|
| |
|
|
|
|
|
|
|
教皇レオ13世
|
|
|
回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』の意義(解説)
|
|
|
序
| |
|
1993年に教皇庁聖書委員会は、教皇レオ13世の聖書回勅発布100周年、
ピオ12世の聖書回勅発布50周年を記念して、教理聖省長官J・ラッツィンガー枢機卿の序文をつけて、
『教会における聖書の解釈』という文書を公表した 。
これには教皇ヨハネ・パウロ2世も祝辞を寄せ、両回勅の意義を説いている。
ここでは、まずそのレオ13世の聖書回勅そのものを解説してみたい。
1893年に同教皇が発布した聖書回勅は、近代になってはじめて教皇が聖書をいかに研究し、
解釈すべきかを示した最初の指針であった。
これは、その後20世紀に紆余曲折を経たカトリック聖書学の歩みにとって指標となった。
20世紀の終わりにあたり、この聖書回勅を読み直し、その意義を考えてみるのも、無駄ではあるまい。
実際、この回勅は聖書解釈の伝統を重んじながらも、歴史学や古文書学、
文学批判など現代のあらゆる研究法を援用して聖書のメッセージを読み取る道を積極的に評価した。
今日あらためてその深い意義を確かめることができる。
本稿は、『サピエンチア』英知大学論叢、第34号(2000年)281−293に掲載されたものである。
|
|
|
T)回勅発布の時代背景
|
|
|
教皇レオ13世がこの回勅を発布した時代背景を明らかにしておこう。
キリスト教はユダヤ教の聖書観を継承して、聖書を神の霊の息吹きを受けて書かれ書物として受けとめてきた。
したがって、神は真理の神であるから、聖書には誤りがないと、その無謬性を信じてきた。
この信仰はイエスの時代から(マタ22:31−32;使2:16以下参照)、
教父時代、西欧中世を経て近代に至るまで揺らぐことなく受け継がれてきた。
誤りだと思われるとき、アウグスティヌスの言葉、「写本に欠陥があるか、
翻訳者が意味をよく読み取らなかったか、わたしがその意味を理解しなかったか以外に理由がない」
(『ヒエロニムス書簡集』116:3)
をもって答えてきた。
この原則は今日も有効な場合もあるが、近代になって聖書の無謬性は深刻な問題となり、
それでは答えられなくなった。その要因は、19世紀における自然科学の進歩と歴史学の勃興、
聖書の歴史批判学の発展にある。それに対して、カトリックは前近代的な聖書解釈を堅持してきた。
自然科学については、そのはしりが16世紀のコペルニクスによる地動説の提唱にある。
これによって世界像が転換したが、聖書は天動説の世界像を教えているかに見えた(ヨシュ10:12−13参照)。
これが17世紀にガリレオ問題を引き起こした 。
19世紀になると自然科学が発達し、
地球とそこにいる生命の歴史がいよいよ明らかになった。
たとえばダーウィンの進化論やジャワ原人などの化石発見は、
創世記第1−3章が提示する創造記事と相容れないかに見えた。
古代オリエントの各地で発掘調査が始められ、歴史学は飛躍的に発達した。
これが聖書の歴史記述の誤りを示した。
たとえばニネベの発掘は、ヨナ3:3に「一回りするのに、三日かかった」とあるような大きな町ではないことを明らかにした。
またユディト1:1で、バビロニア王ネブカドネツァルがニネベでアッシリア人を治めていたと言われるが、
それは歴史的事実としてはあり得ない。紀元前612年にアッシリアの都ニネベは陥落し、
そのあとネブカドネツァルが覇権を握り、バビロニア王となったのは紀元前605年のことだからである。
18世紀にプロテスタントにおいて起こった聖書の歴史批判学は、19世紀に大いに発展し、
モーセ五書形成史に関して、いわゆる資料仮説が定着するのは、
1883年のJ・ウェルハウゼンの著作による 。
こうしてモーセがその五書の著者であるとの信仰がいよいよ疑わしくなった。
またイザヤ書についてイザヤ書第40章以下が捕囚期の第2イザヤと言われる無名の著者によるとされてきたが、
さらにまた第56章以下が捕囚期後の第3イザヤによると提唱されることになったのも、
1892年のB・ドゥームの著作による 。
こうしてイザヤ書全書が前8世紀の預言者イザヤによるという信仰が疑われることとなった。
また福音書に関しては、H・S・ライマールス(1694−1768)
以来福音書を資料としてイエスの歴史的人物像の復元が盛んに試みられるようになった 。
そのイエスの歴史的人物像は教義のキリスト論で教えられてきたものとは、かけ離れたものであった。
このように、伝統的な信仰と聖書の価値に対する懐疑、蔑視を呼び起こす場合も見られるようになった。
それに対してカトリックにおいては、トリエント公会議(1545−1563年)
においてラテン語訳ウルガタ聖書を権威あるものとして公認したが、
その後ほとんど聖職者だけがラテン語で、ただ教会教父や中世の神学者の注解を参考に聖書を読むようになった。
それに16−17世紀にカトリックの聖書学は黄金時代を迎えたものの、
その頂点であり、近代の聖書歴史批判学の祖といわれるR・シモンの主著が1678年にルイ14世の宰相ボシュエ枢機卿
(J.B.Bossuet)によって弾圧され、消却処分にされるということがあり 、
長い暗黒時代に入った。これでは自然科学、歴史学、聖書の歴史批判学が投げかける疑問に答えることができる状況ではなかった。
(第1)ヴァティカン公会議(1869−1870)は、
