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序 最近読んだある論文に、『奥の細道』の著者松尾芭蕉の原文が誤写されて、流布した例が載っていて、興味深かった。 そこから一例をあげれば、「山崩れ川流れて」(素龍清書本)が「山崩れて川落ちて」(井筒屋元禄版)となり、 さらに「川落ちて」(蕪村の画巻と屏風、了川によるその写し)となったという。 このような幾つか誤写があっても、蕪村の書画には芭蕉の心が伝わっているとも言われていて、そうだと思うが、 その誤写ということに目が留まった。時代を遡って、平安時代の紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』の場合はどうだろうか、 と興味が広がる。作者自筆の原本は失われ、伝存するのはそれから数百年後に写された版本しかないのではないかと思うが、 そこにも誤写はあるだろう。しかし、我々は普通それを読んで、作者自身の書いたものだと信じている。 さて、聖書の場合はどうだろうか。聖書も神の言葉とは言え、ある時ある所で聖書記者が書き留めたものを、 別の人が写し伝えたものであるから、この過程で誤写が混じり込んではいないであろうか。 実際に、聖書も写し伝えられたという側面から見れば、誤読誤写の難から免れてはいない。 聖書の原本は失われ、伝存するのはその写しだけとなったが、写しは幾つもあり、 写された本文の間に箇所によってはかなりの違いがある。 この違いがあること自体、誤写があることを示しているのではないだろうか。 同一の原本を写したものである場合、その違いのどこかに誤写があるはずである。 誤写がどうして起こったかというと、写した人が意識的に書き換えたこともあれば、うっかりした誤写であることもある。 このことは古くから知られていて、キリスト教の伝統的な知恵も、 聖書は聖霊の霊感を受けた聖書記者によって書かれた書と考えるが、それは原本についてそう考えてきた。 こう考えることによって、写し伝えられる過程で誤読誤写が紛れ込むことがあると認めてきた。 したがって、伝存する写しを集め、比較し、検討して原本に迫るため、並々ならぬ努力も払われてきた。 キリスト者は聖書を神の言葉と信じ、その呼びかけに命をかけて応えるものだが、 神の言葉と偽ったものに命をかけさせられてはたまらない。 で、正真正銘の神の言葉を求めて、たとえばオリゲネス(西暦250頃没)は当時流布していた聖書を六欄に並記し、 いわゆるヘクサプラを作成した。ヒエロニムス(419/420没)も、 それを用いると共に必死になって写本を集め、原本を忠実に伝える本文を追い求めた。 こうして古ラテン語訳聖書の改訂、改訳を敢行したが、これに対する伝統的な聖職者の非難には、 「もし清い水の波うつ泉を好まないなら、泥水を飲めばよい」と答えている。 私たちも聖書を読む場合、翻訳で読むのでその翻訳の良し悪しを問題にし、良いものを求めるのは当然だが、 それ以前にその翻訳が正真正銘の聖書本文に基いて翻訳されたものなのかどうかという問題がある。 そこでまずヘブライ語で書かれた旧約聖書の翻訳について、現在どういう底本が用いられ、 それがどういう写本に基づいているのかを紹介し、その写本にはどれほど信頼することができるのかを考えてみたい。 T.ヘブライ語聖書の本文 ヘブライ語聖書、その原本と写本 旧約聖書は、まずヘブライ語で書かれた。これは古代イスラエル人が話していた言語である。 紀元前六世紀のバビロン捕囚期以後、彼らは当時広く用いられていたアラマイ(ないしアラム)語を話すようになった。 それゆえ、ヘブライ語は捕囚期以後数世紀にわたり一部の人々によって用いられたが、 死語となり、一般の人々には理解されなくなっていった。 このような言語状況から捕囚期以後に書かれた聖書の一部がアラマイ語で書かれている。 それはエズラ記48−618、712−26、 ダニエル書24b−728、エレミヤ1011である。 このアラマイ語で書かれた部分も含めて、ここではヘブライ語聖書という。 このヘブライ語聖書はユダヤ教徒の中で形成され、正典とされるようになったが、 ユダヤ教徒が現在も保持している正典書は39書からなる。 これはきわめて古い書物という印象を受けるが、原本は失われてしまった。 伝存するのはただその写本だけである。 しかもその写本はかなり時代が下がってから筆写されたものしかない。 39書すべてを含む写本は、西暦10世紀に筆写されたレニングラード写本B19aが最古である。 A)マソラ本文 現在各国で聖書が翻訳される場合、旧約聖書に関してどこでも底本とされるのが、 『ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア』 ( Biblia Hebraica Stuttgartensia, editio funditus renovata, edited by K. Elliger & W.Rudolph, DeutscheBibelstiftung, Stuttgart, 1967/1977)である(写真左)。 ここに印刷されているヘブライ語聖書本文がレニングラード写本B19a(略号L)にあるもの(写真右はその復刻版)。 この本文はマソラ本文と言われる。そこでマソラ本文とは何かを説明しなければならない。 そのレニングラード写本がほかの写本に比べて優先すべきものであることが明らかになったのは、 実は20世紀になってからであった。 ここに至るまで数世紀に及ぶ綿密な写本研究の積み重ねと学者の議論があった。 それゆえ、近代的な聖書本文研究が始まった16世紀から現代までの経緯を簡単に述べることから始める。 |
