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教皇庁聖書関連公文書総覧
和田 幹男

T)レオ13世教皇(在位1878−1903年)
U)ピオ10世教皇(在位1903−1914年)
V)ベネディクト15世教皇(在位1914−1922年)
W)ピオ11世教皇(在位1922−1939年)
X)ピオ12世教皇(在位1939−1958年)
Y)ヨハネ23世教皇(在位1958−1963年)
Z)パウロ6世教皇(在位1963−1979年)
[)ヨハネ・パウロ2世教皇(在位1979−現在に至る)



 自然科学と歴史科学およびこれに相応した歴史批判的聖書研究の勃興と進展は、 教会の伝統的な聖書解釈ないし読書法といかに両立しうるのかをめぐって、 20世紀は長くて苦渋に満ちた論争の世紀であった。学問研究は最先端の知を求めて、 ときには大胆に新説を提唱して進展してきた。その新説を前に伝統的な聖書解釈は戸惑い、 その解釈を堅持してきた教会の威厳まで失墜するのではないかと、危惧も現れた。 この動揺が場合によっては否定的な結果を招かないように、 それぞれの時代にその時代の問題にいかに対処すべきか、教会は公文書(教皇または教皇庁の文書)をもって、 人間の救いのために担うその責任のゆえに指導的発言を行ってきた。 その概略は、拙稿「聖書はどう読めばよいのか」(『声』誌、1997年10月号)、 「受肉の秘義の中で聖書を読む」(『声』誌、2000年6月号)の中で一般向けに紹介した。 ここでは、その教皇庁聖書関連公文書として、いかなるものがあるか、その全貌を明らかにすることとする。
第1ヴァティカン公会議(1869−1870): 『カトリック信仰に関する教義憲章「神の子」』(Constitutio Dogmatica de fida catholica "Dei Filius")

T)レオ13世教皇(在位1878−1903年)
1893年11月18日: 教皇レオ13世の聖書回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』 (『最も深い御摂理の神』、Providentissimus Deus): この回勅については、拙稿「教皇レオ13世の回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』の意義」、 『サピエンチア』英知大学論叢、第34号(2000年)281−293参照。
1897年 1月13日: 検邪聖省:ヨハネ第1の手紙第5章第7節の本文の正真正銘性についての教令
1897年 6月 2日: 検邪聖省:宣言
1902年10月30日: 使徒的書簡『ヴィギランツィアエ』(Vigilantiae):聖書研究促進のため聖書委員会創設。

U)ピオ10世教皇(在位1903−1914年)
1904年 2月23日: 使徒的書簡『スクリプトゥーラエ・サンクタエ』(Scripturae Sanctae):聖書学の学位(修士号と博士号)を創設。
1904年 4月19日 : 司教修道会聖省:Resriptum
1906年 3月27日 : 使徒的書簡『クオニアム・イン・レ・ビブリカ』(Quoniam in re biblica):神学校における聖書教育について
1907年 4月30日 : ウルガタ聖書の異読収集をベネディクト会に委託。
1907年 7月 3日 : 検邪聖省の教令『ラメンタビリ』(Lamentabili、EB 190-256):モデルニスムスとされる考えを列挙。
1907年 9月 8日 : 回勅『パッシェンディ』(Pascendi、EB 257-267) :モデルニスムスを体系的に提示し、その誤りを指摘。
1907年11月18日 : 自発令『プラエスタンツィアエ』(Praestantiae Sacrae Scripturae)
1907年12月 3日 : ウルガタ聖書出版に関する書簡:ウルガタ訳聖書の批判版を出版するためローマのベネディクト会聖ヒエロニムス修道院に委託した。 これは西欧におけるラテン語訳聖書研究のひとつの重要な拠点となる。
1909年 2月15日 : 教皇庁聖書委員会の公的機関について
1909年 5月 7日 : 使徒的書簡『ヴィネア・エレクタ』(Vinea Electa):教皇庁聖書研究所創設、同研究所の学則制定。
1910年 6月29日 : 自発令『イッリバタエ』(Illibatae)
1910年 9月 1日 : 自発令『サクロルム・アンティスティトゥム』(Sacrorum Antistitum,EB 340-342.343):反モデルニスムス宣誓。
1911年 5月24日 : 教皇庁聖書委員会が行う試験について