聖書が神の息吹きを受けて書かれた霊感書であり、
そこには誤りがないという伝統的な教義を繰り返すにとどまった 。
その後、この公会議の決議にしたがって聖書の霊感性を重んじながらも、
近代の諸科学にも心の目が開かれたカトリック学者の中には、
その調和的両立を試みる学説を唱えはじめる者が現れた。
たとえばニュ−マン枢機卿(J.H.Newman)は、聖書中の「たまたまの指摘(obiter dicta)」、
つまりパウロの手紙の挨拶にある人名などは誤りなしとはされないと言った。
ローリング(A.Rohling)やドゥルス(M.d'Hulst)は、
無謬なのは内容的に信仰と倫理を教える聖書の部分に限られるとした。
特に後者は、パリ・カトリック大学の学長でありながら1893年「聖書問題」
(la question biblique)と題する論文を書いて、
フランスのプロテスタント聖書学者E・ルナンの薫陶を受けたA・ロアジ−の聖書学を弁護した 。
これが著者の予想を越えて大論争を巻き起こした。
|
|
|
U)教皇レオ13世とその聖書回勅
|
|
|
(第1)ヴァティカン公会議を開催した教皇ピオ9世の長い治世の後、
1878年に教皇に選出されたレオ13世教皇(在位1878−1903年)は、
いろいろな分野で20世紀に教会が歩むべき方向を決定する重要な働きをした。
19世紀後半はカトリック神学・哲学の復興の時期にあたるが、1879年、
同教皇はロ−マにトマス・アクィナス・アカデミーを創設し、
神学・哲学を確固たる理論に基づくものにするよう促した 。
こうしてトマス・アクィナスの著作のレオニーナ版が発行されることになる。
また同教皇に刺激されて、アメリカのワシントンなど各地にカトリック大学が創設されることになる。
他方、産業革命などで大きく変化しはじめた世界に向かって、
旧態依然のままであった教会を開かれたものにする最初の指針を発表した。
同教皇の活動の中で象徴的なのが、1891年発布の社会回勅『レールム・ノヴァルム』であろう。
これは教会が労働者階層との関係修復を目指した最初の社会回勅であった 。
社会変動で変化してきた家庭生活を前にしては、
1880年に結婚の倫理を説いた先駆的な回勅『アルカーヌム』を発布した 。
その社会回勅ほどよく知られているわけではないが、教皇レオ13世は1893年11月18日に
『プロヴィデンティッシムス・デウス』と題する聖書回勅を発布した。
カトリックはそれまで聖書の重要性を認識し、これを教会生活の中で利用してきたものの、
歴史批判学を採用した現代的な聖書学には、これを危険視し、無視するか、敵視さえしてきた。
回勅の原文はラテン語で、
名称はその冒頭のProvidentissimus Deusから取られている 。
これは『最も深い御摂理の神』と訳せよう。「摂理」(Providentia)という言葉は、
この回勅に数回用いられているが、それを見ると「心遣い」とか「慮り」、「思慮」を意味する。
したがって、その最も深い神の心遣いの現れとして聖書を受けとめなければならないことを示唆している。
回勅は論理整然とした論文ではなく、教皇の公式書簡であるので、大司教、
司教はじめ聖職者と信徒に呼びかける書簡形式で書かれている。
したがって、原文には、区分も小見出しもなく、始めから終わりまで文章が連ねられている。
そのため読み辛いのは勿論のこと、正確にどこまでが序文で、どこからどこまでが本論かはっきりしない。
その内容を明らかにするために、同回勅を掲載したその後の出版物にはいろいろと区切りや小見出しが付けられているが、
これは回勅の翻訳者や解説者によるもので、参考にすぎない。
ここでは『カトリック聖書関連公文書資料集』(1961年発行の第4版)にある番号を参考に説明することとする 。
この回勅を引用するとき、この番号が用いられることが多い。
この回勅は、同資料集の81−134である。
|
|
|
V)回勅の概要
|
|
|
レオ13世の聖書回勅は、同教皇の回勅の中で最も長いものと言われる。
ここでその概要を紹介することに努める。回勅は序言(81−99)、
本論(100−127)、結び(128−134)と分けることができる。
序言では聖書が教会にとってどれほど重要なものであるかを説き(81−90)、
それゆえ教会はその正しく、より深い理解のために、
これまでどれほどの心遣いを示してきたか、その歴史を要約して振り返る(91−99)。
本論ではまず現在、何が問題か、つまり唯理主義の蔓延を指摘し、
一般的に今後何をすべきか、つまり聖書の価値を守るために戦わなければならないことを示す(100−102)。
つぎに具体的に教会の高等教育機関において優れた聖書学教師の選択と養成が必要であること(103)、
その聖書学で何を、どのように教えるのかの要点(104−105)、
使用する聖書本文としてのラテン語ウルガタ訳聖書(106)、
厳密な聖書本文の解釈からその意味内容の追求へ進むこと(107)、
聖書には字義的意味とこれを超える意味があること、
この意味を理解するために道先案内が必要であること(108)、
教会の教えと聖書学者の関係(109)。教父をはじめ先人たちの聖書解釈を重視すること(110)、
特に教父の聖書解釈の意義(111)、
教父を超えて研究する場合の心得と彼らの比喩的解釈の意義(112)、
そのほかの学者の聖書解釈についての心得(113)、
聖書は神学の魂のようなもの(114−115)。
聖書解釈と教会の教導職(magisterium)(116)、
