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V サンタ・カタリーナ修道院
和田 幹男



 日本人は深い森林に覆われた山並みに心が安らぎ、神秘を感じる。 他方、緑の衣を剥いだ裸の大地がどれほど美しいか、想像できないかもしれない。 はじめてシナイ山を訪れたとき、わたしは荒れ野と岩山そのものの美に驚かされた。 夜には無数の星が降り注ぎ、日が昇ると山陰の濃度が徐々に薄らいで、灼熱の真昼になる中を、 赤みや青紫ぎみや黄色みがかった色とりどりの岩山がその姿を刻々と変えていく。 また日が西に傾き、夕暮れ時のその姿は、ことのほか美しい。 しかも、それがまったくの静寂の中で繰り返される。 ひとりの人間など、いかに小さく、弱く、儚い存在か、自ずと知らされる。 昔、日本では森の奥に「カミ」がおわしますと思ったように、ここでは岩や石に「カミ」が宿っておられると感じたに違いない。 ここにも元来、アニミズム信仰があった。一神教は、風土の産物ではない。 それは人間が肥沃な土地で人間の歴史をとおして学ばせていただいた神への信仰である。 さて、そのアニミズム信仰と一神教信仰は相容れないものであろうか。 アニミズム信仰は、この世界を超越するが、同時にそこに内在する唯一の神を感じ取っていたことの証しではないのか。 そういうわけであろうか、唯一神の信仰をもつようになってからも、人々はこの峻厳で、静寂で、魅惑的なシナイの岩山に来て、 神の声を聞こうとしてきた。R・オットーは「聖なるもの」を、 「魅惑的で恐れ多き神」(Deus faschinans et tremendum)と言った。 シナイ山は、まさにこの聖なる神を体験するに適したところである。 写真はジェベル・ムサ山頂に直行する道の途中から見たサンタ・カタリーナ修道院。
 シナイにおけるキリスト教徒の起源
 キリスト教徒が来るまでこの地方を行き来していたのは、ペトラを拠点とするナバタイ人であった。 彼らはシナイの山岳地帯に隊商路をもっていて、エジプトとの交易を盛んに行っていた。 彼らはその隊商路近くの岩に落書きを残している。しかし、この地方に最初に移動してきて定住したのはキリスト教徒であった。
 教会史家エウセビオス(西暦265−340年頃)は、 330年頃に執筆した『地名人名事典』というべき著作の中でシナイ山について、 「彼ら(イスラエルの子ら)はシンからラフィディンに、ここからシナイの荒れ野、シナイ山のもとに来た。 ここでモーセは律法の石版を受け取った」 (Eusebius, Das onomastikon, Der biblischen Ortsnamen, GGS 11, T, Leipzig, 1904, Nachdruck Hildesheim, 1966, 152, 172)と書く。 ここでジェベル・ムサを考えて、シナイ山と言っているらしく、 これが正しいと、シナイ山がどこかを同定する最初のキリスト教文書ということになる。 ユダヤ教にはそのような同定はない。そこから、著作が書かれた4世紀前半に、この地にキリスト教徒がいたことが推し量られる。 写真は森口泰行氏年撮影
 それより以前に、この地におけるキリスト教徒の起源を求めることができるだろうか。 ローマ帝国による迫害を逃れて、キリスト教徒がエジプトやパレスチナから来たことが考えられるが、闇に包まれている。 修道院にある言い伝えによると、330年頃に、ローマから聖地に来たコンスタンティヌス大帝の母、 聖ヘレナはこの地の修道者の願いにより、神の母・聖マリアの小聖堂と、燃える柴のあったところに避難用の塔を建ててもらったとあるが、 これでは正確な事実はわからない。
 その修道者がどこからやってきたかについても、はっきりしない。 それはシリアの修道者かもしれない (D.J.Chitty, The Desert A City, An Inroduction to the Study of Egyptian and Palestinian Monasticism under the Christian Empire, Crestwood, New York, 1966, 168)。 教会史家キュロスのテオドレトゥス(393−466年)は、 その著作『シリアの修道者の歴史』の中で、ユリアノス・サバが従者を連れて、シナイを訪れ、 その静けさに深い感銘を受けたと書いている。この訪れが事実なら、360年頃のことである。 そのとき、そこに修道者がいたかどうかについては触れられてはいない。
 シナイの修道者が始めて文書に出るのは、ソーゾメノスの『教会史』(439−450年の間の著作)の中であり、 その修道者は名をシルヴァノスという(PG 67, col.843-1630, 1392c参照)。 この修道者はパレスチナ出身で、380年頃、修道生活発祥の地エジプトに行き、スケティスからシナイに移り、 しばらく留まった後ガザ地方に去っていったという。 このシルヴァノスの言葉が『砂漠の師父の言葉』(古谷功訳、あかし書房、426−430頁参照)の中に伝わっているが、 ここでは彼は「シナイの師父」と呼ばれている。 彼は高徳の人で、弟子が多くいたらしく、その一人、ネトラスはパラン(=フェイラン)の司教となっている。 ここにこの地方のキリスト教徒の中心があって、司教座があり、長く続いた。 4世紀から5世紀にかけてシナイ地方で孤独に修道生活を営もうとするものが急速に増えていったことは事実である。 彼らの状況は、その頃ここを訪れたエゲリア(エテリア)の巡礼記によって知ることができる。 当時、ここの修道者たちは荒れ野や岩山のあちこちにそれぞれ庵(いおり)を設け、僅かの土地を利用して自給自給の生活をしていた。 彼らは訪問客があれば、暖かくもてなし、請われれば質問に答えていた。

