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詩編入門講座W
詩 編 概 説 (つづき)
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8)詩編の書 −書としての詩編の書−

 A)最終編集による詩編の構造

 150編の詩編の書は、その最終的形態では、詩1−41、詩42−72、詩73−89、詩90−106、詩107−150の5部から成ると、まず言える。 その各部は、栄唱(doxologia)で終わるので、これが5部からなるとする目安となる。その栄唱は詩41:14、詩72:18−20、詩89:53、詩106:48にあり、 これらの栄唱にあたる第5部の結びは、詩145−150または詩146−150と見ることができる。
 このように詩編の書は、同じく5部から成るモーセ五書と比較される。 詩編の場合、その5部の間には、いかなる関連があるのだろうか。 A・シュラキによると、5部の詩編は、各部が1日の経過、つまり夜、朝、真昼、夕、新しい朝に呼応しているという。 ただし、ユダヤ教によると夕に1日のはじまりがあるので、詩編も夜から始まると見る。 他方、D・バルソッティによると、人の一生の始め、青年期、成熟期、神の国、人類と世界の賛美に呼応しているという。 いずれも、詩1−2は、詩編全体への序章とし、詩3から詩編本体が始まると考える。
シュラキ バルソッティ
第1部: 3−41 一生の始め
第2部: 42−72 青年期
第3部: 73−89 真昼 成熟期
第4部: 90−106 神の国
第5部: 107−150 新しい朝 人類と世界の賛美

 この見解はあくまで参考であるが、詩編150編が無造作にではなく、何らか計画性をもって並べられているのではないかという洞察に基づく。この洞察そのものは正しい。
 現在では、いっそう詩編の本文に則して、その用語、構文など文学性における関連性に基づいて、神学的思想内容の関連性を読み取るよう努力がなされている。 そのためにはまず、各部の区切りとしての前述の栄唱が注目すべきものとされる。 これらの栄唱は、詩編150編が完成してから5部に分けられることとなり、そのときかそのあとに付加されたものではないかということで、これまで注目されずにきた。 しかし、注意深く見ると、それは各部の内容とも関連し、複数の手により作成されており、それゆえ詩編の書として成立過程も示唆していることがわかってきた。 その栄唱を抜き出してみる。

a)詩41:14 :イスラエルの神、主は、
 永遠から永遠に至るまでほめ称えられますように。
 アーメン、アーメン。
b)詩72:18−20 18ただ独り驚くべき御業を行われるイスラエルの神、[神]、主は、ほめ称えられますように。
19その栄光の御名は永遠にほめ称えられますように。
 その栄光は全地に満ちています。
 アーメン、アーメン。
20エッサイの子ダビデの祈りの終わり。
c)詩89:53 :主は、永遠にほめ称えられますように。
 アーメン、アーメン。
d)詩106:48 :イスラエルの神、主は、
 永遠から永遠に至るまでほめ称えられますように。
 すべての民は言わなければならない。
 アーメン、ハレルヤと。

 どの栄唱にも共通して言えるのは、名詞文の「・・・主は、ほめ称えられますように」(bãrûk)で始まるということ。 これは主なる神への呼びかけとしての祈りではなく、むしろ信仰の表明である。 これによって、その著者は各栄唱の前に出る詩編群で言われる神の御業に応答し、その詩編群を神の御業の証しとして受容しようとしていることがわかる。 またいずれの栄唱も、「アーメン」と言って、前にでる詩編群の内容、つまりそこで言われる神の御業を真なるものとして承認し、 その要請するところのものを受容しようとしている。 それにまたいずれの栄唱も、この承認と受容を一回かぎりとか、時間的に限ってではなく、永遠になすべきものとして「永遠」を強調している。 こうして後述する詩編全体の終章である詩146−150へと繋げている。以上のことを詩編による詩編の書の理解の基礎として、さらに個別的に以下のことが言える。
 前掲の本文を見れば、a)とd)が呼応し、b)とc)が呼応していることがわかる。 a)の始めの「イスラエルの神、主は、永遠から永遠に至るまでほめ称えられますように」は、 d)の始めと同じである。その後、a)の「アーメン、アーメン」は、d)では「すべての民は言わなければならない。 アーメン、ハレルヤ」となっている。その「すべての民」は、詩106の内容と共に、第5部を考えての表現であろう。 実際に、第5部はイスラエルのみならず世界中の人々を意識した普遍的な展望の中で「永遠に」続く賛美、ハレルヤを呼びかけている。 a)の「アーメン、アーメン」が、d)では「アーメン、ハレルヤ」となっているが、 この「ハレルヤ」は詩編全体の結びである詩146−150を考えてのことであろう。 実際に詩146−150はどれも「ハレルヤ」で始まり、「ハレルヤ」で結ばれる。 それに詩編150は、その本体に動詞「ハレルー」(「賛美せよ」)が10回繰返されている。 それに願望形(jussive)で、1回出る。実はここに詩編の書が最終編集において、いかなる書と考えられていたかが現れている。 つまりそれは賛美として、また永遠に唱えるはずの賛美としてまとめられた書であるということである。 それゆえ、詩編150編全体は詩編の編集者によると、まさに「賛美」( tehillîm)の書という書名にふさわしいことがわかる。 他方、詩150編全体が最終編集される以前の段階では、d)の「アーメン、ハレルヤ」は、a)と同じように、「アーメン、アーメン」だったかもしれない。
 それにb)とc)比べると、ここではa)とd)の「永遠から永遠に至るまで」が、「永遠に」とだけ言われる。 そのいずれもメシアとしてのイスラエルの王の詩72と詩89の後に書かれており、 b)は詩72のメシアの国の展望の中で書かれており、 c)では「イスラエルの神」という尊称もなく、「主」だけが言われているが、これは詩89のメシアの約束の存続に関する嘆きのためであろう。 このようにこの4つの栄唱は、構造的に交錯法で書かれており、その4部からなる詩編の集成が150編からなる詩編の最終編集以前の段階であったことを窺わせる。 そうすると、第5部はそのあとに加えられたこととなる。
 第5部の結びは、詩編全体の結びでもあるとして、詩150ないし詩145−150の賛美に見る意見がある。 しかし、第5部の結びを詩145とし、詩編全体の結びを詩146−150として、 その詩145を詩編全体の結び、詩146−150への架け橋と見る説(H・メイヤー、E・ツェンガー)があり、このほうが正しいと思われる。 それは詩145の始めと結び、1−2、21節を見れば肯けよう。

