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死海文書入門講座T 和田 幹男
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T 死海文書の発見から解読を経て公表まで


 西暦2000年の東京に続いて、2001年の神戸にも死海文書がやってきた。 その発見は、イスラエル国とユダヤ人のみならず、全世界のキリスト教徒にとっても、20世紀最大の出来事であった。 それは、ユダヤ人にとっては西暦70年に祖国を失う直前に、先祖たちがその祖国の地に残した文書だからである。 それはまた、ナザレのイエスとその弟子たちが生きていた時代と地域にあった文書だからで、 キリスト教発生時の宗教事情を伝えており、特に聖書の解明に大きな光を投げかけている。 それがユダ砂漠の洞窟で手づかずのまま、偶然発見された。 そこは死海の北西岸近くにあったので、「死海写本」とか「死海の巻物」と言われるが、 ここでは主として「死海文書」という。 800に及ぶ大小の写本断片で、その多くは保存状態がきわめて悪かった。 注意深く忍耐強い解読作業のおかげで当時の社会的、宗教的実情が明らかになってきた。 その写本断片を直接見ることができる機会にあたり、死海文書とは何なのかを紹介し、その意義を考えることとする。 

 死海文書の発見
 第2次世界大戦直後の1946年から1947年にかけての冬、 遊牧民タアミレ族の少年ムハマド・アッディーブが話題の写本を見つけたという。 この少年は羊飼いで、家畜を連れて牧草を求めて死海近くをめぐり歩いていた。 道を外れた山羊を戻そうと石を投げたところ、その石が洞窟の中で音をたてたので、 その洞窟(写真:第1洞窟と言われる)の中に入ってみると、壷があり、その中に巻物があった。 これは死海文書発見にまつわる話だが、真相はわからない。 死海文書の価値が認められてから、学者たちがその無学な少年に問いただして得た情報に基くからである。 いずれにせよ、学者が死海文書を手に入れるのにカリル・イスカンデルという仲介者が果たした役割は大きい。 彼は通常カンドーと呼ばれ、ベツレヘムの商人であり、大工、革製品の修繕屋でもあった。 彼は遊牧民に生活必需品を売るテントを持っていて、そこに遊牧民が持ってくる写本を保存しておいた。 ほかにベツレヘムの骨董商ファイディ・サラヒも写本を入手していた。(写真右は巻物が入っていた壷、ヨルダン考古学博物館蔵)

 写真下の左は第1洞窟出土のイザヤ書の巻物(1QIsa)で、 巻物(英語でscroll)の形状をとどめている。その右は教団規定(1QS)第1欄。
  Cross, F.M. et al., eds, Scrolls from Qumran Cave I, from Photographs by John C.Trever, Jerusalem, 1972より

 この地方は1917年以来、英国の委任統治の下にあったが、 当時アラブとイスラエル両民族が国家創設をめぐって相争っていた。 その間の往来はきわめて難しく、ほとんど不可能であった。 しかし、ヘブライ大学のスケニク(E.L.Sukenik)教授は仲介人をとおして写本を入手し、 その古さと価値を見抜く最初の学者となった。 古文書の筆跡が同教授の専門とするところであった。 また教授はその写本を買い取る用意のあることを告げ、その獲得に成功した。 1947年の秋、国連がパレスチナにユダヤ人国家を造ることを認めると、 アラブ諸国は一斉にイスラエルに襲いかかったが、その戦闘が始まる前後のことであった。 教授が獲得したのは、あとで『戦闘規定』(『戦いの書』)、『感謝の詩編』、それにイザヤ書本文の断片であった。 他方、カンドーはシリア正教会の信徒であったので、エルサレムにあるその教会の聖マルコ修道院に持っていき、 自分が所有する4つの写本をそこに売ることになる。 それは聖書の『イザヤ書』(全書)の写本、『教団規定』(『宗規要覧』)、『ハバクク書注解』、『外典創世記』であった。 大修道院長アタナシウス・イェシュエ・サムエルは、あちこちにその鑑定を依頼してまわった。 最終的には1948年エルサレムにあるアメリカ東方究所で、トレヴァー(J.C.Trever)教授がその古さと価値を見抜いた。 同教授はその中の3つを写真に撮る許可を得た。 それはまもなく公表されるが、文書そのものは砲弾の飛び交う中を持ち出され、アメリカ合衆国で売りに出された。 しばらく経って1954年、スケニク教授の息子ヤディン(Y.Yadin)教授がイスラエル国家のために買い取った。 それは国宝としてイスラエル博物館の「文書の殿堂」に保管されている。

