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序 死海文書の種類 教団(宗団)関連文書と聖書関連文書 死海文書の写本断片は大小あわせて800ほどある。 それを教団(宗団)関連文書と聖書関連文書の分けることができよう。 前者は、『教団の規則の書』(1QS、4QSa.b・・)、『会衆の規則の書』(1QSa)、『祝祷集』(1QSb)、『戦いの規則の書』(1QM、4QMa.b・・)、『ダマスコ文書』(CD、4QDa.b.・・・)、『律法の幾つかの規定について』(4QMMT)、『神殿の巻物』(11QT)、『感謝の詩編』(1QH)、『ハバクク書注解』(1QpHab)、『ナホム書注解』(4QpNah)、『詩編注解1』(4QpPsa)、『詩編注解2』(4QpPsb)、『イザヤ書注解1』(4QIsaa)、『イザヤ書注解2』(4QIsab)、・・・、『外典創世記』(1QGen.apo)など、クムランの共同体独自の規則や歴史、思想、聖書解釈を内容とするもの。 後者は聖書の本文そのもので、これはこの共同体のみならずほかでも当時のユダヤ教に流布していたと思われるもの。 出土した写本断片の3分の1が、この聖書関連文書に属する。 第1節 聖書関連文書:旧約正典、外典、偽典 聖書といえば、ここでは旧約聖書である。 死海文書を残したのはユダヤ教徒であるから、それは当然であろう。 まずその旧約聖書の本文が書かれた写本断片が多く入手された。 その写本断片はすべてイエス時代ないしそれ以前にユダヤにおいて筆写されたものとして、その古さのゆえにきわめて重要なものである1。 他方、新約聖書の本文も死海文書の中に含まれていたのではないかとの議論があるが、これはきわめて疑わしく、ここではひとまず差し置く2。 死海文書が新約聖書にとって重要なのは、その本文そのものがあったかどうかではなく、別のところにある。その死海文書と新約聖書の関係については後述する。 旧約聖書といっても、現在プロテスタントが正典としている39書のほかに、カトリックが第二正典とする7書がある。 それに3書を加えた外典(プロテスタントにおけるアポクリファ、旧約続編)がある。 正典を問題とするなら、そのほかの偽典 (プロテスタントにおけるプセウド・エピグラファ、カトリックにおけるアポクリファ)も考慮しなければならない。 ここでは、偽典で意味する文書群は、1947年以降死海文書が発見される以前からすでに知られていた初期ユダヤ教文書の正典、第2正典でないすべての文書(『エノク書』や『ヨベル書』など)を意味することとする。 広い意味では死海文書はすべて偽典と言えるので、このような区別は便宜上必要と思う。 他方、このように正典、外典、偽点と区切るのは、キリスト教の観点からであることを忘れてはならない。 また、ユダヤ教が39書を正典とするのも、西暦1世紀末か、2世紀末か議論されているが、いずれにせよ時代が下がってからのことである。従って、死海文書を用いていた人々にとって、正典、外典、偽典の区別がどれほど意識されていたか、別に問わなければならない。 換言すれば、当時は聖書の正典についてはユダヤ教内で多様性があり、流動的であったのではないかと思われ、それだけに正典化の過程を探る手がかりがそこにあるかもしれない。 ここでは、とりあえずキリスト教の観点から正典、外典、偽典と区別して整理しながら見てみる3。 1)発見された死海文書中の旧約聖書本文 まずここで死海文書というとき、1947年以降キルベト・クムラン近くの洞窟のみならず、広くユダ砂漠の各地で発見された写本断片をいう。 クムラン近くの洞窟で写本が発見された当時、イスラエルーアラブ戦争が始まり、その後停戦ラインでユダ砂漠は分断され、分割された両地域でそれぞれ発掘調査と出土品の研究が行われていた。 学問の世界でその間に交流はあったが、大いに制限されていた 。1967年の6日間戦争以来ユダ砂漠はすべてイスラエルの支配するところとなり、その各地で発見された写本断片を総合的に研究するに適した環境となった。 それゆえ、死海文書はワディ・ムラバト、ワディ・ナハル、マサダなどで出土した文書を含んで考えられている。 また、19世紀末、カイロの中世ユダヤ教会堂跡で発見された『ダマスコ文書』も、その写しの断片がクムランの洞窟から発見され、同じ共同体の文書とされているのは周知のとりである。 