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エウカリスチアの年の学び(5)
−秘跡(sacramentum)とは−
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 秘跡(Sacramentum)について

 キリスト教は、最後の晩餐のときにイエスが発せられた命令にしたがって、その十字架上の死を記憶して、パンと杯を取っての仕草と言葉を、繰り返し行ってきた。 この典礼行為を、「秘跡」(Sacramentum)と呼び、しかも「秘跡中の秘跡」として最も貴重な宝としてきた。 現在も、ミサの核心部はこの秘跡であり、この核心部がなければミサではない。 ことばの典礼(Liturgia verbi)だけで、感謝の典礼(Liturgia eucharistica)がなければ、ミサではない。 それでは秘跡とは何かについて、ここで確かめておこう。
 まず秘跡とは何か、カトリックの伝統神学の定義にしたがってその意味を確かめてから、この秘跡の意味がどこから由来するのか、その背後にあるものを追及したいと思う。 それは、古代イスラエルの宗教伝承、特にその祭儀に遡る。その祭儀で宇宙万物の創造者であり、歴史を支配する神の力ある御業(わざ)が記憶され、 現在化されて祝われるが、その神の力に出所がある。 イエスの死と復活のみならず、そのすべてのことばと行いもそのように祝われ、現在化されてきた。

 伝統神学は、秘跡を「恩恵の効力ある感覚的なしるしであって、キリストによって制定されたものである」(Signum sensibile efficax gratiae,institutum a Christo)と定義する。 それゆえ、秘跡はまず「感覚的なしるし」であるという。 「しるし」は、人間の五感に触れるものであるから「感覚的な」といわれ、この「しるし」自体はほかの何かを指し示している。 これは象徴といえよう。形見は故人の遺族にとってその故人の象徴と言えよう。 それはエウカリスチアの場合、イエスが行ったパンと杯を取っての仕草と言葉にあたる。 しかし、形見の場合、形見は形見として物理的には同一のものとして残るのに対して、 エウカリスチアの場合、聖別されるパンとぶどう酒は色、形、臭いなど偶性は同じでも、実体は物理的にも、もうパンとぶどう酒ではなく、 イエスの体であり、血である。それゆえ、その象徴は、現実的象徴(symbolum reale)と言われる。
 さらに秘跡が単なる象徴ではないことは、その独特な効力にあるとされるところにある。 秘跡において、その象徴性というよりも、この効力にこそ独自性がある。 実は、象徴性においては、他の宗教と共通するものがある。 洗礼における水と洗い、エウカリスチアにおけるぶどう酒は、キリスト教以外の諸宗教でも象徴として用いられている。 秘跡の場合、その独自の効力の理解にこそ秘跡の秘跡たる所以がある。 その独自の効力は、事効性(ex opere operato:直訳「行なわれた行為により」)と言われる。 この事効性とは、人効性(ex opere operantis:直訳「行なう人の行為により」)とは対照的に、 その効力、つまり神の恩恵を授けるという効果が、秘跡を行なう人の如何にかかわりなく、象徴行為そのものによるということである。 これは秘跡を行うのが、実は典礼の執行者ではなく、その象徴行為を行うよう命じたキリスト御自身だということによる。 こういうわけで、秘跡は魔術(マジック)とは根本的にその理解が異なる。 秘跡はそのキリストご自身が行なう行為であり、その力の行使であり、何よりも情けと慈しみの御業だからである。 それゆえ、秘跡を執行する人間は、ラテン語で、in persona Christi(「キリストの位格となって」)行うと言われるが、 これは単に「キリストに代わって」とか、「キリストの名代で」ということだけでなく、その執行者は秘跡を執行するとき、この人個人ではないということである。 カトリック教会では、秘跡を執行する者にこの自覚をもつことが要求されてきたのは、そのためである。 秘跡の効果として秘跡を受ける者に与えられるのが、「恩恵」(gratia)である。 これは「恵み」と訳されることがあるが、一般的な「恵み」はなく、神の特別な超自然的な賜物を意味する(「恩恵論」で学ぶ)。 「キリストによって制定されたもの」は、秘跡の真の行為者はその執行者ではなく、キリストご自身であるから、当然である。
 この秘跡における事効性は、第2ヴァチカン公会議では、典礼行為におけるキリストの現存をいう典礼憲章第7項で、以下のとおり表現されている。 「キリストは、人が洗礼を授けると、キリスト御自身が洗礼を授けることになるというその御自分の力をもって、諸秘跡の中に現存しておられる」。 この中で、特に「人が洗礼を授けると、キリスト御自身が洗礼を授けることになるというその御自分の力をもって」は、 伝統神学における事効性を言い当てているが、そこに「その御自分の」、つまりキリストの「力」が働いているということを浮き彫りにしている。 秘跡は、まさにキリストの力が最も顕著に働く場なのである。勿論、これを見るのに信仰の目は欠かせない。

