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詩編6 Domine, ne in furore...miserere |
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主よ、怒って...憐れんで |
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1指揮者によって。伴奏着き。第八調。賛歌。ダビデの詩。
2主よ、怒ってわたしを責めないでください。
憤ってわたしを懲らしめないでください。
3主よ、わたしを憐れんでください。まことにわたしは弱りきっています。
主よ、わたしを癒してください。まことにわたしの骨もわなないており、
4わたしの魂もなおわなないています。
あなた、主よ、いつまででしょうか。
5主よ、帰ってきてください。わたしの魂を助け出してください。
あなたの慈しみのゆえに、わたしを救い出してください。
6まことに死の国では、だれもあなたを記憶することはありません。
黄泉では、だれがあなたに感謝するでしょうか。
7わたしは嘆きの中で疲れ果てました。
夜毎にわたしは褥(しとね)を濡らし、
夜具は涙でずぶ濡れです。
8わたしの目はいらついて弱りはて、
わたしのすべての敵のために老いぼれてしまいました。
9悪事を働くすべての者は、わたしを離れ去れ。
まことに主はわたしの泣き声を聞いてくださった。
10主はわたしの嘆願を聞いてくださった。
主はわたしの祈りを取り上げてくださった。
11わたしのすべての敵たちは、恥をかいて、なおわなないて、
瞬く間に恥をかいて帰っていきますように。
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この詩編を学ぶ意義
詩編6は、罪を痛悔する祈りとして用いられてきた。
いわゆる7つの痛悔の詩編(septem psalmi poenitentiales)の一つ。
その7つは、詩編6、詩編32(31)、詩編38(37)、詩編51(50)、詩編102(101)、詩編130(129)、詩編143(142)。
カトリック教会では、特にこの痛悔の詩編を四旬節や聖年に唱える習慣がある。
その中で、「ミゼレレ」(憐れんでください)で始まる詩編51(50)や、「デ・プロフンディス」(「深い淵より」)で始まる詩編130(129)が最も親しまれてきた。
その中で、あまり知られていない詩編6を読んでみることとする。
実際に、この詩編はその当初からイスラエルの宗教伝承の中で痛悔の詩編として作成され、用いられていたのだろうか。
ミゼレレの場合は、そう言えると思うが、この詩編はそうではなさそうである。
それでは、この詩編は何の詩編だろうか。一般に、この詩編は死の危険に落とし込められた病人の祈りではないかとされる(最近ではL.Alonso Schökel,G.Ravasiなど)。
事実、「わたしを癒してください」(3節)とある。このようにこの詩編は病人の祈りだが、罪人とは魂の病人のことであるから、痛悔の祈りとして教会によって用いられてきた。
確かに罪人とは病人だということは、聖書の人間観でもあるが、この詩編は全体を見ると、果たして病人の祈りだろうかと疑われる。
旧約聖書における病人の祈りをすべて研究したK・セイボルトによると、確かに病人の祈りと言えるのは詩編38、41、88、シリア語の偽典詩編Vの4つであり、
おそらく病気と関係があるのは詩編30、39、69、102、103、イザヤ38:9−20であり、それが明確ではないのが詩編6、13、32、51、91だという。
したがって、詩編6は病人の祈りではなさそうだということになる。
そうなら、この詩編は何の祈りだろうか。この問題に深く取り組んだのが、N・ローフィンクで、彼によると隣人の暴力によって死ぬほど悩まされている人の祈りではないかという。
このようにこの詩編は痛悔の詩編として用いるのは難しいかに見える。しかし、イエスが受難のためにエルサレムに来られたときに御父に向かって言われた祈りの中に、
