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詩編23 解説
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詩編23 Dominus pascit me
主が羊飼い

賛歌。ダビデの詩。

主が羊飼いとしてわたしを導いてくださり、
わたしには何の不足もありません。
草原にわたしをくつろがせては、
穏やかな水のほとりに連れて行き、
わたしの魂を活気づけてくださる。
御自分の御名のゆえに、
正しい行路にそってわたしを案内し、
死の陰の谷間を歩むことになっても、
わたしには災いの恐れはありません。
あなたがわたしと共にいてくださり、
あなたの杖、あなたの鞭がわたしの慰めとなるからです。

わたしの敵に対するのとは異なり、
わたしの前には宴を準備し、
香油をわたしの頭に塗り、
わたしの杯を満たしてくださる。
わたしの全生涯をとおして、
まさに恵みと慈しみがわたしのあとを追ってくる。
わたしは生きている限り、主の家にとどまります。
この詩編を学ぶ意義
 これは詩編の中で最もよく知られ、親しまれてきた詩編と言える。 それはまず「主は羊飼い」がヨハネ福音書にあるイエスのことば、「わたしは良い羊飼い」(ヨハネ10:11)を連想させることによる。 ただそれだけでなく、この詩編そのものが単純であると同時に内容豊かで、幅広く連想を呼び、瞑想に誘うことにもよる。 ただ羊飼いは、われわれ北東アジアの人間にとっては馴染みが薄い。わたしも羊とはどういう家畜か知らない。 しかし、現代はペットの時代であるから、ペットがその飼い主にとってどのようなものかに基いて、羊が羊飼いにとってどのようなものか、ある程度想像できるかもしれない。
 なお、本HP上のコンピュータ時代の詩編23は、この詩編をモデルにしたものである。その本家本元を学ぼう。

文学的構造
 この詩編が親しみ易く印象深いのは、特にその表象(イメージ)の豊かさによる。 この表象は文学性にとって決定的な重要性をもつ。 文学性ということで並行法だの交錯法だの、また全体の文学的構造なども重要だが、表象が乏しければ、その詩編は価値が低い。 詩編23には短いが、羊飼いと宴会の主人という2つを中心に2つの表象世界があり、 そのそれぞれ象徴的意味が込められており、それが重なりあって実に豊かな神学内容の表現となっている。 羊飼いの表象は1−4節に、宴会の主人の表象は5−6節にある。この前半の最後の4b節は表象としては先行部と繋がっているが、 ここで3人称単数から2人称単数に変わることにより、後続部の後半と繋がっている。ここにこの詩編の中心があると言えよう。

 羊飼いの表象:ここで羊飼いが登場するが、これは羊の群れと共に山野を越えて長い道のりを移動する羊飼いである。 その周りの状況を写実的に、またこれを簡潔かつ具体的に表現し、読者はそれを容易に頭に描くことができる。 「草原」が緑の広野を、「水」はその中の泉ないし水場を思い浮かばせる。そこで羊の群れは「くつろぐ」こともあれば、水を飲んで「活気づけ」られることもある。 「正しい行路」を辿らなければ目的に到達しないが、そのためには「死の陰の谷間」を通らなければならないこともある。 羊飼いの「杖」と「鞭」は、土を叩いて歩みのリズムを刻む音として聞こえるが、迷い出そうになった羊を打つこともある。 この表象は重層的な意味をもつことができる。まずこれらの表象がそれ自体持ち得る象徴としての意味である。 羊飼いと羊の群れは一般に人間と動物ないし家畜の関係をいう。緑の広野は目を休ませ、人間に優しい母なる大地を思わせる。 水は生き物の渇きを潤し、活力を与える。歩みは人間の基本的行為である。「死の陰」の闇は恐れを呼び起こす。 特にその中で真の友は頼りになる。これらの象徴的意味は、一読しただけでは汲みつくせない上、さらなる意味がある。

 宴会の表象:ここでも主人として考えられているのは、砂漠でテント生活をする遊牧民の首長のこと。 来訪者に対する彼らのもてなしの大きなことは広く知られているが、砂漠で孤立している人には、これを受け入れ、保護することは義務とさえ考えられていた。 ここでもその歓迎ぶりが表象として表現されている。「わたしの敵」とあるところは、ヘブライ語の前置詞をいかに解釈するか、議論されていて明らかではないが、 その敵に対する客の保護を示唆しているかもしれない。それに「宴」、「香油」、「杯」は歓迎の尋常でないことを意味している。 この主人の歓迎も象徴の意味を持つことができる:宴の場所としての前提される家ないしテント、食べることと飲むこと、 それに香油は安らぎと喜びに満ちた幸福な人生のひとときを思わせる。

