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詩編42−43 Quemadmodum desiderat cervus |
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喘ぐ鹿のように |
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42 |
1指揮者によって。マスキール。コラの子らの詩。
2水の川床を前に喘ぐ鹿のように、
神よ、わたしの魂はあなたに喘いでいます。
3わたしの魂は神に、生ける神に渇いています。
いつになれば、わたしは詣でて、神の御顔にまみえられるのでしょうか。
4「お前の神はどこにいるのか」と、毎日言われて、
わたしの涙が、昼も夜もわたしのパンとなりました。
5わたしはあのときのことを思い出しては、わたしの魂を自分の前に注ぎ出します。
歓声と感謝の祝いの声、祭りにわく群衆の中で、
雑踏の中を進み、神の家にまで彼らを先導したのでした。
6わたしの魂よ、なぜうち沈み、わたしの前で込み上げるのか。
神を待ち望め。まことに「救いとは御顔、わたしの神」と、
わたしはまた感謝することになるのだから。
7わたしの魂がわたしの前でうち沈むと、
それゆえに、ヨルダンとヘルモンの地から、ミザルの山から
わたしはあなたを思い出します。
8あなたの滝の轟音にあわせて深淵が深淵に轟きあい、
あなたの荒波、あなたの怒涛のすべてがわたしを超えて行きます。
9昼、主がご自分の慈しみを遣わしてくだされば、
夜、わたしのもとにあるのは、
そのお方の歌、わたしの命の神への祈りであるのに。
10わたしは神に申し上げます。
「わたしの岩よ、なぜわたしを忘れられたのですか。
なぜわたしは、敵に打ちのめされて、
うなだれて歩まなければならないのですか。」
11わたしの骨まで貫く罵声をもって、わたしの仇敵たちはわたしを辱め、
「お前の神はどこにいるのか」と、毎日言っています。
12わたしの魂よ、なぜうち沈み、わたしの前で込み上げるのか。
神を待ち望め。まことに「救いとは御顔、わたしの神」と、
わたしはまた感謝することになるのだから。
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43 |
1神よ、わたしに正義を実現し、
無信心者の異邦人に対してわたしの訴えを弁護し、
欺瞞と極道の徒(やから)からわたしを救い出してください。
2まことにあなたは神、わたしの砦です。
なぜ、あなたはわたしを突き返されるのですか。
なぜ、敵に打ちのめされて、
わたしはうなだれ、右往左往しなければならないのですか。
3あなたの光と真(まこと)を遣わして、わたしを導かせ、
聖なる山、あなたのお住まいにわたしを連れて行かせてください。
4わたしは神の祭壇のもと、わたしが踊るのを喜び祝われる神のもとに参拝し、
神よ、わたしの神よ、琴を奏でてわたしはあなたに感謝したいのです。
5わたしの魂よ、なぜうち沈み、わたしの前で込み上げるのか。
神を待ち望め。まことに「救いとは御顔、わたしの神」と、
わたしはまた感謝することになるのだから。
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この詩編を学ぶ意義
社会的不正によって虐められている人の嘆きとして詩編6を見た。重病人の嘆きとして詩編38を見た。
ここで追放の憂き目にあった人の嘆きを見ることとしよう。
詩編42−43は、カトリック典礼聖歌集中の名曲の一つ、「谷川の水を求めて」(高田三郎作曲)として広く親しまれている。
また、"Sicut Cervus"の題名で知られるパレストリーナ作曲のポリフォニーもある。
20世紀に詩的センスに最も優れた聖書学者といわれるL・アロンソ・シェケル師によれば、この詩編は詩編150編中、最も美しい詩編だという。
この詩編は明らかに個人が歌ったものであり、その個性が現れている。この個人は、遠くに追いやられて異郷の地にいて、この歌を詠んでいる。
その地は、故郷エルサレムから遠くシリアのヘルモン山の南部にある(7節参照)。
神に正義を訴えている(43:1節参照)ので、無実であるのに、不正に追放の憂き目にあっていると思われる。
これらの根拠を不十分として、この詩編の作者を重病人とする学者もいる。
恐ろしい水として重病を表現する例があり(8節と詩編88:8、18と比較参照)、また肉体的苦痛も言う(11節)。
