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聖母マリアとローマ
和田 幹男


心が和む聖堂
雪の聖母マリア
都の丘に咲いた大輪の花
モザイクに描かれたマリア神学
聖母マリアの戴冠
システィーナ小聖堂とボルゲーセ小聖堂
聖母マリアの現存

心が和む聖堂
 ローマにはたくさん聖堂がありますが、聖母マリアに捧げられたものがとくに美しく、 神秘的です。その中には心に安らぎを感じさせるものが多くあります。 日本人は明日香の飛鳥大仏や斑鳩の法隆寺、奈良の東大寺を訪れるとき、 何となく心の古里に戻ったような気持ちになります。 ローマで聖母マリアの聖堂に入るとき、カトリック者として同じような気持ちになりますが、 それは私ひとりだけのことでしょうか。サンタ・マリアというその名を聞くだけで、 心が和む思いがします。サンタ・マリア・アンティクワ(古い聖母マリア)、 サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ(女神ミネルヴァ神殿の上の聖母マリア)、 サンタ・マリア・イン・トランステベレ(川向こうの聖母マリア)、 サンタ・マリア・イン・アラチェーリ(天の祭壇の聖母マリア)、 サンタ・マリア・イン・コスメディン(飾りの聖母マリア)、 サンタ・マリア・アド・マルティレス(殉教者たちの聖母マリア)、 サンタ・マリア・イン・ニーベ(雪の聖母マリア)など、 幻想的で奥ゆかしく耳に響きます。バチカンには聖ペトロ大聖堂、 オスティア街道には聖パウロ大聖堂、それにラテラノの聖ヨハネ大聖堂もあり、 そのどれも堂々たるもので、すばらしいものですが、聖母マリアの聖堂は格別で、 古いことが多く、ふところが深く、優しい感じがします。聖母マリアの聖堂といえば、 パリのノートル・ダムもそうです。これは荘厳で崇高です。 またフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母マリア大聖堂)もそうです。 これはルネッサンス屈指の華麗な聖堂です。しかし、歴史の重さといい、 暖かさといい、神秘性ということになれば、ローマの諸聖堂に及ぶものはありません。 ここに名をあげた諸聖堂は西暦五世紀から七世紀に聖母マリアに奉献されたものです。 ですから、すでに西欧の中世初期に、このキリスト教の一大中心地において 聖母マリアに対する敬慕がしっかりと根をはり、信徒の間に広がっていたことがわかります。
 
雪の聖母マリア
 その中で最古で、最大の聖堂について述べてみたいと思います。 それは雪の聖母マリアです。それはまた聖母マリアの聖堂としては最大のものですから、 通称サンタ・マリア・マジョーレ(聖母マリア大聖堂)の名で呼ばれています。 この聖堂がどうして雪の聖母マリアといわれるのか、ご存じのかたも多いでしょうが、 それはこのような言い伝えがあるからです。裕福な貴族にヨハネという人がおりました。 この人は子宝に恵まれず、遺産をどうしようかと思案し、 それをもって聖母マリアに捧げられた聖堂を建てようと思い立ちました。 そうしますと、聖母マリアが夢の中でヨハネに現れ、どこにその聖堂を建てればよいか、 その敷地を雪でお示しになったというのです。妻にその話をしますと、 妻も同じ夢を見たというのでした。二人は不思議に思い、 翌日教皇リベリウスのもとに赴いてその話をしますと、 教皇も同じ夢を見ていたのでした。そこで彼らはエスクイリーヌスの丘の頂上に行ってみると、 その日は8月5日という夏の盛りだというのに、雪が積もって敷地が示されていたのです。 こうして建築が始められ、完成したその聖堂は「雪の聖母マリア」と呼ばれるようになったというのです。 西暦1250年頃トレントのフラ・バルトロメオが書き残したこの言い伝えは、 それ以前の10−11世紀以前からあったかどうか明かでなく、 また事実を伝えるものではないようですが、美しい物語ではありませんか。 ローマはその建国以来双子のロムルスとレムスの話などたくさん物語がある町ですが、 それはキリスト教の時代になっても変わらず、物語が作られました。 雪の聖母の物語もその一つなのです。その物語を描いたモザイクが正面玄関の上にある階上の間 (Loggia、ロッジャと言われる)に見ることができます。
 
