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詩編4 Invocantem |
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わたしが呼び求めれば |
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1指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。
2わたしが呼び求めれば、わたしに答えてください。
わたしの正義の神よ。
追い詰められたとき、わたしを広くしてくださった。
わたしを憐れみ、わたしの祈りを聞いてください。
3名士たちよ、どこまでわたしの栄光に泥を塗り、
空しいものを愛し、嘘を求めるのか。
4知れ、主はご自分の信徒を別にして優遇してくださった。
わたしが主に呼び求めれば、聞いてくださると。
5恐れおののけ、罪を犯してはならない。
寝床にあって自らを省み、口を閉ざせ。。
6正義の献げ物をささげ、主に信頼せよ。
7多くの者が言っています。
「誰がわれわれに幸いを見るようにしてくれるのか。
あなたの顔の光はわれわれを通り越して逃げてしまった」と。
8主よ、あなたはわたしの心の中に喜びを与えてくださった。
それは彼らの小麦と新しいぶどう酒の豊作のときに勝る喜びでした。
9平和の中に、皆と共にわたしは身を横たえ、眠ります。
まことに、わたしが平穏に暮らせるのは、
主よ、ただあなたおひとりによるのです
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セラ
セラ
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この詩編を学ぶ意義
時課典礼で毎週最初に、つまり土曜日の夕、寝る前に唱える祈りが詩編4。
しかし、これはなかなかの難物。
はじめに出る「わたしの正義の神よ」という、神への呼びかけから、躓く。
この「わたしの正義」とは何なのか。
このほか、幾つも理解し難い用語や論旨がある。
註解書を見てみると、案の定いろいろな解釈があって、ますますまごついてしまう。
どのようにこの詩編を唱えればいいのか、疑念はつのる。
この詩編は詩編3との関連が密接である。すでに詩編3を読んだので、その関連でこの詩編4を読んでみる。
そうすると、かなり疑問が解け、問題が絞られてくる。それだけでなく、見えなかったものが見えてきて、この詩編の内容の深さに驚かされるかもしれない。
詩編の文学的特徴と内容
まず詩編3と共通する用語を確かめておこう。
「呼び求める」と「答える」は詩4:2と詩3:5にある。
「わたしの栄光」は詩4:3と詩3:4にある。
詩4:5の「寝床」と、9の「眠る」は、詩3:6に出る。
詩4:7の「多くの者」は、詩3:3に出る。
このように詩4は詩3との関連が濃い。
他方、詩4では、「わたしの正義」(2)、「正義(の献げ物)」(6)と正義が繰り返されるが、この用語は詩3にはない。
それに対して、詩3では「救い」(3、9、動詞で8)が出る。
表現法として共通するのは、多くの者の言葉の引用が詩4:7と3:3に出る。
相違するのは詩3ではその全体で詩編作者が神に呼びかけているのに対して、詩4では神に呼びかける(4:2、7−9)と共に、人々にも問いかけている(4:3−6)。
これも理解に苦しむ。
この詩編作者は誰に何を言おうとしているのだろうか。
さらにまた、この4:3−6に出る相手と、4:7に出る「多くの者」が同一なのか、別人なのかという問題もある。
また主人公が3者であるということで、詩4は詩3と共通している。
祈る詩編作者個人、その多くの敵たち、それに神の3者。詩編作者は、多くの敵によって虐められているが、神を盾として守られて信頼している。
実際に、「信頼する」という動詞が4:6に出る。ここに詩編3と4の頂点があるのではないかと思う。
したがって、詩編3と4の主題は、神への信頼であり、祈る人が個人であるから、文学類型としては、個人の信頼の詩編と言えよう。
文学的構造は、神に呼びかける2節、それに7−9節と、人々に問いかける3−6節に分けることができる。
この人々への問いかけを中心として、前後に神への祈りがある。
前の祈りは、過去の救いの体験に基いて、神に信頼を込めて願いを表明する。