 エゲリア巡礼記
 1884年、イタリアのアレッツォで、G・ド・ガムリーニによって発見されたこの巡礼記の写本は、 11世紀の筆写で、始めと終わりに欠損があるが、七世紀のピエルツォのワレリウス書簡などによっても言及されている。 この巡礼記の著者も、エゲリアかエテリアかまちまちで、その出身地も南ガリアかスペインか、その身分も修道女かどうか、謎が多い。 ただそれが敬虔な女性であることは確かで、4世紀の終わりにシナイ半島、トランス・ヨルダン、エルサレムをはじめパレスチナ、 さらに北シリア、メソポタミアのエデッサまで大旅行を敢行し、そのとき見聞きしたことを書き残している。 そのシナイ山を見たときの感激をこう書いている。(本書は最近日本語に訳され、買いに行ったが、入荷していなかった)

 「1.[欠損]・・・聖書にしたがって説明がなされました。わたしたちはさらに歩きつづけ、 ある地点に来ますと、道中まわりにあった山々が開け、限りなく広がる平原となりました。 広大で、まっ平らで、きわめて美しい平原でした。平原の向こうに神の聖なる山シナイが現れました。 この山々が開ける地点は、貪欲の墓があるところの、すぐ近くにありました。 この地点に来ますと、あの聖なるガイドたちは、 "ここに来て、初めて神の山を見る者は、ここでお祈りをするのが慣わしにとなっております"と勧めました。 わたしたちもそうしました。この地点から神の山まで、広大だと申し上げたあの平原をとおって行けば、 全長はおそらく4000パッススありました。
 この平原はきわめて広大で、神の山のすそに広がっていました。 それはわたしたちに目測できたかぎり、また彼らがいうところによりますと、長さがおよそ16.000パッススありました。 巾は4000パッススあると言っておりました。従って、山に入るためには、この平原を横切る必要がありました。 これこそ、モーセが主の山に登って40日40夜そこにいる間イスラエルの子らが留まっていた広大で、まっ平らな平原なのです。 これが、あの子牛が造られた平原であり、その場所は現在でも指摘されています。そこには大きな石がおかれています。 この平原こそ、その一角で、 しゅうとの羊の群れを飼っていた聖なるモーセに神が燃える柴の中から繰り返し語りかけられたところなのです・・・・」(私訳)。 写真は燃える柴に近づくモーセ、サンタ・カタリーナ修道院のモザイク

