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詩編入門講座V
詩 編 概 説 (つづき)
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7)詩編の文学様式 −文学様式史的研究の功罪−

 イ)文学様式とは

 聖書という宗教文書の文学様式が注目されるようになったのは比較的新しいことである。 それはまず西洋古典文学の研究家によって言われ、特に詩編の文学様式については、H・グンケル(H.Gunkel)が20世紀はじめに総合的な研究を行なった。 それでは文学様式(Forme)とは何だろうか。それは、いかなる文書もその書き方によって何を表現しようとするものかが解るが、その書き方のことである。 たとえば、同じテレビの説明でも、学習用の教科書にあるものと、宣伝用のビラにあるものとでは書き方が異なる。 読者は知らず知らずの中に、これは学習用に正確に解説するものだとか、おおげさに宣伝するためのものだとか判断し、そういうものとして受けとめている。 同様に聖書においても、同じ信仰内容でも、教えるためのものと、共同で宣言するためのものとでは自ずと表現の仕方が異なる。 文学様式に目を留めるということは、その表現の仕方を見て、それは何を言おうとするものなのかに注目することとなる。 聖書の場合、これが古代イスラエルの宗教伝承の中で作成されたものであるから、我々の時代の表現の仕方ではなく、古代イスラエルの表現の仕方が用いられている。 これが如何なるものであるかを知って、これに従って聖書の各記述は読み取らなければならない。 つまり、詩編について言えば、その本文そのものから、その文学様式を見分けなければならない。 こういう作業をはじめて総合的に行ったのが、H・グンケルであった。 それは古代イスラエル人の持っていた世界像、生活習慣などの深い造詣をまって始めて可能な作業である。 聖書の文学様式の研究にあたって、H・グンケルが鋭く見抜いたのは、古代人は現代人と比べてはるかに深く伝承の制約を受けているものであり、 その表現は当時の社会の色々な活動の場(たとえば、裁判、教育、祭儀など)の影響を受けているということである。 そこでその個々の表現の仕方を理解するためには、そのそれぞれの表現がまず用いられた社会の活動の場を考慮にいれなければならないとした。 その社会の活動の場とは前の例で言えば、教科書にとっては教育の場、つまり学校であり、宣伝用ビラにとっては宣伝という社会活動の場のことで、 これをドイツ語で Sitz im Leben と言い、日本語で「生活の座」と訳される。 この研究方法は、特にR・ブルトマンなどによって福音書研究にも適用され、同時に深刻な問題を提起することになる。
 この詩編の生活の座ということに関して、特にその後大きな影響を与えたのは、S・モーヴィンケルである。 彼はバビロニアにある王が司式する新年の祝祭が古代イスラエルにもあったのではないかと想定し、 その新年の祝祭を生活の座として、つまり共同体の礼拝ないし典礼を背景として多数の詩編を説明しようとした。
 この文学様式に注目するということは、同じような表現の仕方の詩編を分類するということになる。 こうして分類された一定の形式を、文学類型(Gattung, genre litteraire)という。 この文学類型には、文学様式のみならず、主題なども含めた分類のこと。 実際に、H・グンケルとその弟子J・ベークリッヒの提唱した詩編の文学類型は、その後大きな影響を残した。 提唱された文学類型にいっそうの正確さを求めたり、あるいは批判的な再検討を試みた研究もある、その枠内での議論であった。 主な文学類型として賛美、感謝、嘆き、願いがあるが、たとえばC・ウェスターマンは賛美と感謝には相違がないことから主な文学類型として賛美と嘆きの2つを考え、 その中にさらに神の行為を賛美するもの、神の本質を賛美するものというように分類しようとした。 F・クリューゼマンは賛美の中にいろいろ分類されるものがあることを示そうとした。 ここでは、グンケルとベークリッヒが提唱した文学類型を、その後の研究者の貢献も勘案し、わかりやすく提示したL・サブラン(L.Sabourin)の一覧表を紹介する。

日本語で書かれた詩編研究史について、
 左近淑著『詩篇研究』、新教出版社、1971年、17−40頁。本書が出版された20世紀中頃までの研究史。
モーヴィンケルについては、
 木田献一著「ヤハウェの即位の詩篇」―研究史の回顧と展望―同著『イスラエルの信仰と倫理』、日本基督教団出版局、1971年、105−174頁参照
文学様式一般については、
 H・バルト O・H・シュテック/山我哲雄訳『旧約聖書釈義入門』、その方法と実際、日本基督教団出版局、1984年、118−151(第7章 様式史的問題設定)参照。

 ロ)詩編の文学類型

 表1:詩編の文学類型(カッコ内は、略称)。
 T:賛美
賛美の詩編は、古代オリエント諸国の宗教詩にも類例があるが、詩編には特に多くあり、 我を忘れて神を賛美するという所に、イスラエル宗教の特徴を見ることができよう。 日本の宗教詩にこれに類するものがあるだろうか。その多くが生活の座として祭儀・典礼をもっているが、そうではなく個人の創作もある。
a.賛美(賛): 8、19,29,33,100,103,104,111,113, 114,117,135,136,145,146,147,148, 149,150(詩29、136は典型的な賛美と思う)。
b.王としてのヤーウェの支配を主題とする詩編(神王):47,93,96,97,98,99
(「主は王として支配される」:YHWH mãlakという句がこの一群の詩編の特徴で、賛美の一種とされている。 下線のある詩編はこの句で始まる。そのほか47:9;96: 10にある。98は96と同類)
c.シオンを主題とする歌(シ):46,48,76,84,87,122
(歌の対象が、シオンであるということに共通性がある)