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その後、伝存する写本が作成された西暦6−10世紀のユダヤ教における聖書本文筆写の実情について述べる。 ここでマソラ本文とは何かを説明する。 そのあとさらに西暦1−6世紀に遡り、当時のユダヤ教における聖書本文の伝承活動を述べる。 この活動に先行する時代、つまりほぼイエス時代以前ではヘブライ語聖書はいかなる状態で継承されていたかは、 1947年以降の数年に発見された死海文書が新事実を明るみに出してくれた。 このことについては別にすでに紹介しているので、それにつながるものとして本稿を受けとめていただいてもよい。 1)西暦16世紀から現代まで グーテンベルグの活版印刷機の発明は聖書の普及と研究にとっても画期的な出来事であった。 印刷は、聖書の写本とそこにある本文の研究を前提とするので、本文研究を飛躍的に盛んにした。 写本を収集し、その中で優れた本文を保っている写本を探し出して、最善の本文を印刷、発行しようとしたからである。 こうして印刷された聖書本文が広く流布するようになった。 グーテンベルグが1455年ごろ最初に印刷したのはラテン語訳ウルガタ聖書で、『42行聖書』と言われる。 まもなくヘブライ語聖書の印刷も始められた。 それは1488年、イタリアのソンチーノで印刷された全ヘブライ語聖書である。 その後、特筆すべきこととして、 1516−1517年にヴェネツィアでオランダ人D・ボンベルグが『ラビの聖書』(Biblia Rabbinica)と命名して4巻本を発行した。 こう命名されたのは、ここに聖書本文のみならず、 西欧中世のユダヤ人聖書学者ラシ(1030−1105)やイブン・エズラ(1092−1167)、 キムヒ家の聖書学者たちなどの注解も幾つか加えたからである。 ボンベルグはキリスト教の洗礼を受けた後、Felix Pratensisという名をもち、この名で知られている。 この発行の成功後、ボンベルグは1524−1525年に第2版を出版したが、 ここにはヤコブ・ベン・ハイムが参画して、調べた諸々の写本にある「マソラ」(後述)も加えて発行した。 その後このヘブライ聖書本文が長い間権威あるものとされ、用いられてきた。 20世紀に聖書の原本に遡ろうとして本文批判研究(Textual Criticism)は目覚しい発展を遂げるが、 R・キッテルが1906年に、 『ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア』の先駆 『ビブリア・ヘブライカ』(Biblia Hebraica, 略号BHK)の初版を発行したとき用いたのも、 そのベン・ハイムの本文であり、これが1930年発行の第3版でレニングラード写本B19aが用いられるまで続く。 16世紀のはじめイタリアと並んでスペインでも、古代の聖書本文の収集と出版の大事業が起こされた。 それはトレドの大司教で枢機卿のシスネロのヒメネス(Ximenes de Cisnero)による。 それが、『コンプルテンシアの多国語聖書』(Biblia Polyglotta Compultensia)に結実した。 ここでヘブライ語、ギリシア語、ラテン語の聖書本文を並置し、6巻に及んだ。 これは1514−1516年に準備されていたが、実際に発行されたのは1522年であった。 ロッテルダムのエラスムスが新約聖書のギリシア語本文を発行したのが、1516年であり、 1517年にM・ルターがいわゆる宗教改革ののろしを上げ、 まもなく新約聖書をドイツ語に翻訳する作業を始めたが、そのとき底本としたのが、そのギリシア語新約聖書であった。 ヒメネス枢機卿の事業はほぼ同時代にあたる。この多国語聖書は聖書学にとっても、ルネッサンス運動にとっても一大金字塔であり、 ヒメネス枢機卿とエラスムスの間には直接の出会いはなかったが、交流はあった。 その多国語聖書のヘブライ語聖書本文は、 ベン・ハイムのヘブライ語聖書に比べて、より古い写本を採用しているということで、優先すべきところもある。 しかし、ここに採用されたヘブライ語聖書本文がバビロンのユダヤ教徒に由来し、 ベン・ハイムの本文とは別系統の発音を示していて、このことが考えられてはいない。 他方、ベン・ハイムは自分の発行した聖書本文がベン・アシェル(後述)の伝承に忠実であることを確信したが、 用いた写本は多国語聖書およびフェリクス・プラテンシスが用いた写本に比べて新しいものであった。 彼らが持っていた写本の中でヘブライ語聖書本文は、子音文字が書かれ、それに母音記号が付けられているが、 16−17世紀にはその子音文字と母音記号について、 この母音記号がいつごろ付けられたのか議論があった。 