 この2つの表象を結びつけているのが、もう一つのイスラエルの救いの歴史の象徴的意味。 羊飼いが導く歩みの表象でエジプトを脱出したイスラエルの先祖の荒れ野の旅を、 宴会の表象で約束の地への導入、特にシオン/エルサレムの神殿への招待と歓迎を示している (出エ15:13;詩68:11;77:21;特に詩95:7−11解説参照)。 羊飼いに導かれる羊の群れのようにかつてイスラエルの民は荒れ野の旅を果たすことができた。 そこには水や食糧の問題や行く手を阻む敵との戦いもあり、くつろぎもあった。 目標とする約束の地に着けば、主なる神はその民を豊かな恵みで歓迎してくださった。その行程は、すべて「歩み」であった。 この歩みは「主の家」に向かうものであった。旅はこれで完了したのだろうか? また歩み始めなければならないことも示唆して詩編は結んでいる。
 荒れ野の旅はエジプトから約束の地への旅と共に、新しい出エジプトとしてのバビロンからの帰還も思わせる。まさにこのバビロンからの帰還を、 第2イザヤは羊飼いに導かれての旅として表現している(イザ40:10−11;49:9b−10)。この影響があるとして、この詩編はバビロン捕囚後の作とされてきた。
 さらに古代オリエント一帯で神を羊飼いとして表現する習慣があり、また王とか支配者を羊飼いとして表現する習慣もある。 イスラエルも自分たちの神である主を羊飼いとして表現している(詩78:52;80:2)。 第2イザヤは、ご自分の民として捕囚民と共にエルサレムに帰ってこられる神なる主を「王」と呼んでいる(イザ52:7)。 これと同じように詩編95は、「わたしたちはこのお方が羊飼いとなってくださる民、その御手の羊の群れ」と言っているが、 このお方とは宇宙の王としての主なる神である(同詩編3節参照)。 またこの主なる神はイスラエルの神であるだけでなく、万民の神でもある。詩編100:1−3は、詩編95を万民に広げて言う。

 全地よ、主に歓呼せよ。
 喜び祝いながら、主に仕えよ。
 歓喜しながら、その御前に入れ。
 知れ、主が神であると。
 主はわたしたちを造ってくださった。
 わたしたちは主のもの、主の民
 このお方が羊飼いとなってくださる羊の群れ。

 この羊飼いで王としての神なる主を意味しているのは、その力強さと優しさである。 このように羊飼いの表象で王としての神を描きながら、その王国がいかなるものであるかも描いている。 王(ヘブライ語のメレク、ギシシア語のバシレウス)は、その国(ヘブライ語のマルクート、ギリシア語のバシレイア)なしには考えられないからである。 したがって、詩編23は神の国とはいかなるものかを言っているものでもある。

 この詩編は、民として、また個人として神による救いの体験に基いて、現在この神に絶大な信頼を寄せて結んでいる。 それゆえ、この詩編は、文学類型としては個人の信頼の詩編と言える。 おそらく、この作者は自分の人生をふりかえり、かつては命の危機もあったが、無事その歩みを続けて、現在に至っていることを表現しているようである。 そうすると、この作者はかなりの高齢に達しているのではないかと思われる。

   <解説:釈義の要点>
 1節
 「羊飼い」:羊飼いの表象の重層的意味についてはすでに述べたが、エゼキエル34章では、 自分の民を食い物にするユダの王たちを悪い羊飼いとして、それに代わって神を良い羊飼いとして告げる。 ゼカリヤ11−12章にも悪い羊飼いが出る。これを考えて言われているとすると、諸国のみならず自国の歴代の王ではなく、神なる主「が」羊飼いだということになる。
 「主は羊飼いとしてわたしを導いてくださる」:ヘブライ語は「主はわたしの羊飼い」と短く言う。これは主が羊飼いで、 わたしがその世話を受ける羊だということ。しかし直訳では、主がわたしの羊の群れの世話をしてくれる羊飼いという意味に取られかねない。

