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詩編8における自然と人間
月刊『世紀』 1993年4月号 83〜96頁
和田 幹男



はじめに

 詩編8は、大自然の中にあって脆くて弱いが、気高く尊い人間を歌ったものとして、最も重要な詩編のひとつである。 聖書は大自然を神が創造なさったものと見ているので、ここでは被造物ないし被造界と呼ぼう。
この詩編によると、被造界にあって人間は「神に僅かに劣るもの」(6節)と言う。 これは、人間が神に「かたどり、似せて」創造されたという創世記1の26−28節と並んで、 人間の本質を定義した聖書の言葉として注目されてきた。
ここでは、その人間観に焦点をしぼりつつ、この詩編の理解を深めたい。

 創世記1の1から2の4a節の天地創造では、 暗闇と混沌を光輝き、彩り豊かで秩序があり、命に満ちた被造界とする神の御業が述べられている。 その中で人間は被造界の一部であると同時にその頂点であり、 ほかの被造物に対しては王者として慈しみをもって支配するはずだということが言われている。
このように被造界とその中の人間の位置と機能について、根源的かつ総合的に思考したことが示されている。 これはバビロン捕囚期後、祭司文書の歴史を記述した著者によものである。

 詩編8も同様に被造界にあって王者たる人間を言っているが、祈りとしてである。 これは根源を問うて示したものというより、心に目に見えて感動したことを歌ったものである。 これは総合的というより洞察を表明したものである。 ここでは創造者なる神に心の目を上げ、賛美と感謝を言い表している。
祭司文書の著者も同じ心情をもって書いてはいるが、心情は秘められている。 そこでは詩的であるが、冷静に知的に構成された散文で、教えを説こうとする。
それに対し、詩編8は教えを秘め、知的であっても、それを説こうとするのではなく、 むしろ観想的で、直接神に向かい心情を表明している。 一方は教えであり、他方は祈りである。

 この教えと祈りの関係について、そのどちらが先にあったのかと言えば、祈りという生活の営みと答えるべきであろう。
どの宗教でも同じであろうが、まず教義があってそのあと実践があるのではなく、まず祈りがあり、 教義は祈りで前提されることを知的に反省しものにすぎない。 キリスト教神学の伝統には、「祈りの法則が信仰の法則」 ( lex orandi lex credendi ) という言葉があるが、 それは何を信仰すべきか、神学が論考することは祈りの実践に基づくということ。 このことを念頭におけば、創世記の人間観がどこから由来するかといえば、詩編8のような祈りからではないだろうか。

 さらにその作成年代について、詩編8もバビロン捕囚期後の作であるが、創世記の天地創造よりも古いと思われる。 もしそうであるなら、 古代エジプトないしアッシリアにあった神の像としての王の観念がイスラエルにおいて、 いはば民主化され、人間一般のこととされ、 「神のかたどり、その似姿」(創世記1の26−28参照)という人間観が生まれたという説明は修正を余儀なくされる。
その表現は古代オリエント世界から取られたものかもしれないが、 人間がこの被造界にあって王者的存在だという思想自体は、 創世記の「神のかたどり、その似姿」の人間観以前にイスラエルにあったのであり、 そこで洞察されたものということになるからである。
詩編8を問うことにより、 その洞察がいつ、いかなる人々の中でなされたものかを探る手がかりが得られるのではないかと思われる。


(一)詩編8の翻訳

 詩編8は、第1節は表題であるから省き、第2−10節の直訳調の私訳をここに載せる。
新共同訳の訳文は優れているが、 その訳文に前提されている本文の解釈が必ずしも最良のものでもないところがあり、ここではその改良を試みた。

  2a 主よ、わたしたちの主よ
     あなたの御名は全地にあって
     なんと力強いことでしょうか。

   b これは天にあるあなたの威光を映しています。
  3a 幼子、乳飲み子の口によって、
     あなたは砦を築かれます。
   b あなたに刃向かう者がいるがために、
     敵対し、報復しようとする者を絶ち滅ぼされます。

  4a あなたの天、あなたの指の業を、
   b 月と星、あなたが配置なさったものを見れば、
  5a 人間は何ものなのでしょうか、
     そのあなたが御心に留めてくださるとは。
   b 人の子は何ものなのでしょうか、
     あなたが顧みてくださるとは。

  6a 人を神に僅かに劣るものとし、
   b 栄光と威光を冠としていただかせ、
  7a あなたの御手の業を治めさせようと
   b 万物をその足もとに置かれました。