これに附随して、母音記号も子音文字と同様にこの聖書本文が書かれた古い時代に遡るなら、 霊感を受けたものと考えなければならないのではないかということも議論された。 エリアス・レヴィタ(Elias Levita)は、写本にある母音記号は、 ユダヤ教文書のタルムードやミシュナが書かれたときには知られていないので、 これらの文書が作成された後に考案されたものだと提唱した。 他方、ブクストルフ(J. Buxtorf)は、母音記号の神的起源を論証しようとした。 これに対してカペル(L.Cappel)はそれが人間的起源のものでしかないと説いた。 ヘブライ語聖書の写本を集め、その一つ一つを調べてみると、その本文は注意深く筆写されたとはいえ、写本間に相違がある。 これをここで異読(Variations)という。 615の写本と52の印刷聖書を集め、そのヘブライ語本文の子音文字の異読を調べて、 ヘブライ語聖書の批判版を最初に発行したのが、 ケニコットである(B.Kenicott, Vetus Testamentum Hebraicum cum variis lectionibus, 2 vols., Oxford, 1776,1780)。 その研究の結果、すべての写本が僅かの異読をもって同一の本文を伝えており、 異読を比較検討することにより時には写本の本文を修正して、その同一の本文に遡ることができるとした。 この研究を補完して、デ・ロッシはさらに1418の写本と374の印刷聖書を調べた (G.B.De Rossi, Variae Lectiones Veteris Testamenti, 4 vols.+ supp.Parma, 1784-1788)。 彼は母音記号の異読も指摘した。ケニコットとデ・ロッシの研究作業は異読についての豊かな情報を残してくれたが、 彼らが収集して調べた写本はすべてがマソラという同一の系統にあったもので、 これら多くの写本にある本文を比較検討してその基にあった同一の本文を想定して、それに迫っても、 これは原本そのものにはほど遠いものであった。 彼らが調べた写本の異読はむしろ筆写上の誤りであり、伝承された本文がただ一つの同じもの(原マソラ本文)であることを確認した。 とはいえ、異読の中にはこの伝承された本文によるものではないものもあることを示すものもあった。 しかし、この伝承されたマソラ本文とは系統的に異なる本文を証しする写本があるとは考えられていなかった。 しかし、この頃、伝承された本文をほかの系統のヘブライ語聖書本文の写本や古代訳聖書と比較対照し、 原本にいっそう忠実であると思われる本文に遡ろうとする必要があるとの批判的精神が芽生えた。 この類の研究を最初に手がけたのが、 カペル(L.Cappel, Commentarii et notae criticae in Vetus Testamentum, Amsterdam,1684)と フビガン(C.F.Houbigant, Biblia Hebraica cum notis criticis et versione Latina ad notas criticas factas, 4 vols.Paris, 1753) であった。 2)西暦6世紀から10世紀まで |
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現在、ヘブライ語聖書として発行されている『ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア』を開いてみると、 ヘブライ語独特の角張った文字が右から左に書かれ、 その各文字の中とか、上とか、下に小さな点とか棒線などが付けられている (写真上は同書のイザヤ書39:3−40:20、写真下はその一部、イザヤ書40:1−2)。 その角張った文字がアルファベットで子音を表している。 ヘブライ語のアルファベットは22字ある( ![]() ![]() |
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それはレニングラード写本B19aにあるもので、『ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア』はそれを再現している。 そのレニングラード写本B19aを見ると(写真はその復刻版の1葉)、 さらに各欄の上や下に小さなアルファベット文字が書かれている。 他方、今日死海文書中の聖書写本を見れば明らかなように、 かつては写本にはただ子音文字しか書かれず、しかも句読点もなく、ただ文字が連ねられていた。 その連ねられた文字をどこで区切るのか、その切り方や読み方などは口伝で伝承された。 やがてこれも部分的に書き留めて受け継がれることになるが、はじめの数世紀にはその子音文字の中に、 子音文字の一部を用いたりして指摘された。やがて子音文字以外の母音記号、そのほかの記号が考案され、用いられるようになった。 それは何時頃のことだろうか。かつては、イエス時代にまで遡る写本ないしその断片は皆無だったので、 母音記号など子音文字以外のものが何時頃付けられたのか明らかでなかった。 