 3節
 「御名」:主の御名のこと。この「主」が意味しているのは、出エ34:6−7節参照。

 4節
 「あなたがわたしと共にいてくださる」:この詩編の中心。民としても、また個人としても、いかなるときも「共に」いてくださるということ。 詩編6と同じように、神の不在を体験して、その苦悩のどん底で悟ったことではないかと思う。 その「共に」は、自分自身よりもなお近くにいてという意味なら、 この「あなた」はその自分自身の中に現存しておられる神に向かって呼びかけているのではないかと思われる。 こういうわけで、この詩編は神秘家の域に達した人の祈りではないかと思われる。 この「共に」いる神は、インマヌエル(「神はわたしたちと共に」)という全聖書を貫く主題へと広がる(イザヤ7:14;マタイ1:23;28:20)。
 「慰めるとなる」:励みの意味もある。これは第2イザヤが好む用語(イザヤ40:1;49:13;51:3,12,19;52:9)。
 5節
 「わたしの敵に対するのとは異なり」:前置詞neged が何を意味するのか理解に苦しむ。 これは「に面して」「に向かって」、「に対して」を意味するが、通常「わたしの敵が見ている前で」の意味で理解されているが、これが正しいかどうか疑わしい。 そこで「わたし」には、わたしの敵に対するのとは対照的にという意味かもしれない (H.Bardtke, Die hebräische Präposition neged in den Psalmen, in : J.Schreiner (Hrsg), Wort, Lied, Gottesspruch, II Beiträge zu Psalmen und Propheten, Festschrift für J.Ziegler, FzB 2, Würzburg, 1972, 17-27, 特に21参照)。
 「香油」と「杯」:前の視覚表象と聴覚表象に加えて、ここで嗅覚表象と味覚表象が加えられる。それが香油の香りと杯のぶどう酒の味である。

 6節
 「恵みと慈しみ」:あたかも兵士のように擬人法で言われる。
 「主の家」:神殿のこと。エルサレム神殿には王としての主なる神の王座があると考えられていた。 それゆえ、この「羊飼い」は王のことでもあることが明らかになる。
 「とどまります」:あるいは「帰ります」とも読める。


     まとめ
 表象とその重層的象徴の意味に注目することによって、この詩編は短いが、イスラエルの民とその個人の信仰が凝縮して含まれていることがわかる。 イスラエルの民の信仰にとって基礎的なのは、出エジプトの救いの出来事であり、 これが約束の地に入植してエルサレムの神殿に到達して完結されたということである。 この神殿で主なる神は王として着座され、力強い支配を始められた。 それは過去の一回限りの出来事ではなく、民が危機に瀕したとき再体験されるものでもあった。それがバビロンからの帰還であった。 この神の導きを「羊飼い」の表象に込めて表現している。この詩編の作者は自分が属する信仰共同体、 つまりイスラエルの民のこの信仰を自分の信仰の歩みにおいても体験し、それをこの詩編に込めている。 この詩編作者もその信仰の人生をとおして見えた神を歌っている。
 ここにイスラエルの民の信仰とその民の一人の信仰が同時に公言されている。つまり、この民の一人の信仰はイスラエルの民の信仰がなければなかったであろう。 そういうわけで、その信仰共同体の信仰とはどういうものか、あとで見ることにしたい。 


わたしたちの祈りとして
 ヨハネ福音書10:1−18によると、キリスト教徒にとって、羊飼いはイエス・キリストである。 それゆえ、キリスト教徒がこの詩編で、「主は羊飼い・・・」と祈るとき、この主イエス・キリストに向かって祈る。 キリスト教徒の集いである教会はその羊の群れ(1ペト2:25;5:2−4参照)ということができる。 このキリスト論と教会論的解釈の延長として、水は洗礼、宴会はエウカリスチアを暗示していて、秘跡論的にも読むことができるし、そう解釈されてきた。 このように短い言葉に汲みつくすことができない内容が重層的に込められている。 これが宗教言語の特徴と言えよう。それゆえ、一つ一つのことばを疎かにしてはならない。
 詩編23(22)は、時課典礼では第2、第4日曜日の昼の祈りで唱えられる。またこの詩編は御聖体の前で唱えながら黙想するためにも最適の一つだと思う。

 参考文献
 L.Alonso Schökelの講義ノート
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