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序 20世紀の中頃、第2次世界大戦直後に、死海北西岸に流れ込む涸れ谷、 ワディ・クムラン近くの洞窟で発見された大量の写本断片は、 その頃民族自決の生みの苦しみにあった現イスラエル国家にとって、 またナザレのイエスに起源をもつキリスト教にとって、最重要の出来事であった。 イスラエル国家にとっては、 それは西暦70年のローマ軍によるエルサレム陥落で終止したかつてのイスラエル人の歴史と文化、 特にその宗教的慣習と思想を証する文書資料として比類なき価値をもつ。 キリスト教にとっては、その創設者イエスとその弟子たちが生きていた同時代、 同民族の残した文書資料として、その信仰を起源において捉えなおそうすると、 それはまた見過ごせない価値をもつ。したがって、その発見は当初から広く世界中で関心の的となってきた。 他方、その頃から激しくなり、 また繰り返されることになるアラブ・イスラエル戦争という政治的状況のもとではあるが、 その研究は国際的な共同作業によって推進されてきた。最初の発見からまもなく、 ワディ・クムラン近くのほかの洞窟でも写本断片が出土し、 写本があった洞窟は全部で11、写本の数は大小あるが、800を数える。 つづいて、その洞窟の近くにあった遺跡、キルベト・クムランが、 発見された写本との関係を明らかにしようとして発掘された。 これと並行して、ワディ・ムラバアトやナハル・ヘヴェルなどほか涸れ谷にある洞窟や、 マサダやキルベト・ミルドなどほかの遺跡でも写本断片の発見が相次いだ。 このようにユダ砂漠一帯の各地で発見された写本は、総じて死海写本と言われる。 それに19世紀末にエジプトのカイロで発見された文書の一つ、 『ダマスコ文書』も、 キルベト・クムランにいた同じ住民が残した文書であることがわかり、 死海文書の中に含まれることとなった。 この文書群を保有していたのは何時ごろの誰なのかについて、 その発見直後から数多くの学説が提唱されてきた。 この問題は、死海文書そのものの検討とキルベト・クムラン発掘調査の結果を、 パレスチナの歴史と社会を書き残したローマの博物学者プリニウス、アレキサンドリアのユダヤ人哲学者フィロン、 それに特にユダヤ人歴史家フラビウス・ヨセフスの著作を比較することによって行われてきた。 そのそれぞれが解釈を伴うので、その学説はすべて仮説で、きわめて多様である。 したがって、その文書群の保有者はまだ明確ではないので、ここでクムラン教団と呼ぶこととする。 死海文書発見直後から、有力な研究者によって、この教団はエッセネ派ではないかと提唱されてきたが、 このエッセネ派説を中心に現在もその問題の追及が行われていると言えよう。 他方、何時ごろに、その歴史的起源があるのかについては、 この教団が始まる頃その指導者が書いたと考えられる手紙(4QMMT)が解読され、 また「ヨナタン王」の名が出る文書(4Q448)の検討が進み、 マカバイのヨナタン時代(前159年―143年)にさかのぼるのではないかというのが有力な説になっている。 それに出土した写本断片それぞれの筆写時期の特定もその書跡判定とカーボン・テストによって推進され、 その大部分がイエス時代以前にさかのぼることに、ほとんど疑いの余地がない。 つまり、死海文書が初期のユダヤ人キリスト教徒の作品とする仮説は、いよいよ蚊帳の外となってきた。 死海文書は内容的に聖書関連文書と教団関連文書に大別される。 この聖書関連文書は、まずキリスト教が聖書として受け継いできた旧約聖書のヘブライ語本文の写本であり、 イザヤ書に限ってはその全書の写本が、ほかの書についてはエステル記を除いてそのすべての書の写本断片が入手された。 またその中の幾つかの書については、そのギリシア語訳聖書本文の写本断片も入手された。 キリスト教が聖書として受け継いできた旧約聖書は正典と言われ、 これは39書を数えるが、そのほかギリシア語訳で伝わる外典、 カトリックの第2正典中のシラ書とトビト記も、そのヘブライ語ないしアラマイ語本文の写本断片で入手された。 またヨブ記は、そのアラマイ語訳であるタルグムの断片で入手された。 さらにこの正典、外典のほかにヘノク書やヨベル書などはその古代訳で伝わり、 偽典と言われるが、これらの書の写本断片も入手された。 この聖書関連文書が旧約聖書の本文伝承および正典決定に至る過程を明らかにするために有する価値ははかりしれない。 他方、教団関連文書はこの教団が産み出した文書で、 この教団の会員が心得とする思想や規定を記した書、ハラハーといわれる律法の実践法を説いた書、 聖書解釈、安息日など典礼に関する文書など多様な文書の写本断片である。 特に1990年代になってその全写本が写真版で公開され、 1997年には各地で発見50周年を祝う国際学会が挙行され、 各写本の解読とその公表も国際的な共同作業によって飛躍的に進み、 今日この大量の写本断片の全貌が見えてきたと言ってよい。 