TOP>
詩編136(135) 解説
BACK
詩編136(135) Confitemini Domino ... Confitemini
主に感謝せよ...感謝せよ
まことに善である主に感謝せよ。
神の中の神に感謝せよ
主の中の主に感謝せよ。

ただひとり大いなる驚くべき御業を行った方に
英知をもって天を造った方に 
大地を水の上に広げた方に

大きな光を造った方に 
昼をつかさどる太陽を[造った方に] 
夜をつかさどる月(と星)を[造った方に] 

10エジプトの初子を討った方に 
11イスラエルをそこから導き出した方に 
12力強い手と伸ばした腕をもって[導き出した方に] 

13葦の海を2つに切り裂いた方に 
14イスラエルにその中を通らせた方に 
15ファラオとその軍勢を葦の海に投げ込んだ方に

16ご自分の民に荒れ野を行かせた方に

17強大な王たちを討った方に
18力ある王たちを死滅させた方に 
19アモリ人の王シホンを[死滅させた方に] 
20バシャンの王オグを[死滅させた方に] 
21彼らの土地を遺産として与えた方に
22ご自分の僕イスラエルに遺産として[与えた方に] 

23低くされたわたしたちを覚えてくださった方に 
24わたしたちの敵からわたしたちを奪い返してくださった方に

25すべて肉なるものに糧を与えてくださる方に

26天にいます神に感謝せよ。
まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。

まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。

まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。

まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。

まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。

まことにその慈しみはとこしえに。

まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。

まことにその慈しみはとこしえに。
まことにその慈しみはとこしえに。

まことにその慈しみはとこしえに。

まことにその慈しみはとこしえに。
はじめに
 集団の嘆願の詩編44を学んだ機会に、集団の賛美の詩編136を取り上げよう。 これは信仰共同体として祈るとは、いかなることか、よく示している詩編だと思う。 それに賛美の詩編としても典型的なものである。 わたしはルイス・アロンソ・シェケルのもとで詩編を学んだとき、この詩編から学び始めた。 そういうこともあって詩編の講義では、この詩編をもって始めることとしている。 単調だが、その単調さが神の絶えざる慈しみの表現となっている見事な詩編である。 感謝という動詞が出るが、これは賛美と同義と言ってよい。 いずれも神がなさった御業(みわざ)、働きを前提として、それに驚きながら我を忘れて見入ってしまって心の中から出てくる感動を意味する。 嘆願や祈願には「我」から出てくる祈りだが、感謝、賛美はその「我」を忘れて神の御業に見入ってしまうところがすばらしく、聖書の詩編の特徴ある祈りである。

1)本文の問題点
 本文批判上、ほとんど問題がない詩編。
  4節:「大いなる」:ギリシア語訳の写本に欠けているものがある。
    「ただひとり」:ヘブライ語写本に欠けているものがある。
  9節:幾つかの写本で、
 15節:「その軍勢を葦の海に」(?)

2)文学様式
 典型的な「賛美の詩編」。その特徴。導入部と本体と結びから成っている。    
   導入部: 感謝し、賛美するようにとの呼びかけ(詩29の1−2、33の1−3、135の1−3参照、詩136では1−3節)。
   本体: 賛美の動機、根拠をいう。その列挙または展開で、「なぜなら」、「まことに」(kî)で導入される(詩33の4、135の4と5参照、詩136では各節の後半)。
   結び: 始めの感謝、賛美への呼びかけを繰り返して結ぶ(詩135の19−21参照、詩136では26節)。