したがって、16−17世紀には、これらの記号も子音文字と同様に最古の時代に起源をもち、 それゆえ霊感を受けて書かれたのではないかと議論された。 しかし、それは最古の時代にはなかったのではないかと提案され、論証されもしていた。 まずそれはキリスト教の教父ヒエロニムスの著作によって5世紀にはまだなかったと論証された。 ヒエロニムス(西暦419/20歿)は、『書簡73』の中で、 「ヘブライ人は稀にしか本文中に母音文字を用いない」 (cum vocalibus in medio litteris perraro utantur)と言っているが、 これは当時ヘブライ語アルファベット22の中の幾つか ( ![]() ![]() 他方、5世紀末ないし6世紀初頭にソフェリーム(Sopherim)用に書かれた写本作成にあたっての規則書にも、 母音記号についてはまったく触れられていない。 またバビロニアのタルムードの『ババ・バトラ』は申命記2519の ![]() はじめは子音文字だけで書かれた本文が、最大の尊敬と注意を払って保存され、受け継がれてきたのだが、 6世紀以前にこの本文の保存と伝承の任務を果たした人々はソフェール(単数)、 ないしソフェリーム(複数)と言われる。 この本文をいかに読むべきかについてのソフェリームの伝承も本文と共に書き留められるようになるのだが、 それは西暦6世紀以降のことである。こうして、写本には聖書本文の子音文字のみならず、 その本文をいかに読むべきかについてのソフェリームの批判的注意書きも書き留められるようになった。 こうして書き留められたものの総体が、 「マソラ」( ![]() マソラは、数字に関するものと、本文に関するものがある。 a) 数字に関するものは、書に含まれる節の数や用語の数を記すもの。 b)本文に関するものは、各行の脇に書かれた注意書きは、小マソラ(masora parva)と言われるもので、 ケレーとケティーブ(後述)などがそれである。各欄の上ないし下に書かれた注意書きは、 大マソラ(masora magna)と言われ、この注意書きは量的に大きい。それに写本の最後にもある(masora finalis)。 子音文字に母音記号が付けられたのも、この時代のマソラたちによる。 このマソラたちによって伝わる聖書本文を「マソラ本文」(Textus Masoreticus, Masoretic Text、略号MT)という。 そのマソラたちが伝承に基いて子音文字で書かれた聖書本文に母音記号などをつけ、 個々の用語や文節をにどう読むべきかの注意事項を行の脇や欄の上や下、各書の後に書き留めたのだった。 マソラたちは、ある家族に属しており、その中心はバビロニアとパレスチナにあった。 その家族の中で、ベン・ナフタリ家とベン・アシェル家が最も有名であるが、 特に後者による聖書写本が、本文伝承に最も忠実なものとして高く評価されるようになった。 伝存する最重要な写本はすべて、パレスチナのティベリアスにいたベン・アシェル家のマソラたちによるものである。 彼らの活動は西暦600年頃から800年頃の間に始められたようだが、 アハロン・ベン・アシェル(915年頃)の時代にその頂点に達した。 彼の意見はその後多くの文法学者により、 またマイモニデス(Moses Maimonides, またはRambam, 1135-1204,聖書の哲学的説明を試みた)によっても受容され、 標準的な伝承を代表するものと考えられるようになった。 ティベリアスのマソラたちが筆写した写本がいくつか残っているが、 その最も代表的なもののひとつがレニングラード写本B19aというわけである。 そのほかの写本もあって、そこには母音やアクセント、句読点を示すために同じ記号が用いられている。 この記号のシステムがほかを凌駕して、広く用いられるようになった。主な写本を紹介しよう。 (1)カイロ写本[C]: 895/6年頃の筆写で、マソラ本文の写本としては最も古いもの。 しかし、預言書(前の預言書のヨシュ、士、サム上下、王上下と後の預言書のイザ、エレ、エゼ、12小預言書)しか書かれていない。 おそらくアハロン・ベン・アシェルの父モーセ・ベン・アシェルによる。 |
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これらの写本を写真でもいいから直接じっくりと眺めてみたい。 実際に眺めてみると、これを筆写した人はどれほど丁寧に、正確を期して写したかがわかる。 それにも増して、どれほどの信仰心をもって恭しく聖書の文字に向かったかが伝わってくる。 それは日本の奈良時代や平安時代のお経の写しと合い通じる。 他方、印刷された聖書にはその心が伝わって来ない。 聖書をヘブライ語で読むにしても、現代語訳で読むにしても、その本文を書いた著者たちのみならず、 これを写してわれわれに伝えてきた人々の心も忘れてはならない。 「写本」という用語は、manuscriptum(ラテン語)に由来するmanuscript(英語)、manuscrit(仏語)の翻訳で、 これは「手書き」(独語ではHandschriftという)を意味する。この手書きが書き手の心を表していることは言うまでもない。 書道、特に写経の伝統のある日本人なら、その心を深く見抜けるはずである。 