  8a 羊も、牛もすべて、
   b それに野の獣も、
  9a 空の鳥も、海の魚も、
   b 海路を渡るものも。

 10a 主よ、わたしたちの主よ
   b あなたの御名は全地にあって
     なんと力強いことでしょうか。


(二)解説

(1)詩編8の2−10について

 詩編8の2−10のヘブライ語原文は、2b−3を除いて比較的問題が少ない。 この2b−3は、2−10の中でどう理解すべきか、またその内容は何をいうものか、大いに議論されているが、 これを加筆と考え、その説明は後で行うこととし、2a、4−10の検討から始めたい。

 まず注目されるのは2aと10は、まったく同じ句で、繰り返しとなっていることである。 これはリフレインである。 それは、2aと2bの間に切れ目があることを示唆している。
この2b−3を省けば、詩編8はきわめてよく整った詩が現出する。 それは2aと10は同じ文でリフレイン、 このほかは4−5、6−7、8−9と、三つの詩節 ( strophe ) からなり、 それぞれの詩節は2つの文節 ( stichus ) からなり、 それぞれの文節は2行 ( hemistichus ) からなり、この2行は並行法となっている。
第1詩節(4−5節)は、神の御業としての天を見て、人間とは何かと問うている。
第2詩節(6−7節)は、前の詩節の問いに答えて、人間はひたすら神の好意と計らいによってこの被造界における王者であることをいう。
第3詩節(8−9節)は、その続きで人間に治められる被造界の生き物を数え上げる。
このように詩編8は問いとその問いへの答えという形式で書かれている。

 その文学様式は、グンケル ( H.Gunkel ) 以来「賛美」の詩編とされてきた。 同類の詩編として詩編 19A、29、33、100、103、104、111、113、114、117、135、136、145−150 が指摘されている ( L.Sabourin 参照 )。
確かに詩編8は、 ほかの賛美の詩編と同様に偉大にして優しい創造者なる神とその御業を歌いあげており、主題的に賛美の詩編と共通している。
しかし、ここにはほかの賛美の詩編にある特徴が欠けている。 ここには賛美への呼びかけ(詩29の1−2、33の1−3、135の1−3、136の1−3参照)もなく、 賛美の根拠を述べる文を導入する「なぜなら」(ki、詩33の4、135の4a、136の各節の後半参照)もなく、 結びの賛美への呼びかけ(詩135の19−21、136の26参照)もない。
詩編8ではその作者は独りで神の御前に出て、呼びかけ、その創造の御業に驚き、感嘆し、問いかけ、自ら答えている。 従って、この詩編は主題的に賛美であると同時に、修辞的であるがその問いと答えがあることにより、 形式的には知恵文学と共通する(箴30の4、31の10−31、ヨブ7の17など参照)。
このように詩編8は文学様式的に独特で、知恵の祈り(E・ツェンガー)、ないし知恵的賛美といえよう。

(2)釈義的考察

2a節と10節

 2a節と10節の文はまったく同じで、この詩編を始めると共に結んでいる。 このようにこの詩編を安定感あるものとし、引き締めている。 その作者の落ちついた心が窺える。

 「主よ、わたしたちの主よ」:この詩編作者は心でまず主なる神の御前に出て、呼びかける。 まさにここに祈りがある。
祈りとは、「心を神に上げること」 ( elevatio mentis in Deum )。 この簡潔明解なトマス・アクイナスの定義は一見そっけないが、よく言い当てている。
日本では祈りは神仏に願いごとをすることと、狭く受けとめられている。 が、本来は広く心を至高なる神に向けて、賛美し、感謝し、非を認め、決意を新たにするなど、願いごとをするだけではない。

 「あなたの御名は」は「あなた」と直接述べることを避けた婉曲的表現。 従って、その意味は「あなたは」、「あなたご自身」。
この神に向かって、あたかも隣人に向かうように「あなた」を呼びかけること自体、驚きではないだろうか。 神は抽象的観念ではなく、知恵と意志を備えたおかた、位格神であり、身近にわたしたちと共にいらっしゃる。
「全地にあって」は、天とは対象的な「この地のどこにでも」という意味。 従って、この詩編作者は天上ではなく、この地上のあらゆるところに現存する神を見ている。 この物質で出来た世界の奥に神を見ている。 彼の目には物質は透明なもので、この世のあらゆる事物の中に神が見えている。
「なんと力強いことでしょうか」は、その神の現存が威力あるもの、威厳あるもの、力に満ちたものであることを言っている。 それがどれほどのものであるのかに驚き、「なんと」と修辞的疑問文でそれを表現している。
この祈る人の心の見透す目に見えて、驚きをもって体験されたことがここで歌い上げられている。

