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ローマのサンタ・マリア
和田 幹男


古代キリスト教における聖母崇敬

 ローマの聖母マリア大聖堂を訪れると、この大聖堂が建立された5世紀前半から現代まで、 聖母崇敬がどれほど堅く、深く根付いてきたかを窺うことができます。ただその事実だけでなく、 聖母マリアがいかに理解されてきたか、その崇敬の質も窺うことができます。 この理解には、原初のものを踏まえつつも、その後変化があったことも認めることができます。 建立当時に作られた同大聖堂の凱旋アーチには見事なモザイクがあって、そこには福音書に基いて、 またエフェソ公会議(431年)の決議に従って「神の母」(テオトコス)としての聖母マリアを表現しています。 後陣のモザイクは、地上における聖母マリアの「眠り」、 つまりご逝去と、天上における聖母戴冠を実にエレガントに表現しています。 このモザイクは凱旋アーチ作成から9世紀も経って作られたものであり、 イタリア初期ルネッサンスの雰囲気を漂わせています。聖母の「眠り」と「戴冠」という主題も、 西欧中世盛期になって好まれたもので、聖書には書き記されてはいません。しかし、 これも聖書に基づきながら、そこから帰結される聖母理解なのです。その後、 16世紀には「ローマの民の救い」としての聖母が、20世紀の第1次世界大戦後には「平和の元后」 としての聖母が加わりました。このように歴史の経過の中で、原初的聖母理解に 新しい聖母理解が重ねられてきたことがわかります。しかし、 その建立当時の原初的聖母理解が忘れられたわけではありません。忘れられるどころか、 これを繰り返し瞑想し、信仰をもって生き続けながら、新しい状況のもとで深めた理解が加えられてきたのです。 このようにそこには一貫性があり、同時に絶えず現在化(actualization)し、 この地域において文化内順応(inculturation)しながら、今も生きている信仰があるのです。 ここに宗教伝承のダイナミズムを認めざるをえません。その伝承の基盤として、 現在も毎日祝われる典礼があるのは、いうまでもありません。

古代キリスト教の聖母理解を求めて

 聖母マリア大聖堂の凱旋アーチに表現されているのは、 この大聖堂としては最古のものです。それも、それ以前から始まっている宗教伝承の一時代の聖母理解です。 その大聖堂建立以前の聖母理解はいかなるものであったのでしょうか。 いかにしてそれを探ればよいのでしょうか。そのためにこの大聖堂建立以前の ローマと関係の深かったキリスト教著作家の作品を丹念に調べていくのも、ひとつの道でしょう。 4世紀から5世紀にかけて生きたアウグスティヌス、ヒエロニムスなど、 さらに3世紀前半のテルトゥリアヌス、キプリアヌス、 さらにエイレナイオス、ヒッポリュトスなどの作品です。 彼らは教父(ラテン語でPatres,英語でChurch Fathers)と言われ、 これを研究する部門は教父学(Patrisctica)と言われます。 教父学は20世紀にきわめて盛んになり、大きな発展を見ました。 日本でも教父の作品が数多く翻訳され、解説されています。 また、『教会の祈り』の読書の中で司祭たちは読むようになりました。 しかし、残念ながら、それは一般に広く知られてはおりません。教父学の専門書はあっても、 専門家の中でしか用いられておりません。今後その実りが一般読者に解放されることが期待されます。 もうひとつの道はキリスト教考古学です。これは古代キリスト教徒の遺物を収集し、研究する部門です。 その遺物には碑文やシンボル、絵画があり、彼らの信仰を証しています。古代キリスト教徒の遺物となれば、 ローマほど豊かに残っているところは、ほかにありません。よく知られているように、 カタコンベと言われる地下墓地があって、そこからの出土品が数多くあるのです。 わたしは考古学の専門家ではありませんが、その出土品に現れる聖書のモチーフや、 聖書の解釈には関心があり、見るように努めてきました。