その写本の形態には、 巻物(ヘブライ語megillãh,ラテン語volumen、 ここから1巻、2巻を意味する英語のvolumeが由来)とコデックス(codex)がある。 いずれも手書きだが、前者は、ときには数メートルもある横長の皮革紙で、芯の棒に巻きつけて保存した。 後者は皮革紙を一枚づつ重ねて綴じるようになっている。 古来ユダヤ教では通常巻物の形態が用いられ、会堂で保存される聖書もすべて巻物の形態であった。 こうして安息日礼拝をはじめ会堂で行われる典礼用の聖書はすべて巻物であった。 他方、コデックスは稀であり、典礼用ではなく、個人的な利用のためのものであった。 アレッポ写本とかレニングラード写本という場合、この「写本」の原語はコデックスであることを注意しておく。 したがって、これらの写本は典礼用ではないということである。 しかし、そこにかかれている本文が安息日礼拝などユダヤ教の典礼で伝えられてきたものであることに疑いの余地はない。 レニングラード写本をはじめ、アレッポ写本など伝存するコデックスはすべてマソラ本文であるが、 このマソラ本文は、イエスの時代から見てもおよそ千年、モーセ五書作成より千五百年もの年月が経って筆写されたものである。 そうすると疑問が起こる。この長い年月を経て筆写された本文は、原本を忠実に伝えているのだろうかと。 これを検討するのが、本文批判(Textual Criticism)と言われる聖書学の中でも最も基礎的な学問分野の作業の一つである。 時の隔たりのみならず、本文そのものを見れば、意味不明のところや古代訳の訳文と比べると異なるところが多くあるので、 その疑問は切実になる。聖書については生き字引のようであったわたしの先生、 故M・ダフード神父は、「マソラ本文中3節ですら、すらすら読めるところがあるか」と言っていた。 そこでこのような本文を前にしてどのようなことが行われてきたかというと、 意味不明の場合にはセプトゥアギンタ(ギリシア語訳)やタルグム(アラム語訳)など古代訳に意味の明らかな訳文があれば、 これに頼ってその意味を取ったり、マソラ本文そのものをあまりにもたやすく誤写だときめつけ、推量によって変更したりした。 20世紀前半以前の聖書注解書を見ればこのような推量に基づく解説によく出会う。 また、このような学界の風潮がヘブライ語聖書の発行にも現れ、 前述の『ビブリア・ヘブライカ』第3版にも各頁の脚注に古代訳の訳文とともに、 学者の主観的な推量による本文の変更も指摘されていた。 これを底本とした翻訳聖書は、当然その影響を受けることにもなった。 むやみやたらな古代訳への依存やマソラ本文の変更に歯止めをかける契機として死海文書の発見があった。 この発見によってイエス時代の聖書本文が入手され、マソラ本文と比較し、 マソラ本文が長い年月を経て忠実に写されたかどうか、確かめることができるようになったからである。 しかし、この発見はマソラ本文が千年以上の年月を経て忠実に筆写されたことのみならず、 聖書本文はこれだけでなく、多様であったことについても明らかにしてくれた。 死海文書が発見されるまでは、西暦9−10世紀のマソラ本文以前の、 あるいはマソラ本文以外のヘブライ語聖書本文を知るすべとして、ナシュ・パピルスとカイロのゲニザ断片しかなかった。
3)西暦1−6世紀 死海写本中、1952年にワディ・ムラバアトで発見された12小預言書の写本断片は、 バル・コクバの乱(132−135年)のときに用いられていたヘブライ語聖書本文である (DJD II参照、またナハル・ヘヴェルの「書簡の洞穴からも同時代の詩編と民数記のヘブライ語写本の小断片も見つかっている)。 これは子音文字に関しては、マソラ本文と同じであり、 9−10世紀に筆写された写本が忠実に筆写されたものであることを証明した。 またそれはこの頃には、以前に複数あったヘブライ語本文伝承は、 その中の一つに標準化され、固定されていたことを示唆している。 死海文書発見以前にも、イエス時代のユダヤ教には複数のヘブライ語本文伝承があり、その中の一つが標準化され、 これがマソラ本文として伝わっていることがすでに推察はされていた。 たとえば1世紀後半に新たに翻訳されたギリシア語聖書(アクイラ訳、シンマコス訳)は、 以前からあった70人訳とは対照的にすべてマソラ本文として伝わるヘブライ語本文を翻訳したものであることが分かっていたからである。 いずれにせよ、今日でもその12小預言書の写本断片以降 カイロのゲニザ断片までいかなるヘブライ語聖書本文が用いられていたのかを直接証明する写本はない。 この間に用いられた本文はいかなるものであったかは、 当時のユダヤ教とキリスト教文書に用いられる聖書によって推し量るしかなかった。 ユダヤ教の文書としては、特にタルグム(ユダヤ教の安息日礼拝用にアラマイ語に翻訳された聖書)がある。 この時代のキリスト教文書になると、ヘブライ語聖書を用いる著作家はきわめて少ない。 それはオリゲネスとヒエロニムスぐらいであろう。 ヒエロニムスが古ラテン語訳聖書を校訂したり、改訳してラテン語訳ウルガタ聖書を作成したとき、 底本としたのはヘブライ語聖書であったから、このラテン語訳聖書からヘブライ語聖書本文を推し量ることはできるが、限界がある。 