 この詩編は連願、連祷(litany)形式の賛美: この賛美は、連願、連祷の形式をとる。 つまり同じ語句の反復がある。一連の個々の文節の中に、同じ語句の繰り返しがある。 個々の文節で言われることに対して、同じ語句の反復をもって答えるようになっている。 この反復の形式によって、共通して恒常的にある感情、感動を表現し、また醸成する。 この共通してある感情、感動が、これに参加している人々を結びつける。こうして神の民が形成される。 その感情、感動があることは、4節で「驚くべき御業」、しかも「大いなる」その御業と言っていることで頷ける。 この賛美し、感謝するようになる感情、感動は信仰を前提として、その信仰する心の目で見えたものによる。 このようにこの感情、感動は信仰を前提とし、信仰から湧き出るものであるから、この賛美は強制されたものでもなければ、不自然なものでもなく、自発的なものであるはずである。 それゆえ、この賛美は「心を尽くして」、つまり「全心全霊を込めて」(詩9:2;86:12;111:1;138:1)なされるはずである。 それは「感謝のいけにえ」(詩107:22;116:17;102:2)とさえ言える。このようなまごころから出る賛美がなければ、 私たちの典礼は単なる人間的な行事になってしまう(イザヤ19;13)。

3)解説:解釈上の要点
 ここでは特にその文学的特徴に注目し、それによって表現される意味内容を読み取ろうとした、 Luis.Alonso Schökel("Psalmus 136(135)", VD 45, 1967, 129-138)の解釈を参考にする。

 導入部と結びで、この詩編の主題が表現される:「主」、「神(複数)の中の神」、「主(複数)の中の主」。 これによって普遍的にいまし、至高者であり、超越者であらせられる神なる主が主題であることがわかる。しばしば出る「わたしたちの神」と対比される。

 本体では分詞が並んでいるのが注目される。「行った方」()、 「造った方」()、 「広げた方」( )、 「造った方」()、 「討った方」(makkeh)、「切り裂いた方」(gozer)、「行かせた方」(molik)、 「討った方」(makkeh)と、下線のあるもの。そのほか動詞は完了形(過去形)で出る。「導き出した(方)」、 「通らせた(方)」など、下線のない動詞。この完了形(過去形)は分詞に続いて出るものとして、分詞と同じと考えることができる。 分詞は、その動詞が意味する行為を行った者を行った者として、いはば固定する。 つまり、その行為を行った者を、行った者としてその後もいると考える。 他方、動詞の過去形は行為そのものを言う。分詞にせよ、完了形(過去形)にせよ、 賛美の対象となっているのは行為によって行われた事実そのもので、その行為者の存在や本質、本性ではない。 このように、この詩編は神の存在やその全知、全能など宗教的真理を説くではなく、事実を宣言する。 訳文中、[ ]は補足。ここで分詞に注目すれば、8ある分詞は、4つづつ2つのシリーズに分けることができる。 これを目安にその文学的構造を探れば、明らかに文体的に構成されたものであることがわかる。 はじめの4つの分詞がある詩136:4−9には6節あって、その文節は、 1(「行った方」()がある文)+ 1(「造った方」()がある文)+1 (「広げた方」( )がある文) +3(「造った方」()がある文)文節に分けられる。 同じようにつぎの4つの分詞がある詩136:10−22には13節あって、ここは3+3+1+6文節から成っている。 この最後にイスラエルに対する「遺産」()としての土地の授与が言われて結ばれる。 そのあとの詩136:23−25には分詞もなく、ただ動詞の完了形(過去形)が並んでいて、このシリーズは、これまでの形式とは異なり、変化する。 このように本体は構造上、4−9節、10−22節、23−25節と分けることができる。 これは内容に呼応している。その最初の4つ分詞がある4−9節の内容は、宇宙的であり、つぎの4つの分詞がある10−22節は歴史的であり、 そのあとの22−25節は不特定である。それでは、この3つの部分の間にはいかなる関連があるのだろうか。 はたして、この詩編には、その全体を貫く主題的統一性はあるのだろうか。まずは、それぞれの部分を、注意深く読む必要がある。