石棺レリーフとフレスコ画に現れる聖母マリア

 古代キリスト教徒の遺物の中に聖母マリアが現れるのは、 石棺レリーフとフレスコ画です。石棺は、イタリア語でサルコファゴ(sarcofago)と言われます。 それは、キリスト教が迫害されていた2、3世紀から解禁された4、5世紀にかけて石材で造られた棺です。 すでに以前からギリシアやローマでは、石棺の表面に浮き彫りの彫刻を施す習慣がありましたが、 そこから発想を得て、キリスト教徒も自分たちの石棺に彫刻を施すようになりました。 その際、キリスト教徒は異教徒が用いるその模様や主題を借用することもありました。 ただし、羊飼いの画像のように、キリスト教徒はその異教徒から借用したものには 自分たち独自の理解を込めて借用したのでした。羊飼いは、キリスト教徒にとって聖書に基づき、 イエスにほかならないからです(ヨハネ福音書10章11節参照)。 さらにキリスト教は石棺に独自の主題を刻んで残しました。 このように、そこには古代キリスト教徒の信仰がいかなるものであったかを見ることができるのです。 その主題のほとんどが聖書から取られていますが、その中に聖母マリアの表現もあります。 ですから、そこに聖母マリア大聖堂建立以前のマリア崇敬を見ることができるのです。 その石棺は、聖ペトロ大聖堂の宝物室にあるユニウス・バッススの石棺のように上流家庭のものもありますが、 その多くは庶民のもので、素朴です。素朴ですが、生き生きと力強く、その信仰を表しています。



 石棺のレリーフにしても、フレスコ画にしても幾つかの聖書の主題が並んで描かれていますが、 その一つとして聖母マリアがあり、その聖母マリアの主題も、例外はあるものの、 ほとんどある一つの場面に絞られています。それは聖母マリアが幼子イエスを膝の上に抱き、 このイエスが東方の三博士の礼拝を受けておられるところです。必ずと言っていいほど、 その上にひとつの星が見えます。これは、「博士たちの礼拝」(Adoratio Magorum)と言われる場面で、 マタイ福音書に基づいています。

 「(ヘロデ)王の言葉を聞いて、博士は出かけた。すると、どうであろう、 彼らがかつて上るのを見たあの星が、先立って進み、幼な子のおられる場所の上まで来て止まった。 博士たちはその星を見て、非常に喜んだ。そして家の中に入ってみると、 幼な子は母マリアと共におられた。博士たちはひれ伏して幼な子を拝んだ。 そして宝箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈った」(マタイ第2章9−11節)。

 当時の遺物を見る限り、聖母マリアを描く場合、ほとんどこの博士たちの礼拝の場面なのです。 この場面を描く石棺レリーフが数多く残っています。ある学者によると、その数は67です。 それにフレスコ画が17あります。そのほとんどが、4世紀後半のものですが、 なかにはコンスタンティヌス大帝時代初期、つまり4世紀前半にさかのぼるものもあるようです。 それにプリスキルラのカタコンベに「ギリシアの小聖堂」という部屋がありますが、 その天井のアーチに三博士の礼拝がフレスコ画で描かれていますが、これは確かに3世紀以前のものです。 ですから、聖母マリア大聖堂が建立される以前から聖母崇敬があったことがわかります。
 この聖母崇敬の事実のみならず、その聖母理解がいかなるものであったかもわかります。 それは、純粋に福音書に基づくものです。古代ローマには地母神である女神テルス(ギリシアのガイヤ)、 女神ローマ、ミネルヴァ、アフロディト(ヴィーナス)、アルテミス(ディアーナ) など女神信仰が盛んに行われていましたが、羊飼いの画像の場合のように、 その女神像を借用して、これを聖母マリアとして崇敬することもなければ、 その女神のコンセプトを聖母マリアに移しかえることもありませんでした。 同じ女性を敬慕し、崇敬するにしても、女神信仰と聖母崇敬ではそのコンセプトがまったく異なっています。 ローマにおける聖母崇敬には、地母神信仰などの女神信仰の影響は微塵たりとも認められません。