e)詩145:1−2 王であるわたしの神よ、わたしはあなたをあがめ、
永遠に、とこしえに、あなたの御名をほめ称えます。
来る日も来る日もあなたをほめ称え、
永遠に、とこしえに、あなたの御名を賛美します。
       21 わたしの口は主の賛美を語ります。
すべての肉なる者があなたの聖なる御名を
永遠に、とこしえにほめ称えますように。

 この詩145:1−2、21は、前掲のa)−d)と異なるが、これが発想源となって書かれている。 「ほめ称える」(bãrûk)は、a)−d)に共通する主題の一つ。「御名」は、詩72:19にあるものを取り上げ、ここで3回も強調する。 「すべての肉なる者」は、詩106:48の「すべての民」を文脈に合わせたもの。 「わたしの口は主の賛美を語ります」(詩145:21)は、第5部全体を貫く基調の「賛美」( tehillah)を凝縮し、要約するもの。 特にd)の詩106:48の「アーメン ハレルヤ」の「ハレルヤ」(「賛美せよ」)を取り上げている。 これはまた「あなたの御名を賛美します」という決意(詩145:2)を繰返している。 その賛美を永遠に行なうようにとのその「永遠」の主題もa)−d)に共通する主題の一つだが、これも取り上げ、強調し、文脈に沿って変化させている。 ここには「アーメン」の句はないが、詩145:21は「開かれた結び」であって、これは詩146−150に続くから驚くにあたらない。 実際に、詩145:21の「賛美」(tehillat YHWH)を受けて、詩146−150の各詩編は「ハレルヤ」で始まり、 「ハレルヤ」で結ばれており、詩145:21の「わたしの口」を受けて、詩146:1は「わたしの魂よ」と自分自身呼びかけることから始めて、 詩147:12では主を賛美するように、自分が属するエルサレム/シオンに呼びかけ、さらに広く天と地のすべてのものに呼びかけ、 「すべての肉なる者」をその賛美に招いている。このように主はその民の「角」を高く上げてくださり、 その「民」である「イスラエルの子ら」、「主の近親者である民」の賛美は、全被造界へと広がり、「新しい歌」(詩149:1)となる。 最後にその賛美は、「すべての肉なる者」(詩145:21)から「すべての息のある者」(詩150:6)へと、天上界も含めて拡大されるように呼びかける。 この主なる神を永遠に賛美する至福の状態を展望に入れて詩編150編は結ばれる。 このように第5部の結びが詩145にあると、またこの詩145が詩146−150への架け橋であると見るのが妥当と言えよう。 また詩146−150は、相互に密接に関連しあって、詩編150編全体の締めくくりになっていることも忘れてはならない。 それは、これらの詩編はその文脈から抜き取って、個別にその意味を読み取ろうとするのは適切ではないということも意味する。

 従って、詩編150編はその最終編集では、詩3−41、詩42−72、詩73−89、詩90−106、 詩107−145の5部に分けられる。詩146−150は、その全体の締めくくりで、 これに対応するのが最初の詩1―2と見るのが適切と言えよう。それゆえ、詩編の書は、以下のように分けられる。
序章 T U V W X 終章
 [1−2]  3−41  42−72  73−89  90−106  107−145  [146−150]

 詩3−41は、苦境にあるダビデの祈りである詩41で締めくくられる。詩3−41は、詩10と詩33を除いて、 すべて「ダビデの詩」という表題がついていて、ダビデ詩集ということができる。 実際に詩10は、元来詩9と一つの詩編であったことがわかっているし、詩33は、後代に挿入されたものではないかと言われる。 このダビデ詩集は、後述するダビデ詩集と区別して、第1ダビデ詩集ということとする。詩41はこの第1ダビデ詩集の締めくくりでもある。 詩42−72は、メシアの国についての詩72で締めくくられ、これは第2ダビデ詩集(51−71)の締めくくりでもある。 これは詩73−89の最後のメシアの詩89の締めくくりと呼応している。 詩89は、第2ダビデ詩集(詩51−71)とアサフ詩集(詩50、73−83)を囲むように加えられたコラ詩集(詩42−49、84−85、87−88)の結びとして加えられた。 詩90−106は、メシアとその国の存続の危機と契約の神の忠実さを取り上げる詩106で締めくくられる。こうして詩107−145の賛美へと続いていく。 これらの締めくくりの句によると、詩3−41、詩42−72ではダビデ、ソロモンの王国時代をメシアへの期待の観点から見直し、 詩73−89ではそのダビデの国の崩壊と、詩90−106では民の罪の告白と助けの願いを言う。 このようにイスラエルが過去の歴史を前586/7年までふりかえるものとなっている。詩107−145は民の再興を視野に入れている。
 これらの栄唱の意味については、
 E.Zenger, Der Psalter als Buch, in : E.Zenger(Hrsg.), Der Psalter in Judentum und Christentum, HBS 18, Freiburg im Br.1998, 1-57 : 特に27-31
 B.Janowski, Die Antwort Israels, Bibel ubd Kirche, 56, 1(1/2001), 2-7;
 R.G.Kratz, Die Tora Davids, Psalm 1 und die doxologische Fünfteilung des Psalters, ZThK 93(1996), 1-34
 なお、N・ローフィンク著「詩編理解にとっての最終編集の意義」、『主のすべてにより人は生きる』、 WAFS刊行会編、リトン社、1995年、63−84、特に72−74頁も参照。