 ピオ10世は、その優れた司牧的配慮と崇高な霊性のゆえに広く敬愛された。 この教皇は、一方では聖書が教会の中で広く深く読まれるようにしたが、 他方ではモデルニスムスに対して厳しい態度を取り、聖書の歴史批判学に対しても警戒心を表わした。 モデルニスムスとは、伝統的信仰を近代化して理解し、説明しようとする異端的な試みで、 そういうものとしてドイツのプロテスタント聖書学の影響を受けたカトリック聖書学者がやり玉にあげられた。 その代表的な学者が、ロアジー(A.Loisy)であるが、現代カトリック聖書学の祖というべきラグランジュ (J.-M.Lagrange)もその嫌疑にかけられた。 同教皇時代に教皇庁聖書委員会が出した回答があるが、それは個々の聖書問題を文章化し、 それに対して「肯定的」(Affirmative)か、「否定的」(Negative)か、答えたものである。 その内容は当時の聖書学の成果に対して、ことごとく否定的であった。
1905年2月13日: 回答I: 聖書にある含蓄的引用について。
1905年6月13日: 回答II: 聖書の中の歴史記述について。
1906年6月27日: 回答III: モーセ五書のモーセの著作性について。
1907年5月29日: 回答IV: 第4福音書の使徒ヨハネの著作性について。
1908年6月28日: 回答V: イザヤ書について。
1909年6月30日: 回答VI: 創世記の第1−3章について。
1910年5月01日: 回答VII: 詩編について。
1911年6月19日: 回答VIII: マタイ福音書について。
1912年6月26日: 回答IX: マルコ福音書とルカ福音書について。
1912年6月26日: 回答X: 共観福音書問題について。
1913年6月12日: 回答XI: 使徒言行録について。
1913年6月12日: 回答XII: 聖パウロの司牧書簡について。
1914年6月14日: 回答XIII: ヘブライ人への手紙について。
1915年6月13日: 回答XIV: 聖パウロの手紙におけるキリスト再臨について。

 他方、ピオ10世は聖書学の振興と聖書の普及のために大きな成果をもたらすことになる策も講じた。 聖書学の教員養成と神学校における聖書教育に充実に努めたが、特に前述した1907年、 ウルガタ訳聖書の批判版を出版するためローマのベネディクト会聖ヒエロニムス修道院に委託したことがあり、 1909年にはローマに聖書学の高等研究機関として教皇庁聖書研究所を創設した。

V)ベネディクト15世教皇(在位1914−1922年)

 第1次世界大戦(1914−1917年)もあって、西欧は混乱の中にあったが、 その後聖書学はカトリックの外で大いに盛んになる。M・ディベリウスやR・ブルトマンなどの著作が発表され、 W・F・オールブライトなどのパレスティナ発掘調査が大々的に行われるようになる。
1920年9月15日 : 回勅『スピリトゥス・パラクリトゥス』(Spiritus Paraclitus): 聖ヒエロニムスの死後1500年を記念しての聖書回勅、聖書学に関するレオ13世の回勅の精神を踏襲するが、 反モデルニスム・キャンペーンの勢いは色濃く残った。

W)ピオ11世教皇(在位1922−1939年)

 聖書学の学位を創設し、その学位の取得を神学校などで聖書を教える資格とした。 その専門的研究を促進するために経済的にも策を講じた。 しかし、その在任中、最も大きい問題になったのは迫りくる大戦であった。
1937年3月14日: 回勅『ミト・ブレンネンダー・ゾルゲ』(Mit Brennnender Sorge):ナチスのユダヤ民族撲滅計画を憂い、 警告を発した回勅。これはその後のキリスト教とユダヤ教の対話促進のひとつの基本的文書となったが、 その中で旧約聖書への言及があり、これを神が教育なさる書としてユダヤ人とキリスト教徒が共有するものであることを強調した。