しかし、詩編42−43は、コラの子らの詩編群前半(詩42−49)の最初として、後半(84−85,87−88)の最初にある詩84と並行し、
共通してエルサレムから遠く離れたところで歌われたものと思われる。したがって、追放の憂き目にあった人の詠んだ歌と思われる。
それは追放されて肉体的にも、社会的にも、精神的にも、霊性的にも苦しみ、自殺まで考えた人かもしれない。
この詩編作者のように、追放されて心裂かれる思いで日々を送らなければならない人は、今日も珍しくない。
その苦しみがつのり、最後の解決として自殺が目にちらつくほど追い込まれることもある。
家庭や故郷、祖国を追われることもあれば、職場で窓際族にされ、辞めざるを得なって去っていくこともある。
社会的に責任ある地位にあってその地位を辞めることもできず、いっそう追い込まれることもある。
どんなに追い込まれて苦しくて、神などいないと思われても、神だけは苦しむ人と「共に」と、とことん共にいてくださると悟らなければならない。
この詩編を読めば、その悟りが与えられるかもしれない。
文学的構造
まずこの詩編は広く親しまれ、美しい詩であっても、マソラ本文のヘブライ語には言語学的に理解し難い箇所がいくつかある。
この詩編に限ったことではないが、詩編のヘブライ語本文に直接に当たってみると、蜂に刺されるような思いをさせられることがしばしばある。
このたびこの詩編を読み直してみて、あらためてその難しさを痛感させられた。
ヘブライ語の聖書本文に理解し難い箇所がある場合、ウガリト語をはじめ北西セム語の知識を援用して、その難解な箇所に光を与えようとする試みがある。
この作業に先駆的に取り組んだのが、M・ダフード師である。
彼はマソラ本文に理解し難い箇所があると、その子音文字を軽率に筆写上の誤りとはしないで、
これを重んじ、その子音文字を一つ一つウガリト語および北西セム語の言語学によって説明し、独創的な解釈と翻訳を提案した。
しかし、本人も自覚していたように、それは試論であって、それを教会で用いるための翻訳としようとしたわけではない。
ただし、マソラ本文のヘブライ文字を一つ一つ丁寧に扱わなければならないことを教えてくれた。
つまり、ヘブライ語の本文が理解し難いとき、安易に筆写上の誤りとはせず、伝承された本文を大切にし、その説明を求める態度を貫くことである。
他方、ヘブライ語本文に理解し難い箇所が散見されても、この詩編の核心に迫ることができるとしたのが、
ヘブライ詩の詩法からアプローチするL・アロンソ・シェケルの解釈である。
ここでは、同師の解釈に沿って読んでみることにし、言語学的な議論は必要最小限にとどめる。
詩編42−43が一つの詩編であることは、同じリフレーンが詩42;6、12;43:5に出ていることによってわかる。
また詩編43には表題がないことも、詩編42−43が一つの詩編であることを裏付けている。
リフレーンを目安に、この詩編は42:2−6、7−12;43:1−5の3つの段落に分けることができる。
しかし、その文学的構造は単純ではなく、重構造となっている。この詩編の奥行きは深い。
1)表象(イメージ)的構造。
詩の詩としての価値を左右するのは表象(イメージ)とその象徴性である(詩編23解説参照)。
ここでは「水」の表象が鍵となる。詩42:2−6と7−12でその「水」が出るが、43:1−5では出なくても余韻がある。
詩42:2−6では、その水は命の象徴として出る。乾燥地帯の砂漠で喉の渇ききった鹿が生きるために必死になって求める水として出る。
生死はこの水にかかっている。この水が意味する命とは何かというと、それは「生ける神」。
他方、詩42:7−12では、その水は死の象徴である(ヨナ書参照)。
滝の水の落ちる轟音の響きあいという聴覚的表象をもって、ここでは水は恐ろしい死の象徴となっている。
この水が意味する死、その恐ろしい力とは何かというと、これも神である。
ここで、同じ水が命の象徴であると同時に死の象徴でもあるということに注目したい。
つまり、同じ水が生と死という両極のもの、相反するものの象徴となっているということ。
実際に自然界の水は、命を育み、その豊かさをもたらすと同時に恐ろしい洪水、津波として破壊をもたらすものでもある。
この水がもつ両極性が神を表現しようとして用いられる。神は優しいお方であるが、恐ろしいお方でもある。
このように水の表象をはじめて用いたのは、預言者イザヤだった。