 詩1と2は、詩146−150と同様に表題をもたない。 この詩1と2は、詩3−145の編集の最終過程で序章として付け加えられたものであろう。これも同時にではなく、段階的に加えられたらしい。 詩1は、主の教え(律法)への信仰心を歌い上げた知恵の詩編であり、詩2はメシアの到来を約束する神の託宣を伝えるものである。 このかなり内容が異なる2つの詩編がどうして並べられているのだろうか。詩2は、同じくメシアを主題とした詩89で結ばれる編集段階で加えられたものであろう。 それは、メシア待望の機運が高まった時代を背景としていると言えよう。詩1は、詩編全体が最終的に編集された知恵者たちの伝承の中で序章として加えられたのであろう。

 B)前段階の収集、編集

 詩編の書は、最終編集では5部に分けられるが、これは最終編集以前にすでにそれぞれ収集、編集されていたことを窺わせている。 第2部の終わりの詩72:20に、「エッサイの子ダビデの祈りの終わり」とあるが、実際にその後にもダビデによる詩編がある。 これはまずここまでの編集があったことを示している。その最終編集以前にあった収集、編集はどこまで確認することができるのであろうか。 最終編集段階で加えられた詩1−2と146−150を除くと、詩3−41、42−72、73−89、90−106、107―145の5部は、 用語上、構文上、それにまた思想内容上それぞれ特徴をもつ。各部の中で詩編がいかなる考えによって並べられているのか、 その検討は各詩編の詳しい解釈をまってはじめて可能であるが、ここでは予め見当をつけるためのたたき台を書いておく。

 a)第1部(詩3−41)
 詩3−41は、神の名として一般にヤーウェを用いる(ヤーウェが273回に対し、エロヒムは15回)。 それゆえ、これはヤヴィスト詩編と言われる。また詩10(これは元来詩9と結ばれていた)と詩33(LXXではダビデの作)を除いて、 ここでは詩編は「ダビデの詩」という表題をもち、ダビデの作とされる。このダビデの作とされる詩編群を「ダビデ詩集」と呼ぶこととする。 ここにあるのは第1ダビデ詩集と呼び、第2部にあるダビデ詩集とは区別して考えることとする。

 この「ヤーウェ」(YHWH)、聖4文字は、イスラエルが契約によって結ばれている神の固有名詞である。 この名は、畏敬のゆえに発音されることなく伝えられ、その正確な発音はわからない。 それは「アドナイ」(「わたしの主」意)と発音されてきた。それはアラマイ語で「マール」(1コリ16:22の「マラン・アタ」=「主よ、来てください」参照)。 70人訳では、「キュリオス」()、ラテン語では「ドミヌス」(Dominus)と訳されてきた。 キリスト教徒は、この神の呼び名を、復活したイエスの呼び名として用いた。 またこれを父なる神の指示によるとした(フィリ2:9の「あらゆる名にまさる名」とはこのキュリオスのこと)。

 詩3−41も、つぎのように分けることができる。
 イ)詩3−14:中心は詩8で、3−7、9−14はさまざまな苦悩の中での信頼ないし嘆願の祈り。
 詩3は罪なく迫害された人、詩4も同様、詩5は罪なく訴えられた人、詩6は病人かと言われてきたが、迫害を受けた人、詩7も同様、すべて個人的に脅かされている人の嘆願。 詩9−14は、構造的に脅かされている「貧しい人」といわれる社会的集団が、敵対勢力に取り囲まれて、裁きの神に希望して祈るもの。 その中で詩8は、圧迫されている人の尊厳を歌う知恵的賛美。
 詳しくは、
 E.Zenger, Der Psalter als Buch, op.cit., 19-20
 飯謙「詩編3−14の編集と構成」、『神戸女学院大学論集』44/1(1997)、1−12

 ロ)詩15−24:典礼詩編である詩15と詩24にかこまれた区分で、中心は詩19。
 詩18と詩20、21は王の詩編。詩17は不正に訴えられた人の嘆願、詩22は絶望的な叫び、 詩16はレビ人の誓願のときの祈りか、詩23は信頼の詩編。詩編19は全体として1つの詩編であり、それは律法をたたえる知恵的賛美。
 詳しくは
 F.-L.Hossfelt/E.Zenger, Wer darf hinaufziehen zum Berg YHWHs? Zur Redaktionsgeschichte und Theologie der Psalmengruppe 15-24, in : G.Braulik/W.Gross/S.McEvenue(Editors), Biblische Theologie und gesellschaftlicher Wandel. Für Norbert Lohfink SJ, Freiburg 1993,166-182
 P.D.Miller, Kingship, Torah Obedience, and Prayer.The Theology of Psalms 15-24, in : K.Seybold u.E.Zenger(Hrsg.), Neue Wege der Psalmenforschung, HBS 1, Freiburg im Br., 1994, 127-142
 飯謙「統一体としての詩編15−24篇」、『神戸女学院大学論集』40/1(1993)、15−32

