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詩編3 解説
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詩編3 Domine,quid multiplicati sunt
主よ、わたしの敵は何と多いことでしょうか。

賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき。

主よ、わたしの敵は何と多いことでしょうか。
「彼には神による救いはない」と、
何と多くの者がわたしの魂に言っていることでしょうか。

主よ、あなたはわたしを守る盾、
わたしの栄光であって、わたしの頭をもたげさせてくださるかた。
主へのわたしの声です。わたしが呼び求めれば、
聖なる山から答えてくださいます。
わたしは寝床について眠っては、目を覚ますことができます。
主が支えてくださるからです。
わたしに包囲網を敷く民がいかに多くても、
わたしに恐れはありません。

主よ、立ち上がってください。
わたしの神よ、わたしを救ってください。
まことにあなたはわたしのすべての仇の顎を打ち、
悪人たちの牙を砕いてくださいました。
主こそ救い、
あなたの民の上に、あなたの祝福がありますように。




セラ






セラ








セラ
この詩編を学ぶ意義
 詩編1−2は、詩編150編全体への序であるから、その全体の中に位置づけるとき、その意味が見えてくると思う。 それゆえ、詩編1−2の解釈はひとまず差し置く。 その直後に出るのが詩編3で、この詩編は近づき易いとも思われるので、ここから手がけてみよう。 この詩編作者は熱心な信仰者であるようだ。 何か差し迫った事態に追い込まれても、隣人たちから「彼には神による救いはない」と言われて見放されている。 その神への信仰が馬鹿にされている。それはどういう事態であろうか。 今日で言えば、たとえば末期癌で助かる見込みのないとき、まわりの人々から「熱心に神様に祈っているが、もうだめだね」と言われるような場合だろうか。 あるいは、いじめにあってまわりの多くの友人たちから攻められ、孤独でいる生徒のような場合であろうか。 今日では、「彼には神による救いはない」とあるのを、どういうケースを想定して、どう言い換えればいいのだろうか。 神とは、最後の頼みの綱として考えて、だれでもこの詩編を自分の身に当てはめて考えてみることができる。 あるいは、わたしたちは、困っている人を見放している、この詩編作者の多くの敵のようであるかもしれない。 この詩編は、案外身近かなことを取り上げ、メッセージを送っているとわかるにちがいない。 しかし、読み方によっては、さらに深い内容が見えてきて、それに驚かされるかもしれない。

詩編の文学的特徴と内容
 詩編作者は、「主よ」(2節)、「主よ、あなたは」(4節)、 「主よ、立ち上がってください」と、神なる主に「あなた」と呼びかけている。 この神との「わたし」と「あなた」のやりとりこそ祈りである。 この「主よ」を目安に、この詩編は2−3、4−7、8−9と分けることができる。 2−3節では「多い」、「多くの者」が2回あって、それが皆「包囲網」(7節)となって詩編作者を攻めていることを強調し、 この詩編作者の孤独を浮き彫りにしている。 ただ詩編作者には神なる主がいて、孤独ではない。それゆえ恐れはない。 このように2−3節の孤独の問題は、7節でひとつの答えを出している。 もう一つの問題は、「救い」で、これは9節で「主こそ救い」と答えを出している。 この詩編は、まさに救いを問題にしていると言えよう。 このように、この詩編は信頼をもって神なる主に助けを願う祈りであり、その信頼は過去に受けた神なる主の助けの経験に基く(8b節)。
 この詩編に登場する主人公は3者で、まず祈る人としての詩編作者、つぎにその敵たち、最後に神なる主。 その3者の関係を戦いとして描く。 この祈る人は孤独で無防備で、包囲網を敷く多くの敵の攻撃の的となっている。 その両者の間に、祈る人を取り巻いて守ってくれている者がいる。 これが盾としての神。 それゆえ、孤独で無防備な詩編作者も日々の生活を送ることができる(6節)。 ここで眠りは死ではなく、安泰を意味する。 日中は神なる主は立ち上がって、戦ってくださり、戦いとなる。8節は5aに出る「声」の内容と理解すれば、意味が明らかになる。
 この詩編を読んで思うには、信仰者のみならず、すべての人間にとって、人生は戦いだということ。 この祈る人と同じように、すべての人間は敵の攻撃にさらされている。 この敵で考えられるのは、具体的な隣人、ライバルだけではない。 それは病魔であったり、悪い噂であったり、戦争の原因であったり、社会的権力であったり、いろいろと考えられる。 人間の命を脅かすものはすべてこの敵であり、この根源的な人間の命の敵を見通しているのではないかと思う。 実は、この敵が詩編の中で大きな主題の一つである。 この根源的な敵のゆえに、人間は個人としても、集団としても生きながら、生きている限り、いろいろな敵と戦わなければならない。 それが人生。 しかし、人間一人ひとりとその敵の間に盾としての神がいる。 意識していようといまいと、この盾のおかげで日々の生活を送っている。 実は、その事実に気がついていないかもしれない。このようなことをこの詩編は思い起こさせてくれる。 結局、人間にとって救いとは何だろうか。この救いそのものを考えることも、きわめて重要である。 神をいかに考えるかが、それにかかっているかもしれない。