後の祈りでは、相手の言葉を引用したあと、その反論として過去の救いの体験を述べ、これに基いて願いが必ず叶えられる確信を表明する。
このように願いから確信の表明となっている。
それはまた苦悩の中にありながらも、「心の中に」大きな喜びをもって(8節)、「平和の中に」眠れるようになっている(9節)。
その叶えられる願いとして自分だけでなく、迫害する隣人たちも含めて「皆と共に」安らかに眠れるようになることが言われる。
しかも、信頼して祈る詩編作者にとって、それは単なる未来のことではなく、今寝床に就こうとするときにすでに実現している。
神に信頼するとは、そういうことまで意味しているとは。この詩編作者の心を理解するために、3−6節の解釈が鍵ではないかと思う。
まずここで詩編作者が3−6節で相手としている人々と、7節でその言葉が引用される人々は別の人々ではないかという解釈が広く見られる。
その理由は、3−6節に出る相手は明らかに詩編作者の敵たちであるのに、
7節で出る「多くの者」は、ここに引用される言葉の内容からは、必ずしも詩編作者に敵対するものではなく、むしろ友人と思われるからである。
確かに、詩編4だけを読むと、そう言えるかもしれない。
しかし、詩編3との関連で読むと、詩4:7の「多くの者」は、詩3:2−3の「多くの者」のことで、この両箇所の引用はこの同じ敵たちの発言として解釈すべきではないのか。
この詩4:7の「多くの者」は詩編作者の敵たちということになれば、詩4:3−6節の相手も同じではないのか。このように詩編4を考えて、読んでみる。
<解説:釈義の要点>
2節
ここで詩編作者は、2人称単数で直接に神に呼びかけ、願いを表明する。
まず「わたしに答えてください」と、つぎに「わたしを憐れみ、わたしの祈りを聞いてください」という。この祈りとは何のことだろうか。
詩4では、この節のあと、神への願いは表明されてはいない。
詩3も含めた文脈を見れば、詩3:8に、「わたしの神よ、わたしを救ってください」とあるように、迫害からの救いであろう。しかし、それだけではなさそう。
「わたしを憐れみ」: その意味については、「情け」(ラハミム)、「慈しみ」(ヘセド)と比較しながら検討したい。詩51:3と詩103:8の解説参照。
願いの表明の間に、「わたしの正義の神よ」という名詞文と「・・・広くしてくださった」という動詞文がある。
この動詞文では、動詞は過去形で、過去の救いの体験をいう。この過去の救いの体験が、今、信頼と願いの根拠となっている。
これは、信頼を表明するところで、繰り返される(4a、8)。
ここに過去を忘れず記憶することの重要性が示唆されている。ただし、その記憶もノスタルジーとしてではなく、今の困難を乗り越える力となっている。
「わたしの正義」: ここで「正義の(神)」ではなく、「わたしの正義(の神)」となっている。
このような表現は聖書の中でここだけで出る(ハパクスという)。通常の「正義」だけなら、「正義の神」ということで理解できる。
しかし、「わたしの正義の神」とはどういうことだろうか。
通常「正義」(ツェデク)は、「(正しい)法」(ミシュパート)などと共に、聖書の基礎用語で、
それは神がこの物理界と倫理界を包含する全被造界に実現しようとされている秩序というべきものである。詩編99:4の解説参照。
「わたしの正義」とはその秩序を前提し、その中で「わたしに」実現すべき状態のことであろう。
もし詩編作者が何の罪もないのに苦しめられているなら、それは「わたしにとって」あるべき状態ではない。
したがって、あるべき状態にしてくれるはずの神を、「わたしの正義の神」と言っているのであろう。
そういう意味で、「わたしの弁護者である神」ということもできる。もっと深い意味が秘められているかもしれないが、さしあたりこう理解して読み進める。
「広くし」: これは直訳。狭いところに「追い詰められる」状態として苦悩が表現される。日本語でも「窮地」と言われるように、この苦悩の表現は東西共通である。
それを前提に「広くし」は、その苦悩からの救いをいうと解説される。
そういう意味もあろうが、それだけではなさそうだから、ここではこの珍しい表現を直訳のまま残しておく。
3−6節
ここで詩編作者は、語りかける相手を神から人々に移す。
「名士たち」: ヘブライ語は、直訳すれば「人の子ら」だが、この表現のためのヘブライ語には、
ベネー・イシュ( )
とベネー・アダム( )
とベネー・エノシュ( )の3通りがあり、ここではその最初のもの。