 4−9節:宇宙的展望からの賛美
 ここでは天地創造の行為よりもその結果に注目している。それをまず一般的に「大いなる驚くべき御業」 ( : mirabilia )という。 驚きは哲学の始めと、ギリシアの哲学者は言ったが、神の創造の御業を前にしてこの驚きは、神学の始めと言えよう。 この驚きなしの神学とは何であろうか。この驚きの中に詩編作者の感情が表現されている。 この驚きは、恐怖ではなく、畏敬と賛美、感謝の感情につながる驚きである(Mirari から admirari へ)。 しかし、この感情は熱狂からはほど遠く、冷静な熱狂(小川国夫)と言えよう。 その冷めた情熱は、この詩編のきわめて鋭利に選びぬかれた最小限の用語に現れている。
 つぎにその「驚くべき御業」として、具体的に「天」と「水の上の大地」、「大きな光」を言う。「天」は神の住まい(26節参照)。 「大地」は人間が住むところ。水は、原始の海のことで天地創造以前からあった敵対勢力。大地にいる人間はその天と水の間にいる。 ここで前提となっている世界像は、創世記1:1−2:3と同じであるから、これと比較参照すること。
 最後に「大きな光」について言われる。ここで考えられているのは、具体的な「光るもの」として、太陽と月である。(星は元来言われていなかったかも)。 この光るものが言われているのは、日や月や年を数えることができる基礎が置かれたということのたである。 つまり、人間が住む空間と共に、時間も創造されたということ。
 この御業は、神の「英知」()をもってなされた。 これは神の「知恵」()と同義語。 この神の知恵による創造については、箴言8:22−31参照。その天地創造の御業は何かを啓示している。 それはこの詩編作者によると神の慈しみ、慈愛、憐れみにほかならない。

 10−22節:歴史的展望からの賛美
 ここでは神の行為の結果よりも、行為そのものが注目されている。 その神の行為は、イスラエルを束縛状態から解放した原初的救いをもたらした一連の働きである。 それはイスラエルの信仰告白(Credo)に基づいている。ここで言われる動詞は、 討った ― 導き出した ― 切り裂いた ― 通らせた ― 投げ込んだ ― 行かせた ― 討った ― 死滅させた ― 与えた。 信仰告白は、申6:20−25;26:5−9;ヨシュ24:2b−13などから推察される。 それはイスラエルの基本信条のようなもので、その内容はイスラエルに原初的な救いの出来事となった出エジプトから約束の地への導入に至る一連の神の働きかけをいうもので、 このような歴史の出来事を神の御業として信仰告白するので、G・フォン・ラートはそれを「小歴史的信仰告白」 (eine kleine geschichtliche Gredo)と呼んだ。 ここでは、「導き出し」、「導き入れ」、「(土地を)与え」が重要な用語である。詩編136:10−22は、それを前提として、変化を加えている。
 この部分が13節もあって、特に長いのは、まさにこの救いの出来事によって、イスラエルは主なる神を知り、これと結びつく民となったからである。 その始め(11節)と終わり(22節)に「イスラエル」といわれる。このイスラエルを「ご自分の民」と言われる(16節)。 それはここで言われる荒れ野の旅の途中で、主なる神はイスラエルと契約を結ばれたからである。
 この部分は全体をとおして、明示されていなくても、主なる神の「力」が強調される。 エジプトに対する力の行使(「初子を討った」、「力強い手と伸ばした腕をもって」)、 葦の海に対しては「切り裂いた」(創世記15:17参照)と言われる。これはバビロンのマルドゥク神に切り裂かれたティアマトを思わせる。 「荒れ野」も恐ろしいところであることが考えられているのであろう。 「強大な王たち」、「力ある王たち」を「討った」、「死滅させた」ということで、主なる神の力がそれを凌ぐものとして示唆される。 アモリ人の王シホンは、トランス・ヨルダンのヘシュボンに都をもっていた(民21:21−31;申2:24−37;ヨシュ9:10参照)。 バシャンの王オグはトランス・ヨルダンの北方にその領土があった(民21:32−35;申3:1−11)。 この主なる神の「力」は、天地創造における「知恵」と共に考えられている。「知恵」と「力」は対語だからである。 最後にイスラエルに対する遺産としての土地の授与が言われる。 この遺産()には、神がご自分の契約の民に与える賜物として特別な意味がある。 「ご自分の僕」は、ファラオの奴隷から主に仕える者となったという意味で、宗教的な意味で言われているのであろう。つまり「主の信仰者、信徒」ということ。

