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Y モアブの王メシャの石碑
和田 幹男



 モアブの地とモアブ人
 死海の東部には古代イスラエルと深い関わりがあった民族としてアンモン人、エドム人と並んでモアブ人がいた。 ここではそのモアブ人について述べよう。 イスラエル人は、モアブ人を祖先アブラハムの甥ロトがその娘に産ませたモアブの子孫ということで(創世記19:30−38)、 この民族との関係を考えていた。

 南北およそ80kmの死海のほぼ中間点に、東から山岳地帯を深く切り込んで北の渓谷ワディ・ヘイダンと 南の渓谷ワディ・ムジブ(聖書のアルノン川)が一つになって流れ込む(写真上はワディ・ムジブ)。 これが自然の境となってモアブ領の北の境となっていた。 都はこの二つのワディの間にあるディボン(現在のディバン)であった。 「アルノン川はモアブとアモリ人との国の間にあって、モアブの国境になっている」 (民数記21:13;22:36)とあるとおりである。 ワディ・ヘイダンの北方では、へシュボン(現在のへシュバン)にアモリ人の王シホンがいたり(民数記21:26)、 イスラエルが支配したりして、諸民族がその領有権を巡って合い争う地となっていた。 しかし、モアブもその地を支配下に置くこともあり、こうしてこの地は「モアブの野」と呼ばれることもある。 南の境は死海の南端に東から山岳地帯を深く切り込んで流れ込む涸れ谷、 ワディ・アル・ハサ(聖書のゼレド川)であり、その南にはエドム人が住んでいた。
 モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの先祖たちがモアブにやってきたとき、 実際にこの地方に王国があったようである。 ワディ・ムジブ近くの村バルアで1930年に発見された『バルア石碑』(写真下)は、 紀元前13世紀の作で、これにはハトル女神(右端)に伴われた この地の王(中央)がエジプトの神アモン・ラ(左端)から王笏を授けられているところが描かれていて、 エジプトの影響が色濃く現れている(ヨルダン国立考古学博物館蔵)。 エジプト側にもルクソールにラメセス2世(前1304−1237)がこの地方の征伐を行ったとの記録がある。

 イスラエルが約束の地に住み着くようになってからも、古くからモアブとの関係があった。 士師時代にモアブにはエグロンという王がいて、イスラエルを圧迫していたが、士師のエフドが現れ、 その王を殺した物語が伝えられている(士師記3:12−30)。 またその時代の物語としてルツ記がある。ダビデ王の先祖になるルツもモアブ出身である(ルツ記参照)。 ダビデ王自身はモアブには厳しく支配下におき、税を課している(サムエル記下8:2)。 このようにイスラエルとモアブの関係は総じて悪い。 9世紀に北王国イスラエルの王オムリはダビデとソロモンの統一国家分裂後はじめて自分の国を復興し、 繁栄に導いた(列王上16:23−28参照)。 聖書は、この王の業績としてイスラエルの都をティルツァからサマリアに移したことしか伝えないが、 息子アハブの妻をフェニキアの王家から迎えるなど外交の知恵にも優れ、繁栄をもたらした。 その国はアッシリアの文書にも記録されている。この繁栄の反面、それはヤーウェ信仰にとっては危機となった。 このとき登場したのが預言者エリヤであった。エリヤとその弟子エリシャの活動を理解するために、 この時代の歴史がわかれば、それは助けになろう。
 オムリとその子アハブがトランス・ヨルダンまで支配を広げ、モアブも隷属させていたことが、 モアブ側の文書資料によってわかっている。それがメシャ王の石碑である。