X)ピオ12世教皇(在位1939−1958年)
1943年 9月30日: 回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』(Divino Afflante Spiritu): レオ13世の回勅公布50周年を記念しての聖書回勅。 これはカトリックにおける聖書の歴史批判学に対する態度を大きく転換し、 それを積極的に評価し、奨励した。まずその第1部でこの50年レオ13世以来、 諸教皇が聖書学促進のために果たした業績を総括した。レオ13世については、 その聖書の無謬性の擁護を継承し、明らかでなかったところを補い、 その教えを再確認した。ピオ12世は伝統的信仰の聖書観を重視しながらも、 今世紀初頭の反モデルニスムス・キャンペーンについては言及していないことが注目に価する。 第2部で聖書学の方法論を扱い、聖書批判学を高く評価した。聖書言語の修得の必要性、 本文批判の重要性を説き、ウルガタ訳聖書についてトリエント公会議の決議の意義を明らかにした。 さらに聖書解釈にあたりその字義的意味(sensus literalis)の重要性を指摘しながらも、 その霊性的意味(sensus spiritualis)、つまりその神学的内容を明らかにすることも必要であると説く。 そのうえで聖書は古代の文書としてその時代の文学様式に注目し、 その著者である聖書記者が表現しようとしたことを学びとる必要があると強調する。 このようにレオ13世の回勅で明らかでなかった「まさにこのことは・・」(Haec ipsa...no.123)を解釈し、 これによって創世記の始めの天地創造や楽園物語を歴史としてではなく、 祭司文書やヤヴィストなどといわれるその著者の意図によって解釈する道を開いた。 しかし、この回勅はまだ問題が残っており、その解決には時間が必要であると同時に、 学問の自由があることも忘れず指摘している。この未解決の問題として福音書の解釈法が考えられていた。 当時、R・ブルトマンを始め福音書研究において提唱されていた様式史的研究法には、 歴史的人物としてのイエスは追求できないし、追求してもいけないという主張が結びついており、 ここに問題があったからである。詳しくは同回勅概説参照。
1948年 1月16日: モーセ五書についての聖書委員会によるパリ大司教シュアール枢機卿宛書簡。 このピオ12世の聖書回勅が、聖書の歴史批判学の積極的な側面を取り入れようとするカトリック聖書学者を励ましたが、 実際にこの回勅によって励まされ、聖書学を押し進めた学者たちが第2ヴァティカン公会議(1962−1965年)を裏で支え、 その公文書作成に大いに貢献することになる。 他方、この回勅の主旨を否定する保守的な教会指導者も依然として残った。 この緊張した状況のもとで、この時代のモーセ五書研究の成果を無視できないことを認めた書簡。
1950年 5月13日: 教皇庁聖書委員会の訓令『サンクティッシムス・ドミヌス』 (Instructio Sanctissimus Dominus ad Exc.mos Ordinarios Locorum et Supremos Religionum Moderatores, Rev. mos Seminariorum Rectores et Sacrae Scripturae Lectores : de Scriptura Sacra in Clericorum Seminariis et Religiosorum Collegiis recte docenda, 13 Maii 950, AAS 42, 1950, pp.495-505): 神学校と修道者教育機関における正しい聖書教育について
1950年 8月12日: 回勅『フマーニ・ゲネリス』(Humani Generis)
1953年 6月 9日: 教皇庁聖書委員会の宣言:B.Bonkamp, Die Psalmen, 1949, Freiburgi対する非難。
1955年12月15日: 教皇庁聖書委員会の訓令:聖書団体や集会について
 ピオ12世の時代には、実際には現代聖書学の成果を積極的に評価しようとする学者と、 これを疑問視して伝統的聖書解釈を踏襲しようとする教会権威筋が対立し、せめぎあった。 その対立が顕著に現れたのが、ピオ12世の聖書回勅の精神に沿って、 また時代の要請に応えて書かれた聖書入門書 (Introduction à la Bible sous la direction de A.Robert et A.Feuillet, 2 vol., Tournai:Desclée, 1959) の発行にあたってであった。この書物の原稿が発行の前に教皇庁にその承認を求めて送られたが、 その返答は否定的であった。 それに対してフランス・ストラスブルグのJ・J・ウェバー司教や教皇庁聖書研究所の前学長A・ベア(後の枢機卿)などの支援のもとで、 神学校における聖書入門書としてではなくという条件のもとで、 やっと1959年に発行されるということがあった。それはヨハネ23世の時代になってからであった。