その研究成果は、量的にも膨大なものとなり、 質的にもその緻密な検討の蓄積のゆえに研究者個人がついて行くのがきわめて難しいものとなった。 その研究成果が新約聖書にいかなる光を投げかけてくれるのかは、 これまた大きな課題であり、死海文書発見直後に言われた多くのことは、今日ではほとんど空論の感がある。 死海文書と新約聖書との関係について、 新約聖書の本文がクムランの洞窟にあったかどうかとの問題と、 死海文書と新約聖書が提示する共通ないし類似事項をいかに理解すればよいのとの問題がある。 前者については、1972年、パピルス学の専門家オハラガン(J.O'Callaghan)は、 クムラン第7洞窟出土の小さなパピルス断片の一つ(7Q4)を、 新約聖書の1テモテ316−43ではないか、 もう一つ(7Q5)をマルコ652−53ではないかと提案した (J.O'Callaghan, "Papiros neotestamentarios dé la cueva 7 de Qumran", Biblica 53(1972) 91-100)。 この提案はジャーナリズムにより取り上げられ、かなりのセンセーションを巻き起こした。 もしこれが事実なら、学界の常識を破って、新約各書作成時期が西暦70年以前ということになり、 原始キリスト教の歴史を見直さなければならないかもしれないからである。 これに対して、エルサレムで死海文書解読に当たってきたベノア(P.Benoit)やボアスマール(M.-E.Boismard)、 ベイイェ-(M.Bailet)らの反応は否定的であった。その後20年ほど経って、 ドイツのパピルス専門家ティエーデ(C.P.Thiede)が、 マグダレン・カレッジ(英国)のギリシア語パピルス断片 (Magdalen Greek 17=P64)を7Q4、 7Q5と照合し、オハラガンの提案を支持した (P.Thiede, "7Q-Eine Rückkehr zu den neutestamentlichen Papyrusfragmenten in der siebten Hö ;hle von Qumran", Biblica 65 (1984) 538-559 )。 これが改訂出版され、1990年代に英語と仏語に翻訳され、またもやジャーナリズムによって取り上げられた。 これはまた、前述したエルサレムの学者たちによって否定された(RB, 102, 1995, 570-588参照)。 断片は小さく、そこに読みとれる文字があまりにも少なく、あいまいだからである。 この7Q4、7Q5に関するオハラガンとティエーデの説は、 ベッツとリースナーの共著の中で十分論破されている (オットー.ベッツ/ライナー.リースナー共著、清水宏訳『死海文書』−その真実と悲惨ー、 1995年、リトン社、229−248頁参照)。結論として言えるのは、 7Q4、7Q5は新約書の本文かどうかわからないということ。 さらに、たとえ7Q5がマルコ652−53であっても、 マルコ福音書が西暦70年以前に出来上がっていたことにはならない。 それは同福音書以前の資料だったことも考えられるからである。 それゆえ、オハラガンーティエーデの説は、これ以上考察する必要はない。 1)死海文書と新約聖書にある共通ないし類似事項を判断するときの基本原則 死海文書には新約聖書と比較すれば、共通ないし類似する表現、思想、宗教的慣習が認められる。 またそこには相違点もある。その共通点と相違点については、後述するが、 まずはチャールズウァース編著、山岡健訳『イエスと死海文書』参照。 すでに述べたように、死海文書と新約聖書は、同じユダヤ人のほぼ同時代の文書であり、 それゆえ死海文書と新約聖書の関係、また死海文書を所有していた人々と新約聖書を生み出した人々、 つまりイエスとその弟子たちとの関係がいかなるものかが問われてきた。 まさにそのゆえに死海文書は、20世紀後半多くの人々の関心を呼び、ときには激しい議論を巻き起こした。 日本で話題となったM・ペイジェント、R・リーの著作も、B・スィーリングの著作も、 それぞれ異なるが、そのクムラン教団と原初のキリスト教徒を同一視することで共通し、 厳しい反論も受けた(O・ベッツー/R・リースナー著前掲書参照)。 死海文書研究も新約聖書時代のユダヤに新しい光を投げかけてくれたが、 新約聖書そのものの研究も、特にこの半世紀、飛躍的な進展を遂げた。 それゆえ、死海文書が投げかけてくれる光は、その飛躍的に進展を遂げた新約聖書学の成果に照合して、 なお何を明らかにしてくれるのか、検討しなければならない。 新約聖書各書の理解が時代遅れのまま、 これに死海文書が投げかける光を照合しても、検討はずれである。 そういうわけで具体的な比較検討を始める前に、死海文書と新約聖書を比較、検討する作業にあたり、 その判断の基本原則を弁えておく必要がある。 その原則として、1960年にP・ベノアが提唱したものがある。 これは、今日もなお基本的に有効であると考える。勿論、そこに述べられる具体例は、 今日見直されなければならないものが少なくない。