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\ テル・デイル・アルラ
和田 幹男



 クリスマスにはツリーの先に星をつける。教会の馬小屋にも星をつける。 この習慣は、生まれたメシア、イエスを拝むために、 東方の三博士が星に導かれてベツレヘムに来たというマタイ福音書2:1−12に基く。 またこの福音書の星は、かつてイスラエルの民がエジプトから荒れ野の旅をしてモアブの地に来たとき、 バラムという異国の預言者がこの民を祝福し、幻の中で見たという星(民数記24:15−17)に基く。 モアブの王バラクはイスラエルの民を呪うようバラムを招いたが、この預言者はかえってこの民を祝福した(民数記22−24章)。 ベオルの子バラムの名はこの聖書によってのみ知られていたが、 この名が出る聖書外文書の断片が、このテル・デイル・アルラから出土した。

 テル・デイル・アルラの位置
 ガリラヤ湖と死海の間の丁度中間点近くで、東の山地を深くえぐって流れ込んでいるのが、ワディ・ザルカで、 これは聖書ではヤボク川と言われる。このワディ・ザルカがヨルダン川に流れ込むあたりは平野になっていて、 聖書でも「スコトの野」(詩編60:8;108:8)と言われる。そこには幾つかの「テル」がある。 「テル」とは、日本語で「遺跡丘」と翻訳されるように、その中に古代の町が幾層にも埋もれていて盛り上がった丘のことをいう。 このあたりのテルの中で、最も注目されるのが、テル・デイル・アルラ(Tell Deir Alla)である。 このテルは、旧約聖書のスコトではないかという説もあったが、今日ではペヌエルとする説が有力である。 「ペヌエル」とは、語源的に神の名「エル」と「パニム」(顔)の合成語で、 「エルの顔」を意味しており、発掘によってここにおそらくエル神と関わりのある聖所があったことがわかったからである。 他方、スコトはその西およそ2.5kmのところにあるテル・アフツァツではなかったかと推察される(A.Lemaire)。 デイル・アルラとは大修道院という意味だが、修道院とは関係がない。 その北にはテル・マザール、テル・ア・サイディイェ(後述)などがある。
 このテルの上に立って東を見れば、ワディ・ザルカ(ヤボク川)が山と山を裂いて流れてきているのがわかる(写真)。 その右(南)側がアンモンの領土であり、その左(北)側がギレアド地方で、これは預言者エリヤの出身地でもあるが、 その領有権をめぐり、かつてイスラエルとシリア(アラム)は戦いを繰り返した。
 西を見れば、国境になっているヨルダン川そのものは低地を流れていて見えないが、 その向こうにイスラエルの山地が見える(写真)。 現在はイスラエル側もトランス・ヨルダン王国側もその川の水を利用して緑化が行われているが、 かつては荒れ地が広がっていた。