しかし、これによっても母音に関しては議論があっても、子音文字に関しては固定されていたと言わざるをえないようである。 他方、この時代にもヘブライ語聖書本文を忠実に保存し伝えようと努力が払われたことは事実である。 これは前述のソフェールないしソフェリームと言われる人々によって継承された。彼らの活動は、 イ)本文を節に分け、これに数字をつけ、その節を数えて、各書のあとに書いておいた。 このように聖書本文とすべきものを正確に伝えようとした。レビ記第8章8節に「節による律法の半分」とあるのも彼らによる。 ロ)「異例点」(Puncta extraordinaria):15箇所で文字ないし単語に上に点をつけて、 文法上または教義上疑義があることを示した。たとえば、イザヤ44:9のhemmahの上。 ハ)反転ヌン(nun inversivum):9箇所で、ヘブライ文字にヌン(? )を反転させたものを節の終わりにつけて、 この節が正しい位置にあるのかどうか、疑しいということを示す。 たとえば、民数記第10章第34節と36節の終わりに反転ヌンを書き入れて、 この二つの節は位置を入れ替えるべきではないかという。 ニ)セビール(sebir, sebir):およそ350箇所で、子音文字が予期しないものであることを示す。 脇に期待される文字を書く。 たとえば、創世紀第18章8節のha'êl ( ![]() ![]() ホ)ケレーとケティブ(qere-ketib、「発音」と「記載」): 脇にヘブライ文字コフ( ![]() ヘ)ティックーム・ソフェリーム(tiqqune soferim):18箇所でヘブライ語聖書本文の子音文字を変更したことが示されている。 たとえば創世記第18章22節で「アブラハムはなお、主の御前にいた」はティックーム・ソフェリームであり、 それゆえ元来は「主はなお、アブラハムの前にいた」となっていたことを示唆する。 これらの注意書きは、本文そのものをつぎの世代に伝えながら、自分たちが疑問に思うことを書き添えたものである。 このように自分たちにまで伝えられた聖書本文そのものを、自分たちの判断で書き換えてしまうことは、決してなかった。 ここに神の言葉の書の伝承に対する深い畏敬の念があったことに、あらためて感心させられる。 このソフェリームたちが残した注意書きは、マソラたちによって写され、伝えられた。 4)西暦1世紀以前 西暦1世紀以前にヘブライ語聖書本文がいかなるものであったかについて、 死海文書はその発見まで未知ないし不明確だった事実をつぎつぎと明らかにした。 このことについては、本HPの死海文書と聖書を参照。 それを一言で言えば、先ずレニングラード写本B19aなど西暦10世紀に筆写された本文が、 子音文字に限れば10世紀もの月日を越えて忠実に写されたということであり、これが証明された。 ただし、だからと言ってたとえばクムラン出土のイザヤ書が原本というわけではない。 また、これがマソラの本文より原本に近いと言えるかというと、そうでもない。 場合によっては、マソラ本文のほうが原本に近いといえるところもあるほどである。 こういう意味であるが、マソラ本文が忠実に筆写されたものであり、きわめて優秀なものであることが証明された。 つぎに、西暦1世紀以前にはヘブライ語聖書本文は、マソラ本文以外にもあり、それは多様であったということである。 すでに知られていたサマリア五書と、 ギリシア語70人訳聖書の底本となったヘブライ語聖書本文がそれぞれ異読をもってあったことが明らかとなった。 このように多様な本文があったことのみならず、その中の一つを標準化し、 これを固定しようとするソフェリームたちの活動があったことも明らかになった。 第2神殿時代、つまり西暦70年のローマ軍によるエルサレム陥落以前にはユダヤ社会は多元社会であり、 ヘブライ語聖書本文も多様であったが、すでにその中の一つを標準化する動きがあった。 エルサレム陥落後まもなくマソラ本文として伝承されることになる本文が標準とされ、固定されるようになったようだが、 その詳しい事情は、現在議論されている。 結び このように一方ではマソラ本文が以前にもまして重んじなければならなくなった。 具体的にはマソラ本文が意味不明のとき、むやみに古代訳に頼ってはならず、 その母音符号などを変更することがあっても、子音文字はそのまま保つべきだということになった。 こういうわけで、1930年発行の『ビブリア・ヘブライカ』第3版も見直す必要が出てきて、 1967−1977年に『ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア』(略号BHS)が発行された。 1987年発行の日本語訳『聖書』新共同訳もこれを底本としている。 従って、この底本を用いていない、以前の欧米と日本の聖書と新共同訳聖書の訳文が異なることがあっても、 不思議ではない。一例をあげよう。 創世記第4章第8節: 日本聖書協会聖書口語訳(1955年)では、 「カインは弟アベルに言った、『さあ、野原へ行こう』。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した」。 