詩49:3と62:10で、このベネー・イシュは、ベネー・アダムと並んで出ており、後者が一般の人間をいうのに対して、
前者はひとかどの人間という意味があると見て、
「お偉方」、「顔ききたち」、「有力者たち」、「紳士たち」、「名士たち」と訳せよう。
これは詩編作者を取り巻いて迫害する「多くの者」(7)のことでもあろう。
この3−6節は、まず3節で修辞的質問を投げかけ、つづいて4−6節で7つの動詞の命令を積み重ねる。
3節
「わたしの栄光」: ここでこの「栄光」が、名誉とか誇りを意味しているなら、
詩編作者は相手に対して「わたしの栄光に泥を塗り」と言って、自分が受けた名誉毀損、人権侵害を非難していることになる。
そのように解釈される場合が多い。こうして、ここでその詩編作者は正義の神の前で訴えているのだとする。
さらにこのような詩編の背後に(「生活の座」として、詩編入門参照)、
一般の世俗の法廷と並んで、エルサレム神殿には様々な人権侵害を受けた貧しい人々の訴えを聞いて、
判決を言い渡す宗教裁判所のような制度があったのではないかとさえ、推論する学説がある。
確かに神殿は、「逃れの場」として考えられていたが、そこに宗教的法廷が社会的制度としてあったとは言えない。それには根拠がない(ツェンガー論文参照)。
まずここで「わたしの栄光」とは、詩編作者の名誉とか誇りのことではない。
それは、詩編作者にとって最も大事な主なる神そのものを意味する。詩3:4の「わたしの栄光」も同じ。
それでは、そのわたしの栄光に「泥を塗る」、つまり「侮辱する」とはどういうことだろうか。
具体的には、彼らが「彼には神による救いはない」(詩3:3)などと言っていることを指している。
このようにここで詩編作者は、自分が迫害されていることよりも、むしろ神が侮辱されていることに心を痛めている。
この「わたしの栄光」が神そのものを意味していることは、ここで対比されている「空しいもの」と「嘘」によっていっそう明らかとなる。
これは具体的に偶像を意味する(エレミヤ2:11参照)。実際に偶像は実体のないものであり、これに信頼していると、馬鹿を見ることになる。ひどい目にあう。
こういう意味で、「空しいもの」、「嘘」とは、偶像のこと。
したがって、ここで詩編作者は相手に対して、どこまで真の神を侮辱して、偶像を愛して、求め続けるのかと質問し、反省を促している。
彼らが反省しなければ、詩編作者が最も大事にする神は侮辱されたままであろう。
それゆえ、詩編作者は自分の救いのことよりも、神のことを考え、この神のことゆえに敵たちの回心と救いを願うまでになっている。
神への侮辱に耐えられず、ここでその隣人に対する呼びかけが口を衝いて出たのであろう。
4−6節
ここには7つの動詞の命令形が並ぶ: 「知れ」、「恐れおののけ」、「罪を犯してならない」、「自らを省みよ」、「口を閉ざせ」、「ささげ」、「信頼せよ」。
「知れ」: この奇異な命令は全聖書では30回あまりあり、
詩編では2人称複数でここと46:11、100:3だけで出る(単数で139:23)。
「知る」行為は、知的活動を重視するギリシア・ラテンおよび西欧的人間観とは異なるセム語族の人間観を背景として理解すれば、
理性のみならず意志も感情も含めた全人間的関わりを意味する。たとえば、「わたしは男を知りません」(ルカ1:34)の場合を参照。
またホセア書や申命記にある神を「知らない」は、責任が問われる無知を意味している。
それゆえ、「知る」は「認める」こと、認めて認めたことに従って生きることを意味する。
「知れ」のあと、4節はその「知れ」の内容をいう。
それは主なる神が過去に実現してくださった救いの御業を述べ、それに基いての祈りが聞き届けられるとの確信である。
「別にして優遇する」(動詞 plh)は、「別にする」、「別扱いする」。それはここでは優遇の意味が込められている。
ここで「ご自分に」は、「ご自分のために別にする」という意味なのか、「ご自分の信徒」という意味なのか、あいまいである。
他方、この動詞をpl' と読んで、「驚くべき御業を行なわれた」の意味に取る説もある。
ヘブライ語本文の子音を変更するには慎重でなければならないので、ここではこの説は採用しない。
「信徒」: ヘブライ語では「ハシード」。これは神との契約に忠実に生きる信仰者のこと。
この用語は「信徒」というような意味で広く用いられているのではないかと考え、「信徒」と訳してみる。