 ハ)詩25−34:アルファベット詩である詩25と詩34に囲まれた区分で、中心は詩29。
 詩29の前の詩26−28は嘆願の詩編、その後の詩30−32は感謝の詩編。 詩26は罪の嘆き、詩27は敵の迫害の嘆き、詩28は死の脅威からの叫び。 詩30は詩28に、詩31は詩27に、詩32は詩26に対応するもの。詩29は神顕現を歌う賛美。詩33も賛美だが、後代の付加かもしれない。
 詳しくは
 E.Zenger, Der Psalter als Buch, op.cit., 20-22
 飯謙「詩編25−34編の構成と主題」、『神戸女学院大学論集』47/2(2000)、119−135
 同「「脱神殿」のうた―統一体としての詩編25−34編」、『神戸女学院大学論集』48/1(2001)、113−129

 ニ)詩35−40.41
 ここはどのような文学的構造になっているかは、明らかではない。詩35は迫害され苦しめられている人の助けを求めての嘆願。 詩36は罪人とは対照的に神の慈しみをたたえ、祈願をもって結ぶ。詩37はアルファベット詩で、貧しい人のための知恵の教え。 詩38は病人の嘆願。詩39は病いと人間の儚さについての瞑想と嘆願。詩40は感謝と嘆願からなる複雑な詩編。
 第1部の締めくくりである詩41は、ダビデの詩として、病いに倒れたそのダビデが敵にも囲まれて祈る嘆願として書かれている。 この意味で絶望状態で祈るダビデの詩である詩3と対応している。さらに詩41は、第2部の締めくくりである王の詩編である詩72と比べることにより、 同じように王の詩編としての性格も明らかになる(E.Ott/E.Zenger(Hrsg.), Mein Sohn bist du (Ps 2, 7), SBS 192, 2002, 88参照)。
 参考文献
 飯謙「詩編35−41編の編集史について」、『神戸女学院大学論集』45/2(1998)、47−60

 b)第2部(詩42−72)と第3部(詩73−89)のそれぞれの構造を見る前に、 第2部と第3部にまたがって認められる文学的特徴とこれが示唆する詩編の書の編集過程を予め知っておきたい。 その1は、詩42から始まる表題「コラの子らの詩」である。この表題は詩42−49、84−85、87−88にある。 これは元来個別に編集された詩集としてあったもの。これをここでは「コラ詩集」と呼ぶ。この中には共通する用語、表現と思想も認められる。 その2は、「アサフの詩」という表題がある詩50、73−83がある。これをここで「アサフ詩集」という。 これも別個に編集されたものであり、この中にも共通する表現と思想がある。その3に、ここにも「ダビデの詩」という表題をもつの詩編がある。 それは詩51−71、それに詩86である。これは、前述の第1ダビデ詩集(詩3―41)に対して、第2ダビデ詩集ということにする。 この第2ダビデ詩集は第1ダビデ詩集と同類であるが、別個に編集されたものと思われる。 詩72は、表題が「ソロモンの詩」であるが、内容的にはダビデの祈りである。詩89は「エタンの詩」であるが、 メシアの国をいう詩72と同じく、メシアへの期待を主題としている。この詩72と詩89が第2部、第3部の結びとなっている。
 これらの詩集を取り出すと、集中型(交錯法)の構造が認められる(J・トレボリエ・バレラ)。
コラ詩集 詩42−49
アサフ詩集 詩50
第2ダビデ詩集 詩51−71.86
B’ アサフ詩集 詩73−83
A’ コラ詩集 詩84−85.87−88
 この集中型の文学構造(Cを中心として、AとA'、BとB'が呼応している)は、 詩編第2部、第3部を共時的に見て言えるのだが、これは通時的にはかなり複雑な編集過程を経てきた結果である。 その通時的に何が言えるか、H.-L.ホスフェルト―E.ツェンガーの説を要約して、紹介し、今後のわれわれの詩編研究に参考としたい。 この中で最も古いのは、詩52、54−57、59、61−68である。 その中で詩52、54−57、59、61−64に出るのは戦いの比喩であり、ここで祈る「わたし」に対する敵の攻撃が言われ、 しかも敵の攻撃が徐々に激しくなると同時に神の救いの力に対する「わたし」の信頼も増し、 その頂点が詩64にある。実際にここで敵の脅迫の終わりも言われる。 それに答えて詩65は賛美であり、それに賛美ないし感謝が詩66、67と続いて、詩68では勝利の祝祭をいう。 この最も古い部分は、捕囚期中、祖国の外で歌われたもののようである。 この最も古い部分が前5世紀にその始めに詩51、その終わりに詩69−71の付加をもって拡大されると同時に、第1ダビデ詩集の影響を受けて(?)、 ダビデが唱えた祈りとされた。つまり詩編の「ダビデ化」がなされた。 このとき、サムエル記のダビデ物語との関連で詩編を理解するようにとの表題がつけられ、 また詩35−41の理解を深めて詩51が、また詩40−41を前提として詩70−71が作成された。 この編集を行なったのが、アサフ詩集を付け加えた編集者と思われる。 アサフ詩集こそイスラエルの過去の歴史を重視する特徴を備えている。 詩53は、その編集者が詩14を修正して採用したもの、詩58、60はその編集者によって作成されたものではないか。 このように詩編の中で「ダビデの詩」が中心となることになった。実際に、ダビデの詩は、詩編全体で73ある。 それゆえ、詩編というと、ダビデに帰せられるようになったとしても、不思議ではない。ただし、 第5部では詩108−110、138−145がダビデの詩とされるが、そのダビデ像は終末におけるダビデとして理解される。
 また前5世紀に、詩50−71、73−83の前に詩42−49のコラ詩集の前半が加えられた。