 中東紛争の中での死海文書研究
 1948年5月14日に英国の委任統治が切れると同時にイスラエルは独立宣言し、国際社会により認知された。 他方、激しい戦闘は1949年2月に結ばれる休戦協定締結まで続いた。 その協定により従来パレスチナと呼ばれた国土は休戦ラインによって二つに分割され、 西はイスラエル、東はヨルダン王国の主権のもとに置かれた。 エルサレムも分割され、その間にだれも入れない緩衝地帯が設けられた。 旧市街はヨルダン側に位置することとなった。 こうして当時ロックフェラー博物館と呼ばれたパレスチナ博物館や欧米の研究所はヨルダン側に、 ヘブライ大学やイスラエル博物館はイスラエル側にあって、学者間の交流は自由ではなかった。 死海文書発見の洞窟もヨルダン側にあった。 このような政治情勢のもとで死海文書研究は両側で並行して進められることとなる。
 死海文書発見が報じられると、国際的に関心を呼び起こし、写本の探索熱が燃え上がった。 パレスチナでは考古学に実績のあるアメリカ東洋研究所とフランスのエコール・ビブリックが協力し、 ヨルダン政府の委託と国連の支援を受けて、研究を押し進めることとなった。 まず写本発見の洞窟を割り出し、その調査を行うこととなった。 そのときエコール・ビブリックのドゥ・ヴォー(R.De Vaux)は、発見現場を明かしたくない遊牧民を言葉巧みに誘って、 その洞窟の位置を言わせたという。 それは死海北西岸に注ぐ涸れ谷、ワディ・クムランの近くにあった。 調査隊はその洞窟で70ほどの小さな写本断片を新たに回収した。 それは丁度休戦協定が締結される頃のことであった。 回収された写本断片は、パレスチナ博物館に保管された。 写本が発見された洞窟は、ユダ砂漠の高地が東の死海に向かって急激に下る崖にある。 その崖をえぐってワディ・クムランが死海に注いでいる。 それに沿って泥灰土の高台があり、そこに遺跡の一部が顔をのぞかせていた。 写真右は第1洞窟出土の会衆規定(ヨルダン考古学博物館蔵)。