この教導職を守るためにも研究が欠かせないこと(117)。
そのために古代オリエントの諸言語、特に聖書言語の修得(118)と
「真の」批判的研究法の習熟が必要であること(119)。
こうして聖書と自然科学には矛盾がないこと(120−122)。
また歴史学の問題について触れる(123)。
続いて聖書の無謬性についての誤った学説を退ける(124)。
これは聖書がその全体において聖霊の霊感書であるとの信仰に基づいて主張されるので、
この信仰(125−126)、その無謬性(127)を確認する。
結びでは、聖書研究促進のため聖書学以外の学者の協力(128−129)と経済的支援
(130)を呼びかけ、聖書研究において問題の箇所に出会ったときの心得を要約し(131)、
この回勅の指針に従うよう勧め(132)、
大司教、司教への勧告(133)と神学生と司祭への勧告を与え、
最後にそのすべて聖職者と信徒に祝福の言葉を述べる(134)。
|
|
|
W)回勅の性格 |
|
|
この回勅の性格は全体をとおしてきわめて論争的(polemical)である。
それは戦いに関わる用語が頻繁に用いられていることに現れる。
自然科学と歴史学は、勃興してきた当時理性をもってすべて説明し尽くせると自己を過信し、
楽観的であった反面、伝統的信仰や宗教的信念に対しては懐疑的であり、ときには軽蔑的でさえあった。
この自惚れた唯理主義が蔓延しはじめた。それに対して教会は伝統的な信仰を守ろうとした。
懐疑や軽蔑は、特に聖書の記述に関して表明されたので、
教会はその聖書の価値を守ろうと懸命につとめた。
前述したようにカトリック神学者の中には聖書が自然科学や歴史学に言及するところでは誤りを認めようとする者が出てきた。
これに対してこの回勅は、トリエント公会議や(第1)ヴァティカン公会議で決議された聖書の霊感性に準拠しながら、
その霊感性の結果として聖書全体の無謬性を確信し、弁護しようとした。
ここで論争的ということは、護教的(apologetical)ということでもある。
この回勅はその聖書の無謬性の弁護を主眼としていることは確かであるが、
当時プロテスタント聖書学の中で盛んに行われた聖書の歴史批判的研究も視野に入れていることに間違いはない。
そこでもモーセ五書をはじめ聖書各書の成立過程にしても、イエスの人物とその活動にしても、
すべてを歴史的、社会的因果関係のみで説明し、神の存在や、
神の言葉としての聖書を度外視した聖書解釈が行われていたからである。
モーセの著者性を否定し、福音書の著者についての伝統を覆す新説に危機感を覚えたとしても、不思議ではない。
唯理主義につながるこの聖書学を、宗教改革時代にはじまったプロテスタンティズムの延長と見なし、
この回勅は論争的態度を露わにしている。「かつて主として問題であったのは、
個人的な判断に確信を置いて神聖な諸伝承と教会の教導職を拒否し、
聖書を啓示の唯一の源泉、信仰の最高の規範とする人々でした。
現在、それは唯理主義者たちです。彼らは前に述べた人々のいはば子孫であり、跡継ぎで、
同じように自分の考えに基づき、
先代から受け取ったキリスト教信仰の残りそのものまでも排斥するのです」(100)と言う。
またこの回勅は聖職者中心主義的(clericalism)でもある。
それはこの回勅が聖書学の興隆を希望し、そのための勧告を与えていても、
司祭養成機関である神学校や聖職者が通う神学高等教育機関における聖書学しか考えていないことに現れている。
他方、聖書を広く信徒の中に行き渡らせることには考えが及んでいない。
これは広く信徒も聖書を読むようになった現代から見れば不審に思われるが、
当時のカトリック教会では聖書を読み、学ぶのはほとんど聖職者に限られていたのであり、
これを前提すれば、理解できる。これら論争的、護教的、聖職者中心主義というこの回勅の性格は、
当時の時代的制約と言えよう。
|
|
|
X)指針の要点
|
|
|
この回勅にはその時代的制約があるとはいえ、
その後20世紀のカトリック聖書学の正しい発展に貢献した貴重な指針が含まれている。
その要点をここで取り上げ、現時点に立って振り返ってみる。現時点に立ってとは、
その後現在まで歴代の教皇がそれぞれその時代に聖書研究について指針を与えてきたが、
それを考慮してということである。その最も重要なものとして、
ピオ12世の1943年の回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』 、
パウロ6世時代、1964年の教皇庁聖書委員会が発表した『福音書の歴史的真理性に関する指針』
と第2ヴァティカン公会議の『神の啓示に関する教義憲章』 、
それに前述した1993年の『教会における聖書の解釈』を考える。
そのほかの大小の聖書関連公文書があるが、これについてはここでは考慮外とする。
M・ジルベールによると 、
この回勅の論旨は二つあって、
それはカトリックにおいて聖書学を促進することと聖書の価値を攻撃する者に対して聖書を擁護することにある。
さらに聖書学の促進に関してはラテン語ウルガタ訳聖書の位置づけ、
聖書の字義的意味とこれを超える意味、この意味を決める教会の伝承、
神学の魂としての聖書の利用の4点、他方、
聖書の擁護に関しては聖書言語など古代語の研究を推進すること、
自然科学と聖書の関係、歴史と聖書の関係、誤った聖書無謬論の拒否の4点を指摘し、
そのそれぞれを解説する。この的確な解説を参考にしながら 、
回勅の論述に沿って、その要点を明らかにする。