その忠実さは試練があってはじめて実証されるものであり、その試練からの救いも同じ。
この忠実な者に救いがあることは実証澄みだとして、今、自分の願いが必ず叶えられるという固い確信を表明する。
「恐れおののけ」: 主なる神への不信仰がどのような結果になるのかに恐れを抱くようにということとの解釈もあるが、ここではそうではなさそう。
そのヘブライ語動詞( )は、神顕現を前にしての人間の恐れ入るさまを言う。
「罪を犯してならない」: 神に背くなということ。
「寝床にあって自らを省み」: 寝床は反省の場所であり時である。翌朝すっきりした良心をもって目覚めることができるように反省すること。
「口を閉ざせ」: 詩編3:3や詩4:7にあるような言葉を吐いてはならないということ。
「正義の献げ物をささげ」: 翌朝のこと。「正義の献げ物をささげる」とは「正義を献げ物として捧げる」ということ。
それゆえ、主なる神の意志にしたがって発言し、行動するということ。実際に社会生活において、その正義を実行すること。
つまり、社会的弱者を圧迫するどころか、救助すること。それは自己の利益を後回しにするので、痛みが伴うかもしれないが、それこそ動物のいけにえに勝る。
「主に信頼せよ」: ここに相手に対する詩編作者の呼びかけの頂点がある。自分と同じように、主なる神のみを拠り所として生きるようになること。
7−9節
この7−9節では、また神に語りかける。まず「多くの者」が言っていることばを引用し、彼らの考えを質問として表現する(7)。
それに対して、詩編作者は過去の救いの体験を確認し(8)、それに基いて、平穏に暮らせることの確信を表明する。
7節
「多くの者」は詩3:2−3では、「(彼には)神による救いはない」と言っている。どうしてそういうことを言うのか。
詩4:7では、彼らは「誰がわれわれに幸いを見るようにしてくれるのか」と言っているとして、その理由を言おうとしている。
神も含めて幸いを与えてくれるものがほかにあるのだろうかということ。つまり、幸いを得るために自分自身以外に頼るものはないと自負し、自惚れている。
したがって、自分たちの考える幸いが真の幸いかどうかにも問題があるが、とにかく自分の幸いのためには何でもする人のこと。
そのためには正義を踏みにじるは、モラルは無視するは、他人には迷惑をかけるは、お構いなし。
このように自分自身を神としている人のこと。これは自己の偶像化にほかならない(前掲の5節にある「空しいもの」、「嘘」参照)。
「顔の光」: 主なる神の微笑み、好意のこと。顔とか目の「光」とあると、いつも喜びとするとか、喜ぶことを意味する。
実際に、微笑んでいる人の顔は光っている。「われわれを通り越して逃げてしまった」: この「逃げる」と読んだヘブライ語は議論されているが、
「逃げる」と読むのが最も妥当している。このように期待した「幸い」が得られなかったことを言う。
この世の人生には悲劇はつきもので、神などいないのではないかと思わせる惨状もある。
その中で自力で立ち上がろうとする殊勝な人もいる。殊勝な人だけに、自己を偶像化する罠もある。
8節
7節の引用に対する反論で、詩編作者は主なる神が与えてくださった喜びの過去の体験を思い出して語る。
この喜びの大きさを豊作のときの喜びと比較して、そのときの喜びよりも大きいものであったという。
「彼らの」: 多くの者の豊作のときの喜びのこと。喜びの大きいことを収穫のときの喜びと比較する例は、聖書では珍しくない(イザヤ9:2など)。
過去の救いの体験は、2節では「広くして(いただいた)」こと、5節では神によって優遇していただいたことであったが、この8節では、大きな喜びを与えられたことを言う。
「心の中に」:その喜びは内なるものであった。つまり、見た目には惨めで、社会的にうだつがあがらないように見えるかもしれないが、
心の中には大きな喜びが与えられたと言う。
9節
締めくくりは、神に「信頼する」(6節)者にあるのは、「喜び」(8節)に加えて、「平和」であることをいう(9節)。
これは詩3と4の締めくくりであろう。「平穏に」は直訳すれば、「信頼して」。
「眠る」は、現在の日々の眠りと共に永遠の眠りとも取れる。
ここでヘブライ語の副詞ヤフダウ( )が何を意味するかという問題がある。
本来の意味では「彼らと共に」の意味だが、ここの文脈では合わないということで「ただちに」とか訳されることがある。
しかし、本来の意味で読んでみると、詩編作者は自分の敵たちも神を信頼するようになり、