「今、わたしの心は騒いでいる。なんと言おうか。父よ、わたしをこの時から救ってください」(ヨハネ12:27)とあるが、これは詩編6を念頭に唱えられたのではないかと言う。「わたしの心は騒いでいる」は、詩6:4の「わたしの魂もなおわなないています」、「父よ、わたしをこの時から救ってください」は、詩6:5の「あなたの慈しみのゆえに、わたしを救い出してください」にあたる(いずれも新約聖書への示唆はギリシア語訳旧約聖書による)。
もしそうなら、この詩編6は、イエスの受難を瞑想するために、特に四旬節に受難を瞑想しながら痛悔の詩編として唱えるためにきわめてふさわしいものということになる。
ここではローフィンク論文にしたがってこの詩編を読んでみる。
その文学的構造の分析はこの論文によるが、こうしてこの詩編に読み取れるメッセージには、ほかの解釈があるのではないかと思う。
文学的構造
この詩編が含み持つ内面の動きを理解するために、その全体の文学的構造に注目する必要がある。
人間が心の中で見て感じていることが深くなれば深くなるほど、これを表現する人間の言語に限界が痛感される。
にもかかわらずこれを表現しようとする。そのときに、日常語ではなく、日常語に加工を加えて表現しようとする。これを文学語という。
これは、言語がもつあらゆる可能性を開発しようとして作られる。
こうしていろいろな文学的手法が産み出されてきた。
そういうわけで、詩編6の文学的手法にまず注意深く見てみるのだが、それは単純ではなく、複眼的に見る必要がある。
まずこの詩編を見れば、その並行法(Parallelismus membrorum、対句法ともいう)が目につく。
これは、句を前半と後半にわけて、同じことを異なる用語で繰り返す手法のことである。
たとえば詩6:2では、「主よ」(A)は前半だけにあるが、「怒って」(B)は「憤って」(B')と、「責めないで」(C)は「懲らしめないで」(C')で繰返される。
記号で表せば、ABC/B'C'となる。変形もあるが、これが並行法の基本である。この場合、言語は変わっても、論旨は止まり、濃厚にされる。
さて、詩編6にはこのような並行法が各節に1つづつ、合計10ある。
ただし、7節の「わたしは嘆きの中で疲れ果てました」(7aα)は、並行法の列からはみ出している。丁度この句の前に5つの並行法、この句の後に5つの並行法がある。
それゆえ、その7節の句は全体の中心にあって、短いが、鋭く窮状を凝縮して言っている。
並行法を用いると落ちついた語調になるのだが、詩6の内面の動きは単調ではない。
まず8節と9節の間に変換点があり、2−8節と9−11節に分けられる。
この前半は嘆願であるのに対し、後半は確信の表明であり、前半で目が向けられているのが詩編作者の窮状であるのに対し、
後半では敵たちのことであり、前半で呼びかける先は神であるのに対して、後半では敵たちである。
この敵の主題は8節で突然現れ、後半の主題となる。
詩6:2−8節をさらに詳しく見ると、2節の主なる神への呼びかけは、怒りと憤り、責めと懲らしめという主題で始めるが、この主題はこの後では現れない。
3節aの嘆願は、別の動詞で3節bで繰返されるだけでなく、5節では3回も繰返されている。
しかも、「まことに」に続いて、その嘆願の理由(=「なぜなら」)として言われる窮状は、3節aでは「弱りきっています」だけであるが、
3節bでは4節も含めてその3倍になっており、6節ではこの節も含めて8節まで続く。
これを目安にすれば、詩6:2−8は、2−3a、3b−4、5−8と分けることができる。
このように主なる神への嘆願が自分の窮状の訴えと共にますます切迫していくように書かれている。
この最後の8節で「すべての」敵たちに言及して結ぶ。
詩6:9−11節では、信頼の表明であるが、まず敵たちに「離れ去れ」と語りかける。
つづいて、「まことに」のあと、「主」を主語としてその理由が言われる。
その際、9節aの「悪事を働くすべての者」は、8節bの敵たちのことに呼応し、9節b、10節aの「泣き声」、