 テル・デイル・アルラの発掘
 このテルの発掘は、1960―1967年にオランダのライデン大学の発掘調査隊(隊長H.J.Franken)によって行われ、 続いて1978年以降、アンマンの遺物保存局、ヤルムク大学、 それに前述のライデン大学の共同発掘調査隊(隊長MM.Ibrahim and G.van der Kooij)によって行われた。 その結果、この遺跡の歴史が少しづつ明らかになってきた。 ここには中期青銅器時代の終わり(前1730−1550年)に人が住んでいた跡があり、 そこから青銅製の器具が発見された。後期青銅器時代の始め(前1550−1400年)には、 遺跡の表面が北に広げられ、聖所とそれに付設した建物も造られたが、前1200年頃火で破壊された。 その時代の出土品の中には地中海のミケーネ産の陶器、円筒印章、エジプト産のアラバスターの物品などがあり、 すでに当時広範囲に交流が行われていたことが分かった。また文字が書かれた粘土板も発見された。 その文字はまだ解読されてはいない。文字はミケーネの線文字または南アラビアの文字に類似する。 この付近で灌漑が行われ、穀物と綿花の栽培が行われていた。 
 鉄器時代には、ここにまた別の文明をもった民族が到来し、天幕を張って生活していたらしい。 この民族は金属(青銅)作成の技術をもっていたらしい。そのことは聖書にも示唆がある(列王記上7:46)。 またこの時代のものとしてペリシテ産の陶器も発見された。 前1100年頃にはここに確かに家屋も造られ、村は着実に発展している。 それは一旦は放棄されるが、前800年頃再びここに人が住むようになった。 この民は大量の綿と、それに小麦や大麦、また種々の果物を栽培していた。 この時代の住居区域がよく保存されていて、いろいろな物品に加えて、壁に書かれた碑文も発見された。 その内容は旧約聖書のバラムの託宣(民数記22−24)に新たな光を投げかけてくれる興味深いものである。 この時代の建造物は地震と火事で破壊されている。前7−6世紀も引き続きここに人が住んだが、 彼らはエジプトとメソポタミア北部を含む周辺諸国と文化的に交流し、5−4世紀にはギリシアとの交流もあった。 そのあと、この遺跡の歴史は途絶える。
 バラム碑文
 1967年3月17日、テル・デイル・アルラのオランダ発掘隊の団長 アリ・アブドゥル・ラッスルは文字の跡がある漆喰塗りの断片を発見した。 彼はそのあたりに重要な碑文があることを確信し、細心の注意を払って発掘を行い、 聖所であったと思われる住居の壁に書かれた碑文を明るみに出した(写真はアンマンの考古学博物館蔵のバラム碑文)。
  この住居はかなり激しい地震によって破壊されており、 その壁から剥がれ落ちた数個の断片が入手された。 その解読は、オランダ隊のJ・ホフティゼル(J.Hoftijzer)とG・ヴァン・コーイ(G.van Kooij)によって行われ、 1976年に公表された。これが規範版となっている。解読は幾つかの断片をジクゾーパネルのようにつなぎ合わせ、 欠損部を想定して行われなければならず、困難をきわめた。 その後、解読作業は各国の学者によって規範版の改良が心血を注いで行われたが、 その全貌の解明にはほど遠い。漆喰塗りの壁の断片をつなぎ合わせて、 2つの合成本文が読み取れるようになったが、その合成本文1に「ベオルの子バラム」の名が数回出る。 この碑文が、聖書のバラム預言を理解するために無視できない。

 この碑文が書かれた時期は、この住居に破壊をもたらした地震も目安に推論される。 つまり、預言者アモスが預言活動をしたのが「あの地震の2年前に」と言われる(アモス1:1)が、 これは前781−741の間のことで、それはおそらく前750年ごろのことであろう。 その地震はユダの王ウジヤの時代のことだったとも言われる(ゼカリヤ14:4)。 この地震がその住居の破壊をもたらしたと思われる。したがってその碑文は前8世紀、 イスラエエルの王ヤロブアム2世の時代に写されたものと思われる。 その言語は、カナン語の一支流のアンモン語で、アラマイ語の影響を受けたものと思われる。
 合成本文1の内容は、最高神エルの告示にしたがって神々が夜中にベオルの子バラムを訪れ、災難が起こることを告げた。 バラムは翌朝その地の指導者たちを招き、二日間断食して号泣した後、幻の中で見たものを告げた。 それは神々が集会を開き、神々のシャダイたちが女神シャガル・イシュタルに天を閉じて地上が闇になって冷え込むように言った。 こうして空の鳥と野の獣が恐怖に陥り、異変が起こるようにとのことであった。 そのあと11行目の欠損はいろいろと推測されているが、ここで占い師でもある賢人が介入し、 その宗教行為とともに占いによって災難を差し止めてもらったということである。 15−17行目も読める文字が僅かで、その内容は明らかではないが、すべて平常どおりになったことを言っているらしい。 このように意味が明らかではないところも多くあり、ほかの訳もあろうが、 試訳は以下のとおりである(数は行を意味し、[ ]は想定による補い)。