Y)ヨハネ23世教皇(在位1958−1963年)
1961年6月20日: 検邪聖省の戒告(Suprema Sacra Congregatio Sancti Officii, Monitum Biblicarum disciplinarum de germana veritate historica et obiectiva S.Scripturae, etiam quoad dicta et facta Christi Iesu, 10 iunii 1961:AAS 53 (1961),p.507):聖書が述べる歴史の客観的真理について
 それはまさに第2ヴァティカン公会議の直前にあたるが、 1961年6月20日に検邪聖省はひとつの戒告(MONITUM)を公表した。 これは、聖書の純正かつ歴史的に客観的な真理に反対する学説と意見に対する警告であった。 内容的にこれは一般的にそう主張するにとどまるものであった。 しかし、同時に教皇庁聖書研究所の2人の優れた教授リヨネ(S.Lyonnet, +1989)とツェルヴィック (M.Zervick, +1975)を教職から追放するとの指令が通告された。 これは1962年10月の新学期から実行された。リヨネ教授はその最後の講義で涙を流して教壇を去ったと聞く。 このとき教皇庁を動かしたのは教皇庁立ラテラノ大学の聖書学教授ロメオ(A.Romeo)であり、 これを支持した実力者ルフィーニ枢機卿(Card.Ruffini)であった。 これらの出来事は第2ヴァティカン公会議において聖書について激しい論争が行われたが、 その公会議直前の状況の一端を窺がわせてくれる。
1961年6月26日: 検邪聖省の教令:J.Steinmann, La vie de Jesus, Parisに対する非難。

Z)パウロ6世教皇(在位1963−1979年)