 第2部と第3部の中の詩42−83で、神の名はエロヒムが多く用いられる。それゆえ、これらの詩編はエロヒスト詩編と言われる。 エロヒムは普通名詞の「神」のことだが、前述した「アドナイ」(「主」と訳される)と同じように、イスラエルの神の名、つまり固有名詞としても用いられることが多い。 ただし、エロヒムは普通名詞として用いられることも稀にあるので、注意が必要(例、詩100:3)。 このエロヒスト詩編は、コラ詩集の前半(詩42−49)、第2ダビデ詩集(詩51―71)、それにアサフ詩集(詩50、73−83)からなっている。
 エロヒスト詩編については、今のところ
  M.Millard, Zum Problem des elohistischen Psalters, in : E.Zenger(Hrsg.), Der Psalter in Judentum und Christentum, HBS 18, Freiburg im Br.1998, 75-100

 このエロヒスト詩編(詩42−83)にコラ詩集の後半(詩84−85、87−88:詩86のダビデの詩はさらに後代の付加)が加えられることになるが、 これはエロヒスト詩編ではない。この付加はペルシア支配下のユダヤでメシア待望観が高まった時代に行なわれたらしく、 またこのとき詩2−89が編集されたらしい。コラ詩集の後半はエロヒスト詩編ではないので、 コラ詩集の前半が詩50−83に加えられたのとは異なる時代に、同じくエロヒスト詩編ではない詩3−41と共に加えられたことが考えられる。 この詩3−88の前にある始めの詩2とその後にある詩89は、メシアの詩編である。

 c)第2部(詩42−72)は、まずコラ詩集の詩42−49をもって始まる:詩42−43は一つの詩編であり、 これは個人の嘆願、詩44は集団の嘆願、それに答えるのが、詩46−48で、シオンに王座を据えた神なる主の支配を告げる。 王を歌った詩45もこの文脈の中でその意味を読み取る必要がある。締めくくりの詩49は知恵の詩編。
 その後、アサフ詩集の最初の一つ、詩50が第2ダビデ詩集の最初の詩51が結びつけられて出る。 詩50は祭儀批判、詩51は改悛の詩編、その結びつきは、詩51:18−21参照。 この詩50と詩51を結びつけた編集者が最も古い詩編をダビデが歌ったものとして第2ダビデ詩集(詩51−68、69−72)を作成すると共に、 アサフ詩集(詩73−83、捕囚期の作成)をそれに結びつけたらしい。 そのとき、ダビデ第1詩集(詩3−41、捕囚期ないし捕囚期直後の作成)からの発想も得て、ダビデが歌ったものとした。これを「ダビデ化」という。 詩72:20の付記もその彼によるらしい。この付記によって、そのあとに出るアサフ詩集との区切りをつけたのではないかと思われる。詩51のダビデの改悛の祈りのあと、 嘆きの詩52−55、願いの詩56−60、信頼の詩61−64、賛美ないし感謝の詩65−68、嘆きの詩69−71、メシアの国の詩72で結ぶ。
 第1ダビデ詩集(詩3−41)と同様に、第2ダビデ詩集(詩51−72)も、嘆願の詩編が優位を占めている。 第1ダビデ詩集における詩8、詩19、詩29のように、詩51−64の嘆願に対する返答として、詩65−68がある。

 d)第3部(詩73−89)は、アサフ詩集をもって始まる(詩73−83)。アサフ詩集は、前に述べた詩50と合わせて12の詩編を含む。 この詩50と同様に詩81も祭儀を生活の座とし、契約への従順を呼びかける。また詩50:3aαの「黙ってはおられない」は、詩83:2に受け継がれている。
 さて、詩73−83では、まず詩73は知恵、つまり教えの詩編。詩74は嘆きの詩編、詩75−76は託宣ないし神の答え。詩77は嘆き。 この教え―嘆き―託宣―嘆きは、教えとしての歴史の詩編である詩78、破壊された神殿を嘆く詩79−80、 託宣ないし神の答えをいう詩81−82、嘆きの詩83で繰返される。
 続いてコラ詩集の詩84−85、87−88がある。詩84は生ける神への渇望を歌う。 これと対照的なのが詩88で、死の世界からの叫びである。詩85は神なる主の到来と共に楽園的な地が実現し、平和と救いが与えられることを言う。 詩87は神話的表徴のもとに神である主がシオンに座して諸国の民にその統治を及ぼされることを言う。 このように嘆願(84;85:2−8)−神の答え(85:9−14;87)−嘆願(88)と、集中型の構造になっている。 それに後で貧しい者の展望のダビデの詩、詩86が加えられた。これは詩編におけるダビデ像の影響が増大したことを意味している。 それに締めくくりとしてメシア待望の詩編、詩89が加えられた。 これは詩2と対応しているが、この詩編自体は段階的に付加されて出来上がっている。
 参考文献
 E.Zenger, Der Psalter als Buch, in : E.Zenger(Hrsg.), Der Psalter in Judentum und Christentum, HBS 18, Freiburg im Br.1998, 1-57 : 特に27-31
 F.-L.Hossfeld u.E.Zenger, Die Psalmen I, Die Neue Echter Bibel Kommentar zum A.T.mit der Einheitsübersetsung, Stuttgart, 1993, 5-25
 F.-L.Hossfeld u.E.Zenger, Psalmen 51-100, Herders Theologische Kommentar Zum Alten Testament, Freiburg/Basel/Wien, 2000/22001, 26-35

 ダビデの詩編については、
 F.-L., Hossfeld,Die unterschiedlichen Profile der beiden Davidsammlungen Ps 3-41 und Ps 51-72, in : E.Zenger(Hrsg.), Der Psalter in Judentum und Christentum, HBS 18 ,Freiburg im Br.1998, 59-73
 E.Cortese, La preghiera del Re, Formazione, redazioni e teologia dei "Salmi di Davide", Bologna, 2004

