼用の定式化が認められるようである。それに対して、共観福音書の文は描写的と言えようか。

 「取って」は、手に取ってということ。

 「感謝の祈りをささげ」(エウカリステーサス)はルカの記事にもあるが、マルコ、マタイの記事では「賛美の祈りをささげて」(エウロゲーサス)となっている。 いずれも食前食後に唱える祈りのことである。それはどのような祈りだったのか。 それはヘブライ語のバルーフ(「賛美されますように」)で始まる祈りであることに間違いない。
 この祈りは、主なる神が行われた驚くべき御業(mirabilia Dei)を想起して賛美するものであった。 過越し祭の宴は特別だが、ほかの祝いや日常の食事のときにも、家長はこのバルーフの祈りを唱える習慣があった。 このバルーフが、イエス時代にいかなるものであったか、ミシュナと言われるユダヤ教文書にそれを知る手がかりがある。 それによると、万物の創造の恵みとしての食べ物、約束の地における恵みとしての啓示、贖いの恵みとしてのエルサレムとその神殿を賛美の根拠として言及している。 食べ物の中でもパンは特別で、このパンに言及する祈りについて、 「(永遠に王であらせられる)主は賛美されますように(バルーフ)」で始まり、その主は「地からパンを産みだされた」と続いていた。 西暦2世紀に書き留められたミシュナ・ゼライムのベラコト編6に書かれているが、 この祈りはイエス時代にもあったものであり、イエスはこの祈りを唱えられたと思われる。 この「地からパンを産み出された」は文字どおり、詩編104:14から取られたものである。 この詩編は、情けに厚く、憐れみ深く、怒るに遅く、慈しみに豊かな(出34:5−6)父のような神(詩103:8、14参照)の御業として、万物の創造を賛美するものだが、 この神の御業を凝縮したものとして、日毎の糧であるパンを見て、バルーフの祈りを唱えていた。
 このような背景もつエウカリステーサスというギリシア語が、エウカリスチアという用語の起源となった。
 「分かち」は、「裂き」と訳されるのが一般的。これも最後の晩餐のときのイエスの特徴ある仕草で、エウカリスチアの呼称の一つとなった。

 第4にパンを取ってのイエスの言葉は、「これはわたしの体である」ということでは、4つの記事は共通する。 ただし、パウロのギリシア語文()は、 ギリシア語として自然だが、ヘブライ語ないしアラマイ語としては不自然である。これもヘレニズム世界で典礼用に定型化されたことの痕跡と言える。 これに加えられた説明文は、「あなたたちのための」()は、これもイザヤ53を考えての表現であろう。 これは、最後の晩餐の記述にイザヤ53章の「主のしもべの歌」がどれほど広く影響しているかを見ることによって頷ける。 「」()はまずは体、人体を意味するが、体をもった人間そのものを意味する。これを基本的な意味として、パウロが言うとき、 さらなる意味あいが加えられているかもしれない。この意味あいについては、1コリ10:14−22を読むとき、考えることにする。
 また杯を取ってのイエスの言葉もパウロとルカでは「この杯はわたしの血による新しい契約である」となっている。 「この杯」は、この杯の中にあるぶどう酒の意味であることに疑いの余地はない。 このぶどう酒は「わたしの血である」と言うほうが明らかであろうが、ここでは「新しい契約である」と言われる。 実際に、マルコでは「これは、・・・契約のわたしの血である」となっている。 このマルコの表現のほうが、パウロとルカの表現より古いのではないかと多くの学者は考える(R・ペシュ、J.−M.ファン・ガン)。 パウロとルカにある表現は、血を飲むというとあまりにも刺激的で誤解を招きかねないので、 「わたしの血による新しい契約」という表現に変えられたのであろう。 こうして、イエスの血によって「新しい契約」が結ばれるのだということが前面に出されることになったのではないかと思われる。 いずれにせよ、杯の中のぶどう酒がイエスの「わたしの血」が同一だと考えての表現である。「」()は、 命があるものとして考えられていたので、命の意味と、また流血による死を言うものでもあるから、いけにえとしての死の意味も含まれている。 これを基本として、パウロがこの用語を用いるとき、いかなる意味あいが加えられているか、別の機会に考えてみたい。
 他方、このイエスの血と「契約」ないし「新しい契約」の関係は、4つの記事に共通して言われている。 これは出エ24:3−8とエレミヤ31:31−34を背景として言われているもので、 ここに新しい神の民としての教会の理解が込められている。これについては追って考えてみたい。
 また杯を取ってのイエスのことばには、マルコの場合、「多くのもののために流される」が加えられ、マタイの場合、これに「罪のゆるしを得させるために」が加えられる。 またルカの場合、パウロにある表現に「あなたたちのために流される」が加えられている。