|
|
|
1)聖書学の促進
|
|
|
イ) 最初に指摘しなければならないのは、 この回勅がカトリックにおける聖書学の確立と促進を呼びかけたことである。
この回勅以前には、神学校や高等教育機関における聖書学は教科としては確立していなかった。
その必要性を痛感してドミニコ会士J.ーM.ラグランジュは、1890年、
エルサレムにフランス聖書学・考古学研究所(L'École biblique et archéologique française)を創設したが 、
教皇レオ13世がそれを承認したのも、
この回勅発布直前の1892年のことであった。
当時、聖書を専門とする神学校の教師もいなければ、この教師を養成する高等研究機関もなかった。
レオ13世は、荒れ野に道を敷くかのように聖書学の確立を呼びかけた。
それは唯理主義が行き渡る中で、聖書をただ伝統的な解釈によって読み、学ぶだけでは、
現代人に説得力をもって説明することができないからである。
そればかりか、かえって聖書への軽蔑を招くことにもなりかねない。
その唯理主義の弊害が青少年の通う学校ですでに見え始めていた。
レオ13世は危機感を抱き、この弊害と戦うように呼びかけ(100−102)、
まず神学校と高等教育機関の聖書学の確立とその教師および専門家の養成を指示した(103)。
この指示に答えて、聖書学の教師と専門家を養成する機関として、
1909年に教皇ピオ10世の委託を受け、
イエズス会によりローマに教皇庁聖書研究所が創設されることになる 。
また神学校や高等教育機関のカリキュラムの中に聖書学関連の科目として聖書学概論と聖書解釈の講座を設ける必要性を説き、
これをいかに教授すべきかまで、具体的に述べている(104−105)。
その効果は着実に現れることになる。
この文脈の中で、簡単にではあるが聖書学の方法論も指摘される。
ロ) ここで今日、本文批判と言われることに触れ、
まずトリエント公会議の決議に従ってラテン語訳ウルガタ聖書を「権威あるもの」(authentica)とすべきだと言う。
ただし、このウルガタ訳聖書そのものが内的に「権威あるもの」だと絶対視せず、
「先にあった言語を調べること」というアウグスティヌスの言葉に従い、
聖書が書かれた言語、 ヘブライ語とギリシア語の写本を考慮すべきことを指摘する。
実際、この頃からカトリックでも聖書言語の本文を底本にした現代語訳が試みられるようになる。
そこでウルガタ聖書の権威が問題になるが、これについては、
ピオ12世の聖書回勅(549)が明瞭な答えを出すことになる。
そこでヒエロニムスの言葉を借りて、
聖書解釈者の任務は「著者が意味しようとすることを明らかにすること」にあると、
聖書解釈の基本を的確に述べる(106)。
つぎに今日、文学批判と言われることに触れ、「その言語自体が何を意味するのか、
その文脈が何を言おうとするのか、その相似する関連箇所などではどうかという研究に、
相応する博識による外部から光をあてることも伴うようにしなければなりません」と、
ここでも的確に指摘する(107)。
つづいて、聖書には字義的意味(sensus litteralis)とこれを超える意味があることを、以下のとおり述べる。
「聖霊を著者とするその言葉には、人間理性の能力と限界を超える多くのもの、
つまり神の秘義とこれに含まれる他の多くのものが隠されています。
さらに、それはときには、文字と解釈の原則が示していると思われるよりも広く、
深い意味で示されています。またさらに、教義を説明したり、
生活の則を勧めるためにほかの意味があることを、その字義的意味そのものに認められるのです。
それゆえ、聖書にはある宗教的闇が含まれており、だれか道先案内がなければ、
だれもそこに入り込むことができないことを認めなければなりません」(108)。
聖書のこの字義的意味を超える意味について、
その後特にH・ドリュバックの研究によりいっそう明らかにされるが 、
それは一般的に霊性的意味(sensus spiritualis)と呼ばれるものと言えよう。
これは聖書の各箇所、各書ないしその著者が意味しようとすることだけでなく、
旧約と新約からなる聖書がその全体として何を言おうとするのかにも注目する必要があるということでもある。
その全体の著者が聖霊にほかならないからである。
これはその後の教皇庁聖書関連公文書がくりかえし指摘するが、
特に第2ヴァティカン公会議の啓示憲章は、「聖書は同じ一つの霊において書かれたものであり、
その同じ一つの霊においても読まれ、解釈されなければならないから、
その聖なる本文の意味を正しく把握するために、
すべての教会の生きた伝承と信仰の類比を考慮にいれて、
聖書全体の内容と統一性にも、等しく勤勉に配慮する必要がある」(第12項)と述べ、
同憲章第16項でも説く。これは今日、正典論的解釈や影響史による解釈などで探られている聖書の意味と言えよう。
これは、21世紀の聖書学の課題である。
だたし、字義的意味を「離れることはけっしてあってはならない」
(112)とのアウグスティヌスの指示は厳粛に守らなければならない。
ハ) その霊性的意味を把握するために、道先案内が必要であるが、それは教会であるという。
ここでトリエント公会議、第1ヴァティカン公会議にしたがって「聖にして母なる教会が堅持してきて、
今も堅持している意味」と「教父たちの共通したコンセンサス」に反して解釈してはならないという。
具体的に教会が公的にその解釈を決議した聖書の箇所はきわめて少なく、