旧約聖書39書のヘブライ語本文は、エステル記を除いてすべて死海文書の写本断片の中にある。 イザヤ書だけはその全書の写本が出土した。ただし、エステル記については、そのもとになったと思われる物語の写本断片が見つかっている。 しかも、同じ書について複数の写本断片がある場合がかなりある。 たとえば、創世記について第1洞窟、第2,第6、第8、第4洞窟から合計14、それにワジ・ムラバトから1つ出土している。 またカトリックの第2正典(プロテスタントの外典)の中では、シラ書のヘブライ語本文、トビト記のヘブライ語とアラマイ語の本文、それにエレミヤの手紙のギリシア語の本文が断片的に見つかっている。 他方、ユディト記、マカバイ記上下、知恵の書の本文は見つかっていない。 他方、忘れてはならないのはギリシア語訳本文の写本断片もある。 出エジプト記(7Q1=pap7QLXXExod)、レビ記(4Q119=4QLXXLeva;4Q120=pap4QLevb)、民数記(4Q121=4QLXXNum)、申命記(4Q122=4QLXXDeut)。 それにナハル・ヘヴェル出土のギリシア語訳12小預言書の本文(8HevXIIgr) はセプトゥアギンタ研究に新たな光を与えることとなった。 さらにレビ記とヨブ記のタルグム(アラム語訳)も含まれている。 その総数は、スキーンは173を数えたが、現在その数はもっと多いはずである。 これらの聖書本文の写本断片のほかに、出土した経札(Phylactery)やメズーザに含まれている聖書の引用文、教団関連文書の諸文書に含まれる明示的、暗黙的な聖書の引用文、それに聖書注解(ペシェル)に含まれる聖書の引用がある。 ただし、この場合には引用される聖書本文がいかなるものであったか、いっそう微妙な問題となる。たとえば、第1洞窟出土のハバクク書注解が用いたハバクク書はタルグムに近いという研究がある。 そのリストについて、古くはP.W.Skehan, P.W., The Biblical Scrolls from Qumran and the Text ot the Old Testament, BA 28(1965) 87-100;J.A.Sanders, Palestinian Manuscripts 1947-1972, Qumran and the History of the Biblical Texts , edited bu F.M.Cross and Sh.Talmon, Cambridge London, 1975, 401-413があったが、最近いっそう完全なものがある。 全死海文書のリスト、The Dead Sea Scrolls on Microfiche, A Complehensive Facsimile Edition of the Texts from the Judean Desert, Companion Volume, edited by E.Tov, with the collaboration of St.J.Pfann, Leiden, 1993の中にも含まれているが、旧約聖書本文については、E.Urlich, An Index of the Passages in the Biblical Manuscripts From the Judean Desert(Genesis-Kings), DSD 1(1994), 113-129, (Part 2:Isaiah-Chrinicles), DJD 2(1995), 86-107;D.L.Washburn, A Catalog of Biblical Passages inthe Dead Sea Scrolls, M.A.Thesis, Denver Conservative Baptist Seminary, 1983(入手できず) ; H.Scanlin, The Dead Sea Scrolls & Modern Translations of the Old Testament, Wheaton, Illinois, 1993(この著者は、translation adviser for the United Bible Society)がある。 