 合成本文I
 「神々を見る人、[ベオ]ルの[子]バラムの書の戒告。夜、神々が彼のもとに来た。 エルの告示にしたがって、彼は幻を見た。彼らはベオルの子バ[ラ]ムに言った。 「このように(?)事が起こり、生き延びる者はなかろう。おまえは聞いたこともないことを見る。」
 バラムは翌朝起きた。見よ、これが啓示の出来事(?)。 彼は集会の[頭たち]を自分[のもとに]呼び集めた。しかし、彼は二日間断食し、 激しく泣いた。彼の民は彼のもとに入り、ベオルの子バラムに[言った。] 「なぜあなたは断食するのですか。なぜあなたは泣くのですか」。彼は彼らに言った。 「お座りください。シャダイたちが何をしようとしておられるか、わたしはあなたたちに告げます。 あなたたちは行って、神々のすることを見なさい。」
 神々は相集まり、シャダイたちは会合に立会った。彼らは(女神)シャ[ガル]に言った。 「密雲をもって天を縫って閉じ、そこには闇しかなく、輝きはないように、暗闇しかなく、 明るさがないようにせよ。こうして闇の[雲をもって]恐怖を呼び起こし、もう永遠に発言するな。 こうして雀が鷲をあざ笑い、禿げ鷲の雛がそれに答え、こうのとりがはやぶさの子らを、 梟があおさぎのひよこを、山鳩が鳩と天を飛ぶ小鳥を引き裂く(?)ように。 杖が導いて草をはませるところで棒が群れを打ちのめすように。野兎らよ、10共に食らえ。 10[野の]獣らよ、[食べ]物を[探し]求めよ。豹よ、戒告を聞け、[ ]よ、ぶどう酒を飲め、 ジャッカルの子らは11[巣で]群れを待つがいい」。そこで一人の賢人が賢人たちのもと、 託宣のもとに、ミルラの香料師のもとに、女祭司のもとに、あなたを連れていく。 12力尽きていたが、[彼(=賢人)は力を取り戻し(?)]、 オリーブの油[をもって]自ら[塗油し]、角の礼物を奉納した[からであっる(?)]。 ひとりが占い、別のひとりが占い、また別のひとりが占った。 13もうひとりの[占い]師は自分の同僚から離れ、彼らは満足して、[賢人に信]頼して出て行った。 彼らは遠くからの呪文を聞いた。14[賢]人が「[    ]病に[扉]を開いた」と[言ったからであり]、 皆が圧迫を見た[からである(?)]。シャガルとイシュタルは15[ ]しなかった。・・・・
 子豚は豹を[追い払い(?)、[羊の群れ(?)]は 16[ジャッカル(?)]の子らを退却させ・・・・5つ/ニ重の礼物・・・彼は・・・眺めた。 17[・・・]

 聖書のバラム
 民数記22−24章のバラムの物語をその主なところを抜粋して読んでみる。

 「当時ツィポルの子バラクがモアブ王であった。 彼はユーフラテス川流域にあるアマウ人の町ペトルに住むベオルの子バラム招こうとして、使者を送り、こう伝えた。 「今ここに、エジプトから上ってきた一つの民がいる。今や彼らは、地の面を覆い、わたしの前に住んでいる。 この民はわたしよりも強大だ。 今すぐに来て、わたしのためにこの民を呪ってもらいたい。・・・」(民数記22:4−6)。
 「バラムは、イスラエルを祝福することが主の良いとされることであると悟り、 いつものようにまじないを行いに行くことをせず、顔を荒れ野に向けた。バラムは目を凝らして、 イスラエルが部族毎に宿営しているのを見渡した。神の霊がそのとき、彼に臨んだ。 彼はこの託宣を述べた。ベオルの子バラムの言葉。目の澄んだ者の言葉。神の仰せを聞き、 全能者のお与えになる幻を見る者、倒れ伏し、目を開かれている者の言葉。いかに良いことか、 ヤコブよ、あなたなお天幕は。イスラエルよ、あなたの澄む所は。・・・あなたを祝福する者は祝福され、 あなたを呪う者は呪われる。・・・」(民数記24:1−5.9)。
 「15彼はこの託宣を述べた。ベオルの子バラムの言葉。目の澄んだ者の言葉。 16神の仰せを聞き、全能者のお与えになる幻を見る者、倒れ伏し、目を開かれている者の言葉。 17わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。 しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。 ひとつの笏(しゃく)がイスラエルから立ち上がり・・・」 (民数記24:15−17:この最後の「星」がバラムの星と言われ、メシアの象徴と考えられるようになる)。