その変更すべきところは変更しなければならないが、 その基本原則を確認しておこう。 それは、三つの命題にまとめられている (P.Benoit, Qumrân et le Nouveau Testament, NTS 7, 1960-1961, 276-296:Id. , Exégèse et Theologie, III, Paris,1968, 361-386:英訳は、 Qumran and the New Testament, in Paul and the Dead Sea Scrolls, edited by J. Murphy O'Connor & J. H. Charlesworth, New York, 1968,1-30)。 このP・ベノアの命題を翻訳し、今この時点でわたしなりに簡単に説明する。 この基本原則の前提となっている新約聖書、特に福音書の理解は、 1964年教皇庁聖書委員会発表の『福音書の歴史的真理性に関する指針』にあるもので、 またこれは1965年、第2ヴァティカン公会議公布の『神の啓示に関する教義憲章』第19項に取り入れられている。 命題1: 「ある時代の共通する傾向を呈してはいるものの、 それぞれ独立した現象でしかないものを、直接的影響による、媒介なしの接触があったものとして、 性急に、また安易に断定することに対して警戒すること」。 説明:死海文書と新約聖書の間に、ときには驚くべき類似がある。 それは、その両者の間に直接の依存関係(ここでは新約聖書は借用する側である) があったことを意味しているかもしれないが、 それはまたキリスト教発生時点のユダヤ全土に共通する思考や表現法が 死海文書と新約聖書の双方に現れていることを意味しているのかもしれない。 それは個々の場合に賢明に見極めなければならない。 当時のユダヤ思想がすべてラビ文書(ミシュナ、トセフタなど)に含まれているとはいえないように、 そのすべてが死海文書に含まれているともいえない。 当時のユダヤ社会はファリサイ、サドカイ、エッセネ、熱心党、サマリア人、ユダヤ人キリスト教徒など多数の集団があり、 多元社会であった。死海文書はその一つの集団が所有していた文書として、 当時のユダヤ教全体に共通する思考と表現法を含むこともあれば、 その集団独特の思考と表現を示すこともある。実際に死海文書と新約聖書にある一般的な類似性、 その特徴ある教え、または表現法における類似性は、 必ずしもクムラン教団と初期のキリスト教徒の間に直接的接触があったことを意味しないし、それを証明するものでもない。 2コリ614−71は新約聖書の中で最もクムラン的な本文である。 ここでは何らかの直接的接触があったかもしれないと考えられたが、 これも必ずしそうとは言えない (Gnilka, J., 2Cor6:14-7:1 in the light of the Qumran texts and the Testaments of Twelve Patriarchs, in : Paul and Dead Sea Scrolls, op.cit., 48-68;Fitzmyer, J.A., Qumran and the Interpolated Paragraph in 2Cor6, 14-7, 1, CBQ 23, 1961, 271-80;ESBNT, 205-17;Murphy O'Connor, J. , Philo and 2Cor 6:14-7:1, RB 95(1988)55-69参照)。 命題2: 「クムラン文書が新約聖書に直接に影響していると証明されると思われる場合でも、 この影響が新約聖書の起源において行われ、キリスト教がその源泉としてエッセネ派から由来するとは、 必ずしも帰結されるものではない。この影響は、むしろ時代が下がってから行われたかもしれず、 ただその新しい運動(キリスト教)の自己表現と組織化に助けとなったかもしれないが、 その創造には何の助けにもなっていない。」 説明:キリスト教の起源には歴史的人物としてのナザレのイエスがいる。 つぎに、このイエスの死と復活の後、生前のイエスの活動と教えはイエスの弟子たちによって受け継がれ、伝えられた。 その際、イエスに対する弟子たちの信仰が前提となっていることはいうまでもない。 最後にその伝承が徐々に書にしたためられることになる。 その27文書が選択され、収集され、キリスト教徒の共同体(教会)によって受容され、 まとめられて新約聖書と呼ばれるようになった。新約聖書の中でも、 まずパウロの自筆の手紙が書かれ、それにペトロの手紙、ヤコブの手紙が書かれた。 つぎにマルコ、マタイ、ルカ福音書と使徒言行録が書かれ、その後ヨハネ福音書などほかの文書が書かれた。 特に福音書によって洗礼者ヨハネやナザレのイエスについて知ることができるが、 福音書は歴史的人物としての洗礼者ヨハネ、ナザレのイエスをそのまま記録したものではない。 それはその著者がそれぞれに伝えられたものを資料として、 各自の信仰的観点から著作意図をもって書きとめたものである。 