またその解釈に教父のコンセンサスがある聖書の箇所の指摘はないので、
ここでは原則を言っているのであろう。とは言っても、聖書学者に学問的自由がないわけではない。
ただ誤りを避け、真の理解に進むため、いかにすべきか、続いて幾つかの原則を指摘している(109−113)。
ニ) こうして、「聖書の利用が全神学に行き渡り、あたかもその魂のようになること」が望まれ、
必要であるとさえ言う(114)。
これは第2ヴァティカン公会議の啓示憲章第24項にも取り入れられた名言で、
これはまた1687年ローマで開かれたイエズス会総会の規定にあった表現といわれる。
このように本文批判、文学批判、字義的意味とこれを超える意味、
その追求のための方法の示唆はなされているが、当時これらの聖書批判学はきわめて未熟であった。
その上まだ様式史的方法とか、編集史的方法とか、それにまつわる諸問題は提起されていなかった。
しかし、現代の聖書学方法論を積極的に評価することにより、
その後のカトリック聖書学の基礎となった。これは特に聖書を専門とする者に求められるので、それをつぎに述べる。
|
|
|
2)聖書の擁護
|
|
|
イ) 聖書の価値を擁護するために、聖書学を専門とする者に対しては、
聖書言語およびほかのセム語系諸言語をはじめ古代の諸言語の修得(118)と、
聖書の批判的研究の習熟(119)を勧める。聖書を批判的に研究するという表現自体、
当時では信仰そのものを批判し、否定するという響きがあった。
聖書の批判的研究は、前述したとおりプロテスタント学者の中で進められ、
モーセによるモーセ五書の著作性やイザヤによるイザヤ全書の著作性が問題にされたが、
それが信仰の拒否ないし破壊につながると思われたからである。
つまり、「彼らは神の啓示や聖書霊感、聖書をまったく拒否し、
このようなものは人間の産物であり、発案にすぎないと断言します。
つまり、そこには歴史的出来事の真の記述はなく、
馬鹿げた作り話ないし偽りの歴史があるだけで、預言や神託もなく、
それは出来事のあと予告として考え出された話ないし自然の力による予感にすぎず、
神の力を示す真の意味の奇跡はなく、それは何か驚くべき出来事であっても自然の力を超えるものではなく、
または何か幻惑か神話にすぎないと。福音書にしても使徒たちの著作にしても、
その著者はまったく別人であると」(100)ということにつながると思われた。
事実、そういうこともあった。しかし、レオ13世は「真の批判的研究法」と言って、
批判的研究そのものには肯定的である。
この「真の」という表現には「偽りの」批判的研究法があることを示唆しており、
それには警戒心を露わにする。このように当時「高等批判」と言われた聖書学方法論そのものは、
これを用いる学者の先入観や偏った主観とは区別して評価すべきものであり、
このレオ13世の洞察はまことに鋭い。
ロ) こうして当時問題になっていた自然科学と聖書の関係を少々詳しく扱う。
ここでもアウグスティヌスの言葉を借りて、まず「神学者と科学者は、両者が互いに自己の限界を守り、
『何か知らないことまで知っているとして軽率にも主張してはならない』ということに注意していれば、
両者の間に真の対立はありません」(121)と言う。
これを原則として自然科学と聖書の言説に矛盾がないこと、
矛盾と思われるとき、いかに考えなければならないかを説いている。
さらにこう言う。「聖書記者が、より正確に言えば『聖書記者をとおして語った神の霊が、
救いのためにならないようなもの(つまり、目に見える事物の内部構造)
を人間に教えることはお望みにはならなかった』ということです。
したがって、彼らはまさに自然の解明を追い求めたというより、
自然をそのまま、ときには描写して取り上げたのですが、
あるいはある転意の用法で、あるいは当時慣用となっていた通俗的な用法でそうしたのです。
これはまた今日、最も優れた科学者の間でもその日常生活の中で多く用いられているのと同じです。
日常の言語においては感覚的に捉えられたものがまず最初に固有の意味で表現されますが、
これは聖書記者にとっても同じで、(天使的博士が教えたように)『彼らは感覚に現れたものに従った』、
つまり神御自身が人間に理解させようと語りかけ、
人間的に表現なさったことに従ったのでした」(121)。
この発言によって自然科学と聖書の関係の問題は根本的に解決された。
ここに今日ファンダメンタリスト的聖書解釈といわれるものに対する否定がなされている 。
なお具体的に聖書の天地創造と現代の自然科学との関係をいかに考えなければならないのかについては、
拙稿『聖書の天地創造と現代の自然科学』を参照のこと。
ハ) それとともに歴史科学と聖書との関係については、
「まさにこのことは関連の研究分野、特に歴史にも当てはめることができます」(123)と言われる。
この言葉はあいまいで、レオ13世の真意がどこにあったかについてその後論議を呼んだが、
この文脈からすれば、聖書外資料にもその著者の主観が込められているのに、
これを絶対視し、これによって聖書の証言を批判して、
その価値を疑うのは問題ではないかということにあろう。
ただし、歴史的事実と聖書の証言の関係は、
やがて様式史的研究法が提唱されてからその利点と共に深刻な問題が生じ、
その回答は教皇ピオ12世の聖書回勅、およびパウロ6世時代、
1964年の教皇庁聖書委員会による指針で出されることとなる。
ニ) このように真の批判的研究法を用いて聖書を研究すれば、
