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X マダバのモザイク地図
和田 幹男



 ヨルダン王国の首都アンマンの南西およそ30kの地点にマダバという町がある。 この町は特にモザイク地図で有名で、機会があれば、訪れてみたい。 それは床に地図を描いたモザイクで、この種のものとしては珍しい。 その技法も優れていているが、作成時のこの地方の地理を知る貴重な資料でもある。
 この地図が発見され研究されるようになったのは、19世紀も終わりになってからである。 ここにギリシア正教の小教区のために教会を建てる計画が持ち上がり、この地図の所在が学者によって知られることになった。 十数世紀もの長い間、破壊されたまま放置されてきたので、欠損部が多く、その全貌は推し量るしかないが、 北はフェニキア海岸から、南はエジプトまで、 主としてエルサレムを中心にイスラエル(パレスチナ)およびトランス・ヨルダンの地図が描かれている。 幸いにもエルサレムとその周辺のモザイクが破壊を免れて残存している。ヨルダン川や死海もはっきりと見ることができる。
 そこにはなつめやしの木など植物、鹿や魚など動物、それにヨルダン川にかかる橋や死海に浮かぶ船と共に町や建物が描かれ、 それにギリシア語で地名も添えられている。そのエルサレムの町には「ネア・テオトコス教会」(新しい神の母教会)が認められるが、 この教会が奉献されたのが、法典編纂で有名なユスティニアヌス大帝(西暦527−565年)時代の543年であったので、 このモザイク地図はそれ以降の6世紀に作成されたと判断される。 ここに描かれている町は、4世紀初頭にカイサリアの司教エウセビオスが書き残した『オノマスティコン』(聖書の地名を書いたもの)や 『エテリア巡礼記』など巡礼記の記述と照合され、当時の地理的実情を知る手がかりとなる。 写真はエルサレム中心に上(東)に向かって、 下(西)はダン族の地域(・・ΡΟΣΔΑΝ)から、左(北)はネアポリス(現在のナブルス)から、 右(南)はヘブロンまでを含む。これは残存するモザイクのほぼ半分。
 ヨルダン川が死海に流れ込む付近を見てみよう。 手前のなつめやしの木に囲まれた城壁のある町がエリコ(ΙΕΡΙΧW)。 その左が聖エリシャの聖所(ΤΟΤΟΥΑΓΙΟΥΕΛΙΣΑΙΟΥ=ΟΥが略字、ΣがCとなっている)で、 これが古代エリコ(現在のテル・エ・スルタン)があった位置。その左にアルケラウス、上にギルガルの聖所。 ΓΑΛΓΑΛΑΤΟΚΑΙΔWΔΕΚΑΛΙΘΟΝとよめるが、始めのガルガラはギルガルのこと、 2行目に「12の石」とあるが、ここでイスラエルの先祖ガヨルダン川を渡ったことの記念がなされていた
(12の石についてはヨシュア記4:20参照)。イエス受洗の場所である川岸は、 ベトアバラ(ΒΕΘΑΒΑΡΑ=渡りの家)とあり、「聖ヨハネの洗礼の場所」と書かれている。 そこに6世紀から聖ヨハネの修道院があり、 そこには現在もプロドロモス(Prodromos) と言われるギリシア正教の修道院がある。川の向こうには「今サプサファスといわれるアイノン」と書かれている。 他方、「サリムの近くのアイノン」(ヨハネ3:23)はヨルダン川の上流のほうに描かれている。 ライオン(尾だけが見える)に追われる鹿はこの地が近づき難いものであることを示す。 その上に見える建物の一部はベト・イェシモト(現スウエイメ)、 ベト・ラムタ―リヴィアス(現エル・ラム)であろう。ネボ山はその上にあるはずだが、欠落している。
 このモザイク地図の中で最も関心を集めるのはエルサレムである。 西暦6世紀のこの町の構造がよく見て取れるからである。 その後、この都は7世紀にペルシアの攻撃にあって破壊され、続いてイスラーム教徒が占領するところとなり、 ウマイヤード王朝のもとに置かれた。こうして現在のウマヤードのモスク、いわゆる「岩のドーム」が建造された。 11世紀には聖地奪還を目指したキリスト教徒の十字軍が来襲して、ここにラテン王国を築いた。 彼らも建築には意欲的で、優れた技術をもっていたので、町のあちこちにその痕跡を残した。 やがてサラディンが率いる軍隊によって占領され、再びイスラーム教徒が支配するところ となった。その後、同じイスラーム教徒のオスマン・トルコの支配下に置かれ、 それが1917年、英国の委任統治が始まるまで続いた。その長い年月の間にエルサレムの町はいろいろと変化した。 現在のエルサレム旧市街を取り巻く城壁は、16世紀にオスマン・トルコのマムルークによって建造されたものである。 それよりおよそ1000年も昔のエルサレムの様相がこのモザイク地図によって明らかになった。 日本から見れば、奈良時代以前にシルク・ロードの向こうにこのような素晴らしい町があったとは驚きである。