 <解説:釈義の要点>
 2−3節
 ここでは1節の表題を別にして、2節から読んでみる。 敵が大勢であることを強調している。この大勢の敵のことばは、詩編4:7にも出る。 「誰がわれわれに幸いを見るようにしてくれるのか。あなたの顔の光はわれわれを通り越して逃げてしまった」と。 神も考えて、「誰が」という。 その意味は、神がはたしてわれわれにいい目に会わせてくれるだろうか、ということ。 神を信じても何の足しにもならない。 「あなたの顔の光」、つまり神の顔の光とは神の御好意、神の微笑みのこと、そんなものは遠くへ過ぎ去ってしまった。 このようにその大勢の敵は、神など目もくれていない。 さらに、ここで詩編14を合わせて読んでみよう。「愚者は心の中で言う、『神はいない』と」(詩14:1)。 この詩編14の作者も、「愚者」と言う自分の相手の言葉を引用している。 その相手は、その引用から無神論者であることがわかる。 「愚者」とは、イスラエルの賢人たちの用語で、「悪人」を意味する。実際に悪人は愚者なのである。 「悪知恵」ということばがあるが、それは真の知恵ではないというのが、その賢人たちの考えなのであろう。 詩3の祈る人の相手も、詩編14の祈る人の相手と同様に、無神論者ではないかと思われる。 無神論者と言っても、それは詩編作者から見ての無神論者であって、具体的には偶像の崇拝者のことであろう。 古代では、現代の無神論者はいなかったのではないかと思われる。 詩3の作者は、そのような大勢の敵から、神を信じても無駄だと、突き放されている。

 4−7節
 4 − 「わたしの栄光」:これは重要な用語で、その正確な意味は、詩編を読みながら確かめていきたいと思う。 とりあえずそれはここでは「わたしの名誉」とか「わたしの誇り」ではなく、自分の最も重要で貴重なもののこと。 つまり、神そのもののこと。 ヘブライ語のカボードは、重いものという意味がある。「頭をもたげる」:誇りをもつということ、勝利するということ。
 5 − 「主へのわたしの声」:その内容は8(−9)節にある。 この声は、大勢の敵のことばとは対照的である。 「聖なる山」:エルサレムの神殿が立っているシオンの山のこと。この神殿にイスラエルの神、主は鎮座しておられると考えられていた。
 6 − 詩編4:9、「平和の中に、皆と共にわたしは身を横たえ、眠ります。 まことに、主よ、わたしが平穏に暮らさせるのは、 ただあなたおひとりによるので」と比較対照。 そのほか、レビ26:6;箴言3:24参照。
 7 − 「いかに多くても」:2−3節の「多くの人」を受けて言われる。 「恐れはありません」:「彼には神による救いはない」(3節)と言われたことへの、詩編作者の答え。

 8−9節
 8 − 悪人たちを野獣にたとえる。  すべての人間が悪人になることができる。それは、すべての人間が野獣性を秘めているということ。それゆえ、人間は自分に対しても悪人になることもできる。
 9 − 「主こそ救い」:詩編作者の最後の答えとしての神への信頼の表明。自分自身のみならず、自分の民のことまで考えが広がっている。

 まとめ
 この詩編作者は緊急事態に追い込まれ、「多くの人」という周囲の隣人から見放されても、 神によって守られていることを確信し、救いを願うが、その隣人たちを直接糾弾し、その処罰を願うどころか、むしろ神の祝福を願っている。 この寛大な心こそ、真の信仰者の心であろう。


わたしたちの祈りとして
 人生は戦い。無防備な人にも武器がある。それは盾としての神。 それゆえ、この神との、「わたしとあなた」の対話は大切。 そのために今この詩編を学ぼうとしているように、「学ぶこと」も大切。 人生は戦いで、その武器は「学びと祈り」だと、エラスムスは言った。 学びながら祈ること、祈りながら学ぶこと。聖書の学びも、ただ知識だけでは足りない。 祈りとなる聖書の学びでありたい。それでは祈りとは何か。 「神に心を上げること」とトマス・アクナスは言った。これは易しいこと。しかし、奥は深い。
 キリスト教徒にとって、思いだされるのは、イエスが敵に囲まれ、孤独で十字架に架けられ、断末魔の苦しみの中でほとんど絶望しながらも、 最終的には「父」である神なる主への信頼を失われなかったこと:マタイ27:43参照。 そのイエスは「主」となって、今も、わたしたちと共にいる。 この詩編で「主よ」と祈るとき、わたしたちはこの主イエスに向かって祈る。 これがユダヤ教徒としてではなく、キリスト教徒としての詩編の祈り。 この詩編は、つぎの詩編4と共に読めば、その意味がいっそう明らかになる。
 時課典礼では、第1週日曜日読書課の第3詩編。
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