 この巡礼記の一節からもわかるように、シナイの修道者たちは聖書に出ている場所を、つぎつぎに案内したことがわかる。 その場所はいずれも、イスラエルの先祖たちが聖書に出ている出来事を体験したところというよりも、 ここの修道者たちがその出来事を黙想するために定めていたところである。 実際にこのシナイ山付近には、出エジプト記に出ている出来事を思わせるのに適したところが揃っている。 エゲリアが案内されたのも、そういう場所だった。モーセが燃え尽きない柴の光景に遭遇し、その中から神に呼びかけられ、 使命を受けたという神体験の場所(出31−15参照)も、聖書ではミディアンにあったと言われるが、 ここの修道者はこのシナイ山のふもとと見ていた。それは現在、修道院内の大聖堂中央祭壇の奥にあったとされている。 このようにまたジェベル・ムサをシナイ山とする習慣の起源も、ここの修道者にあると思われる。 写真は左にジェベル・ムサと右の奥に最高峰ジェベル・カタリーナ
 このシナイ山付近のみならず、シナイ半島のあちこちに静寂の中で神の声を聞こうとして、厳しく孤独な生活を営む修道者がいた。 聖アントニオスはエジプトのナイル川中流近くの砂漠で孤独にイエス追求の生活を始めた (「アレクサンドレイアのアタナシオス『アントニオス伝』」(小高毅訳)、『初期ギリシア教父』、 中世思想原典集成1、編訳監修=上智大学中世思想研究所・小高毅、平凡社、1995年、767−847頁参照)。 このアントニオスの生活形態は、多くの追従者を得たが、それがかなり早くからシナイ半島にも及んできた。 彼らは、通常の市民生活をしながら、いっそうイエスに追従しようとして砂漠に入ったのであって、 今日のような教会組織によって承認された修道者という意味での修道者ではなかった。 むしろ一般信徒としてのイエス追求を徹底させようとしての生活形態であった。 これが発展して、いわゆる修道者になるわけだが、この初期のイエス追求者たちは隠修者とか言われるが、ここでは修道者と言おう。 この初期の修道者たちの言葉が集められて、愛読されてきた。 それがアポフテグマタ・パートルム(Apophtegmata Patrum)、前述した『砂漠の師父の言葉』という本に集められている。 その言葉は、福音書の勧めに素朴に従った初期の修道者の魂が迫ってくる。 その中にはシナイ半島の各地にいた修道者たちの言葉も含まれている。 彼らの中心は、前述したとおり水量豊かなオアシスがあるパラン(フェイラン)であったが、 このパランの修道者としてアレキサンドロスとゾイロンの名があげられている。
 またエゲリアと同じように、ほかにも聖地を巡礼する者がいて、巡礼記を残している。 彼らの著作によっても、シナイ半島各地の修道者たちの様子がわかる。 それによると、クリュスマ(スエズ)にもエリヤの小聖堂があり、スランドゥラ(ワジ・ガランダル)にも教会と宿泊所がって、 そこには司祭もいた(Antonin de Plaisance, CC 175, 150)。 前述のパランにも教会があり(Pierre Diacre, CC 175, 103)、 ここを聖書のレフィディムと見なしていた(Cosmas Indicopleustes, PG 68, col.200B)。 このパランの教会跡は、ドイツの発掘調査隊によって明るみに出されている。 ライトゥー(トール)にも多くの修道者がいた。他方、教会の公文書にもシナイの修道者たちに言及ものがある。 451年のカルケドン公会議のあと、皇帝マルキアノスはシナイ地方の司教と修道者たちに書簡を送り、 平和を乱すテオドシオスという異端者に警戒するよう勧告している(E.Schwarz, Acta Conc.Oec.II, I, 490-491参照)。
 砂漠で孤独に修道生活を送ることには、その生活の厳しさのみならず、外敵に襲われる危険も伴っていた。 修道者ニルス(またはネイロス)の語った物語としてシナイ地方の修道者が襲われたことを伝えている (PG 79, col.583-694)。また6世紀頃、エジプトのカノペからシナイ地方を訪れたアンモニオスは、 修道者が殺害されたことを書き残している (R.Devresse, Le christianisme dans le peninsule sinaitique, RB XLIX, 1940, 205-223にその批判的検討がある)。 その書き方には誇張もあろうが、その奥には事実もあろう。