日本聖書協会新共同訳(1987年)では、 「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」。 新共同訳では、日本聖書協会訳にある『さあ、野原へ行こう』がない。 このカインの言葉はサマリア五書、セプトゥアギンタ、シリア語訳、ウルガタ訳には出ているが、マソラ本文にはない。 新共同訳はいっそう忠実にマソラ本文を翻訳している。 イザヤ第60第19節: 日本聖書協会口語訳では 「昼は、もはや太陽があなたの光とならず、 夜も、月が輝いてあなたを照らさず、」 新共同訳では、 「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、 月の輝きがあなたを照らすこともない」。 ここでも新共同訳は、日本聖書協会訳の2行目の「夜」という言葉を訳していない。 この言葉はセプトゥアギンタのみならず、クムラン出土のイザヤ書(1QIsa )にも認められるが、 新共同訳はマソラ本文に忠実であろうとする。 このようにレニングラード写本B19aにあるマソラ本文が重視されている。 しかし、これが絶対というわけではない。マソラ本文そのものの吟味はまだまだ深められなければならない。 この観点からも新共同訳はすでに改訂を必要としていると言えるかもしれない。 少なくとも古代の写本や古代訳の異読を注記した聖書が期待される。 マソラ本文を深く学ぶための参考文献 ヘブライ語聖書写本の発行
ヘブライ語聖書の本文研究のための参考書
ヘブライ語聖書を読みながら、本文批判上の問題があったとき、その問題を整理して、 どう解決すべきかを示唆してくれるものとして、D・バルテレミーとその委員会による以下の著作は、きわめて有用。 D.Barthélemy, O.P., Critique Textuelle de l'Ancien Testament, OBO 50/1, 2, 3, Fribourg - Göttingen, 1982, 1986, 1992
B)マソラ本文以外の諸本文 1)マソラ本文中の並行記事 レニングラード写本B19aに伝わるマソラ本文は信頼するに足るものであるが、 他方、古代においてヘブライ語聖書本文は多様であり、マソラ本文はその一つであって、これを標準として統一されていった。 そこで、そのヘブライ聖書本文が、かつては多様であったことを確認することにしたい。 それはまず、マソラ本文そのものから窺がわれる。 旧約聖書には幾つかの並行記事がある。全く同じことを書く複数の記事のことである。 この並行記事を比べてみると、その間にかなりの異読がある。 そこから本文伝承が多様であったのではないかと推し量られてきた。 このように、古代の写本はその大部分が失われてしまったが、 死海文書発見以前から、旧約聖書本文は多様であったと、予想がつけられていた。 旧約聖書の中には短い句としては重複するものがかなりある。 例えば箴言の中には同じ格言が二回ないし三回繰り返して出ることがある。 しかし、ここでは、そのような短いものはさておき、長い単元の並行記事を指摘したい。 詩141−7=532−7 詩4014−18=701−6 詩578−12+607−14=1082−6.7−14 詩181−51=サムエル下221−51 イザヤ22−4=ミカ41−3 イザヤ36−39=列王下1813ー2019 エレミヤ52=列王記下2418ー2530 エズラ23−63=ネヘミヤ76−73 歴代上168−35=詩1051−15+961−13+1061.46 以上のほかに歴代誌上下の中にはサムエル記上下、列王記上下、エズラ記と重複ところが、かなりある。 並行記事の参考文献
2)サマリア五書(Pentateuchum Samaritanum) エルサレム神殿を中心とするユダヤ人に対して、 シケムのゲリジム山の神殿を中心とするサマリア人はやがて分派を形成するようになる。 このサマリア人はユダヤ人と同じ主なる神を信仰しながら独自の宗教的伝統をもつようになった。 サマリア人はモーセ五書のみを正典としてきたが、彼らのモーセ五書は、 サマリア五書と言われ、そのアラマイ語訳(タルグム)もあり、またギリシア語訳(サマレイティコン)もある。 その写本は1616年にピエトロ・デラ・ヴァッレ(Pietro della Valle)がダマスコで入手して以来知られるようになったが、 その後数十の写本ないし写本断片が見つかっている。 それはマソラ本文とは異なる独特な字体で書かれている。 伝存する写本はかなり時代が下がってからのもので、 最も古いものは現ナブルスのサマリア人のもとで保たれてきた「アビシャ巻物」で、 それは色々な時代の本文の寄せ集めだが、その古い部分で西暦11世紀までしかさかのぼらない。 しかし、サマリア五書と同じ読みをする本文がクムラン出土の出エジプト記断片(4QpaleoExodm)に見られ、学界を驚かせた。 それはキリスト教発生以前に、サマリア人以外(つまりエッセネ派)のもとにもあった本文ではないかということになる。 このように写本は新しくても、クムラン教団以前にパレスティナにあった本文も含んでいると言わねばならない。 それはマソラ本文と異なっている。その主な相違点を指摘しよう。