 コラの子らの詩編については、
 M.D.Goulder, The Psalms of the sons of Korah, JSOT, Suppl.Series 20, Sheffield,1982
  E.Zenger(Hrsg.), Neue Wege der Psalmenforschung, HBS 1, Freiburg im Br., 1994, 175-198

 アサフの詩編(詩50、73−83)については、
 K.Seybold, Das Wir in den Asaph-Psalmen, Spezifische Probleme einer Psalmgruppe, in K.Seybold u.E.Zenger(Hrsg.), Neue Wege der Psalmenforschung, HBS 1, Freiburg im Br.,1994, 143-155
 F.-L., Hossfeld,Das Prophetische in den Psalmen.Zur Gottesrede der Asafpsalmen in Vergleich mit der des ersten und zweiten Davidpsalter, in :F.Diedrich u.B.Willmes(Hrsg.), Ich bewirke das Heil und erschaffe das Unheil (Jesaja 45,7), Festschrift für L.Ruppert zum 65.Geburtstag,fzB 88,1998,223-243
 S.Holtmann, Die Asafpsalmen als Spiegel der Geschichte Israels, Überlegungen zur Komposition von Ps 73-83, Teil I, BN NF n.122, Salzburg, 2004, 45-79;Teil II, BN NF n.123, 2004, 49-63

 e)第4部(詩編90−106)
 詩93−99・100:王としての神なる主の支配が主題である。 これを中心に前に詩90−92、後に詩101−106が位置づけられている。

 詩93―100は、用語上、思想内容上同類であることが確認される。そのすべてをとおして、神なる主の王としての支配を主題としている。 この8つの詩編は、文学様式としてはすべてが同じものではない。それに応じて内容も異なる。 またそれぞれが作成された時期も異なる。その作成の時期を見定めることは、きわめて難しい。 個々の詩編の作成時期はわからないが、おそらくそれはバビロン捕囚期以後、再建されたエルサレム神殿における典礼用として採用されたのが始まりではないだろうか。
 そういうものとしてまず詩93と99が考えられる。 詩93は王としての神なる主の支配を歌い、詩99はその主なる神が聖なるおかたであることを強調し、同時にその支配が正義と公正に基くものであることを言う。 その背後にイザヤ書(イザヤ1−39)の影響が考えられる。それに詩98と96の作成が加わったのではないかと思われる。 それには第2、第3イザヤ(イザヤ40―55、56−66)の影響が考えられる。 こうして詩98と96は、王としての神なる主の力ある御業として、バビロンからイスラエルの民の帰還という新しい出エジプトを歌いあげている。 この神の驚くべき御業によって救われたことをいう詩98と96を前提として、詩95が作成されたのではないかと思われる。 つまり、この詩編はその救われた民が神の慈しみ深いその御業に答えて生きなければならないということを申命記伝承の影響を受けて聞かせようとする。 この詩編はかつてのイスラエルの先祖たちを反面教師として、こんどこそは神なる主に忠実に生きるよう説いている。 またこれらとは作成時期を異にして、ペルシア時代末期と思われるが、おなじく詩98と96を前提として詩97が作成されたのではないかと思われる。 詩98と96は到来する神なる主について言っているが、これを受けてその主の到来ないし顕現について述べる詩97が作成されているように思われる。
 さらにまた詩98、96、それに詩95を前提として、イスラエル人も異邦人も、 全世界の人々がイスラエルをとおして啓示された唯一の真の神の礼拝者となり、その主に導かれる民となるように呼びかける詩100が作成されたと考えることができる。 最後にいつか、法と正義による神なる主の支配を問題とする詩94が作成され、主の王的支配をいう最初の詩編である詩93の後に加えられたのであろう。 そのとき詩95がその後に位置づけられたのかもしれない。 詩94は神なる主が絶対的な信頼に値するものであることを説いて結ばれるが、神はそういうお方だからこそ、 詩95は日々神なる主への忠実な生活を送るよう呼びかけていると考えられる。 結果的に、そのあとに新しい驚くべき御業としてのバビロンからの帰還を賛美する詩96、98と並ぶが、 その間に王としての神なる主の到来ないし顕現をいう詩97が挿入されている。 こうして初期に作成されたと思われる詩99がそのあとに続き、最後に詩93−99の要約であり、頂点である詩100が位置づけられている。

 詩90−92
 詩90は、詩編150編中唯一の「モーセの祈り」とされる。またこの第4部には「モーセ」が7回出る (90:1;99:6;103:7;105:26;106:16、23、32で、ほかでは77:21だけで)。 これによって第4部とモーセ五書との関連が示唆されている。 詩90は人の生のはかなさを歌った嘆き(90:2−12)に願いが加えられている(90:1、13−17)が、 この願いは仲介者としてのモーセ(出エ32:12−14参照)による。これに答えて、詩91は知恵の文体で、 神なる主に信頼を寄せる者に長寿と幸いが与えられることを言う。これを再確認するのが詩92で、これは感謝の詩編である。この3つの詩編は深く関連しあっている。

 詩101と詩102
 詩101は、ダビデの詩。ダビデの祈りとしてイスラエルの王が何をすべきかを言う。 発想は、聖域入場の典礼詩編(詩24,15、イザヤ33:14−16)から得ている。 しかし、その王の態度は悪人に対して力の行使も厭わない。詩102は、その表題によると、 「・・・思いを注ぎ出す貧しい人の詩」となっており、これはダビデの詩である詩142:3から取られている。 したって詩102もダビデが歌った詩編として読むべきであろう。 詩102は、個人としてもはかなく移ろいゆくもの、集団としても荒廃の憂き目にあったものとして自己を認めている(改悛の詩編の1つ)。 これが王の詩編だとするなら、その王の態度は詩101とは対照的であり、その態度はイザヤの主のしもべに通じる。