 町の左上に、ΗΑΓΙΑΠΟΛΙΣΙΕΡΟΥΣ[ΛΗΜ]、「聖なる都エルサレム」と強調して書かれている。 町は城壁で囲まれ、それに沿って塔が並んでおり、その間に堅固な構えの城門が設けられている。 その中で最も注目されるのは左(北)にある城門で、これは当時「聖ステファノ門」と呼ばれた。 これは今日のダマスコ門にあたる。その内部に広場があり、一本の石柱が立っている。 この城門は今日でもアラビア語でバブ・アル・アムド、つまり「柱の門」と言われるが、そのためであろう。 向こうに出る城門は「羊の門」と言われ、それは今日の「ライオンの門」にあたる。 手前の右手に見える城門は「ダビデの門」と言われ、それは今日の「ヤッファ門」にあたる。
 ローマ時代の植民都市は、カルド(Cardo Maximus、大きな軸)と言われる主要道路が設けられていたが、 エルサレムも2世紀以来その構造をもつようになった。ただし、エルサレムには、左右(南北)に走るカルドが二つある。 その一つは聖ステファノ門の中央から右(南に向かい、赤い屋根の「聖なるシオンの教会」の近くにまで至る。 これと平行してもう一つ、カルドが「聖ステファノ門」から発し、「羊の門」から来る道路と出会い、 もう一つの赤い屋根の教会があるところまで至る。この教会が「ネア・テオトコス教会」(新しい神の母教会)である。 この二つのカルドが現在のエルサレム旧市街の主要道路としてその跡を留めているが、中央のカルドも発掘で確認されている。 それは列柱の部分も含めて巾22mあったことがわかっている。ネア・テオトコス教会もその遺構が確認されている。
 さらに最も注目に値するのは聖墳墓教会である。中央を走るカルドのほぼ中間点に、 そのカルドに面して正面玄関をもち、三つの入り口があり、こちらに向かって赤い屋根、黄色いドームと続く建造物であった。 これは4世紀にコンスタンティヌス大帝が建てさせた聖墳墓教会である。 当時、カルド側から階段を上って入り口を入ると赤い屋根の大本堂(martyrium)があり、 その奥
(西)にカルワリオの岩がある列柱の回廊があり、さらにその奥(西)に聖聖墳墓を中心とするドームがあった。 今日ではこのカルワリオの岩があるところが聖墳墓教会の入り口となっており、 かつての玄関や大本堂はその遺構が民家や修道院の中に残っているだけとなっている。 ここにあるカルワリオの岩も考古学的検証によって、イエス処刑の場所としてほぼ間違いない。 その付近の地下に入っていくと、聖十字架発見の岩穴がある。 ここには、4世紀コンスタンティヌス大帝の母ヘレナが来て、聖十字架を探し求め、見つかった三つの十字架の中から、 奇跡によってイエスがかけられた十字架を発見したという。聖墳墓教会のドーム(丸屋根)があるところは、 アナスタシス(anastasis)と呼ばれるが、それは「復活」という意味である。それは今日も残っている。 この聖墳墓教会の右(南)に見える赤い屋根の建物は洗礼堂だったかもしれない。
 エルサレムの周辺を見てみると、右下に道路を挟んで、ΑΚΕΛΔΑΜΑとあるが、これはハケルダマ、 イエスを裏切ったユダが首とつったところ。それとは対称的な左上には、ゲツセマネの文字の一部がある。
 エルサレムの右(南)に見える建物がベツレヘムで「ベツレヘム エフラタ」(ΒΗΘΛΕΕΜ ΕΦΡΑΘΑ)と書かれている。 その建物が生誕教会で、これも4世紀にコンスタンティヌス大帝が建てさせたものだが、 ユスティニアヌス大帝もこれを増築している。今日それをこの教会の内部に見ることができる。
  右下の幾つかの建物群は「ニコポリス」(ΝΙΚΟΠΟΛΙC)と書かれているが、これはエンマウス。 エルサレムの町のこちらには多くの文字が書かれているが、ここにはマカバイ記にでる町とその説明が書かれている。


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