 この共通して伝わる「これはわたしの体である」という表現は、イエスが分かち与えられたパンがまさにイエスの体そのものであると言う。 このパンは単なるキリストの体の象徴ではなく、キリストの体そのものである。 これはイエスが「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)とか、 「わたしはぶどうの木である」(ヨハネ15:5)と言われる場合とはその意味が異なることは、文脈から明らかである。 また後述の1コリ10:16−17解説も参照。
 このイエスの体は、「あなたたちのための」()と言われる。これは、共観福音書の晩餐記事やほかの記事でかなり鮮明になるのだが、 イザヤ第53章にある主のしもべとして死んでいくイエスを示唆している。イザヤ第53章では、 主のしもべが「わたしたちのために」( 53:4)、 「わたしたちの罪のゆえに」( 53:5)死に渡されると言われているが、 ここから発想を得て、この祭儀に居合わせる人々を考えて、「あなたたちのための」と言われていると思われる。
 パンの場合と同様に、「この杯はわたしの血による契約である」も、イエスが差し出した杯のぶどう酒がイエスの血そのものであることを言う。 この血も、晩餐の翌日いけにえとして十字架にかけられたイエスが流す血を、新しく契約を結ぶためのいけにえの血として考えて言われている。

 このイエスの体と血が、苦しんで死んでいくイエスの体と血であることは、 福音書の受難記によって、いっそう明らかになるのだが、それはパウロが、 「このパンを食べ、この杯を飲むときにはその度毎に、・・・その主の死を告げ知らせるのです」(1コリ11:27)と言っていることにも窺がえる。 それゆえ、そのパンとぶどう酒が、単なるイエスの体と血ではなく、翌日十字架上で死んでいくイエスの体と血であることを言う。 さらにこの死が御父と人間への愛の究極の証しであったので、 このイエスの愛の証しとしての体と血であることを言う。
 それゆえまた、最後の晩餐の記憶として行なわれる典礼行為は、その十字架上のイエスの死と切っても切り離せない。 つまり、その典礼行為は十字架上の死の再現であり、現在化だということである。 これが、いけにえとして愛を証しされたイエスの死の現在化という性格は、この行為の本質に属する。 この行為が行なわれる度毎に、これは参加する者がそのイエスの死の前に立つという厳粛な瞬間である。
 またそのパンがイエスの体であり、杯のぶどう酒がイエスの血「である」というこの同一性は、 先ほど述べた典礼の文脈で言われる「記憶」が意味するところのものと考えあわせて理解されなければならない。 つまり、その同一性は単なる比喩や象徴を超える現実性をもって宣言されている。 この同一性を哲学的に説明しようとして、「実体変化」(substantiatio)という表現が用いられるようになった。
 なお、「・・・の度毎に」は、もしイエスの最後の晩餐が過越しの祭りの食事であり、これを繰り返すようにお命じになったのであったなら、 このパンを食べ、この杯を飲むのは1年に1回だけということとなる。過越しの祭りは、年に一回しか祝われないからである。 しかし、実際は、使20:7によると週の始めの日に最後の晩餐で命じられたことを行なっているように、毎年何度も行っていた。
 「主が来られるまで」:栄光の中に主イエスが来られることを言う。初期の教会には、この主の再来が迫っているという強い終末的緊張があった。
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