「嘆願」は7−8節の訴えに呼応し、10b−11節の「祈り」は、3−5の嘆願と訴えに呼応して言われている。
このように9−11節は、3−8節を主題的に逆に遡る手法が採用されている。これを chiastic という。
この最後の11節で敵のかく恥が言われるが、これが詩編作者を繋ぎとめていた拘束状態の終わりを意味する。
このように詩6は、その全体をとおして文学的に見事に構成されており、その躍動する内容を示唆している。
<解説:釈義の要点>
2節
「怒り」/「憤り」: 神の怒り、神の憤りは、神の意志に逆らう人間に対する神の反応として、つまり悪人に対する罰として、聖書の基礎用語のひとつ。
したがって、詩編作者はその罰の状態に置かれている。正確に言えば、詩編作者は自分の現状を神の怒りとして考えている。
「責める」/「懲らしめる」: 知恵文学用語であり、教育者の行為をいう。
箴3:11;5:12;10:17;15:5など、エレミヤ10:24。
したがって、ここで主なる神は審判者としてではなく、教育者として考えられている。
これが示唆しているのは、悪人が罰として受けるはずの苦悩を神の教育として捉えている。
それゆえ、この詩編作者は悪人としての自覚はなく、むしろ何の罪も犯していないのに苦しい目にあっている。
このような神の教育として苦しみを説明しようするのは、ヨブ記32−37章のヨブに対するエリフの説教にあるが、
ここで詩編作者はヨブのように、理解し難い神の教育の闇に包まれていると言えよう。詩編作者は苦しみの教育的意味を説明としては知っているが、
実際にその苦しみを体験する中で、その重みに耐えかねて悲痛な叫びを上げている。
この詩編作者の苦しみは、詩編51のように、自分の犯した罪からくる良心の呵責ではないと思う。
それでは、それは病気だろうか。「癒す」という表現が3節にあるが、明らかに病気を指す用語はこれだけであるから、病気とも言えない。
むしろその苦しみは社会的に圧迫され、虐待され、不当な扱いを受けていることにあると見るほうがいい。
8節以下に出る敵たちは詩編作者の社会的圧迫者と取るのが、最も妥当している。
またそれは詩編5、詩編7とのこの詩編の文脈からも窺える。
「主よ」−「わたしに」: この詩編作者は熱心な信仰者で、神との対話で神に親しく呼びかけている。
親しいお方であるだけに、その神のなさりかたが謎めいている。「主よ」という呼びかけは5回繰返されるが、それも2−5節までで、7−8節には出ない。
9−11節で「主」が現れるが、呼びかけとしてではなく「主は」と主語として出る。
この詩編を読み進んでいくと、5節ではその主に「帰ってきてください」という。したがって、詩編作者はその神の不在に苦しんでいることがわかる。
さらに6節で神不在の黄泉の国が頭にちらつき、7−8節では「主」と「わたし」の意識に代わって、頭に浮かぶのは敵たちとなる。
ここに肉体的、社会的苦しみに加えて、孤独と神不在の苦しみの頂点がある。
3−4節
「憐れんでください」: 主なる神を憐れみの神として呼びかけている。
これは5節では「慈しみ」という表現で繰返される。「まことに」: 「なぜなら」の意。こうして自分の現状をいう。
「癒してください」: 健康の回復をいう。ここで実際の病気を考えて言っているのか、それとも比喩的に言っているのか。
この詩編全体をみると、後者らしい。「まことに」: ここで前の「まことに」にある「わたし」を「わたしの骨」と「わたしの魂」と自分の窮状を詳しく、また強調して言う。
「わたしの骨」は肉体のこと。「わたしの魂」は喉、喉の奥から出てくる息、こうして命を示唆。この両語で自分の全体をいう。全身全霊がわなないている。
「あなた、主よ」: ヘブライ語は「あなた、主」とあって、呼びかけであろう。この呼びかけだけで、文章はない。
それだけに切実さが伝わる。その前にあるヘブライ語の接続詞「ウェ」には「それなのに」の意味あいがあるとして訳出されることがある(左近)が、参考になろう。
「いつまででしょうか」: 嘆きの中で出る特徴的な表現
5節
ここで神への嘆願が、「帰ってきてください」、「助け出してください」、「救い出してください」と三重になって、詩編作者の切実さが強調されている。