3−4節

ここでは力強い神の御業としての天を見て(3節)、 その目を地上の人間に転じ、人間に対する神の配慮にあらためて驚いている(4節)。
「あなたの天」とは、神がお造りになった天のこと。 天としては金属を伸ばして張り広げられたようなものが考えられていた。 古代オリエントの宇宙観では、その天の上には原始の大海があると信じられていた(創世記1の6−7参照)。 天がなくなれば、大地はまたたくまに原始の大海に呑み込まれ、暗闇と混沌に戻ってしまう。 天があるからこそ、この美しい世界が保たれているということになる。 それゆえ、この詩編作者にとって天の存在は天を造って保つ神の力強さの証拠なのである。
天は「あなたの指の業」と言われる。 詩編作者の目には、天は単なる物質現象としてではなく、神がお造りになったものとして見えている。
「見れば」は、そのように彼の目に「見えている」のであって、「仰ぎます」(新共同訳)とあるように仰いでいるのではない。

「月と星」も、つまり天にある光体も詩編作者の目には、神が「配置なさったもの」と見えている(創世記1の14−19参照)。
しかし、ここで太陽が言われていないのはどうしてだろうか。 それは、詩編作者が夜中に天を見上げて歌っているからではないだろうか。 そうだとすれば、この夜はただの夜という時のことか、それとも象徴的な意味での夜のことかと、疑問は深まる。
これに答えるためにはほかの詩編では夜はどういう意味で用いられているか、検証を要するであろうが、 わたしはここでは象徴的な意味での夜が考えられていると思う。 それがどういう意味かというと、 古代イスラエルを含むオリエントでは太陽が世界を支配する神の法秩序の象徴であったとすれば、 この太陽のない夜は神の法秩序のない状態のことである。
それは不法と暴力がまかり通っている状態のこと。 この詩編作者はそのような夜のさなかにあったのではないか。 具体的に言えば、彼は神への忠実を守り続けているにもかかわらず、 捕囚期の悲劇に見舞われ、不当な苦しみのどん底に落とし込められていたイスラエル人ではないか。
彼はその苦しみのどん底にあっても、むしろその苦しみによっていっそう清められ、精錬された信仰の持ち主ではなかったか。 つまり、彼は苦しむ義人に連なる信仰者ではなかったか。 そのような人の心の目に見えたことが、ここで歌われているのではないか。
真っ暗がり野の井戸には月や星がいっそう鮮やかに映るように、 この詩編作者の心の目にはこの天と地のいたるところに神の働き、その現存が見えているように思われる。

「人間」は、ここではヘブライ語でエノシュ、これは脆くて弱く、儚く死すべきものとしての人間のこと。 「人の子」は、ここでは「アダムの子」、つまり土の塵にすぎないもの(創世記2の7)を思わせる。
このような人間に対しても、神は「心に留め」、「顧みて」くださる。 この事実に思いいたって感動し、問いを発する。
5節と同じような問いが、詩編144の3−4節にある。


   主よ、人とは何ものなのでしょう。
   あなたがこれに親しんでくださるとは。
   人間の子は何ものなのでしょう。
   あなたが思いやってくださるとは。
   人は息にも似たもの、
   彼の日々は消え去る影。

   同様にこの問いヨブ記7の17にもある。
   人間とは何なのか、
   あなたがこれを大いなるものとなさるとは、
   これに御心を向けられるとは。


これら「人間とは何のか」という学問の究極の問いは、聖書では学問的関心から発せられているのではない。 それは苦悩の中にあっても信仰を貫く人の心の目に、 神の偉大さと人間の矮小さが見え、この人間に対する神の特別の摂理が明かになって驚き、発せられている。

「御心に留めてくださる」は、「覚える」とも、「思い起こす」とも翻訳される動詞。 聖書では、嘆く人はその神の覚えを求め(士師16の28、エレ15の15;詩74の2、106の4)、 苦しみの中で神の覚えを体験した人はそれを感謝し(詩136の23)、 神が覚えてくださると滅びに向っていた流れも救いへと転換する(創世記8の1参照)。

 他方、「顧みてくださる」は、「訪れる」とも訳されるが、 「見張っている」、「注目している」、「面倒を見る」などと広い意味で用いられる動詞。 これは、「思い起こす」と共にエレミヤ15の15に出る。