博士たちの礼拝が意味するもの

 他方、福音書が聖母マリアを語るところは多くはありませんが、 博士たちの礼拝のほかにも、いろいろあります。主の使いによるお告げ (受胎告知:マタイ第1章18−24節、ルカ第1章26−38節) やベツレヘムにおけるイエスの誕生(マタイ第1章25節、ルカ第2章1−20節)、 カナの婚宴(ヨハネ第2章1−12節)、イエスの十字架のもとに立つその母 (ヨハネ19章25−27節)など、印象深い箇所がほかにもあります。 しかし、3世紀から4世紀にかけてキリスト教徒が注目して表現した聖母マリアは、 ほとんど博士たちの礼拝の場面に限られるのです。それはどうしてでしょうか。 それはそこに彼らは特別な意味を読み取っていたからではないかと思います。
 博士たちの礼拝の石棺レリーフやフレスコ画には現在欠損しているものもありますが、 必ず見られるのは星です。これはバラムが見て、告げたと言われる星のことで、 来るべきメシアのシンボルです。このように聖母マリアの膝にいる幼子イエスがメシアであることを意味しています。 このイエスに宝物をもって礼拝に来たといわれる東方の三博士は、何を意味するのでしょうか。 それは、メシアであるイエスのもとに来て、キリスト教信仰の道に入る異邦人を意味するのではないかと思います。 当時、教会は小さな共同体でした。しかし、ローマではキリスト教に入信する異邦人が日に日に増えていました。 博士たちはその異邦人のシンボルではないでしょうか。そのためにこそこの場面が、 特に選ばれたのでありましょう。そうしますと、聖母マリアにもシンボルとしての意味が込められていることでしょう。 それは教会ということでしょう。そういうわけで、ここの聖母マリアは、キリスト教徒からなる教会の象徴であり、 幼子イエスはその教会の中に現存するキリストの象徴ではないでしょうか。 これは死んで復活し、メシアとして教会の中に現存なさるキリストということです。 この教会論的かつ宣教論的展望に立って、博士たちの礼拝の場面が、特に選ばれたのでありましょう。
 なお、博士たちの礼拝以外で聖母マリアが描かれたフレスコ画もあります。 コンモディルラのカタコンベには幼な子イエスを膝に抱いた聖母マリアが聖殉教者 フェリックスとアダウクトゥスと共に描かれています。これは時代が下がって、6世紀のものです。 またマユスのカタコンベには、幼な子を胸の前に両手を上げる婦人だけを描いたフレスコ画があります。 これが聖母子を表現しているのかどうか疑われますし、明らかにキリスト教が解禁された後のものです。

聖母マリアを描いた最古のフレスコ画

 聖母子を描いた最古のフレスコ画は、プリスキルラのカタコンベにあります。 このカタコンベには、前に述べたように「ギリシアの小聖堂」 と言われる部屋のアーチに博士たちの礼拝の場面が描かれています。 その比較的近いところに、幼子イエスを膝の上に抱いて少し前かがみになり、 座っている聖母マリアが描かれています。その上に星が見えます。 ここには博士たちは描かれていませんが、その代わりに、 ひとりの男性が聖母マリアと幼子イエスに対面し、星を指し示しています。 これは聖母マリアを描いた最古のフレスコ画と言われます。その作成時期は、 キリスト教が解禁されるはるか以前、ある意見によりますと2世紀末、大多数の学者によりますと、 3世紀になってからだと考えられています。ここに描かれた男性はだれかについてもバラムだとか、 預言者イザヤだとか、それとも預言者を代表するものとか、いろいろと考えられています。 イザヤなら、それは「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルを呼ばれる」と、 メシアの処女誕生を告げた預言者のことです(イザヤ7章14節とマタイ1章23節参照)。 しかし、イザヤのメシア預言には星は出ません。他方、あの東方の三博士を導いたという星は、 バラムの星のことであり、ここに三博士は描かれてはおりませんが、その代わりバラムを登場させたのでしょう。 このように、聖母マリアが抱く幼子イエスがメシアであることに絞って、これを強調しているのだと思われます。