まず前節の「いつまで・・・」に続いて、「帰ってきてください」という。今、その神は不在。
「あなたの慈しみのゆえに」: 自分が何か善行でも行なって、それに基いてということではなくて、ひとえに神の「慈しみのゆえに」という。
6節
「まことに」: 「なぜなら」の意を含み、その内容は8節まで続く。
「死の国」/「黄泉」: 「死の国」はヘブライ語では直訳すれば「死の中で」。つぎの「黄泉」(シェオル)が死人の行くところを意味しているので、
この「死」も場所的な意味で理解される。「あなたを記憶しない」/「感謝しない」: 古代人の考えで、人間が黄泉に行ってしまえば、
もう神を賛美することはできないということ。このように死にたくないという強い願望をいう。
生きて、神を賛美し、感謝し続けたいということ。この表現は、イザ38:18; 詩30:10; 88:11−13; 115:17参照。
7−8節
「わたしは嘆きの中で疲れ果てました」: この詩編の中心。前述の並行法から外れた位置にあり、前の5つの並行法と後の5つの並行法の中心にある。
この詩編作者の窮状を短く凝縮している。
「夜毎にわたしは褥を濡らし、夜具は涙でずぶ濡れです」: 「嘆きの中」と言ったこの嘆きを、「涙」とその量の大きさで描写している。
「夜毎に」: 文字どおりには「すべての夜の中で」。
ここではじめて「すべて」と言って全体的展望のもとに自分の窮状を訴え始める。詩4: 11とは対照的に、安らかな眠りはない。このように「疲れ果てる」のも当然。
「わたしの目」: 泣き明かした果てに「目」が見えなくことをいう。その目には光、つまり喜びはない。
神も見えない、見えるのは自分と自分を攻める「すべての宿敵たち」だけ。
「すべての夜に」、「すべての敵たち」に悩まされる自分だけになり、盾となって守ってくれるはずの神(詩3:4参照)はどこに行ってしまわれたのか。
このように社会的圧迫、身体的苦しみに加えて、神からも見放された孤独に呻吟する。この8節は詩編作者の苦悩の最奥を垣間見せている。
9−11節
問題の焦点は、2−8節の嘆願と9−11節の信頼の表明がいかに結びついているのか、つまり8節と9節の大転換に何があるのかということ。
まずその大転換がいかなるものかを確認しておこう。8節の「すべての宿敵たち」を9節で「悪事を働くすべての者」と言って、彼らに「離れ去れ」と言う。
また彼らは11節で「わたしのすべての敵」と言われて出る。
このようにまず「すべての敵たち」に対する詩編作者の関係は、逆転し、彼らは襲いかかるものから恥をかいて帰っていくものとなる。
そうすると、神に対する詩編作者の関係はどうなのであろうか。主なる神は詩編作者の側に立つ者として自覚されている。
9b−10節で「主は」と3回あって、それを確認している。
主なる神は、「あなた」と「わたし」というように対峙するものではなく、詩編作者と「共に」おられる。ここに詩6:4の「いつまで」という質問と、
6節の「帰ってきてください」の願いに応じた答えがあるということができる。
この大転換は、何を意味しているのであろうか。それにはいろいろな解釈があり得ると思う。
ローフィンクは、8節に始めて出る「敵たち」に注目する。こうしてここで始めて詩編作者は自分の現状を神の怒りとしてではなく、
問題が人間による人間の迫害であること、神は怒りの神ではなく、憐れみと慈しみをもって祈りを叶えてくださる神であることを知ったのだという。
そうだろうか。詩編作者は始めから迫害の苦しみを神の怒りとして考え、この怒りの謎に呻吟しているのではないのか。
いずれにせよ、詩編作者には苦悩に追い詰められたその果てで悟らされたものがあったようだが、その悟らせたものは何だったのか。
この詩編作者のようにとことん苦しんだ経験のない者には謎。ただ苦しみの奥底で、その暗闇の中で、またその中でしか見えず、聞こえないものがあるようだ。
他の嘆きの詩編にそのヒントがあるかもしれない(たとえば詩編42−43)。
結果として、このような苦悩をとおしてしか、「主なる神」とはどういうおかたか、