 パウロ6世は、ヨハネ23世が招集した第2ヴァティカン公会議(1962−1965年)を続行し、 首尾良く締めくくるのに驚くべき手腕を発揮しただけでなく、 その決議事項を力強く実践に移していく上でも精力的に指導力を示した。 パウロ6世は、まず教職追放された2人の教授を復帰させると共に、 ピオ12世が未解決として残した問題、 福音書と歴史(史実のイエス)の問題について検討するよう教皇庁聖書委員会に指示した。 それは、まさに第2ヴァティカン公会議中のことであった。
1964年4月21日: 教皇庁聖書委員会『ヘック・マーテル・エクレジア』(Haec Mater Ecclesia、福音書の歴史的真理性に関する指針): ここでブルトマンが取った哲学的前提を抜きにして、様式史的研方法を福音書研究に適用することの有効性を認めた。 それだけでなく福音書の歴史的真理性を見極めるために、歴史的人物としてのイエスが活動した段階、 その死と復活のあと使徒たちがイエスを宣べ伝えた段階、 それを資料として福音記者が福音書を著作した段階があったことを意識する必要があることを説いた。 このように福音書に記述されていることがそのまま歴史的事実だとする考えを退け、 当時広く採用されるようになった編集史的研究法の重要性を認めた。 また同時にそれぞれの福音書の背後に原始教会の伝承があり、 またその起源に歴史的人物としてのイエスがいることを確認した。 このイエスが具体的に何を述べ、何を行ったかについては言及せず、 今後の研究に委ねたと言えよう。この内容は第2バチカン公会議の啓示憲章第5章第19項に取り入れられた。 この啓示憲章はその全体が20世紀のそれまでの聖書学の成果をまとめて評価すると同時に、 その後に方向性を与えた一大金字塔である。
1965年11月18日: 第2バチカン公会議、『神の啓示に関する教義憲章』
 第2ヴァティカン公会議後、一方では公会議の決議事項を実践に移していく作業が着々と押し進められたが、 他方その公会議では予測できなかった規模で世界の情勢は発展し、変化していく中で、 新たな問題が次々と起こった。この一般的に言えることが、聖書研究にも言える。 公会議決議事項の実践の中で聖書に関係する主な文書は、つぎのとおり。
1969年 5月25日: 典礼秘跡省発表の教令『ミサの中で用いるべき聖書朗読の配分』(Decretum Ordinem lectionum de ordine lectionum Scripturae sacrae in Missa adhibenndo):ミサにおける聖書の活用の刷新。
1971年 4月11日: 聖職者省発表の『要理教育の一般的指針』(Directorium catechisticum generale): 要理教育における聖書の利用を刷新しようとするもの。
1971年 6月27日: パウロ6世の自発令『セドゥーラ・クーラ』(Sedula cura):教皇庁聖書委員会の機構改革を行い、 現代の問題にいっそう効果的に答えることができるようにした。
1974年12月 7日: 教皇庁聖書委員会『聖書学学位修得のための試験範囲』 (Ratio periclitandae doctrinae ad academocos gradus in Sacra Scriptura candidatorum):
1975年 2月22日: キリスト一致事務局『各地方、各国。各地域ごとのエキュメニズムの協力について』: (La formatione teologica dei futuri sacerdoti) エキュメニズムにおける聖書の利用。
1976年 2月22日: 教育省『未来の司祭の神学的養成』: (La collatoration oecuménique au plan régional, au plan national et au plan local ) 神学生養成における聖書の位置について述べる。

[)ヨハネ・パウロ2世教皇(在位1979−現在に至る)