 メシャ王の石碑(最初の写真)
 1868年8月19日、死海東部の山地に出かけたアルサス出身のフランス人宣教師クラインはディバン (聖書のディボン)の村で一つの石碑を発見した(写真は古代と現代のディバン)。 学者はその獲得を切望したが、これを所有する遊牧民は価格をつり上げ、当時の支配者トルコの役人にも協力を拒み、 いっそうの利益を目論んだ。彼らはこの石碑を熱して白くした上で、冷水をかけて洗おうとさえした。 その中に宝物があるのではないかと、この石碑を砕きもした。 しかし、それも空しかったので、砕いてその断片を物置にしまい、豊穣を願ってそのお守りとしていた。 たまたまクレルモン・ガンノー(Ch.Clermont-Ganneau)という学者は、 自ら出向いて行くことはできなかったが、たびたびアラブの役人にそこに書かれている本文を写し 、紙に印字してくれるよう頼んだ。このときも不運にもディバンの住民の間で論争が起こり、写しは破られたが、 その役人はまだインクで濡れている紙を奪って立ち去った。 このように西欧の学者が目にすることになる石碑そのものは断片でしかなかった。 その破れた写しも、優れた写しとはいえないが、欠損部を補うために役に立つ。 この石碑の現物は、1873年以来パリのルーブル博物館に納められている。
 石碑は黒い玄武岩で、高さ1.10m、巾60−68cmで、ここに34行にわたって文字が書かれている。 そのあとにも文字があったはずで、そこにはこの石碑を破壊する者への警告が書かれていたと思われる。
 この石碑の本文はモアブ語で、これはヘブライ語と同系統の言語である。 そこには解読が難しく、不明確なところもあるが、だいたい読める。 こうしてこれは歴史学的にも、言語学的にも比類なき価値をもつものと評価されている。 実は、1967年にヨルダン川東岸近くのテル・デイール・アルラの家屋の壁で碑文が発見されるまでは、 イスラエルを含むこの地方で発見された古代イスラエル時代の聖書外文献資料としては、 メシャ王の石碑が最も長く、この意味で唯一の大いに価値あるものであった。
 この石碑は、モアブの王メシャがイスラエルを打ち破った武勲を書きとめたもので、この勝利を記念するためのものである。 「モアブの王メシャ」の名は聖書(列王記下3:4)にも出ており、モアブが反旗を翻したので、 イスラエルとユダの王がモアブを攻めたことも書かれている。 そのイスラエルとモアブの戦いについては、旧約聖書にも書かれていて興味深い。 同じ時代の状況について、モアブ側の記述とイスラエル側の記述の二つがあることになり、比較検討することができる。 聖書ではこのモアブの王は「メシャ」と発音されてきたが、 モアブ語ではギリシア語70人訳で「モサ」となっているようにモアブ語で「モシャ」であったと思われる。 生まれはディボンで、父の名はカモシュヤト。 この父とその子メシャはイスラエルの王オムリ(治世、前885−874)とその子アハブ(治世、前874−853)、 その子アハズヤ(治世、前853−852)、その子ヨラム(治世、前852−841)と同時代人である。 イスラエルの王オムリとアハブの時代に、モアブがその支配下に置かれていたことが、この石碑によっても言われている。 またこの石碑はモシャ王がそのくびきから自国を解放することに成功したという。 この石碑はその戦勝碑である。その中でモアブの国と王朝の神カモシュのおかげで戦いに勝ち、 自国を拡大し、再建することができたことを記録し、そのためこの石碑をカリホに立てたと言う。 これは都ディバンにあった土地の名らしい。イスラエルはマヘダバを40年間支配していたが、 アハブ王の死後(前853、列王下3・5)、その後継者ヨラムの時代に解放された。 モシャ王はイスラエルに併合されていた町や村を解放するだけでなく、イスラエル12部族の一つ、 ガド族が住んでいたアタロトの地方とその町も占領した。そのネボの町、続いてヤハツの町も攻撃して、陥落させた。 ここにはモアブを攻撃するイスラエルの拠点があったらしい。 モシャ王はその住民を殺害し、ヤーウェの神殿を荒らしまわった。 これはすべてモアブ地方から見て北方のことだが、南方のことにも言及する。 ハウロナイン(=ホロナイム、イザヤ15:5;エレミヤ48:3−4)は南のエドムとの国境いにある町だが、これも征服したという。 聖書にはイスラエルはユダとエドムと連合して南からモアブを攻めようとしたとある(列王記下3:4−27)。 そのときモアブは敗退したとあるが、この石碑は勝利を伝える。 聖書には最後に「イスラエルに対して激しい怒りが起こり、 イスラエルはそこを引き揚げて自分の国に帰った」(3:27)とあるが、 それはこのモアブの勝利を示唆しているのであろうか。
 この石碑はこれらの戦いの後に立てられたのであるから、 またその勝利のあとここで言われるモアブの町々の再建にも十数年の月日を要したことであろうから、 イスラエルのオムリ王朝がイエフの謀反で倒壊した紀元前741年のあと、 紀元前740年ごろ建立されたと見ることができる。 写真上はモアブの兵士、前8―7世紀ルーブル博物館蔵、写真下は古代ディボンの城壁。