 U:個人の嘆願、信頼、感謝の詩編
詩編作者が「わたし」と言って個人として出るか、「わたしたち」と言って複数として出るかで分けることができる。 ただし、詩編の中にはその1人称単数と複数が混合している場合もある。 個人、集団のいずれにしても大きな辛苦を前提として歌われた詩編がある。しかも、それが多い。 嘆願ではその辛苦の中で助けを求め、信頼もその辛苦の中で神への信頼を表明し、感謝はその辛苦を乗り越えて言う。 いずれも辛苦を想定しているが、その間の違いは見分けにくい。ます個人の詩編は以下のとおり。
a.嘆願(個嘆): 5,6,7,13,17,22,25,26,28,31,35,36,38, 39,42−43,51,54,55,56,57,59,61,63,64, 69,70,71,86,88,102,109,120,130,140, 141,142,143
b.信頼(個信): 3.4,11,16,23,27,62,121,131
c.感謝(個感): 9−10,30,32,34,40,41,92,107,116,138

 V:集団の嘆願、信頼、感謝の詩編
集団の詩編は以下のとおり。
a.嘆願(集嘆): 12,44,58,60,74,77,79,80,82,83,85, 90,94,106,108,123,126,137
b.信頼(集信): 115,125,129
c.感謝(集感): 65,66,67,68,118,124

 W:イスラエルの王を主題とした詩編
(王): 2,18,20,21,45,72,89,101,110, 132,144:この中にメシアにつぃての詩編もあり、特に重要なのは詩2、 89、110、132。

 X:教訓的詩編
a.知恵の詩編(知): 1,37,49,73,91,112,119,127,128,133, 139:旧約聖書には知恵文学と言われる文書群があるが、これと共通する用語、表現、主題をもった詩編。 その担い手は、賢人たちだった。詩編を最終的に編集したのも、この賢人たちであり、特にシラ書の作者と同様の人々による。
b.歴史の詩編(歴): 78,105
c.預言者的戒告(戒): 14,50,52,53,75,81,95
d.典礼の詩編(典): 15,24,134

 この中で、アルファベット詩は、詩編9−10、詩編25、34、111、112、119、145
 そのほか最も長いもの:詩119(176節)
 最も短いもの:117

表2:詩編の順序による各詩編の文学様式(カッコ内は70人訳とウルガタ訳の序数)
 1(1)知   31(30)個嘆  61(60)個嘆   91(90)知  121(120)個信
 2(2)王  32(31)個感  62(61)個信   92(91)個感  122(121)シ
 3(3)個信  33(32)賛  63(62)個嘆   93(92)神王  123(122)集嘆
 4(4)個信  34(33)個感  64(63)個嘆   94(93)集嘆  124(123)集感
 5(5)個嘆  35(34)個嘆  65(64)集感   95(94)戒  125(124)集信
 6(6)個嘆  36(35)個嘆  66(65)集感   96(95)神王  126(125)集嘆
 7(7)個嘆  37(36)知  67(66)集感   97(96)神王  127(126)知
 8(8)賛  38(37)個嘆  68(67)集感   98(97)神王  128(127)知
 9(9)個感  39(38)個嘆  69(68)個嘆    99(98)神王  129(128)集信
10  40(39)個感  70(69)個嘆  100(99)賛  130(129)個嘆
11(10)個信       41(40)個感  71(70)個嘆  101(100)王  131(130)個信
12(11)集嘆  42(41)個嘆  72(71)王  102(101)個嘆  132(131)王
12(11)集嘆  42(41)個嘆  72(71)王  102(101)個嘆  132(131)王
13(12)個嘆  43(42)  73(72)知  103(102)賛  133(132)知
14(13)戒  44(43)集嘆  74(73)集嘆  104(103)賛  134(133)典
15(14)典  45(44)王  75(74)戒  105(104)歴  135(134)賛
16(15)個信  46(45)シ  76(75)シ  106(105)集嘆  136(135)賛
17(16)個嘆  47(46)神王  77(76)集嘆  107(106)個感  137(136)集嘆
18(17)王  48(47)シ  78(77)歴  108(107)集嘆  138(137)個感
19(18)賛  49(48)知  79(78)集嘆  109(108)個嘆  139(138)知
20(19)王  50(49)戒  80(79)集嘆  110(109)王  140(139)個嘆
21(20)王  51(50)個嘆  81(80)戒  111(110)賛  141(140)個嘆
22(21)個嘆  52(51)戒  82(81)集嘆  112(111)知  142(141)個嘆
23(22)個信  53(52)戒  83(82)集嘆  113(112)賛  143(142)個嘆
24(23)典  54(53)個嘆  84(83)シ  114(113)賛  144(143)王
25(24)個嘆  55(54)個嘆  85(84)集嘆  115   集信  145(144)賛
26(25)個嘆  56(55)個嘆  86(85)個嘆  116(114)個感  146(145)賛
27(26)個信  57(56)個嘆  87(86)シ     (115)  147(146)賛
28(27)個嘆  58(57)集嘆  88(87)個嘆  117(116)賛     (147)
29(28)賛  59(58)個嘆  89(88)王  118(117)集感  148(148)賛
30(29)個感  60(59)集嘆  90(89)集嘆  119(118)知  149(149)賛
 120(119)個嘆  150(150)