聖書には自然科学とも歴史学とも矛盾するようなことは何も書かれていないということになり、
聖書の無謬性が守られることになる。ここで当時まさに問題になったその無謬性の誤った説明を退ける。
「聖書霊感を聖書のある一部に限って認めたり、聖書記者が誤っていたことを容認するのは、
まったくできないことです。また諸問題を解決しようとして、
聖書霊感を信仰と倫理の事柄のほか何ものにも関わるものでものではないと、
疑うこともなく認め、聖書本文の真の意味が問題となるとき、
神が何を言われたかというより、なぜそう言われたを考えるべきだと間違った判断をするような考えかたは、
是認することができません。なぜなら教会が聖なるもの、
正典書として受容しているすべての書は全体としてそのすべての部分も含めて、
聖霊が書き取らせて書にされたものだからです。
この神の霊感には何の誤りも入り込むことができないので、
それはそれ自体あらゆる誤りとは無縁であるだけでなく、必然的に無縁であり、排除します。
それは最高の真理である神が必然的にいかなる誤りの主人公でもありえないからにほかなりません」(124)という。
この聖書の無謬性は、
第2ヴァティカン公会議の啓示憲章第11項では聖書の効果を言うのには消極的すぎるとされ、
積極的に聖書の真理性と言い換えられ、聖書が告げるその真理性とは何かを明らかにしようとした。
それは「神がわたしたちの救いのために聖なる書に書きとめられることを望んだ」真理と限定した。
したがって、今日では聖書の無謬性は問題にされなくなり、
救いのために聖書が示す真理とは何かの追求に重点が移ったと言えよう 。
|
|
|
結び 回勅の意義
|
|
|
この回勅の主旨は、20世紀のはじめに吹き荒れたモデルニズム論争のあおりを受け、十分評価されなかった。
その結果、カトリック聖書学は弾圧され、大いに遅れとることになる。
しかし、1943年に、教皇ピオ12世はレオ13世の聖書回勅発布50周年を記念して、
回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』を発表し、レオ13世の主旨を受け継ぎ、
聖書を神の言葉として尊重しながらも、現代の学問的方法をもって研究するよう奨励した。
これが第2ヴァティカン公会議(1962−1965年)の『神の啓示に関する教義憲章』にとって貴重な準備となった。
同公会議以後この憲章のおかげもあって、
カトリック教会において聖書への尊敬と関心が信徒の中に幅広く浸透するよになったが、
他方聖書学研究も目をみはる発展を遂げてきた。
歴史批判学的研究方法の発展により従来の学説は見直しを迫られると同時に、
新しい研究法もつぎつぎと提唱され、今日に至っている。そこでまたしても、
聖書はいかに解釈すべきか、あらためて問う必要が出てきた。
この背景のもとに、1993年に教皇庁聖書委員会は『教会の中での聖書解釈』という文書を発表した。
この文書についての詳細は別の機会に検討することにするが、
レオ13世の賢明な指導がなければ、その後の聖書学の発展はなかったと思わざるを得ない。
また同文書公表にあたり、教皇ヨハネ・パウロ2世が説いたこの回勅の意義についても、別の機会に検討したい。
なお教皇レオ13世は、1902年10月30日付け使徒的書簡『ヴィギランツィエ』をもって、
健全な聖書学の育成のため教皇庁聖書委員会を設立した。
この委員会は、皮肉なことに、やがて反モデルニズム・キャンペ−ンに終始し、
むしろ聖書学の促進を妨げることになる。
50年後、ピオ12世はその聖書回勅もって、再びレオ13世の主旨を取り上げることになったが、
聖書委員会もそれに沿って活動することになり、
第2ヴァティカン公会議後の1971年、パウロ6世による機構改革を経て、今日に至っている 。
|
|
|
|
|
|
1
|
|
Commission Biblique Pontificale, L'interprétation de la Bible dans l'Église, 1993, Vatican : Id., Biblica 74(1993)451-528。ヨハネ・パウロ2世が寄せた祝辞は、L'interprétation authentique de l'Écriture Sainte est capitale pour la foi chrétienne, DC, 6 juin, 1993, 503-509に掲載。英訳と解説:J.A.Fitzmyer, The Biblical Commission's Document "The Interpretation of the Bible in the Church", Text and Commentary, Rome, 1995:独訳は Die Interpretation der Bibel in der Kirche, Das Dokument der Päpstlichen Bibelkommision vom 23.4.1993 mit einer kommentiereden Einführung von L.Ruppert u. einer Würdiging durch H.-J.Klauck, SBS 161, Stuttgart, 1995 参照。
|
2
|
|
Saint Jérôme, lettres, tome VI, Texte établi et traduit par J.Labourt, Paris, 1958, p. 48-493.