したがって、福音書から歴史的人物としての洗礼者ヨハネやナザレのイエスをどこまで知ることができるのかは大きな問題であり、 その回答は最小限主義から最大限主義まで分かれてきた。 このことをめぐっての新約聖書学における論争と議論およびその研究成果を踏まえた上で、 新約聖書と死海文書との関係を検討しなければならない。 つまり、新約聖書と死海文書が共通ないし類似する表現ないし思想、宗教的慣習を示していても、 必ずしも歴史的人物としての洗礼者ヨハネやイエスが死海文書を所有していた人々に連なっていたとか、 接触していたとかは言えない。その接触は、洗礼者ヨハネやイエスの活動、 教えが伝承される中で行われたかもしれないし、新約各文書の著者においてあったかもしれない。 「時代が下がってから」というのはこのことをいう。 それゆえ死海文書と新約聖書の共通ないし類似事項があれば、 この念頭において注意深く検討されなければならない。 いずれにせよ、死海文書を有していた人々がキリスト教信仰の発生に決定的影響を働いたとは言えない。 命題3: 時代が下がってからのキリスト教に対するエッセネ派の影響を認めたとしても、 借用された主題は二次的なものであって、けっしてキリスト教のメッセージの本質を構成するものではない。 借用されたものがあっても、まさに新しく独創的な事実に対する奉仕とされているから、 それは借用されることによって深く変換されている。」 説明:死海文書との接触が明らかに認められるのは、 洗礼者ヨハネやイエスにおいてではなく、新約聖書の文書においてである。 しかし、ここでは単に接触があるというだけでなく、死海文書が新約文書研究に及ぼす影響は奥が深いと思われる。 ここで忘れてはならないのは、新約聖書が死海文書にある表現や思想を前提としたり、 借用したりする場合、この表現や思想をそのままではなく、これにさらなる意味を加えている。 つまり、その意味には増幅があるかもしれない。 新約聖書が旧約聖書を用いている場合、 この旧約聖書の用語には新たな意味が加えられているが、 死海文書の用語や表現が借用される場合にも、同じことが言われなければならない。 いわゆる「より充実した意味」(sensus plenior, the fuller sens)ということも意識しておかなければならない。 参考文献:死海文書と新約聖書についての一般的な主なもの Fitzmyer, J. A. The Dead Sea Scrolls, Major Publications, Atlanta, 1990, 173-175も参照
A)死海文書と洗礼者ヨハネ a)共通点と相異点 洗礼者ヨハネは、福音書の中でイエスの先駆者として登場する (マルコ12−8.9−15/マタイ31−6/ルカ31−6. 15−22;マルコ614−29/マタイ141−12/ルカ97−9; ヨハネ16−9.15.19ー42;322−30; それにマルコ1127−33;/マタイ2123−27/ルカ201−8; マタイ37−12/ルカ37−14;マタイ112−19/ルカ718−35)。 それにF・ヨセフスの著作(古誌18, 5, 1[116-119])。 その歴史的人物像はナザレのイエスよりも明らかではない。 福音書のイエスは復活したイエスへの信仰を前提に書かれており、 それをとおしてイエスの歴史的人物像を見通すのは微妙な問題である。 洗礼者ヨハネについても、なおいっそう微妙な問題である。 福音書には歴史的人物としての洗礼者ヨハネについての幾つかの情報が含まれていると前提して、 考えることとする。およそ洗礼者ヨハネが活動していた時代と地域がキルベト・クムランにいた人々に近いということで、 洗礼者ヨハネとクムラン教団の関係があるのではないかと推察されてきた。 死海文書の中に洗礼者ヨハネの名が出るわけではないが、 洗礼者ヨハネがかつてはクムラン教団に属していたのではないかと推論する学者がいる。 福音書によると、洗礼者ヨハネは「荒れ野に呼ばわる者の声」として示される (マルコ13/マタイ33/ルカ34−6/ヨハネ123)。 ルカによると、「幼子(ヨハネ)は、・・・人々の前に現れるまで荒れ野にいた」(ルカ180)という。 さらに、クムラン教団が幼児を養子にとって教育していたというF・ヨセフスの記述(『戦記』II, n.120)に基き、 洗礼者ヨハネは幼い頃クムランで教育を受け、預言者として登場したのではないかという (J.A.T.Robison, HTR50, 1957, 175-191;J.A.Fitzmyer, The Gospel According to Luke, AB 28, New York, 1981, 453-4, 389;)。 しかし、この両者の間に直接の接触があったとは証明されないばかりか、 そうとは思われない。ヨハネは駱駝の毛皮をまとい、いなごと野みつを食べて生きていた。 他方、クムラン教団にとって重要な共同の食事(『戦記』II, n.143;1QSVI, 20-21)には参加していないようである。 