 ユスティニアヌス大帝による修道院の建造
 迫害下にあったキリスト教に自由を与えたコンスタンティヌス大帝は、330年ローマ帝国を東西に分割し、 東ローマ帝国の都をビザンツ(現在のイスタンブール)に定め、これは、またコンスタンティノポリスとも言われる。 ローマは、蛮族が荒らしまわるところとなり、5世紀後半には滅亡してしまうが、コンスタンティノポリスはますます繁栄し、 6世紀にはその絶頂期を迎える。その立役者がアヤ・ソフィア大聖堂を建立し、 ローマ法典を編集させたユスティニアヌス大帝(在位527−565年)である。 この大帝がシナイの修道者たちのために修道院を建てさせた。 写真は、御子イエスを抱く聖母マリアに町を捧げるコンスタンティヌス大帝(右)とアヤ・ソフィア大聖堂を捧げるユスティニアヌス大帝(左)、 アヤ・ソフィア大聖堂のモザイク。
 ビザンツの歴史家、カイサリアのプロコピオス(490−562年頃)の『建築論』 (De aedificiis, V, viii:Procopius, VII, Buildings, The Loeb Classical Library 143, 1940, repr.1971)と、 10世紀のアレキサンドリアのエウティキウスの『年次報告』 (Eutichius, Annales, PG 111, xol.889-1155, 特に1071-1072)は、多少異なるところもあるが、 シナイの修道院建造について書き残している。
大帝の特別な好意を聞いたシナイの修道者たちは、 獰猛な遊牧民サラセン人の脅威に曝されていることを大帝に訴えて出た。 大帝は、彼らと共に富を持たせて使節を送り、またエジプトの長官にも手紙でシナイの修道者たちを金銭、 労働力、穀物をもって支援するよう指示した。 それまで、燃える柴のあったところに神の母(テオトコス)に奉献された聖堂と塔だけがあったが、 使節はこれを城壁で囲む修道院を建てた。このように修道院は557年に完成された。 写真上は外から見た修道院、写真下は中から見た修道院、聖堂とモスクがあることに注目。  使節は都に帰って大帝にその修道院建造の報告を行ったが、大帝はシナイ山の頂上に修道院を建てなかったことに怒り、 使節は山頂には水もなく、修道者が敵に攻められたとき、餓死する恐れもあると弁明したが、聞き入れられず、斬首を命じられた。 その後、大帝は男子100名を、またエジプトからも男子100名、あわせて200名をその妻子ともにシナイの修道院に送り、 修道者たちの保護と支援にあたらせた。その子孫がその後もそこに残ることとなる。