サマリア五書は一般的にマソラ本文と比べると表現を繰り返したりして拡大する傾向にあり、 またマソラ本文にない読みを含んでいる。それはむしろセプトゥアギンタと共通することがある。 このような性格をもつサマリア五書は、マソラ本文とは別にパレスティナにあった本文を伝えるものと判断されている。 しかも、このサマリア五書にある本文が、新約聖書において使徒言行録第7章で参照されていることは、特に興味深い。 参考文献 サマリア五書の本文は、 von Gall, A.F., Der hebraische Pentateuch der Samaritaner, 5 vols, Giessen, 1914-1918;repri.1 vol., Berlin, 1966: ここでは普通のヘブライ文字でサマリア五書が批判的に出版されている。 これは優秀な作品であるが、完全なものではない。 サマリア五書のタルグムは、 Petermann & Vollers, Pentateuchus samaritanus ad fidem librorum mss., Berolini, 1872-1891, サマリア五書のギリシア語訳は、 Field, Origenis Hexaplorum quae supersunt I, LXXXIII; Glaue et Rahlfs, Fragmente einer griechische Übersetzung der sam. Pentateuchs, Berlin,1911 3)ギリシア語訳聖書の底本となったヘブライ語聖書本文 さらに問題となるのは、マソラ本文と旧約聖書のギリシア語訳セプトゥアギンタの関係である。 この両者はかなりの相違を見せている。その大きな点を幾つか指摘しよう。 セプトゥアギンタは出エジプト記36−39では幕屋の設定および祭儀に関する事項をマソラ本文とは異なる順序で、短く提示している。 サムエル記上では1712−31;1755ー185を欠き、 列王記下4−7では順序を異にし、 歴代誌上では110−23を欠き、ネヘミヤ記では11−12では23節を欠いて短い名簿を提示し、 箴言2423ー3110では順序を異にし、およそ23節を欠き、ほかに多くの付加をもつ。 特にエレミヤ書では46−51章の諸国への預言を2514の後の配置し、しかもその諸国の順序を異にしており、 全体として短い。哀歌には導入部の付加があり、ダニエル書とエステル記でも付加がある。 これらのほか、個々の箇所における異読は数多くある。 例をあげれば、出エジプト記15で、 エジプトにくだったヤコブの子孫はマソラ本文によると「70人」であるのに対しセプトゥアギンタでは「75人」となっている (新約の使711では「75人」)。このような相違を前にして、マソラ本文とセプトゥアギンタとの関係、 とくにその底本となっているヘブライ語本文(Vorlage)との関係が問題となっていた。 一方ではこの両方を比較することによって共通の原型にまでたどりつけると考える意見(P.Lagarde)もあれば、 セプトゥアギンタは典礼上の必要性に従って各自各様に私訳されたものの集成で原型にたどりつけるものではないという意見 (P.Kahle)もあった。このような問題が未解決であったところ、 1947年以来出土したクムラン文書中の聖書断片がその後の研究方向を決定づける事実を明らかにしてくれた。 セプトゥアギンタの訳文を支持するヘブライ語本文があることをわからせてくれたからである。 たとえば、第4洞窟出土の出エジプト記のヘブライ語本文断片の中に、 出エジプト記15で、セプトゥアギンタを支持して「75人」となっていた。 また特に第4洞窟出土のサムエル記と申命記の断片のヘブライ語本文が、 マソラ本文と異なると同時にセプトゥアギンタの訳文と一致し、 セプトゥアギンタがマソラ本文以外のヘブライ語本文を底本としていることが明かとなった。 サムエル記に限って言えば4つの断片が出土したが、その中の二つの断片はマソラ本文ときわめて異なる読みを呈し、 この異なる読みがセプトゥアギンタの訳文の底本ではないかと思わせた。 今日、この点も再検討されているが、今述べたサムエル記の断片が投じた波紋は計り知れない。 古代訳の中で最重要なセプトゥアギンタは、マソラ本文を底本としたものではないことが明らかとなった。 他方、マソラ本文以外にもヘブライ語聖書の本文があったことが明らかとなった。 このようにクムラン教団のあったイエスの前後の時代には複数の本文伝承のあったことを想定しなければならなくなった。 マソラ本文もその中の一つで、そのほかにサマリア五書の本文とセプトゥアギンタの底本となったヘブライ語本文があり、 この三つ以外にも本文伝承があった可能性を考える意見もある。 西暦70年のローマ軍によるエルサレム陥落以降、 ユダヤ教徒の間でマソラ本文が唯一の本文として確立することになったと考えなければならず、 それ以前にはそれとは異なる複数の本文伝承があったと考えなければ成らなくなった。 このようにセプトゥアギンタをはじめ古代訳聖書の研究からも、 その底本であるヘブライ語聖書本文の事情が明らかになり、また今後もいっそう明らかにされつつある。 |
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