 現在では道路も舗装され、遺跡は観光地として便宜がはかられ、死海沿岸の緑化も進んでいるが、 死海文書が発見された当時は、ワディ・クムラン付近はまったくの荒れ野であった。 それでもそこを訪れると、当時をしのぶことができる。 下の地図は、左がユダ砂漠、 右がその中のワディ・クムラン付近、数字は巻物があった11の洞窟、黒点は遺品があった洞窟。
 洞窟で見つかった写本の所有者を見定めるために、この遺跡を発掘しようということになった。 この遺跡は、キルベト・クムランと言われる。 その発掘のために、アメリカ東洋研究所とエコール・ビブリックが協力して発掘隊を編成し、 その指揮にはハーディング(G.L.Harding)とR・ドゥ・ヴォーがあたった。
 こうして1951年から1956年まで5次にわたってその遺跡の発掘調査が行われることになる。 ところが、1951年の発掘調査が始まる頃、ワディ・クムランから見ると、 かなり南のワディ・ムラバアトで見つかった写本断片が持ち込まれた。 そこでその調査のため、キルベト・クムランの発掘は中断を余儀なくされた。 またその翌年、1952年には別の洞窟で写本断片が発見された。 それは写本が発見された最初の洞窟の近くであった。 写真は岩棚の上に第2洞窟があるところ。 このようにほかの洞窟にも写本があるのではないかということで、 まもなくワディ・クムランを挟んで北に4キロ、南に4キロにわたり、洞窟の調査がくまなく行われた。 そのときは、大きな成果があったわけではないが、その後最終的には11の洞窟で写本断片が見つかり、 30ほどの洞窟に遺留品があった。 それと同時に、キルベト・ミルドやナハル・ヘヴェル、ワディ・セイヤルなど、 クムランから離れたあちこちで写本断片の発見が相次いだ。 これらの写本断片は、パレスチナ博物館に集められ、欧米の学者チームによってその分類、解読、研究が行われることになった。 その中心人物が、前述のドゥ・ヴォーで、そのほかにベノア(P.Benoit)、 ミリク(T.C.Milik)、バイイェ(M.Baillet)、それにクロス(F.M.Cross Jr)、アレグロ(J.M.Allegro)、 スタルキ(J.Starcky)、スキーン(P.W.Skean)、ストラグネル(J.Strugnell)などが加わり、 エクメニカルで国際的な顔ぶれが揃った。彼らが死海文書研究の第一世代の主役である。 彼らはキルベト・クムランの発掘調査を行いながら、発見された写本断片の公表に向けて研究を続けた。 その過程で、すでに19世紀の終わりにエジプトのカイロの旧ユダヤ教会堂で発見された『ダマスコ文書』も、 その古い断片がクムラン洞窟で見つかり、死海文書の中に数えられるようになった。
 発掘調査も一段落した頃、1956年の秋に、第1次スエズ戦争が勃発した。 スエズ運河の国有化を宣言したエジプトに対し英仏軍が攻撃し、イスラエルとアラブ諸国も再び戦火を交えることとなった。 その直前にはパレスチナ博物館に保管されていた写本断片や出土品がヨルダンの首都アンマンに一時移された。 そのときに失われた出土品もある。 またこの険悪な国際情勢のもとで、エルサレムに長期滞在して共同研究を行ってきた学者チームの維持も難しくなった。 発見された比較的大きな写本はつぎつぎと解読され、出版されたが、 多数の小断片の整理と解読は遅れ、遺跡発掘の写真や調査記録、出土品の検討も進まなくなった。 他方、イスラエルの学者は、自国の領土内でマサダやエン・ゲディなどの調査および発掘を行い、 ナハル・ヘヴェル、ナハル・ツェエリムなどの発掘で写本を発見した。 将軍兼考古学者Y・ヤディン教授は特に有名で、業績を上げ、イスラエル国民もそれを熱烈に支援した。
 こうして1967年の6日戦争に至るが、 この戦争でイスラエル軍はエルサレム全市街およびヨルダン川西岸を制圧した。 こうしてパレスチナ考古学博物館もキルベト・クムランもイスラエル政府の管轄下に置かれることとなった。 それにこの機会に、ヤディンはベツレヘムのカンドー宅に向かい、 死海文書中最大の神殿の巻物を押収するということもあった。
 それ以降、死海文書研究は休戦ラインを挟んで両側で進められることはなくなり、 死海文書もクムランの洞窟のみならず、ユダ砂漠全域で出土した全文書を意味し、 その中にはサマリアに近いワディ・ダリイエで見つかった写本と出土品も含まれることなった。
 死海文書の解読は、ドゥ・ヴォーを中心として、諸教派を超えた国際チームの協力のもとで行われ、 その出版は、DISCOVRIES IN THE JUDAEAN DESERT(Oxford at the Clarendon Press)シリーズで公表された。 その公表は、死海文書発見直後からこの研究にかかわってきた学者たちが徐々にエルサレムを去ることになり、 またその老齢化と死亡もあり、それに度重なる戦争もあって、遅れに遅れた。 それに対してその研究成果発表の遅れには、その裏にヴァティカンの指図があるのではないかと、まったく根拠のない中傷まで飛び出し、 これをジャーナリスムが煽り立てることもあった。 しかし、1990年代になって、新たに国際チームを編成し、その40巻にも及ぶ公表は、2003年の時点で完結寸前に至っている。
写真下はワディ・クムランと第4洞窟
ワディ・クムランに沿って登ったところから高台にあるキルベト・クムランを見る。 その向こうに死海、さらにその向こうにトランス・ヨルダンの高地、モアブが見える。
人物は筆者。1971年秋撮影。

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