イザヤは、エルサレムに優しく現存する神をシロアの水にたとえ、
これとは対照的に、神が不信の民を罰するために遣わされるアッシリア軍を大河の激流にたとえている(イザヤ8:5−8、また詩編46も参照)。
このように水は人間の言語を超越するものを表現するために用いられている。
神は命の神であるが、同時に死の神でもあり、こうしてそれは神が生と死を超越したお方であるということであろう。
神を人間の言語で表現しようとすると限界があり、結局矛盾するような表現でしか表現できない。
人間の言語で表現できないものを表現しようとするのが文学であり、詩である。
この両極性において表現される神を、詩43:1−5では「あなたの光と真」で示唆している。
2)対話的構造
この詩編では、「わたしの魂よ」と言って、作者が自分自身と対話するところが、リフレーンとして各段落の最後にある(詩42:6、12;43;5)。
それが特別な位置を占めている。この詩編でも主人公は3者で、神と詩編作者と敵たちである。
しかし、ここでは詩編作者には神はいない。ここに悲劇があり、この作者の内面のドラマがあることになる。
それは生と死という両極性において体験される神によって起こされた、詩編作者の心の中の葛藤である。
敵たちにあざ笑われて、神に頼ろうとしても、神はいない。命としての神を渇望しながら、この神によって突き放され、心引き裂かれる思いでいる。
それが郷愁として、神による見捨てとして、残酷な不在として体験されている。
この神の不在を嘆けば嘆くほど、その実、心のもっと深いところで神の現存の意識が芽生え、成長し、あらためて神への信頼が増幅する。
人間の心の中における神の不在の意識も、実は神の現存の一つのあり方ではないのか。
実際に、神を見つけることができないで嘆くこの詩編には、「神」、「主」が22回もある。
このようにこの詩編を唱える詩編作者の中に神が現存していることを、あらためて気づかせられる。
したがってどんなに大きな罪を犯し、神から見放されてしまったと思っても、その神不在の意識こそ神の現存の証拠ではないのかということもできる。
3)動的(ダイナミック)構造
それゆえ同じ句が繰返され、リフレーンになっているが、そのそれぞれの文脈で意味するところは同じではない。
最初のリフレーンは、かつて神殿で行なわれた祭りに参加した過去のことを思い出して、嘆いている。その心は過去にいる。
最後のリフレーンは、その祭りに再び参加するという未来のことを希望として表明する中で言われる。
第2のリフレーンは、その中間で現在の苦悩の文脈の中で言われる。
この過去から未来へというこの詩編作者の内面のドラマに変化をもたらしたものは、何であろうか。
そのヒントは、「わたしの岩よ」(10節)とあるように、人生の激流の中で、その助けを叫び求める中に見える神ではないのか。
この神は、激流の中でなければ体験できず、悟ることもできないのではないのか。
それが詩43:3の「あなたの光と真(まこと)を遣わして、わたしを導かせ」とつながっていく。
実はその激流の中で何らかすでに生ける水に生かされていたことに気がつかされたのではないのか。
ここに詩6の8節と9節の間にある大転換を理解するための一つのヒントがあるかもしれない。
ただし、その激流の中で偶像もはびこるので、それに頼ってはならない。
<解説:釈義の要点>
2−6節 : 第1段落
2節
「喘ぐ鹿のように」に、ヘブライ語本文の問題がある。この「喘ぐ」というヘブライ語動詞が未完了3人称女性形になっている。
したがって、ここで「鹿」も「雌鹿」と読むべきではないかと言われる。
そこでマソラ本文では、 を、
と、
子音文字を変更せずに「雌鹿」と読む提案がある(動詞は不定詞と見る)。
ラテン語で言えば、sicut cervus ではなく、sicut cerva 。
どうして、ここで雌鹿なのか。この詩編作者は女性ではないかと思い巡らしてきたが、この推論に確証は見出せない。
「鹿のように」と動物を引き合いにして始める詩編はほかにない。この意味でユニークで、印象深い。この鹿は野生の雌鹿であろう。
「水の川床」:この詩編作者がいるシリア・ヨルダン地方ではヨルダン川を除いて、多くの涸れ谷がある。
これは現在ワディと言われるが、聖書ヘブライ語で nahal とも言われる。その同義語として
があるが、
これは元来川床、川筋のことらしい。この地方の川のほとんどは乾燥期には完全に干上がってしまう。
預言者エリヤの故郷ティシュベもこの方面にあり、川が干上がったことが言われる