写本断片そのものは、マイクロフィッシュで、前にそのコンパニオン・ヴォリュームをあげた The Dead Sea Scrolls on Microfiche, A Complehensive Facsimile Edition of the Texts from the Judean Desert, edited by E.Tov, with the collaboration of St.J.Pfann, Leiden, 1993に見ることができる。 しかし、これを利用するためには、高性能のマイクロフィッシュ・リーダーが必要である。 現在では、それがコンピューターで容易に見ることができるようになった。 The Dead Sea Scrolls, Electonic, Reference Library, Volume I, edited by T.H.Lim in consultation with Ph.W.Alexander, Oxford Leiden, 1997 これらの聖書本文の公表は、Discoveries in the Judean Desert シリーズで行われているが、第4洞窟以外の洞窟で発見された写本断片はかなり早く公表された。 聖書本文の写本断片が多く見つかった第4洞窟で発見されたものは、その解読および出版がおおはばに遅れていたが、最近その公表が続いている。 DJD・XII(Genesis-Numbers)、1994;DJD・IX(Deuteronomy, Joshua, Judges, Kings)、1995 2)死海文書中の旧約聖書本文の意義 a)聖書本文の伝達事情について 参考文献:一般的基礎知識については、E.Wurthwein, Der Text des Alten Testament, 51988, Stuttgart;邦訳、エルンスト・ヴュルトヴァイン著、鍋谷堯爾・本間敏雄訳『旧約聖書の本文研究』、日本基督教団出版局、1997年;E.Tov, Textual Criticism of the Hebrew Bible, Minneapolis-Assen, 1992; なお、旧約聖書本文および死海写本について一般向きに書かれたものとして、拙稿「旧約聖書の翻訳」、高柳俊一編『神の国に応える民』、東京(リトン社)1994年、59−92頁参照。 さらに詳しくは、
死海文書中のヘブライ語聖書本文は、紀元前2世紀中葉から西暦70年まで、ワジ・ムラバトの12小預言書を入れると西暦135年頃までパレスティナの一ユダヤ教教派が用いていた聖書の本文であり、そこにはこの教派独特の本文事情とともに当時のユダヤ教一般に通じる本文事情も表れていて、その価値は計り知れない。 @)それはまずその古さのゆえに価値があると言わなければならない。 死海文書発見の1947年以前にはヘブライ語聖書に関しては紀元9−10世紀に写された写本の本文、いわゆるマソラ本文より古い本文は、カイロのゲニザ聖書断片(紀元6−8世紀)、それにエジプトで発見された小さなナシュ・パピルス(紀元前)しかなかった。 しかし、死海文書の発見によって西暦10世紀の写本から見ればおよそ1000年も古い聖書本文が手に入った。 ダニエル書の写本の一断片(4QDana)は、前1世紀中頃に写されたもので、ダニエル書作成後およそ100年の筆写ということで、新約聖書本文の最古のパピルス断片P52(西暦2世紀前半)と比すべきもの。 A)つぎにその古い写本断片によってマソラ本文が信頼するに足るものであることが証明された。 前述したとおり死海文書中全聖書の本文が完全にあるわけではないが、イザヤ書はその全書があるので、特筆すべきであろう。これをマソラ本文と比べることによって、マソラ本文が1000年の年月を経て忠実に写し伝えられた本文を保っていることが明らかとなった。 1QIsaは、レニングラード写本のイザヤ書ヘブライ語本文の子音文字と比べて、ほんの小さな相違はあっても、本質的には同じであることのみならず、レニングラード写本のほうが優れていることさえ明らかとなった。 B)他方、紀元70年以前にマソラ本文以外のヘブライ語本文も流布していたことも明らかになった。 つまり、ヘブライ語聖書本文の伝承は多様であったということ。 