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W マケルスと洗礼者ヨハネの殉教
和田 幹男



 洗礼者ヨハネは、イエスに洗礼を授けた後も、神の審判が迫っていることを説き、 人倫の道を外れて生きている人に回心するよう呼びかけていた。 たとえそれが社会的に高い地位についている人でも、臆せず正しい道を歩むよう呼びかけた。 その最期は予想されるように厳しいものであった。

 福音書(マルコ6:17−29;マタイ14:1−12;ルカ9:7−9)によれば、 洗礼者ヨハネの殉教は、つぎのとおりである。ガリラヤとペレアの分国王ヘロデ(ヘロデ大王の息子の一人ヘロデ・アンティパス)は、 兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚していたが、洗礼者ヨハネは、この結婚が「律法で許されてはいない」と言っていたという。 このような男女の情が絡む場合、古今東西どこでも、両者の、あるいはどちらかの恨みを買う。 ましてや相手が国王であれば、身の危険さえ招く。洗礼者ヨハネの場合、ヘロディアの恨みを買った。
 あるとき、ヘロデ・アンティパスは自分の誕生日に高官や将校、有力者を招いて宴会を催した。 その席でヘロディアの娘が見事な踊りを披露し、参列者を大いに喜ばせた。 王は一同の前で、娘に褒美としてこの国の半分でも与えるから何でも願うように言った。 娘は母のもとに行って相談したが、母は「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきだい」と言わせた。 ヘロデ・アンティパスは躊躇いながらも部下に命じて、牢につないでおいた洗礼者の首をはねて、これを盆に載せてもってこさせた。
 ユダヤ人の歴史家フラヴィウス・ヨセフス(西暦37年頃―100年頃)も、その著『ユダヤ古代誌』 (X[,v,1-2)の中で洗礼者ヨハネの最期について述べている。 ここではまず、ヘロデ・アンティパスは、フィリポではなく、もう一人の兄弟ヘロデのもとを訪れたとき、 その妻ヘロディアと恋に落ち、結婚を約束したという。 このヘロディアは、ヘロデ大王がその妻の一人マリアンメに産ませた子の娘、つまり彼ら兄弟の姪にあたる。 ヘロデ・アンティパスは、ナバタイ王国の王アレタスの娘と結婚していたが、この妻と離縁することも約束した。 この前妻は自分の国に帰って行き、その父アレタスの軍隊はやがてヘロデ・アンティパスと戦いを交えることとなる。 ヘロデ・アンティパスは敗北を喫するが、F・ヨセフスはその原因として、洗礼者ヨハネの殺害を言う。 この歴史家によれば、ヨハネは人倫の道を説く崇高で有徳の人で、多くの人々がそのもとに集まっていた。 ヘロデ・アンティパスは反乱を起こすのではないかということで、洗礼者ヨハネを捕らえ、マケルスの砦に送らせ、ここで処刑したという。
 福音書は洗礼者ヨハネの最期を宗教的な観点から、F・ヨセフスは政治的な観点から伝えていて異なるが、 その間に個々の表現はともかく、出来事の本質には矛盾はなく、むしろ相互に補いあってその詳細がいっそうよくわかる。 ヘロデ・アンティパスの不倫、離婚、近親相姦の実情がいかなるものであったか、またどこで洗礼者ヨハネが処刑されたか、 つまりそれがマケルスの砦であったことがわかる。 他方、見事な踊りを披露したヘロディアの娘の名は福音書にもF・ヨセフスの著作にも出ないが、サロメと言い伝えられている。 写真はヴェネツィア、サン・マルコ大聖堂洗礼堂モザイク(部分:14世紀):洗礼者ヨハネの首を盆に載せて躍るサロメ。