都の丘に咲いた大輪の花
 今の話にもありますように、この聖堂は丘の上に立っています。 それはローマの7つの丘の一つ、エスクイリーヌスの丘の頂上キスピウスにあります。 この10数世紀侵食によって丘は低くなり、谷は埋まり、建物が立ちこんで、 現在のローマではこの大聖堂もほとんど隠れてしまいましたが、 かつては町の東の高台にあってよく見えていたはずです。 ローマにはほかにも大きな聖堂があるので、実感されないかもわかりませんが、 この聖堂も実に大きいものです。内部の中央部だけで、 長さ71メートル、幅35メートルあり、それに玄関と後陣が加わりますから、 巨大な建物なのです。大きいゆえに、この聖堂は遠くからもよく見えたに違いありません。 人々はこの大聖堂を見て、聖母マリアがこの都を見守ってくださっていると、いつも感じていたのではないでしょうか。
 この大聖堂の外観は必ずしも美しいとは言えないかもわかりません。 その外観は1741ー1747年にフェルディナンド・フーガによって改装されたもので、 実際にはこの建築家の傑作と言われています。この傑作も内部のすばらしさに 比べると色あせるというほうが正しいかもわかりません。大きな玄関があり、 青銅の門扉をもった入り口が3つあります。向かって左側の入り口が「聖なる門」 (Porta Sancta)で、聖年にだけ開かれます。
 この聖堂内に入りますと、千数百年も昔に建築された聖堂がその様相をとどめていて、 いっきにその昔の聖堂に迎え入れられます。まず左右に20本づつ美しい石柱が並んでいます。 聖土曜日の徹夜祭のとき、玄関で点された一本の復活のろうそくが、暗闇と沈黙の中を中央祭壇に向かって進むにつれ、 その火の光を受けて、ほんのりと浮かび上がる左右の列柱が徐々にその影を移していくさまは、実に幻想的です。 列柱の上の側壁にはアーチ型の窓が明かり取りとして並んでいます。奥の中央には祭壇と祭壇を覆う天蓋、 さらにその上に凱旋アーチがあり、背後には半円形の天井を持った後陣が控えています。 現在目にするこの大建築とそれを飾るモザイクなどは、千数百年にわたって増築、改築、修復されて造り上げられ、 保存されてきたものですが、それはここにどれほどの情熱と意志が込められたことかを示し、 またどれほど聖母マリアが敬慕されてきたかを窺わせてくれます。聖ペトロ大聖堂も、聖パウロ大聖堂も、 ラテラノの聖ヨハネ大聖堂も4世紀に建てられましたが、その後改築され、その元の姿はほとんど見ることができませんが、 この大聖堂の内部はそのままの姿を留めているのです。こうして、それはその芸術性の高さと、 そこに込められた信仰内容(神学)の深さを今日まで証しつづけていて、当時のローマの教会がそこまで達していたかと、 驚かされます。それは都ローマの丘に咲いた大輪の花と言えましょう。