(1王17:1−7、それは現在のヨルダン王国の遺跡ペルラに近い:本HPのペルラ参照)。
干上がった涸れ谷に行っても、水はなく、渇きはいっそう深刻となり、生死の境をさまようことになる。
このように水を飲みにきた渇いた鹿に詩編作者は自分をなぞらえている。
「水の川床」というのは奇異に聞こえるが、これは「水が流れてしまった川床」という意味で、水のない川床のこと。
ヨブ6:15に「わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。流れが去った後の川床のように」とある。
乾燥期の涸れ谷は人を欺くもののたとえとしてあったのであろう(印象的なヨブ6:14−21参照)。
したがって、この詩編でも神は命の本源であるが、人を欺くものとして現れることもあると言っているのであろうか。ここに水のない川床を意味しているのに、
ここで「水の」とあるのが分かりにくい。が、これは次節の「生ける神」との関連で言われているのであろう。「生ける水」としての「生ける神」を思わせる。
「わたしの魂」;ヘブライ語のネフェシュには、喉の意味もある。したがって、まずはその肉体的な渇きがイメージされる。これは精神的な渇きも意味することになる。
3節
「生ける神」:前節の「水」の意味していること。「生ける神」は、9節では「わたしの命の神」(写本の中には「生ける神」と読むものもある。
「生ける神」は、コラの子らの詩編群の特徴ある表現。
「いつになれば」:嘆きの詩編の特徴ある表現。
「神の御顔」:神の現存をいう。「神の家」と言われる神殿がその現存の場所。
「まみえる」:マソラ本文は、「現れる」。したがって、「神の御顔の前で、わたしが現れる」の意。
しかし、ここでは「見る」と読んだ。つまり「神の御顔を見る」、「まみえる」。
4節
「お前の神はどこに」:異邦の地にあって、おそらく異邦人によって言われたことばだが、これは詩編作者にとっても投げかけたい疑問である。
イスラエルの神である主は、エルサレムを中心とする約束の地の外には現存されないものと考えられていた。
それゆえ、約束の地は聖なるものであるのに対して、異邦の地は汚れたものと考えられていた。
したがって、異邦の地に追放されたイスラエル人は、自分の神の不在の地にいると思っていた。
その自分も疑問に思っていることを、おそらくその地の異邦人に言われて、悲しみはいっそう深くなった。
おそらく異邦人と言ったが、異邦人と同じように考える同胞も異邦人と言われることがある。
「言われて」;誰が言うのか、ここではこの動詞にかかる人称代名詞がない。
それゆえ、自分自身(「わたしの魂」)が自分に言うかのように読むこともできるが、
11節に「彼ら」、つまり仇敵たちに「言われて」とあるので、この意味で理解される。
「パンとなりました」:3度の食事のようにということ。
5節
「あのときのことを思い出し」:郷愁。ここで詩編作者は自己に閉じこもり、過去の楽しかった故郷を思う。
それを思い出せば、孤独で悲しい現状がいっそう浮き彫りになって、嘆きが込み上げてくる。
この詩編作者にとって故郷とはエルサレムの神殿。その祭りのときに何かの役割を果たしていたらしい。
それゆえ、この作者は神殿との関わりで生きていた人らしい。
かつて「神の家」にいて幸いであったが、今は神不在の地に追いやられている。淋しくて侘しい思いでいる。
この詩編作者は菅原道真のような人物であろうか。
「雑踏の中を進み、神の家にまで彼らを先導した」:ヘブライ語本文は明らかでない。「雑踏の中を進み」の「雑踏」は、
マソラ本文にしたがって
(「雑踏の中」、「込みあう中」)を訳したもの。
これを、
(「幕屋」、「聖所」、詩10:9;27:5;76:3;哀歌2:6参照)と読むと、
「聖所の中を」と訳すことができる(多数意見)。
「彼らを先導した」も明確でないが、語根を動詞 ddh 「行く」に見て、
「(彼らを)先導した」と読む(D.J.A.Clines, Editor, The Dictionary of Classical Hebrew, Sheffield, 1995, 416)ないし、
単に「彼らの先頭を行った」という意味か。
6節
リフレーン:リフレーンのある詩編は、詩編46、49、57、67、107(2重のリフレーン)。
この詩編42−43では42:6、12、43:5節にそのリフレーンがある。