その食事においてパンとぶどう酒を飲むが、洗礼者ヨハネはパンもぶどう酒も飲まなかったと言われる (マタイ1118/ルカ733)。それゆえ、洗礼者ヨハネはクムラン教団の一人というより、 荒れ野の中に孤独にいて、しばしば清めの沐浴をしていたとF・ヨセフスが書くバンヌスという人物に近いと言うべきであろう (『自伝』、n.11)。洗礼者ヨハネは、荒れ野の中で孤独に独身で修業しながら、 ユダの荒れ野、ヨルダン地方、ヨルダンの向こうのベタニア(ヨハネ128;326;1040)、 サリムの近くのアイノン(ヨハネ323)で活動しているが、その人物像はむしろ旅する宣教者として考えられる。 たしかにクムラン教団の人々は、イザヤ403に書かれているとおり、 荒れ野に行って神の道を備えることを理想とし、あらゆる不敬虔を離れて、 律法に忠実に生き(1QSVIII:13-15;IX:19-21)、裁きの日に備えようとした(1QIV:11-14, 20-22)。 このエルサレムとその神殿との決別は、出エジプトのとき神が選ばれた民がたどった道を新たに生きることを目指していた。 洗礼者ヨハネは、ヨルダン流域の荒れ野に現れ、悔い改めのための洗礼を宣べ伝えて、 聖なる霊と火による裁きの間近いことを告げていたとはいえ、 そのようなクムラン教団の霊性の影響を受けた者でもなければ、 そこを追放された者または離脱した者とも考えられない。 それは預言者エリヤのような人物であった( マルコ16とその並行箇所/マタイ117−9/ルカ724ー26) ;王下18;ゼカ134参照)。またクムラン教団の人々は、 沐浴儀礼を重視し、 これをくりかえし行い、ふさわしくない者にはそれにあずかれないないようにしていた (1QSII:26-III:12;IV:21-22a;V:13b-14;VIII:16b-17;CD X:10b-13;11:21-22;F・ ヨセフス『戦記』II, 5, 129;発掘調査で沐浴儀礼のための水槽が確認されている)。 洗礼者ヨハネの洗礼は、その沐浴儀礼と比較され、その類似性が強調されたが、 詳しく見れば、その相違点が著しい。洗礼者ヨハネの洗礼は、主としてヨルダン川で行われたが、 それにはかつてイスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に入ったことを再び生きるという霊性があるかもしれない。 他方、このヨルダンは死海文書の中では何も言われない。 また洗礼者ヨハネの洗礼はそのヨルダン川やアイノンの泉など「生きた水」に浸って行われ、 水槽の水は考えられてはいない。クムラン教団では清めの水に入れるのは教団の成員に限られていたが、 洗礼者ヨハネはすべての人に向かって洗礼をよびかけている。 しかも、クムラン教団では沐浴儀礼はその成員が繰り返し行うものであったが、 ヨハネが告げる洗礼は一生に一回限りである。クムラン教団と洗礼者ヨハネの間には、 類似点とともに相違点もあり、これも決定的なものとして見逃すことはできない。 b)洗礼者ヨハネと新しいエリヤ メシアの先駆者としてエリヤが来ると信じられ、期待されていた。 それはご変容のとき(マルコ911−13/マタイ1710−12)、 ヨハネに対するユダヤ人の質問の中で(ヨハネ121.25)、 イエスの宣教の中で(マタイ117−14;ルカ726−30)、 またイエスの死にあたっての人々の発言の中で(マルコ1534ー36/マタイ2746−49) 言われる。預言者と知恵の伝承にあるこの信仰と期待(マラキ書とシラ書4811)は、 死海文書にもある(1QSIX:11:「預言者とアロン[のメシア]とイスラエルのメシアが来るまで」;4Q証言集)。 それに第4洞窟出土のアラマイ語のパピルス断片とメシアの黙示と題される断片(4Q521)がある。 1)第4洞窟出土のアラマイ語パピルス断片 この小さな断片は、前1世紀中頃の筆写で、マラキ書323を念頭に、 主の日の到来をいう文脈の中で、メシアと思われる人物と共に、 エリヤの再来が言われる。「第8番目」とはエッサイの息子の第8番目、 つまりダビデのこと(サム上161−17参照)。このダビデが油塗られて、王となった。 この「油塗られた者」(メシア)とはある役職に任じられた者のこと、 ダビデ王はその王座が永久に続くとの主なる神の託宣を預言者ナタンをとおして得た(サム下71−17)。 この神の言葉はいつまでも有効なものとして、王国が崩壊させられてからも信じられるようになり、 将来かならずダビデのような王、ないし再びダビデが到来するとの期待が続けられた。 したがって、「第8番目」はそのようなメシアを示唆していると言えよう。
2)第4洞窟出土メシアの黙示 もう一つの第4洞窟出土の「メシアの黙示」と題される断片(4Q521)は、 前1世紀前半の筆写で、断片2 iiiの第2行目でマラキ書324aを短縮して引用する。 そのあと、メシアである王の到来とその支配(「王笏」)を前にしての大地の歓喜をいう。 しかし、それに先立つ断片2 ii+4の第5−14行目で、 メシア時代に主なる神が実現してくださる恵みを列挙する。 それはイザヤ書355−6;611−2、詩編1467−9から取られている。 断片2 ii+4