5−6節

 前節の問いに答える形式で、ここで人間とは何なのかを述べる。
人間は「神に僅かに劣るもの」という。 ここでは「神」は、「神々」と訳せるので、 天上で最高神をとりまく神々のことか、 それともそれは天使のことか(ギリシア語七十人訳)、ないしは唯一の主なる神のことか、議論がある。
ヘブライ語の複数形の用法には、事物の複数のみならず、抽象概念をいう場合や尊厳を込めていう場合などがあるからである。 ここではその文脈から「神」は、主なる神のことと理解するのが正しいように思われる。
このすぐ後で王者としての人間が説かれており、それはこの人間をお造りになった神が王であるからにほかならない。 しかるに、神々ないし天使は王として考えられることはない。 それゆえ、ここでは神々も天使も考えられていないように思われる。
人間はその主なる神より「僅かに劣るもの」と言われる。 「劣る」の原語は「欠ける」、「不足なもの」の意。 「僅かに劣る」で、人間の神々しさを言っているのであろう。

 「栄光と威光を冠としていただかせ」は、人間に王としての地位を与えられたことをいう。
詩編21の6では、神は王に栄えと威光をお与えになると言われる。 詩編八ではその威光を人間に冠としていただかせられると言う。
神ご自身宇宙の王として栄光と威光を帰せられるものであり(詩29の1−2)、 栄えと威光をまとい、栄光の持ち主と言われる(詩104の1、31)。 この「栄光と威光」がここでは人間一般について言われる。

 神と人間の関係を述べてから、人間とほかの被造物との関係を述べる。
それはほかの被造物を治めるということである。 「治めさせる」は、動詞マシャルの翻訳で、その語義のひとつが「治める」、 「支配する」で、その使役形は「統治者とする」、「支配者とする」と訳すことができる。
「その足もとに置き」は、古代オリエント各地に見られる描写にあるように、 大王の足もとにぬかずく諸侯のイメージを言葉で表現したもので、意味は「治めさせる」と同じ。
人間が王として治める対象は「御手の業」と言われる。 これは被造物が人間にとって自分のものではなく、神のものであるから、勝手気ままに扱ってはならないことを意味している。
このようにほかの被造物に対しては、それを神の御手の業として尊敬し、大事に扱う義務があることを諭している。

 7−8節

 前節で人間が治めるように言われた被造物を、ここでは具体的に並べている。
「羊も、牛も」は、小さな家畜と大きな家畜を言っている。 「野の獣」は創世記ではハヤット・ハッサデ(2の20、3の14など)、 ここではバハモット・サデで、創世記に従って訳せば「野の家畜」の意だが、 ヨエル1の20、2の22ではこの表現で野獣も含めたすべての動物を意味している。 実際には今も昔も人間は野獣を支配するには至っていないので、 ここでは人間の野獣支配については事実ではなく、その権威があることを言っているのであろう。
「野」は「地」のこと、これと「空」、「海」が言われる。 昔の人は、このように世界を3つに分けて考えていたのであり、この三つを列挙することにより、全体を言っている。 「空の鳥」、「海の魚」は創世記1の26、28、2の19に出る。 「海路を渡るもの」は全体のクライマックスで、おそらく神話的な生き物が考えられているようである。
このように人間の支配権が天の下のあらゆるところに及んでいることをいう。

 2b−3節(付加部)

 詩編8の中で最も議論されている2b−3節の検討を試みる。
まず2b節をどう読めばよいのかという問題がある。 この節のはじめのヘブライ語アシェル テナはギリシア語七十人訳では、 「なぜなら、(あなたの偉大さは天の上で)称えられていますから」、 ラテン語訳ウルガタ聖書では、「あなた(関係代名詞)は、(天の上に御自分の栄光を)置かれましたから」となっている。
七十人訳はテナに、動詞タナーの意味、「祝う」、「称える」を読みとり、 ウルガタ聖書は動詞ナタンの意味、「与える」、「置く」を読みとっているようである。
このように、ここの動詞は何を意味するのか、古くから明かでなく議論されてきた。 そこで比較的最近の提案として、アシェル テナは元来ひとつの単語であるというのがある。
その子音文字に動詞シャラトのピエル形未完了強勢があると見て、 「わたしは仕える、礼拝する、たたえる」の意味だという(M・ダフード)。 これによると、2b節は「わたしは天の上のあなたの威光をたたえます」ということになり、 3aの「幼子、乳飲み子の口によって」もその文に続くと見て、 「わたしは幼子、乳飲み子の口によって天にあるあなたの栄光をたたえます」と読む。
この「幼子、乳飲み子の口により」で、人間が神の威光をたたえるとき、どんな人間の言葉も幼児の片言に等しいと言っていると説明する。 それに2b−3節は付加ではないと考える。
新共同訳もこの説に従って翻訳されている。 確かにヘブライ語本文の子音文字だけを見れば、そう訳せるが、ほか観点からの裏付けがなければ、この説明も意見の域を出ない。