 聖書のバラムと碑文のバラム
 民数記22−24章は、イスラエルの民を呪うために招かれたが、かえって祝福したという異邦の預言者ベオルの子バラムの物語を、 紀元前12世紀以前のモーセ時代のこととして伝えている。 デイル・アルラの碑文によってはじめてベオルの子バラムがその土地の異邦人アンモン人の中でも知られていたことがわかった。 しかも、そのバラムが祝福と呪いに関連した人物として知られていた。 また聖書ではバラムは「幻を見る者」(mhzh yhzh,民数24:4;24:15)といわれるが、 デイル・アルラの碑文でも「幻を見た」(yhz mhzh、1行目)と言われる。聖書ではその幻は「全能者」の幻だと言われるが、 この全能者は「シャダイ」の訳であり、デイル・アルラの碑文でも神々の名としてシャダイが複数として出る。 それゆえ、聖書のバラムも、このデイル・アルラがあった地方の伝承を取り入れ、 イスラエルの唯一神信仰の中で書き直されたものであることに疑いの余地はないであろう。 ここに古代イスラエルとその隣国の間いあった文化交流の証しがある。 なお、「幻を見る者」という意味で、この「見る者」は「先見者」と訳されることがある(アモス7:12参照)が、 これは「預言者」と同義である。
 デイル・アルラの碑文は前8世紀に写されたものだが、 それは北王国イスラエルにとってはヨアシュ(前800−785年)とヤロブアム2世(前789−750年)の治世にあたり、 それは繁栄し、領土回復の時代であった。 この時代のイスラエルがトランス・ヨルダンも支配していたことはメシャ王の碑文によっても知られる。 それゆえ、ひとつの結論として、バラムの物語はモーセ時代のこととして書かれているが、 それが書かれたのは前8世紀ではないかということができる。
 またこの碑文によって「賢人」と言われる場合、まじないやうらないに長けた人も含まれ、 当時そのうらないやまじないが広く行われていたこともあらためて確認された。 申命記18:9−14はそのすべての慣習を厳しく禁じているが、 それを裏返せばその慣習が根強く残っていたことを意味している。 デイル・アルラでも、ここにエル神の聖所があり、ここで頻繁に占いやまじないなどが行われていたことが窺がえる。 異邦人のバラムもその習慣に関わりがあった預言者であった。聖書ではそのバラムはまじないをしないで、神の霊を受けて預言したとある。 (写真はバラム碑文の部分で、合成本文Uの一部)
参考文献
1. J.Hoftijzer and G.van der Kooij, Aramaic Texts from Deir 'Alla, Leiden, Leiden, 1976
2. A.Caquot, - A.Lemaire, Les texts araméen de Deir 'Alla,Syria, 54 (1977), 189-208
3. A.Lemaire, L'inscription de Balaam trouvé à Deir Alla :épigraphie, Biblical Archaeology Today, Proceedings of the International Congress on Biblical Archaeology Jerusalem, April 1984, Edit.by J.Amitai, Jerusalem, 1985, 313-325
4. B.A.Levine, The Balaam Inscription from Deir Alla : Historical Aspects, Biblical Archaeology Today, 326-339
5. É.Puech, L'inscription sur plâtre de Tell Deir Alla, Biblical Achaeology Today, 354-365
6. É.Puech,Le Text 《ammonite》 de Deir 'Alla : Les admonitions de Balaam(première partie), La Vie de la Parole, De l'ancien au Nouveau Testament Etudes d'exégèse et d'herméneutique bibliques offertes à P.Grelot, Paris, 1987, 13-30
7. The Context of Scripture, vol.II, Monumental Inscription from the Biblical World, editor W.W.Hallo, Leiden Boston Köln, 2000, 140-145
 テル・ア・サイディイェ
 テル・デイル・アルラからヨルダン川に沿って北に向かうと、3キロmp地点にテル・マザールがあり、 さらに北に6キロほど行くとテル・ア・サイディイェがある(写真左)。 これはかなり大きなテルで、この町の歴史は古く、早期青銅器時代(前31―28世紀)から人が住んでいた。 後期青銅器時代(前13−12世紀)にも大いに栄えていたが、その時代にはエジプトの影響を受けている。 その時代に造られた水場に向かうアプローチが見つかっている(写真右)。この地点でヨルダン川の川幅が狭くなっており、 この町は川を渡っての交流の要衝として重要な役割を果たしたらしい。 テルの上からヨルダン川の向こうにイスラエルの山並みがよく見える(写真下)。聖書にはこの町の名は出ない。


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