その皆と共に平和の中に眠れるようになることを確信して、それを表明していることになる。
それは未来のことだが、これを確信する詩編作者にとって、すでに実現していることでもある。
このように神に絶大な信頼を寄せて、今夜も安らかな眠りに就くという。
「ただあなただけ」: つまり、主なる神ただひとりだけが、迫害される孤独な詩編作者のみならず、
自分を迫害する者たちも同じように神を信じる者になって、平和の中に共に眠れるようにしてくださることができる。
ヘブライ語本文は能動形だが、日本語では受動形にすればその意味が出せると思う。
まとめ
この個人の信頼の詩編で、作者は何を祈っているのであろうか。まず迫害者から受ける苦悩からの解放を祈っている(詩3:8aα参照)が、
それよりも自分の神が侮辱されていることに心を痛め、この苦悩からの解放を祈っているのではないだろうか。
そのために敵たちも真の神を認めて、反省し、正義を尊重し、神に信頼する者になるように祈っている。
この祈りを、彼らに対する質問と呼びかけの形式で表現している。このように、この詩編作者は、迫害される中で、迫害者たちの幸いを願うまでになっている。
これは神への信仰と信頼があってはじめて可能なことではないだろうか。
また実際に、この迫害者たちが神に信頼して生きるようになるとき、迫害はなくなり、詩編作者の苦悩の原因は最終的に取り除かれる。
この詩編作者は、詩3:8で、過去の救いの体験をいうとき、「わたしのすべての仇の顎を打ち、悪人たちの牙を砕いてくださいました」と言っているが、
この「顎」と「牙」はその侮辱的な発言ないしその発言器官を言っていて、
その敵たちそのものではなく、それにもまして目の前の敵たちに対して、神に正当な処罰や復讐を願ったりはしない。
むしろ、自分の民のために神の祝福を祈っている。この詩3の結びにある祝福の祈りの意味が、詩編4で明らかになる。
このように神に信頼するとは、自分の苦悩からの解放だけでなく、敵の幸を祈ることまで意味しているということになる。
それゆえ、このように神に信頼している信仰者は、敵に命を取られるときでさえ敵を恨むことなく、
その敵たちと共に安らかに眠る日が来ることを希望し、その神への絶大なる信頼のゆえに、今日この日に安らかに眠ることができる。
それを十字架上で死ぬイエスに、またほかの聖殉教者に見ることができるのではないだろうか。
この詩編の作成時期は、ペルシア支配下のユダヤで社会秩序が乱れた前5世紀が考えられる。当時の社会状況は預言者マラキの預言やヨブ記に窺うことができる。
わたしたちの祈りとして
わたしたちは世の中の不正に苦しんでいるとき、あるいは苦しんでいる人のために働くとき、ただその苦しみからの救いのみを考え、不正を訴え、糾弾するのではないだろうか。
そのとき、この苦しみを来たしている人々の幸など眼中になく、まして神が侮辱されていることまで痛みとして感じてはいないのではないだろうか。
それでは苦しむ隣人にいくら思いやりの心があっても、単なるヒューマニズムに過ぎないし、世の中の不正は根本的には解決されない。
この詩編を祈りながら、わたしたちのヒーマニズムがこれでいいのか、反省したい。
時課典礼で詩編4を唱えるとき、「主よ」と主イエスに呼びかけながら、この詩編作者と同じような心になるように努めたい。
嫌いな隣人たちも含めて、万人の幸を願いながら安らかに床に就けるようになりたい。
参考文献
E.Zenger, "Gib mir Antwort,Gott meiner Gerechtigkeit" (Ps 4,2), Zur Theologie des 4.Psalms, in :
Die alttestamentliche Botschaft als Wegweisung, Fests für H.Reinelt, hrgn von J.Zmijewski, Stuttgart, 1990, 377-403
D.Scaiola, Una cosa ha detto Dio, due ne ho udite, Fenomeni di composizione appaiata nel salterio
Masoretico, Urbanian University Press, Roma, 2002:294-305
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