|
3
|
|
O.Loretz, Das Ende der Inspirations-Theologie, Teil I, 29-55, 1974, Stuttgart 参照。
|
4
|
|
J.Wellhausen, Prolegomena zur Geschichte Israels, 1883(5 ed.1905), Berlin ; 本書については、竹森満佐一、船水衛司編『聖書講座』 第5巻、1968年、139−150頁(名著解題の章)、R.E.クレメンツ著、村岡崇光訳『近代旧約聖書研究史』ーウェルハウゼンから現代までー、教文館、1978年、17−24頁。
|
5
|
|
B.Duhm, Das Buch Jesaia, Göttingen, 1892, repr, 1964 参照。
|
6
|
|
A.Schweitzer, Geshichte der Leben-Jesu-Forschung, 11906, 61951, Tübingen : 邦訳『イエス伝研究史』上中下、A・シュヴァイツァー著作集、第17、18、19巻、遠藤彰、森田雄三郎訳、1970−1972年参照。これは1902年までのイエス伝をまとめた労作。またH.ツァルント著、安積鋭二訳『史的イエスの探求』、1971年も参照。また大貫隆・佐藤研編『イエス研究史』、日本基督教団出版局、1998年、特に79−133頁参照。
|
7
|
|
R・シモンの問題の主著は、R.Simon, Histoire critique du Vieux Testament,11678, 1685 : 復刻版は Slatkine Reprints, Genève, 1971がある。R・シモンの最近の研究として、J.Le Brun, art.Simon(Richard), in Supplément au DB, XII, fasc.71, sol.1353-1383; V.Bedon, Simon, Bossuet et la Bible, NRT 120(1998) 60-74 参照。
|
8
|
|
拙著『私たちにとって聖書とは何なのか』現代カトリック霊感論序説、女子パウロ会、1986年、203−208頁参照。
|
9
|
|
M.Gilbert, Cinquant'anni di magistero romano sull'ermeneutica biblica.Leone XIII (1893) -Pio XII (1943), in P.Laghi, M.Gilbert, A.Vanhoye, Chiesa e Sacra Scriptura, Un secolo di magistero ecclesiastico e studi biblici, Roma, 1994, 12-13 参照。また、A.C.Cotter, The Antecedents of the Encyclical Providentissimus Deus, CBQ 5 (1943), 117-124 参照。
|
10
|
|
レオ13世は、1879年に回勅『アエテルニ・パートリス』(Aeterni Patris)をもってトマス・アクィナスの哲学・神学を奨励し、これを実行に移してトマス・アクィナス・アカデミーを創設した。その百周年記念の国際学会も開かれ、その報告書も、Atti dell'Congresso Tomistico Internazionale, I-III, Studi Tomistici X-XII, Vatican, 1981 に見ることができる。
|
11
|
|
レオ13世の社会回勅『レールム・ノヴァルム』は、ピオ11世の回勅『クワド ラジェジモ・アンノ』(Quadragesimo Anno, 1931)、ヨハネ23世の回勅『マーテル・エト・マジストラ』(Mater et Magistra, 1961)、パウロ6世の教皇書簡『オクトジェジマ・アドヴェニエンテ』(Octogesima Adveniente, 1971)、ヨハネ・パウロ2世の回勅『働くことについて』(Laborem Exercens,1981)と『新しい課題 − 教会と社会の百年をふりかえって』(Centesimus Annus, 1991)へと受け継がれていく。これらの回勅の邦訳は、中央出版社編『教会の社会教書』、中央出版社、1991年参照。ここに『レールム・ノヴァルム』、『クワドラジェジモ・アンノ』、『オクトジェジマ・アドヴェニエンテ』が集録されている。またヨハネ23世著、小林珍雄訳『マーテル・エト・マジストラ』、中央出版社、71978年、教皇ヨハネ・パウロ2世回勅『働くことについて』、カトリック中央協議会、1982年、『新しい課題 − 教会と社会の百年をふりかえって』、カトリック中央協議会、1991年参照。
|
12
|
|
レオ13世の回勅『アルカーヌム』(Arcanum Divinae Sapientiae, 1880)については、結婚の倫理を説いたピオ11世の回勅『カスティ・コンヌビー』(Casti Connubii, 1930)の中で言及される。その邦訳として岳野慶作訳解、昭和33年、中央出版社がある。
|
13
|
|
ラテン語の原文は、当時の教皇庁広報誌 Acta Sanctae Sedis XXVI (1893-1894), pp.269-292; Leonis XIII Pontificis Maximi Acta, XIII(1893), pp.326-364に掲載された。ここでは、Actes de Léon XIII, Tome IV, Paris, 1936, pp.2-45 にある原文と仏訳を使用した。ただし、ここには幾つかの誤植がある。なお英訳として、C.Carlen, The Papal Encyclicals 1878-1903, Ann Arbor, 1981, 325-339(巻末の参考文献も有益)、また伊訳として、Enchiridion Biblicum, Documenti della Chiesa sulla Sacra Scrittura, Edizione bilingue, Traduzione di S.Bittasi e L.Ravaglia,A cura di A.Filippi ed E.LLora, Bologna, 1994, pp.132-193 参照。
|
14
|
|