   碑文の訳文
 「わたしはモアブの王カモシュヤトの子モシャ、ディボン生まれ。わたしの父は30年間モアブを治め、 わたしはわたしの父の後、めている。 わたしはカモシュのためにこの高台を、[モ]シャの高[台を](?)、 カリホに造る。この御方はわたしをすべての王/攻撃者(?)から救い出し、 すべてのわたしの敵に勝利させくださったからである。
 オムリはイスラエルの王であったが、彼は長い年月モアブを苦しめた。 カモシュがご自分の国に対してお怒りになったからである。 その子が後継ぎとなったが、彼も「モアブを苦しめる」と言った。 彼は自分の時代にこう言ったが、わたしは彼とその王朝に勝利した。 イスラエルは永久に荒廃に帰した。かつてオムリはマヘダバの地を獲得し、 その自分の時代およびその子らの時代の半分、40年にわたり、そこに住んだ。 しかし、カモシュはわたしの時代にそれを返してくださった。わたしはバアルマオンを再建して、そこに水槽を造り、 10キルヤタインを再建した。
 10ガドの民は昔からアタロトの地に住んでいたが、 イス11ラエルの王は自分のためにアタロトを再建した。 わたしはこの町を攻撃し、これを占領した。わたしは全住民を殺害し、 12カモシュために13またモアブ12のためにご満足を称えた。 わたしはそこからその「愛する者」(?)の英雄(?)を帰らせ、13キリヨトでカモシュの前に12彼を連れ出した。 13わたしはそこにシャロンの民と、14マハロトの13民を住まわせた。
 カモシュはわたしに「行って、イスラエルに対してネボを取れ」と言われた。 わたしは15夜に出かけて夜明けから真昼までそれを攻撃した。 わたしはそれを16占領し、7000人、異国の人も婦人も、 異国の女も17妾たちも16すべて殺害した。 17アシュタロト・カモシュのために滅ぼし尽くしたからである。 わたしはそこから18ヤーウェの英雄たち(?)を捕らえて、カモシュの前に連れ出した。 イスラエルの王は19ヤハツを18再建し、 19わたしを攻撃している間、そこに留まったが、カモシュは彼をわたしの前から追い払われた。 20わたしはモアブからすべて選りすぐりの200人の男を選び取って、 ヤハツに向かって連れていって、これを占領して21ディボンに併合した。
 わたしはカリホ、公園の壁、22アクロポリスの21壁を再建した。 22わたしはその城門を再建した。わたしはその塔を再建した。 わ23たしは王宮を再建した。わたしは2423の中に水のためにニ重の水槽を建造した。 24カリホには町の中に水溜めがなかったが、わたしはすべての民に、 「25自分たちの家にそれぞれ水溜めを24造るように」と言った。 25わたしはカリホのために26イスラエルの25囚人によって堀を掘らせた。
 26わたしはアロエルを再建した。わたしはアルノンの道を造った。 27わたしはベト・バモトを再建した。これが破壊されていたからである。わたしはベツェルを再建した。 これが28廃虚と27なっていたからである。28ディボンの男たちは武装していた。 すべてのディボンがわたしに聞き従ったからである。 わたしは29わたしがこの国に併合した町々の中の百人[隊の隊長によって]28治めた。 29わたしは30マヘダバ、バト・ディブラタイン、バト・バアルマオンを29再建し、 31この国の[羊の群れの]飼育者たち(?)と[家畜の養育者たち]を30そこに配置した。 31ハウロナインに関しては、人々は(?)そこに平穏に(?)住んでいたが、 [ 32   ]カモシュはわたしに「下って行って、ハウロナインを攻撃せよ」と言われた。 わたしは下って[行って、攻撃し、33これを占領した。(?)カモシュは] わたしの時代に[それを返してくださった。] そのご介入のおかげで(?)、 わたしは栄[え、そこから34・・・]数年に渡って(?)、 大そうお喜びになった(?)。わたしは・・・」。 (数字は行を示す。解読が難解なところはE・ピュエシュに従う)。

 参考文献
  1. H.Donner - W.Rollig, Kanaanaische und aramaische Inschriften, Band I-III, Wiesbaden, 1966, Band I, p.33にヘブライ文字にした本文、Band II, 168-179に訳文と解説。
  2. E.Puech, La stele de Mesha, Le Monde de la Bible 46, nov.-dec 1986, p.28-29
  3. Studies in the Mesha Inscription and Moab, edited by A.Dearman, Atlanta, 1989 (ここに詳しい参考文献表がある)


 聖書朗読への招き
 聖書はモアブに対して厳しく、特に預言者たちの度重なる非難を伝えている。 預言者アモスから始まるその諸国への預言の中にそれを見ることができる :アモス2:1−3;イザヤ15:1−16:14;エレミヤ48:1−47;エゼキエル25:8−11。
モアブ人の町アロエル(現アラアル)の遺跡
ワディ・ムジブ(アルノン川)とその向こうに広がるモアブの地


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