 詩103と詩104
 詩103と104は、「わたしの魂よ、主をたたえよ」(ヘブライ語で「バルキ・ナフシ・エト・アドナイ」)という句が繰りかえされることによって (詩103:1、2、22;104:1,33)、編集的に結びつけられている。 事実、この2つの詩編は神である主を、その王的支配の御業を見ることによって賛美している。 その王的支配の基本的な力は、その慈しみと憐れみにこそ現れている。 詩103は、法秩序(倫理界)における神の御業を賛美する。 それは罪を赦す神の慈しみと憐れみであり、これはシナイにおいて結ばれた契約で告げられていたものであり、それが歴史的に実現している。 このように詩103は詩102に答え、また詩101とも関連がある。 他方、詩104は、自然界の創造とその維持に現れた神なる主の王的支配の力、その慈しみを賛美している。

 詩105と詩106
 続いて、詩105は歴史の詩編。詩106は詩105と密接に関連しあっているものとして読むべきである(W.Zimmerli)。 この2つの詩編は、イスラエルの基本的信仰告白に基づいて歴史をふり返る。 神なる主はどこまでも契約に忠実であった一方、イスラエルは背信の民である。 契約に対する神の忠実さは、敵によるイスラエルの民の圧迫(詩105)と自分の罪によるその民の苦しみ(詩106)に現れている。 しかし、その神の忠実の驚くべき御業として、この民の救いがあり、そこから感謝と賛美が呼びかけられる。こうして第4部の結びとなる。
 参考文献
 E.Zenger, Israel und Kirche im gemeisamen Gottesbund : Beobachtungen zum theologischen Programm des 4.Psalmenbuchs(Ps 90-106), in : M.Marcus u.a.(Hrsg.)Israel und Kirche heute :Beiträge zum christliche-jüdischen Dialog : Für E.Ludwig Ehrlich, Freiburg, 1991, 236-254
Id., Der Psalter als Buch, op.cit.,25-26(Ps 90-92)

 f)第5部(詩107−145)  第5部の始めの詩107と終わりの詩145は、第5部の外枠として関連しあっている。 まず詩107については、その詩107:1は新しい区分の始まりだが、詩106:1と同じ句であり、 これによって第5部が「とこしえに」続く主の「慈しみ」に対する感謝を主題とし、 また第4部のみならず第1−4部の続きであるばかりか、その総括的解釈でもあることを示唆している。 この詩編は死の脅威から救う力としてその主の慈しみを強調している。特にこの主は貧しい者の神である。 詩145も王としての神なる主をたたえ、この主は憐れみ深い契約の神であり、倒れてしまった人、屈してしまった人を支え起こす万物の創造者であることを説く。 この二つの詩編は、「人の子ら」、「慈しみ」、「驚くべき御業」、「救い」という用語の頻繁な使用によって深くかみ合わされている。 この2つの詩編の間につぎのように詩編が並んでいる。
詩108−110 + 111−112:詩108−110の3つのダビデ作の詩編は、 神なる主の支配のもとにメシアの到来を言う。詩108は、詩109と110への前奏として、 まず2−7節で詩57:8−12;60:7を利用することにより神の慈しみとまことの示しとしてのイスラエルの救いについて、つまり神の王的支配について述べ、 続いて8−14節で詩60:8−14を利用することにより、詩108:8−10とは対称的な苦しい現状を嘆く。詩109はいっそう激しい嘆き。 詩110は、その嘆きに対する答え。詩111−112は詩110にある神なる主の託宣に対する反応。
 詩113−118:出エジプトの神学に色濃く貫かれている。ユダヤ教では過ぎ越しのハレルと言われる。
 詩119:律法賛歌
 詩120−134 + 135−136、137:シオン巡礼の詩編。詩137は詩120−136のシオン巡礼の詩編を神学的に解釈したものとして読むことができる。
 詩138−145:詩138はその詩137に対する応答であると同時にダビデの詩138−145の冒頭として、 ダビデの詩編である詩145とも関連しあっている。詩138は主の御名に対する感謝・賛美であり、 これは「心を尽くして」、「神々の前で」(新共同訳の「神の御前で」は?)行う感謝である。 これは詩145:1−2、21の「御名」、20の「主はご自分を愛する者を守られる」を見ての感謝である。 そのほか詩138と145の相互間に用語上、神学上関連性がある。その間に詩140−143の4つの嘆願の詩編があり、 それは詩144の王の詩編へと続いている。その前に信頼の告白、詩139がある。
 K.D.Seybold,Zur Geschichte des vierten Davidpsalters(Ps.138-145), P.W.Flint & P.D.Miller, (Edited by), The Book of Psalms, Compositions & Reception, SVT XCIX, Leiden Boston, 2005, 368-390
 第5部は、以下のように分けられる。

     王  ア      王
[107、 108−110 111−112]、 113−118、 119、 120−136、 137、 [138−144、 145]
ダビデ 
終末メシア的
出エジプト
過越し祭
律法
七週祭
 シオン
 仮庵祭
ダビデ
終末メシア的

 (王は王の詩編、アはアルファベット詩の略)
 この文学的構造の意味;詩119が中心。
 E.Zenger, Komposition und Theologie des 5.Psalmenbuchs, BN, Heft 82(1996)97-116