 2b−3節は、天上ではなく地上における神の現存と活動が前節から続いて主題となっていると考え、 アシェルは関係代名詞で、 前節の「全地」を意味し、 これが「天にあるあなた(神)の威光を「与え置く」、つまり「反映している」と理解してよいのではないかと思う(E・ツェンガー)。
それにアシェルが関係代名詞なら、詩文にはふさわしくなく、付加文であることのしるしと思われる。

 また「幼子、乳飲み子の口により」は、元来2b節とはつながっていなかったようである。
この表現は、伝承史的観点から意味を探れば、 哀歌4の4にあるところから、これは哀歌1の5、16、2の19に出るおとめシオンの子らのことであり、 ここからバビロニアによるエルサレム陥落後のエルサレムの信仰共同体に属する人々のことだとわかる(W・バイエルリン)。
シオンとはエルサレムのこと。 従って、この人々の「口により」、つまり言葉、願いにより、「砦を築かれた」という。
この表現は直訳すれば「力を基礎づける」で、この「力」は具体的に「砦」のことと理解されてきた。 さらにここの「砦」は、天における神の住まい、宮殿のことだと解釈する(詩編68の6)意見もあった(M・ダフード)。 そこから3b節の「刃向かう者」とか「敵対し、復讐するもの」は、天上の主なる神に立ち向かう宇宙の力ではないかと説明された。
他方、「砦」はエルサレムの町のことだと解釈する意見もある(E・ツェンガー)。 しかし、それはむしろエルサレムの神殿のことであろう(特にエゼキエル24の21、25参照)。
そうすると、3a節は捕囚期後のエルサレムの人々の願いによって神がその神殿に基礎を置かれたことをいうものではないだろうか。 その神殿再建には妨害する敵対者がいた(エズラ4章参照)が、それを考えて3bが書かれた。
このように2b−3節は、 暗闇の中で2a、4−10節の歌を詠んだ作者の伝統を受け継いで、 捕囚期後のエルサレムの人々がその苦悩の中で神に願って神殿の基礎が置かれ、 その実現の中に示された神の力を言おうとして加筆されたものと思われる。

この「力」の意味がわからなかった七十人訳の訳者は 「力を基礎づける」を「力を証しする」、つまり「賛美する」の意で理解し、 3a節を「幼子、乳飲み子の口によって、あなたは御自分で賛美を備えられました」と翻訳したらしい。
この場合、「幼子、乳飲み子の口によって」の意味が理解しがたくなるが、 その翻訳者は真理がむしろ純粋な子供によって理解されることがあるということを考えているのであろう。
イスラエルの知恵の伝承には「知恵が、幼児にもはっきりと語らせる」(知10の21)という考えがある。 また、福音書のことば、 「彼ら(子供たち)の天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」(マタ18の10)も、 子供には天使的な洞察があることを言っているのかもしれない。
こういうわけであろうか、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。 これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(マタ11の25)と、イエスは祈ったとある。 またイエスは頑なに御自分に敵意をしめす祭司長や律法学者たちにこの詩編8の3を七十人訳に従って引用し、 きびしく戒められたのだった(マタ21の16)。


結び

 ギリシア語で福音書を書いた福音書記者はギリシア語訳で旧約聖書の詩編を引用するが、 イエスが祈られた詩編はヘブライ語であったであろうから、 イエスがこの詩編を七十人訳の意味で理解して祈られたとは必ずしも言えない。
しかし、いずれにせよ、福音書が示唆するように、イエスがこの詩編をもって祈られたことは確かであろう。
また、ヘブライ語本文か、そのギリシア語訳本文にかにかかわりなく、 この詩編全体の本筋は同じであり、わたしたちもこの詩編を祈ることにより、 イエスの心をいっそう深く理解できるのではないだろうか。 そうすることにより、イエスの人間観、自然観を垣間見ることができるかもしれない。


主な参考文献

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