 修道院に残るモザイクやイコンの作成はこの時代に遡るものが多い。 聖堂のモザイクも、565−566年に作成されたものである。 ここで共住の修道生活(Cenobitisme)が営まれるようになるが、従来どおり独住の生活形態を送ることも認められた。 そのときから、この修道院はシナイ地方の修道者の中心的な位置を占め、 多くのイエス追求者を集めることとなった。 その中には優れた教養人、知識人、芸術の才能に恵まれた者も多くいた。 写真下は聖堂主祭壇背後の上のモザイク、御変容のキリストを中心に左から預言者エリヤ、使徒ヨハネ、ペトロ、ヤコブ、モーセ。
 シナイの修道者たちの霊性神学
 この地に入ってイエス追求に励み、その生を貫いた数多くの修道者たちの霊的遺産を受け継ぎ、 それに自らも生きながら文書に書き残した霊性の大家もいる。 600年頃、ライトゥーのテオドロスは、「受肉概説」(PG 91, 1484-1586)を残したが、 最大の霊性の導師は、ヨアンネス・クリマコス(580−650頃)である。 その著作『楽園の梯子』(手塚奈々子訳、中世思想原典集成3、後期ギリシア教父ビザンティン思想、 編訳監修=上智大学中世思想研究所、1994年、499−540頁)は、 修道者とは何なのか、その目指すものが何のか、その日々の生活でいかに実践すべきかを、梯子の例を用いて説明している。 その梯子には30の横木があって、自己放棄から完全な愛に至るまでの霊的道程を指示している。 この著作はその後多くの修道者や教父たちに影響を与え、 ヘシュカズム(静寂主義)と言われる東方教会の霊性の形成にひとつの決定的な起点となった。 彼によると、イエスの御名を呼ぶことが修道生活の中心でなければならない。 祈りもこの一つの言葉(モノロギア)に尽きる。多言は退けなければならない。 それに呼吸も伴うよにしなければならない。「イエスの記憶があなたの呼吸とひとつでしかないように。 そうすればヘシュキア(静寂)の大切さがわかる」(27段62)。
 シナイの修道者たちの霊性は、イエスの御変容のモザイクにも表現されている。 彼らが目指したものは神の光の顕現であり、それはタボル山でその光に包まれたイエスに実現している。 修道者はこのイエスのようになること。換言すれば「修道者はこの地上における天使のようなものである」。 これを目指して修行に励むが、これは神の恩恵の働きにほかならない。 この恩恵によって、人間は神のように輝くものとなる。「成神(deificatio)の恩恵論」がそこにある。
 そのほかヨアンネス・クリマコスの同時代人、シナイのアナスタシオスは(610頃―701+α)、 『道案内』 (CC, series graeca 8 ,Leuven, 1981;ed.Nau, OC.II, 1902, 58-89;III, 1903, 56-90;cfr.D.C.Chitty, op.cit., 171-172) を書き残した。 ヨアンネス・モスコス(550頃−619)は『霊的牧場』 (PG 87/3, 2852-3112;PL 74, 119-240;D.C.Chitty, Op.cit.,143-147)を書き残した。 彼らはアラブ人による征服以前の実情を知らしめてくれる。 他方、パランの司教テオドロスは、680−681年の第3コンスタンティノポリス公会議でキリスト単意論 (monothelism)の異端決定が行われたとき、その異端説に与したため、破門された。 その結果、パランの司教座は空位のまま9世紀まで続いたが、その後シナイに移されることとなった。
 アブド・アル・マリク・イブン・マルワン(685−705)の時代に、 ユスティニアヌス大帝が修道院の保護と支援のために送った農奴たちの子孫はイスラームに改宗することを迫られた。 彼らはそれ以来イスラーム教徒となったが、ムハマド自身によって存続を認められた修道院との友好関係はその後も続き、 今日に至っている。 写真は修道者が準備した山頂への道。
 サンタ・カタリーナ修道院
 教皇ホノリウス3世(在位1216−1227年)の時代まで、修道院の名は「聖マリア」であったが、 ヨハネ22世(在位、1316−1334年)になってはじめて、「サンタ・カタリーナ」となっていることが認められる。 修道院に残る言い伝えによると、エジプトのアレキサンドリアで310年頃殉教した聖女カタリーナの遺体が、 3世紀後シナイ山岳地帯の最高峰サンタ・カタリーナ山上で無傷のままオリーブ油につけられてあったのを、 修道者たちが奇跡的に発見し、それを修道院に運んできたという (写真はジェベル・ムサ山頂から見たジェベル・カタリーナ)。 しかし、アレキサンドリアの聖女カタリーナへの信心は、11世紀に西欧の教会で広がったものである。 それは特にフランスのノルマンディーで始まり、ルーアンがその中心となり、これがパリのサン・シャペルへと移っていった。 したがって、シナイまで来た十字軍が聖女カタリーナへの信心をここにもってきたらしい。 あるいはここに聖女カタリーナの聖遺物があって、十字軍はそれを特に敬いにやってきたのかもしれない。 いずれにせよ、「サンタ・カタリーナ」の名は十字軍との関連で用いられるようになったらしい。 ただし、アレキサンドリアの聖女カタリーナの殉教は、史実性が疑われるので、 第2ヴァティカン公会議の典礼改革後、ローマ・カトリック教会では記念されなくなっている。 写真は修道院食堂の石柱に残された十字軍の書き込み。

 またこの時代にシナイにおける霊性神学も衰えることがなかった。 シナイのグレゴリオス(1255−1346)は、シナイに来て、長く滞在した後、クレタを経てアトスに行った。 ここからヘシュカズムがスラブ諸国全体に広がることになるが、彼はその一つの起点になった (ルイ・ブイエー著、大森正樹ほか訳、『キリスト教神秘思想史1、教父と東方の霊性』、翻訳監修=上智大学中世思想研究所、 1996年、615−618頁参照)。
 サンタ・カタリーナ修道院のその後
 ローマ・カトリック教会との関係は、1054年のローマとコンスタンティノポリス両総司教座の決裂後も続いた。 フィレンツェ公会議(1439−1445年)のときにその関係が切れたという説もあるが、どうかはっきりしない。 時が経過する中で、徐々に疎遠になっていったのであろう。ナポレオンの後、ロシアの皇帝がこの修道院を保護下に置いた。 写真は修道院に仕えるイスラーム教徒の子供
 サンタ・カタリーナ修道院は東方教会の中でも独立した司教座であり、通常その大司教はエジプトのカイロに住む。 その大司教のもとにサンタ・カタリーナ修道院のほか、ギリシアのアテネ、 レバノンのトリポリ、キプロス島とクレタ島の2、3箇所に土地と建物がある。 2年に1回、修道者の全体会議が行われる。修練者は17歳以上で、修練期のあと助祭または司祭に叙階され、 修道院に残るか、地方に派遣される。1968年に修道者は25名を数え、 その後もその数20名あまりを保ってきたが、現状は知らない。そのほとんどがギリシア人。
 サンタ・カタリーナ修道院には古くて貴重なイコンのコレクションと、多数の古写本を保有する図書館が人類の遺産として特筆に価する。