モザイクに描かれたマリア神学
 この位置に聖堂を最初に建立したのは教皇リベリウス(352ー366年在位) であるとの記録もありますが、発掘調査ではそれは確認されておりません。 建築された時代を知る確かな手がかりは、中央祭壇の上にあるアーチにあります。 これは「凱旋アーチ」と言われますが、それは全面がモザイクで覆われています。 その最上段の中央に十字架に象徴される神が王の冠と衣をつけて座す王座が描かれ、 すぐその下に「神の民の司教シクストゥス」と書かれています。 これは教皇シクストゥス三世(433ー440年在位)のことで、 この教皇のときに聖堂が完成し、聖母マリアに奉献されたことを示しています。 そうしますと、この聖堂の建築はすでにそれ以前から始められており、 それは400ー430年の間と推定されます。それは北アフリカのタガステには聖アウグウティヌスが、 パレスチナのベツレヘムには聖ヒエロニムスが、北イタリアのミラノには聖アンブロジウスが生きていた時代にあたります。 この聖堂が始めから聖母マリアに捧げるために建てられたものかどうか、わかりません。 しかし、431年のエフェソ公会議において、聖母マリア御自身は神ではないが、 神であり人であるイエスの母であるから「神の母」(ギリシア語でテオトコス) と言えるという結論に達し、それが教義として公に宣言されました。 それを受けて教皇はこの大聖堂を「神の母」なる聖母マリアに奉献しました。 その教皇の意図は、凱旋アーチのモザイクに明らかに読み取ることができます。
 ここにはイエスの幼年時代の出来事が描かれ、聖母マリアが母としてイエスにどのように関わられたかを示しています。 その出来事とは、最上段の向かって左にお告げ(受胎告知)、右に神殿への幼子イエスの奉献が描かれています。 そのお告げでは、扉が閉じられた家の前に立つ聖母マリアに天使たちが語りかけ、その上では聖霊を象徴する鳩が飛び (ルカ2章26−38節)、他方、扉が開かれた家の前に立つヨセフにも天使たちが語りかけています (マタイ1章18−25節)。幼子イエスの奉献では、天使とヨセフに導かれて聖母マリアは幼子イエスを抱いて神殿を訪れ、 女預言者アンナと老シメオンがその背後のユダヤ人と共にそれを迎えているところです(ルカ2章22−38節)。 その右端には、眠っているヨセフに語りかける天使が見えま(マタイ2章13節)。
 中段の左に御公現、右にエジプトへの逃亡が描かれています。御公現では、 王座に座す幼子イエスは聖母マリアと天使たちに守られ、東方の三博士の参拝を受けています (マタイ2章9−12節)。三博士を導いたという星も幼子イエスの上に見えます。 古代キリスト教では、今日の東方キリスト教もそうですが、御公現がイエス誕生の祝いだったのです。 エジプトへの逃亡では、両親と天使たちに守られて幼子イエスがエジプトに着いたところです( マタイ2章14節)。この場面は、聖書には僅かしか語られていないので、聖書外資料で補って、 当地の王アフロディジウスがそこの神殿にあった古い偶像が壊れたとの知らせを受けて、 兵士たちと共に真の神のもとに駆けつけ、改宗したというところを加えています。
 下段の左に罪なき幼子たちの殺害、右にヘロデ大王を訪れた三博士が描かれています。 罪なき幼子たちの殺害では、ヘロデ大王が王位を脅かすものを排除しようとしてベツレヘム の2歳以下の幼子たちすべてを殺す命令を出し、その母親たちが恐れおののいているところです (マタイ2章16−18節)。ヘロデ大王を訪れた三博士では、大王が新しい王の誕生を知って 訪れた東方の三博士に詳しくその事情を聞きただしているところです(マタイ2章1−8節)。 さらにその下の左にエルサレム、右にベツレヘムの町が描かれています。ベツレヘムは イエスがお生まれになった町、エルサレムはイエスが十字架に架けられて死んだ町。 その両方の町の門に十字架が見えます。その外に集まる羊は、神の国の到来を待ち望む諸民族のことでしょう。
 その全体は見事なモザイクで、この古い時代にこれほど優れた技巧で、 また福音書に従ってこれほど純粋に、生き生きと、尊敬と愛を込めて聖母マリアと御子イエスが表現されているとは、 驚きです。ここには異教の豊穣多産の女神信仰(地母神信仰) や女神アルテミス信仰の影響は微塵も認められません。このモザイクの中で天使が複数で出るところと、 エジプト王が出迎えるところは聖書外資料からの発想のようですが、その聖母観は福音書に忠実に、 また純粋に基づいています。すでにこの時代に聖母マリアへの真正な崇敬は確立し、 マリア神学の大綱は出来上がっていたと思わざるをえません。それは、 すでに迫害時代のローマの信徒の中に根付き、深められてきた聖母マリアへの敬慕と理解がついに花を咲かせたかのようです。 3世紀、さらに古い時代から始まるカタコンベの絵画や石棺レリーフに現れる聖母マリアを考え合わせますと、 このモザイクを持ったローマのキリスト教徒の心と頭の中で、聖母マリアの花は満開となったといえるのではないでしょうか。  この凱旋アーチの下には、4本の深紅の木製の柱に支えられた天蓋がありますが、 この天蓋は、イタリア語ではバルダッキーノ(Baldacchino)と言われます。 これは前述のフーガの作品です。その下に中央祭壇があり、 さらにその下に幼子イエスのゆりかごと言われるものと聖遺物入れがあり、 ここには聖ステファノと聖ラウレンティウスの聖遺物が納められています。
 この聖堂を美しく魅力的にしているのは、その適当な暗さとその中に浮かび上がるモザイクでしょう。 すでに述べた凱旋アーチのほかに、左右20本づつの石柱の上、明かり取りの窓の下の側壁に同時代のモザイクがあり、 旧約聖書に従って左側には創世記のアブラハム、イサク、ヤコブ、右側には出エジプト記以下 のモーセとヨシュアの物語が合計27描かれています。まさに聖書の絵巻です。 そのすべてが作成されたときのまま残っているわけではありませんが、その多くが残っています。 15世紀に印刷機が発明される以前には、聖書は一般に人々が手にするものではありませんでした。 聖書は高価な皮革紙またはパピルスに書かれ、一般の人々が持てるようなものではなく、 また持っていたとしても、多くの人は文字が読めませんでした。 聖書の物語を描いたこれらのモザイクが印刷聖書に代わるもので、 モザイクを示しながら、聖書の物語が読まれ、説明されたのでした。 このように聖書は信徒の間で広く知られるようにされていたのです。
 