 この秘跡の背後に、福音ということも前提としてある。福音とは、教会の中に現存する復活者キリスト、その力ある活動、その力そのものにほかならない。
 力としての福音については、拙稿「福音は神の力」−その用語の背後にあるもの−、 『大神学院紀要』第17特別号(イエール師献呈)、2003年、福岡サン・スルピス大神学院、77−101頁参照。
 この力としての福音の背後に、王としての神の支配、つまり神の国がある。 王(ギリシア語のバシレウス、ヘブライ語のメレク)としての神、その王としての支配(ギリシア語のバシレイア、ヘブライ語のマルクート)は、 力、威力、勢力を前提としている。イエスはその神の国(バシレイア)の到来を告げられた。 その力が最も顕著に現れたのが、逆説的だが、その十字架上の死であった(1コリ1:18、23−24参照)。 まさにこのイエスの死において、予め「近い」とお告げになっていた神の国の到来がある。 福音とはこのイエスの死と復活のこと、復活者としての力ある現存にほかならない。 このような神の力ある支配は、すでにイスラエルの民の歴史の中で始まっていたが、イエスの十字架上の死はその頂点であった。 これを認めるのは、信仰の目であり、この目がなければ秘跡とその独特の効力も見えない。

 原秘跡としての教会、イエス・キリスト

 その秘跡が最も顕著に理解されるのが、主の晩餐において制定されたエウカリスティアの秘跡であり、教会はこれを中心に7つの秘跡があると考えてきた。 それはエウカリスティア、洗礼、堅信、ゆるし、病者の塗油、結婚、叙階である。 この7つは、教会がその本質を顕著にあらわす教会の行為と考えられてきた。 どうしてそうなのかといえば、教会そのものが秘跡と言わなければならないからである。 この意味で教会は原秘跡であると言われる。 このような理解が明らかにされたのは、実は20世紀になってからで、教会とは何なのか、教会の古代の典礼や教父たち、 それに聖書を研究して、教会の理解を深めてのことだった。 これに貢献した神学者として、Y・コンガール、E・スヒレベーク、O・ゼンメルロー、K・ラーナー、聖書学者としてL・セルフォー、P・ベノアなどの名をあげることができる。 そういうわけで、第2ヴァティカン公会議の教会憲章は、その第1章第1項で、「教会はと言えば、これはキリストにあって、 神との密接な一致と人類の一体性の、あたかも秘跡のようなもの、ないししるしであって道具であるようなものである」と明言した。 ここで「神との密接な一致と人類の一体性」が秘跡の定義の「恩恵」にあたる。教会はその「あたかも秘跡のようなもの」と言われる。 「あたかも」と言われるのは、伝統的神学において、「秘跡」はまずは7つの秘跡について言われてきたからである。 その秘跡の説明として「しるし」であって、「道具」であるようなものと言われる。 この「しるし」は事効性をもったしるしの意味で、教会の存在が「すでに」決定的に実現している「神との密接な一致と人類の一体性」をあらわしているということを、 「道具」は「まだ」それを完全に顕在化するには至っていない現在、神の「道具」、 つまり神が用いられる手段としてこの世界の中でなすべきことがあるということを言っている。 教会について、どうしてそのようなことが言えるのかと言えば、教会がパウロにおいて「キリストの体」と言われるように、 イエス・キリストと内面的に深くつながっているからにほかならない。教会と共に、キリストこそ原秘跡と言わなければならないからである。

 実体変化(transsubstantiatio)