断片2 iii
以上のことを前提として、ヨハネが弟子をイエスに送って尋ねさせたとき、イエスが答えられた言葉を読んでみる。
ここで列挙される恵みは、旧約聖書と死海文書の中で、 主なる神のみが、来たるべき終末のときに実現なさるものである。 今、イエスがそれらを現に実現なさっているということは、 そのイエスが自ら主なる神から使命を受け、メシアであると自覚しておられたことのしるしである。 洗礼者ヨハネはこのしるしを行わなかったが、そのメシアに人々を導いた(ヨハネ1040−42参照)。 したがって、洗礼者ヨハネが新しいエリヤとして考えられていたことが、これでいっそう明らかになった。 それゆえ、洗礼者ヨハネは、預言者エリヤのような出で立ちで、エリヤが活動し、 昇天した(王下第2章)ヨルダン流域に登場したのだった。 マタイ115/ルカ722が、 歴史的人物としてのイエスの言葉なら、そのようにご自分と洗礼者ヨハネを理解しておられたことになり、 もしそれがQ資料の著者の言葉なら、 この著者がそのようにイエスと洗礼者ヨハネを理解していたこととなる。 この著者をとおして歴史的人物としてのイエスがいかなる人物か明らかにされている。 参考文献(前掲の文献のほか)
B)死海文書とイエス はじめに イエスは主として福音書から知られるだけで、 この福音書からその歴史的人物像を復元するのはきわめて微妙な問題である。 他方、死海文書の中にイエスの名が出るわけでもない。 一部の学者の判断を除いて、死海文書の作成ないし筆写は、そのほとんどが、 ナザレのイエスが歴史に登場する以前に書かれたものだからである。 イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたということ(マルコ19−11とその並行箇所)、 その洗礼者ヨハネがクムラン教団に属したことがあったと前提して、 イエスもクムラン教団にいたことがあったのではないかと、想像する者もないわけではない。 それは根拠があまりにも薄く、事実はそうではなさそうである。少なくとも、 イエスは彼らを知っていたのだろうか。これを肯定するために根拠とされるのが、 つぎの福音書の箇所である。たとえば、「生まれつき結婚できない者があり、 また人から結婚できないようにされた者があるが、天の国のために進んで結婚しない者もある。・・・」 (マタイ1912:クムラン教団の人々の中には独身者がいたので、 その彼らのことを考えてのことではないか);「あなたがたは『教師』と呼ばれてはならない。 あなたがたの教師はただ一人、メシアだけである」 (マタイ2310:ここでクムラン教団の正義の教師が考えられているのではないか); 「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら・・・」 (マタイ1815−18:兄弟的勧告の勧めは、クムラン教団にもある:1QS V:25-26参照)。 これはすべてマタイ福音書の著者によるものである。 それが史的イエスの言葉かどうか。そうだとしても、まさにクムラン教団の人々のことだと断定することはできない。 a)共通点と相違点 まず一般的に言えることを確認しておこう。たしかに福音書が伝えるイエスの態度と言葉には、 クムラン教団の人々と共通するものがある。たとえば、 「旅のために何も携えてはならない杖も袋もパンも金も持ってはならない・・・」 (ルカ93−4:104−5;マルコ68−9)は、 F・ヨセフスが伝えるエッセネ派についての、つぎの記述と通じる。 「それ故、旅をする時にも、盗賊に対する用心から武器を帯びているほかは、 まったく何一つ荷物を持たないのである。 彼らの組織のある各町には特に外来者の世話係りが決まっていて、 衣類や(その他の)必需品を管理している」(『戦記』II、124-125)。 実際に、イエス逮捕のとき、ペトロは剣を隠し持っていた(ヨハネ1810:またルカ2238参照)。 イエスは誓うことを禁じられた(マタイ533−37)、 クムラン教団でも入会のための誓いを除いて誓いを禁じている(CD XV:1-5)。 イエスは父母への務めを疎かにして神の供え物をすることを非難しておられる(マルコ711)が、 クムラン教団も貧しい者、困っている者への配慮を命じている(CD XVI 14-16;VI:15-17)。 イエスは離婚について厳しい態度と取られた(「しかし、神は天地創造の初めから、『人間を男と女に造られた』。 『それゆえ、人は父母を離れ、妻と結ばれ、二人は一体となるのである』。 したがって、彼らはもはや二人ではなく、一体である」:マルコ106−8)。 クムラン教団も、ファリサイ派に対してイエスと同様厳しい態度を取る (CD IV:17.21;11Q『神殿の巻物』LVII:17-19)。 