1952年にクムラン第4洞窟から出土したサムエル記の断片の一つ、第1断片(4QSama)は、前1世紀(前50−25年頃)に筆写されたもので、1サム1:22bー28、2:1ー6 、16ー25のヘブライ語本文を提示する。 これには多くの欠損箇所があるが、これをマソラ本文(MT)とセプトゥアギンタ(LXX)に比べると、4QSama とLXXが共通し、MTとは異なるところが23、MTとLXXが共通し、4QSama とは異なるところが7、4QSama とMTが共通し、LXXとは異なるところが1という結果であった(F・M・クロスによる)。 このように4QSama は、MTと異なるヘブライ語本文を提示しており、他方LXXと共通するところが多いと言うことがわかった。具体的に一例をあげれば、1サム1の23は、MTでは:「この子の乳離れするまで待ちなさい。 ただ主がご自分の御言葉を実現してくださるように」となっている。LXXでは: 「この子の乳離れするまで待ちなさい。ただ主があなたの口から出るものを実現してくださるように」となっている。 4QSamaでは :「[ 欠損 ]待ちなさい。...あなたの口から出るもの...」となっている。 ここでMTが「ご自分の御言葉を」としているところを、LXXは「あなたの口から出るものを」としている。 この違いは、従来LXXの翻訳者による変更と見なされたが、4QSama によって、そうではないということになった。 そこで、LXXの翻訳者はMTとは異なるヘブライ語本文を忠実に翻訳したのではないかということになった。 これはまた、その時代(前2−西暦1世紀)にマソラとは異なるヘブライ語本文が流布していたことを示しており、これは新しい発見であった。その後、4QSama がLXXの底本とは必ずしも言えないと研究は進められてきたが、LXXとMTを比べて異なる場合、その相違はMTと異なるヘブライ語本文によることも考えなければならなくなった。 第4洞窟出土のもう一つのサムエル記断片からも同じ結果が得られている。 また、クムランからマソラ本文と異なり、サマリア五書と同じ本文を示す写本も現れ、この本文がサマリア人に限らず、ほかのユダヤ教徒によっても用いられていたことが明かとなった。 またもう一つの例、イザヤ53:10b−11aは、MTによると「主の望みは彼の手によって成し遂げられる。 自分の魂の労苦に飽かされ、汗に(?)倦まされたが・・・」となっているが、LXXによると「主は彼の魂の痛みを取り上げ、光を彼に示し、聡明に造り上げ、・・}となっており、この「光」は、1QIsaa、1QIsab、4QIsadに確認される。 これは1QIsaaを含め、マソラ本文と異なり、LXXはマソラ本文以外のヘブライ語本文を翻訳したようである。 死海文書中イザヤ書の写本とその断片が多くあるが、その中にはマソラ本文と同じでなくても近いもの、離れているもの、その中間とあったようである。このように、当時ヘブライ語聖書の本文は統一されず、多様であったことがわかった。 その本文の系統は幾つあったのか、そのそれぞれがどこにあったものか、その相互の関係はいかなるものなのか、その系統を明らかにして聖書本文のオリジナルにさかのぼることができるのかどうか、新に検討課題が出てきた。 C)他方、ギリシア語訳旧約聖書についても、新しい認識が得られた。 まず死海文書によって、イエス時代のパレスティナにギリシア語訳セプトゥアギンタの本文があったことが初めて実証された。 ギリシア文化に懐疑的なこの集団がこの聖書をもっていたことは、この聖書がこの地方でどれほど影響力をもっていたかを示している。 新約聖書はすべてパレスチナで書かれたものではないが、旧約聖書を引用するとき、ギリシア語訳旧約聖書、特にセプトゥアギンタを用いる。 このギリシア語訳がマソラ本文を忠実に直訳したものなら問題ないが、そうではなく、しばしば異なる。しかし、その相違はすべての場合ではないが、前述のとおりマソラ本文とは異なるヘブライ語本文によることもある。 新約聖書に引用されるギリシア語訳聖書から一例をあげる。 出エジプト記1:5(創世記46:27も)で、MTによるとヤコブの腰から出た子、孫の総数は「70」、LXXによると「75」で、これは4QExaによって支持され、ここに言及する新約聖書(使7:14)でも「75」となっている。 