リフレーンであるから、この3つの節は同一の文になっているはずだと思われるが、マソラ本文では異なっているところがある。
それは42:6の「救いとは御顔、わたしの神」とあるところで、実はこの「わたしの神」は42:6節ではなく、7節の始めにあるもの。
これをここで連続させて訳している。「御顔」と「わたしの神」が、42:12節と43:5節で連続して出ているからである。
ただし、42:6節で「御顔」、つまり「彼(=神)の顔」とあるところが、42:12と43:5では「わたしの顔」とある。
それゆえ、42:6でも「わたしの顔」と読むのが一般的。つまり「わたしの顔の救い」と読まれる。
この場合、「わたしの顔」は、「わたしの」、「わたしの人格の」というような意味で解釈される。
この詩編で問題になっているのは、むしろ「神の顔」(42:3参照)であろうから、この解釈には疑問がある。
むしろ42:6節にある「彼(=神)の顔」にしたがって、42:12と43:5の「わたしの顔」を「彼の顔」、つまり「御顔」と読むべきではないかと思う。
僅かながら、こう読む写本があるし、マソラ本文も子音を変更せずにこう読める。
「彼の御顔」、つまり「神の御顔」とは、現存する神を意味し、特に聖所、神殿にその御顔があると考えられている。
したがって、「救いとは御顔、わたしの神」と訳したが、これは「(このお方の)御顔の、わたしの神の救い」とも訳せる。
いずれにせよ、この神殿に現存するお方がわたしの神で、救いはこのお方ないしこのお方が与えてくださるものということ。
「うち沈み」:主語の「わたしの魂」に喉の意味があるなら、「詰まる」というような意味であろうが、ここではこれをとおして内面的なことを言っているとして訳した。
「 神を待ち望め。・・・」:この文脈ではやっとの思いで、自分を励ましている。
7−12節 : 第2段落
7節
苦悩の中で、苦悩のゆえに、詩編作者は神を思い出すが、この神が命の神ではなく、死の神である。
「ヨルダンとヘルモンの地」:ヨルダン川の源流があるガリラヤ湖北東方向にある山岳地帯。ヘルモン山は標高3000m近くの高山。その南に広がる地帯のこと。
「ミザルの山」:地理的に特定できない小さな山。エルサレムの神殿のあるシオンの山と対照して言われているのであろう。
この地名を文字どおり受け取って、詩編作者はこの地方に追放されているのではないかと推論される。
この地理的な意味に加えて、「ヨルダン」は「下るもの」という意味があるので、地の下にある黄泉を示唆しているかもしれない。
それに「ヘルモン」には「網」という意味があるかもしれない。
黄泉とか死は擬人化されて考えられることがあり、網をもってすべての人間を捉えて飲み込んでしまうというイメージがある。
また「ミザルの山」も地の縁にある山ということで黄泉への示唆があるかもしれない。
N,J.Tromp, Primitive conceptions of Death and the Nether World in the OT, Rome(PIB), 1969, 144-147参照
(ここに詩42:7−8のダフードの解釈をまとめて提示)。
8節
「深淵」:ヘブライ語のテホムは、川、泉と並んで用いられることがある(申8:7)ので、地形を意味しているが、死の力としての神話的な意味も示唆している。
「荒波」、「怒涛」も同様である。このように詩42:2とは対照的に、ここでは水は破壊的な力として考えられている。
「あなたの」は、神がそういう破壊的なものだということ。
9節
「昼」と「夜」:この昼と夜をあわせて一日中続いてということ。
「慈しみを遣わしてくだされば」:この条件文は、現実は逆であることを意味している。
10節
「わたしの岩」:岩としての神は、よくある神の称号である(詩18:3;31:4;71:3)。
ここでは荒れ狂う流れの中で言われているので、この岩は文脈によく合っている。
「なぜわたしを忘れられたのですか」:黄泉にいる者は神によって忘れられている(詩6:6;88;6参照)。
11節
「わたしの骨まで貫く罵声をもって」:ここのヘブライ語の意味は明らかではない。「わたしの骨」は骨、骨格、肉体をいう。
「罵声をもって」:ここが明らかでなく、他の解釈があることになる。ここでは「叫び」の意味にとって、文脈にそってこれを「罵声」と訳した。
12節
リフレーン:42:6の本文の問題解説を参照。
43:1−5 : 第3段落
1節
ここで用いられているのは法律用語。詩編作者は最後の審判者である神に訴えている:詩7:9;26:1;35:24。この意味でほかの嘆きの詩編と共通する。