 教皇ヨハネ・パウロ2世も、自ら選んだその教皇名にも現されているように、 ヨハネ23世が開催し、パウロ6世が締めくくった第2ヴァティカン公会議の精神を継続し、 その決議の実践をいっそう力強く推進している。
1979年 4月25日: 使徒憲章『スクリプトゥラールム・テザウルス』(Scripturarum Thesaurus): 新ウルガタ訳聖書の発行の公表
1981年 1月21日: 典礼秘跡省教令『ミサ用朗読聖書配分規則』と『前置き前提事項』 (『朗読聖書の緒言』.カトリック中央協議会,1998年)
1981年: 教皇庁聖書委員会『聖書に照らして見た信仰と文化』 (Fede e Cultura alla luce della Bibbia, Atti della Sessione plenaria 1979 della Pont.Comm.Biblica, Editrice Elle Di Ci, Torino, 1981):教皇庁聖書委員会の機構改革のあと、 最初に公表した文書で、ここでは同一の主題について各委員が発表した研究成果を羅列している。
1983年 1月25日: 『カトリック新教会法典』(有斐閣、1992年):第252条、第825条
1983年 6月29日: 教育省教令『ヒエロソリマエ』(Hierosolymae): エルサレムの聖書研究所に聖書学博士の学位を授与する権限を与えた。
1984年 1月15日: 教皇書簡『クワンタ・ヴェネラツィオーネ』(Quanta Veneratione):ウルガタ訳聖書の発行と改訂。
1984年: 教皇庁聖書委員会『聖書とキリスト論』(De Sacra Scriptura et Christologia): 英知大学キリスト教文化研究所『紀要』第15巻第1号、 平成12年(2000年)、43−106頁(和田−ボナツィ訳)に掲載。その概説、同誌107−125頁も参照。
1987年11月16日: キリスト教一致事務局と世界聖書協会事務局『共同聖書翻訳のためのガイドライン』改訂版
1988年 4月11日−15日: 教皇庁聖書委員会『教会における統一性と相違性』 (Unité et Diversité dans L'Église, Textes officiel de la CBP et travaux personnels des membres, Vatican, 1989)
1989年10月15日: 教理省の書簡『キリスト教的瞑想の幾つかの側面について』(Congregatio pro doctrina fidei, Epistula Orationis formas ad totius Ecclesiae catholicae episcopos: de quibusdam rationibus christianae meditationis, 15 octobris 1989: AAS 82(1990)pp.364-366)
1989年10月: 国際神学委員会『教義の解釈について』 (Commissio Theologica Internationalis, Documentum Interpretationis problema de interpretatione dogmatum, octobris, 1989)
1990年10月18日: 『カトリック東方諸教会新教会法典』 (Johannes Paulus PP. II, Codex Canonum Ecclesiarum Orientalium, 11 octobrsi 1990, AAS 82(1990) ;Can.346;350;607-616;646-647;651;654-655 ;663
1993年11月18日: 教皇庁聖書委員会『教会における聖書の解釈』 (L'interprétation de la Bible dans L'Église)。 公式発表は1993年4月15日、教皇による公式受諾は同年4月23日であったが、 実際の出版は11月18日で、原文の仏文と共に英、独、伊、西など主な現代語各国語で出版された。 ここには教皇ヨハネ・パウロ2世の歓迎の辞 J・ラッツィンガ−枢機卿の序も共に掲載。 レオ13世の聖書回勅から100年、ピオ12世の聖書回勅から50年を記念して出されたこの文書は、 この100年の聖書解釈の学問的成果を総括し、その現状を広く見渡し、今後辿るべき方向を探る。 同文書概説・序および同文書概説を参照のこと。
1998年 3月16日: ユダヤ教徒との宗教的関係のための委員会『わたしたちは記憶にとどめます:ショアを反省して』 (We Remember:A Reflection on the Shoah):英知大学人文科学研究室紀要『人間文化』、 第3巻、2000年3月、161−175頁に掲載。またその解説、同57−71頁も参照。 聖書の反ユダヤ主義的解釈とその結果を反省。
2000年 3月 7日: 教皇庁国際神学委員会『記憶と和解』 (Memory and Reconciliation : The Church and the Fault of the Past)。 大聖年にあたって発表されたこの文書は、直接に聖書を主題としたものではないが、 第2章で過去の罪を認め、告白することについての旧約、新約聖書の教えをまとめている。 2002年.カトリック中央協議会より発行。
2000年 8月 6日: 教理省宣言『ドミヌス・イエズス』―イエス・キリストと教会の救いの唯一性と普遍性について―。 これは今日の問題として宗教的多元性が神学の課題としていろいろと取り上げられる中で、 カトリック信仰にとって疎かにされてはならない基本的最重要事項を確認した教義学上の文書である。 宗教的多元性という現代の文脈の中で、イエスをいかに理解すべきかということに関しても、 いろいろな学説が提唱されていて、それは聖書を解釈する場合も無視できない。
2001年 5月24日: 教皇庁聖書委員会『キリスト教徒の聖書におけるユダヤの民とその聖書』 (Le peuple juif et ses Saintes Écritures dans la Bible chrétienne)。 ユダヤの民の聖書は、キリスト教徒の聖書の中では旧約聖書として受容されている。 この旧約聖書と新約聖書の関係について明らかにしたもの。
[聖書学の発展に対するカトリック教会の公式の態度表明についての参考文献]
1. Church Pronouncements, The New Jerome Biblical Commentary, edited by R.E.Brown et al., New Jersey, 1990, pp.1166-1174
2. Chiesa e Sacra Scriptura, Un secolo di magistero ecclesiastico e studi biblici, Roma, 1994
N.B
AAS は、ヴァチカン広報誌 Acta Apostolica Sedis の略
EB は、Enchiridion Biblicum, Documenti della Chiera sulla Sacra Scrittura, Bolgna, 1993の略

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