D)セプトゥアギンタの校訂文: ナハル・ヘヴェル出土のギリシア語訳12小預言書の本文はセプトゥアギンタを校訂したものとしての跡をとどめており、セプトゥアギンタの本文伝承に新たな光を与えるとともに、その校訂の背後にヘブライ語聖書本文も多様なものから標準とすべきものが固まりつつあったことを窺わせた。 1952年、クムランから少し離れたナハル・ヘヴェルの洞窟で見つかった断片は、ヘブライ語本文に一層忠実であるよう校訂が行われたことを明らかにしてくれた。 バル・コクバの反乱(西暦132−135)のときに用いられたその洞窟から、反乱軍の遺品に混じってこのギリシア語訳十二小預言書の本文が見つかったが、ドミニコ会士D・バルテレミーは、その本文がセプトゥアギンタの本文と異なる一方、教父ユスティヌス(2世紀のキリスト教著作家)の引用するギリシア語訳聖書本文と共通する顕著な特徴を有することを見抜いた。 また、古代におけるセプトゥアギンタと並んで年代順にアクイラ訳、シンマコス訳、テオドシオン訳があるのが知られていたが、その新たに出土した本文はこのアクイラ訳に似た様相も呈していた。 さて、このアクイラ訳は西暦1世紀の終わりから2世紀の始めのラビの解釈の影響を受けて校訂されたものであるが、その新たに出土した本文もアクイラ訳ほど徹底してはいないが、同じ影響が認められ、それでそれがアクイラ訳に先行する校訂作業によるのではないかと推論した。 バルテレミーは詳しい検証を重ね、十年後にその成果を発表し、推論したことを再確認した。 その訳文は幾つかの特徴をもっているが、その最も顕著なのは、ヘブライ語の w, g'm を、直訳的にκαιγεと訳していることにあり、そこでこの校訂作業をカイゲ・校訂(καιγε−recension)と呼んだ。 さらに、この同じ特徴をもった本文が、従来テオドシオン訳と言われてきたものであり、またセプトゥアギンタとして伝わっているものの中にも混じり込んでいることがわかった。 これを総じてカイゲ・グループと言うのであるが、それには哀歌の訳文、それにおそらく雅歌とルツ記の訳文、列王のβγとγδ部 (=2サム11の2ー1王2の11と1王22の1ー2王25の30)の校訂文の大部分、特に写本irua2 とBefszにある士師記の校訂文、ダニエル書のテオドシオン校訂文、ヨブ記のセプトゥアギンタ訳文へのテオドシオンによる付加文、エレミヤ書のセプトゥアギンタへの、しばしば匿名者による付加文、ヘクサプラのテオドシオン訳の欄、詩編の第5欄が含まれる。 この校訂を行った人は、テオドシオンと同一人物であるが、この人物はこれまで西暦200年頃の人と考えられていたが、実際は西暦1世紀の始め頃、つまりイエスの誕生とほぼ同じ頃のラビではないかとの見当をつけ、それはヒレルの弟子、ウジエルの子ヨナタンではないかと提唱した。 このようにナハル・ヘヴェル出土のギリシア語訳十二小預言書とバルテレミー師によるその研究は、セプトゥアギンタが翻訳された後ヘブライ語本文にいっそう忠実であるよう一連の作業が なされつつ伝承されたのではないかということを示した。カイゲ校訂文、アクイラ訳、シンマコス訳はその作業の経過の証しということである。 しかも、その作業がイエス登場以前のパレスティナにおいて始まり、ラビの聖書解釈も伴いながら行われたということである。それはまた、翻訳の底本となるヘブライ語本文の伝承についても新たな事実を窺わせることになった。 つまり、イエス登場以前にヘブライ語本文として流布していたのは、我々に知りうるかぎりマソラ本文、セプトゥアギンタの底本の本文、サマリア五書の本文と複数であったが、その中から標準とすべきものが定まりつつあり、そういうものとしてマソラ本文があったということである。 カイゲ校訂文は、セプトゥアギンタの訳文をマソラ本文にいっそう忠実であるようしたものであり、アクイラ訳はその直訳と言うべきものとなっているからである。西暦2世紀以降ユダヤ教徒は、ギリシア語で聖書を読むとき、セプトゥアギンタではなく、このアクイラ訳を手にするようになるが、マソラ本文を標準的なヘブライ語聖書とする彼らにとってそれは当然のことである。 他方、1コリ15の54におけるイザヤ25の8の引用、使2の18におけるヨエル3の2の引用にあるように、新約聖書にカイゲ校訂文の引用があっても不思議ではないということになった。 