滅びと命の二つの道の教え(マタイ713−14)は、 初期キリスト教文書『使徒の教訓』にもあるが、死海文書の中にもある(1QS、4Qアムラムの幻視など)。 しかし、イエスには、クムラン教団の考えと著しく異なるところもある。 イエスは安息日規定に関してファリサイ派の律法主義に対して自由な態度と取られた。 クムラン教団はファイサイ派よりそれを厳しく守るべきものとしていた (CD X:14-23;XI:1-18;4QHalakhaha 2=4Q251とルカ145; マタイ1211−12を比較参照) 「13安息の日にはだれも家畜の出産を手助けしてはならない。 14安息日に13それが水溜や14穴に落ちると、引き上げてはならない。 ・・・16水のある所や水槽に落ちた人の命についてはどれも、 17だれも梯子や綱など道具で救いあげてはならない」(CDXI:13-14.16-17)。 「安息日に水[の中に]落ちた動物を引き上げてはならない。 もし安息[日に]水の中に落ちたのが人なら、その人を引き上げるために自分の衣を差し出す。 しかし、道具を用いてはならない」(4QHalakhaha 2=4Q251, 5-7)。 あなたがたのうち、息子か牛かが井戸に落ちたとき、安息日だからといって、 すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(ルカ145)。 イエスにとって隣人愛と人命尊重が、いかなる法規の遵守よりも優先すべきものであった (マルコ227)。ここにこそ主であり父である神の意志があると考える。 またイエスが考える法的清浄の考えも、クムラン教団とは異なる。 イエスは罪人や税取りとも食事を共にされ、ファイリサイ派の人々の非難を受けられた (マルコ215−17;マタイ1118−19;ルカ736以下など)。 クムラン教団では、教団の食事には成員として資格があり、 法的清浄の状態にあって、白い衣を着てしか参加できなかった (1QSVI:20-22;1QSa II, 17s.:『戦記』II, n.129)。 イエスがエルサレムの神殿に対して取られた態度も、 クムラン教団とは対照的である。クムラン教団の人々は神殿の関係を断ち、 その神殿を汚れていると見なし、そこで捧げられるいけにえに参加することを拒んだ。 その神殿にあった典礼暦ではなく、別の暦を用いて独自で祝祭を執り行っていた。 他方、終末のときに実現される新しいエルサレム、新しい神殿を夢見ていた。 それに対し、イエスは神殿の悪用を批判し(マルコ1115−19と其の並行箇所)、 その破壊が間近であることを告げられた(マルコ132;1458も参照)が、 その神殿に行き、神殿との関係を持ち続けられた。 クムラン教団では正義の教師はモーセの律法を解釈する権威を与えられたものとして考えられているが、 イエスはそれ以上に自らの権威をもって霊と真理においてモーセの律法の考えそのものを新たにする新しいモーセとして、 つまり預言者として登場する。イエスは律法厳守の行き過ぎと堅苦しさ、形式主義に反対された。 こうして当時のユダヤ教諸派と対立することなる。「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられたのを、 あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい」 (マタイ543−44:レビ1918も参照、 しかし、ここでは敵に復讐しないように言われても、敵を愛するようにとは言われない)。 このイエスの態度はクムラン教団とは対象的である。 死海文書ではつぎのように言われる。 「それぞれが神の会議におけるくじに従って9すべての光の子らを愛し、 それぞれが神の報復における咎に従ってすべての闇の子らを憎むようになるためである」(1QS I:9-10)。 「これが、この時にあたって愛と憎みについて導師が心得るべき生活の定めである。 秘めた霊をもつ滅びの人々には永遠の憎み」(1QS IX:21-22) この敵を愛するというイエスの教えは、自らその死をもって実行された。 イエスの死にはこの意味があることも見落とせない。 イエスは教えるだけでなく、教えたことを実行された。 それにまた、イエスの死はシェマーの祈りの実行でもあった。 当時のユダヤ教徒にとってシェマーの祈り(申命記64SS.)は、 キリストの主の祈りのように基本的な祈りであったが、クムラン教団においてもそうであった。 このシェマーの祈りが書かれた経札やメズーザがキルベト・クムランの発掘で発見されている (教札が28箇、メズーザが8箇)。イエスもシェマーの祈りを重視された (マルコ1228ー34とその並行箇所)。 イエスにとって、その祈りの中にある「主なる神」は「父(アッバ)」であり、 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛する」とはいかなることか、 その死をもって示された。その死の宣告は、神殿を批判し、神殿の破壊を予告されたことにある。 