 マケルスの砦は、荒れ野の中にヘロデ大王が増築、強化した5つの砦兼宮殿 (ヘロディウム、ヒルカニア、アレキサンドレイオン、マサダ、マケルス)のひとつで、 トランス・ヨルダンにあるのはこれだけである。これは死海の東部にある山の一つで(標高1100m)、 さらに南のペトラを都とするナバタイ王国との国境近くにある。 ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレアの分国王であったが、このペレアはトランス・ヨルダンのヨルダン川、死海に沿った地域にあり、 それゆえメケルスの砦はヘロデ・アンティパスの支配下にあった。
 マケルスの砦の発掘調査は、1978−1981年にフランシスコ会聖書研究所のコルボ神父(V.Corbo)によって行われた。 その結果、前2世紀のハスモネア時代から西暦1世紀にかけて宮殿があったこと、その建造物の基礎が明るみ出された。 こうして西暦1世紀前半のヘロデ・アンティパスの時代に、そこにはtriclinium(宴会場)があったことも確認された。 その後も同研究所の協力で、研究と復元の作業が続けられている。写真は頂上にあった宮殿の基礎。

 「ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に収めた」(マルコ6:29)。 この洗礼者ヨハネの墓はどこにあるいのだろうか。 キリスト教の伝承は、洗礼者ヨハネの遺体を納めた墓はセバスティアに、首を納めた霊廟はダマスコにあるとし、 ここでその遺徳を偲んできた。
 セバスティアは、現在イスラエル(パレスティナ)にあって、ここには洗礼者ヨハネに捧げられた教会として、 ビザンツ時代の教会(5世紀、写真)と十字軍時代の教会があり、この教会の小聖堂でその墓は崇敬されてきた。 サマリアは北王国イスラエルの首都として栄えたことがあったが、前722年アッシリアによって滅ぼされた。 しかし、ヘロデ大王はこの町を大々的に改築、増築し、町の名をセバステ(皇帝)と呼んだ。 そのため、キリスト教の伝承の中でヘロデ大王とヘロデ・アンティパスが混同され、 ここが洗礼者ヨハネが殉教した場所だとされたこともあった。
 シリアの首都ダマスコには壮麗なウマイヤードのモスクがある。 この位置にはかつて古代シリア時代には神ハダドの神殿があった。 これがローマ時代にユピテルの神殿と改造された。 キリスト教時代になると、テオドシオス皇帝はそれを大聖堂に造りかえ、洗礼者ヨハネにささげた。 さらに、7世紀後半にダマスコを占領したイスラーム教徒は、これをモスクに変えた(写真)。 そのイスラーム教徒は洗礼者ヨハネへの崇敬を受け継ぎ、その首を納めた霊廟をそのモスクの中にそのまま保ち、今日に至っている。
 ローマで最も重要な教会であるラテラノの聖ヨハネ大聖堂も、福音記者ヨハネと共に洗礼者ヨハネに捧げられている。 この教会は、313年にキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝以来、ローマ教区の司教座がある教会で、 この司教座に着く者がペトロの役職を継承する者として教皇になることになっている。 それゆえ、この教会は「ローマの町と全世界のすべての教会の母であり、頭である」と言われる。 またコンスタンティヌス大帝の時代から1305年に教皇がフランスのアヴィニオンに連行、幽閉されるまで、 教皇はその隣のラテラノ宮殿を住まいとしてきた。 1144年、教皇ルキオ2世はこの教会を特に洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネを崇敬する場所とした。 それ以来、ここは「ラテラノの聖ヨハネ大聖堂」と呼ばれるようになった。 写真上は、修道会設立の認可を求めてアシジからぼろをまとってラテラノ大聖堂に来た聖フランシスコの銅像から見た大聖堂正面。 写真下はその内部の中央背後(アプス)にあるモザイク(13世紀の作)。 天のエルサレムの上に立つ宝石の十字架を中心に左に聖母マリア、聖ペトロ、聖パウロ、右に洗礼者ヨハネ、 福音記者ヨハネ、聖アンデレ、その間にアシジの聖フランシスコ(左)、パドワの聖アントニオ(右)が描かれ、 小さくひざまづいているのが教皇ニコラウス5世。


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