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X セラビト・エル・ハディムと原シナイ文字
和田 幹男


 スエズの町からシナイ半島西岸に沿って120kmほど南下すると、 アブ・ゼニマ(Abu Zenima)というところがある。 このあたりから少々後戻りして、シナイ山岳地帯内部に入り、50kmあまり進むと、 セラビト・エル・ハディム(Serabit el Khadim)への登り口(写真上)がある。 ここからは徒歩でしか行けない(写真下)。 わたしが行ったときは、クリスマス直後だから、熱くはなかった。空気はあくまで澄み切っていて、遠くまで見通すことができた。 1時間ばかりであっただろうか、歩いて登りきると、セラビト・エル・ハディムの聖所跡がある。 ここはトルコ石の産地で、エジプトの歴代のファラオは、 前2千年紀前期の中王国時代からヒクソク時代を除いて新王国時代まで遠征隊を派遣し、ここからトルコ石を持って来させた。 シナイ半島は全域で銅鉱山があり、そのほか鉱物や貴金属の産地があるが、それがセラビト・エル・ハディムの近くに多い。 その遠征隊は、旅の安全と成功を願って神々への熱い信仰を怠ることはなかったが、ここは特にハトル女神への信仰の中心であった。 この女神は「トルコ石の貴婦人」と呼ばれ、ここに来た遠征隊は、記念碑を建てた。 岩を掘って造った聖所の前に、つぎつぎその石碑を建てて加えていったので、石碑の列が出来た。 その奥に聖所があることになった。
 このセラビト・エル・ハディムは、聖書とは直接の関係はない。 しかし、聖書の民イスラエルの先祖がいたエジプトの活動がここでしのぶことができる。 さらにここに鉱山があったわけだが、その鉱山で「アジア人」の労働者が働いていたことがわかる。 エジプト人が「アジア人」というとき、シリアやパレスティナ出身の人々のことである。 また文字の歴史にとってきわめて興味深いことに、 その労働者が書き残したと思われる最も古いアルファベットがここで発見された。 これは原シナイ文字(the proto-sinaitic inscription)と言われる。 フェニキア人によって西洋にもたらされ、広く世界中でられるようになった文字の原型がここにある。

 セラビト・エル・ハディム
セラビト・エル・ハディムの聖所跡の入り口。
この聖所のまわりに鉱石の採掘場がある。
記念碑の列が聖所の前まで続く。
石碑にはエジプトの象形文字が書かれており、 その内容は奉納物の列挙などである。
石碑の列の奥に岩穴に彫った聖所がある。写真の中の右にハトル女神の聖所、  左にソプドゥ神の聖所がある。その聖所の前に石柱が並ぶ前庭があった。
柱頭のハトル女神 T.Kowaslki 師撮影
聖所の近くにある山の中の最高峰
 原シナイ文字
 原シナイ文字は聖所のあったところで発見された。それはカイロにある国立博物館にあると聞く。 そのほか、この付近の谷にあるいくつかの洞窟の中にも残されている。写真はその一つの洞窟に向かってくだっていった谷。 労働に服していたアジア人がその洞窟に寝泊りしていたのであろうか。
 現場の原シナイ文字(the proto-sinaitic inscription in situ ): 最も単純な文字群で、縦書きである。 上から角のある牛の顔はアレフ(aにあたる)、次の文字はラメド(l)、 丸いのはアイン、波型はメム(m)であり、’e l‘olam、「永遠のエル(神)」と読める。 「エル」はアジア人(カナン人)の神。T.Kowaslki 師撮影。
(写真をクイックすると拡大します)
 左に縦書き、その下に左から右に横書き。 その意味は学者が議論するところで、はっきりしないが、縦書きのところは、「鉱物溶解労働者たちよ、 勧めについて霊媒のもとで、どこをうろついているのか」、  横書きのところは「貴婦人の光の言葉を聴け」と読めるかもしれない(E.Puech, RB CIX, 2002, 5-39参照)。 T.Kowaslki 師撮影。
(写真をクイックすると拡大します)

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