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Z ペトラ -古代遺跡の驚異のひとつ -
和田 幹男


 死海の南部は海抜下のヨルダン渓谷の延長で、白い岩が重なりあった、 アラバ(荒れ野)がエイラート港(イスラエル領)、アカバ港(ヨルダン領)まで170−180kmと続いている。 その西部はネゲブ砂漠で、東部はトランス・ヨルダンの高地の延長で、 赤褐色ないし赤紫の山岳地帯が続いている(写真右はネゲブ砂漠から見た死海の南端とその南のアラバ、 その向こうのトランス・ヨルダンの山地)。
 この山地はエドムと呼ばれる。これは「赤い」という意味である。 ここにかつてエドム人が住んでいた(写真下はエドムの山地)。 これがペトラを築いたナバタイ人の先住民である。

 エドム人
 エドム人はイスラエルと同じセム族に属し、前13世紀前後にこの地方に定住するようになった。 イスラエルは、エドム人をエサウの子孫と考えている。つまり、先祖は兄弟だったという。 アブラハムの子イサクに双子、エサウとヤコブが生まれた(創世記25:19−24)が、そのエサウの子孫というわけである。 さらにエサウは長男だったが、その長子権を弟ヤコブに譲ってしまった(創世記25:27−34)という。 あとで母リベカの入れ知恵で、年老いた父イサクがヤコブを長子として祝福するように仕向けた(創世記27:40)。 こうしてこの兄弟の仲は悪くなった。 あとでモーセに率いられ、エジプトを出て荒れ野の旅をしているイスラエルがエドムの地を通過する許可をその王に依頼するが、 拒否されている(民数記20:14−21)。 他方、そのときイスラエルがセイルの山地を巡ったという伝承(申命記2:1−8)もある。 このセイルとはエドムのこと。
ここでエドムには王がいたように書かれているが、考古学的には組織化された王国があったとは実証されていない。 王と言っても豪族の長のようなもので、 それがボツラ(現在のエル・ブセイラ、写真右は前9−8世紀頃のエドムの首都ボツラの遺跡)にもいたらしい。 写真下はブセイラから少し南の山地から西に切れ込んでいるワディ・ダーナ。 これを下っていくと、死海南端(右方向)から続いているアラバに出るが、出る前にプノンの鉱山がある。
 エドム人はアラバも支配下においていたので、イスラエルが紅海に通じるエイラートに向かうのを妨げたためもあって、 この両民族の関係は総じて悪かった。またエイラートの前のティムナ(写真右)、 それにプノンに銅の鉱山もあり、これをめぐって両民族は争ったとも思われる。 イスラエルの最初の王サウルもエドムを攻めているし(サムエル記上14:47)、 ダビデ王もエドムを支配下においている(サムエル記下8:13−14)。 ソロモン王の時代にエドムの反乱があった(列王記上11:14−22)。 また前8世紀にユダの王アマツヤはセイルを攻め、 その兵1万を岩山の頂きから突き落として死なせている(歴代誌下25:11−12;また列王記下14:10も参照)。
 他方、エドムはアラビア北部から侵入してくる民族に追われ、アラバを超えてネゲブ砂漠へと移って行っていた。 前6世紀にイスラエルがバビロニア軍によってエルサレムを破壊され、 住民がバビロンに捕囚として移送させられてから、エドム人は以前にもましてネゲブ砂漠、 さらにユダの山地へと移り住むようになった。彼らは弱体化したユダの町々や住民を襲い、悩ませた。 このようなこともあって、聖書にはエドム人に対しては厳しい預言が多い (アモス1:11−12;エゼキエル25:12−14;オバデヤ1:1−18;エレミヤ49:7−22;哀歌4:21)。 エドム人が住むようになった地方は、イドマヤと呼ばれる。ヘロデ大王もその出身である。

 ナバタイ人
 エドム人がいた山岳地帯にアラビア北部から移動してきたのがナバタイ人である。 彼らは遊牧民としての生活を続け、特に広大な砂漠を利用しての交易によって繁栄した。 イエメンのミルラ(没薬)など香料や死海の瀝青をエジプトに、らくだを用いた隊商によって運搬した。 ペトラはその隊商の中継地として発達した。彼らが歴史の記録に登場するのは 前312年で、 このときアレキサンドロス大王の後継者の一人アンティゴノスの攻撃を退けている。 前172年、エルサレムの大祭司ヤソンはその地位を追われ、ナバタイ人の王アレタスのもとに逃れてきたが、 追い払われている(マカバイ記下5:8)。 オボダ1世は前93年にはユダのアレキサンドロス・ヤンナイオスの攻撃を、 前85年にはシリアのセレウコス王朝の攻撃を退けているが、 その霊廟があったネゲブ砂漠にあった町は、アブダトとしてその名を留めている(写真)。
アレタス3世はシリアのダマスコまでその支配を広げた。 ローマの将軍ポンペイウスの到来と共に、その圧迫を受けるが、それに抵抗を続け、 アレタス4世(前9/8−西暦40/41年)の時代に、ペトラは最盛期を迎えた。 そのとき一時ダマスコを占領したこともあったらしい。 それは、聖パウロがダマスコを脱出したときにあたる(コリントの信徒への第2の手紙11:32−33:使徒言行録9:23−25)。 ローマ皇帝トラヤヌスの時代、西暦106年に、ペトラはローマに併合され、そのアラビア州に組み込まれた。 その後、紅海に向かう街道を抑えて、ペトラの繁栄は続くが、 2−3世紀にメソポタミアとヨーロッパを結ぶ主要隊商路がシリアのパルミラを経るようになり、徐々に衰退するようになった。 4世紀にはここにキリスト教の司教座が置かれたこともあり、 また12世紀には十字軍が来たことがあるが、やがて忘れられてしまった。 この廃虚が発見されたのは、1812年で、それはスイス生まれのブルクハルト(J.L.Burckhardt)による。 写真はシナイ半島のワディ・ムカタブにナバタイ人の隊商が残した挨拶と落書き。