Enchiridion Biblicum, Documenta Ecclesiastica Sacram Scripturam spectantia, Auctoritate Pontificiae Commissionis de re biblica edita, Ed.Quarta aucta et recognita, Neapolis - Roma, 1961, pp.34-62 (nn.81-134)、以下 EB と略す。
|
15
|
|
Pius PP.XII, Litterae Encyclicae "Divino Afflante Spiritu" , AAS., XXXV(1943)pp.297-325(327-351にイタリア語訳);英訳は、C.Carlen, The Papal Encyclicals 1939-1958, Ann Arbor, 1981, 65-79;仏訳は:Actes du Saint-Siège, Actes du Souverain Pontife, Lettre encyclique du 30 octobre 1943《Divino Afflante Spiritu》sur les études bibliques, NRT., XVIII (1946) pp.698-715。番号は EB による。
|
16
|
|
Pontificium Consilium Studiis Bibliorum Provehendis, Instructio de historica evangeliorum veritate, AAS 56 (1964) 712-718;解説は、J.A.Fitzmyer, S.J.A Christological Catechism, New Testament Answers, New Revised and expanded edition, New York, 1991, 153-162が優れている。邦訳は、「福音書の歴史的真理性に関する指針」、『カトリック神学』、第6号(1964年)、上智大学神学会編集、376−393頁参照。なお、なお新しい拙訳とその解説も参照。
|
17
|
|
邦訳は、南山大学監修『第2バチカン公会議公文書全集』、サンパウロ、1986年、201−214頁参照。
|
18
|
|
M.Gilbert, art.cit., 14-22参照。
|
19
|
|
この回勅が発布されてまもなく多くの解説が発表されたが、その入手は今日きわめて困難である。その主なものとして、J.Brucker, L'apologie biblique d'aprés l'encyclique Providentissimus Deus, Études 61 (1894) 515-565; 62 (1894) 619-641とM.-J.Lagrange, A propos de l'encyclique Providentissimus Deus, RB4 (1895) 48-64があるが、後者しか見ることができなかった。発布後50年後に幾つかの解説が現れるが、その主なものとして、R.P.Murphy, The Teachings of the Encyclical Providentissimus Deus, CBQ 5 (1943) 125-140 ; F.Asensio,Los principios establecidos en la encyclica Providentissimus Deus, Estudios Biblicos 5 (1946) 245-270がある。これらは主として聖書無謬論に焦点を当てて解説しているので、部分的な解説と言わざるを得ない。
|
20
|
|
E.J.Byrne, The Curriculum of the Scriptural Studies in Our Seminaries, CBQ 1 (1939) 214-222, 333-341, 特に 215参照。
|
21
|
|
J.-L.Vesco,O.P.,Cent ans de l'École biblique et archéologique francaise de Jérusalem (1890-1990),in La Bibliothèque municipale de Lyon, Jérusalem de la pierre à l'Ésprit, Jérusalem, 1990, 17-27 参照。
|
22
|
|
Litterae Apostolicae "Vigilantiae", EB.nn.137-148 参照。
|
23
|
|
Pius X, Litterae Apostolicae "Vinea electa", 7 Maii 1909, quibus Pontificium Institutum Biblicum in Urbe erigitur, EB, nn.282-298参照。
|
24
|
|
S.Hartdegen, The Influene of the Encyclical Providentissimus Deus on subsequent Scripture study, CBQ 5 (1943), 141-159
|
25
|
|
H.De Lubac, Exêgèse médievale, les quatre sens de L'Écriture, I-IV, 1959-1964, Paris 参照。
|
26
|
|
1993年の教皇庁聖書委員会『教会における聖書の解釈』Iで、聖書解釈のため現在採用されている数々の方法論を列挙し、そのそれぞれの長所と共に限界が示されているが、ファンダメンタリストの解釈だけは容認されないものとされている。
|
27
|
|
レオ13世時代の神学者が提唱した聖書無謬論で、誤りとされたものについては拙著、前掲書210ー211頁参照。
|
28
|
|
第2ヴァティカン公会議啓示憲章における聖書無謬論から真理論への移行については、拙著、前掲書204ー207、210ー211、226−235頁参照。
|
29
|
|
Paulus PP.VI, Litterae Apostolicae motu proprio datae "Sedula cura" quibus de Pontificia Commissione Biblica ordinanda novae leges statuuntur, 27 iunii 1971, AAS 63 (1971), 665-669 参照。
|
30
|
|
この聖書委員会の変遷の歴史については、A.Vanhoye, Passé et présent de la Commission Biblique, Gregorianum 74 (1993) 261-275 参照。
|
|
|