つまり苦悩の奥底でも「共に」いてくださり、「憐れみ深く」、「慈しみに豊かな」神であることがわからないということを、この詩編は言っているようである。
神は怒りをとおして怒りの神ではなく、人間の想定をはるかに超えて憐れみの神であることを教えられるのだということであろうか。
まとめ
ある黙想指導司祭の話をここに掲げる。ある人がある道先案内と共に雪山に登ったときのこと、
頂上について歩いてきた道をふり返ると二人の足跡が目の前から遠くまでついていた。
ところが、ある険しいところで、ただ一人の足跡になっていた。
ある人が道先案内に、「どうしてあそこはただ一人の足跡しかないのか」と尋ねると、この道先案内は「それは、あなたが疲れ切っていたので、
わたしがおんぶしてやったところです」と言ったという。
この話は詩編6を読むために、ひとつのヒントになるかもしれない。苦しみが深まれば深まるほど、わたしたちには神が見えなくなることがある。
しかし、そのときでも神はわたし自身よりもわたしに近く、わたしの中にいてくださっている。神の現存は、神の不在の意識よりももっと深いところにある。
わたしたちが苦しんでいるとき、神も共に苦しんでいてくださる。
この詩編作者は、目の覆いが除かれて主なる神とはいかなるお方であるかが見えた(9−11節)ところからこの詩編を詠んでいるのではないだろうか。
わたしたちの祈りとして
この詩編は9節の「悪事を働くすべての者よ、わたしを離れ去れ」は、マタイ7:23とルカ13:27で引用される。
それゆえ、福音記者にとってもこの詩編はなじみ深いものであったことがわかる。それにヨハネ12:20−35でもこの詩編が背後にあるらしい。
特にヨハ12:27の背後に詩6:4があるらしい。
福音書によると、イエスもこの詩編作者と同じような経験をする中で、同じような心をもって祈られたということで、この詩編を唱えながら、イエスのこともあわせて瞑想したい。
十字架上の断末魔の暗闇の中で人間としてのイエスには一瞬でも何かが見えたのではないかと思われるが、それは何であったのか。
福音書によるこの詩編の受容は、機会があれば詳しく検討したいと思うが、
これを踏まえた上で、この詩編は教会の習慣にしたがって罪を痛悔するための祈りとしても用いることができる。
大きな罪を犯した人は、反省するとき神から遠く離れてしまった自己にがっかりするかもしれない。自己の中に神の不在を意識するかもしれない。
あるいは神など意識から排除して、むしろ神の不在を望もうとするかもしれない。しかし、神はその奥で現存し、「共に」いてくださっている。
情けと慈しみと忍耐と優しさをもって現存しておられる。
それがわかるのも罪のおかげとは。生きている限り、絶望はない。
またこの詩編は重病など、さまざまな人生の悲劇の中で、神がわからなくなった人も唱えることができる。
人間がどんなに苦しい目にあっても、この苦しみの中で神などないと叫ぼうとも、神だけは「共に」いてくださる。
時課典礼では、この詩編6は第1週の月曜日の読書課の第1詩編として唱えられる。
参考文献
左近淑著『詩篇研究』、新教出版社、1971年、137−153頁(多くの解釈の紹介がある)
K.Seybold, Das Gebet des Kranken im Alten Testament, Untersuchungen zur Krankheits- und Heilungspsalmen, Stuttgart Berlin Köln Mainz, 1973
N.Lohfink, Was wird anders bei kanonischer Shriftauslegung?Beobachtungen am Beispiel von Ps 6,
JBTh 3(1988) 29-53 : Id., Studien zur biblischen Theologie, SBAAT 16 Stuttgart, 1993, 263-293
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