b)正典の事情について 旧約聖書の正典について、前提となる基礎知識は、拙著「旧約聖書の正典」ー諸教会の共通点と相違点ー、『新共同訳旧約聖書注解、続編注解』、石川康輔ほか編、東京(日本基督教団出版局)、1993年、481−492頁参照。 キリスト教の正典の観点から言えば、(第1)正典書39書は、エステル記を除いてすべてクムランの教団において用いられていた。 そのエステル記がないということについては、たまたまなかったというより、理由があったようである。 エステル記はユダ・マカバイによる神殿の清め(BC164)を祝うプリムの祭りで朗読されるためのものであるが、クムランの教団はマカバイおよびそのハスモネア家に対して憎悪を抱き、さらに自分たちが重んずる伝統的な典礼暦(1QS, X, 1-8a;Jubil)にはこのプリムの祭りがなかったからである。 第2正典に関して、シラ書はギリシア語、ラテン語、シリア語訳でしか伝わっておらず、そのヘブライ語本文は失われていたところ、19世紀の終わりにカイロのゲニザ聖書断片の中から初めて見つかっていたが、またクムランの洞窟とマサダから出土した。トビト記に至っては、初めてそのヘブライ語とアラマイ語の本文が出土した。 エレミヤの手紙(ラテン語ウルガタ訳ではバルク書6, 1-72)も、そのギリシア語本文の小さな断片が出土している。他方、マカバイ記1−2、知恵の書とユディト記はないが、この教団ができてから教団と無縁のところで作られたもので、ここには伝わらなかったと思われる。 特にマカバイ記1−2は、この教団がハスモネア王家に敵意を抱いていたので、伝わったとしても排斥されたことであろう。 クムラン教団の正典の観点から言えば、彼らがどの書を正典としていたかを示す正典目録はないので、明かでないことが多い。彼らもキリスト教が正典とする書をすべて正典としていたかどうか、あるいはキリスト教にとって偽典である書も正典としていたかどうか、問題とすることができる。 しかし、正典の考えはあったことが窺える。それは、古い書体で書かれていることから、また聖書として解釈されていることから、「..と書き記されているように」という言葉で引用されることから、それにエステル記の場合のように教団の信条に合わないものを排除しているように思われるからである。 このようなことを考慮して言えるのは、律法、つまり創、出、レビ、民、申のモーセ五書が正典とされていたことに疑いはない。古い書体で書かれているし、聖句として引用もされている。また、古い書体で書かれた断片のあるヨブ記も特に重んじられており、正典とされていたと見てよい。聖書として解釈されるものとしてイザヤ、12小預言書、詩編がある。 聖書として引用されるものとして、モーセ五書のほかイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、12小預言書、詩編、それにダニエル書がある。 このようにモーセ五書、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、12小預言書、詩編、ヨブ記、ダニエル書は正典とされていたらしい。ただし、12小預言書は前1世紀には一まとめの書となっていたことが ナハル・ヘヴェル出土のセプトゥアギンタ12小預言書やワジ・ムラバト出土のヘブライ語12小預言書からわかっているが、すでに以前からそうであったらしい。またダニエル書も、ここでは預言書として考えられていること(4Q174、DJD 5, 54)も、注目に価しよう。 ダニエル書が諸書に入れられるのは、タルムードの時代になってかららしい。 詩編は正典と考えられていた(11QPsa:col.27, linea 11)が、それは「律法と預言書」のほかの特別のものと考えられていたらしい。 「モーセと預言者と詩編の書」(4QMMT)という聖書の呼び方がある。 これはルカ24の44にある「モーセの律法と預言者の書と詩編」という呼び名と共通している。 この詩編で、諸書を代表させているのかどうか、わからないが、詩編が特別視されていることは確かである。 キリスト教が正典、または第2正典とする書以外については、正典とされていたかどうかはわからない。 他方、ヘノク書はキリスト教では偽典とされるが、これも愛読されており、正典とされていたのではないかとも疑われる(新約聖書ではユダ14-15に引用される)。 