2節
「突き放す」:捕囚の身や国家的崩壊を嘆く詩編でよく用いられる表現(詩44:10,24;60:3、12;哀2:7;3:17、31参照。
3節
「光と真」:ここで光と真が擬人化され、神の使いとして追放された者をシオンの聖なる山、神がお住まいになる神殿に連れて行く同伴者のように表現されている。
4節
ここでは喜びの主題が支配的で、共にいてくださる神を見出したかのようである。その神の現存を確認して、もう故郷に帰ったようになっている。42:3とは対照的。
「わたしが踊るのを」:ギリシア語70人訳は、「わたしの若さを」。
この影響で、ウルガタ訳には「わたしの若さを喜ばれる神に」(Et introibo ad altare Dei : Ad Deum qui laetificat juventutem meam)とある。
この詩編は第2ヴァチカン公会議以前のミサでは最初の階段祈祷で用いられた。
5節
リフレーン:42:6の本文の問題解説を参照。
まとめ
神は水のように、命にとってはなくてはならないお方である。水はあまりにも身近かなものであって、その有難さがわからない。
しかし、水がなくなると、これが不可欠なものであることがわかる。これは渇きの中で、渇きの苦悩の中でわかるもの。神もそのようなお方だということ。
それでは神は命の神であるかというと、そうではなくて死の神でもある。
実は、神ご自身はわれわれの考えを超えて、命と死の神であると同時に、この両極を超越しておられる。
この神は不在で、残酷と思われるかもしれないが、実は、その不在と残酷さに苦しむ人と共にいてくださり、しかも優しく共にいてくださる。
神が残酷に見えるのは、われわれがわれわれなりに神を考えているからではないのか。それはもう神そのものではない。
真の神はわれわれ人間にはその両極性においてしか捉えられない。
この神が、いかなる人間の苦悩の中でも共にいてくださり、しかも真の喜びの源として現存してくださっている。
したがって、どんな苦悩の中にあっても、人間は自分の人生の幕を引いてはいけない。
わたしたちの祈りとして
神への渇きをもたないことにこそ、問題があるのではないだろうか。
「東京砂漠」という前川清の演歌があるように、東京はじめ日本中は砂漠である。にもかかわらず、渇きがない。
心地良い住環境、発達した交通機関と通信機器、世界中から集められた食材を使った贅沢な食事とそろっていて潤っているかに見える。
しかし、ほんとうに潤っているのだろうか。経済的発展のためと人間のさまざまな欲望を刺激して消費を煽っているが、
心の底にある渇きは見逃されているのではないか。その実、9.11のテロ事件以来、世界中の人々の心に恐怖の陰が広がっている。
それにスマトラ沖の津波が襲った。人々は短絡的に武力や組織力に頼ろうとする。
その陰で犠牲になる人間がいることなど、お構いなし。自殺の増加がそれを物語る。
その深い恐怖に気がついてもいない。現代人の渇きに既成宗教も知らん顔、カトリックも変わりがないのではないか。
せめても、この詩編を読んで、自分の心の奥底にある渇きを感じたい。あるいは、イエスは十字架上で「わたしは渇く」と言われたが、
このイエスを眺めて、その渇きに与るよう努めたい。また人生の激流の中に、避難する「岩」があることを確かめておきたい。
時課典礼では、詩編42は第2週月曜日の朝課第1詩編として、詩編43は第2週の火曜日の朝課第1詩編として用いられる。
この詩編43は典礼改革以前のミサでは始めの階段祈祷で用いられていたもので、そのラテン語は侍者の子供も暗記していた懐かしい詩編である。
参考文献
L・アロンソ・シェケル、「神の不在」(詩42−43)、『神学ダイジェスト』53(1982冬)72−81
同、「神の不在―詩篇42,43の詩的構造―、高柳俊一編『聖書の神と人』、上智大学神学部聖書研究叢書XVIII、南窓社、1083年、93−110
Th.Dockner, "Sicut Cerva...", Text, Struktur und Bedeutung von Psalm 42 uns 43, ATS 67, St.Ottilien, 2001
G.Strola, II desiderio di Dio, studio dei Salmi 42-43, Assisi, 2003
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