 G・フォン・ラートについては、
 1.Das formgeschichitliche Problem des Hexateuch, 1938, Stuttgart (id, Gesammelte Studien zum A.T. Theologische Bücherei 8, 1965, München,9-86に所収): 「六書の様式史的問題」、ゲルハルト・フォン・ラート著、荒井章三訳『旧約聖書の様式史的研究』、1969、3−125頁。
 なお、Theologie des Alten Testament, I, II, 1957, 1969, München:G・フォン・ラート著、荒井章三訳『旧約聖書神学』、 I、II、1980年、日本基督教団出版局、も参照。

 この説に対する批判
 1.野本真也、「いわゆる『歴史的小信仰告白』についてー申26,5−9に関する考察ー」、基督教研究第36巻第2号(昭46.7)
 2.W.Richter, Beobachtungen zur theologischen Systembildung in der alttestamentlichen Literatur anhand des kleinen geschichtlichen Credo, in Fests.M.Schmaus, vol.II, Paderborn,1967, 175-212
 3.N.Lohfink, Zum kleinen geshichitlichen Credo, Dtn 26, in Theologie und Pholosophie 46,(1971), 19-39

 23−25節:他の展望からの賛美
 救いの歴史は、イスラエルに対する土地の授与(22節)で終わったのではない。 その後、「低くされる」ということは、繰り返し起こった。このようにここでは1回限りの行為ではなく、繰り返し行われたそのことからの解放が言われる。 神は引き続き、「覚えていてくださり」(zkr)、救ってくださった。この神の覚えは、神の絶えることなく続いている態度を言う。
 最後に、日常生活に言及する(25節)。このようにここで歴史をいわば脱する。しかし、歴史は日常生活にも影響し、光を与えている。

 全体を貫くもの
 これら3つの並びは、単なる並置なのだろうか。それともこの3つの間に内的統一性があるのでろうか。 全体を貫くものがあることを示すしるしとして、 「まことに」と訳したヘブライ語のkî と 「慈しみ」(hesed) と「とこしえに」()がある。   
 Kî :  この言辞(particula)は、賛美や感謝の動機、 理由を導入する(「なぜなら」)。またそのあとの用語の強勢を意味することもある(「まことに」)。 ここでは「まことに」と訳した。しかし、動機の意味もある。
 hesed :  このヘブライ語は慈しみ、慈愛、慈悲、憐れみを意味し、しばしば契約との関連では忠実、誠実の意味も兼ね備える。 神がその歴史における働きかけにおいて示し、守り続け、行われる恒常的なものが、まさにこのご自分の慈しみである。 これは神が救いの計画をもって人間に関わられるときのパーソナルな特徴である。 この詩編で言われる個々の神の御業にそれは現れていると同時に、それはその個々の御業を超えるものでもある。 この同じ神の慈しみをほかの御業も現す。それを反復句は表現する。 それは天地創造と救いの歴史の個々の出来事に現れていると同時に、その個々の出来事を超越してあるものであり、またその個々の出来事の総体を超越している。 神の慈しみが神の御業すべての意味するところのものである。これに詩編作者は驚き、賛美と感謝を呼びかける。
  :  これは神の「慈しみ」にかかる形容詞として取れば、時間とその先を超え、個々の出来事とそのすべてを超えてある恒常的なものを意味する。 それはまた副詞として、「とこしえに」、「永遠に」、「永遠から」、「永遠に至るまで」と理解することができる。 このようにその意味は個々の御業に、いはば関わりなくあるものとしてある。それが個々の御業に啓示されている。
 いずれにしても、この祈りの中に時間的なものと永遠的なものとの接点がある。祈りの中に、すべての時間がある(M・ブーバー)。
 このように反復句:「まことにその慈しみはとこしえに」は、この詩編全体を貫いて、その内的統一性を力説している。 それによって天地創造の御業と救いの歴史の御業とその後の出来事が結びつけられている。それはまた日常の出来事まで及んでいる。
 この詩編の統一性はそれ自体で完結したものとしてではなく、発展性を含んでいる。 それは閉塞的なものではなく、開放的なものである。その理由は、
 a) まずここに数え上げられる救いの出来事は容易に追加が可能である。たとえば20節のあと、「カナンのすべての王国を」(詩編135:11参照)と追加できる。
 b) 個々の救いの出来事で明らかにされる神の慈しみは、そのそれぞれの出来事に限られず、ほかの出来事によっても現されるものであって、それ自体超越的なものである。 つまり、この時間の中で起こる出来事を越えて、異なる次元のものである。
 c) 「とこしえの」、「とこしえに」も個々の出来事で明らかにされる神の慈しみが時代を超えるものであることを明らかに示している。
 この開放性のゆえに、この詩編が作成された後の時代に生きる人も、またわれわれもこの詩編を自分の祈りとして唱えることができる。