 イコンのコレクション
 6世紀から19世紀まで作成されたイコンを2000以上保有する。 その作成の連続性と量の豊かさで、ほかに類がない。 中でも貴重なのは、6世紀作のキリスト・パントクラトール(全能者キリスト、写真下左)、 7世紀作の天使たち及び聖ゲオルゴスと聖テオドロスの中に座す神の母(写真下右)、 それに聖ペトロは、7−8世紀の聖画破壊運動を免れて残った。
 図書館
 古写本のコレクションに関しては、ヴァティカン図書館についで世界第二。 1950年以来、その調査と分類が行われてきた。その結果、ギリシア語写本がおよそ2300で、全体の70%を占める。 アラビア語ないしトルコ語写本がおよそ600.シリア語写本がおよそ260、ゲオルギア語写本が88、スラブ語写本が40、 それにアルメニア語、ペルシア語、ヘブライ語、ラテン語の写本が幾つかある。 他方、エチオピア語写本は6、コプト語写本が1つしかない。 その全体を見て、この修道院がキリシア語圏との関わりを中心として、アラブ世界とも密接な関係を保ってきたこと、 6世紀以降シリア語圏とも関係を深め、続いてスラブ語圏とも関係を深めていったことがわかる。 換言すれば、この修道院はアジアと東ヨーロッパと深い関係を続けてきたが、エジプトやエチオピアとの関係は意外と薄かったことがわかる。
 この図書館にとって最も価値のある写本は、ここにはない。 それはいわゆるシナイ写本(Codex Sinaiticus)のことで、4世紀に筆写されたこの写本は、 新約聖書のギリシア語本文として、またギリシア語訳旧約聖書(70人訳)の本文としては、 ヴァティカン写本と並んで最古に筆写されものであり、聖書の写本としては最も重要なものの一つである。 ここに全聖書の写本があるのではなく、散逸したものもあるが、新約聖書の本文は完全に揃っている。
 ドイツ人の新約学者コンスタンティン・フォン・ティッシェンドルフ(C.von Tischendorf)は、 1844−1859年の間にサンタ・カタリーナ修道院を数回訪れている。 1844年、この写本を最初に入手した次第は、屑篭の中で変色しているのを見つけ、修道者から譲り受けたのだったと言う。 こうしてライプチッヒに持ち帰った43枚の皮革紙は、ここの大学図書館に保管されている。 1853年に再びそこを訪れたときは、何も収穫がなかった。1859年、彼はロシア皇帝の支援を受けて、修道院を訪れ、 捜し求めていた写本があることをつきとめ、これを入手し、皇帝個人の図書館に寄贈した。 1917年にロシア革命が起こり、帝政は倒され、革命政権はこの写本を売りに出した。 これを買い取ったのが大英博物館で、そのため£100.000を支払った。 1933年以来、この写本はロンドンの大英博物館内の写本室(Manuscripts)にアレクサンドリア写本と並んで陳列されている。 修道院としては、コピーのためにと便宜をはかったのだった。 そういうわけで、現在でもシナイ写本は返還されなければならないものと、修道院は考えている。
 シナイ写本については、B・M・メツガー著、橋本慈男訳『新約聖書の本文研究』、聖文舎、1973年、43−47頁参照。


 参考文献

 R.Devresse, Le christianisme dans le peninsule sinaitique, RB XLIX(1940), 205-223
 D.J.Chitty, The Desert A City, An Inroduction to the Study of Egyptian and Palestinian  Monasticism under the Christian Empire, Crestwood, New York, 1966
 Bible et Terre Sainte, No.150, Avril, 1973
 Le Monde de la Bible, No.10, 1979 ; No.82, 1993

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