 ハ)様式史的研究の功罪

 文学様式に注目して詩編を研究することにより、詩編それぞれの理解が深められたことは否めない。 実際に文学様式を考えずに、各詩編を解釈することはできないとさえ言える。 それゆえ、最近まで書かれた詩編入門書のほとんどが、それぞれの文学類型にしたがって詩編を紹介し、また詩編註解書もそれにしたがって解説している。 しかし、それには限界もある。実際にそれぞれの詩編を取り上げて、具体的に読もうとすると、それぞれ個性があって、型どおりの文学様式をもった詩編はほとんどない。 なかには複数の文学類型が混合している詩編もある。したがって、どの文学類型に分類すればよいのか、議論されるものもある。 それにすべての詩編が「生活の座」をもっていて、たとえば祭儀を前提に作成されたものとは言えない。 その中には創作された詩編もあるのではないか。特に編集上創作された詩編もあるのではないか。 また前掲の表1にもあるように賛美という文学様式の詩編の中に、王としての主なる神の詩編、 シオンを賛美する詩編というように主題による分類も含ませているところにも、この分類が人為的なものであることを露呈している。 確かに文学様式というものがあるが、これをあまりにも重視すると、各詩編の型に捉われて、その意味を読み取り損なうきらいもある。
 最後に前掲の表2を見れば明らかなように、詩編は文学類型によって並べられているわけではない。 それでは、各詩編はどのように並べられているのだろうか。それは無雑作に並べられているのだろうか。 それとも何か意図あってのことなのだろうか。もし意図があって、150編が並べてあるなら、各詩編はその観点から別の意味をもつものとして現れてくるかもしれない。 たとえば、詩編100は短い賛美の詩編であって、これだけを抜き出して読めば、あまり深い意味はないかもしれない。 しかし、詩編93−99の要約としてその頂点として見るなら、また別の深い意味が見えてくるのではないだろうか。 これは詩編の書の一部についてであるが、その全体について見れば、その中の各詩編の意味はどうなのだろうか。 20世紀にH・グンケル以来大いに進められた詩編の様式史的研究法は各詩編に注目しての解明に有益であったが、 150編からなる詩編の書が一書として、その中に各詩編が並べられていることを見落としてきたといえよう。
 グンケル自身は各詩編とは別に、150編からなる詩編の書を祭儀から離れて作成された書と見たが、そういう結果になってしまった。 他方、詩編150編全体の中で各詩編を解明する必要を提唱した学者として英語圏ではG.H.ウィルソンやM.D.グゥルダー、 ドイツ圏ではN・ローフィンク、E・ツェンガー、F・−L・ホスフェルトをはじめとする一連の学者がいる。 それも1980年代も終わりになって盛んになり、ドイツでは詩編研究熱が高まった。日本では飯謙氏がそれに注目し、紹介してきた。
 限界性があるとはいえ、各詩編を読んでいこうとするとき、文学類型は欠かせない。 わたしたちも前掲の表1と表2にある文学類型を便宜的に用いて各詩編の理解に入っていきたいと思う。

参考文献
 飯 謙著「旧約「詩編」の編纂と配列に関する一考察」、『オリエント』第35巻第2号、日本オリエント 学会、1993年3月、22−38頁。同氏にはその後この新しい研究方向に沿っての論文がある。
 N・ローフィンク著「詩編理解にとっての最終編集の意義」、『主のすべてにより人は生きる』、WAFS刊行会編、リトン社、1995年、63−84頁:
 同著 「 詩編とキリスト教の黙想」、『神学ダイジェスト』85(1998年冬)77−88頁
 石川立著「詩編の様式と編集」、『聖書学の方法と緒問題』、現代聖書講座第2巻、日本基督教団出版局、1996年、140−163頁
 F.-L.Hossfeld/E.Zenger, Die Psalmen I.Die Neue Echter Bibel, Kommentar zum Alten Testament AT, mit Der Einheitsübersetzung, 1993, 5-27(Einleitung)
 E.Zenger, Psalmenforschung nach Hermann Gunkel und Siegmund Mowinkel, Congress Volume Oxford 1998, VTS, Leiden,1999, 399-435
 Id., Der Psalter als Buch, in : E.Zenger(Hrsg.), Der Psalter in Judentum und Christentum, HBS 18, Freiburg im Br.1998, 1-57
 Id., Von der Psalmenexegese zur Psalterexegese, Bibel und Kirche 56, 1/2001, 8-15
(つづく)
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