 イエスがパンと取って「これはわたしの体である」と、杯を取って「これはわたしの血である」と言われたとあるが、 ここで「である」で言われるその主語と述語の同一性は、いかに理解しなければならないのだろうか。 この同一性について神学的に説明が試みられてきたが、西欧では、中世以来「実体変化」(transsubstantiatio)という用語で説明されてきた。 聖書にはこの用語はない。それはアリストテレス哲学を援用しての説明である。 それによると、事物は実体(substantia)と偶性(accidens)から成っており、たとえば犬という実体も、大きさ、色、形など犬それぞれに異なっているが、 この大きさ、色、形などを偶性という。実体は実体だけでは概念としてあるだけだが、実際には実体は偶性を伴って存在している。 この考えに従って、イエスが取って聖別なさったパンとぶどう酒も、その聖別の前と後で、色、形、味など偶性は同じだが、 実体としてはパンからイエスの体に変化すると説明される。これを実体変化(transsubstantiatio)という。 この説明は、この秘跡におけるパン、ぶどう酒とイエスの体、血の独特な同一性を再確認しようとするものである。 西欧中世において、古来確信されてきたその独特の同一性がはじめて理論的に否定されたが、それはベリンガリウス(Berengarius, +1088)による。 これに対して実体変化という説明をもって答えることになった。教会の歴史をとおしてその独特の同一性が確信されてきたが、それに異論が提唱されると、 その機会に神学的に反論がなされてきた。そのそれぞれの反論も重要な信仰の遺産だが、 いっそう重要なのはそのそれぞれの神学的説明の底流にある一貫した教会の確信であろう。 実体変化という用語は聖書にはないが、聖書に基づく信仰内容を説明しようとしたものであり、 そういうものとして教会の確信を確認しており、これを軽々しく否定したり、無視したりすることはできない。
 なお、ローマ・カトリック教会は、実体変化という用語とその概念をもって司教、司祭によって聖別されたパンとぶどう酒における主イエスの現存を理解し、説明してきた。 これが全キリスト教徒に共通したこの秘跡の理解ではない。 16世紀以来、カトリックとプロテスタントは主の晩餐を祝ってきたが、プロテスタントは実体変化という説明を受け入れずにきた。 それゆえ、エキュメニズム運動が始まって相互に理解しあうよう努力されてきたが、 聖別されたパンとぶどう酒における主イエスの現存に関しては、まだ共通理解には至っていない。 したがって、いずれかにおける聖餐式においてカトリックとプロテスタント、聖公会の信徒が、聖別されたキリストの体と血を拝領することはできないというのが、 カトリック、プロテスタント、聖公会の公式の決りとなっている。 聖餐についての内面的な理解が一致する日を待ち望みながら、 現在のところキリスト教徒の分裂を心の痛みとして感じながら、相互拝領(inter-communion)を控えることになっている。 しかし、心の痛みとして感じるところに、キリスト教徒の一致はすでに始まっていると言えよう。

 哲学と神学の今後の課題

 他方、実体変化は、わたしたちを取りまく物理的世界に起こる変化という事実を説明しようとしたギリシアの哲学者アリストテレスの存在論(形而上学)を援用したものである。 それゆえ、聖別されたパンとぶどう酒が物理的に変化するというエウカリスチアの側面を説明するために有効であるとしても、 エウカリスチアそのものを説明するものではない。 聖別されたパンとぶどう酒に参与することによって実現される神と人間、 人間と人間の出会いという物理的世界を超える側面が考慮外とされるなら、実体変化という説明にも限界がある。 この観点からカトリック神学の中で実体変化についての議論は続けられてきた。 第2ヴァチカン公会議(1962−1965)の前後にあった時代的風潮は人格主義であったので、実体変化について盛んに議論されたが、 その後社会主義的風潮が強くなり、その議論は深められることなく残された。 こうして実体変化のみがカトリック教会の公式な説明として残っているというのが現状ではないかと思う。

 さらに古代イスラエル宗教とそこから起こったキリスト教は元来、ギリシアのアリストテレスのようにわたしたちを取り巻く物理的世界を見ているのではない。 ここに秘跡そのものについての西欧における理解にも限界があると思う。古代イスラエル宗教では物事の変化を変化としてではなく、出来事として見る。 物事を歴史の中で起こる出来事として見る。この出来事を出発点として存在論(形而上学)を根本から見直す必要があり、 このような作業を現代の哲学に期待したい。他方、哲学はデカルト以降思考する主体である人間の認識そのものを問題としてきて、存在そのものを取り上げてこなかった。 現代、認識の問題を一応片付けて、あらためて存在論(形而上学)に取り組む時が来ている。 すべてが時間の中で出来事として起こるのであるから、ここに立脚した存在論(形而上学)が展開されることになれば、 秘跡についても、より深く納得のいく説明が得られるかもしれない。秘跡は出来事とその現在化という出来事を問題にしているからである。 換言すれば、教会の中で信仰として保たれてきた秘跡が、この世界の存在そのものの新しい理解を呼びかけている。      
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