聖母マリアの戴冠
 後陣の半円形の天井には、天において御子イエスによって冠を戴く聖母マリアが描かれています。 これは古代キリスト教にはない主題ですが、西欧中世において好んで表現されました。 この聖母戴冠のモザイクは実にエレガントなものです。ここには教皇ニコラウス4世 (1288ー1292年在位)も描かれていて、13世紀のものであることがわかります。 実は左下の隅に、このモザイクの作者ジャコモ・トリティの名が記されています。 彼は1295年にこのモザイクを完成しました。この作者は、 13世紀イタリア・ルネッサンスの巨匠チマブエと共にアシジで作業したことがありますので、 その影響を受けていると言われます。ですから、このモザイクはルネッサンスの香りを漂わせているのです。
 中央の丸い枠の中に、天上で御子イエスと聖母マリアが豪華な王座に座り、 イエスが右手でその母に冠を載せている場面が描かれています。 背景の濃紺の空には星が散りばめられており、太陽と月は王座の下に置かれています。その王座の左右には、 たくさんの天使が小さく描かれ、王座の二人に注目し、手を会わせています。 こうして王座をいっそう高く浮き立たせています。 フィレンツェのウフィツィ博物館にあるチマブエの「マイェスタ」 (天上の聖母子)と同じ手法です。その丸い枠の外には左に、 その近くから聖ペトロ、聖パウロ、それにアシジの聖フランシスコが、 右に洗礼者聖ヨハネ、福音記者聖ヨハネ、それにパドアの聖アントニオが描かれています。 聖ペトロの足下に小さく描かれているのはニコラウス3世で、同教皇はこのモザイクの作成を命じました。 同教皇はフランシスコ会士であったため、このモザイクにアシジの聖フランシスコとパドアの聖アントニオも入るようにしたのです。 洗礼者聖ヨハネの足下に小さく描かれているのはジャコモ・コロンナ枢機卿で、これは資金提供者です。 下辺に帯状にあるのはヨルダン川です。その水は中央から左右に流れでており、 その両端からアカンサスの木が生え出て、成長し、その緑の枝が巻き蔓となってモザイク全体に広がっています。 その枝の先には色とりどりの花が咲き、その間には大小の鳥が飛びかっています。背面は金色で、これは神の世界の象徴です。
 聖母マリアの戴冠の下、窓の間の壁にあるのは「マリアの眠り」(Dormitio Mariae)です。 「眠り」とは、聖母マリアのご逝去のことで、これも西欧中世になってから好んで描かれるようになりました。 聖母マリアが使徒たちに囲まれて亡くなる場面です。その霊魂は幼子として表現され、 イエスによって受けとめられています。イエスと共に天使たちと先祖のダビデ王、 聖女アグネス、チェチリア、ルチア、カタリナもその霊魂を迎えています。 その背後に左にシオンの山、右にオリ−ブの山が見えます。
 この場面を中心に、窓の間の壁面には、左にお告げとイエスの誕生、 右に東方の三博士の礼拝と神殿への幼子イエスの奉献が再び描かれています。 このように凱旋ア−チのモザイクから後陣のモザイクへと見ていけば、 同じ福音書に基づきながらも、マリア神学にも時代の推移ないし発展があったことが読み取れます。  このモザイクの外の壁面にあるのは、左右に12人づつ白衣をまとった黙示録の長老たちが 中央の小羊に向かって賛美しているところです。小羊は人間の救いのためにいけにえとなった 罪のないイエス・キリストの象徴です。この小羊の左右にあるライオン、天使、鷲、雄牛は、 よく知られているように福音記者マルコ、マタイ、ヨハネ、ルカの象徴です。長老たちの下には、 左にパウラとその娘エウスタキアに聖書を教える聖ヒエロニムス、右にユダヤ教徒に 聖書を教える福音記者マタイが描かれています。これは、巨匠チマブエ、または それに並ぶローマの画家カヴァリーニの作ではないかと考えられています。