キリスト教徒の祈りとして
 「(大いなる)驚くべき御業()」は、 イスラエルのその後の歴史において行われ、体験された。バビロンからの帰還もそう理解された。 それは新しい出エジプト(Exodus)として、かつての出エジプトと重ねて想起され、賛美された。 それは神の救いの業の続きであると同時に、それを超えるものでもある。それゆえ、新しい驚きであった。 これと関連して、「新しい歌」が歌われたのではないか(イザヤ42:10参照)。詩編96:1と98:1でも、「驚くべき御業」と「新しい歌」が共に言われる。
 イエスがこの祈りをどのように唱えられたか、わからない。しかし、キリスト教徒がどのように唱えたかは、容易に推察できる。 キリスト教徒にとっては、イエスの死と復活こそ最大の「驚くべき御業」である (詩編118:22−23を引用するマルコ12:10−11;マタイ21:42−43;1ペト27:7−9参照)。 またこれによって、ナザレのイエスが神の独り子であり、神の御ことばであること、このお方が母マリアの母胎に懐胎されたことも知った。つまり受肉の御業である。 このイエスの死と復活と、これによって知らされることになった受肉の秘義と三位一体の神の秘義も「驚くべき御業」である。
 またこの御業によって示された神の「慈しみ」が、ユダヤ民族の壁を超えて、すべての人類にも及ぶものであるということも「驚くべき御業」ではないだろうか。 こうしてわたしたちもこの祈りを唱えることができるようになった。この恵みは、キリストをとおして与えられた。 それゆえ、わたしたちはこの祈りを「キリストをとおして」(per Ipsum)唱える。 こうしてまた神の民となったわたしたちは、「キリストと共に」(cum Ipso)、「キリストにおいて」(in Ipso)唱える。 こうしてまたわたしたちは、三位一体なる神の中なる命の充満に与るものとならせていただく。この神の命の交わりの中で、この詩編を唱える。
 このように詩編のみならず、聖書そのものは再読(relecture)されてきたものなのである。 そのことを確認し、深く理解するためには、教父による詩編解釈も有益である。

わたしたちの教会の祈りにおける詩編136
 「驚くべき御業」は、「不思議な業」と訳されている。
 ラテン語規範版教会の祈り:復活節金曜日の読書の第1詩編;年間の第4週の晩の祈りの第1詩編
 日本語:第2土曜日の読書課の第1詩編 
BACK