また「神殿の巻物」も、新しい律法(トーラ)として正典と考えられていたのではないかという意見もある。 いずれにせよ、「正典中の正典」というべき正典の核はあっても、厳密に定められた正典はまだなく、この点で当時は最終的な正典決定へのプロセスにあったと言うべきであろう。 3)偽典 旧約偽典については、レオンハルト・ロスト著、荒井献、土岐健治共訳『旧約外典偽典概説』付クムラン写本概説、教文館、1972年、144−172頁参照。死海文書中の主なものを指摘するにとどめる。 1.ヘノク書 ヘノク書は、長い間エチオピア教会において正典としてエチオピア語訳でその全体が伝えられてきた。 そのエチオピアでエチオピア語訳の写本は多くあったが、1773年そこに旅したジェイムス・ブルースがその写本を三つ英国に持って帰った。 その一つがローレンス大司教によって訳され、1838年に出版された。 それ以来エチオピア語訳ヘノク書の写本が西欧に多く持って来られ、その本文が刊行され、またそれに基づいて翻訳もあいついだ。 本文の刊行はA・ディルマン(1851年)、J・フレミング(1902年)、R・H・チャールス(1906年)によるものがあり、最近のものとしてM・A・ニッブ(1978年)がある。 日本語訳は、ディルマンの本文に基づいて村岡崇光氏によってなされている (『聖書外典偽典』4、旧約偽典II、教文館、1975年、161−202、339−389)。 ギリシア語訳は、部分的に発見されている。1886年、エジプトのアクミムで11−326が発見された。 976−104、106−107の断片は、1930年にミシガン大学図書館が入手したパピルスにある。 これらギリシア語訳ヘノク書の写本断片は、M・ブラックによって出版された。
このヘノク書の写本断片がかなりの数でクムラン洞窟で発見された。 それによって、この教団にとってのみならず、当時のユダヤ教に広く行き渡り、重んじられていたことが明かとなった。 参考文献 Milik, J.T., The Books of Enoch, Aramaic Fragments of Qumran Cave 4, Oxford, 1976 2.ヨベル書:1Q17, 1Q18, 2Q19, 2Q20, 3Q5(=3QJub)frg.1, 3Q5(=3Q5Jub)frg.3, 4Q176frgs.19-20, 4Q221(Jubf 1), 11QJub 1.11QJub M2, 11QJub M3, 11QJub 2, 11QJub 3, 11QJub 4, 11QJub 5, 8 J.VanderKam, Textual and Historical Studies in the Book of Jubilees、HSM 14、Missoula, 1977 id, The Book of Jubilees, a critical Text, CSCO vol.510, Scr.Aethiopici 87, Louvain, 1989 id, The Book of Jubilees, translated , CSCO vol.511, Scr.Aethiopici 88, Louvain, 1989 3.十二族長の遺言:その中からレビの遺言(1Q21;1Q213, 1Q214;4QTest-Levia)とナフタリの教訓(4QTest-Naphtali)。 4.モーセの昇天:
5.偽典詩編:ヘブライ語の旧約聖書には、正典の詩編が150編含まれている。 そのほかシリア語訳旧約聖書の写本(Mosul 1113)には詩編151、152、153、154、155がある。 詩編151は、LXXと幾つかのラテン語ウルガタ訳聖書写本にもある。 これらはカトリックにとっても正典ではない(トリエント公会議の旧約正典のリストには「詩編150編」と明記されている)。 従って、これらは偽典詩編だが、詩編151、154、155のヘブライ語本文が第11洞窟から出土した。 またシラ51:13−19、30のヘブライ語本文も出土した。第11洞窟と第4洞窟からは、これまで知られなかった詩編も明らかになった。
若干の結論
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