バラムの星

 この星の意味の根源は旧約聖書にあります。エジプトを出たイスラエル先祖たちが 荒れ野を旅している途中のことです。モアブの地に来ると、 その王バラクは使いを送ってベオルの子バラムを呼んで、彼らを呪わせようとしました(民22ー24章)。 ところが、バラムは彼らを呪わず、かえって祝福して、こう述べました。

ベオルの子バラムの言葉。
目の澄んだ者の言葉。
神の仰せを聞き、
いと高き神の知識を持ち、
全能者のお与えになる幻を見る者、
倒れ伏し、
 目を開かれている者の言葉。
わたしには彼が見える。
 しかし、彼はいない。
彼を仰いでいる。
 しかし、間近にではない。
ひとつの星がヤコブから進み出る。
ひとつの笏が
 イスラエルから立ち上がり・・・(民数記24章15−7節)

 ここで「ひとつの星」、「一つの笏」は何を意味しているのでしょうか。 古代オリエントで星は神である王、または神の代理としての王を表すことがあり、 旧約聖書でもそれが認められます(イザヤ14章12節参照)。 この託宣でも星は王のことでありましょう。ここに出る「笏」(ヘブライ語のシェベト)も、 しばしば権威、王権を意味するからです。この託宣が、 イエス時代にメシアなる王を告げるものとして知られていたことは、 死海文書によって確かめられます。クムラン第四洞窟出土の文書の中に『証言集』というのがあって、 来たるべきメシアを証言する旧約聖書の引用を列挙していますが、そこにバラムの託宣もあります。 またその教団には、祭司なるメシアと王なるメシアと、二重のメシアへの期待がありましたが、 『ダマスコ文書』という書の中にもこのバラムの託宣を引用し、 その星を祭司なるメシア、笏を王なるメシアのことだと理解しています(同書第7欄18)。 また『戦いの規則の書』にもその引用があります(同書第11欄6)。 このメシアのシンボルとしての星は、イエス時代以後もユダヤ教徒の中で忘れられることはありませんでした。 西暦132ー135年に、ローマに対する独立戦争を指揮したバル・コシバを、ラビ・アキバはバル・コクバ、 つまり「星の子」と呼んでいます。それにはメシアの意味が込められています。
 マタイ福音書が博士たちを幼子イエスのいる所まで導いたというあの星も、 バラムが告げた託宣を考えて言っています。この星は、そこでは「先立って進み」 とあるように動くものなので、バラムが告げた星かどうか、問題にする学者がいるかもわかりません。 しかし、この星の動きは、荒れ野を旅する民を導いた「雲」(民数記民9章15ー23)に発想を得て、 重ねられたイメ−ジらしい。また、ヨハネの黙示録に「ダビデのひこばえ、 その一族、輝く明けの明星」(黙示録22章16節)とありますが、 これもバラムの託宣を考えて言っています。キリスト教徒はナザレのイエスをメシアとして信仰告白しましたが、 それをこの星で象徴的に示したのでした。
 このバラムの星は、新約聖書には僅かしか出ませんが、キリスト教初期にはかなり広く親しまれていた。 ユスティノスやエイレナイオスなど教父たちは、この星をイエス・キリストを指すものとして説明しています。
 博士たちの礼拝のレリーフやフレスコ画に見られるのは、この星であり、 聖母アリアの膝にいる幼子イエスがメシアであることを意味しています。 聖母マリアを描いた最古のフレスコ画でも、この星が描かれていて、 そこにいる男性はバラムであることに、ほとんど間違いないでしょう。 このように、ここでも西暦200年前後の古い時代に聖母マリア崇敬があったということ、 その聖母理解が聖書に基づくものであったということも確かめることができるのです。


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