 ペトラ
 ヨルダン王国の首都アンマンから南におよそ250kmの地にあるペトラは、エドムの山中にある。 それは周りを色とりどりの高い岩山に囲まれた盆地にある。 ペトラとは、ギリシア語で「岩」を意味する。 ナバタイ人はこの町を「レケム」と呼んでいた。これは「色とりどり」という意味らしい。 そこに行くためには岩山の間の狭い渓谷を通り抜けなければならない。 この渓谷に近づくために、その手前に現在では開発が進んでいる(写真)が、「ワディ・ムサ」という村がある。 これは「モーセの涸れ谷」という意味である。そこには「アイン・ムサ」という泉がある。 これは「モーセの泉」という意味である。ここは、かつてモーセが杖で岩を打つと、 水がほとばしり出た(民数記20:1−13)ところだと語りつがれてきた。 実は、ペトラの南西およそ2kにジェベル・ハルーン(「アロンの山」)という山があるが、 これは聖書の「ホル山」で、ここはモーセの兄弟アロンが死んだ(民数記20:22−29)ところだと信じられてきたが、 それに伴い、ペトラ付近にはモーセの記憶を留めるところがある。 それが「ワディ・ムサ」であり、「アイン・ムサ」である。 歴史地理学的に「ホル山」がどこにあったかは明らかではではない。
 ワディ・ムサに沿って歩きはじめると、左右に岩を彫って造られた建造物が見えてくる。 オベリスク墳墓とか、ジーン・ブロックという建物群などを過ぎると、岩山の間の狭い渓谷に入って行く。 この渓谷はアラビア語でア・シクと言われる。両側の岩の高さは100mを超える。 やがてアル・カズネー・ファルウーンと呼ばれる建物が見えてきて、その前に出る。 これはこの地にいた遊牧民が呼んでいた名で、それは「ファラオの宝物庫」という意味である。 モーセに率いられて、エジプトを脱出してきたイスラエルの先祖がエジプトのファラオの宝物を持ってきて、 ここに留めておいたということだろうか。それでは元来この建物は何であったかというと、 中央の最上段にあるのが太陽の円盤と二本の角と思われ、これはイシス神のシンボルとして、 これはイシス神殿ではないかとの説明もある。

 渓谷の道を通り抜けると、長さ1.5km、巾1kmの広い盆地に出る。 左右の岩山に彫って造られた建造物群が目に飛び込んでくる。 これはかつでナバタイ人は住居としていたかもしれないが、墳墓である(写真左)。 やがて左手に半円形劇場跡がある(写真右)。これは3000人を収容することができる。 その背後の山の上には聖なる高台があって、動物をいけにえとした祭壇などが残っている。

 「北に向かう道を進むと、右手に最大の墳墓群が目に飛び込んでくる。その代表的なものとして王の墳墓、 ないしドーリア式墳墓と言われる建物(写真右)がある。これは後に教会としても利用された。 またコリント風の柱頭のゆえにコリント風墳墓(写真左の中央)、宮殿墳墓(写真左の左)がある。
 やがて道は左に折れ、町の中央を東西に走るカルド・マクシムス(中央の大通り)に入っていく。 写真はそのほぼ中間点から東に向かって撮ったもの。大通りの両脇には石柱が並んでいた。 その左(北側)に神殿や王宮、右(南側)に大小の市場があった。樹木のある付近にニュンフェウム(水の集結場)があった。
 大通りを西に向かって眺めると、カルドが行き着く先の背後に大きな岩山が見える。 左の岩山がウム・アル・ビヤラと呼ばれ、ユダの王アマツヤが1万のエドム兵を岩山から突き落としたところと言われる。 他方、それはブセイラの北4kmにあるシラだという説もある。右の岩山がジェベル・デイルで、その奥にア・デイールがある。
 カルドの中には門があった。その基礎が残っている。その西が聖なる空間で、神殿があった。 その神殿の跡も残っている。
 カルドを西から振り返ってみると、あらためて町の大きさに驚かされる。
 ア・デイール

 およそ1時間ほど山を登っていかなければならないが、 その山奥にあるア・デイールは、ペトラの建造物の中でも最も美しいもののひとつ。 ローマ時代に、おそらくペトラの王ラベル2世の墓として造られたのであろう。 あとでキリスト教徒がこれを用いたので、ア・デイール、修道院と呼ばれている。
 ア・デイールまで登ってくれば、その周辺も歩きまわってみたい。 前述したジェベル・ハルーン(アロンが死んだホル山)を見ることができるらしい。 その頂上にはアロンを記念して小さなモスクが建てられている。 また別のところから死海の南端から続いているアラバを見渡すことができるらしい。 このように、ここは、かつてモーセに率いられて荒れ野を旅したイスラエルの先祖たちのことを黙想するために絶好の場所であろう。 わたしはペトラでは短い滞在であったため、再来を期して急いで山をくだった。 イスラエルの先祖たちは、シナイ山で主なる神と契約を結んだ後、 出発してカデシュ・バルネアを経て、アラバを旅し、ネボ山まで行った。


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