それはまさに預言者としてであり、このイエスはかつての預言者エレミヤを思わせる (エレミヤ71−15;261−19参照)。 それは預言者モーセやエレミヤの使命を続ける主の僕(イザヤ5213−15:531−12) の生きかたを貫く頂点でもあった。またそのイエスの死について、死海文書は新しい光を投げかけてくれる。 b)幾つかの個別的主題 1)イエスの十字架刑と死海文書 本HPの「木にかける刑」参照。 またこれと関連して本HP「父なる神の慈愛」も参照。 2)悪霊払い 死海文書の中に悪霊に憑かれた人のために歌う歌ないし祈りがある。 J・S・サンダースが公表した第11洞窟出土の詩編(XXVII欄、9−10行)の中に、 ダビデが作った3600の詩編と446の賛歌に加えて、 悪霊に打たれた人のための賛歌 (w ![]() ![]() ![]() ![]() 第11洞窟出土偽典詩編A 第3歌: IV:4-V:3
第4歌:V:3-13=詩編91
解説 この歌は、その内容から、またユダヤ教(とキリスト教)における詩編91の利用の習慣から、 悪霊に憑かれた人から悪霊を追い払ったり、悪霊に憑かれないように予防するためのものであることがわかる。 詩編91は、まじないのお椀の中にも引用されている (Naveh-Shaked, Bol 11, 6)。「アメン、アメン、セラ」は、 色々な賛歌や典礼文の区切りや、悪霊払いの祈りの歌の終わり(4Q511)、 それに魔除けやまじないのお椀の文の中に出る。この悪霊払いの歌の中で、 光と闇、天軍の将軍ミカエルと闇の将軍ベリアル、真理の霊とサタンが相対立し、 その両者の戦いがそれぞれの人間の中で裁きのときまで行われるということが中心的な考えである。 そのため人間はヤーウェの名を呼び、助けてもらう必要がある。 この悪霊払いの祈りの中で、神ヤーウェの名を唱えるところに核心がある (IV:4;「ヤーウェの名によるまじ[ないの言葉につ]いて」)。 新約聖書の中には、イエスやその弟子たちが行った悪霊払いや病いの癒しが言われる。 その場合、特徴的なのは、「ヤーウェの名によって」行われることはない。 イエスはご自分の権威をもって悪霊を追い払われる(マルコ121−28;51−20; 914ー29など)。またその弟子たちは、そのイエスの名によってそれを行っている (ルカ1017−20;使徒言行禄36.16など)。 つまり、イエスも弟子たちもヤーウェの名によってではなく、 イエスご自身の名によって行っている。それゆえ、人々は驚いたのであった。 また、ここにイエスという人物がいかなるものであるか、この人物の秘義への示唆がある。 このように父、アッバとお呼びになる神ヤーウェの子としての身分とその使命の自覚がイエスにあったことが、 福音書記者によって伝えられている。 つまり神の子、神の独り子としてのイエスという人物の秘義がその公生活において示唆されている。 そこにイエスが受肉した御言葉、人間となった神の言葉であるというキリスト教信仰の出どころがあると言えよう。 参考文献:第11洞窟出土偽典詩編Aについて
3)イエスと正義の教師の関係 死海写本発見当時、 そこに出る正義の教師なる人物とイエスの関係が話題になったが、 今日ではそれをイエスと同一視する学者はいない。 現在、ヨナタン王断片(4Q448)に基づいて、 正義の教師をマカバイのヨナタンの同時代人と見るの傾向が、 優れた学者の中にある。 したがって、正義の教師の崇高な霊性とイエスの霊性は比べることができようが、 歴史的人物として同一視することは論外である。 正義の教師についての初期の議論については、 Jeremias, G., Der Lehrer der Gerechtigkeit, Göttingen, 1963参照。 4)「心の貧しい者」(マタイ5:3)と死海文書(準備中) 5)死海文と新約聖書におけるメシア思想(準備中) 6)死海文書と原始キリスト教 キリスト教の典礼および組織へのクムラン教団の影響は、 時代が下るにつれ認められようが(前述のマタ1815−18)、 その初期の段階ではほとんど認められない。原始キリスト教における財産共有(使436−37、5 1−11)も自発的なものであり、クムラン教団において規律とされたものとは異なる。 また「長老」(使1130;154;使2018)、 「監督」(フィリ11;1テモ31−7;テト17)、 クムラン教団のzeqenimとmebaqqerと比べられるが、そのような役職は離散のユダヤ人社会にも認められるもので、 クムラン教団の影響による役職とはいえない。 しかし、新約聖書に出る重要な用語は、死海文書にもあることが多く、 今後比較検討を要する。
N.B.タルグムの再評価 死海文書の中にタルグムがあるところから、 従来知られているタルグムの中にイエス時代の情報が伝わっているのではないかということで、 その研究が盛んになった(R.Le Deaut, O.Betzなど) |
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