 結論
 1) 詩編の書は、最終的に一書として編集された書として見事な構造をもっているようである。 このように詩1から詩150まで続けて読むべき書なのであろう。またこのように詩編は、神についての瞑想の書なのであろう。 したがって、恣意的に一つの詩編を拾い読みすべきものではないと言える。詩編の書全体がそのような観点から解釈され、翻訳されなければならないということとなる。
 詩編150編の中には、個々を見れば、確かに神礼拝ないし典礼を生活の座として作成されたものがある。 それは詩95、81,50、それに多くの賛美や王のために祈る詩編に言える。しかし、そういった神礼拝ないし典礼を生活の座としない詩編もある。 たとえば知恵の詩編はどうだろうか。特に詩編の書の最終編集のとき作成された詩1−2、詩146−150は神礼拝ないし典礼を生活の座として作成されたものではない。 それゆえ、詩編の書は全体としてエルサレムの神殿で行われた神礼拝ないし典礼を背景にして、その典礼のために作成されたものではない。 それは典礼の書ではなく、瞑想の書として、より厳密にいえば、口ずさんで唱えながら瞑想する書として作成されたものである。 このようにそれはエルサレムという特定の場所ないしそこで行われる神礼拝ないし典礼に縛られずに、どこでも唱えられる書になった。 そのエルサレムなど特定の場所に結びついたものは象徴的な意味を帯びて用いられるようになった。 それは詩編そのものにすでに見出される。このように世界中どこでも詩編が唱えられるようになって、神の王としての支配がいたるところに広まっていくための書になった。

 2)詩編の書は、最終的に150編の詩編からなる書となる以前に、複数の詩編を収集したものとしてあったということも事実であろう。 これもすでに、瞑想の書としてあり、人々の中に広く流布していたと思われる。 福音書によると、イエスはモーセ五書とイザヤ書と並んで詩編をよく引用されているが、 この詩編はその当時広く流布していたもので、それは150編からなる詩編ではなかったようである。 それは、あるいは詩1から詩100ほどまでであったかもしれない。 しかし、その詩編も神的権威のある書として認められていたこともわかっている。 つまり、詩編は正典とされていた。死海写本の中には詩編注解もあるが、これはクムラン教団が当時あった詩編を正典、つまり聖書として受けとめていたことを示している。 詩編が150編からなる書となる以前に、詩編の収録、収集は始められており、その正典化も行われていたということになる。

 3) 詩編150編が最終的に編集され、形成されるに至る過程で、 旧約聖書の知恵文学(箴言、ヨブ記、コヘレトのことば、知恵の書、シラ書)を産みだした同じ人々が大きく関わっているのではないかと思われる。 彼らは「知恵ある人々」とか「賢人たち」とか言われ、祭司たちとか、預言者たちとは明らかに異なる特徴をもっている。 彼らは、古い時代からいて、民の教育にも大きく貢献してきたが、旧約時代もかなり時代が下ってから旧約聖書の形成に関わることになった。 その特徴は、前述の知恵文学に現れているが、それが詩1をはじめ、幾つかの知恵の詩編に認められる。 このようにこの人々の中で、以前から収集されてきた詩編が「知恵」として読まれるようになったのではないかと考えられる。 N・フュグリスターは、これを詩編の「知恵化」という。詩1は、その用語の特徴と思想傾向から知恵文学の中でも特にシラ書と相通じるものがあり、 そのシラ書に出る「賢人たち」の中でその詩編の知恵化がなされたのではないかと見当がつけられる。
 詩1は、詩編全体の序論としての機能をもつものであるが、その中で「主の教え(ないし律法)」は鍵になる用語である。 この詩1:1−2とヨシュア記1:7−8が著しく類似していることから、 この後者が「律法」(モーセ五書)を前提として、これに続く「預言書」の序言としてその律法との関連で読むべきことを示唆しているように、 前者も「諸書」の始めとして、やはりこの諸書も律法を瞑想するためだということを言っているのであろう。 詩編も当然そのための書であると言おうとしているのであろう。 N・フュグリスターは、それを詩編のノモス(律法、教え)化という。さらに以前に詩編の預言書化、ダビデ化、メシア化、集団化があったのではないかという。 これらはすべて詩編の書の形成過程には、いろいろな観点からの編集作業があったということを示唆している。 これら詩編の書の形成に関わることは、個々の詩編を検討するときに、触れることとする。

 4)具体的に個々の詩編を解釈するとき、その詩編の内容を解明すると共に、その以前に詩編が詩編の書の文脈の中でもつ意味も解明する必要がある。 個々の詩編の解釈にあたっては、これまでなされてきた本文批判、新しい言語学からの再検討、 伝統的な文学批判、様式史批判、文学性を注目しての解釈など貴重な知識が蓄えられている。 それを踏まえた上で、前後の文脈の中で、それにその全体の中で各詩編がもつ意味もあって、この観点からも検討されなければならない。 さらにこの詩編の書がユダヤ教およびキリスト教という信仰共同体によって、いかに受容され、活用されてきたか、見る必要もある。

 5)われわれの詩編研究の暫定的計画:詩編150編というこの豊かな霊的遺産にアプローチするために、 特に「王としての神なる主の詩編」、「(イスラエルの)王を称える詩編」、「知恵の詩編」という3つの詩編群を柱として、それぞれまとめて考察することとしたい。 この3つの柱で明らかにされる神学思想内容が相互に関連しあうところに、詩編神学の世界を開く一つの鍵があるのではないかと思う。 3つの柱を研究する間に、その関連で、賛美や嘆き、信頼の詩編、典礼や歴史などの詩編も見たいと思う。
 その前に、切り口を求めて幾つかの詩編を予備的に考察して、詩編全体の研究に入っていきたい。  
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