システィーナ小聖堂とボルゲーセ小聖堂
 この大聖堂の左右の脇には幾つかの小聖堂がありますが、特にその中の2つだけ言及しないわけにはいきません。 中央祭壇の右のほうにあるのは、教皇シクスト5世(在位、1585−1590年)が、 教皇になる前に枢機卿デ・モンタルトとして建築家D・フォンターナに作らせたものです。 その祭壇と、ご聖体を入れておくための金の聖櫃が特に豪華に作られています。 ですから、これはあとでシクストのという意味でシスティーナ小聖堂、または秘跡の小聖堂と言われます。 その祭壇の下には、幼子イエスを礼拝に来た東方の三博士の彫刻があります。13世紀の作品で、 これを納めた小聖堂は大いに敬愛されていました。この古い小聖堂をいっそう厳かなものにするために、 同枢機卿は改築、増築を命じたのでした。
 他方、中央祭壇の左のほうにあるのは、ボルゲーゼ家出身の教皇パウロ5世 (在位、1605−1621年)が作らせた小聖堂です。ですから、 これはボルゲーゼ小聖堂、またはパウリーナ小聖堂と言われ、システィーナ小聖堂とは対称的となっています。 このように大聖堂は上から見れば、十字の形になりました。この小聖堂の中央祭壇は、 「ローマの民の救い」(Salus populi romani)と言われる聖母のイコンを崇敬するために作られました。 このイコンの作者は、福音記者ルカだという言い伝えがありますが、西暦5、6世紀の作品と考えられています。 1527年、ローマにペストが流行したとき、このイコンを掲げて行列し、祈ったところ、 流行はおさまったと言われています。西欧には疫病や天災、戦争などのときに、 信心の対象となった聖母の絵や像があちこちにあり、今日も敬慕されていますが、ローマではこのイコンがそうなのです。
 さらに20世紀になってから作られた聖母像があることもつけ加えておきます。 これは1918年、第1次世界大戦直後、世界平和を願って教皇ベネディクト15世によって立てられた「 平和の元后」(Regina Pacis)の聖母像です。大聖堂に入って左の側壁の前にあります。 右手に幼子イエスを抱き、左手は高く掲げて、戦争は「もういい」と呼びかけているかのようです。 その後も繰り返された戦争の悲惨を知っているわたしたちは、この聖母像の前では悲しくなるのではないでしょうか。 それと同時に、現在も、また今後も、わたしたちは聖母マリアの取り次ぎを必要としていることを痛感します。  なお、日本でも、わたしたち全信徒が敬慕するような聖母像がほしいものです。 キリシタン発見のきっかけとなった長崎大浦天主堂の聖母像はその第一候補ではないでしょうか。

聖母マリアの現存
 わたしはローマをよく訪れますが、その数ある聖堂の中で、この大聖堂はほとんどいつも最初に訪れる聖堂です。 朝のミサに行ったり、昼間観光客に混じって見てまわったり、また夕の荘厳ミサに行ってみたりしました。 そのとき、驚いたのです。昼間の見物と夕のミサのときとで、雰囲気がまったく違うのです。 昼間の教会は美しいことには変わりありませんが、博物館と同然なのです。 ところが、夕、この教会に信徒が集まり、聖歌を歌い、司祭がミサを始めますと、 あたかも仏像に魂が入ったかのように、教会全体が命あるものになるのです。 そのミサという祈る共同体とあいまって、美しいモザイクもその共同体の心にあるものを見事に写し出しているのです。 それはキリストの現存であり、そのキリストと共に聖母マリアの現存です。 ほかのどこよりもこの聖堂のミサの中で、今もキリストがこの歴史を導いておられること、 またその母マリアも共に慈愛の眼をもって見守ってくださっていることを実感させられました。 典礼には不思議な機能があるものです。この典礼によってキリスト教の信仰は受け継がれてきたのであり、 聖母マリアに対する敬慕もその信仰の不可分の一部だったのだと思いました。 その敬慕はこの聖堂が造られた五世紀に始まったのではなく、それ以前からあったのであり、 もしかするとミサの歴史とほとんど同じように古いのではないでしょうか。  わたしは美術の専門家でもなく、その技術的なことはわかりませんが、 絵画にしても、彫刻にしても、建築にしても、古代キリスト教徒の残したものはすべて彼らの信仰と神学を表現したものですから、 この観点から興味をもって見ることにしています。典礼を抜きにしたキリスト教芸術は、 わたしにとってその心を抜きにしたものなのです。その観点から言えば雪の聖母マリアの大聖堂は、 ここで行われるミサとあいまって、時代を超えてキリストと共に現存する聖母マリアを如実に表しており、 その全体が生きたマリア論のように思われます。

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